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2011年8月31日

6.これまでの大統領選挙・国家会議(下院)選挙結果と次期選挙の見通し : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論 (2)

中西 治 (0時00分)

5回の大統領選挙と5回の下院選挙の結果

ソヴェト同盟がなくなり、ロシア連邦になってから、下院選挙は5回おこなわれてきた。大統領選挙は4回であるが、ここでは比較のために、ソヴェト時代におこなわれたロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国大統領選挙も含めて5回とする。

大統領選挙の第1回はソヴェト時代の1991年6月(エリツィン当選)、第2回はロシア連邦になってから最初の1996年6−7月(エリツィン再選)、第3回はエリツィン大統領の辞任にともなう臨時の2000年3月(プーチン当選)、第4回は2004年3月(プーチン再選)、第5回は2008年3月(メドヴェージェフ当選)である。

下院選挙の第1回は1993年12月(第一党は自由民主党、以下同様)、第2回は1995年12月(共産党)、第3回は1999年12月(共産党)、第4回は2003年12月(統一ロシア)、第5回は2007年12月(統一ロシア)である。

各大統領選挙の当選者と次点者の得票数と得票率は次の通りである。

候補者    得票数      得票率
第1回当選 エリツィン   45,552,041  57.30%
次点 ルイシコフ   13,395,335  16,85%
第2回当選 エリツィン   26,665,495  35,28% 決選投票 40,208,384  53.82%
次点 ジュガーノフ  24,211,686  32.04%        30,113,306  40.31%
第3回当選 プーチン    39,740,434  52.94%
次点 ジュガーノフ  21,928,471  29.21%
第4回当選 プーチン    49,565,238  71.31%
次点 ハリトーノフ    9,513,313 13,69%(農業党員、共産党支持)
第5回当選メドヴェージェフ 52,530,712 70.28%
次点 ジュガーノフ   13,243,550 17.72% 42

第1・2回のエリツィンと第3回のプーチンの得票率は50%強、第4回のプーチンと第5回のメドヴェージェフの得票率は70%強である。主要な相手は共産党である。

下院選挙結果については最新の2007年12月の選挙結果だけを紹介する。(完全比例代表制で、得票率7%以上の政党のみに議席を配分)

政党     得票数     得票率 獲得議席
統一ロシア 44,714,241  64.30%   315
共産党    8,046,886  11.57%    57
自由民主党 5,660.823   8.14%    40
公正ロシア  5,383,639   7.74%    38

共産党の得票率は第1回12.35%、第2回22.30%、第3回24.29%、第4回12.61%、第5回11.57%である。第一党となった第2・3回は20%台であったが、それ以外は11−12%である。43

このところの大統領選挙ではプーチンとメドヴェージェフはともに70%強を獲得し、対する共産党系候補者および共産党候補者は10%台である。下院選挙も与党「統一ロシア」は60%台、野党第一党の「共産党」は10%台である。この状況は次の大統領選挙でも、下院選挙でも大きく変わらないであろう。それはプーチンとメドヴェージェフは現状に的確に対応し、将来を切りひらこうとしているが、共産党の批判は後ろ向きで保守的であり、明るい将来への展望を示すものではないからである。

2012年大統領選挙のシナリオ

2012年の大統領選挙について考えられるシナリオは次の五つである。

第一はメドヴェージェフが大統領選挙に出る。

第二はプーチンが出る。

第三は二人が組んで出る。

第四は二人とも選挙に出るが、一緒にはしない。つまり、投票用紙ではメドヴェージェフとプーチンの間で競争がおこなわれる。

第五は二人が選挙に出るが、勝者は誰か、第三者となる。

現在のロシアの選挙制度によると、大統領候補者になれるのは、一党または複数の党が推薦する候補者だけである。党員であることは義務づけられていないが、候補者は選挙において政党によって支持されなければならない。

プーチンは事実上も、法律上も、「統一ロシア」のリーダーであるから、メドヴェージェフが選挙にでるというシナリオが可能になるためには、プーチンが言っているように、プーチンとメドヴェージェフの両者がとにかく「合意する」ことが必要である。これに先行して、何らかの党内予備選挙 (primaries)が必要である。しかし、きっと、そこまで行かないであろう。プーチンとメドヴェージェフの競争問題を選挙過程に持ち込み、何らかの形で決めるという試みは、どちらの側にも利益をもたらさないからである。44

その上で、この一連のシナリオには幾つかの補足説明が必要である。

第一の場合はプーチンが自発的に辞退し、メドヴェージェフに立候補を譲る場合、または、プーチンが何らかの理由で立候補できない場合である。

第二の場合はメドヴェージェフが譲り、プーチンが立つという場合、または、メドヴェージェフが立候補できない場合である。

五つのシナリオのうち実現する確率が高いのは、第一の場合と第二の場合であろう。常識的に言えば、また、現在の両者の人気度から言えば、第二のメドヴェージェフが譲り、プーチンが立つというシナリオが実現する可能性がもっとも高いであろう。

プーチンが大統領となったのは47歳、メドヴェージェフが大統領になったのは42歳であった。現在、ロシア大統領の任期は4年であるが、次期からは任期が6年になる。2012年の大統領選挙のとき、プーチンはそろそろ還暦、60歳である。メドヴェージェフは40歳台半ば過ぎである。2018年の選挙のときにはプーチンは60歳台半ばを過ぎ、メドヴェージェフはまだ50歳過ぎである。

大統領選挙に立候補する年齢として、プーチンには後が少なく、メドヴェージェフには後が十分にある。

メドヴェージェフとしては、これまでの二人の付き合いから見て、人情論的には年長のプーチンに譲りたいであろう。しかし、最近の予算教書などを読むと、メドヴェージェフはやっと大統領として油が乗ってきたところであり、やる気十分である。プーチンもこれを見て、悩んでいるであろう。「立つべきか、立たざるべきか、それが問題である。」ハムレットの心境であろう。

プーチンが最近のメドヴェージェフを見て、本当に彼が後継者にふさわしいと確信したならば、メドヴェージェフに譲るであろう。メドヴェージェフとしてはプーチンが譲ってくれれば、喜んで立つであろう。最近の動きを見ると、この可能性が高まっていると思う。

第三の場合は両者が協力しながら、友好的な別々の政党の支持をうけて立候補する場合である。これは両者の票を割るだけの話しである。

第四の場合は両者が競争し、対抗的な別々の政党の支持をうけて立候補する場合である。一人が「統一ロシア」の支持をうけ、他は反「統一ロシア」派の支持をうけるというのである。プーチンの統一戦線に対して共産党を含む反プーチン統一戦線ができれば面白い。そのためには「反プーチン統一戦線」を作り上げることのできる大物政治家が必要である。しかし、この話にはプーチンも、メドヴェージェフも、乗らないであろう。

第五の場合は第三または第四の場合の変形であり、プーチンとメドヴェージェフが共倒れする場合である。

さて、実際にはどのようなシナリオにお目にかかることになるのであろうか。
ーーーー

42 http://ja.wikipedia.org/wiki/2004「2004年ロシア大統領選挙」2011/07/13;http://ja.wikipedia.org/wiki/2008「2008年ロシア大統領選挙」2011/07/13。
43 http://ja.wikipedia.org/wiki/「ドゥーマ(ロシア連邦議会下院)」2011/07/14。下院選挙全般については、前掲、中西治『現代人間国際関係史』417−428ページ;上野俊彦『ポスト共産主義ロシアの政治――エリツィンからプーチンへ――』日本国際問題研究所、2001年、150−169ページ;永綱憲悟「ロシア国政選挙2007−2008年――選挙民主主義か選挙権威主義か――」『国際関係紀要』第19巻第1・2合併号、17−63ページ参照。
44 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』284−285ページ。

2011年8月24日

5. メドヴェージェフ・プーチンの「双頭」の中間的評価 : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論 (2)

中西 治 (0時00分)

メドヴェージェフ大統領、運の悪い人

メドヴェージェフが2008年春に大統領に就任してからまだ3年余しか経っていない。4年の任期が終わっていない。そこで、ここではその中間的な評価をする。

メドヴェージェフの大統領在任1年目はきわめて重苦しい1年であった。就任早々にザカフカスで武力を行使し、重大な決定を迫られた。石油・天然ガスなどのエネルギー資源の世界価格が急激に低下し、ロシアの国家予算の根底を破壊した。ロシアは全地球的な世界危機の中に引きずり込まれ、ロシア人の生活の質に痛みを伴う打撃が与えられた。

国内総生産(GDP)は、メドヴェージェフが大統領になった2008年に41兆2649億ルーブルであったのが、2009年には38兆7972億ルーブルに減少し、2010年には44兆4914億ルーブルに回復した。しかし、これは名目GDPについてであり、実質GDPでは2008年と比して、2009年は38兆0462億4000万ルーブル、2010年は39兆5511億3000万ルーブルであった。メドヴェージェフ大統領のもと、2009年から2010年にかけてロシアではインフレーション(物価の高騰)が続き、国民経済は低下した。

プーチン大統領の時期には2000年から2007年までの8年間、名目GDPだけではなく、実質GDPも一貫して増大していた。29

プーチンは運の良い人、メドヴェージェフは運の悪い人であった。

メドヴェージェフ大統領、アブハジアと南オセチアの「独立」を承認

ソヴェト時代、グルジア共和国の中にはアブハジアとアジャールの二つの自治共和国の他に、南オセチア自治州があった。これらはいずれも一定の自治権を持っていた。南オセチア自治州は1990年にロシア連邦共和国に属する北オセチア自治共和国との合併をめざして、グルジアからロシアへの帰属変更を宣言した。モスクワのソヴェト同盟政府がこれを認めなかっただけでなく、グルジア政府も南オセチアから自治州の資格を取り上げた。

1990年代初めからソヴェト同盟を構成していたバルト3国をはじめとする国々が独立を宣言するようになった。1991年4月にグルジアも独立を宣言し、公用語をグルジア語だけにしようとした。これに反対し、南オセチアが独立を宣言した。グルジアと南オセチアの間で戦争が起こった。その間にソヴェト同盟、そのものがなくなった。1992年には停戦が実現した。

アブハジアも1992年7月に独立を宣言した。グルジアとアブハジアの間で戦争が起こったが、これも1994年5月に停戦となった。

ところが、メドヴェージェフが大統領に就任してまだ3か月しか経っていない2008年8月8日にグルジア軍が突然、南オセチアに進攻した。不意をつかれたロシアもこれに対してロシア人保護のためと称して急遽、軍隊を南オセチアに派遣し、グルジア軍を追い出した。「5日戦争」である。アブハジアでもロシア軍とアブハジア軍が協力してグルジア軍をコドリ渓谷から追い出した。同月26日、メドヴェージェフ大統領は南オセチアとアブハジアの「独立」を承認した。これはメドヴェージェフが予定していた行動ではなかった。

実は、メドヴェージェフは「5日戦争」終結後、南オセチアとアブハジアの二人の大統領を招き、他の国にも開かれた「コンフェデラーツィヤ(連合)」を作るように提案した。これならロシアも承認できると考えたからである。ところが、二人の客人は、両国の間には共通の国境さえないと主張して、この提案に恐ろしいほどの剣幕で強硬に反対した。クレムリンはパニックに陥った。このために誰かの頭にアブハジアと南オセチアの承認というアイデアが生まれたのであった。30

メドヴェージェフ大統領、政治制度改革を提案

2008年11月5日、メドヴェージェフは大統領就任後最初の2008年度年次教書を発表し、グルジアとの戦争について次のように述べた。

「カフカスにおける紛争は北大西洋条約機構(NATO)の軍艦を黒海に導入するための口実として利用された。米国の対ロケット・システムをヨーロッパに早く押しつけるためにも利用された。もちろん、ロシアの側からの対抗措置を引き出している。かくして、トビリシ体制の地域的な冒険は国境を遠く離れた地域、全ヨーロッパ、全世界の緊張の増大になっている。国際的な安全保障制度の有効性に疑義をもたらしている。地球秩序の基盤が事実上不安定になった。」

メドヴェージェフはこの問題に深入りしなかった。

この教書の主要な目的はロシアの政治制度の改革であった。メドヴェージェフはこれについて以下のように具体的に提案した。

第一は、次回選挙から大統領の任期を4年から6年に延長し、国家会議(下院)の任期を4年から5年に延ばすこと。

第二は、これまで国家会議選挙では得票率が7%を超える政党にのみ議員が割り当てられたが、今後は得票率5−7%の政党にも1−2議席を与えること。

第三は、これまで連邦構成主体(共和国、辺区、州、連邦的意義を有する市、自治州、自治管区など)の首長候補者の大統領への推薦は当該連邦構成主体を管轄する連邦管区大統領代表と当該連邦構成主体議会の第1党がおこなうことができたが、今後は後者のみがおこなえること。もちろん、これによって自動的に連邦構成主体の首長が決まるということではなく、これまでと同様に、当該連邦構成主体議会が審議、承認し、任命される。

第四は、あらゆるレベルの選挙における供託金を廃止すること。また、国家会議選挙への参加のために必要とされる選挙人の署名の数を段階的に削減すること。次回の国家会議選挙において得票率5%以上の政党、あるいは、三分の一以上の地方議会で会派を形成している政党は、署名集めを完全に免除されること。

第五は、連邦会議(上院)は連邦構成主体議会議員および地方自治体(連邦構成主体よりも下位の市町村の行政機関)議会議員によってのみ編成されること。一定期間の居住を義務づける居住要件を廃止すること。これまで連邦議会は直接選挙(各連邦構成主体を定数2の選挙区とし、連記投票により議員を選出)、または、各連邦構成主体の議会議長と首長を職務上の議員とする制度、もしくは、各連邦構成主体の議会と行政機関の代表などにより構成されてきた。また、2007年7月21日からは、合計して10年以上、当該連邦構成主体に居住しなければならないことが義務づけられていた。これが「連邦構成主体議会議員および地方自治体議会議員によってのみ編成される」こととなり、再び、直接選挙によって選出する可能性が生まれてきた。

これら一連の政治制度改革は「改善」であった。「少なくとも国内政策については、プーチン政権期とは異なる方向の政策が打ち出されていることは間違い」なかった。31

メドヴェージェフ、2009年秋に大統領らしくなる

2008年の春から2009年の秋にかけての時期は、メドヴェージェフが座っている場所がクレムリンのツァーリの椅子であることを彼が自覚するための準備の期間であった。

2009年の秋にメドヴェージェフはまったく別人のようになった。外見も本物のロシア大統領らしくなった。彼はこれまでとは違ったように振る舞い、違ったように喋り、自分の考えを表現するスタイルを変えた。これまでよりもはるかに大統領的になった。

メドヴェージェフは神経質に、いらいらすることがなくなり、自信を持つようになった。大統領はかくあらねばならないというのに著しく合致するようになった。彼はプーチン政府とプーチン首相について1年前または1年半前とはまったく違う調子で語り始めた。たとえ言葉だけとは言え、もはや、何らかの違いを強調するのを遠慮しなくなった。32

大統領年次教書についても、教書を発表する前、2009年9月10日にメドヴェージェフは論文「ロシアよ、前進せよ!」を公表し、同年11月12日に2009年度大統領年次教書を朗読した。

前者の論文では冒頭で「私たちはこれからも私たちの未来のなかに初歩的な原料経済、慢性的な汚職、問題を解決するさいに、自分だけは除外して、国家、外国、何かの「全能の教義」、必要な何か、必要な誰か、など古くさい他人頼りのやり方を引きずることになるのだろうか。このような重荷を背負ったロシアに独自の明日はあるのだろうか。」と問うた。

また、後者の教書では冒頭で「私は論文で新しい政治戦略の諸原則を明らかにし、この教書でこの戦略を現実化する具体的な緊急計画とそれをもっとも早い時期に実行する方策について述べる。」と語った。33

それは自信を持った大統領の言葉であった。

他方、プーチン首相はこの同じ2009年の秋に次のように述べている。「忘れないでいただきたい。私が大変強力な首相であることを。私が多くの機能を持っていることを。私が権力のこの規模に満足を感じていることを。」34

メドヴェージェフは大統領就任1年半にして大統領らしくなり、プーチンはその段階における首相としての自己の地位に満足していた。これまでの「双頭」は名目的にはメドヴェージェフ大統領の方が上位であったが、実際にはプーチン首相の方が上位であった。ところが、これ以降、メドヴェージェフが大統領としての地位を確立しはじめ、両者の関係が変化した。やっと、両者が対等な「双頭」体制となり始めた。

こうした「双頭」体制、とくに、プーチンを激しく批判したのは共産党の下院議員イリュ−ヒンであった。

イリューヒン、「カティンの森事件」で謝罪するプーチンを批判

イリューヒンは1949年3月1日にペンザ州で生まれ、サラトフ法科大学を卒業した法律家である。イリューヒンはソヴェト同盟解体後、エリツィン大統領のもとでおこなわれた1993年12月の第1回国家会議(下院)選挙でロシア連邦共産党から立候補し、当選した議員であり、国家会議では汚職、歳出、安全保障などの委員会に属していた。彼はまず批判の矢を「カティンの森事件」について放った。

「カティンの森事件」とは、1939年9月1日にヒトラー・ドイツ軍がポーランドに進攻することによって始まったヨーロッパでの第二次大戦の初期にポーランドでソヴェト軍の捕虜になったポーランド軍将校・兵士がソヴェト・スモレンスク州グネズドヴォ近くの「山羊が丘」で遺体として発見された事件である。この地は1941年6月の独ソ戦争の勃発後すぐに、ドイツ軍によって占領されたところである。最初に遺体を発見したドイツ軍が「グネズドヴォの丘」事件と言わずに、近くにある「カティンの森」事件と言ったのは、「グネズドヴォの丘」よりも「カティンの森」の方が国際的にはるかに有名であったからである。

問題はこのポーランド軍将校・兵士を殺害したのが、ソヴェト軍なのか、ドイツ軍なのかである。独ソ戦中からドイツ軍はソヴェト軍であるとし、ソヴェト軍はドイツ軍であると主張してきた。ソヴェトは、この問題は戦後のニュルンベルグ国際軍事裁判によって決着がついている、としているが、それでもことあるごとに論争は繰り返されてきた。今回これがまた復活したのはプーチン首相が2009年にポーランドを訪問し、2010年4月7日にスモレンスクにある慰霊碑をポーランド首相とともに訪れたことによる。

なお、4月10日に現地でポーランド政府主催の追悼式典がおこなわれる予定であったが、これに参加するためにスモレンスクに向かっていたポーランド政府専用機がスモレンスク空港近くの森に墜落し、大統領夫妻をはじめ多くの関係者が亡くなったために式典は中止された。

2010年4月19日にロシア連邦・連邦議会国家会議(下院)において「カティンの悲劇:法的・政治的側面」と題する円卓会議が開催された。会議を主催したのもイリューヒンであった。この会議には殺害したのはドイツ軍だという論者とソヴェト軍だという論者合わせて16人が参加した。

冒頭、イリューヒンはプーチン首相がカティンの悲劇に関する文書も資料もよく研究しないで、すでに何度もポーランド人に対して彼らの将校を射殺したことについて謝罪したことを批判した。そして、ポーランド人将校をソヴェトが射殺したという説が成り立たないことを証明する論拠を十分に持っていると強調した。

イリューヒン、「カティンの森事件」で全体的検討が必要とメドヴェージェフを批判

2010年4月28日、ロシア連邦文書保管所はメドヴェージェフ大統領の指示を受けて一連の文書の原本を解禁・公開した。

第一は1939年にソヴェトの捕虜となったポーランド軍将校の運命に関する「特別ファイル第1号ソヴェト同盟共産党中央委員会政治局」、第二は2万5000人以上のポーランド人の銃殺を提案したかのごときベリヤの覚書とこれに賛成した党政治局の決定、第三は銃殺されたポーランド人の個人的事柄の抹殺についてのフルシチョフあてシェレーピンの覚書である。

これらの文書についてイリューヒンは国家会議の憲法的立法・国家建設委員会副議長として2010年4月29日に円卓会議参加者の委任をうけて次のような声明を発表した。

ロシア連邦文書保管所の決定にはセンセーショナルなものは何もない。解禁・公開された文書は前世紀の90年代初めにすでに多くの人の共有財産となり、ロシアと外国で一度ならず公表され、論評されていたものである。

文書公開の措置は、円卓会議参加者がいわゆるカティン事件について予備的な捜査を復活し、すべての証拠や考え方を点検する必要があること、集められた証拠類を公開の司法裁判で評価するために捜査と点検の結果を裁判所に引き渡すことを声明したあとでおこなわれた。

この立場は多くの事実と証拠に基づいている。とくに、ポーランド人がドイツの武器で銃殺されたこと、多くの犠牲者の手が、ソヴェト同盟では作られていないで、ドイツで広く使われている紙製の紐で結ばれていることに基づいている。ソヴェト国民とドイツ人の多数の証言に基づいている。そのなかには、1941年夏−秋にスモレンスクがヒトラー・ドイツ軍によって占領されたあと、彼らがポーランド人を銃殺したというドイツ国防軍兵士の証言も含まれている。

捕虜の将校がソヴェト同盟内務人民委員部によって銃殺されたとの多年にわたりロシアと外国で強引に押しつけられた嘘は今日では粉々に砕けている。しかし、前世紀の80年代末−90年代初めにいわゆるカティン事件を急回転させたロシアの権力とわが国の歴史家たちがこの粉々に砕けたものを寄せ集めようとしている。

2010年4月28日にメドヴェージェフ大統領はデンマークで、特別ファイル第一号が解禁された後、誰でもがこれらの文書に接することができ、誰がそれに署名したのか、ポーランド将校の絶滅について具体的にどの人物に罪があるのかの結論を引き出すことができると声明したが、これに同意することはできない。いかなる文書もそこには一定の情報を含んでいるが、その信憑性もしくは非信憑性について結論を出せるのは、他の証拠と合わせて全体的に研究した後でだけである。35

こうしてイリューヒンの批判はプーチン首相だけではなく、メドヴェージェフ大統領にも及んだ。

2010年度大統領年次教書、経済の現代化を提唱

2010年11月30日、メドヴェージェフ大統領は2010年度大統領年次教書を発表した。彼は最初に2009年度の教書に触れ、次のように述べた。

「1年前にこのホールで私は、私たちの政治戦略を提起した。それは、民主主義の価値に依拠しながら、経済を現代化し、あらゆる分野での進歩のために刺激を作り出し、自由で、教養ある、創造的に考える市民の世代を養成し、人々の生活の基準を質的に新しい水準に高め、技術革新を基礎に成功を勝ち取った現代的な世界的大国としてロシアの地位を確立することである。

私たちの国における現代化は、全世界にとってただならぬ時、全地球的危機の時に始まった。それでも今年、2010年の経済成長はおよそ4%になるであろう。向こう3年間の課題は物価の上昇を年間4−5%以下に抑えることである。失業者数は現在およそ500万人であるが、危機のピークに比べると、200万人減っている。今日、ロシアが持っている国際通貨基金は0.5兆ドルであり、2008年末より多い。この数か月間、住民の実質所得はおよそ5%増えている。

現代化は自己目的ではない。これは道具にしか過ぎない。これを使って、経済と社会の分野で久しい間、熟み溜まっている諸問題を解決することができるし、これをなによりも必要として人々を助けることができるし、私たちが大変期待している人々、つまり、私たちの子供たち、私たちの若者の能力を開花させるために条件を作り出すことができる。」

メドヴェージェフは続いて人口問題を取り上げ、ロシアにおける出生率が2005年に比べて21%以上増大し、幼児の死亡率が4分の1低下し、この15年間で初めて2009年にロシアの人口が増大に転じたことを報告した。しかし、これから先、15年間は1990年代の人口減の影響を受け、いわゆる生殖可能年齢の女性が激減することを警告し、これはわが民族全体のとって深刻な脅威であると述べた。そして、その重要な対策の一つとして、一家が3人以上の子供を持つことを提唱した。ネクラーソフ、チェホフ、ガガーリン、アンナ・アフマートワはいずれも3人目の子供であった。

メドヴェージェフ大統領は最後に、国の安全保障と防衛の問題に触れ、現在の6軍管区を4軍管区にすること、対空対宇宙防衛を強化することを明らかにした。さらに、メドヴェージェフはドイツ、フランス、中国、インド、ブラジル、韓国、シンガポール、日本、カナダ、イタリア、フィンランド、ウクライナ、カザフスタンなどとの技術協力とヨーロッパ連合および米国との協力の拡大およびロシアの世界貿易機構への参加にも言及した。

メドヴェージェフ大統領の教書演説は現代化を軸に内外政策全般に及んだ。36

プーチンに対する軍事裁判とイリューヒンの不慮の死

イリューヒンの第二の矢は、2011年2月10日に全ロシア将校会議の決定によりモスクワで開かれた軍事裁判で放たれた。被告人は前ロシア連邦大統領・前ロシア軍最高総司令官・現首相プーチンであった。罪状はプーチンがロシアの防衛力と安全保障について、また、陸海軍と軍産複合体の崩壊について、法律に反する破壊活動をしたというのであった。

法廷で主任検事の役を務めたのは法務中将ヴィクトル・イリューヒンであった。彼は法廷でプーチンの罪状を告発する論告を展開した。

軍事裁判所は国の防衛確保の分野におけるプーチンの活動が国益に合致しないものと認め、プーチンがこれからも国家の役職に就いていることは不可能であると判定した。さらに、プーチンの活動はロシア連邦の検察機関によって綿密に調査され、司法の評価をうけるべきものとされた。軍事裁判の判決内容はロシア連邦の現在の大統領、陸海軍人および全国民に伝達されることになった。37

この軍事裁判は国家の正式な機関がおこなったものではなく、ロシア連邦内の将校会議という任意団体がおこなったものであり、プーチン首相は逮捕・拘束されることはなく、法廷にも出席しなかったが、ロシアの軍人、とくに、将校の一部が公然とプーチンを批判したことは、プーチンにとっては好ましいことではなかった。

問題は裁判の終結で終わらなかった。イリューヒンはこの裁判での論告の後、突然、不慮の死を遂げた。この死は予期されないものではなかった。イリューヒンは「あなたは制度と闘っている。それは残酷である。プーチンは何でもできる。あなたは暗殺されたレフ・ローフリン将軍の運命を繰り返すのか」と忠告されていた。イリューヒンはそれに対して次のように答えていた。

「私たちはレフ・ローフリンと戦友である。私たちは自分の道を一度、そして、永遠に選んだ。危険は承知している。祖国に奉仕し、祖国を擁護しなければならないのだ…」。38

それは覚悟の死であった。

プーチンに影響を与えたのはサプチャクとエリツィン

イリューヒンが言いたかったことは、彼の死後2011年春に出版された著書『プーチン。知らない方が良い真実』で詳細に語られている。彼はこの本の中でプーチンを次のように厳しく批判している。

エリツィンの統治時代は終わったが、ロシアにとって破壊的なエリツィンの改革時代は続いている。国家権力、経済、社会領域の多くの重要ポストにエリツィン改革を推進しているイデオロギーと人々が残っている。このことはプーチンを完全に満足させている。

政党「統一ロシア」はロシアにとって伝統的な右翼、ガイダールやチュバイスよりもさらに右にある。プーチンが中央のどこか、すべての人の上にあるという考えは間違っている。プーチンは彼を押しだし、権力の座に就けた人々のあいだ、エリツィン・サークルの中にかつていたごとく、いまもそこにいる。一部の右翼の人々がプーチンを批判しているが、これは同じ仲間内のグループ間利益の衝突として、プーチンをエリツィンの軌道に沿ってより早く、決定的に歩ませたいとする志向として評価しなければならない。

「統一ロシア」の議員たちが農業用地に対する私的所有権の導入、自然に形成されている独占を分割し、農業用地を人々の大きくない小グループの手に引き渡すこと、および、自己の政治的反対派の弾圧を強く要求していることなどの例によって、このことはとくに明らかである。

権力に入った後、プーチンは権力を効果的に、確実に運用する準備ができていないことが分かった。ドイツでの諜報活動の後、プーチンは人々と国家機構を管理するために必要な経験を積まなかった。しかし、このことだけで、プーチンの政治的決定を説明するのは正しくない。むしろ、それはプーチンがサプチャクとエリツィンのチームに相当の期間いたことに規定されている。プーチンの考えと信念は多く、サプチャクとエリツィンの影響のもと、飽くなき金銭欲と嘘と策謀の忌まわしい精神の雰囲気の中で形成された。39

私もプーチンがKGBだけでなく、サプチャクのもとと大統領府で仕事をしたことは「重要な意味を持っている」と考えているが、それが政治家プーチンに良い影響を与えることを期待していた。40

メドヴェージェフ大統領、2012−2014年度予算教書を発表

2011年6月29日、メドヴェージェフ大統領は次のような内容の2012−2014年度予算教書を発表した。

この予算教書によると、2010年の経済成長率はほぼ4%の水準で安定し、2011年もほぼ同じ成長率もしくはそれよりも少し上が期待されるという。連邦予算の赤字が本質的に削減されたが、最も主要なことは、国家がすべての社会的責務を果たすことである。

私たちの予算政策の主要な課題は、私たちの国の現代化、私たちの経済の現代化であり、経済競争力の向上と長期的な安定した発展の条件を作り出すことである。

しかし、今日、予算・租税政策のすべての要素が完全にこの課題に応えているわけではない。対外経済景気への依存と結びついたリスクは依然として維持されている。私たちの向こう3か年の予算は新しい経済発展モデルを創出するのに寄与し、リスクを下げ、マクロ経済の安定を確保しなければならない。

このためにメドヴェージェフ大統領は12項目の体系的な措置を講じなければならないと指摘しているが、そのうち主なものは次の通りである。

第一は、予算計画を国の長期的な発展戦略の形成と実現の過程に統合しなければならない。2012年までに長期経済見通しを確定し、社会経済発展の戦略的目標をその財政的保証および法的規定に基づく保証と一致させなければならない。2012年末までに「執行権力機関の活動を組織する特別原則」プログラムを導入しなければならない。

第二は、2015年から石油ガス収入利用規則と連邦予算赤字規制を実施しなければならない。これは私たちの国際的約束と完全に合致するものである。2012年および2013・2014計画年度にこれらの規則および規制を作成するさいに、この規則を実施するための前提条件および連邦予算赤字の安定とそれをさらに減らすための前提条件を作り出さなければならない。もしも、予算要求を作成するさいにこれまでの惰性を克服できなければ、マクロ経済的安定にとってのリスクは受け入れ難いほど高くなるであろう。

第三は、2012−2013年において義務的保険料の最大課税率を34%から30%に減らすこと、生産・社会分野の小ビジネスおよび広範な非商業組織では26%から20%に減らすこと。

第四は、ロシアの租税制度を経済のグローバリゼーションの条件のもとでの現在の要求に応えるうるものにしなければならない。それは、もちろん、連邦国家としてのロシアの発展に寄与するものでなければならないが、社会にとって余りにも手数のかかる厄介なものであってはならない。石油ガス部門やアルコール・たばこ工業のような企業から税を徴収するさいには、税の刺激的役割と財政的役割を高めるようにしなければならない。同時に、動産に対する現行税を不動産に対する特別税によって変えるということも要求されている。

第五は、予算政策は私たちの市民、個々の人間の生活条件の改善に向けられたものでなければならない。2012年以降、年金と補助金は当然増額されるが、2012年には平均年金額が11%以上、社会補助金が6%以上増える。すでに約束されている大祖国戦争(第二次大戦)復員者への住宅保障の問題は2012年までに完全に解決される。

メドヴェージェフ大統領の予算教書は年ごとに具体的になり、はっきりと政府に指示を与えるものになった。41
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28 中西治『ロシア革命・中国革命・9.11――宇宙地球史の中の20−21世紀――』南窓社、2011年、192ページ参照。
29 http://ecodb.net/country/RU/imf gdp.hyml 「ロシアのGDPの推移」2011/07/08。
このIMFの調査資料とロシア連邦国家統計局の資料には数値に若干の相違がある。
30 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』185−187ページ。
31 http://www.kremlin.ru/transcripts/1968 2011/07/21;上野俊彦「メドヴェージェフ大統領の政治改革 2008年度教書演説における政治改革提案をめぐって」『国際問題』2009年4月 No.580、日本国際問題研究所、4−15ページ参照。
32 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』187−188ページ。
33 http://www.news.kremlin.ru/transcripts/5413 2011/07/21 ; http://www.kremlin.ru/transcripts/5979 2011/07/21
34 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』131ページ。
35 ヴィクトル・イリューヒン『プーチン。知らない方がよい真実』ALGORITM社、モスクワ、2011年(ロシア語)、234−237ページ。http://ja.wikipedia.org/wiki/「カティンの森事件」2011/07/17。
36 http://www.news.kremlin.ru/transcripts/9637 2011/07/21
37 前掲、イリューヒン『プーチン。知らない方がよい真実』100、118−119ページ。
38 同上書の裏表紙参照。
39 同上書、6−8ページ。
40 前掲、中西治『現代人間国際関係史』474ページ。
41 http://www.kremlin.ru/transcripts/11784 2011/07/21

2011年8月17日

4. 「タンデム(双頭)」体制とは : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論 (2)

中西 治 (0時00分)

プーチン、「2020年までのロシアの発展戦略」で演説

2008年2月8日、プーチン大統領はクレムリンの国家会議(下院)拡大会議で「2020年までのロシアの発展戦略」と題して演説した。ここで彼は大統領在職中の2000年から2007年までの8年間を振り返り、2020年までのロシアを展望し、次のように述べた。

人々の意志と人々のロシアの運命への直接の参加こそが、この8年間になされたことすべてを達成できた決定的な力であった。私たちが主要な指導原則としてきたのは、ロシアの復興は人々を犠牲とし、人々の生活条件をいっそう悪化させるような代価を払っておこなわないということであった。ロシアは強い国家として、自分の足で立てる国家として世界舞台に戻った。いま私たちが直面している課題は、蓄積された経験と資源を次の、質的に異なる、国の発展段階のために効果的に利用することである。

ロシアの未来と私たちの成功がかかっているのは、人々の教育と健康、自己の習性と才能を自己完成し、利用しようとする人々の志向である。ロシアは人間が一生においてキャリアを増やし、社会的・物質的ステータスを著しく高めるための可能性でもっと良くなければならない。才能と成功を刺激するうえでもっと良くなければならない。私たちの経済の効率を急激に高める課題を解決するさいに、私たちはあらゆる方向に動けるように刺激と条件を作り出さなくてはならない。

国家統治の質の改善を!

提起されている目標を実現するためには、国家統治に対するまったく新しい要求が必要である。このような巨大な国家セクターが国家にとって手に負えなくなり、何の役にも立っていないことは明かである。多数の施設および組織は市場に合致しなければならないし、それが存在している事実に対してではなく、結果に対して支払いをうけなければならない。その指導者は統治の質に対して個人的責任を負わなければならない。

民主主義国家は市民社会の自己組織化の効果的道具とならなければならない。私たちの民族問題を解決するためには、国際関係の平和的な、肯定的な工程表が私たちに必要である。もっとも重要なのは、国の発展計画がロシア社会のすべての構成機関が参加する広範な審議を経ることである。このような審議は一つの話し合いでは終わらない。結果はロシア連邦政府による2020年までの国の社会・経済発展の基本理念と上述のすべての方向にわたる具体的行動計画の採択である。

2000年から2007年までの間にGDPは72%増大した。年間7.8%の増加率を維持しながら、2009年末までにGDPの倍増を達成することができる。

今日、私たちは、生活の質を変え、国と国の経済および社会領域の質を変える、きわめて野心的な課題を提起している。ロシアには勤勉な、教育ある人々がいる。ロシアには膨大な天然資源と豊かな科学的潜在力がある。提起されている目標の達成を許さない重大な理由な何一つない。私たちの国が今後も、世界のリーダーの一つとしての地位を強化し、私たちの市民が満足に生活することを、絶対的に確信している。20

メドヴェージェフ、「2020年のロシア 国の主要発展課題」で演説

2008年2月15日、メドヴェージェフ第一副首相は第5回クラスノヤールスク経済フォーラムで「2020年のロシア 国の主要発展課題」と題して演説した。

彼はまず1週間前におこなわれた2020年までの国の主要発展方向についてのプーチン大統領の演説に触れ、次のように語った。

これは、良き生活基準を提起する社会、人々の才能と能力を自立的に実現するために平等な可能性を与える社会の建設である。これは、インノヴェーション型の経済発展と経済効率の顕著な向上である。最後に、これは、広範な中産階級の形成である。このようなロシアは、市民が偉大な過去だけではなく、現在を誇りにしている国となるであろう。私たちの国は現代世界の中で生活のための良き場所である。これらの方向は野心的であり、絶対に現実的である。その実現のためには責任ある一貫した政策が必要である。その政策の中心に立っているのは、人々であり、数百万のロシア家族の未来である。

私たちの政策の基礎にある原則は、高い生活基準の達成をめざしている、すべての現代国家の活動においてもっとも重要であると考えられているものである。それは、「自由は不自由よりは良い」という人間経験の精髄である。問題は個人の自由、経済的自由、さらには、自己表現の自由など、自由が表れるすべての場における自由である。

私は自由と法秩序の間の調和の達成を所与の段階におけるもっとも重要なものと考えている。このテーマについては女帝エカチェリーナ二世が書いている。「自由はすべてのものの魂である。それなしでは、すべては死である。私は法に服従することを望む。しかし、奴隷のものではない[法]に。」

自由と市民による法権力の事実上の承認は不可分である。それが意味するものは、カオスではなく、国において採用されている秩序への尊敬である。法の至上性がもっとも重要な私たちの価値の一つでなければならない。

私は私たちの国における法的ニヒリズムの根源について一度ならず語った。これが私たちの社会の特徴としていまも残り続けている。私たちは私たちの民族的習慣から、私たちの市民がいまも日常活動において慣れている、法の侵犯を取り除かなくてはならない。それをおこなうのは、法の侵犯がある人を富ませず、他の人を堕落させないためである。法が遵守されない理由の一つは、法がまだ常に高い質にないからである。

4年間、四つの「I」(Institute、Infrastructure、Innovation、Investigation)に集中

私たちの活動においてもっとも優先権が与えられるべきことは、司法制度の執行権力と立法権力からの完全な独立性の確保である。私たちは戦闘を仕掛けなければならない。そのさい、真の戦闘は私たちの社会を冒している、もっとも重い病気−−汚職に対してである。個人所有権の尊重を国家がおこなう政策の基本の一つとしなければならない。私たちの租税制度は他の国の租税制度に対して競争力を持つようにしなければならない。私たちに必要なのは、安定した財政制度である。それは市民が蓄積したものの価値を低下させないで、企業の側からの需要を満足させるために十分な予備を持つものである。

私たちが配慮すべきことは、物質的な道だけではなく、「未来の道」、まさに、現代のテレコミュニケーションについてである。全国的なインノヴェーション・システムの構築は、私たちの経済の複雑な、枢要な課題である。未来学者トフラーが未来社会の可能性に触れたさい、警告したように、「危険は単に増大するのではなく、指数に従って増大する。このような未来は意志薄弱者にとってだけではない。」単に意志と性格だけでは十分でない。同等な可能性が必要である。

現代の経済に適応した現代の社会発展政策が必要である。医療援助を与えるすべての組織を新しく整備しなければならない。医療関係者が常に技能を高める条件を作り、新しい知識と技能を常に得たいと望む動機を高めなければならない。

私たちがこれからの4年間に集中すべきことは、基本的な方向と次の四つの独特な「I」に向けてである。Institute(研究教育機関)、Infrastructure(基本設備)、Innovation(技術革新)、Investigation(投資)である。21

プーチンの演説も、メドヴェージェフの演説も、ともに格調高いものであった。やっと、ロシア社会もここまで来たのかと感じさせるものであった。二人の演説はソヴェト時代においても、そのまま出来たであろう。しかし、ソヴェト社会はまだそれを求め、受け入れるところまで来ていなかった。1990年代初めから2000年代初めにかけての10年ほどの混乱も無駄ではなかった。新しい時代が到来した。それを告げる二人の演説であった。

「タンデム」とはこのように二人の指導者が並び立つ体制である。それは帝政時代にもあったし、ソヴェト時代にもあった。先に進む前にこれらを振り返っておこう。

ピョートルとソフィアの「タンデム(双頭)」体制

二人の指導者が並立し、支配する「タンデム」体制は昔から存在した。ローマ帝国が東ローマと西ローマに分裂したのも元を質せばこの故であった。ロシア史ではピョートルとソフィアがその例である。22

ピョートルの父アレクセイ(在位1645−76年)が亡くなったあと、アレクセイの先妻の子フョードル(1676−82年)がアレクセイの後を継いだ。フョードルは病弱で短命であった。子供がいなかったので、フョードルの死後は弟のイワンが継ぐものと考えられていた。ところが、アレクセイの後妻ナタリヤの子ピョートル(1682−1725年)が10歳で即位した。これに対して、イワンの姉ソフィアが反乱を起こし、イワンを第一ツァーリ(皇帝)=イワン五世(1682−89年)とし、自分は摂政となった。ピョートルは第二ツァーリに格下げされ、クレムリンから追い出された。ソフィアは、さらに、ピョートルを亡き者としようとしたが、失敗し、かえって、修道院に幽閉されることになった。23

この時期、ロシアには二人のツァーリが存在し、ピョートルとソフィアの「双頭」体制が形成されていた。

1917年と1993年10月の「二重権力」

「タンデム(双頭)」に類似したものに「ドゥヴォエヴラースチエ(二重権力)」がある。

20世紀のロシアで有名な「二重権力」の一つは、1917年の臨時政府とソヴェトである。もう一つは、ソヴェト同盟崩壊後の1993年のエリツィンの大統領権力とハズブラートフの最高会議である。

「双頭」は二人の最高指導者が並立する状態であり、「二重権力」は二つの権力が並立する状態である。「双頭」は二人の指導者が争うことによって自然に出来る場合と制度として形成される場合がある。また、既成の制度を利用し、人為的に形成される場合がある。

「二重権力」とは、二つの権力が存在し、どちらの側も相手を打ち負かすことができず、単独で支配できない状態である。「二重権力」は常に不安定のシンボル、最高権力が整っていないことのシンボル、「どちらがより重要か」という主要な問題が解決されていないことのシンボルである。

1917年にはソヴェトが臨時政府を潰すことで終わった。1993年10月にはエリツインと最高会議の間で緊張が高まり、火花が飛び散り、それにより周り全体が燃え尽くされた。「二重権力」はエネルギーの放出をもたらし、このエネルギーは歴史の尺度では血によって計られることになる。24

ソヴェト同盟は国家と共産党の最高指導者による「双頭」体制

一般に民主主義的体制においては立法・司法・行政の三権が分立し、権力の集中を回避し、独裁的にならないように配慮している。プロレタリア・デモクラシーは、ブルジョア・デモクラシーとは違い、いわゆる「三権分立」をとっていなかった。

ソヴェト同盟では共産党の指導性と主導性が憲法でも認められ、プロレタリアートの前衛である共産党が政策の基本を決め、国家の機関であるソヴェト(会議)で政策を具体化・決定(立法)し、実行(行政)し、その結果を判定(司法)するという建前になっていた。

これはこれまでの民主主義では国民は投票日だけの主権者であり、投票が終わると、次の選挙まで主権者ではなくなるということに対する反省から出発していた。主権者が常に主権者であるために、主権者自身が政策を決定し、実行し、判定し、さらに、新たな決定をするという考えに基づいていた。

共産党は国民全体の多いときでも10%ほどの少数の党員の集団であるが、国家は党員だけではなく、圧倒的に多い非党員を含む全国民の集団である。現実に国家の組織である各級のソヴェト機関には共産党員とともに多数の非党員が参加していた。ソヴェトは党員・非党員の同盟・協力の場であった。

このソヴェトの最高機関が最高ソヴェト(会議)であり、その幹部会全体が集団大統領とされ、その最高会議幹部会議長(当初は中央執行委員会議長)が国家の最高指導者(国家元首)であった。実際に政策を実行するのは最高会議が任命する閣僚会議(政府)であり、その議長が首相であった。

この中で共産党の最高指導者は書記長や第一書記であったが、国家の最高指導者は最高会議幹部会議長であった。この両者は、法律では規定されていなかったが、長い間、別人とされ、国家では党の最高指導者は国家の最高指導者の下に置かれていた。これが党の独断専行を阻止する制度的保証であった。

ソヴェト同盟は国家と党の最高指導者による「双頭」体制であった。

レーニン・スターリンとカリーニン・シュヴェルニク

ソヴェト同盟が結成された1922年12月30日から1938年1月17日まで中央執行委員会議長はカリーニン。カリーニンは中央執行委員会議長が最高会議幹部会議長と名称が変わった1938年1月17日以降もその職にあり、その職を辞したのは第二次大戦後の1946年3月19日である。カリーニンの後任はシュヴェルニク(1946年3月19日−1953年3月15日)であった。

この間の党の最高指導者は最初、人民委員会議議長(首相)レーニン、1924年1月21日のレーニン死後は党書記長スターリンであった。

レーニン死後の首相はルイコフ(1924年2月2日−1930年12月19日)、モロトフ(1930年12月19日−1941年5月6日)、スターリン(1941年5月6日−1953年3月5日)であった。スターリンは1946年3月15日に人民委員会議議長が閣僚会議議長と名称が変わったあとも亡くなるまでずっと首相であった。

スターリンが党書記長と首相を兼任したのは、差し迫った戦争という緊急事態に共産党の最高指導者が直接対応するとともに、英国のチャーチル首相や米国のローズヴェルト大統領と直接交渉するさいに、スターリンが共産党書記長という一政党の指導者という肩書きだけしか持っていないことが外交交渉を進める上で障害となっていたという事情もあった。

スターリンは党では最高会議幹部会議長のカリーニンやシュヴェルニクの上にいたが、国家では首相として彼らの下にいた。党と国家の最高指導者は異なり、「双頭」体制は変わらなかった。

スターリン死後、「双頭」から「トロイカ(三頭)」さらに「双頭」へ

スターリン死後、マレンコフが首相(1953年3月5日−1955年2月8日)と筆頭書記を兼任し、ヴォロシロフが最高会議幹部会議長(1953年3月5日−1960年5月7日)になった。マレンコフ・ヴォロシロフの「双頭」体制であった。

これは早くも同月14日にマレンコフが筆頭書記をフルシチョフに譲り、フルシチョフが同年9月7日に第一書記となったことによって、フルシチョフ・マレンコフ・ヴォロシロフの「トロイカ(三頭)」体制となった。

マレンコフが首相を辞任した後、ブルガーニンが首相(1955年2月8日−1958年3月27日)となり、「トロイカ」はフルシチョフ・ヴォロシロフ・ブルガーニンとなった。

このあと、ブルガーニンとヴォロシロフが反党グループ事件で失脚し、フルシチョフは党第一書記として首相(1958年3月27日−1964年10月15日)を兼任、ブレジネフが最高会議幹部会議長(1960年5月7日−1964年7月15日)となった。フルシチョフとブレジネフの「双頭」体制である。

ブレジネフ・コスイギンの「双頭」からブレジネフの「単頭」へ

1964年10月14日にフルシチョフが失脚したあと、ブレジネフが党第一書記となり、1966年には「第一書記」を「書記長」と改名し、1982年11月10日に死去するまでその職にあった。

この間、首相はコスイギン(1964年10月15日−1980年10月23日)とチーホノフ(1980年10月23日−1985年9月27日)、最高会議幹部会議長はミコヤン(1964年7月15日−1965年12月9日)とポドゴールヌイ(1965年12月9日−1977年6月16日)であった。形式的にはブレジネフ・ミコヤンとブレジネフ・ポドゴルヌイの「双頭」であるが、実質的にはブレジネフ・コスイギンの「双頭」であった。

ブレジネフがポドゴールヌイの後任として1977年6月16日に最高会議幹部会議長を兼任したことによってソヴェト同盟史上初めて党の最高指導者が国家元首を兼任することになった。これは1982年11月10日にブレジネフが死去するまで続いた。

ブレジネフの「単頭」体制である。これはソヴェト史上異例なことであった。

アンドローポフとチェルネンコの「単頭」からゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」へ

ブレジネフ以後の歴代の共産党書記長、アンドローポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフはいずれも最高会議幹部会議長(国家元首)を兼任した。

アンドローポフは1982年11月12日に書記長になり、1983年6月16日に最高会議幹部会議長になった。チェルネンコは1984年2月13日に書記長になり、1984年4月11日に最高会議幹部会議長になった。いずれも前任者の死去によって書記長になってから最高会議幹部会議長を兼任するまでは1年以内であった。

この間、最高会議幹部会議長職は空席であった。議長職空席中はクズネツォフ第一副議長(在職1977年10月7日〜1986年6月18日)が議長職を代行した。アンドローポフとチェルネンコの「単頭」である。

ところが、ゴルバチョフが1985年3月11日に書記長になってから1988年10月1日に最高会議幹部会議長になるまでに3年半以上かかっている。この間、1985年7月2日から1988年10月1日まで最高会議幹部会議長を務めたのはグロムイコであった。この時期はゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」体制であった。何故こうなったのか。これは当時の党内事情による。

当時、ソヴェト同盟共産党中央委員会政治局内部では、レニングラード派とモスクワ派の二つの勢力が完全に拮抗し、対立は、ボクシングで言えば、クリンチ(組み合い)が長く続く状態であった。この状態から抜け出る方策をグロムイコ外相が提案した。彼はゴルバチョフを書記長にすることに賛成したが、特別のいかなる意味ある手段もまったくもたない、絶対的に「中継ぎ的書記長」にしょうと考えていた。しかし、グロムイコが考えたいたようにはならなかった。

他方、ゴルバチョフもグロムイコに最高会議幹部会議長のポストを与えるが、「名目的」な国家元首は本質的には何も統治しないという「形式的」なものにしようと考えていた。ゴルバチョフが考えていたようにもならなかった。25

ゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」体制になった。

ゴルバチョフ大統領の「単頭」とソヴェト同盟の終焉

ゴルバチョフは1988年10月1日から1989年5月25日まで最高会議幹部会議長を務め、その後、制度を変更し、1989年5月25日から1990年3月15日まで最高会議議長、1990年3月15日から1991年12月25日までソヴェト同盟の最初にして最後の大統領となった。

ゴルバチョフ書記長時代の首相は、前述のチーホノフに続いて、ルイシコフ(1985年9月27日−1990年12月26日)が閣僚会議議長となった。パーヴロフは大統領制への移行にともなって新設された総理大臣に1991年1月14日に就任したが、8月クーデターの失敗後、1991年8月22日に辞職した。26

ロシアでは1917年11月の十月革命後、1991年12月のソヴェト同盟の解体まで74年間、そのほとんどは共産党の最高指導者と国家の最高指導者とは別人が担当する「双頭」体制であった。

1977年6月16日にブレジネフ書記長が最高会議幹部会議長を兼任し、1982年11月10日に死去するまで5年5か月ほど「単頭」体制となって以来、アンドローポフが1983年6月16日から1984年2月9日まで7か月ほど、チェルネンコが1984年4月11日から1985年3月10日まで11か月ほど、ゴルバチョフが1988年10月1日から1989年5月25日まで7か月ほど党と国家の最高指導者を兼任した。この「単頭」体制の期間は合わせて8年ほどである。ソヴェトの歴史全体の10分の1強であった。27

これに上述のゴルバチョフのきわめて脆弱な「単頭」であった1989年5月25日から1991年12月25日までの最高会議議長と大統領の2年7か月を加えても10年強である。

書記長の国家元首兼任は国家私物化の表れ

ブレジネフ以後の歴代の共産党書記長、アンドローポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフもブレジネフに続いて、最高会議幹部会議長を兼任した当時、共産党はわが世の春を謳歌し、ソヴェト体制は盤石にみえたが、実際にはそうではなかった。1975年7月にヘルシンキで開かれた全ヨーロッパ安全保障首脳会議のときがソヴェト同盟の絶頂であった。ブレジネフの時代は「停滞の時代」といわれ、ソヴェト体制の末期症状が露呈し、体制は揺らぎ始めていた。

党の最高指導者が国家元首を兼任することは、レーニンもスターリンもフルシチョフも慎んできたことであった。彼らは国家元首には党員だけでなく、非党員の一般国民も納得できるような穏健な人物、カリーニンやシュヴェルニクやヴォロシロフなどをもってきた。カリーニンは1934年の第17回党大会で1059票の満票により中央委員に選出された人である。28

ブレジネフ以降の歴代の共産党書記長の国家元首兼任は、共産党による国家の私物化の表れであった。彼らはそれを認識できなかった。ソヴェト国民は共産党の指導的役割・主導的役割を認めていたが、ソヴェト国家そのものが共産党のものであるとは認めていなかった。ソヴェト国民の不満は高まり、共産党の指導的役割・主導的役割を認める憲法第6条の条項を憲法から削除し、共産党そのものを権力の座から引きずりおろした。

かつて、「朕は国家なり」と豪語したフランスの王家が革命の中で消え去ったごとく、「党は国家なり」と考えるようになったソヴェト同盟共産党は権力の座から突き落とされた。「双頭」体制は「自制の体制」であった。「自制」できなくなり、「単頭」となったとき、ソヴェト体制は崩壊した。

党は「Party」、「Part」は部分である。部分を全体の上に置いてはならない。

「私」を「公」の上に置いてはならない。

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20 『ロシア2020 国の主要発展課題』エヴローパ社、モスクワ、2008年(ロシア語)、5−29ページ。
21 同上書、31−57ページ。
22 ウラジーミル・ルドリフォーヴィチ・ソロヴィヨーフ/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』EKSMO社、モスクワ、2010年(ロシア語)、21ページ。
23 外川継男『ロシアとソ連邦』世界の歴史第18巻、講談社、1978年、124−127,159ページ参照
24 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』20−21ページ。
25 同上書、43−44ページ。
26 前掲、イヴキン編『ソヴェト同盟の国家権力――最高権力機関・部とその指導者 1923−1991年:歴史伝記便覧』14,17,20−21,23,29ページ参照。Yu.V.ゴリャチェフ編『中央委員会――ソヴェト同盟共産党・全同盟共産党(多数派)・ロシア共産党(多数派)・ロシア社会民主労働党(多数派):歴史伝記便覧 1917−1991年』パラド社、モスクワ、2005年(ロシア語)、101ページ参照。
27 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』22ページ。

2011年8月15日

ポツダム宣言受諾発表66年に当たって

中西 治 (12時00分)

本日、2011年8月15日は1945年8月15日に日本がポツダム宣言受諾を発表し、第二次大戦で敗北してから66年になる。今年はまた、1911年の辛亥革命の発端となった「武昌起義」から100年、1931年の9.18事変勃発から80年になる。

その今年、2011年9月10−11日に武漢大学で学術研討会「九一八事変と中日関係」が開催される。この会に私は参加し、「9.18事変へのソ連・コミンテルンの対応と日中関係」について報告する。この報告原稿が今朝できあがった。私はこの報告の最後で次のように述べている。

9.18事変が私たちに与える最大の教訓は戦争を阻止するためには各国人民が団結し、他国人民と連帯しなければならないことである。

第一に戦争を起こした日本の人民が戦争反対で団結しなければならなかった。しかし、日本国民は明治以降の日清戦争・日露戦争・第一次大戦などの勝ち戦で、戦争とは儲かるものであると考えるようになっていた。日本国民の多くが1929年の世界的経済恐慌からの出口を戦争に求めた。だから、軍部は中国東北「満州」で戦争を起こすことができた。戦争に反対したのは共産主義者をはじめとするごく一部の人であった。多くの社会民主主義者は日本国民の感情に迎合し、戦争に賛成した。

第二に戦争を押しつけられた中国の人民も一致団結して戦争に反対しなければならなかった。1924年の第1回中国国民党全国大会では第一次国共合作が成立し、国民党員と共産党員は協力して行動した。1927年の蒋介石の反共クーデターによって国共合作は潰れた。中国人民が分裂しているなか、日本は1927年の第一次山東出兵、1928年の第二次山東出兵に続いて、1931年に9.18事変、1937年に廬溝橋事件を起こし、中国との全面戦争に突入した。

第三に人民が団結すれば、戦争に勝利することができる。1937年10月に第二次国共合作が成立した。1945年、中国は日本に勝利した。

第四に戦争を阻止するためには各国人民が戦争反対で団結するとともに、同じく戦争に反対する他国人民と連帯しなければならない。戦争を阻止するためには交戦国双方の人民が反対しなければならない。戦争は一方の意志だけで始められるからである。

第二次大戦後、アジアでは朝鮮戦争やヴェトナム戦争があったが、日本と中国との間に戦争はなかった。それは日中両国の人民がともに毅然として日中戦争に反対する立場に立っていたからである。いかなる国の指導者も、人民が望まない、人民が反対する戦争をおこなうことはできない。

私はこの機会に改めて日中関係の過去と現在の経験に学び、末永い日中両国人民の平和と友好、繁栄と幸福、文化と学術の交流拡大・発展のために努力したいと願っている。

今回の武漢大学学術研討会「九一八事変と中日関係」が新しい日中関係100年の出発点となることを期待している。

2011年8月15日正午

2011年8月10日

3. メドヴェージェフとは何者か : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論(2)

中西 治 (19時05分)

メドヴェージェフは大学教員夫妻の一人息子

ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフは1965年9月14日にレニングラードの教育者の家庭に生まれた。父はクラスノダールの技術大学を卒業後レニングラードの大学院に進学し、化学を専攻、レニングラード・ソヴェト記念工科大学で教え始めた。

父方の祖父はクールスク州の農民の家に生まれ、十月革命に参加し、村にソヴェト権力を樹立した。彼は農村の集団化に参加し、1930年代に専門講習所を卒業。独ソ戦争中は政治委員として戦い、戦後はクバンの共産党地区委員会第一書記を務めた。祖父は社会主義の理念を信じ、きわめて誠実な人で、絶対に清廉な人であり、骨の髄まで理想主義者であった。60年間以上共産党員であり、91歳で亡くなった。

母はベルゴロド州の生まれで、ヴォロネジ大学文学部を卒業後、1964年にレニングラードの大学院に進み、作家チェホフに大きな関心を寄せていた。ここで父と知り合い、結婚、1965年にメドヴェージェフを産んだ。母はゲルツェン記念教育大学でロシア語と外国語としてのロシア語を教えるとともに、講習所を終えて、パヴロフスキー宮殿のエクスクルサヴォード(見学者案内人)を務めていた。

私はレニングラードでエクスクルサヴォードの説明を聞いたことがある。美しい抑揚と発音のロシア語、学識の溢れ出る豊かな内容、これこそ名講義であると深く感じ入ったことを覚えている。品のある人であった。

ドミートリー(愛称ジーマ)は一人っ子で、お母さんが美人であることを誇りとしていた。

メドヴェージェフ、14歳のときに熱烈な恋

ジーマは7年生、14歳のときに熱烈な恋をした。冬休み、ピクニックに行き、一人の女子生徒と親しくなった。彼女は同じ学校で学び、顔見知りであった。彼らのロマンスは全校の注視のなかで進んだ。先生たちのメドヴェージェフに対する態度はさまざまであった。二人は勉強を止めてしまい、休憩時間に一緒に遊び、教室から抜け出ることもあった。二人の関係は発展し、変化し、仲が悪くなることもあった。10年生のとき、学年の前半、操行は「不可」となった。ほとんどの科目が「3(可)」であった。全部大変悪かった。両親は大いに不満であった。

メドヴェージェフは後に当時のことを次のように述懐している。

「一つの授業だけにしか出席せず、くよくよしなくなっていた。私たちの関係がまったく私をこのようにしていると気づいたとき、学校を無事に終えなければならないことを理解した。男の理性が働き始めた。2か月間、私はあらゆる義理を断ち切った。学校を結構悪くない成績で卒業した。」

後に結婚し、いまはロシアのファースト・レディーとなっているスヴェトラーナとの出合いであった。彼らには1996年に生まれた男の子イリヤーがいる。スヴェトラーナはかなり厳しい母親である。

メドヴェージェフ、サプチャクと知り合い、政治の世界へ

メドヴェージェフはレニングラード大学法学部を受験したが、昼間部の合格点に達せず、夜間部に入った。父親の勧めで昼間は実験室で仕事をし、夜に学んだ。2年目から昼間部に移り、民法を専攻し、ローマ法の研究に関心を持っていた。彼は「コムソモール(青年共産同盟)」の活動にも参加し、最初は学部の青年共産同盟委員、後には大学全体の委員になった。1986年に大学を卒業し、その後も学部および大学院に残った。丁度、このころ、23歳の時と言うから、1988年にメドヴェージェフは自分の意志で洗礼をうけ、ロシア正教徒となった。スヴェトラーナはそれより前に洗礼をうけていた。メドヴェージェフは1990年に博士候補(修士)の学位を取得、助教授となり、1999年まで母校で教えた。

当時の法学部長で、後にサンクトペテルブルグ国立大学学長となったニコライ・クロパチョフは「メドヴェージェフは強い学生であり、誠実ではあったが、飛び抜けて優れた学生ではなかった。」と述べている。

大学2年生のときメドヴェージェフはサプチャクの講義を聴講した。サプチャクは興味深い人であった。本当にサプチャクを知るようになったのは、サプチャクがソヴェト同盟人民代議員に立候補するときであった。サプチャクがメドヴェージェフとメドヴェージェフの大学の講座の友人たちを招き、選挙の代理人を引き受けるように依頼した。

1990年にサプチャクがレニングラード市ソヴェト議長に選出されると、メドヴェージェフはその参事官になった。1か月ほど経ったとき、メドヴェージェフより13歳年上で、大学の先輩であったプーチンも参事官になった。ここからプーチンとの共同作業が始まった。

1991年6月28日、サプチャクが市長に当選し、プーチンがサンクトペテルブルグ市対外交流委員会議長に任命されると、メドヴェージェフは同委員会の専門家になった。1994年3月にプーチンがサンクトペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)になると、メドヴェージェフは同第一副市長の顧問を務めた。

実はこのころメドヴェージェフはこのような政治的な仕事を続けるべきか、学問の世界に戻り、具体的な法律学の研究に専念すべきかどうかで悩んでいた。彼はすでに完全に大学の民法の講座に復帰していたので、プーチンの委員会での仕事は非常勤ということになった。

メドヴェージェフ、政府官房次長から大統領府副長官・長官、第一副首相、大統領へ

1999年8月16日にプーチンが正式にロシア連邦政府議長(首相)になると、メドヴェージェフは同年11月にロシア連邦政府官房次長になった。

このときもメドヴェージェフにとっては降って湧いたような話しであった。10月初めにセーチンから電話がかかり、プーチンが会いたいとのこと、承知すると、プーチンがやってきて、連邦有価証券市場委員会の責任者になってくれと言う。メドヴェージェフはこの問題については学問的に関心をもっており、実務も少しはしていたので、数日考えさせてくれと答えた。メドヴェージェフはこの問題を博士論文のテーマにしようかとさえ考えていた。ところが、1か月後に出てきたのは、政府官房次長であった。さらに、同年12月31日にエリツィンが大統領を辞任し、プーチンが大統領代行となったとき、メドヴェージェフはロシア連邦大統領府副長官になった。事態の展開は急速であった。あっという間であった。

プーチンが2000年5月7日に大統領に就任したあと、メドヴェージェフはロシア連邦大統領府第一副長官になり、同時に2000年から2001年にかけて「ガスプロム」の理事長、2001年に副理事長、2002年7月から再度、理事長になった。

2003年10月30日に大統領府長官、2005年11月14日に第一副首相になった。2007年12月10日にプーチン大統領はメドヴェージェフが2008年3月の大統領選挙にプーチン大統領の後継者として立候補すると発表した。メドヴェージェフは大統領選挙で大勝し、2008年5月7日に正式に大統領に就任した。

メドヴェージェフの父アナトーリー・アファナーシエヴィチ・メドヴェージェフは2004年に病気で亡くなった。メドヴェージェフが大統領府長官の時であった。

プーチンは首相となり「タンデム(双頭)」体制が発足した。19

その出発点となったのは2008年2月のプーチンとメドヴェージェフの次の二つの演説であった。プーチンは現職大統領、メドヴェージェフは第一副首相、大統領候補者の段階であった。プーチンの演説は8年間の大統領としての活動を総括し、選挙民に報告するもの、メドヴェージェフの演説はこれを引き継ぎ、大統領選挙に臨む、選挙公約ともいえるものであった。

ーーーー
19 ロイ・メドヴェージェフ『ドミートリー・メドヴェージェフ ―― ロシア連邦大統領』ヴレーミャ社、モスクワ、2008年(ロシア語)、12-17ページ。http://medvedev.kremlin.ru/biography  2011/07/21;http://ja.wikipedia.org/wiki/「ドミートリー・メドヴェージェフ」2011/06/07参照。

2011年7月20日

2. プーチン大統領の功罪: プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治 (0時00分)

2000年〜2007年にGDP 4.5倍増

プーチンの大統領在任中の功の第一は、経済が再び発展し始めたことである。

その指標の一つである国内総生産(GDP)は2000年に7兆3060億ルーブルであったが、2007年には32兆9870億ルーブルになった。約4.5倍になった。

国民一人当たりのGDPは2000年の4万9835ルーブルから2007年の23万2306ルーブル、約4.6倍になった。

人口は2000年の1億4630万人から2007年の1億4200万人となり、430万人減った。

ロシア社会の衰退が続く中で生産が上向いたのである。(5)

採油量、2000年代に上向く

注目されるのは液化ガスを含む石油の採取量である。ソヴェト時代、1980年に5億4700万トンあった採油量が、1990年には5億1600万トン、1995年には3億700万トンにまで落ちていた。

それが2000年には3億2400万トン(内、石油3億1300万トン)と上向きはじめ、2007年には4億9100万トン(内、石油4億7300万トン)まで回復した。(6)

しかも、この間、原油価格は1998年の1バレル=20ドル以下の水準から2000年には100ドルを超え、2007年でも100ドルに近い水準にあった。(7)

これがプーチン大統領にとって大変な追い風になった。プーチンはこの風に乗り、民営化された石油とガスを国家の手に、政府の手に取り戻そうとした。

ソヴェト時代、石油・ガスは国家のもの

ソヴェト時代、土地も地下資源も生産手段もすべて国家のものであった。当初、これらの資源と施設は最高国民経済会議が管理していた。

1932年になって、重工業、軽工業、林業の3人民委員部(省)が作られた。1939年1月に重工業人民委員部から分かれて燃料工業人民委員部が作られ、同年10月に燃料工業人民委員部はさらに石油工業人民委員部と石炭工業人民委員部の二つに分けられた。

同年9月にはヨーロッパで第二次大戦が始まっていた。戦争の開始とともに石油工業を管理する単独の省が登場した。第二次大戦は石油の戦争であった。

第二次大戦終了後、1946年に石油工業人民委員部はソヴェトの東部地域担当と南部・西部地域担当の二つの人民委員部に分けられたが、1948年には再び一つの石油工業省に統合された。また、1955年1月には石油工業企業建設省が作られたが、これも1957年5月には廃止された。

フルシチョフ失脚後の1965年10月2日に石油採取工業省とガス工業省が作られたが、前者は1970年6月3日に再び石油工業省となった。1989年6月27日には石油工業省とガス工業省は統合され、石油ガス工業省となり、1991年11月14日に廃止された。(8)

ソヴェトのような広大な土地でたくさんの石油ガス企業を一つの省ですべてを管理・運営することは不可能であった。試行錯誤を繰り返したが、1990年代初めにはソヴェト体制そのものがすでに統治能力を失っていた。石油ガス工業省はその一例であった。

ガス工業省から「ガスプロム」へ

1985年2月12日から1989年6月27日まで最後のガス工業大臣を務めたのはチェルノムイルジンであった。彼は1989年8月にガス工業省を基礎として国家ガス・コンツェルン「ガスプロム(ガス工業)」を創設し、理事長となった。ガス工業省の財産は「ガスプロム」に移った。石油ガス工業省は実際には石油だけの工業省となった。

チェルノムイルジンはこの功績により、ソヴェト同盟解体後、民営化を推進するエリツィン大統領によって抜擢され、1992年5月にロシア政府副首相兼ロシア政府燃料エネルギー・コンプレクス副議長となり、同年12月には首相に昇進、1998年3月まで務め、退任後、「ガスプロム」に戻った。

チェルノムイルジンの庇護のもと「ガスプロム」は1993年にロシア株式会社「ガスプロム」となり、1998年には公開型株式会社「ガスプロム」となった。(9)

コンツェルンは独立した経営体であり、株式会社のとき株式は100%政府が所有していた。公開型になって、株は一般に公開されるようになった。国の持ち株は35%から40%止まりであった。(10)

石油工業省から「ロスネフチ(ロシア石油)」へ

先に述べたように、石油工業省は1989年6月27日にガス工業省と合併し、石油ガス工業省となったが、同年8月にはガス部門が「ガスプロム」として独立・分離した。残された石油部門は、遅まきながら1991年に民営化されることになったが、省名は依然として旧来の石油ガス工業省であったので、新しくできた会社は「ロスネフチェガス(ロシア石油ガス)」社となった。

これを1993年に実態にふさわしく改名して生まれたのが、国家企業「ロスネフチ(ロシア石油)」であり、1995年には公開型株式会社「ロスネフチ」となった。

1995年から1998年にかけて「ロスネフチ」の指導部は頻繁に交代し、事実上、管理のない状態であった。採油量は激減し、石油精製は生産能力の三分の一にまで低下した。「ロスネフチ」は四分五裂の状態となった。

転換は1998年10月に起こった。セルゲイ・ボグダーンニチコフがCEO(経営責任者)となった。彼は即座に大胆な計画を実施し、会社を危機から抜け出させ、2000年までに黒字企業にした。それ以降、採油の年間平均増加率は11%を超えている。(11)

「ガスプロム」を取り戻す

プーチン大統領は国の財産から個人の財産になっていた石油とガスを政府に取り戻すことにした。第一に目標にしたのは「ガスプロム」であった。

2000年6月にチェルノムイルジンを「ガスプロム」会長から解任し、2001年5月にはチェルノムイルジンの後任者ヴィアヒレフを「ガスプロム」CEOから解任した。チェルノムイルジンとヴィアヒレフはガス工業省の大臣と第一次官以来、「ガスプロム」でも最高責任者とその次席、最高責任者が席を外すときは、その席に座るという関係であった。

この二人を追放したあとに送り込んだのが、ドミートリー・メドヴェージェフであった。この結果、2005年半ばに政府と政府所有の会社とで「ガスプロム」株の50.002%を確保した。「ガスプロム」を政府の手に取り戻した。(12)

「メディア・モスト」と「シブネフチ」、「ガスプロム」の所有に

プーチンの次の目標はマスコミであった。プーチンは2000年6月にグシンスキーを逮捕させた。理由はグシンスキーが自分の会社の金を横領したという容疑であった。

グシンスキーはNTVテレビをはじめ新聞・雑誌などを傘下にもつ「メディア・モスト」のトップであった。NTVはチェチェン問題でエリツィンとプーチンを厳しく批判していた。グシンスキーは間もなく釈放されたが、同年8月に起こった原子力潜水艦クールスク号の沈没事故問題で再びプーチンを批判した。この批判にはベレゾフスキーのORTテレビも同調した。

グシンスキーは債務不履行の理由で「メディア・モスト」を取り上げられ、国外に逃げた。

同年11月にはベレゾフスキー逮捕の噂が流れた。ベレゾフスキーは急遽、ロンドンに逃れた。ベレゾフスキーはメディア企業の他に「ロスネフチ」から分離・独立した「シブネフチ(シベリア石油)」を持っていた。

数か月後、「メディア・モスト」と「シブネフチ」は「ガスプロム」の所有となった。見事に「国有化」された。(13)

ホダルコフスキー、「メナップ」と「メナップ銀行」設立

2003年10月25日にホダルコフスキー「ユーコス」CEOが逮捕された。彼は「民営化」の申し子のような存在であった。純資産は150億ドル、ロシア一番の大金持といわれた人物である。1987年、ゴルバチョフが私企業を認めたとき、彼は学友といっしょに協同組合方式でディスコ併設のカフェを開き、「多領域科学技術向上センター」というロシア語名の頭文字をとって「メナテップ」と名付けた。「メナテップ」はコンピュターの販売なども手がけ、稼いだ金を元手に翌1988年に「メナテップ銀行」を設立した。

時あたかも、1992年、ソヴェト体制が崩壊し、エリツィンが「民営化」を促進するために、1万ルーブルの「バウチャー」を発行し、国民一人に一枚ずつ無料で配った。この「バウチャー」で一万ルーブル分相当の株が買えるのである。これまで国の財産であった工場や企業を株式会社化し、全国民を株主にしようとする政策である。

超インフレと「バウチャー」の行方

私は丁度この時期、1992年9月はじめから1993年6月末までモスクワ大学内に住み、研究していた。経済学部の先生方は学内でレストランを経営していたが、それほど流行っているようには見えなかった。私はモスクワ大学の歴史学の友人に「バウチャーを貰いましたか」と尋ねた。「貰ったけれども、どうしてよいのか分からないので、机の引出に入れてある」と答えられた。

このときは10か月間で物価が25倍にもなった超インフレ、「バウチャー」は日毎に値打ちが下がるので、その日の生活に困る人々は街角で「バウチャー」を買い集めていた若者に5000ルーブルとか、7000ルーブルで売っていた。最初は値段があって、ないようなものだった。そのうちに、今日の値段はいくらであったという記事が新聞にでるようになった。多くの市民はこうして安い値段で「バウチャー」を売ってしまったと思う。

「ユーコス」、設立から破産へ

「メナテップ銀行」は「バウチャー」を買えるだけたくさん買い込んだ。彼らは数か月で企業帝国を一つ作り上げた。彼らは政府にも金を貸し付けた。その担保として「ロスネフチ」から分離・独立した「ユーコス」の政府所有株を受け取った。「ユーコス(Yukos)」とは、「ユ(Yu)ガンスク・ネフチェガス(石油ガス)生産連合」と「ク(k)イブイシェフ・ネフチェ(石油)オ(o)ルク(有機)・シ(s)ンテース(合成)精油所」が統合したことに由来している。1993年4月に「ユーコス」は設立された。ホダルコフスキーは、この「ユーコス」株を形だけの競売入札にかけて自分のものとした。

2003年4月に「ユーコス」と「シブネフチ」は合併を決めた。世界第四位の石油メジャーが誕生するはずであった。しかし、同年10月にホダルコフスキーが逮捕されたためにこの合併はご破算になった。ホダルコフスキーは脱税、重窃盗などで禁固8年に処せられた。
2004年12月、「ユーコス」の重要な子会社「ユガンスク・ネフチェガス(石油ガス)」が売却され、「ロスネフチ」のものとなった。2006年8月に「ユーコス」は破産宣告をうけた。(14)

プーチン、成り上がり者に厳しく、エリツィン一家には甘い

プーチンのやり方は荒っぽい。とくに、グシンスキーやベレゾフスキーやホダルコフスキーのような、ソヴェト体制末期から「民営化」の波に乗って荒っぽく稼ぎまくり、一代で巨万の富を築いた「オリガルヒ」と呼ばれる「少数の成り上がり者」に対しては厳しい。何とか、かんとか理屈を付けて逮捕し、「悪者は監獄にぶち込んでおけ」と言って憚らない。このため小心者は逮捕の噂が流れただけで、慌てふためいて財産を放り出してだして外国に逃げ出してしまう。かくして彼らが一挙に手に入れたものをプーチンは一挙に取り返してしまうのである。

それは何でも、かんでもではなく、石油とガスとマスコミである。それは政治をおこない、国を運営する上で不可欠であるからである。それに誰でも、彼でも逮捕し、獄にぶち込むのではない。チェルノムイルジンのように、ソヴェト同盟共産党の中央委員で、大臣にもなったような人は重職から追放するに止め、逮捕していない。エリツィンのようにお世話になった大恩のある人に対しては、その家族を含めて、甘い。財産を没収したり、逮捕したりしないだけでなく、その財産と特権を守っている。ちゃんと、相手を見て、行動しているのである。

それでも、プーチンの行動は貧困に苦しむ庶民の中では評判がよい。一夜にして財をなし、わが世の春を謳歌している連中が、これまた、一夜にしてスッカラカンになり、奈落の底におちるのである。苦々しく思っていた者にとっては何とも爽快で、気持ちが良い。プーチンは「正義の味方」である。しかも、国の財産を取り返し、国の財政は楽にしている。一石二鳥である。プーチンは「名君」となる。

「チェチェン・イチケリア共和国」独立、「第一次チェチェン戦争」

チェチェンでは1991年11月にチェチェン出身のドゥダーエフ空軍少将を中心とするチェチェン民族会議がソヴェト同盟から離脱し、「チェチェン・イチケリア共和国」の独立を宣言した。

これは法的には問題があった。ソヴェト同盟から離脱できるのはロシア連邦共和国やウクライナ共和国などの15のソヴェト同盟加盟共和国であって、ロシア連邦共和国の一部であるチェチェンにその法的資格はなかった。しかし、当時はまだソヴェト同盟が存在していた時期であり、ロシア連邦共和国もソヴェト同盟に加入していた。政治的にはチェチェンがロシア連邦共和国から脱退し、独立するためには、一挙にソヴェト同盟からの脱退を宣言することも意味があったし、このような行為はあり得た。

これに驚いた当時のロシア連邦共和国大統領エリツィンは内務省治安維持部隊をチェチェンに派遣したが、敗北し、撤兵を余儀なくされた。チェチェンは事実上、独立状態にあった。

ロシアの国内情勢が安定化し始めた1994年12月、エリツィン大統領は再びチェチェンに軍隊を送った。今回もロシア軍は苦戦したが、何とか「チェチェン・イチケリア共和国」の首都グローズヌイを制圧、ドゥダーエフも戦死した。1996年8月に双方は休戦協定を締結、1997年5月に「ハサヴユルト和平合意」に達した。5年間の停戦と2001年にチェチェンの独立問題を再び検討することが決まった。1997年にロシア軍は完全に撤退した。「第一次チェチェン戦争」は終結した。

第二次チェチェン戦争、「反テロ特別治安体制」終了宣言

1999年8月にチェチェンの独立派がダゲスタンに進攻し、同年8〜9月にモスクワのアパートで連続爆破事件が起こった。同年9月、プーチン首相は「チェチェンにおける反テロリスト作戦」を開始した。ロシア軍をチェチェンに派遣し、「ハサヴユルト和平合意」を無効とした。「第二次チェチェン戦争」が始まった。

「第一次戦争」では地上戦で苦戦したロシア軍は最初に首都グローズヌイをはじめとする都市への絨毯爆撃を実施した。クラスター爆弾や燃料気化爆弾、弾道ミサイルを使用した。2000年にはグローズヌイを制圧し、カディロフをチェチェン共和国の大統領とした。こうした中でプーチンはロシア連邦の第二代大統領になった。

2001年には米国で9.11事件が起こった。2002年にはロシアでもチェチェンでのゲリラ戦に加えて各地でテロ事件が頻発した。「テロとの戦いの時代」であった。

2003年から2006年にかけて「チェチェン・イチケリア共和国」の第二代・第三代・第四代大統領が殺害された。2005年11月にはチェチェン共和国議会選挙が実施された。プーチンはこれを「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」とした。

2007年には「チェチェン・イチケリア共和国」の第五代大統領ウマロフが北カフカスでのイスラム国家の建設をめざす「カフカス首長国」の建国を宣言した。

2009年5月、プーチンは「反テロ特別治安体制」の終了を宣言した。

2010年にモスクワ地下鉄爆破事件、2011年にドモジェドヴォ空港爆破事件と事件は続いている。(15)

ソルジェニーツィンとロイ・メドヴェージェフの意見

チェチェン問題については、ソヴェト時代の反体制派の中でも意見が分かれていた。作家のソルジェニーツィンはチェチェン戦争が始まった1991年に賢明な解決策としてチェチェンの独立を、間髪を入れずに承認し、チェチェンをロシア本体から切り離して独立国家というものを味あわせてやればよいと述べていた。(16)

これに対して、歴史家のロイ・メドヴェージェフはプーチンを支持しており、チェチェンの独立に反対している。

その論拠の第一は、チェチェン人は強い、勇敢な、戦闘的な北カフカスのナロードノスチ(亜民族)であるが、まだ、現代的なナーツィア(民族)としては形成されていない。人口は1995年に60万人ほどであり、多くない。

第二は、ロシア連邦から除外されたチェチェン、もしくは、離脱したチェチェンは、力も、地政学的条件も、経済的・文化的可能性も、歴史的経験と伝統も、有しないであろう。この歴史的経験と伝統は、独立した、国家的(ましてや<無国家的>)存在のためには不可欠である。幾つもの古い文化と宗教が絡み合っているカフカスのような特別な地域ではとくに必要である。(17)

私はどちらかと言えば、ソルジェニーツィンの意見に賛成である。独立には良い面と悪い面がある。不便を痛感したときに考え直せば良い。実践ほど偉大な教師はいない。ロイ・メドヴェージェフの考え方は旧来の植民地主義者の主張と同じである。抑圧されている人は誇り高い人である。人間の自尊心を傷つけてはならない。

チェチェンでは2000年までに10万トン以上の石油が採掘されていた。幹線パイプラインも復興し、精油所も再開していた。(18)

石油を重視するプーチンはこれを捨てたくはなかったであろう。プーチンのやり方を見ていると、やはり、こういう人しかロシア大統領にはなれないのかと思う。プーチンも、ロイ・メドヴェージェフも、ロシア人である。大ロシア人である。

(続く)

ーーーーー
5 連邦国家統計局編『ロシア統計年鑑 2008年』連邦国家統計局、モスクワ、2008年(ロシア語)、32ページ。
6 同上書、389ページ。
7 田畑伸一郎「ロシア経済:油価高騰による高成長の終焉」『国際問題』2009年4月 No.580,日本国際問題研究所、26−27ページ参照。
8 V.I.イヴキン『ソヴェト同盟の国家権力――最高権力機関・部とその指導者 1923−1991年:歴史伝記便覧』ロシア政治百科事典社、モスクワ、1999年(ロシア語)、42−43,67−70ページ参照。
9 http://www.gazprom.ru/about/2011/06/24
10 Marshall I.Goldman, Petrostate: Putin, Power, and the New Russia, London:Oxford University Press, 2008:マーシャル・I・ゴールドマン、鈴木博信訳『石油国家:知られざる資源強国の歴史と今後』日本経済新聞出版社、2010年、160ページ。
11 http://www.rosneft.ru/about/history/2011/06/24参照。
12 前掲、マーシャル・I・ゴールドマン、鈴木博信訳『石油国家:知られざる資源強国の歴史と今後』133−134,160−162ページ参照。
13 同上訳書、163−166ページ参照。
14 同上訳書、169−194ページ参照。
15 http://tanakanews.com/a0121russia.htm田中宇「チェチェン戦争が育んだプーチンの権力」(2000年1月2日)2011/07/01;http://chechennews.org/basic/whatis.htm大富亮「チェチェン紛争とは何か?」(2005.11.30);http://ja.wikipedia.org/wiki/「チェチェン共和国」、「第一次チェチェン紛争」、「第二次チェチェン紛争」2011/07/01。
16 前掲、中西治『現代人間国際関係史』、471―472ページ参照。
17 前掲、ロイ・メドヴェージェフ『ウラジーミル・プーチン』143,161ページ参照。
18 同上、161ページ。

2011年7月13日

プーチンとは何者か : プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治 (0時00分)

労働者夫婦の家庭に生まれ、洗礼をうける

プーチンは1952年10月7日にレニングラード市の労働者夫婦の家庭に生まれた。夫婦は1941年6月に独ソ戦争が始まる前に二人の男の子を授かっていたが、二人とも幼くして亡くなっていた。夫婦はともに17歳で結婚し、40歳を過ぎて久しぶりに授かった子に父と同じ「ウラジーミル(愛称ワロージャ)」という名を付けた。

父は車両工場の組立工で、仕事熱心な、真面目で、言葉少なく、ときには厳しい性格の共産党員であり、職場の党組織の書記をしていた。

母は近所の工場で雑役婦をしており、心優しい、言われたことをよく聞く、従順な、おとなしい女性であった。それでも、ワロージャが生まれると、夫に内緒で近所のおばあさんと一緒に赤ん坊を教会に連れて行き、洗礼を受けさせるような意志の強い女性でもあった。

「不良少年(フリガーン)」から「模範少年」に

母はワロージャをいつも身近に置いて育てたいために夫の工場が割り当ててくれた共同住宅の中庭の掃除婦になった。一家はその共同住宅のエレベーターのない5階に住んでいた。ワロージャは保育所や幼稚園に入らず、いつも母親の目の届く中庭で育った。学校には一時間目はいつも遅刻する、喧嘩早い性格の「不良(フリガーン)」であった。

小学校4年生のときにドイツ語のサークルに入った。語学習得の才覚をもった、物覚えのよい利口な子でもあった。

10-11歳でスポーツを始めた。中庭で一番であり続けるために、ボクシングを習い始めたが、鼻の骨を折ってすぐに止めた。ついで、近所のスポーツ・クラブに通い、レスリングと柔道を合わせたようなサンボを始めた。ここで彼の人生を変えるような優れた指導者に巡り会った。この指導者がクラブの全員をサンボから柔道に転向させた。柔道は哲学であった。

それまでワロージャに大きな影響を与えてきたのは、母と中庭と学校であった。とくに「中庭」であった。彼はこの「中庭」を卒業した。「ピオネール(パイオニア=先駆者、少年共産団員)」に推薦された。文武ともに優れた「模範少年」になった。

KGBを志願、レニングラード大学法学部をめざす

ワロージャは「飛行機乗り」か、「船乗り」か、「スパイ」になりたかった。読み漁っていたスパイ小説やスパイ映画の影響をうけて「スパイは一人で数千人の人間の運命を決めることができる」と考えた。

彼は9年生の初め、16歳の時に大きな建物の国家保安委員会(KGB)レニングラード本部へ行き、ここで働きたいと申し出た。出てきた男の人が、ここは希望して入るところではない。自己希望者は採らない。軍隊か、大学・高専などの高等教育機関の卒業者を迎える、と語った。「どこの大学か」と尋ねた。「どこでもよい」。「どのような学部が有利か」、「法学」。ワロージャはレニングラード大学法学部に入ることを決めた。

これは一見、若者の突飛な思いつきのようにみえるが、彼の祖父と父のことを知ると、決してそのようなものでないことが分かる。

祖父はレーニンとスターリンの料理人

祖父はコックであり、1917年の十月革命が成功し、ソヴェト政権が発足したあと、レーニン一家の料理人を勤めた。当時、レーニンは新政権の首相。レーニンの命を狙う反革命派がたくさんいた時代、祖父はおそらくレーニン支持のボリシェヴィキ(多数派)であったであろう。そうでなければ、レーニン一家が口に入れるものを作らせてはもらえなかったであろう。

祖父はレーニンが1924年に亡くなったあと、スターリンの別荘の一つに移り、長い間働いた。1953年にスターリンが亡くなったあとも、祖父はイリインスコエにあったモスクワ市共産党委員会の保養所で料理を作っていた。幼いワロージャ少年はよく祖父を訪ねてイリインスコエに行っている。

父母はレニングラードで死地をさまよう

父は1911年にサンクトペテルブルグで生まれたが、1914年に第一次大戦が始まり、食べるものが無かったのでトヴェリ州のポミノヴォ村に移り住んだ。そこで一人の女性と知り合い、結婚した。ともに17歳であった。

1932年、父母が21歳のときに、二人はレニングラードに出てきた。郊外のペトロゴーフ(後のペトロドゥヴァレーツ)に住んだ。母は近くの工場で働いた。父はすぐに軍隊に入り、潜水艦隊に勤務した。除隊後、年子(としご)で二人の男の子が生まれたが、そのうち一人は数か月で亡くなった。

1941年にヒトラーのドイツ軍がソヴェトに進攻してくると、父は志願して軍隊に入り、レニングラードの防衛に従事し、幾度も死地をくぐり抜けた。母はドイツ軍に包囲されたレニングラードで食料不足によりひもじい生活を強いられ、餓死寸前までいった。もう一人の男の子はジフテリアで死亡した。父母の肉親にも多くの死者が出た。父母はレニングラードで死地をさまよった。(2)

祖父も父も共産党員で、自分もスポーツも、勉強もでき、ピオネールにもなったワロ-ジャが9年生の初めにKGBをめざしたことは不思議ではない。

KGBは「正義の味方」、「勇敢な愛国者」

日本ではKGBは大変評判が悪いが、ソヴェトでは「体制の擁護者」であり、「正義の味方」である。彼らは外国語を身につけ、外国に行けるエリートである。それでは保守主義者のエリート集団かというと必ずしもそうではない。

第一に、彼らは民衆の不満を誰よりもよく知っている。それを知り、対策を立てるのが仕事である。第二に、外国の実情をよく知っている。とくに、科学技術の水準においてソヴェトが外国にどれだけ遅れているのかをよく知っている。彼らは体制の擁護者であると同時に体制の改革者でもある。

ソヴェト時代、1983年にモスクワ大学のなかで映画を見たことがある。1917年の革命直後の内戦を描いたものであった。スクリーンにKGBの前身である「非常委員会(ChK=チェカ)」の職員(チェキスト)が出てきたとき観客の学生が拍手するのを聞いた。KGBの職員も「チェキスト」といわれるが、「チェキスト」は「正義の味方」であり、「勇敢な愛国者」である。

KGB職員からペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)へ

1975年、プーチンは国立レニングラード大学法学部国際学科を卒業すると、大学の派遣によりKGB職員となった。一連の研修を受けていた1983年7月28日に結婚し、長女に恵まれた。1985年にドイツ民主共和国(東ドイツ)のドレスデンに赴任し、ソヴェト・ドイツ友好会館の館長になった。ここで次女を得た。

1990年に帰国し、KGB職員の身分のまま、母校レニングラード大学学長の国際問題補佐となり、続いて、レニングラード市ソヴェト議長参事官となった。1991年6月28日にサプチャクがサンクトペテルブルグ市長に当選すると、同市の対外交流委員会議長になった。

1991年末にソヴェト同盟共産党とソヴェト同盟がなくなると、翌1992年にKGBでは中佐として「現役」を終え、「予備役」となり、「予備役大佐」となった。ソヴェト同盟共産党からは脱党せず、党員証はいまもプーチンの手元に残っている。1994年3月にペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)となった。

モスクワへ、首相に、父の臨終に立ち会う

1996年8月、サプチャクが市長選挙で敗北したあと、プーチンは活動の場をモスクワに移し、ロシア連邦大統領総務部長パーヴェル・ボロジーンの副部長になった。

1997年には国立サンクトペテルブルグ鉱山大学から経済関係の論文で博士候補(修士)の学位を授与された。同年3月26日にはロシア連邦大統領府次官兼ロシア連邦大統領監督総局長になった。

1998年5月25日にはロシア連邦大統領府第一次官、同年7月25日には古巣のKGBが改組されたロシア連邦の連邦保安局(FSB)長官に任命された。

1999年3月29日にロシア連邦安全保障会議書記になり、同年8月9日にロシア連邦政府議長(首相)臨時代理に任命された。同日、エリツィンはテレビ演説でプーチンを大統領の後継者に指名した。8月16日にプーチンは正式に首相になった。

プーチンが首相になった数日後にプーチンの父はペテルブルグで亡くなった。プーチンは忙しい中、毎週週末にはモスクワからペテルブルグに戻り、父を見舞い、臨終に立ち会うことができた。父は自分の名、ウラジーミルをプーチンに付けたが、それはレーニンの名でもあった。「ウラジーミル」とは「ウラジー(支配せよ)ミール(世界を)」という意味である。首相となり、エリツィンの後継者として大統領になる息子を見て、父はきっと満足してこの世を去ったことであろう。プーチンは親孝行な子供である。

大統領から再び首相に

1999年12月31日にエリツィンが大統領を辞任したあと、プーチンは大統領代理になり、エリツィンから「核の小ケース」を含む大統領権力の象徴を受け取った。2000年3月26日、プーチンはロシア連邦大統領に当選し、5月7日に正式に就任した。

2004年3月14日、プーチンは二期目の大統領に当選、5月7日に正式に就任、2008年5月7日に任期満了とともに大統領を辞任し、ドミートリー・メドヴェージェフと交代、同日、新大統領により首相に指名され、翌8日、正式に首相になった。メドヴェージェフ・プーチンの「タンデム(双頭)」体制が発足した。(3)

プーチンはなぜ大統領になれたのか

第一は、エリツィンがプーチンを見込んだからである。時代は大変動のあとの安定と秩序を求めた。KGB育ちのプーチンは時代が求める指導者であった。時が味方した。

第二は、プーチンの機敏で「果敢な」行動である。プーチンは一連のテロ事件をフルに利用し、チェチェンに対する戦争を積極的に推進した。「必要な人が必要な時、必要な場所に現れた。」

第三は、プーチンの政治的現実主義である。プーチンはロシア共産党の現実の力を認め、これと妥協した。同時に、大統領選挙での野党の統一候補擁立を阻止した。プーチンはしたたかな政治家である。

第四は、国民経済の一定の回復と国民生活の「奇妙な安定」である。1998年の金融危機は輸入を減らし、国内生産を増やすことになった。生活は低い水準ではあるが、安定し始めた。なんとなく先に希望が持てるようになった。プーチンは運の強い人である。(4)

ーーーーー
2) プーチンの生い立ちは、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』VAGRIUS、モスクワ、2000年(ロシア語):高橋則明訳『プーチン、自らを語る』扶桑社、2000年、参照。

3) ロイ・メドヴェージェフ『ウラジーミル・プーチン』若き親衛隊社、モスクワ、2007年(ロシア語)、682-683ページ;前掲、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』132ページ:高橋則明訳『プーチン、自らを語る』176ページ。

4) 前掲、中西治『現代人間国際関係史』、466ページ参照。

2011年7月12日

2011年タイ総選挙を読む

高橋 勝幸 (21時32分)

2011年7月3日のタイ下院議員選挙では、初の女性首相誕生に期待をさせたタイ貢献党に圧勝・政権交代の風が吹いた。

初の女性首相になるか
タクシンの実妹インラック・チナワット
敗北を認めたアピシット

まず今回の選挙結果を見てみよう。投票者は35,203,107人、投票率は75.0%であった。前回2007 年選挙では投票者は33百万人ほど、投票率74.5%であったので、投票者は241 万人ほど増えたが、投票率はほぼ同じである。クーデタ及び現行憲法公布後初めて行なわれた前回選挙と同じく、今回も関心が高かったことを示している。下院の定数は500人、今回と前回の選挙結果を比較すると、タイ貢献党(タクシン派)は233(前身の「市民の力党」[注1]の議席)から265(53%: 括弧内の数値は全当選者中に占める割合。以下、同様) と32議席増やし、民主党は164から159 (32%) と5議席減らしている。比例代表の得票数はタイ貢献党が15,744,190票、得票率は44.7%、民主党は11,433,762票、32.5%である。

投票所風景 開票風景

プームチャイタイ党(市民の力党と中道主義党[注2]から移籍。民主党連立政権参加)は現職32から34 (6.8%)と2議席増やした。70の目標を掲げながらも、タイ貢献党の風を考慮すれば、善戦したといえよう。タイ国民発展党(タイ国民党[注3]と中道主義党から移籍。民主党連立政権参加)は25から19 (3.2%) と6議席減り、チャートパッタナープアペンディン党(ルアムチャイタイチャートパッタナー党とプアペンディン党が合併。民主党連立政権参加)は9から 7 (1.4%) と2議席減り、その他6政党が16議席を分けた。棄権票[注4]は2.9%から2.7%に減っているので、首相府周辺を占拠して黄シャツ(PAD, 反タクシン、反民主党の「民主市民連合」)が棄権票を推進した運動は失敗したといえる。

黄シャツの棄権票推進デモ 棄権票宣伝ポスター

小選挙区選挙は常識的には大政党が有利である。この選挙直前に憲法を改正する法律を制定し、下院議席を480から500に20増やし、比例代表を80から125に45増やし、小選挙区を400から375に25減らした[注5]。今回の選挙では民主党は政権党であったにもかかわらずほぼ現状維持と言ってよく、タイ貢献党は圧勝に見えるが、2005年選挙(377議席)と比較すると勝ちすぎてもいない。

過渡期のタイ選挙の経緯

次に2001年1月6日、2005年2月6日、2006年4月2日(無効選挙)、2007年12月23日の総選挙を比較しよう。

1997年憲法下初の2001年選挙は、小選挙区比例代表制の導入により、2大政党制の素地を作った。政党政治を強化し、内閣とりわけ首相に大きな権力を与えることになった。これにタクシンの個性が相まって、政権党民主党を破ってタイ愛国党(248議席)による一党支配が実現した。

史上初めての任期満了に伴う2005年2月6日の国会議員選挙では、民主党は選挙区で70人、比例で26人、計96人 (19%) の議員を獲得したにすぎず、タイ愛国党の選挙区310人、比例67人、計377人 (75%) を大きく下回った。民主党は相変わらず第2党で、タイ愛国党が圧倒的多数派で政権を維持した。民主党は敗北を受けて、アピシットが党首に就任することになった。

2005年11月、ソンティ・リムトーンクンが反タクシン運動を開始した。有識者からも、その独裁者的性格、言論統制、麻薬取り締まりの荒さ、南タイ問題による死傷者急増など批判が広がっていた。土地と株の取引をめぐって権力の濫用を弾劾し、2006年2月、タクシン退陣要求の声が高まった。民主市民連合(黄シャツ運動に発展)が結成され、街頭デモが続いた。タクシンはデモへの対応として、満を持して国民に信を問うことを決心し、2月24日国会を解散した。

2006年4月2日に総選挙が行なわれたが、憲法裁が無効にした。タイ愛国党は1,600万票、460議席を獲得した。棄権票は980万票で、40議席が空席のままだった。勝ち目のない民主党、タイ国民党、マハーチョン党の野党3党が選挙をボイコットしたからである。国王が「一党、一人のリーダーの選出では民主選挙とは言えない」と司法に介入し、憲法裁の判断となった。その理由は、民主党らの主張と同じく、国会解散から選挙までの期間が短く、小政党に不利というものだった。6月9日には国王即位60周年式典が控えていた。その後、選挙やり直しが模索された。

ところが、タクシンが国連総会に参加している最中、2006年9月19日、軍事クーデタが決行された。タクシン首相がその座を追われ、枢密院議員スラユット・チュラーノン陸軍大将を首班とする暫定政権が発足した。2007年憲法制定(18番目の憲法、8月24日発効)を経て、総選挙が行なわれることになった。

現行憲法下で最初の2007 年12月23日総選挙では、タイ愛国党の後身でタイ貢献党の前身である「市民の力党」は小選挙区199人、比例区34人、計233人(480議席中49%)で、民主党は小選挙区131人、比例区33人、計164人(34%) の国会議員を獲得した。市民の力党党首サマックが首相となったが、料理番組出演料を受領して失職した。続く、ソムチャーイ首相も黄シャツに首相府、空港を占拠され、挙句の果て、2008年12月2日(国王誕生日5日の直前)に憲法裁によって2007年選挙違反で市民の力党が解党処分を受けた。そこで、民主党は第2党であったが、枢密院と軍部をバックにして連立政権を樹立した。これに加わったタイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[注6]。

主党は農民、下層民の支持を取り付けるため、市民の力党政権のポピュリズム政策を継続、強化した。しかし、第2党であり、直接に選挙を経ずに軍部の支援で誕生した政権には、国会を解散し、選挙を実施して国民の信を問うべきとの声が高まった。とりわけクーデタに反対する赤シャツ(多くがタクシン支持)である。しかし、民主党はそれをせず、体制と軍部に頼って、政権と体制の維持に腐心してきた。信を国民に問うという方法もあったが、選挙を行なっても、タクシン派に負けることは確実だったので、解散もできず、政権に食らいついてきた。その結果が今回の下院議員選である。

任期が残すところ短くなり、赤シャツの要求も高まっていたので、アピシット首相もついに2011年3月11日、5月上旬に国会解散の見通しを明らかにした。そして5月9日に国会を解散し、5 月24日に候補者を受け付け、7月3日選挙の運びとなった。下院議院は任期をあと6か月弱残していた。選挙を半年ほど早めたからといって、主導的に解散権を行使したことにはならない。中西治氏が麻生政権の崩壊時に指摘しているのと同様に、まさに「追い込まれ解散」、「野垂れ死に解散」である[注7]。

タイの政治は21世紀に入ってから重大な変わり目に突入している。2001年の総選挙のときにタイ貢献党の前身であるタイ愛国党は比例代表で1,163万票、248議席を獲得した。それが2005年1,899万票をピークに、2007年には1,234万票、今回1,575万票である。これに対して民主党は2001年に761万票、2005年721万票、2007年に1,215万票、今回は1,140万票である。この10年間に民主党は761万政党から1,140万政党になった。タイ貢献党は1,163万政党から1,575万政党になり、政権党に返り咲いた。2大政党制への趨勢といえるかもしれない。

まとめ

民主党はクーデタ、市民の力党の憲法裁による不可思議な解党処分を経て、体制・軍部を背景に連立政権を樹立し、タクシン派のポピュリスト政策を引き続き実施した。国会解散要求などの反政府運動を激化させ、それを武力制圧し、国内対立を先鋭化させた。反政府運動参加者の殺りく、バンコク中心街及び県庁焼き討ち、政治犯容疑者に対する人権無視の拘留は、復讐心すら巻き起こし、政治不信を刻みつけた。国内対立を反映する社会になり、政情不安がみなぎった。南タイ問題、麻薬問題も深刻である。国民生活については物価高騰、失業問題が家計を逼迫させている。外交ではプレアビヒア寺院をめぐってカンボジア関係が著しく悪化した。世界遺産委員会からの脱退はタイの国際イメージを傷つけた。

燃えるウボン県庁 県庁焼き討ち容疑者

今回、タイ貢献党が勝利し、民主党が敗北を喫したとも言えるが、実のところ、民主党の議員数はさして変化はない。つまり、233議席の第1党に対して164議席の第2党である民主党がこれまで政権を担当していたのが異常なのである。170議席を下回れば辞任すると豪語していたアピシット首相は7月4日、党首を辞任した。下限が170とは政権党としてそもそも弱気といわざるをえない。与党はタイ貢献党がタイ国民発展党、チャートパッタナープアペンディン党、パランチョン党、マハーチョン党を加えて299議席に達し、安定政権の条件が整った。

タイの政治はこれからどのようになるだろうか。いくつかのシナリオが考えられる。第一は最悪のパターンである。アマート(貴族高官)や軍部がタイ貢献党連立政権を認めず、クーデタが起こる。任命による政府、国会が成立する。黄シャツが望んでいる形だ。そうなれば、赤シャツは再び勢いを増し、引き続き混乱が続くだろう。もし、この状況で軍部がクーデタを起こすとすれば、今回の選挙結果が現体制に対する主権者の厳しい批判であることが分かっていないことになる。

第二はタイ貢献党がアマートや軍部と取引し妥協する。これには様々なバリエーションがありうる。選挙で大勝したタイ貢献党はそう簡単には妥協に応じないだろうが、対立から国民和解をめざして、タクシンの処遇を含む政治事件の対応をどうするかのか注目される。赤シャツが強く求める百人近いデモ制圧犠牲者に対する責任追及は既成秩序に及ぶだけに最大の争点である。赤シャツは「恩赦」を認めず、正義(無罪)を主張している。その犠牲者と家族は事実究明と処罰を求めており、補償だけでは済まされない。また、赤シャツの射殺を命じた者が明らかになり、タイ貢献党の妥協の上で恩赦を与えられれば、赤シャツの反発は避けられない。

第三はタイ貢献党が主導的に国民和解を進めることである。政治事件、不敬罪についても進展が見られよう。タイ貢献党を勝たせた赤シャツの政治犯容疑者が無罪放免される。ただし、タクシンに恩赦を与えることに成功すれば、黄シャツなど反政府運動を勢いづかせる。アマートや軍が動き出すことは間違いない。

第四はタイ貢献党が公約を実行できず、政治犯容疑者を見捨て、赤シャツとの対立を深めることである。国民からも信を問われることになる。民主党と同じ轍を踏むことになろう。タイ貢献党、赤シャツのそれぞれ内部でも対立・抗争が発展する。

タクシン政権を経て、タイの国民、とりわけ農村や下層の人々は「政治が変われば、社会が変わる」ことを実感した。かれらの政治参加はタイの政界の再編成をもたらすだろう。産みの苦しみはまだ続く。揺れ動くタイの政治も21世紀システムへと向かいつつある。今回の下院選挙はその軌道修正といえるかもしれない。

1 2006年の無効選挙で違反があったとして2007年5月解党処分となったタイ愛国党を引き継いだが、2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。タイ貢献党が引き継いだ。
2 2007年10月創設。タイ愛国党の受け皿になった政党の一つ。2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により、プームチャイタイ党に引き継がれた。
3  2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。
4  投票用紙に、誰にも、どこにも「投票することを望まない」という欄がある。
5 この常識は『タイラット』2011年7月7日号のコラムでも確認できる。選挙区0で比例代表で4議席を獲得したラックプラテートタイ党はその典型である。しかし、政党よりも人物本位で選ぶ傾向が未だ強いタイでは小選挙区が中小政党にも有利であるともいわれる。それはこの法律立案過程を見れば明らかである。今回の選挙ではチョンブリー県のパランチョン党(ガムナン・ポ一族)、スパンブリー県のバンハーン・シンラパアーチャー一族が挙げられる。
6  http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス
7  中西治「日本の政治情勢について」2009年7月13日 [2011年7月5日アクセス]。選挙分析は中西氏の手法に倣った。ここに恩師に感謝申し上げたい。また、チェンマイ大学歴史学科の水上祐二氏にも貴重なコメントをいただいた。彼は『時事速報』(7月6日号)で選挙後のシナリオを的確に分析している。

(2011年7月7日脱稿)

2011年7月11日

グローバルアカデミー(GA)シンポジウム報告

岩木 秀樹 (22時32分)

2011 年 7 月 10 日 (日) 午後 4:30 から 7:00 まで、かながわ県民センター 604 号室で、統一テーマを「今、原発問題を考える」として、グローバルアカデミー(GA) シンポジウムが開催されました。会場には 13 名の方、ネット参加でも多数の方が参加されました。

まず、片山博文さん (桜美林大学准教授) より「リスク社会における原発の経済分析 ―原子力損害賠償制度を中心に―」とのテーマで報告がありました。環境経済学の観点から、原子力開発の歴史に触れ、米国と日本における原子力損害賠償制度の問題を述べ、原発のリスクは市場においても国家においても吸収しきれないことを考察されました。

次に、竹本恵美さん (創価大学非常勤講師) より「原子力ヒバク問題をめぐる科学の限界と社会的判断」とのテーマで報告がありました。原子力ヒバクの歴史や人体に与える影響を述べ、現在のヒバクの認定基準の甘さを指摘され、その基準は人命を守るものではなく、原発を推進するものであると主張されました。

2 人の報告の後、林亮さん (創価大学教授) より、コメントがあり、現在の問題の根底には、米国、核兵器保有国、原発保有国、原発も持たせてもらえない国といった国際的な核秩序ヒエラルキーがあり、核兵器も原発も表裏の関係であることを指摘しました。

その後、ネット参加者も含めて大いに議論が盛り上がり、原発がないと経済は回らないのか。今後、原発をどうすべきか。国家犯罪として裁判をすべきだ。原発がなくなっても数十年は収束のために雇用は確保される。原発推進のために、無理やり電気を消費させてきた。原発推進が自己目的化しており、政・官・財・学・マスコミが癒着している、などの問題が議論されました。

地球宇宙平和研究所としても、原発、核の問題は重大なテーマであり、今後の平和社会を創る上で、大きな障害になりうるので、さらに議論を継続していきたいと考えています。

2011年7月8日

宙(そら)読む月日 (5) 国際ビッグ・ヒストリー学会誕生

のぶおパレットつじむら (19時44分)

イタリア・コルディジョーコ
イタリア・コルディジョーコ (写真提供:ジナ・ジャンドメニコさん)

国際ビッグ・ヒストリー学会 International Big History Association: IBHA (*12) は宇宙、地球、生命、人間の歴史の統一的・学際的な研究・教育を推進するためにあります。IBHAは2010年8月20日、イタリアのコルディジョーコ地質観測所 Osservatorio Geologico di Coldigioco (*13) で設立されました。

きっかけは、地質学者のウォルター・アルヴァレス Walter Alvarez さんが、地質学のビッグ・ヒストリー的アプローチについての理解を深めてもらおうと、何人かのビッグ・ヒストリアン(ビッグ・ヒストリーの研究者・綴り手)をこの観測所に招いたことでした。多くのビッグ・ヒストリアンが、かなり以前から学会のような団体をつくろうと思索を重ねてきました。そこに、幾人ものビッグ・ヒストリアンが一堂に会したのです。学会を始めることを正式に決定するには絶好の機会でした。

クリスチャン、スピール、アルヴァレス、クレイグ・ベンジャミン Craig Benjamin、シンシア・ブラウン Cynthia Brown、ロウエル・ガスタフソン Lowell Gustafson、バリー・ロドリーグ Barry Rodrigueは、その場で臨時執行委員会を結成し、大要以下のことが決定されました。

1) 国際的なビッグ・ヒストリーの学会を創設すること。
2) 国際的なビッグ・ヒストリーの雑誌を、電子版・紙版の両方で創刊すること。誌名は独創的なものが最善であろうこと。
アルヴァレスがカリフォルニア大学から出版できないか探ること。
3) 国際的なビッグ・ヒストリーのウェブサイトを創設すること。
サイトには活発な議論のための掲示板、ビッグ・ヒストリーの電子ライブラリー(図書館)またはアーカイヴズ(文書館)を盛り込むこと。
4) 第1回の国際的なビッグ・ヒストリーのカンファレンス(学術会議)を開催すること。(*14)
開催地はグランドヴァリー州立大学 Grand Valley State University (米国ミシガン州)にすること。
開催日は7月下旬か8月上旬が教師や他の教育者にとって参加しやすいであろうこと。
これより先は、ベンジャミンが準備に当たること。

IBHAは設立に当たり、マイクロソフト・エクスターナル・リサーチ Microsoft External Research (マイクロソフト社の外郭研究機関マイクロソフト・リサーチ Microsoft Research の一部門)から資金援助を受けました。去る2011年4月5日には、米国ミシガン州の非営利活動法人として正式に認可されました。本格的な船出です。

IBHAは発足時の決定どおり、自身初の国際カンファレンスを、2012年8月3日-5日、グランドヴァリー州立大学で開催します。大会テーマは「ビッグ・ヒストリーの教育と研究:新たな学問的領域を探る」です。このカンファレンスには僕も出席し、ペーパー(論文)を披露する予定です。

注記
(*12) 国際ビッグ・ヒストリー学会 International Big History Association: IBHA
ウェブサイト  http://www.ibhanet.org/
ブログ http://ibhanet.blogspot.com/
ユーチューブ広報動画(12分36秒) http://www.youtube.com/user/IBHAnet
ツイッター http://twitter.com/IBHAnet
フェイスブック http://www.facebook.com/pages/International-Big-History-Association/129585663779705

IBHA設立の経緯について、ウェブサイトだけではわからない点は、スピール夫妻、とりわけジナ・ジャンドメニコ Gina Giandomenico さんから教えて頂いた。記して感謝申し上げる。

(*13) コルディジョーコ地質観測所 Osservatorio Geologico di Coldigioco http://www3.geosc.psu.edu/~dmb53/OGC/index.html
アルヴァレスの教え子の地質学者アレッサンドロ・モンタナーリ Alessandro Montanari が所長を務め、妻でアーティストのパウラ・マウテッロ Paula Martello と運営している。

(*14) ビッグ・ヒストリーの国際カンファレンス自体は、これまでも開催されている。詳しくはスピールのウェブサイトのこれまでのカンファレンスをまとめたページを参照。
http://www.iis-communities.nl/portal/site/bighistory/page/f4605854-ef1e-4d45-00ce-0b1442c2a8a0

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