第3期理事会第2回会議のご報告
事務局 (22時16分)
地球宇宙平和研究所 会員の皆さん
猛暑のなかいかがお過ごしでしょうか。
さて昨日、第3期理事会第2回会議が開催されましたので、その報告を致します。
特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所の第3期理事会第2回会議が2005年7月17日(日)午後2時から午後4時まで、かながわ県民活動サポートセンター602号室において、理事12名監事1名が出席されて開催されました。


事務局 (22時16分)
地球宇宙平和研究所 会員の皆さん
猛暑のなかいかがお過ごしでしょうか。
さて昨日、第3期理事会第2回会議が開催されましたので、その報告を致します。
特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所の第3期理事会第2回会議が2005年7月17日(日)午後2時から午後4時まで、かながわ県民活動サポートセンター602号室において、理事12名監事1名が出席されて開催されました。

近藤 泉 (17時53分)
◆8月5~6日、私と大学生の息子・中学3年の娘は、小金井市主催の「広島平和の旅」に参加することになりました。
わが市は1982年に「非核平和都市宣言」をしています。映画会や原爆写真パネル展などいくつかの非核平和事業の一環として、毎年15名の市民を広島の平和祈念式典に派遣し、新幹線代と宿泊費の半額を市が補助しています。
「核兵器廃絶と恒久平和を願うこと」を目的にしたこのような立派な事業があることを誇りにし、市民の大切な税金を使わせていただくことに感謝しながら、平和を祈る旅に行って来たいと思っています。
◆2000年に始めて広島を訪れた時は、その春に亡くなった愛しい母の名が慰霊碑に納められるのを見届けてきました。今回は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の被爆体験記を寄贈し登録されたものを自分の目で見て来ようと思っています。この体験記はこのウェブページ「論文・エッセイ」コーナーに載せて頂いています。
この平和祈念館は記念資料館近くに2年前に開館し、被爆者の証言ビデオ、広島市内の被爆前や直後の写真 、被爆直後の広島市内を撮影した動画が収蔵・展示されています。特に被爆者の体験記は10万編を超えています。母が壮絶な決意で原稿用紙に向かっていたの を知る私は、その数の多さに本当に驚きました。10万もの方々は一体どんな叫びを紙に残し、どんな思いを伝えたかったのでしょうか。
被爆者が体験した惨禍と平和希求の思いなどを国内外の人々、子どもたち、孫たちの世代へ伝えていくため継続して体験記を集めています。体験記は、広島・長崎の平和祈念館で公開しコンピュータで検索できるようになっているそうです。広島や長崎の平和祈念館にお出でになる方は、どうぞ母の名で検索をして みてください。(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館公式ウェブページ参照)
◆母は、本人の記憶により爆心から1.8kmの松原町で閃光を浴びたとされています。地図で見るとそこはJR広島駅前になります。駅前というと、焼け焦げた 市電が骨組みだけになった光景が思い浮かびます。朝の通勤時間に満員であったはずの人々の姿は跡形もなかったと聞きます。半分日陰に立っていたとは言え、 母が生きていたことは奇跡としか言いようがありません。
広島の夏は焼けつくような暑さです。母が被爆したその熱い地点に子どもと共に立ち、その奇跡の意味を考えたいと思います。
とらたぬき (15時07分)
戦後60年の夏が来た。私の田舎では終戦記念日の思い出は旧盆の精霊流しと重なり、亡くなった方々を弔う日であった。その一方で、8月9日は休暇中 でも登校日となり、先生から戦争の悲惨さを教えられ、原爆の投下された時間にみんなで黙祷をささげた。子供の頃の私にとっては、先の戦争は被害者の立場で の戦争であった。
長じて中国に関心を持って学んでいくうち、日本が中国、朝鮮などを侵略し、多くの人々を殺傷した歴史を知った。学生訪中団に参加して、平頂山の殉 難記念館を訪問し大地から発掘されたままの何千体という白骨体を見たとき、言葉に言い尽くせない恐怖と哀悼の思いで一杯になった。そのとき自分がこれらの 人々を虐殺した加害者の民族の一員であることを深く実感した。
その後訪れた中国の多くの地に、日本軍が攻撃し多くの人々が犠牲になったことを後世に伝えるための施設や慰霊碑を目にしてきた。そしてその事実を 日本の若者達に伝えるように心がけてきた。私自身がそうであったように、日本では被害者としての戦争の記憶は教わることも実感することもあるが、加害者と しての記憶を呼び起こされることがないからである。
二度と戦争を起こさないと決意することは、戦争によってなくなったすべての人々に報いることである。とりわけ被害をこうむった地域と人々に思いを寄せ、相互理解を深めていくことこそ、確かな平和を築いていく基礎となると思う。
浪木 明 (15時09分)
心理テストでコップに半分入っている水を見て「もう半分しかない」と考える人は悲観主義者、「まだ半分も残っている」と考える人は楽観主義者というものがあります。しかし、私は何も感じません。私は「中観主義者」なのです。
長い間、私は楽観主義はプラス、悲観主義はマイナスと考え、意識的に楽観主義者に近づこうとしていました。しかし、前者には「責任回避、日和見」 というマイナス面があり、後者には「慎重、防衛」というプラス面がありはしないかと考えるようになりました。もし世の中がどちらか一方のグループだけに なったとしたら、人の喜怒哀楽もバランスが崩壊し、人生はとてもつまらないものになってしまうことでしょう。物事には常にプラス面とマイナス面が存在する のです。それを認め合うことの方が、どんなに人生を豊かにすることでしょうか。
ところで日本では血液型と性格の間に強い相関関係があるとする書籍に人気があります。冷静に考えれば地球上63億の人間の性格をたった四つのカテ ゴリーに分類することなど不可能です。一方視点を変えれば、四つのカテゴリーに63億の人間を分類することは案外簡単なことかもしれません。得てして人間 は何かの基準でグループ化して分類するのが好きらしい。それ自体は問題ないのですが、そこに優劣や上下の差異をつけ異なるものを排除していく傾向が見てと れます。
話は変わりますが、一つの論題について肯定と否定の両方の側に立って考えるディベート(討論)が注目されるようになってきました。私は学生時代に 英語討論で「核兵器は必要か?」との論題にジャンケンで負けて肯定側に立ったことがあります。自身の意見とは正反対の主張をする羽目になり、瞬間「負け た」と思いました。しかしここで知恵を絞り「地球に大隕石が接近し、それを破壊しなければ地球は滅びるという状況下では、核兵器が必要なこともある」と主 張し、ディベートに勝ったのです。私の「中観主義」への第一歩でした。
この出来事は私の思考形成に大きな影響を与えました。立場が変われば主義主張も変わること、立場が変わったとしてもその批判に耐えうる整合性を持つこと、感情を制御し論理を中心に物事を見る重要性などです。
外国語の差異に目を転じると、スペイン語では「皿が私の手から落ちた」という表現の仕方があります。日本語なら「私は皿を落としてしまった」とな るでしょう。当初、「スペイン語は、何と無責任な表現をするのか」と思いましたが、次第に「何とプラス思考な表現だ」と思うようになりました。最近の某知 事の「フランス語は国際語失格」発言問題は、言語に優劣をつける極めて乱暴で危険な考え方です。
異なる言語や文化の存在が、己を見つめ直し、相手の立場に立つ重要性を教えてくれるのです。外国語があなたを変えていくのです。「中観主義者」は 人生の様々な局面で紛争の解決に寄与することができ、異なるものとの交流を楽しみながら世界市民そして平和を目指すのです。このような限りなき自己の拡大 と変革のプロセスにおいて、外国語学習を通じて得たものの一つが「多重人格」です。これについては次回論じたいと思います。
大江 平和 (15時12分)
去る6日に中国残留日本人孤児が「帰国後の生活支援が不十分だった」などとして国に損害賠償を求めた訴訟の判決がくだった。判決は国の法的責任を全面的に否定した。きわめて残念な結果であったと憤りすら感じる。
私の近所の公営住宅に残留孤児の老夫婦が住んでいる。二人は毎朝夕、おぼつかない足取りを互いに支え合うようにして散歩するのが日課のようだ。何気なく「ニーハオ!」と挨拶を交わすようになり、先日、夫と一緒に初めてお宅にお邪魔した。そこで、私たちは大きな衝撃を受けた。実はこの老夫婦はいわゆる「文盲」だったのだ。その存在は知っていたが、身近に接するのはもちろん初めてである。おまけに中国語も訛りが強く、何を言っているのかさっぱりわからない。かろうじて聞き取れたのは、以前は中国の山東省の「リャンシャン」に住んでいて、日本に来て十数年たつということだけだった。いつもは固有名詞など聞き取れないものは書いてもらうのだが、それもできない。帰宅して中国地図を開いてみたが、結局「リャンシャン」という地名は確認できなかった。折りをみて、かつて日本軍が侵略していった山東方面のルートを調べてみようと思う。それはともあれ、70才をゆうに超えたであろう二人が、戦争によって中国の農村に置き去りにされ、祖国、日本に戻ってきた今も日本語はおろか、自分の名前すら読むことも書くこともできずにいる。不自由な生活を強いられている現実を目の当たりにし、その苦労続きの生涯に思いをはせたとき、胸に迫ってくるものがあった。
戦後60年を迎えた本年、いまなお戦争の傷跡はまだ続いているのだ。このような老夫婦が全国に約2500人いるという。彼らの祖国、日本での晩年が少しで幸せなものとなるよう、国は最大の努力を払って生活支援の拡充をすべきであろう。
岩木 秀樹 (15時13分)
B:また大規模なテロがあったね、ロンドンで。今まで色々イスラームについて聞いてきて、少しは偏見が無くなったように感じたけれど、でもイスラームの名で多くの人を殺すなんて恐ろしい宗教だなと正直思った。
A:いやあれは、イスラームの中の一部の過激な人々がやっていることだ。ただイスラームに限らず、宗教や様々なイデオロギー中には、正しいもののた めには自分や相手が死ぬことは間違ったことではなく、特に自集団や自分の教義を守るためには「悪」と命を賭けて戦うことを奨励する例は多い。
B:イスラームにもジハードと言う言葉があるよね。
A:あるよ。でもジハードは宗教的に様々な努力をするという意味なんだ。弱い自分に打ち勝つための精神的ジハードも含まれるんだ。このようなジハードの中の一部に、自分たちのイスラーム共同体を守るための狭義のジハード、私たちがよく使う聖戦がある。
B:へーそうなんだ。ジハード=聖戦ではないんだ。
A:しかもその聖戦という意味のジハードの中にも、拡大ジハードと防衛ジハードがある。 拡大ジハードとは文字通りイスラーム共同体を異教徒の土地に広めること。もちろん広め方は武力ばかりでなく、商人や様々のイスラーム教団が広めたりしたん だけど。また武力による場合でも徐々に改宗させていったんだ。そして防衛ジハードとは自分たちの共同体を異教徒から守ることだ。
B:現在のイスラーム教徒はやっぱり防衛ジハードをやっているという意識が強いのかな。
A:そうだと思う。そもそも拡大ジハードを宣言できるのはカリフの専権事項だから、最後のイスラーム帝国であるオスマン帝国が崩壊した後、カリフは いなくなったので、理念的には拡大ジハードはできなくなった。それに現実的にはパレスチナでもアフガニスタンでもイラクでもチェチェンでも、世界の様々な 場所で行われていることは、米国を中心とした国々からイスラーム共同体とイスラームの同胞を守るための戦いだという意識がある。つまり防衛ジハードを行っ ているというわけだ。
B:でも今回のテロは防衛ジハードと言えるの。
A:言えないと思う。世界のイスラーム教徒の多くは、9・11の時もそうだったけれど、今回のような無差別テロは許していない。多くの人々は話し合 いによって解決しようとしている。しかし、無差別テロという方法は間違っているが、自分たちイスラーム教徒が様々な局面で抑圧を受けていることを世界中に 知らせ、出来れば改善したいと考えているのは確かだ。だから無差別テロを見て、それは間違っているとは言うが、その後に、ただね……と言う言葉が続くん だ。そのような不満を強く持つ人々の一部が過激化して、自分たちがやられたことをやっているんだという報復攻撃にでているのかもしれない。
B:一部にもそのような人がでるということは、ある程度イスラームが暴力性を内包しているからじゃないのかな。
A:それを完全に否定することは難しいかもしれない。もっと言えば、イスラームのみならず、宗教と暴力の関係という大きな問題にぶつかる。ただこう いう例もある。ぼくが中東に留学していたときに、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったんだ。これはまだ公判中で真実はまだはっきりしないけれど、当時 ぼくの友人のイスラーム教徒は日本人は恐ろしいことをする、仏教徒は怖いと言っていた。
B:え、あれは仏教徒の仕業なの。
A:中東のような遠い地に住む人から見れば、東洋的な宗教の小さな差異はわからないんだ。仏教的な言説を使っていたのでそう見えたのだろう。なぜ日本人の仏教徒が不特定多数の同胞を毒ガスで虐殺したのか理解できなかったようだ。
B:そう見えるのか。ぼくもなぜ彼らが無差別テロをしたのか全然理解できない。
A:それに比べ、イスラーム教徒による様々の抵抗運動は、因果関係ははっきりわかる。イギリスの三枚舌外交に対するもの、アメリカのダブルスタン ダードに対するもの、イスラエルの不法占領に対するもの、米英らによる国際法無視の戦争などに対抗するために攻撃を仕掛けている。
B:一般のイスラーム教徒は無差別テロという方法には反対するが、それを行う人々の心情を全く理解できないというわけではないのかな。
A:だから中東から見れば、どのような恨みや抑圧があるのか外から見たらわからず、自宗教の教義内から発したものによって、同胞を殺した日本人の仏 教徒の方がよほど残虐で恐ろしいということになる。でも国際社会では、仏教テロリズムとは言われなかった。また世界の様々のキリスト教徒によるテロもキリスト教テロリズムとは言われない。イスラーム教徒の一部によるテロのみイスラームテロリズムと言われるのは、明らかに国際社会に存在する偏見だと思う。
今井 康英 (15時15分)
今回は、順番から言えば「環境問題」について述べるべきですが、 このカテゴリーで投稿したブログの記事はあまり多くないので、 他日に書くことにして、上記のテーマについて述べます。 このテーマに関連した記事は、「反戦平和」に掲載しています。
1945年7月12日の宇都宮空襲により、620人以上の人命が失われ、 市街地の大半が焼失した。今年は60周年である。 宇都宮市では、この7月12日は「宇都宮市平和の日」である。 この日から「終戦記念日」の8月15日まで、「宇都宮市平和月間」である。 (この間のイベントなどは「日程情報」に掲載しています。)
この日の地元紙「下野新聞」の1面トップは、「宇都宮空襲 きょう60年」 平和を願う3人の記憶が掲載された。 「無差別爆撃 市民が標的に」 中島飛行機宇都宮製作所の係長だった矢口長さん(86) 空襲の翌日、工場へ行ったが、ほとんど被害がなかった。 街が標的にされた無差別攻撃だった。 犠牲になったのは、軍の施設ではなく市民。 「戦争に正義なんてない。だから戦争はいけないんですよ」
「新しい家族 一度に失う」 群馬県桐生市から宇都宮の酒店に嫁いだ萩山光子さん(81) 義父に「先に逃げろ」と言われた。 夫が「母だけでも連れて行こう」と戻ろうとしたが、 火の手が強く、断念せざるを得なかった。 空襲の翌朝、焼けただれた自宅に戻った。 田川に逃げ込んだ義姉とめいの無事を確認。 しかし残り4人の行方は不明だった。探し始めて二日後。 焼け果てた土蔵でひと塊となった父母、義兄、おいの焼死体を発見。 隣の母屋からは灰と泥にまみれた花嫁衣裳も。 人生が暗転した日の光景が脳裏から離れない。 「何もかも悪夢だった」
「機銃掃射 新たな脅威」 簗瀬国民学校の周辺で焼け跡の片付けをした手塚節司さん(73) 空襲から数日後。焼け残った建物は石蔵ぐらいだった。 バリンバリンバリン。その時、一機の戦闘機が突然、 爆音とともに校舎上空に現れた。トチノキの大木に身を隠した。 「目の前わずか1メートル先を30センチ間隔で、 弾が砂煙を上げて地面に突き刺さったんだ。 パイロットの顔まで見えたけど、武器が無くて何もできなかった」 同様に片付けをしていた下野中学(現作新学院)の生徒5人が 機銃掃射の犠牲になった。 「ひどいもんだ。いかに人に重い傷を負わせるかを、人が考えるんだから」
この日の社説(「論説」)は、「平和築くため行動が必要」 不戦の誓いを新たにすることは、旧日本軍に侵略された東南アジアや、 イラクの人々にも共通する思いだろうと指摘した上で、 今や自衛隊が海外に出掛ける時代であるとも記し、 「過去の戦争を記憶すると同時に、平和を築くために何ができるのか、 考え、行動する必要があるのではないか」と述べている。 私も、宇都宮市民として、まったくその通りだと思います。
実は、この日の23面の文化欄に創立者の特別寄稿も掲載されている。 タイトルは、国際交流こそ「平和の道」 日中戦争のさなかに敦煌やシルクロードのロマンを語り聞かせてくれた 「恩師」檜山浩平先生(栃木県出身で小学校5年生の時の担任)の 思い出などを紹介しながら、文化交流や相互理解を進めていくことが、 世界の平和と安定の橋を構築していくことになるとの信念が記されている。 私も、地球人の一人として、この信念を共有していきたいと思います。
ねこくま (15時16分)
@横浜市某所N邸研究会
毎月末日曜の研究会が開かれているが皆様はご存じだろうか。テーマは「フルシチョフ時代再考」である。2時間をこえる研究会であるが、学問的であると同時に東アジア国際関係やイラク戦争など最新の国際問題を読み解く鍵を与えてくれるエキサイティングな内容に満ちている。このところの私の最優先事項である。
しかし問題もある。物理的に遠いのである。東京に居住している私が片道2時間以上、往復5時間あまり。誤解を恐れず言うならば2時間の研究会のためにたまの日曜日が費やされる。私はあまりに興味深いために何事にも優先して出席している。しかしさらに遠い場合、あるいは日曜日一日使う余裕が無い人間はあきらめねばならぬ。
大学を卒業したとき思ったこと
私は大学を卒業してサラリーマンになった。勉強を続けたい。さらに高度な教育を受けたいと言う希望は持っていた。一生懸命本も読んだ。ゼミの集ま りがあればこれにも参加した。しかし実際仕事を始めるとそんなに時間は取れなかった。結局サラリーマンの猫をかぶりきれずに退社し大学院に舞い戻ったが、それでも卒業後も大学に集って勉強を続ける仕掛けが作れないかという夢は持ち続けてきた。
機械猫の夢は実現する
あれから20年を越える歳月が流れ、情報技術の進歩は僕らに時間と距離を超える数々の技術的手段を与えてくれた。マルティメディア技術とインターネットである。機械猫とは中国でドラえもんのことを指す。未来から来たどらえもんばりの道具を使えば、2時間の研究会の講義を録画、インターネットを経由して視聴可能だ。もちろんレジメもおくれる。世界中何処にいてもネットに接続できれば研究会に参加できる。論より証拠、以下に5分ほど「講義」を載せておく。おそらく一般的なネット環境とPCさえあれば時差はあっても空間は越えられる。 http://www.s.soka.ac.jp/~ahayashi/2005npo/npo1.html
もちろん時間の差も限りなくゼロに近づけることは可能だ。「講義」をそのままWebカメラでネットに流してしまえば良い。チャットを使えばその場で質問もできる。しかもコストは最低限だ。僕らでも何とか負担できそうだ。毎日11時まで残業していても、休日出勤でも2時間の時間的余裕さえ見つけだせれば勉強を続けることができる。
バーチャル・ユニバーシティ
ありがたいことにN邸講義だけでなく、処々で友人達が活躍している。 地球宇宙平和研究所の知的資源は豊富である。これを活用しない手はない。
インターネットで配信されたレジメをもって講義を聴き、メールで質問し、レポートを送る。チャットルームを開設すれば議論活発なゼミナールだって開ける。卒業資格とか体系的な教育内容とか言われるとまだ準備には時間がかかるかもしれないが、とりあえず国際関係に関心を持つ人間の心を潤すく らいの知的刺激は十分に与えられると信じている。
大猫熊は機械猫の夢を見続けている。
近藤 泉 (15時25分)
ロンドンの同時多発テロで亡くなられた方々とそのご家族に、心からお悔やみを申し上げます。 傷を負ったみなさまに、心と体の傷の痛みが一日も早く癒えることをお祈り申し上げます。
◆ 茶の間のテレビは、増え続ける犠牲者の数を叫んでいました。 我が家の男の子は、最新のロールプレイングゲームの攻略法について友達と話していました。
「死者は30人になりそうです。」
「あいつとこいつをやっつけたよ。超ムズイー。」
「誰が持ち込んだ爆弾なのでしょうか。」
「倒し方、教えてあげるね。」
やめなさい!!
我が家では、子ども達と話し合って一つだけ約束をしました。 「テロで人が亡くなっているのだから、当分の間バトル物のゲームは禁止。」
殺しではなく、登場人物(怪物?)をふわふわ~と消してしまう物も入れると、バトル物ではないゲームはほとんどない、と子どもが教えてくれ ました。子どもが小さいうちは、親もパズル物のテレビゲームの相手をしてやったり、傍にいて「『死ね』という言葉を使ったら1ヶ月ゲーム禁止だからね。」 なんて悲しい見張り番をしていました。小学校のクラスで、我が家は最後から2番目の遅さでテレビゲームを買いました。買ったばかりなのに小さい息子はゲー ムの達人でした。何のことはない、家にゲーム機がなくても友達の所で修行済みでした。母ちゃんの大反対の中、父ちゃんが子どもにプレゼントしてしまいまし た。
◆ 最近神奈川県は、過激な内容のゲームソフトを「有害図書」として青少年に販売できないよう条例を整備しました。人を殺し続けるリアルな画面、非現実の世界 に誘う巧みなシナリオ。買う方も悪いが、作る方が悪の元凶。身分証明なしでは売らせない法規制、素晴らしい前進ですが、一つの自治体に任せていいはずがあ りません。多摩川を越えれば自由に手に入る訳ですから。
そして、一つの県の子どもだけが守られるのではなく、全国の子ども達を守るべきだからです。
私はこの条例の話を聞いてすぐ地元市議に相談しました。いろいろ調べてくれて、都のレベルで取り締まるべきものである、ということが分かりました。
やっぱり!
都議会と連携して今後是非取り組んで行きたいと言うことでした。
本当は過激ゲームソフト製造そのものを規制してもらいたいものです。選んで買わせた筈なのに買ってからあまりにひどい内容のゲームに、封印をした物もあります。命を慈しむ人間を育てたいのに、人殺しを弄ぶ遊びを教えた商業主義を心底憎みます。
王 元 (15時20分)
秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年、中国の人口は約2千万人であったといわれています。中国で最初に全国的に戸籍が作られたのは、前漢の 末期、平帝の元始2年(紀元2年)で、その当時の全国の人口は59,594,978人でありました。隋の戸籍登録人口は46,019,956人(609 年)。唐の戸籍登録人口は玄宗天宝14年に52,919,309人(757年)であり、いずれも前漢末の数字には及びません。中国の戸籍登録人口が前漢末 の記録を追い抜くのは、実に約1000年後の北宋まで待たねばなりませんでした。ちなみに、一億人の大台に乗ったのは清朝の康熙帝(1661-1722 年)の統治の末年とされています。
劉邦の話は次のシリーズにとっておくことにして、今回は澮河の話を続けたいと思います。臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。漢代以来、中国の人口は20倍以上増加したことから見れば、古城臨渙の停滞ぶりが分か ります。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。
秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にこの沛(漢代に「沛国」となった)は劉邦の故郷であ り、魏晋のとき南の譙(西晋のとき「譙国」となる)は曹操の故郷であって、中間にある銍は見落とされていました。しかし全地区の繁栄につれて、それなりに 繁栄ぶりを見せてくれました。シリーズ②陳琳上魏文帝(曹丕)書に見られるようなことはその証拠でしょう。
経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かったでのす。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。
隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖忽必烈(フビライ 蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降 格され、今日に至ります。
この理由はいろいろあるが、もっとも大きなものは二つ挙げられます。
一つは中華文明の発展性の方向によるものです。中華文明の発展性の方向には三つの時期が見られます。一つ目は西から東へ、つまり河川(黄 河と長江)に沿っての東進。三つ目は北から南へ、つまり大運河と海の道を使っての南下。前者は夏から秦まで、後者は隋以降であります。それから二つ目は漢から唐まで、つまりこの二つの時期が入れ替わるという過渡期です。澮河の流れは北西から東南へ。長い間、淮河の支流である渦河、頴河と共同で黄河流域(中原)と淮河流域を結びつく動脈でした。故郷の繁栄期は全体的に見れば、漢から唐までの過渡期と重なる。この時期が過ぎると中華文明の発展の中心が、他の地域へと移転してしまったので、故郷繁栄から衰落へと転落したのです。
それからもう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。これについては次回にいたしましょう。