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2005年8月10日

「核廃絶」について(2)

今井 康英 (12時32分)

今回は、順番通りなら「世界情勢」について述べるところですが、
60年目のヒロシマ、ナガサキの日を迎えたばかりなので、
「核廃絶」について述べます。

先に紹介しましたが、7月2日に長崎・爆心地公園を出発したストーンウオークは、
無事、8月4日に広島・原爆ドームに到着しました。
詳しくは、「ストーンウオーク・ジャパン 2005」のHP、あるいは公式ブログ
http://blog.livedoor.jp/stonewalk_jp/などを参照して下さい。

上記ブログによると、運ばれた碑石は、現在、世界平和記念聖堂に安置されています。

その聖堂(カトリック幟町教会)のHPには、平和メッセージのページがあります。
そこには、教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年2月25日にヒロシマ(平和記念公園)の
原爆死没者慰霊碑の前で発表した「平和アピール」が掲載されています。
http://www.nobori-cho-catholic.com/p_2_1.htm

戦争は人間のしわざです。
戦争は人間の生命の破壊です。
戦争は死です。

この「平和アピール」の最初の言葉が、8月6日にヒロシマで、
こども代表が読み上げた「平和への誓い」の冒頭に引用されています。
教皇の言葉は更に続きます。
http://www.nobori-cho-catholic.com/p_2_3.htm

過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。
ヒロシマを考えることは平和に対しての責任をになうことです。

注:こども代表の「平和への誓い」では、表現が若干異なります。

戦争は人間のしわざです。
戦争は人間の生命を奪います。
戦争は死そのものです。

過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
広島を考えることは、核戦争を拒否することです。
広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。

教皇のアピールは最後に「神への祈り」の言葉が述べられて終わりますが、
こども代表の言葉は、被爆者の願いを受け継いで「平和な世界を築くまで」
ヒロシマを語り伝えていく誓いの言葉で終わります。

こども代表の「平和への誓い」全文は、私のブログに掲載しました。
http://blog.goo.ne.jp/05a21/e/72b593ebffc5c6f0b360ef83d6993982

8月9日、ナガサキでは被爆者代表が「平和への誓い」を述べました。

私は諦めません。
命ある限り、生き残っている26万余の被爆者とともに、
そして平和を求めてやまない国内外の皆さん方とともに、
「長崎を最後の被爆地に」と叫びつづけることを
原爆犠牲者の御霊の前でお約束します。

被爆者代表の「平和への誓い」全文も、私のブログに掲載しました。
http://blog.goo.ne.jp/05a21/e/0c704caf9736c762c0105789533b5a85

私も、被爆国の日本に生まれたからには、
また「平和憲法」をもつ国に生まれたからには、
そして「地球宇宙平和研究所」の一員になったからには、
核兵器のない、戦争のない、軍隊のない平和な地球に暮らしたいと念願し、
その実現のために生涯努力することを誓います。

2005年8月9日

郵政解散?

ねこくま (12時38分)

チキンゲームそのものでしたね。小泉さんの郵政解散。政略とか戦略とか色々言われていましたが、終わってみればセンターラインを爆走してきた二人の不良の運転する暴走車は正面衝突、激突してしまいました。前の晩にタイのビールで真っ赤に酔っぱらった森前首相が登場したりして、正に画に描いたようなチキンゲームでした。

キューバ危機なら核戦争勃発です。相手が理性的に行動するだろうという前提があっての核抑止論です。ああ良かった。6者協議の主役が日本じゃなく て。小泉さんは日本人だなあ。清水の舞台から飛び降りるのが大好きですねえ。このままだと敗戦記念日に靖国公式参拝って可能性も。

成算なり、見通しがあっての行動ならまだ良いのですが、どうも反対ならぶっ壊すということなので独りよがりの目算が外れれば自爆ということらしいです。小泉政権だけの自爆ならどうぞ後勝手になのですが、問題は小泉さんがハンドル握っている車にはお客さんが沢山乗っていることですね。

非情になると見栄を切っている様ですが、国民の生命財産の重さにまったく自覚のない小泉さんに日本国を任せることが出来るのでしょうか。非情な政治家に私の生活や財産を勝手に売りに出されるのはご免です。

※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

チキンゲーム: 2人のプレイヤーは崖に向かって別々の車で同時に走り出し、先に運転席から飛び出した者が「チキン」である。

2005年8月8日

60年目の広島に思う

近藤 泉 (12時41分)

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◆再び広島の地に戻って来ることができた――8月5日、5年ぶりに新幹線から広島駅に降り立った私は、深い感慨で胸がいっぱいになりました。60年前の母は、たった一人、同じ駅に立ちどんな思いでいたのでしょう。

原爆記念資料館は様々な人々で溢れていました。なかでも小中学生や高校生の団体、小さい子ども連れの家族が多く、若い世代の心に平和の灯 が受け継がれていることをひしひしと感じました。「平和学習ノート」と書かれたバインダーを首から提げ、この世にあってはならない恐ろしい展示物を真剣に 見つめているこの子達を見ていると、熱いものが込み上げて来て仕方がありませんでした。

◆8月6日、私と中3の次女は、小金井市「平和行事に参加する旅」16名の一員として、慰霊碑に向かって左側自治体席の前の方に座ることが出来ました。 60周年目の祈念式典は8時から1時間以上、登壇者は次の11名にもなりました。

広島市議会議長/秋葉広島市長/こども代表(男女一緒に)/内閣総理大臣/衆議院議長/参議院議長/最高裁判所長官/国際連合事務総長(代読)/広島県知事/広島県議会議長
平和祈念式典式次第

例年言われ続け、特に今年の登壇者が揃って唱えている「被爆者・ご遺族の高齢化」。お年を召した方々のことを考えない60周年の懇ろな式次第に、倒れる方の出ないよう祈るばかりでした。そして、父と同じ80歳の隣席のおじいさんに扇子で風を送り続けました。

◆秋葉市長の平和宣言には毎年感動し、私の生きる姿勢を奮い立たせてくれますが、今年も一言一言が胸に響きました。

秋葉市長は平和宣言で、決裂した5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に言及し、「核保有国と核保有願望国が世界の大多数の声を無視し、人類を滅亡に導く危機に陥れている」と批判。広 島で総会を開いている「平和市長会議」が採択した活動方針を踏まえ、2020年までに核兵器廃絶を実現するため、「国連総会が具体的ステップを10年まで に策定するよう期待する」と強調。来年8月9日までを「継承と目覚め、決意の年」と位置付け、「世界の多くの都市でキャンペーンを展開する」と表明した。
[時事通信:2005年08月06日] 全文を読むには

河野洋平さんは、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の慰霊碑の言葉について言及し、これにも大変心を打たれました。

「20世紀アジアの民が独立に立ち上がった時、西側列強によるアジア支配が始まった。同じアジアの国家として、諸国の民と手を携えてアジアを護る大切な道 があったにも拘らず、日本は逆にアジアの多くの国々を侵略し、アジアの民に悲惨な思いをさせ、取り返しのつかない歴史を残してしまった。過ちとはこの意味 でもある。」  (私の聞いた趣意)

はっきりと日本の来し方について述べ、今後進むべき道を訴えました。政府側挨拶はこの一つで充分だと思いました。

慰霊碑の言葉の意味をずっと考え、昨年盧溝橋抗日博物館を訪れた次女も「これでやっと胸がすっきりした。」、そして総理の挨拶について「小泉さんがしゃ べっているはずなのに、魂が抜けていて、そこに小泉さんの存在が全く感じられなかった」と言っていました。本当に情けない総理挨拶で、団のみなさんも憤慨 していました。

◆この1年間で亡くなられた被爆者は5,375人、慰霊碑に納められた名簿には24万2436人+〔私の母〕の名が刻まれています。今回、母が被爆した地点と逃げ惑った道を辿ることができました。近々写真とともにご紹介したいと思います。

2005年8月7日

外国語があなたを変えていく(5)

浪木 明 (12時44分)

私の部屋には二つのグローブ(球体)があります。一つは地球儀、もう一つはミラーボールです。時は1979年、国際関係論に取り組み始めた私は、六 本木や新宿のディスコに足繁く通い、輝くミラーボールの下で青春の汗を流し、サングリアで喉を潤していました。そして、このミラーボールこそ私の「多重人 格」のシンボルとなったのです。

複数の外国語に取り組んでいくと、自身のコア(核)となる人格に様々なアングル(角度)が加わっていきます。この構造を見事に立体化したものがミ ラーボールなのです。ミラーボールは一見一つの球体でありながら、その球面は多数のミラーから成っています。その一枚一枚が人の「格」であるならば、ミ ラーボールはまさに「多重人格」の象徴といえます。ここで使う「多重人格」には、否定的な意味合いは一切ありません。ミラーの数が多ければ多いほど人間の 幅が広がり、世界のどこに行っても通用する「世界市民」の要件となるのです。

私はダンスが大好きです。「舞踏会」という響きには懐かしさと憧れさえ感じます。3才頃までに人間としての基盤(コア)が出来上がると言われます が、比喩的に言えば、その外側を覆うミラー=マスク(仮面)はその気さえあれば交換可能であり、これこそ未知と既知を往復する貴重な道具なのです。つまり この道具=マスクを手に入れたら、誰でも世界各地のマスカレード(仮面舞踏会)に参加できるのです。なんと楽しいことでしょう!

このコラムが一部の読者の方から、「ユニークな視点だ」「面白い発想だ」との声を頂いておりますが、私が四方八方に放つミラーボールの光を受け止め てください。少しでも納得して行動に移せたなら、あなたはもう「多重人格」の扉を開いたことになるのです。外国語学習はいつでもどこでもスタートできるの です。もちろん、外国語学習だけが「多重人格」を実現する訳ではありません。私の場合は、演劇・ダンス・ミュージカルも大いに役に立ちました。これらにつ いては別の機会に論じます。

有り難いことに、このコラム執筆を通して自分を見つめ直し、新たな決意で外国語研鑚に一層熱が入っております。酷暑の中、連日9時間に及ぶ英語指 導にあたっておりますが、疲れません。アーノルド・トインビー博士曰く、「究極の才とは、仕事と遊びとの境を曖昧にさせる才能である」 あなたも「多重人 格者」になりませんか?毎日、楽しくなりますよ。次回は、真夏の夜の「シャルウィーダンス?」です。

2005年8月6日

戦後社会を支えたもの

わたなべ ひろし (12時50分)

日高六郎さんの新著『戦争のなかで考えたこと』を読んだ。

もし「戦後民主主義者」というものがあるとすれば、僕はこの日高さんと英文学者の中野好夫さんのふたりをあげる。しかしこのふたり、いわゆる戦後思想や平和運動の研究などで思いのほか言及されることが少ない。

数年前、NHKの特集番組を観たとき、日高さんは作家の徐京植(ソ・キョンシク)さんと対談をしていた。自分たち「在日朝鮮人」の存在をその視野 に入れることの無かった戦後民主主義思想というものに対して、非常に厳しい批判者である徐さんが、「戦後民主主義者」である日高さんに対しては、とてもリ スペクトしている感じが画面からも伝わってきた。徐さんはふたりのお兄さんが韓国留学中の1971年、スパイ容疑で軍に逮捕され、19年にわたって投獄さ れており、彼らの釈放運動に日高さんはそうとう尽力されたようだ。

僕が本書から学んだことは、戦後の日本社会を評価する上で、戦前・戦中と戦後の「断絶」と「連続」の問題をどう捉えるべきかということである。

日高さんは敗戦直前の1945年7月に、当時嘱託として属していた「海軍技術研究所」へ、「国策転換に関する所見」という報告書を提出する。それは、 「28歳の青年が、15年間にわたる日本の戦争時代を経験して、どのような認識と判断を持ったか」ということを、「遺書」のつもりで書いたものだという。

この「所見」の骨子は、「支那事変の根本的原因は、我が資本主義的経済体制の支那市場獲得要求にありたり」と断じた上で、国内体制の民主化と対外政策の非植民地化を提案している。

具体的には、「国内策」としては、(1)労働組合による企業管理、(2)八時間労働制と週休制の実施、(3)地主制の廃止と自作農の育成、(4)医療お よび教育の国家管理、(5)言論・集会・結社の自由を、「国外策」としては、(1)対「支那」友好関係の樹立を対外政策の根幹とし、(2)日本の経済権益 を「支那」民衆に返し、(3)台湾・香港は返還する、(4)延安政権の連立政府方式による「支那」統一を認める、(5)「満州」国は「満州」国人の自由自 治に一任する、(6)南方諸民族の自治独立を認める、(7)朝鮮を真に朝鮮人の朝鮮とするため政治的自治独立を認める、といったものであった。

これらの具体策を見れば、それは戦後日本の民主化政策と軌を一にするものであることが分かる。

ここで銘記すべきことは、日高さんが自身のそれまでの経験(人生)において培ってきたものにもとづき、自国の民主化と非植民地化の訴えを確信を 持って「遺書」のつもりで書き、負けるとはわかっていたがそれがいつになるかはわからない時期に、軍当局に対する根本的批判を伴った「国策の転換」を、ま さに軍そのものに提出したという事実であり、そして1ヵ月後に敗戦を迎へ、その後の日本の民主化と日高さんの提案が結果として重なるものであったというこ とである。

日高さんのなかでは、8月15日を待たずに、「戦後」は始まっていた。

日高さんのこのような思想は、彼ひとりの孤立したものではなかった。それを生み出した土壌が、戦前・戦中の日本社会においても存在していたのであ り、日高さん同様、結果として「戦後」を準備していた人たちは少ないながらもいたのである。本書は日高さんの経験として、具体的にそういった人たちやその ことを示すエピソードを明らかにしている。戦後日本を根っこのところで支えていたのは、このような戦前・戦中からの「蓄え」であったのだと思う。

しかしそれは巷間言われているような、「1940年体制」論とか、「総力戦体制」論が主張する、システムや体制の戦中と戦後の「連続」ということとは全 く別のことである。なぜなら、これらの諸論が戦中と戦後の連続性を中心に説くことで、この両者の間にあるべき「断絶」(つまり戦後の民主化)は、事実とし て過小評価されてしまうことになるのに対して、日高さんの場合は、戦前・戦中と戦後の連続性は重々承知したうえで、だからこそこの両者の間にあるべき「断 絶」(つまり戦後の民主化)を「意思する」(主体的に求める)ものであるからである。

意志を持って努力した当事者と、事後的・学問的に把握する研究者・観察者との違いということか。日高さんや中野好夫さんが、学問的に「研究対象」として言及されることが少ないのも、こういうことなのであろうか。

「私は戦後憲法によって(初めて)民主主義者になったのではない」という日高さんの言葉は、戦後の日本社会を評価する上でとても重要なことがらを含んでいると思う。(なお『日本史講座 第10巻 戦後日本論』(東京大学出版会 2005年)所収の進藤榮一さんの論文を参照しました。)

2005年8月4日

二酔人四方山問答(10)

岩木 秀樹 (13時00分)

A:最近、学部生からイスラーム関連の色々な質問が寄せられるんだ。こんなご時世だからイスラームを知らないと国際関係がよく理解できなくなってきているようだ。ただテロや戦争によって、イスラームが注目されるのは複雑な気分だけど。

B:そうだよね。良くも悪くも「イスラーム問題」をめぐって、国際政治は動いていると言っても過言ではないよね。

A:ちょっと待った。「イスラーム問題」って何を指すの。イスラームが問題だから現在のような状況になったの。宗教や民族の相違がただちに紛争とい う形態にはならないことは、歴史が証明してくれてるよ。過去においても現在でも中東地域は、宗教や民族がモザイク状況だったけれど、以前は紛争はそれほど 起こらず、現在は多発している。つまりモザイク状況が直接の原因ではなく、他の何らかの条件が紛争の媒介項となっているんだ。

B:わかった。わかった。「イスラーム問題」という言葉は訂正するよ。言葉の使い方には注意します。ところで、学生からの質問はどんなものがあるの。

A:一番多いのが、なぜイスラーム教徒はこんなに過激なのかということだ。

B:確かに素朴な質問としてはあり得るね。でも僕は今まで君から色々話を聞いていて、イスラームは過激どころかキリスト教徒よりも寛容な気がするよ。

A:そうだね。そのことは今まで話してきたとおりだ。そうそう、以前に日本のカトリックの相当な地位の人が、「キリスト教は今まで悪行の数々をやっ てきた」というのを聞いたことがある。その通りだと思い、それに比べればイスラームの方が比較的寛容だったと思う。それとともに、カトリックの偉い人が、 自分の宗教のことを客観的に反省し、謝罪する態度は立派だと思った。

B:自宗教や自集団、さらに自分のことを客観的に批判の俎上に載せることは、身を切られる思いをするし、その組織からは当然アウトロー扱いを受けるよね。

A:もしかしたら、キリスト教が世界宗教たりえたのは、このような批判もある程度許すような懐の深さが影響しているのかもしれない。

B:ところで、他にどんな質問があったの。

A:今の質問に関連して、なぜ一部のイスラーム教徒がこのような過激な攻撃をするのか。同じ宗教をしているのに、普通の善良な人と過激な行動を起こす人が出てくるのはなぜかという質問だ。

B:難しい質問だね。

A:そうでもないよ。当然といえば当然の問題だ。10億人を超える大教団だから、色々な人が出てくることは当たり前だ。ちなみに21世紀の中盤に は、イスラーム教徒が世界で一番多数の教団になるらしい。イスラーム地域は出生率が高い地域とかなり重なっていることも影響しているようだ。

B:へーそうなんだ。

A:様々な人が出てくる理由として、個々の人間の個性やそれぞれの民族や国家などの歴史的経験の相違も考慮に入れなくてはならない。またこれはどの 宗教にも言えるかもしれないけれど、宗教の教典にはそれほど細かいことは書かれていないので、それに対する解釈が異なってくることも考えられる。もちろん 最近の過激派の台頭要因としては、アメリカの介入問題やダブルスタンダードなどが挙げられるけれど。

B:どの宗教もそれほど一枚岩でないということなのかな。

A:イスラームもよく一枚岩のように言われるけれど、ラマダンをやらない人もいるし、酒を飲む人もかなりいるし、これがイスラームかと思うくらい世 界各地で独自なイスラームが存在する。一枚岩どころか、各地域の多様な文化、習俗を受け入れたから、イスラームが広まったと言える。これが世界宗教になる 一つの要素だと思う。

B:そうか。でもイスラームのイスラームたる由縁って何なの。多様性のみでは拡散して行くばかりだ。イスラームの最大公約数は何。

A:それは一言で言うと、「アラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり」だ。これをはずすとイスラームではなくなる。これがイスラームの共通項だ。

B:なるほど。多様性を認めながらの統一性とでも言えるのかな。

2005年8月3日

「シベリア抑留」について

今井 康英 (13時03分)

今回は、シベリア抑留について述べます。 父がシベリア抑留帰還者であったことは、先に記した通りです。 実は、近所に住んでいる伯父(母の兄)も、シベリア抑留帰還者です。 東京に住んでいる叔父(父の弟)は、「満鉄」に勤めていました。 私も、シベリア抑留問題に無関心ではいられません。 これも戦後未処理問題の一つだと思います。

共同通信(7月22日)などによると、この日、シベリア抑留者に対する未払い賃金問題を解決するため、民主、共産、社民の3党は共同で「特別給付金」支給法案を衆議院に提出した。(正式な法案名は、「戦後強制抑留者に対する特別給付金の支給に関する法律案」及び「独立行政法人平和祈念事業特別基金等に関する法律を廃止する法律案」)戦後60年にして、元抑留者に強制労働の「未払い賃金」に見合う補償として、抑留期間に応じて5段階で30万円~200万円の「特別給付金」を支給する
という内容である。記者会見で全国抑留者補償協議会の寺内良雄会長は、「(元抑留者は)80歳を超えている。目の黒いうちの法案成立を心から願う」と訴えた。

また民主党HPなどによると、26日には、上記3党で参議院にも同様の法案を提出したが、こちらの法案には、家族・遺族に加え、戦前外国から日本に強制労働者として連れてこられ軍民・軍属とされた関係者も支給対象とするよう検討項目が加えられた。(例えば、「在韓軍人軍属裁判を支援する会」
http://www.gun-gun.jp/index.htmによると、第2次大戦後、旧ソ連によってシベリアに抑留された人は旧日本軍兵士、民間人も含めて約63万人余。極寒・飢餓・重労働の「三重苦」の中で約6万4千人もの人が死亡したと言われている。そのような人々の中に、朝鮮半島出身者が含まれていたことを私たちは忘れてはいけない。8月15日、天皇の無条件降伏で、日本の侵略戦争の幕は閉じられた。ポツダム宣言に基づき日本軍の武装解除が始まり、南方の戦線に配属されていた多くの軍人軍属の帰還手続きが進む一方、満州に駐屯していた関東軍60万人はシベリアへ連行された。その中には3500人もの朝鮮半島出身者も含まれていた。)

一方、日本経済新聞(7月26日)によると、自民党総務会は、高齢化などで対象者が減り、歴史的役割を終えたと判断し、資本金400億円のうち約半分を取り崩し、生存者への旅行券や銀杯交付、慰霊碑建立などに充て、残額を国庫に返納するという内容の「平和祈念事業特別基金」廃止法案を了承した。
私は関係者の一人として、自民党案では解決策にならないと思う。

8月2日、衆議院で戦後60年決議が採択された。(正式には「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり、更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」)戦後50年決議と異なり、今回は未来志向の国会決議にしたと言うが、「戦争責任」あるいは「戦後処理」に多くの未解決の問題を残して、果たして本当に、前に進むことが出来るのか?「持続可能な人類共生の未来を切り開くため」にも、日本はまだまだ、「過去の一時期」の歴史に対する真摯な反省が足りないと言わざるを得ない。

2005年8月2日

暑中お見舞い申し上げます

中西 治 (22時13分)

暑中お見舞い申し上げます。

いかがお過ごしでしょうか。

私は多年の夢が叶いました。

中国東北の大地に立ちました。

2005年7月31日(日)から 8月2日(火)まで2泊3日の短い旅でしたが、中国東北、遼寧省の阜新蒙古族自治県に行ってきました。

成田から3時間の空の旅で遼寧省の省都沈陽(瀋陽、旧奉天)に着きます。阜新は沈陽から車で西におよそ3時間の所にあります。この地は内蒙古自治区さらに外モンゴルへと続く、蒙古族の居住地区です。

沈陽から阜新までの間は新民、黒山などの市街部を除いて道の左右両面、見渡す限り果てしなく続く玉蜀黍畑です。中国の自然の広大さに感動し、農民の勤勉さに頭が下がりました。

中国東北は中国の穀倉であるとの感を深くしました。

阜新では県長さんをはじめ遼寧工程技術大学の先生方の暖かいもてなしをうけました。多くの新しい友ができました。私たちの研究所に対する関心と理解が生まれました。

来年夏には研究所として中国東北に代表団を送り出したいと願っています。

暑さ厳しき折柄、くれぐれも御身お大切に。

2005年8月1日

「和華の会」の親友たち

大江 平和 (13時09分)

先月20日から29日まで、中国へ行ってきた。猛暑のなか、北京を皮切りに、西安、広州を回ったあと、再び北京に数日間滞在して戻ってきた。本帰国 して丸3年がたつが、帰国して以降、仕事抜きの個人旅行は今回が初めてである。そこで、このコラムで3回ほど連続して、中国での所感を書いてみようと思う。

今回の中国行きの目的は、旧交を温めることであった。西安はよくわからないが、北京と広州には、「日本人妻の会」なるものがある。北京のそれは通称「和華の会」というしゃれた名前で呼ばれている。中国人の配偶者をもち、現地で生活する日本人女性たちの会である。具体的な会員数は定かでないが、全体 的には増加の一途をたどっているようだ。その反面、生活の場を日本に移したり、残念ながら離婚をしたりして減少もしているらしい。私が再会を楽しみにしていた親友たちもこの会に属している。私もかつて北京に住んでいた頃はそうだったが、中国語という言語環境に囲まれて生活している彼女たちにとって、最大の楽しみは、心通い合う仲間たちと日本語で言いたい放題おしゃべりすることである。夫のこと、子供のこと、子供の学校のこと、舅、姑のこと、マンション購入のこと等々話はいつまでも尽きない。おしゃべりに夢中になっているうちに彼女たちの表情も和らぎ、時折笑い声がはじける。話の中身は、日本の主婦とさほど 変わりないようにみえるが、激動の中国の地で、価値観の異なる中国人の夫とともに家庭を円満に切り盛りしていくのは、並大抵のことではないようである。平和のために、対話を通してどう理解を深め、信頼を築いていくか、日々、努力と智慧と忍耐を要するのは、国際社会も家庭も同じセオリーかもしれない。彼女たちの話にじっと耳を傾けながら、「頑張って!」と心からのエールを送った次第である。

2005年7月31日

エッセイ4 言葉と行動

木村 英亮 (13時16分)

ロンドン地下鉄同時爆破事件のあと、テレビでブレア首相が、「イノセント・ピープルの殺傷」という言葉で、テロリストを非難しているのを見た。政治的目的のためにイノセント・ピープルを殺すことが許されないことはイギリス首相に言われるまでもないことである。ここでしっくりこなかったのは、それが、イラクを侵略し、文字通りイノセントなイラク人を殺している張本人の言葉であるからである。それは、世界の大部分の人びとに対して説得力のない非難の言葉である。

崩壊後の旧ソ連では、もと共産党幹部たちが大統領となって市場経済化を進め、あるいは資本家として活動することによって、ソ連の歴史を否定するば かりでなく、いまの言動の信頼性を失わせている。日本でも郵政民営化法案に反対と言いながら、解散をおそれて賛成票を投じた議員は、政治家として自己否定したことになる。たしかに、政治家にかぎらず、さまざまな条件のなかで言動を一致させることは、なかなか難しいことであろう。

研究者は、研究にもとづいて信じている通りに発言することに社会的存在意義があり、そのため大学教授は、他の仕事に比べ自由が保証されている。しかし、今日全体としては批判的立場は弱くなっているように思われ、またテーマを小さく絞って発言を限定する傾向がある。説明なしに見解を変えることもしばしばみられる。1960年代末の大学紛争のとき、大学教授の言葉と行動の不一致について、学生たちが非難、告発した。その後、「大学改革」などによって、 研究者の地位は低下し、学生の教授批判も少なくなった。

社会的には、これでは困るのではなかろうか。

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