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2005年6月11日

愛知万博にて

その他 (19時45分)

投稿者:長谷川薫

つい先日、現在開催中の「愛・地球博」を訪れました。夫の勤務先が愛知万博にパビリオンを出しており、彼もその担当になっているとの事情もあって今 回で既に2度目です。開会直後は一日4万人くらいの人出だったのが、今回は16万人ほどと連日大盛況の模様。緑豊かな敷地は結構広く感じられたものの約 173haで、1970年の大阪万博の半分ほどの広さとのこと。日本で過去4回開催された万博のうち、大阪万博について、当時4歳の私の記憶にあるのは、 祖父の家にあった記念硬貨と「太陽の塔」の写真。一方、夫は修学旅行や家族旅行で訪れており、数々の思い出があるようです。ちなみに、ファーストフード店 に必ずあるシェークはこの時初めて飲み、痛く感激したとのこと。

今回の万博は「自然の叡智(Nature’s Wisdom)」をテーマに掲げ、(1)宇宙、生命と情報(Nature’s Matrix)(2)人生の”わざ”と知恵(Art of Life)(3)循環型社会(Development for Eco-Communities)がサブテーマとなっています。観覧できたパビリオンはごく一部ですが、その中から感じたことをいくつか綴ろうと思いま す。

まず、今回の目玉ともいえる「冷凍マンモス」ですが、同行の姑(72歳)曰く「何かふかふかしてるみたい」。頭部だけとはいえ、保存状態が抜群によく肉 感的なので、1万5000年前という時間がピンとこないほどです。永久凍土という地球の冷凍庫にあらためて感嘆させられます。また、「冷凍マンモス」に続 く手前のフロアには「月の石」も展示されていましたが格別注目を浴びることもなく、この石を見るために大勢の人々が殺到したのかと思うと、隔世の感がしま す。

テレビでも紹介されることの多い「トヨタ館」では、最新型のロボットたちが登場します。楽器を自在に操るロボットは、意外に愛らしく、将来ペット(家 族?)として普及するのかもしれません。そのときは、ロボットへの虐待や飼育(?)放棄などのない世界であってほしいと願うばかりです。ハンドル操作のい らない一人乗りの車など、先の「月の石」同様、数十年後にはありきたりのものになっているのでしょうか。

日本政府主催の「日本館」は、竹やエコ素材を駆使したパビリオンの中で、古き日本と最新技術の双方を魅せるよう趣向がこらされていました。主催国らしく、万博テーマをすべて押さえた内容かと思えます。

各国のパビリオンは、それぞれに興味深いものがあります。中には現地の観光案内所かと思えるようなものもありますが、自国の文化や伝統と現在を違和感なく調和させている展示も少なくありません。いずれの展示にしろ、その国を知る第一歩にはなります。

駆け足で会場をまわるうちに、いわゆる”かけがえのない地球”という言葉がより身近に感じられ、と同時に、常に発展し続けてきた技術革新について 考えさせられた一日でした。今日、技術革新の中に地球との共存という項目は必須です。「人にやさしい」から「地球にやさしい」という観点へ、またそこから 一歩進んで「宇宙にやさしい」まで突き詰めていくと、おのずと「生命の尊厳性」が見えてくるのではないでしょうか。「自然の叡智」ならぬ「人間の叡智」が 求められている時代だとあらためて確信した次第です。

「中東イスラーム」研究部会 研究会

事務局 (11時57分)

  • 日時: 6月11日(土)午後3時から研究会 午後5時から懇親会
  • 場所: 岩木宅
  • 発表者: 岩木 秀樹
  • テーマ: 中東イスラームから見た世界の現状と将来
    −なぜこうなったのか?どうすればいいのか?− (仮題)
  • 参加費: 500円

2005年6月10日

「キングダム・オブ・ヘブン」を観て

玉井 秀樹 (19時51分)

ハリウッドではここのところいわゆる歴史大作が発表されていますが、リドリー・スコット監督が十字軍の時代のエルサレムを描いた「キングダム・オブ・ヘブン」に興趣をそそられ、先日、久しぶりに劇場で映画を観てきました。先の大作「グラディエイター」の成功によって、いまやハリウッドの巨匠の一人 となったリドリー・スコットが、十字軍をどう評価するのかに大きな関心がありました。

映画の冒頭では、オーランド・ブルーム扮する主人公・バリアンは、閉塞感漂うフランスの寒村に暮らしており、子を亡くし、さらに亡くした子を追っ て妻が自殺をするという悲劇の中にいることが描かれます。村の聖職者は彼の悲しみに追い打ちをかけるように、教会が許していない「自殺」をはかった妻は地 獄に堕ちると言い募ります。妻の魂の救済を求め悩む、彼の目にとまったのはその坊主の首にかかる小さな十字架でした。それは愛する妻の首に掛かっていたも のでした。つまり、自殺の罪を言い募るその坊主は墓泥棒であったのです。それを知ったバリアンは怒り心頭に発し、彼を殺してしまいます。

この時、実はエルサレム王国に仕える十字軍の騎士・ゴットフリーが、バリアンに対して実の親子の名乗りをあげエルサレムへの同行を求めていたので すが、バリアンはこれを拒否していたのでした。しかし、自らも聖職者殺しの「罪人」となった彼は、父の後を追いエルサレムへ向かうことになります。

父・ゴットフリーは、バリアンの追手に彼の引き渡しを拒否したため、激しい戦闘となり重傷を負ってしまいます。そして、エルサレムに立つ寸前に、騎士としての使命を我が子に託して絶命します。

その際の、騎士の誓い(「恐れず、敵に立ち向かえ」「勇気を示せ」「死を恐れず、真実を語れ」「弱者を守り、正義に生きよ」)が作品のモチーフと もなっているわけですが、この理念を共有できる同志は、十字軍(本作品ではテンプル騎士団が悪役に配されていますが)の騎士たちよりも、むしろサラディン の軍勢であると描かれます。十字軍が、当時のアラブ世界(ビザンティンも含んでのことでしたが)にあって、暴虐な侵略者でしかなかったという見方がはっき りと描かれています。

映画の主たる舞台となるエルサレムの国王は、信仰の自由を認める「現実主義者」として描かれ、「聖地死守」の宗教的理念を唱えるテンプル騎士団た ちが見せる異教徒への「非人間性」が対比されます。また、クライマックスとなるエルサレムの攻防で、エルサレムの司祭が命乞いをするために偽装改宗をすす めるシーンが挿入されるなど、聖職者の語る神への信仰がいかに偽善に満ちたものであるかが描かれます。

一方、何よりも妻の魂の救済を求めてエルサレムに入ったバリアンでしたが、入城後まっすぐに向かった「磔の丘」では神の赦しの声を聞くことができ ず、生きる目的を得ることができないままだった彼にアドバイスを与えたのは父の同志であった騎士にして聖職者のホスピタラーでした。信仰は言葉ではなく、 善の行いにあると語るホスピタラーの信念にふれたバリアンは「騎士」としてエルサレムの王を、ひいては民を守ることに使命を見出すことになります。

ハリウッド作品(米国映画)らしい往時をイメージさせる衣装やセット、戦闘シーンなどエンタテインメントとしての見所もあり、これもハリウッドら しさである「深みのなさ」が気になる人もいるかもしれませんが、バランスのとれた十字軍理解の一助となる良い作品であったと思います。

私としては、作品のメッセージを「生命を守ることこそが正義であり、それを認めぬ”神”など必要ない」と理解しました。作品中ではバリア ン率いるエルサレム守備軍の多くが命を落としており、正義を貫くための犠牲という矛盾は残されたままなのですが・・・ 暴力に対峙する非暴力はいかにして 可能なのか、長年の宿題に思いが至りました。

2005年6月9日

二酔人四方山問答(2)

岩木 秀樹 (20時08分)

B:この前会社の飲み会で、研修に来ているイスラム教徒のムハンマド君がしきりに嘆いていたんだ。

A:何だって。

B:かなり酔っていたせいもあると思うんだけど、俺たちイスラム教徒はいじめられている、虐殺され続けているって。

A:わかるような気がするよ。

B:軍事や政治もさることながら、文化面でもイスラムへの偏見や憎悪が見られ、それが増幅されて再生産されているって言っていた。特にアメリカのハリウッド映画、イスラム教徒やアラブ人が頻繁にテロリストとして登場しているらしい。

A:そうだね。冷戦期は「ランボー」などロシア人が悪者として描かれ、日本がバブルでニューヨークの土地を買いあさっていた時代は日本人が成金的な 滑稽な存在として「ダイハード」などで描かれたりしていた。冷戦崩壊後は「トゥルーライズ」などでイスラム教徒がテロリストとして登場している。

B:僕も見たけど「トゥルーライズ」はひどかったな。核兵器をアラブ人らしきイスラム教徒が奪い、核兵器に対して宗教的な祈りの言葉を言っていた。 あれは普通のイスラム教徒が見ても激怒すると思うよ。よく外交問題に発展しなかったよな。さらに核兵器が爆発するシーンでは、その閃光をバックにロマン ティックにキスをするヒーローとヒロイン、 あれは日本人には理解できない。アメリカ人は核兵器の恐ろしさを本当は知らないんじゃないかな。

A:そうだね。アメリカ人全員がそうではないけど、敵だと思えばかなり単純化して戯画化する。アメリカ映画はアメリカ人の意識や世相をよりプリミ ティブな形で映す鏡なんだ。 自己の他者イメージをより感情に訴えるために、単純化して投影している。文化や社会の側面でもそうだから、軍事や政治ではさらに問題は深刻だ。そのアメリ カの軍事政策に反対を唱えながらも、多くの国はどこか腰が引けている。もちろんアメリカ一極集中に追随せざるを得ないという側面もあるが、それだけではな い。

B:そうそう、飲み会の席でもムハンマド君が色々な国でイスラム教徒が抑圧を受けていると言っていた。アメリカの対イスラム政策を暗黙のうちに認め、イスラムは危険だとして、自国の少数民であるイスラム教徒に対する抑圧の口実に使っているらしい。

A:ロシアにはチェチェン人らが、中国にはウィグル人が、インドにもイスラム教徒がいる。アメリカやヨーロッパにも多くのイスラム教徒の移民がい る。彼らに対して、イスラム教徒は凶暴でいつテロをするかわからないから、自由を奪え、拘束しろ、場合によっては殺してしまえということもあるらしい。

B:そうか、どの大国も「イスラム問題」を抱えていて、彼らの機会均等、自治や独立の要求を押さえつけるために、イスラム=テロというレッテルを貼っているんだ。

A:そう。そして実際は「イスラム問題」ではなく、「自国問題」なんだ。つまり、当該国の寛容性や平等性、格差是正の問題自身が問われている。問題を沈静化させるには、イスラム教徒をいなくさせたり見えなくさせるのではなく、そのような「自国問題」を解決することだ。

2005年6月8日

「戦後60年」の諸問題の解決に向けて

今井 康英 (20時12分)

日本では、今年は昭和20年(1945)の「終戦」から60年目である。 8月15日は、今も「終戦記念日」と称されている。 今でも、あの日をこう言い続けている国は日本だけではないか? なぜ無条件降伏による「敗戦の日」、「戦争に負けた日」を誤魔化すのか。 ここに戦後60年を経ても、なお「戦争責任」その他の諸問題を 解決できないでいる根本原因の一つがあると私は思う。 日本に限らないだろうが、国は国民に平気でウソをつくものである。 国民は国の言い分を正面(まとも)に受け取ってはならない。 小泉総理の靖国神社参拝などは、自粛が当り前である。 どうしても参拝したいなら、総理の職を辞してから行くべきである。

実は昨年になって、やっと父の軍歴など正確に分かったことがある。 平成16年6月21日付、栃木県保健福祉部高齢対策課長の証明による 「履歴書」(第十七号書式、A4版1枚)によると、 ([ ]内は、「身上申告書」等の記載による。 【 】内は、極秘 ソ連邦内務省捕虜並びに抑留者業務総局「登録文書」 の記載による。原本はロシア語、日本語訳による。コピーはA4版で5枚、 2004年7月20日付で「厚生労働省社会・援護局業務課長」が 「この写は当課保管資料の原本と相違ない」と証明している。)

父は、大正12年(1923)12月18日生まれの長男であったが、 召集により、 昭和19年(1944)11月20日、宇都宮東部36部隊に入隊。

昭和20年(1945)6月、銭花店より満洲に入り、 第63師団所属の独立歩兵第78大隊第2中隊に配属になった。 [秘匿名、通称、陣第2993部隊、小田大隊関口中隊、 部隊長は小田二郎少佐] 同年8月、奉天にて武装解除。
【同年8月14日、奉天にて「自発的に投降」、捕虜となる】
同年12月、ソ連「ムリガリウムサイ」収容所入所。
【同年11月12日、第348収容所に到着】

昭和22年(1947)8月、ソ連「レンゲル」収容所に移動。
【同年7月1日、調査票記入、本人自筆サインあり。漢字】

昭和23年(1948)7月、ソ連「053」収容所に移動。[ナホトカ地区内か]

昭和24年(1949)9月19日、ナホトカへ移動。
【同年9月22日、第380収容所への引渡し】
【同日、登録文書に「本文書は帰還にともない終了」と記載】
同年9月27日、ナホトカ出港。
[同年9月30日、舞鶴上陸。船名は永徳丸]
同年10月5日、復員。

昭和41年(1966)8月28日、死亡。

平成16年(2004)7月7日、私は遺族として総務省所管の独立行政法人 「平和祈念事業特別基金」に対して「恩給欠格者書状等贈呈事業」 による「請求書」(恩給欠格者死亡者用)を提出し、受け付けられた。 同年8月25日、九段社会教育会館でのビクトル・カルポフ氏講演会に参加。 上記の収容所名や収容所番号について質問、不満足ながら回答を得た。 同年10月25日、内閣総理大臣名の書状が「ペリカン便」で届けられた。 その書状には、こう記されていた。

故今井康祐殿
あなたの先の大戦に
おける旧軍人軍属と
しての御労苦に対し
衷心より慰労します
平成十六年十月一日
内閣総理大臣 小泉純一郎(書状は国立印刷局製造のものである。)

召集令状も紙切れ1枚だったが、 その御労苦に対する衷心の慰労も紙切れ1枚である。 ソ連抑留時の未払い賃金問題も、未だに解決していない。 当時の生存者は既に80歳を越えているというのに。 父の戦友である全国抑留者補償協議会の寺内良雄会長は、 「国は我々が皆、死ぬのを待っている」と憤慨している。

ある日、父の遺品のなかに1枚の写真を発見した。 「19.11.20」と日付の書き込みがあるその写真には、 出征兵士の父を中心に、左に父の母(私の祖母)、 その周りに今では名前もわからない人達が9人ほど。 「祝 入営」と書かれた幟も見える。

父の自筆で解説が2枚、付されていた。 1枚には、

大平洋戦争酣の秋
醜の御楯と出征く我は・・・・その門出の日
昭和19年11月20日、東部36部隊に入隊せんとす
宮市東塙田町162の自宅前にて 康祐21才

もう1枚には、

この写真は
康祐と共に
北支-満洲-
シベリア鉄道で
遠く中央アジヤ
まで行って帰りし也

私もこの写真と共に、 父の足跡を辿ってみたいと念願している。 父がご迷惑をかけたかもしれない人々にお詫びをしつつ、 またお世話になったかもしれない人々にお礼を言いつつ、 この国に二度とあのような戦争を起こさせまいと誓いながら。 同時に、平和憲法の理念を共有して頂くために努力したい。 私も毎日、世界平和と人類の幸福を祈り続けている。

2005年6月8日

追記

本稿について、若干の補足を記しておきます。

(1)寺内良雄会長は、宇都宮市在住です。 2004年7月29日、御自宅を訪問し、面談して頂きました。 父は第2中隊所属でしたが、氏は戦友とはいえ第3中隊所属でした。 「写真」を見ていただきましたが、所属中隊が異なると面識がない こともあり、見覚えがない(思い出せない)とのことでした。 コラムに書いた言葉は、その時私が直に伺った氏の言葉です。 氏が栃木県立図書館に部隊史『陣』を寄贈したことを教えられ、 この書によって父の足跡もほぼ確認できました。 また同年9月18日に開催された国本平和学習会の 創立記念第1回学習会に講師として出席して頂きました。 ここに銘記して、深く感謝の意を表します。

(2)カルポフ講演会の際、通訳を務められた浜野道博氏にも お世話になりました。収容所の所在確認のため、 江口十四一氏に照会して頂き、その御縁で直接、江口氏からも 貴重な資料を提供して頂くことが出来ました。 ここに銘記して、両氏の御厚情に感謝申し上げます。

2005年6月9日

2005年6月7日

ぜひ見なさい

佐藤 仁志 (20時20分)

熱狂的な韓国ドラマファンの女性から『冬のソナタ』完全版のビデオを押し付けられた。成田に赴任してまもなくのころである。しばらくは放っておいたのだが、なにせ単身赴任。夜の長さに負けて、つい、最初の1本に手をつけてしまった。物語が学園純愛ドラマとして始まったのにちょっと意表をつかれた。初々しいデート場面と切ない音楽に「ええなぁ…」と胸キュン。次から次へとビデオを入れ替えるうちに、ついに20話(2200分=約37時間)を鑑賞し、ご丁寧なことに、もう1回見直してしまった。

うわさは聞いていたが、「涙の女王」チェ・ジウの58回を筆頭に、過剰なほどの涙腺波状攻撃である。出生の秘密、恋愛の三角~四角関係、すれ違い、家族 の葛藤、交通事故死、難病などなど。「これでもか、これでもか」と苦難・艱難・遭難の連続でドラマが進行する。韓国で食堂に入ったとき、テーブルに出され る皿数の多さに驚いたが、あれに似ている。満腹感はありますね。

字幕だったので、たっぷりと韓国語のシャワーを浴びることもできた。日本語と語順が同じ。似たような発音の単語も多い。発声や語尾などは日本のどこかの方言のようにさえ思えてきた。

「冬ソナ」を見ていると、「朝鮮半島は日本文化のルーツなんだな」と妙に納得してしまう。靖国問題、教科書問題、竹島問題など日韓関係はなにかと騒がしいが、語り合えばかなり親しくなれそうな気がする。韓国語を勉強したくなってきた。

現在、韓国ドラマ「裸足の青春」を鑑賞中である。

2005年6月6日

感動をありがとう

近藤 泉 (20時39分)

この春、末息子が小学校を卒業しました。卒業式での感動について。

◆わが子が将来の夢をみんなの前で堂々と言えること。ドキドキ、そして感動。

地元の小学校では壇上で卒業証書をもらう時、将来の夢や中学に行ってやりたいことを会場のみなさんに紹介します。

平凡に「中学に行ったら部活と勉強に頑張りたいです。」という子も多いですが、「和菓子屋を継いでお店を立派にしてみせます!」や「弁護士になって弱い 人を助けたいです。」「スポーツ選手になってプロデビュー戦にお世話になった方を招待したいです。」「のんびりと暮らします。」など、子ども達の個性にい たく感動。子どもたちには夢がなくなったと評するセンセイ方に見せたいと言ったのは私ひとりではありません。ちなみにうちの息子は「新しいことにチャレン ジする。」でした。

◆もう一つ、卒業生が代わる代わる小学校時代の思い出を語る「呼びかけ」の最後に、全員で「日本国憲法 前文」を諳んじること。その意外性と完璧な暗唱に、ものすごく感動。

自分らしく生きていこう、友達を大切にしていこう、あらゆる人を尊重し人権を守ろう、世界中の人々と仲よく生きていこう。しかし今も戦火が絶えない、世界の平和を築いていくのは私たち―――

(日本国憲法 前文)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛 する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去し ようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利 を有することを確認する。

―――心を込めて訴える子ども達の澄み切った声の響きに親たちは圧倒され、深く感動します。 卒業式が、次女の時はアフガン侵攻の当にその時、末息子の今年はイラク攻撃で、子どもを含む多くの犠牲者が連日報道されていた最中でした。「そうだ、わが 子と世界の平和を語らなくては。」と、どの親も目が覚め、ドキドキが止まりません。これを準備された担任団の思いを聞きそびれましたが、子ども達は平和憲 法を学び生命に刻むことができました。

ちなみに次女はその時「へぇ~日本ってこんな素晴らしいものを持ってたんだ。ちっぽけな国じゃなかったんだ。平和憲法を守り抜いてきたのは大変だっただろうな。貴重な宝石のような。誰にも売り飛ばしちゃいけない。」と思ったそうです。

◆わが家の信条。晩のニュースは必ず親子で見て、世界で起きていることについて毎日語り合う。ドラえもんや歌番組と闘いつつ、幼稚園の時から思春期、成人した今も、、、。

2005年6月5日

外国語があなたを変えていく(1)

浪木 明 (20時45分)

私は中学1年生の時から、NHKラジオ講座の聴取をベースに、33年間一日も欠かさず英語を中心に外国語研鑚に取り組んできました。使用したテキ ストは2500冊にもなります。最初は日本語と異なる音に魅せられ、未知なる他国への憧れから始まった外国語への興味も、その深さを知るにつれ、「外国語 を学ぶことはその国に対する最大級の敬意の表明である」との信念を持つに至りました。

幸い、私は一貫して教育の現場、すなわち国内外の大学や大手英会話スクール、個人指導教室に勤務させていただき、老若男女を問わず数多くの方々と接してきました。その貴重な体験の中で、「外国語が人間にどのような変化を与えるのか」に注目し始めるようになったのです。

本コラムでは、キャリア・カウンセリングとコーチングによる独自の英語指導法の一端を紹介しつつ、読者の皆様を外国語ワールドに誘い、学習意欲向上の一助とすることを目的にしています。初回にあたり申し上げたいことは以下の二点です。

第一に、「目標・目的を明確にし、書き出すこと」です。「何のため」と問い続けることが、外国語と付き合い続ける原動力となり、帰すべき原点となります。

次に、「学習量の蓄積は人間の質の転換をもたらす」ということです。語学には必ず停滞期があります。そこで止めてしまうか前へ進むかによって、その人の外国語運用能力の伸び方が大きく左右されます。つまり「継続は力なり」に尽きます。

しかしながら、外国語学習は「言うは易く行うは難し」です。どうすればいいでしょう?キーワードは、美容・長寿・多重人格・中観主義・シャルウィ―ダンス?・直立レッサーパンダ・謎のピアノマンといったところでしょうか。次回をお楽しみに!

池袋50年-万物は流転する-

中西 治 (20時31分)

私が大阪の大学を卒業して初めて東京で住むようになったのは1956(昭和31)年4月のことであった。所は北区十条のアパートの3畳の一室。炊事場とトイレは共用。北向きの一日中日のあたらない寒い部屋であった。部屋代は月3000円。月給は初任給8500円であった。

赤羽線の十条から池袋に出、池袋で山手線に乗り換えて新橋の通信社に通っていた。ロシア語のモスクワ放送を聞き、それを日本語のニュースにして日本の新聞社や放送局などに提供する仕事であった。もちろん、最初はそのような難しいことはできない。先輩が聞き取ってタイプに打ったものを翻訳させてもらうとか、原稿をガリ版に切って印刷し、配達するとかであった。

勤務時間は正午から翌日の正午までの24時間。東京とモスクワのあいだに6時間の時差があったのでモスクワでは朝の6時から翌日の朝の6時までであった。それを3回繰り返して1日の休みであった。

たまには池袋の地に立つことがあった。当時はもはや戦後ではないと言われ始めたときであったが、池袋駅周辺はまだ戦後であった。その後、江戸川区の小岩、千葉県船橋市の高根台、横浜の洋光台と居を移し、池袋で下車し、町を歩くことは絶えてなかった。

昨日と今日、この地の立教大学で日本平和学会が開かれたので久しぶりに池袋の地に立った。かつて一度、立教大学を訪れていたので、駅を出れば、すぐ見つけられると高を括っていたが、まず、駅の構内が広く、どの出口を出れば良いのか分からない。まあいいや、どこへ出てもすぐ分かるさと思って地上に出たが、大学に辿り着くのが一苦労であった。大学もずいぶん変わっていた。改めて50年近くの歳月の経過とその間の大きな変化に感じいった。

万物は流転するとはギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言であるが、まさにすべては変化する。平和学会では日本はいまや戦争前夜にあるとして季刊雑誌『前夜』を発刊して警鐘を鳴らす報告を聞いたし、懇親会では戦争前夜ではなく、夜明け前にしようとの挨拶も聞かれた。

戦後60年。人間も環境も変わった。この変化にどのように対応するのか。このことを改めて考えさせられる2日間であった。

2005年6月4日

「市場の発見」から「市場の創造」へ

わたなべ ひろし (20時53分)

自分の仕事柄、マーケティング、あるいはマーケティングリサーチという言葉を、日常頻繁に聞いたり使ったりしている。「市場調査」とでも訳すのだろうか。しかし、まぁ大多数のサラリーマンなら日本語などに訳す必要などないくらい、一般化している言葉だろう。マーケティングというと、ちょっと前までは「市場(マーケット)の発見をその目的とする行為」として、広く認知されていた気がする。ニーズはあるがまだまだ未開拓の潜在的市場を探し出し、そのニーズに見合った商品やサービスを開発すれば、当然ヒット間違いなしというわけだ。

しかし近年は、このような「市場の発見」から一歩進んで(?)、「市場の創造を目的とした行為」とでもいったニュアンスに、マーケティングの持つ意味合いが変わってきた。例えば社団法人日本マーケティング協会などは、その綱領の中でマーケティングを「市場の創造」と明確に定義している。つまり未開拓の潜在的市場などといったものはもはや存在しない、あるいはそんなあるのか無いのか確証性の低いものに頼るのではなく、自分たちで市場やニーズを創り出し、そこで自分たちの商品やサービスを作ったり売ったりしていこうというのである。自分たちで「創った」市場やニーズで、自分たちが作ったものを売るのであるから、こんな確かなことはない。

その結果どういうことが起こったかというと、あらゆる階層、あらゆる年代の24時間、365日、人生すべてが、様々な局面に細分化され、市場、つまり自分たちの作った商品やサービスを買わせる(売るではない!)対象として、常に意識化されていくことになる。そして、伝統、地域性、モラル、愛情、歴史、公共性等々といった、誰かが恣意的に作ったのではなく結果としてひとが社会や共同体を形成していく上で必要でありその目的で長い時間をかけて鍛え上げられ残ってきたこれらのものでさえ、「市場創出」のための一要素として意識され、有効とあらば動員されていく。

かくて少なくともビジネスの世界においては、偶然性や結果論が入る余地は次第に無くなっていき、人間存在のすみずみにわたってその全てが、「顧客」として操作すべき管理対象となるのである。そして最近痛感するのは、この「市場の発見」から「市場の創造」へというマーケティングの指向性が、ビジネスの世界だけではなく、政治や軍事にも適応されてきているということである。例えばそれは米国のイラク侵攻にいたるプロセスをみれば、よくわかることであろう。「市場のニーズが無ければ自分たちで創り出せ!」である。(更に、先日の当コラムにおける岩木さんの文章を読んで僕が感じたことも、戦争行為におけるマーケティング感覚とでもいうものであった。)

さて問題はここからである。現在世界中を席巻している、ネオリベラリズと呼ばれる潮流の本質は「市場至上主義」とでもいうもので、僕なりに解釈すれば、それは人間の恣意性(社会主義的に言えば計画性)にではなく、「神の手」たる「市場」に最終的な判断を委ねるということである。ここにも「市場(マーケット)」が出てくる。先の創出対象の「市場」が「小文字の市場」であるならば、この「神の手」である「市場」は「大文字の市場」とでも言えようか。各企業や大国がありとあらゆるものを利用し、動員して、自分たちに都合のよい「市場」を創出し、すみずみにわたって管理し、自分たちの意のままになるようにしても、それを委ねる先が「神の手」という人知による管理対象の対極にあるこれまた「市場」だというのだ。

こうして人間の歴史は、偶然性や不可視性の跋扈する時代へと、振り出しにもどることになる。

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