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2003年11月11日

自衛隊は武器を持たないでイラクへ ―2003年11月9日の総選挙を終えて―

中西 治 (23時52分)

2003年11月10日に小泉首相は自民・公明・保守新党の与党3党が総選挙で安定多数を確保し、国民の支持を得ることができたので、状況が許せば自衛隊を早期にイラクに派遣したいと言明した。朝日新聞が11月11日の朝刊で伝えた日本政府のイラクへの自衛隊派遣についての基本計画案によると、日本政府は陸海空3自衛隊と文民の計1200人程度を今年の12月下旬から順次イラクに派遣するようである。

ところが、同紙の同日夕刊によると、政府は当初この計画案をアメリカのラムズフェルド国防長官が来日する11月14日に閣議で決定し、11月19日に召集される見込みの特別国会に報告する予定であったが、イラク治安の悪化や総選挙での民主党の躍進を受けて国会での審議を避けるために閣議決定を特別国会後に先送りするという。

自衛隊のイラク派遣は日本が第二次大戦後はじめて本格的に自衛隊を海外に送りだすという日本のこれからの運命にとってきわめて重大な問題であり、選挙の大きな争点となった問題であるにもかかわらず、新たに選出された国会の場で審議されないようにするというのは許しがたいことである。政府の自信のなさを表わしている。

有権者の投票行動が一つの要因だけによって行われるものでないことは多言を要しないが、小泉首相の論理に従ったとしても、今度の選挙結果によって日本国民が自衛隊のイラク派遣を認めたことにはならない。今回の選挙で自衛隊のイラク派遣を推進している自民・公明・保守新党の与党3党が得た票よりもこれに反対している民主・共産・社民の野党3党が獲得した票の方が多い。

与党3党が今回の選挙で得た票は比例区においておよそ自民党が2066万、公明党が873万、合わせて2939万である。それぞれの得票率は35.0%と14.8%、計49.8%である。小選挙区においては自民党が2608万、公明党が88万、保守新党が79万、合わせて2775万である。それぞれの得票率は43.8%、1.5%、1.3%、計46.6%である。

他方、野党3党の得票は比例区において民主党が2209万、共産党が458万、社民党が302万、合わせて2969万である。得票率は民主党が37.4%、共産党が7.8%、社民党が5.1%、計50.3%である。小選挙区においては民主党が2181万、共産党が483万、社民党が170万、計2834万である。得票率はそれぞれ36.7%、8.1%、2.9%、計47.7%である。

比例区と小選挙区のいずれにおいても民主・共産・社民の野党3党が得票数と得票率の両者において自民・公明・保守新党の与党3党を上回っている。小泉首相流に言えば、日本国民は自衛隊のイラク派遣に反対している。

私は与党3党に投票した人がすべて自衛隊のイラク派遣に賛成しているとは思わないし、野党3党に投票した人がすべて自衛隊のイラク派遣に反対しているとも思わない。前者のなかに反対の人もいるだろうし、後者のなかに賛成の人もいるであろう。

重要なのは、いずれの党に投票したにしろ、自衛隊のイラク派遣に賛成する人々の多くが自衛隊のイラク派遣は戦争で困っているイラク人を助けるためのものであって、イラク人を殺すためのものではないと考えていることである。

小泉内閣も自衛隊の派遣はイラクの復興を助けるためであると言い、前記の基本計画案でも自衛隊の活動として浄水・給水、医療、生活物資の配付、輸送活動を挙げ、文民の活動として電力供給、医療、教育などを挙げている。私はこのような救援活動に賛成である。しかし、そのために自衛隊を派遣する必要はないと考えている。

国境なき医師団や海外青年協力隊などをはじめとしてそのようなことを専門とする人々や集団はたくさんあるし、今も活発に活動している。政府はこのような活動を積極的に支援するとともに、イラクの現状にそくした文民の救援活動を展開すれば良い。

自衛隊が本当にイラクの人々を助けるために行くのであるならば、自衛隊は武器を持たないで行くべきである。自衛隊は日本の災害復興支援のときには武器を持って行かないであろう。そのような物は救援活動の邪魔になるだけである。

現に戦争が続いているイラクで復興支援を行うことは危険である。それは当たり前である。だからといって、赤十字や国境なき医師団は武器を持っては行かない。どうしても現地の人々の理解が得られず命が危険にさらされるときには引き揚げれば良い。助けに行って、助けることを続けるために助けるべき人を殺してはならない。それでは何のために行ったのかわからない。人道的援助は人道的に行うべきである。

小泉内閣は自衛隊に短銃や機関銃に加えて自爆テロ対策として携帯式の対戦車弾や無反動砲を携行させるといわれている。これは復興支援の道具ではなく、人を殺し、物を破壊する道具である。このような兵器を装備した自衛隊員を見たときにイラクの人々はどのように思うであろうか。復興支援のためではなく、アメリカ軍を助けてイラク人を殺すために来たと考えて何の不思議があろうか。

自衛隊は武器を持たないでイラクに行き、復興支援に従事することによって日本国憲法の下での自衛隊が果たすべき役割を世界に示すことになる。災いを転じて福とすることができる。

今回の選挙で当選された衆議院議員が参議院議員とともに国会の場でこの問題を真剣に審議されることを皆さんを国会に送りだした主権者の一人として強く要求する。

2003年11月3日

池子の森を訪ねて

その他 (22時25分)

投稿者:佐藤 智子

10月25日の午後、「池子の森の見学会」に参加しました。 遅ればせながら少し報告と感想を。

この見学会の主催者は日本ジャーナリスト会議(JCJ)神奈川支部。 (JCJについては、http://www.jcj.gr.jp/ ) 午後2時に京浜急行「六浦」駅に集合。隣の神武寺駅まで歩き、その後、 近くの池子会館で質疑・交流。参加者は二十数名でした。 池子では今、新たに800戸の米軍住宅を建設する計画がもちあがっていて、 歩きながら池子問題を考えようという企画です……

本文はPDFファイルでご覧いただけます。

2003年9月21日

2003年度後期連続講義「現代人間国際関係史」

事務局 (18時58分)

講師:中西 治ほか
日時:後期9月27日から12月6日までの土曜日、全10回

第1回  9月27日

  1. 『現代人間国際関係史』に対する書評と質問に答えて
  2. フルシチョフとケネディ  (中西 治)

第2回  10月4日  毛沢東と現代中国  (汪 鴻祥)
第3回  10月11日  鄧小平、江沢民  (王 元)
第4回  10月25日  ガンディーと現代における非暴力  (玉井秀樹)
第5回  11月1日   中東イスラム世界の歴史と指導者 −ムスタファ・ケマルとサダム・フセイン−  (岩木秀樹)
第6回  11月8日   胡錦涛、呉邦国、温家宝 −中国共産党第16回全国代表者大会が生み出した新指導部− (林 亮)
第7回  11月15日   1989年東欧変革のアクター  (木村英亮)
第8回  11月22日   ゴルバチョフ、エリツィン、プーチン  (木村英亮)
第9回  11月29日   現代アメリカの女性たち−連邦議会の女性議員−  (佐藤智子)
第10回  12月6日  21世紀の地球社会の指導者像 −アメリカは「帝国」か、日本の選挙結果は何を示すか、地球社会の将来は− (中西 治)

2003年8月14日

書評と質問に答える

中西 治 (8時40分)

現代人間国際関係史―レーニンからプーチンまでとローズヴェルト、チャーチル

斎藤治子さんが拙著『現代人間国際関係史』(南窓社、2003年)を『ロシア・ユーラシア経済調査資料』2003年8月号(No.854)で紹介して下さった。お忙しいなか貴重な時間を拙著のために割かれ、精読されたことに感謝している。一連の批判を頂戴したので、それにお答えしたい。第一は「不問に付」されてはいるが、「人間の研究から始める」のにホッブス、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人だけで良いのかの問題である。私はかつて『現代共産主義の基礎知識』(明学出版社、1974年)を上梓し、そのなかでモア、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人を取り上げた。私の思想は基本的にはこれらの人々の延長線上にあるが、今回はモアに代えてホッブスを入れた。政治的人間を分析するのにはホッブス的な人間観を理解することも必要であると考えたからである。抽象的な人間論に深入りせず、この部分は簡潔にし、具体的な人間をして政治的人間を語らしめるようにした。

人間の全面的解明のためにはこれだけでは十分でない。次に世に問う書においてはより広く深く人間を見つめてみたい。

第二はレーニンに関する記述についての幾つかの問題である。ここの部分は私が1980年と1971年に発表した文章が基本をなしている。前半は高校生向けの『受験の世界史』(聖文社、1980年4-12月)、後半は一般読者向けの新書『ソ連の外交』(潮出版社、1971年)に掲載したものである。いずれも最初の発表時には注が付いていなかったが、今回は注を在外研究先のアメリカ合衆国で付した。

斎藤治子さんが提起されている問題は(1)ロシアの貧困化がヴィッテの工業化そのものによってもたらされた面が強調され、農奴解放の不徹底による農民の負担過重のなかで資本主義化が進められたロシアの特殊な条件が出ていないこと、(2)第一次大戦開戦後、ほとんどの社会民主党は祖国防衛主義となって戦争支持の立場に変わる中で、レーニンなどきわめて少数が戦争反対の立場を変えず、それが厭戦気分の国民の欲求と合致したことを軽視できないこと、(3)コルニ−ロフの反乱は「ケレンスキーの政策にあきたらず」というよりも反革命を志向し、二月革命の成果をひっくりかえそうとするものであったのでレーニンは四月テーゼの「ソヴィエトへの平和的な権力移行」から「力による権力獲得」に変更し、これをめぐるボリシェヴィキの内部論争で執拗な説得をしてまわったことには触れていないこと、(4)ブレスト・リトフスク講和をめぐる論争で講和推進派のレーニンがトロツキーの折衷案である「戦争も講和もしない」に基づく交渉結果に「非常に満足したといわれる」のは信じがたいことなどである。

(1)についてはロシアの貧困化(私の言葉では「民衆の生活はかえって苦しくなった」)がヴィッテの工業化だけでなく、農奴解放の不徹底による農民の負担過重によってももたらされたことはその通りであろう。私もヴィッテのところで農民の過重負担に触れ、ストルイピンのところで対農民政策の問題点を指摘した。ただ、これを「ロシアの特殊な条件」といえるのかどうかである。遅れて工業化の道に入ったロシアや日本などの国では「工業化のための投資の大部分は人民の生活を犠牲にし、人民の中から引き出されたのである。」

(2)については私もまったく同意見である。レーニンもこのことをよく自覚していた。だから、どのような犠牲を払っても戦争から離脱し、民衆に平和を与えることが必要だったのである。

(3)についてはその通りであろう。

(4)について斎藤治子さんは「非常に満足したといわれる」の後に(典拠無し)と記しておられるが、私は「トロツキーの回想によると、ソヴェト代表団はドイツは攻撃をしかけて来ないという予測を持って、ブレストからモスクワに帰ってきた。レーニンはドイツが攻撃を再開するのではないかと危惧しながらも、この結果に非常に満足していたといわれる。」と書いておいた。典拠は注記(4)のトロツキーの回想録『我が生涯』である。この文言の評価について様々な意見があって当然である。

以上のような問題を有するにもかかわらず敢えて20年前、30年前の文章を若干の補正をしたが、ほぼそのまま(追加したのは「レーニンをめぐる女性たち」だけ)再録したのはソヴェト体制崩壊後も私のレーニンについての考えが変わっていないからである。 政治家は自己の置かれている政治的状況に応じて特定の過去の人間に対する評価を変えるが、研究者はそうであってはならない。言葉で生きる者は言葉を大切にしなければならない。状況によって言葉が変わるようでは言葉だけではなく、人間も信じられなくなる。同じことはスターリンについての評価でも言える。

私がロシア語を学び始めたのは1952年4月、スターリンがまだ健在であり、「ヴェリ−キー・ヴォ−シチ(偉大な指導者)」といわれた時代である。翌1953年3月にスターリンが亡くなったときにソヴェト人は長蛇の列を作ってその死を悼んだ。それからわずかに3年、1956年2月のソヴェト共産党第20回大会で厳しい批判にさらされたのである。

私は戦前・戦中に神と崇められた昭和天皇が戦後に人間となるのを見てきたのでこれには驚かなかった。政治家の毀誉褒貶の激しさを知った。私はいかなる人間も生きているうちは神とは思っていない。人間は人間である。生きている人間が亡くなった人間を神や仏にするのである。

私は2002年12月30日に古稀を迎えた。還暦を迎えるころから人間がやっと少し分かり始めた。そのころから文章が比較的楽に書けるようになった。70歳に近くなってこれまで雲の上の人のように思われたレーニンやスターリンやローズヴェルトやチャーチルが身近に見えるようになった。レーニンが亡くなったのは54歳、スターリンが亡くなったのは74-5歳、ローズヴェルトが亡くなったのは64歳、チャーチルが亡くなったのは91歳。

私が主として扱った時期のこれらの政治家はすべて今の私よりは若い。なるほどこの歳ではこれくらいのことしか考えられないのかと思えるようになった。

私がこの本を出したのは第二次大戦が遠い昔の物語となり、多くの事実が明らかにされないまま歴史のかなたに消え去ろううとしているからである。国際関係論の専門家を自称する人でも第二次大戦について正確な事実を把握しているとは言い難い人が増えている。この時代を生きてきた日本人研究者の一人としてどうしてもこの本は出しておきたかった。第二次大戦の性格とその戦後処理の経過・結果、戦後冷戦の起源などを正しく理解することなしに20世紀後半の国際関係を解明し、21世紀の地球社会を考えることはできない。

斎藤治子さんと私は第二次大戦中の主要な論点についてほとんど意見が一致している。

斎藤治子さんの書評とは別に、私がかつて勤めていたNHK報道局の先輩で、久しくご指導いただいている元参議院議員・衆議院議員の上田哲さんから次の二つの質問をいただいた。

第一の質問は、1907年の亡命、その後のパッとしない動静のレーニンが1917年4月3日、ペトログラードに帰国した時、儀仗兵が出迎えボリシェヴィキ、メンシェヴィキの代表が挙って歓迎した…という評価、つまり彼が遅れて来たのに「リーダー」になった経緯がよくのみこめないのです、である。

第二の質問は、「19世紀において世界政治に直接大きな影響を与えたのは国家の指導者であった。20世紀には国家の指導者とともに大衆運動組織の指導者も影響を与えるようになった。21世紀には個々の人間が地球社会の運命に直接影響を与え得るようになっている」はじつに的確な洞察です。その一例が「9.11」であるというあてはめがもう少し追いつけません。私も9.11なかりせば、イラクも今回の有事法制もなかったと思いますし、私自身、ニューヨークの現場へ行きました。それだけにこの例示をもっとよく人に伝えたいと思います、である。

第一の質問についてレーニンは亡命中の活動でロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)の指導者の一人として地位を確立しつつあったが、ロシアの革命運動のなかではまだ小さなグループの指導者にしか過ぎなかった。レーニンを出迎えたのは首都で革命を推進したペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの議長チヘイゼと副議長スコべレフなどであり、儀仗をしたのはクロンシュタット要塞の水兵たちであった。臨時政府の首相や副首相ではなく、正式の儀仗隊ではない。

チヘイゼとスコべレフはロシア社会民主労働党のメンシェヴィキ(少数派)に属した。名称は少数派でも当時の状況のもとではボリシェヴィキよりも多数派であり、影響力は大きかった。ボリシェヴィキとメンシェヴィキは党の組織のあり方や革命の路線で対立し、別々の組織になっていたが、革命的高揚のなかで統一への動きが出ていた。

1917年8月8日のボリシェヴィキの大会で戦争に反対するトロツキーやルナチャルスキーなどのグループ「メジュライオンツィ(統一社会民主主義者地区連合組織委員会)」がボリシェヴィキに加わる形で戦争に反対する社会民主主義者の統一が拡大していた。この大会にはレーニンは官憲の追及を受けて出席できなかった。マルトフが国際主義派メンシェヴィキ中央ビューロを代表して祝辞を送った。

同年11月7日に権力を握ると宣言した第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴェト大会にもマルトフは出席していた。同大会で人民委員会議(臨時労農政府)議長にレーニンが選出されたが、ペトログラード・ソヴェト議長兼同軍事革命委員会議長となっていたトロツキーが外務人民委員、ルナチャルスキーが教育人民委員となった。

前述のトロツキーの回想碌によると、レーニンは首都の革命の最高指導者であり、臨時政府を打倒し権力を掌握したと宣言したトロツキーに議長となるように勧めたが、トロツキーはユダヤ人であるが故に断り、レーニンが議長に就任することになったといわれている。最初のソヴェト政府は平和を実現するための統一戦線政府であった。

1917年4月から11月の間にボリシェヴィキは急速にその勢力を拡大し、影響力を強め、レーニンの権威も高まっていたが、それは激しい政治闘争の結果であった。それでもレーニンはトロツキーと並ぶボリシェヴィキの指導者の一人であった。ブレスト・リトフスクの講和をめぐる論争はこれを示している。この段階でもレーニンは絶対的な権力者ではなかった。

第二の質問について私は「同時多発テロ」という用語を使っていない。それは一般に個人やそのグループが行う暴力行為であるテロはいかなるものも認められず悪いものであるが、国家が行う戦争は最後の手段として認められ、良いものもあるとされているからである。

私はテロも戦争も関係者だけでなく、関係のない人も不幸にする悪い行為であり、両者に反対である。テロは戦争の民営化であり、戦争は国家が行うテロである。

9.11は起こるべくして起こっている。私は当初クリントン政権では起こらず、ブッシュ政権だから起こったのではないかと考えていたが、アメリカ合衆国で1年間生活し研究する過程でブッシュ政権の登場は事件の発生を早めた可能性はあるが、それはアメリカ合衆国が多年にわたってイスラエルの側に立ってアラブの人々を抑圧してきた必然の結果であると考えるようになった。

9.11は悪い結果をもたらしている。それはアメリカ合衆国をアフガニスタンのタリバン政権に対する戦争、イラクのフセイン政権に対する戦争へと導き、紛争を拡大し、より多くの人間をいっそう不幸にしている。しかし同時に、朝鮮戦争やベトナム戦争がアメリカ合衆国における公民権革命を促進し、アメリカ社会を質的に変える重要な要因になったように、アフガニスタンとイラクに対する戦争もその実行者の意志に反してアメリカ合衆国を再び質的に変える重要な要因となるのではないかと考えている。

私は9.11の出来事がその一例となると指摘したあとに「人間はこの時代にふさわしい人間とならなければならない」と述べている。

21世紀は個々の人間が地球社会の運命に良きにつけ悪しきにつけ直接影響を与え得るようになっているから人間は良い影響を与えるように努力しなければならない。これが私が言わんとしていることである。

さらに別の方から、ソヴェト体制とエリツィン、プ−チンについて語ったところでゴルバチョフについて論じた部分が少ないのではないのか,彼をどのように評価するのか、との質問を受けている。

私はゴルバチョフについては別に一書『ソ連邦から共同体へ』(南窓社、1992年)を書いており、このなかで合格点を60点から50点に下げ、彼に50点をつけている。ぎりぎりの合格点である。彼が意図してソヴェトを解体させたのならば、100点であるが、彼は決してそれを望んではいなかった。だから、零点である。しかし、人間を解放したこと、世界戦争の危険を遠のけ、核ミサイル兵器削減の第一歩を踏み出し、ドイツ統一を促進したことなどを評価し、点を加え、50点とした。あとは読者にそれぞれの点をつけていただくようにお願いしている。政治とはむずかしいものである。

2003年7月20日

第1回研究会

事務局 (23時48分)

2003年7月20日 午後2時から5時半まで かながわ県民センター710号室

統一テーマ「東アジアの平和と繁栄」

報告者: 王 元 (本研究所理事)
「第二次朝鮮半島核危機について−『当事者』の意味:中国からの視点−」

報告者: 亀山 伸正 (創価大学大学院博士後期課程)
「クリントン、ブッシュ両政権の東アジア戦略および政策−政府機関報告書、政権関係者の論文、演説から−」

報告者: 渡邊 宏 (本研究所監事)
「『戦後的価値』の展開としての対アジア関係」

2003年7月15日

ニューズレター No.3 特集「東アジアの平和」

事務局 (0時24分)

PDFファイルでご覧いただけます。

・「宇宙的視野で考え、地球的規模で行動しよう −第2回総会を終えて−」(中西 治)
・「独ソ戦とスターリンについての新しい見解」(木村 英亮)

特集 「東アジアの平和」
・「日本国会の暴走を憂う」(林 亮)
・「東アジアにおける平和と『人間の安全保障』実現を目指して」(川崎 高志)
・「SARSに思う」(大江 平和)
・「東アジアの平和のために」(岩木 秀樹)

2002年度連続講座「中国はどこへ行くのか」
・第2回 「天安門で挫折した中国の政治体制改革」(王 元)
・第3回 「中国の貧困対策の経過」(川崎 高志)
「南アジアの核軍備競争と中国核戦略
−危惧される『中国封じ込め』による『制御不能な新冷戦』−」(林 亮)

・2003年度前期連続講義「現代人間国際関係史」(中西 治)
・会員紹介(澤入 恵子・浪木 明)
・総会報告
・理事会報告
・4委員会設置
・事務局からのお知らせ

2003年7月1日

第2期I役員 (2003年7月1日-2004年10月31日)

事務局 (0時00分)

役員

理事長: 中西 治
副理事長: 佐藤 智子
理事: 岩木 秀樹、王 元、汪 鴻祥、川崎 高志、澤入 恵子、竹田 邦彦、玉井 秀樹、徳永 雅博、中西 節子、林 亮、牧野 常夫
監事: 木村 英亮、渡邉 宏

事務局

事務局長: 佐藤 智子

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2003年6月10日

유사법제 3법의 일본국회통과에 대해 ―지구상의 모든 곳에 평화의 소리를 높이자.

中西 治 (10時34分)

2003년6월 6일, 일본의 국회는 유사법제 3법을 성립시켰습니다. 1977년 8월 당시, 후쿠다 카케오 자민당내각이 일미방위협력소위원회의 협의에 입각해 공식으로 유사입법의 연구를 시작했을 때부터, 4반세기를 거쳐 자민당은 그 목적을 달성했습니다. 유사입법이 지향하고 있는 것은 일본의 자위대를 국외에 파견, 아메리카군과 함께 싸우게 하려는 것입니다. 후쿠다 카케오수상을 정치의 스승으로 우러러 보는 고이즈미수상과 원수상의 아들인 후쿠다 카케오의 내각에 있어서 이것이 실현된 것은 우연한 일이 아닙니다. 그들은 스승과 아버지의 정치적유언을 실현한것입니다.

세계 제 2차 대전에 의해 전쟁의 참전을 체험한 일본은, 일본군이 또 다시 외국에 나가, 그 곳의 사람들을 죽이지 않는 일을 맹세하고 무력을 포기했으며, 전체적인 분쟁문제를 평화적인 대화을 통해 해결하도록 했습니다. 이것이 일본국헌법의 정신이자 제 9조의 규정입니다.

일본은 식료있어서도, 또 석유, 천연가스에 있어서도 많은 외국에 의존하고 있는 것은 물론, 평화의 테두리속에서 밖에 살아갈 수 없는 나라입니다. 일본은 전쟁하에서는 살아갈 수 없습니다. 일본인의 다수는 그 사실을 잘 알고 있고 , 전쟁을 전제하는 유사입법을 오랫동안 거부해 왔습니다.

1990년대에 들어가면서 정세는 급속히 변화하기 시작했습니다. 1991년 1월의 제 1차 타이완 전쟁의 흔적으로, 자유대의 청해선이 페르샤만에 출동하고 1992년 6월에는 국연평화유지활동협력법이 성립되었습니다. 2002년 12월에는 이지즈함이 인도해에 출동하고, 이어 유사법제3법이 채택되었습니다.

어떻게 해서 이렇게 되어 버렸는가. 제 1의 이유는 1990년 8월 2일에 이라크에 의한 쿠웨이트 진공이후전쟁이 빈발하고, 많은 일본인이 전쟁의 위험을 가깝게 느낄수 있도록 되었기 때문입니다.1991년 1월의 제 1차 타이완전쟁, 1998년12월의 제 2차 타이완전쟁, 1999년3월의 코스보전쟁, 2001년 9월11일의 사건에 이어, 같은 해 10월의 아프가니스탄의 타리반정권에 대한 전쟁, 2003년 3월의 이라크의 후세인정권에 대한 전쟁등입니다.

제2의 이유는 전쟁에 대한 일본인의 의식의 변화입니다.일찍이 전쟁은 제 1차 대전, 제 2차 대전, 한국전쟁,베트남전쟁, 아프가니스탄전쟁 같은 장기간에 걸친 지상전을 수반하는 비참한 것입니다. 그러나 , 지금의 전쟁은 제 1차 타이완 전쟁이래 하이테크 기술을 구사하는 단기간의 텔레비전게임같이 되어 버렸습니다. 그것으로 인해 죄없는 다수의 사람들이 잔혹하게 죽음을 당하고 있는 것을 볼 수 없게 되었습니다.

그럼에도 불구하고 2002년 4월에 유사법제3법안이 국회에 상정되었을 때, 일본인은 그 성립을 용서하지 않았습니다. 그러나 그로부터 겨우 1년후의 지금, 이 법안은 여당뿐만아니라 야당의 다수의 의원도 포함한 찬성에 의해 중의원, 참의원 양원을 통과했습니다. 여기에는 2002년 9월의 일조 평양선언이후 명확해진 납치라는 불길한 사건이 큰 영향을 끼치고 있습니다.

일본과 조선 한반도 사이에는 옛부터 밀접한 관계가 있습니다. 양지역의 관계는 각각의 지역의 사람들의 생활과 평화, 안전에 큰 영향을 끼쳐왔습니다. 양지역간에는 도쿠가와막부체제아래의 쇄국의 시대에는 유호적인 교류가 있었습니다. 근현대에 있어서의 그 불행한 관계는 일본이 1910년 8월에 일한 병합조약에 의해 한국을 식민지화하고,그 지역을 조선이라고 칭하게 된 때에 시작되었습니다.일본에 의해 중국에의 침략전쟁이 확대되어가는 속에 1939년 7월에 히라누마키이치로우내각은 조선인노동자내지이주에 관한 건을 통첩하고, 조선인을 강제적으로 일본에 연행했습니다.그 수는 일본에 의해 식민지지배가 끝나는 1945년8월까지의 약 150만인에 달한다고 합니다.

그 불행한 역사가 아직 완전히 끝나지 않았다는 일을 최근의 일어날 일이 다시금 명확히 보여주고 있습니다. 일본인이 먼저 그 과거의 식민지 지배에 대해 솔직하고 겸허하게 반성하지 않으면 안됩니다. 그러나,상대방이 나쁘기때문에 라고 이야기하면서 자신도 그 나쁜일을 한다면 똑같이 나쁜사람입니다. 조선민주주의 인민공화국도 납치에 대해 겸허히 반성해야합니다.핵무장등은 해서는 안되는 일입니다.그 지역의 긴장을 높게 하는 것 뿐입니다. 고이즈미 내각은 일본인의 안에 퍼져가고 있는 동국에 대한 의심과 반감과 비난을 계략적으로 이용하면서 25년이래의 과제를 완수했습니다.

일본은 전쟁을 하지 않는 국가에서 전쟁을 하는 국가가 되었습니다. 일본국의 질은 변했습니다. 다음은 헌법개정이 구체적인 정치일정에 다루워지는 일일것입니다. 전쟁을 전제로 한 생각, 전쟁에 대비하게 되는 때, 전쟁은 바로 가깝게 와 있는 것입니다. 쌍방이 전쟁에 대비하기 시작할 때에 전쟁은 일어납니다. 이미 선제공격에 관하여 조차 논의 되고 있습니다.

1938년 4월의 국가총동원법의 공포가 상기되었습니다. 그로 부터 1941년 12월8일에 진주만공격까지 겨우 3년 8개월 남짓입니다. 만약, 똑같은 일을 겪는 일이 되면 또다시 많은 인명을 잃어버리고 일본은 폐허화될 것입니다.이번의 유사법제3법에 찬성한 사람들의 책임은 극히 중대합니다.

어떻게 대처할 것인가.우리들은 전쟁의 논리에 말려들어서는 안됩니다.전쟁이 일어나면 어떻게 할까가 아니라 전쟁이 일어나는 원인을 잡아내기 위해서는 어떻게 할까에 대해 생각해야만 합니다. 우리들의 연구소는 모두 중한인민공화국,대한민국, 조선민주주의 인민공화국, 러시아 연맹, 아메리카합중국등의 뜻을 같이한 사람들과 협력해 지구상의 평화, 특히 동아시아의 평화와 번영을 확보하기위해 구체적인 활동을 시작하고 있습니다.

우리들의 연구소는 강력한 도구를 가지고 있습니다. 메일igcp@mlc.nifty.com과 홈페이지http://www.igcpeace.org/입니다. 그 도구를 유효하게 사용해,평화의 소리를 백, 천 만 억의 사람들에게 알려갈 것입니다. 지구상의 모든 곳에 평화의 소리를 높여갈 것입니다.정의는 전쟁의 측면이 아니라 평화의 측면에 있습니다.평화를 소중히 하는 사람들이 협력해 연대를 맺는 다면, 정의는 반드시 실현됩니다.평화는 반드시 확보됩니다.우리들의 연구소는 그것을 위해 만들어 진 것입니다.

韓 智姫(ハン ジヒ)訳

有事法制3法の日本国会通過にあたって ―地球上のすべてのところで平和の声を高めよう―

中西 治 (6時14分)

2003年6月6日に日本の国会は有事法制3法を成立させました。1977年8月に時の福田赳夫自民党内閣が日米防衛協力小委員会の協議に基づいて公式に有事立法の研究を始めてから四半世紀を経て自民党はやっとその目的を達しました。有事立法がめざしたものは日本の自衛隊を国外に派遣し、アメリカ軍とともに戦わせることです。福田赳夫元首相を政治の師と仰ぐ小泉首相と元首相の子息である福田官房長官の内閣においてこれが実現したことは偶然ではありません。彼らは師と父の政治的遺言を実現したのです。

第二次大戦によって戦争の惨禍を体験した日本は日本の軍人がふたたび外国に出て、その地の人々を殺し傷つけないことを誓い、武力を放棄し、すべての紛争問題を平和的な話し合いによって解決することにしました。これが日本国憲法の精神であり、第九条の規定です。

日本は食料にしても石油・天然ガスにしてもその多くを外国に依存しており、平和のもとでしか生きられません。日本は戦争のもとでは生きられません。日本人の多くはそのことを良く知っており、戦争を前提とする有事立法を久しい間拒否してきました。

1990年代に入って情勢が急速に変わり始めました。1991年1月の第一次湾岸戦争のあとに自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に出動し、1992年6月には国連平和維持活動協力法が成立しました。さらに1999年5月には周辺事態法、2001年10月にはテロ対策特別措置法が成立しました。2002年12月にはイージス艦がインド洋に出動し、ついに有事法制3法の採択となりました。

どうしてこのようになったのでしょうか。第一は1990年8月2日のイラクによるクウェート進攻以降戦争が頻発し、多くの日本人が戦争の危険を身近に感じるようになったからです。1991年1月の第一次湾岸戦争、1998年12月の第二次湾岸戦争、1999年3月のコソボ戦争、2001年9月11日の事件に続く同年10月のアフガニスタンのタリバン政権に対する戦争、2003年3月のイラクのフセイン政権に対する戦争などです。

第二は戦争に対する日本人の意識の変化です。かつて戦争は第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争などのような長期にわたる地上戦をともなう悲惨なものでした。しかし、いまでは戦争は第一次湾岸戦争以来ハイテク技術を駆使した短期のテレビゲームのようなものになっています。そこでは罪のない多数の人々が残虐に殺されていることが見えてきません。

それでも2002年4月に有事法制3法案が国会に上程されたときには日本人はその成立を許しませんでした。しかし、それからわずか1年後の今回はこれらの法案は与党だけではなく、野党の多数の議員も含む賛成によって衆参両院を通過しました。これには2002年9月の日朝平壌宣言以後に明らかになった拉致という忌わしい出来事が大きな影響を与えています。

日本と朝鮮・韓半島との間には古来密接な関係があります。両地域の関係はそれぞれの地域の人々の生活と平和と安全に大きな影響を与えてきました。両地域の間には徳川幕藩体制下の鎖国の時代にも友好的な交流がありました。近現代における不幸な関係は日本が1910(明治43)年8月に日韓併合条約によって韓国を植民地化し、この地域を朝鮮と称するようになったときに始まりました。日本による中国への侵略戦争が拡大するなか1939(昭和14)年7月に時の平沼騏一郎内閣は「朝鮮人労働者内地移住に関する件」を通牒し、朝鮮人を強制的に日本に連行しました。その数は日本による植民地支配が終わる1945(昭和20)年8月までにおよそ150万人に及んだと言われています。

この不幸な歴史がまだ完全に終わっていないことを最近の出来事は改めて明らかにしました。日本人がまずこの過去の植民地支配に対して率直に謙虚に反省しなければなりません。しかし、相手が悪いからといって自分も悪いことをすれば同じく悪い人です。朝鮮民主主義人民共和国も拉致について謙虚に反省すべきです。核武装などはすべきではありません。この地域の緊張を高めるだけです。小泉内閣は日本人のなかに広がっている同国に対する疑念と反感と非難を巧みに利用しながら25年来の課題を果たしました。

日本は戦争をしない国から戦争をする国になりました。日本国の質が変わりました。つぎは憲法改定が具体的な政治日程に上ることでしょう。戦争を前提として考え、戦争に備えるようになったとき戦争はすぐ側まで来ています。双方が戦争に備え始めたときに戦争は起こります。すでに先制攻撃についてさえ論議されています。

1938(昭和13)年4月の国家総動員法の公布が思い起こされます。それから1941(昭和16)年12月8日のパールハーバー(真珠湾)攻撃までわずかに3年8か月余りでした。もしも、同じような道を歩むことになれば、ふたたび多くの人命が失われ、日本は廃虚に化するでしょう。今回の有事法制3法に賛成した人々の責任はきわめて重大です。

どのように対処すべきでしょうか。私たちは戦争の論理に巻き込まれてはなりません。戦争が起こればどうするのかではなく、戦争が起こる原因を取り除くためにはどうするのかについて考えるべきです。私たちの研究所はすでに中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、ロシア連邦、アメリカ合衆国などの志を同じくする人々と協力して地球上の平和、とくに東アジアの平和と繁栄を確保するために具体的な活動を始めています。

私たちの研究所は強力な道具を持っています。メーリングリスト (igcp@mlc.nifty.com) とホームページ (http://www.igcpeace.org/) です。この道具を有効に使い、平和の声を百、千、万、億の人々に広げていきましょう。地球上のすべてのところで平和の声を高めましょう。正義は戦争の側ではなく、平和の側にあります。平和を大切にする人々が協力し連帯するならば、正義はかならず実現します。平和はかならず確保されます。私たちの研究所はそのために作られたのです。

2003年5月26日

有事法制の権威性への憂い

その他 (10時16分)

投稿者:小林 宏紀

無辜の民を犠牲にしない政治が日本においてどれほど試みられているか。この一点についての公憤とともに、以下筆を執るものである。

冷戦終結後、世界で唯一の超大国となったアメリカに対し、その脅威の一方で、 法と民主主義に基づいたリーダーシップが期待され、求められてもいた。しかし漸次姿を現したアメリカの一国主義的行動は、特に同時多発テロ以後顕著なものとなった……

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