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2005年8月19日

約束

その他 (22時35分)

投稿者:近藤 よし花

「世界は平和になっていく。」今回8月6日に広島の旅に行く前は、そう思っていました。なぜなら、みんな戦争で死ぬのはごめんだと思っているだろうし、みんな平和を願っているからです。しかし、そんな考え方もこの旅が終わってからは、もろくくずれ去っていきました。

焼けて皮膚のたれ下がった人。川に逃げ込んで、そのまま死んだ大勢の人達。テレビの番組で見たことですが、被爆して同僚と一緒に建物の外へ出て行ったら、生きている人が誰一人もいなかった、爆心地から数百メートルの所にいた人。それから、ヒロシマの原爆以上の破壊力を持つ原爆をナガサキに落したこと。このことから60年もたったのに、今でも原爆の被害を受けている人。そしてなにより、戦争を終わらせるために原爆を落したと言っている国が、戦争が終わった後も原水爆の実験をし、被爆者を増やしたこと。――私が広島の旅で知ったことだけでも、書き出したらきりがないです。だから、被爆者の人達の方は、もっと伝えたいことがあるのだろうと思います。

ある国は「核兵器を持つから誰も反抗しなくて平和が保たれている。」と言っているけれど、よく考えなくてもその考え方は変だと誰でも思うのではないでしょうか。なぜならその行為は武力によって人を従わせているだけであって、ただ単に人々に押つけているだけにすぎないと、私は考えるからです。本当の平和はそんなものじゃないと感じます。平和はもっと別の、人々から不安を取り除いてくれるものだと思います。

それから、私は平和をつくるためには、核兵器は「禁止する」だけではだめだと思います。「禁止する」ということは、つまり「持っているものを使わない」ということになるので、そのもの自体は「存在する」ということになります。すると「禁止できるもの」とは、いわゆる「使うことができる」という意味なのではないでしょうか。「使うことができるもの」というものは「使わなければ意味のないもの」と考えることができます。つまり、その「存在」は使いたがり屋な人間にとっては、正にうってつけなものだと思います。もし、その「存在」が核兵器だったら、とても危険です。

だから私は、「存在」するすべての核兵器をこの世から無くさなければいけないと思います。これ以上悲しみを増やしてはいけないです。もちろん、この世にある危険な武器も。

私は本当のことを言うと、やりたいことがたくさんあります。15という歳なのでたくさんのものごとに興味があります。これからもそういうことが続けられるように、いや、先の子孫もそういうことができるという『約束』をつくらなければ、と私は考えます。

2005年8月18日

二酔人四方山問答(12)

岩木 秀樹 (22時37分)

B:この前、学生のみんなからイスラームに関する質問が色々寄せられるって言っていたけれど、他にどんなものが多いの。

A:イスラームはラマダン(断食)などがあり、戒律が厳しそうな宗教という印象があるようだ。

B:それは僕も感じるよ。1日5回もお祈りをしなくてはいけないし、メッカに巡礼もしなくてはいけない。

A:いけないというわけではないけれど。

B:でもラマダンはきついと思うよ。日中は飲まず食わずだよね。

A:確かに。厳密にいえば、つばを飲み込みことや喫煙、性交もいけないとされている。でも慣れればそうでもないらしいよ。

B:夏の時期にラマダンが来たら、日中の時間が長くなるし、暑いし、相当大変だと何かの本に書いてあった。

A:イスラーム暦は太陰暦で一年は354もしくは355日となり、少しずつずれてくるんだ。だからイスラーム暦第9の月のラマダン月も少しずつ早まってくることになる。

B:夏に飲まず食わずだと、倒れちゃう人も出てくるんじゃないの。

A:イスラームはその辺は寛容で、例えば肉体労働者、軍人、妊婦、旅人、老人や子供、病人はラマダンをやらなくてもよいとされている。もし何らかの事情でラマダンを出来なくても、ラマダン月が終わった後でやってもよいとされている。

B:へーそうなんだ。でもなぜラマダンをするんだろう。

A:ラマダン月に断食をした者は過去に犯した罪が許されると言われている。また断食をすることで貧しい人の気持ちを理解できたり、食べ物の ありがたさがわかるということもある。また全世界で多くのイスラーム教徒が断食をしていると思うと連帯感が強まることも考えられる。断食は体に良いという 人もいるよ。

B:なるほど。

A:日没後に、親類や友人を招いて、一緒に食事をすることは共同体の強化にもつながっている。驚くべきことに、ラマダン月の方が普通の月よりも、食料消費量が上がるということだ。これは日没後に、盛大に食事をとるということからきている。

B:断食月の方が多く食べているということか。驚きだ。

A:お腹を空かせ、みんなでわいわい食べる食事は格別だ。僕がエジプトに行っていたとき、たまたまラマダンで、異教徒の僕にも日中食事をと ることは何となくはばかられた。でも日没になると、その辺の親父さんに誘われて、道ばたで一緒に食事をした経験はとても楽しくて、イスラーム教徒のホスピ タリティには感動した。またイスラームは色々な意味で生きている宗教だとも思った。形骸化しつつある欧米のキリスト教とは違うと思った。

B:イスラーム圏ではみんなラマダンをやっているの。

A:それが地域によって違うところがおもしろいんだ。トルコではラマダンをしない人もかなりいるし、ラマダン中に居酒屋で日中に酒を飲んでいる人もいた。これを見てびっくりしたよ。

B:本で読んだ知識はあまり当てにならないということかな。

A:イスラームが一枚岩で、全世界のイスラーム教徒が同じように考え、行動すると考えない方がいいと思った。イスラームという教義を実体化 するのではなく、世界の各地にイスラームを信じる多様な人々が現実に試行錯誤しながら生きているということを理解することが大事だと思う。

2005年8月17日

我が土、我が民(その5)

王 元 (22時48分)

臨渙というと、行政的には「臨渙区」又は「臨渙鎮」を指します。経済的には「臨渙集」、文化的には「臨渙城」になります。以下、それぞれの地図を見ながら、行政、経済、文化の三つの側面から我が故郷を分析してみたいと思います。

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上の行政区画図に示されたように、臨渙区は面積211.49平方km、人口は8万人、臨渙鎮(1.3万人、臨渙郷を含め)+周辺の六つの 郷、60の行政村からなります。小学校は51校、中学校は13校、高等学校は2校。この二つの高校はそれぞれ鉄道の西側にある臨渙(行政地図上では間中に 「工委」と記すところ)と、海孜に位置します。両地は約15里(7.5km)離れています。高校三年生の時、眠られない夜、臨渙から海孜まで往復15km のジョギングをしたことある。

この行政地図にある地名を纏めて以下の表を作成しました。○が付くのは郷政府所在地です。この中、「工委」は地名ではなく、区政府工作委員会の略称であり、いわば臨渙鎮なのです。

周荘 張圩 劉楼 大商家 海孜○
牛荘 周圩 徐楼 大孫家 郭井子
雷荘 李合圩 丁楼 大徐家 謝湖
呂荘 李圩 馬楼 梁家 澮北
趙荘 陳圩 朱小楼 大馬家 柴窪
趙平荘 劉圩 前袁楼 劉閣 臨南
毛荘 沈圩○ 后袁楼 薛厂 陳口
曾荘 前陳圩 前王楼 西劉 沈橋
劉洪荘 紀圩 張楼 李場 石集
黄荘 長豐 祁集○
韓荘 鄭溝 梁廟 騎路
祁荘 湖溝○ 徐廟 乙寨 韓村
常荘 双溝 四里廟○ 劉油坊
張荘 馬溝湾 丁小廟 高皇○ 桃園
張荘 工委○ 宋園

臨渙区に七つの郷、60の行政村があるが、行政地図にある地名は78に上ります。これは( )の中のものも入れた結果です。「行政村」とは自然村 ではなく、基本的に人口規模で決めたもので、通常幾つかの自然村を合わせたものである。例えば、臨渙城の直ぐ東にある「周荘」は西の陳荘」と東の「王荘」 と三つの「村(荘)」合わせたものであり、陳荘・周荘・王荘の人口規模から言うと4:2:5の関係であるが、陳荘と王荘の争いから漁夫の利を得たのはこの 周荘です。同じように、城西の黄荘は黄荘+賀荘+周荘(城西)からなります。

臨南、澮北のような新しい地名も出てきました。臨南は南碼頭(馬姓が多い)+劉洪荘からなり、澮北は中心的李沃子+周辺のいくつかの自然村からなります。他方、記憶にある碼頭荘(北碼頭、呉姓が多い)、高湖(李合圩付近)は行政地図から見当たりません。

統計したことはないですが、自然村の数は恐らく150位に上るのではないでしょうか。行政地図、地名は行政的なものに過ぎないことも忘れてはならないことだと思います。

以下、地名に多用されるものについて簡単に纏めました。

(1)荘
「荘」の由来は恐らくですが、二つあります。一つ目は取引規模の大きな商店、特に卸売りが中心である店を指すものです。このようになった「荘」の中で、 最大規模といえるのは河北省の省都の石家荘でありましょう。二つ目は地主の荘園を指します。小作人を雇用し田を耕させる農園である。我が故郷の「荘」は皆 規模が小さく商工業も皆無な状態であることから見れば、おそらく後者の部類に属するといえます。

(2)村
故郷の地名には中国農村で典型的な地名である「村」が多くありません。行政地図上では「韓村」のみとなります。村は 「自然村」といわれるように自然発生的な共同体であることに対し、「荘」は地主一家の家族中心とする共同体が雛形で、人為的な要素が含まれます。ただし、 今日の故郷でいう「荘」は「村」と同様視すべきでしょう。

(3)圩
「圩子」ともいいます。淮河流域に特有な防洪営造物。低地の周りの堤をいいます。家屋などを洪水から守るため、家屋を 囲むという形で建てられ、「囲子」とも書きます。これは基本的には地方の有力な人物(地主、郷紳等)が宗族や家族の力を合わせて作り上げたものなのです。 個人的には、「圩子」という文化は恐らく「捻子」と何らかの関係があると思います。例えば、「捻」は「圩」の暗黒面ですが、事実は確認していません。

「反戦平和」について

今井 康英 (22時44分)

今回は、60年目の8月15日を迎えたばかりなので、「反戦平和」について述べます。このカテゴリには、4月30日から8月16日まで、丁度100件の記事を投稿しました。

終戦記念日ということで、小泉内閣及び各党が談話を出した。小泉首相は、「過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたい」と述べた。http://blog.goo.ne.jp/05a21/e/7a96c3ff41b8d0a14fc075fcbb0b8c6e
各党の談話は下記の通り。
http://blog.goo.ne.jp/05a21/e/ef199b08b1a806ccc6dade4780048e91
私も6月8日のコラムで書いたことだが、8月15日を「終戦」記念日と称することには誤魔化しがある。この件について、沖縄タイムスの福島輝一さんも指摘している。http://www.okinawatimes.co.jp/col/20050815e.html
あるいは、http://blog.goo.ne.jp/05a21/e/d8c5b16ea0a634deaf154b61bfe2f8a9

なぜ「敗戦」記念日と言い切れないのか?私が思うに、それは天皇の戦争責任に直結するからではないか。当時は、天皇が絶対的な主権者であった。当然に、最終的に戦争責任を負うべきは天皇であった。ところが、7割の戦後世代の私には実に不思議なことであったが、天皇は免責された。「過去を直視」するとは、なにを見ることなのか。加害国の日本として自ら反省すべきことがあると思う。加害の責任は「臣民」だけが負うのか、天皇免責のままで良いのか。東条英機首相らがA級戦犯なら、昭和天皇は超A級戦犯であった。仮に天皇が死刑(あるいは、せめて退位)になっていたら、戦後日本の歩みはどうなっていただろうか。

もちろん、これは主権在民の今だから勝手に言えることなのだが、戦後60年も経ったのだから、ハッキリと天皇の責任を問うべきではないか。私はこの点がもっとも反省すべき点ではないかと気になっている。その上で、天皇制を維持すべきか、どうかを決めるべきだと思う。私の判断では、日本にはもう天皇制は要らないと感じられる。むしろ、天皇や靖国神社をいつまでも護持していくような国は、いずれまた戦争をやりかねないと心配している。現に、靖国参拝に熱心な首相の下で自衛隊が戦地のイラクに赴いている。幸いにサマワの自衛隊は、いまだ一発も撃ってはいないようだが、現地の情勢はますます緊迫している。今ならまだ相手を殺さなくて済むし、また自衛隊員に戦死者を出して靖国に祀らなくて済むのだから、一刻も早く撤退を決断すべきだ。

どうせ総選挙をやるなら、郵政民営化の是非だけを問うのではなく、天皇民主化や東アジア連邦への構想(EUのアジア版のような)を問うような未来志向の画期的な提案を望む。あるいは、自衛隊を「自衛軍」にすることの是非を堂々と提起すべきだ。

私は、8月15日は明確に「敗戦」記念日として記憶するとともに、「平和祈念日」として新たな出発の日にすべきであると申し上げたい。昨年は「日本国憲法第9条を支持する宣言」に署名しました。今年はこの日に「9条を広める会」(略称)の設立に加わりました。このたび世話人の一人となりましたので宜しくお願いします。

2005年8月16日

60周年の広島に思う ―母の足跡(1)

近藤 泉 (22時54分)

2000年に母が亡くなり、国から交付されていた「特別被爆者手帳」を地元保健所にお返しする時、私は手帳のすべてのページをコピーしました。母が広島で「確かに」被爆し「被爆者」として生きぬいてきた事実を残しておきたかったからです。

そして今回の広島の旅で、60年前の8月6日に母が魔の閃光を浴びた地点をはっきりさせ、どの道を逃げ惑ったかを想定し辿ることで、母の記憶の中にしか存在しないたった一人の個人的な体験を現実に起きた事実として記録し残したいと思いました。

母は当時の記憶から、爆心から1.8キロの「松原町」で被爆したことになっており、被爆者手帳にもそのように記録されていました。

(母の体験記より)
駅の右側にずらりと並ぶ旅館を見つけ、(やれやれ)と、その中の一軒に入って行った。
(中略)
其処を出た私は何とかして休みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとして厭になった。
(駅に戻れば、何とかなるかもしれない)
軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けて、道路に立った時、マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。
火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。
「お母さん、熱い!」
悲鳴をあげた私は、瞬間、ぢりつ。と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。

JR広島駅を含む駅前大橋までの駅前通り東側の一区画が松原町です。現在の駅前はバスと路面電車の停留所の大きなロータリーになっています。当時の 広島の地図はまだ調べていませんが、被爆後少し歩いてから駅前大橋らしき橋を渡っていることから、母が駅前右側に訪ねた旅館街は、今はこのロータリー東側 の広島東郵便局やダイエーなどの大きなビルになっていると思われます。広島は有名な商業の街で駅前には商人を泊める旅館が軒を連ねていたと、生前母はよく 話していました。

母は一軒だけ旅館を訪れ駅へ引き返そうとしているので、駅に近い広島東郵便局付近で被爆したと考えられます。

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今回8月6日の昼過ぎ、母が被爆したであろう広島東郵便局(南区松原町2-62)前に立ちました。次女と二人、熱い日差しに目が眩みました。8月6日は、この60年間一度も雨が降らないと聞きます。

松原町の住居表示を写そうと探しあぐねていた時、カメラを下げた私の姿を穏やかな笑顔で見つ めている老夫婦に気づきました。母が被爆した松原町を訪ねて来たことをお話しすると、福屋デパートの裏に慰霊碑があることを教えて下さいました。

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母は命の恩人となる青年と出会い、駅前の橋に向かって逃げます。 その橋-駅前大橋のたもとには今、福屋デパートの立派なビルが立ち、ビルの裏手は各方面からの広島駅行きバス終点降車所で、ビルと川との間は芝生に数本の桜が植えられた小さな公園になっています。慰霊碑がひとつ立っていました。

2005年8月15日

動物園のぞう

ねこくま (22時55分)

最近動物園にはまっている。年間パスポートを購入して、先月も4回ほど行っているから病は結構重いかもしれない。 Webページ作成実習のフィールドに動物園がぴったりだと考え、まずは自分がお手本のページをアップするために写真を撮りに行ったのが始まりである。プラ イバシーとか知的所有権とか色々難しい問題を考えずに、学生諸君に自由にホームページを作ってもらうために多摩動物園は最適であった。動物園に関心を持つようになると豪華な上野動物園と質素な多摩動物園の格差とかが見えてくる。単純に金のかかり方が違う。パンダだって上野にしかいない。両動物園を運営しているのは東京都だが、同じ都内の動物園でも中心・周辺の格差は明らかに存在するようだ。

さて今日は敗戦記念日、一般には終戦記念日だ。毎年8月15日になるときまって語られる「象のいない動物園」の話をご存じだろう。 上野動物園のドンキのお話である。第二次大戦の末期、空襲で猛獣が逃げ出すと危険だからと動物園の猛獣たちはすべて殺された。ライオンも虎も殺された。猛 獣とは言い難い象も殺された。人間の戦争にまったく関係の無い動物園の動物たちが、戦争遂行に協力せよと殺されるのだから、何とも理不尽きわまりない話 だ。不思議なのは誰がぞうを殺せと命じたのか、その主語が出てこないことだ。

ついでにテレビを見ていたら終戦特集で、文化人?が特攻隊の犠牲のお陰で今の人たちは暖衣飽食が出来ると力説している。これも出鱈目な 主張で兵士に自爆攻撃を命じた責任者の存在を意図的に隠蔽している。赤紙一枚で死地に追い込んだ戦争指導者の責任を棚上げしておいて、戦死者への感謝を説 くのはいかがなものか。

一方で国会は、小泉首相の刺客、くのいち?と郵政解散で浮かれている。何とも浅薄でお目出度い国会議員の先生方だ。周囲のアジア各国で は「戦勝記念日」を機に日本の戦争責任を問いなおそうとの機運が生じている。国家の生存を左右する国際情勢を一顧だにせずに、日本の政治家達が政権政党の 権力闘争、党利党略の次元でしか政治を見ていない証拠である。言論封殺とか、外交戦略とか数々の問題はあるが、一つだけはっきりしていることがある。動物 園の象を殺すような決断を迫る指導者を何があっても選んではならないことだ。

戦争の記憶を伝えていく決意を新たにする8月15日であった。

※日頃の精神的疲労がたまっている方は、是非動物たちと交流して癒されてください。そして人間の都合で故郷から遠く離れて働いている彼らの境遇に少しばかり共感してください。

「9条を広める会」設立声明

中西 治 (0時03分)

おはようございます。今日は第2次大戦が終わって丁度60年目です。この日にあたり私たちは「日本国憲法第9条の精神を地球全体に広める会」を設立しました。この会は世話人を中心として活動を展開していくことになります。世話人にはいつでもなれます。下記の世話人に申し出て下さい。ご意見・ご要望などもお寄せ下さい。よろしくお願いします。

「9条を広める会」設立声明

私たちは2004年8月15日に「日本国憲法第9条を支持する宣言」を発表しました。

戦争を永久に放棄し、陸海空軍などの戦力を持たず、国の交戦権を認めないことを規定した第9条は、人類が求めてきた非戦と非武装の到達点です。

私たちの「宣言」は日本から韓国、中国、ネパール、タイなど地球上の諸地域に広がり、多くの人々の共感を得、署名人はすでに117人に達しています。

他方では第9条を改悪し、日本が公然と軍隊を持ち、外国で戦争を行なえるようにする動きも活発になっています。

私たちはこのような動きに対して、日本で第9条を守るためにも、日本が過去に行なった戦争を深く反省し、再び戦争を行なう過ちを繰り返させないように するとともに、第9条の精神を地球全体に広め、軍隊のない平和な地球をつくらなければならないと考えています。

私たちは第2次大戦終結60周年にあたり「日本国憲法第9条の精神を地球全体に広める会」を設立し、この運動をいっそう広範に積極的に推進していくこ とを声明します。

2005年8月15日

日本国憲法第9条の精神を地球全体に広める会 (略称「9条を広める会」)
世話人(五十音順) 今井 康英、 岩木 秀樹、 上田 順子、 近藤 泉、 高橋 勝幸、 竹本 恵美、 中西 治

「9条を広める会」設立声明(英文)

August 15, 2005

The Declaration for spreading the idea of Article 9 to the whole earth and building the peaceful earth without army We issued “a declaration which supports Article 9 of the Constitution of Japan ” on August 15, 2004.

The Aritcle 9 specifies abandoning war eternally, not having any military power such as army, navy, and air force, and not accepting the right of belligerency of a country. Human beings have quested for the idea of renunciation of war and demilitarization in the Article 9.

Our “declaration” spread in many areas on the earth, such as China, Japan, Nepal, South Korea, and Thailand. 117 pepole signed for it so far.

On the other hand, we find some people actively try to change the 9th article for the worse, have an army openly, and enable to war in foreign countries.

We deeply reflect on war which Japan waged in the past, and pledge not to repe at the fault again. We protect the Aricle 9 and spread the idea to the whole earth. We make efforts to build the peaceful earth without army.

In the 60th anniversary of the end of the Second World War, we organize “The Campaign Group for the Idea of Article 9 of the Constitution of Japan to the Whole Eearth”, and promote the activity which spreads the idea of the Article 9 much more vigorously.

If you join our group, please contact us.

The Campaign Group for the Idea of Article 9 of the Constitution of Japan to the Whole Eearth.

Imai Yasuhide, Iwaki Hideki, Ueda Junko, Kondou Izumi, Takahashi Katsuyuki, Takemoto Emi, Nakanishi Osamu

2005年8月14日

エッセイ5  講義における「花」

木村 英亮 (22時58分)

ピアニストのチェルカスキーがテレビ番組のインタビューで、ピアニストは多いが芸術家は少ない、また演奏は母から、教わったのでなく導かれた、人を教えることはできない、と答えていた。ピアニストとしての自信とともに、教育には芸術的要素があることを語ったのであろう。分野は違うが、能には「花」がないと、技術だけでは観客をひきつけられないという世阿弥の言葉を読んだことがある。

講義を長くやると、質は充実しても新鮮さが失われ、マンネリ化する。こうなると、友人と雑談しながらテレビを見るという生活に慣れている学生に静かに講義を聞かせることは難しい。講義は、能や演奏会とは異なるが、内容だけでは成立しない。内容が第一であるにしても、それだけでは足りない。それを世阿弥は「花」と表現したのであろう。かって、若い講師の張りのある声が、満席の大教室の開いた扉からキャンパスを歩いている私まで響いているのを聞き、このようにできればと思ったことがある。

また、横浜国大の市民講座で、画家の故国領経郎(美術の教授)の講義を聴いたとき、即席の自由なお話のようであったが、後でテープレコーダーを片付けながら私に、講義はいつもテープにとって何回も聞きなおしているんだと話された。なかなかできないことである。

講義は、活字にした文章と違って、一回きりで消えてしまうものであるが、学生や聞き手の記憶に長く残ることもある。通学のバスで、某先生の講義は崩壊していると学生が話しているのを耳にしたこともある。恐ろしいような冷や汗の出ることである。

2005年8月13日

被爆60年目の長崎

とらたぬき (12時13分)

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8月9日11時2分、私は長崎の平和公園で、多くの人々とともにすべての戦争犠牲者と原爆犠牲者に黙祷を捧げ、核の廃絶と不戦の誓いを新たにした。

60年前のこの日、人口約24万人の街の上空で爆発した原子爆弾は、一瞬にして半径1キロを廃墟にし、半径3キロを焼き尽くした。1945年12月末までに死者が73,884人、負傷者が74,909人を数えた。

原爆を投下した国の指導者は、同じ信仰を持つ人々が多く住む街であること、そして同胞が捕虜として収容されている事実を知っていた。当時 浦上の街に住んでいたキリスト教徒約1万2000人のうち8500人が犠牲となり、爆心地から500メートルにあった、東洋一の規模を誇る天主堂は、わず かばかりの壁を残して倒壊した。

被爆した人々は、後遺症に苦しみながら生き抜いてこられた。多くの方々がさまざまな病気と闘いながら、原爆反対、戦争反対の運動を続けている。

この日の午後に開かれた世界平和を祈る会合で、81歳になるご婦人の被爆体験をうかがった。みずから後遺症に苦しみ、ご子息も被爆の影響 と思われる病気で亡くしながら、やがて世界平和のために自らの体験を語りはじめ、ニューヨークの国連本部でも被爆体験を訴えられた。現在でも多くの学校に 招かれ、子ども達に戦争の悲惨さ、核廃絶の思いを語っておられるという。

半世紀を超えて、長崎は平和を学ぶ多くの青少年が訪れている。またこの日ともに祈りを捧げた中には、中国語、ハングル語、英語、ドイツ語など、私が見聞しただけでも多くの海外の人々の姿があった。

核廃絶への思いは世界の多くの民衆に拡がっている、いやもっと拡げていかなくてはならない。国家としては核保有に関してさまざまな思惑があるだろう。しかし、実際に戦争の被害を受けるのは、いつも間違いなく戦争に荷担していない市民が圧倒的に多いのだ。

「長崎を最後の被爆地に‥。」二度と核兵器による惨禍をこの地上にもたらさない、という強い決意から発せられた言葉である。世代を超えて、どんなに困難でも核兵器のない世界を、そして戦争のない地球と宇宙を、同じ志をもつ人々と連帯しながら築いていきたい。

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2005年8月11日

二酔人四方山問答(11)

岩木 秀樹 (12時25分)

B:衆議院解散で、日本の夏は暑くなってきたね。

A:いや日本だけでなく、イラクでもかなりヒートアップしている。

B:え、選挙でもあるの。

A:そうじゃなくて、イラクの治安が一層悪化していて、サマワでも8月7、8日に大きな銃撃戦があり、死者2名負傷者67名がでたそうだ。

B:そんなのニュースにでていたっけ。衆議院解散のニュースばっかりで気がつかなかったよ。

A:サマワは「非戦闘地域」ということで自衛隊が派兵されたんだけれど、もし騒乱が続き、自衛隊に何らかの加害や被害があれば、「郵政選挙」から「イラク選挙」に争点が移るかもしれない。

B:サマワの騒乱の原因は何なの。

A:一向に回復しない電気や水の供給を求めて、1500人という過去最大規模の民衆がムサンナ州知事庁舎前でデモを行い、その一部が暴徒化したようだ。それにはシーア派のムクタダ・サドル師支持者も参加し、対戦車ロケット砲や手投げ弾が使用され、激しい銃撃戦もあった。

B:すごい状況だな。

A:まだある。迫撃砲弾2発が州庁舎付近に打ち込まれ、警察幹部が武装勢力に射殺され、警察車両3台が焼かれた。そのような中、州議会は知事の解任を決議し、知事は夜間外出禁止令を出した。

B:このような状況って、ほとんど戦争じゃないの。誰が考えても非戦闘地域ではないよ。ところで自衛隊は何をしているの。

A:危険なので、当然駐屯地にこもりきったまま。

B:何をしにいったんだ自衛隊は。電気や水の供給もままならず、民衆の不満は高まり、治安は悪化するばかり。危ないときは逃げて、オランダ軍やイギリス軍に守ってもらう。

A:自衛隊をなんとしても海外へ派兵したいと思っている右派勢力の思惑による派兵だ。アメリカの要請でもあるから、断れないとの言い訳もで きる。行かされる自衛隊員もかわいそうだと思う。自衛隊法第3条には「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に 対しわが国を防衛することを主たる任務とし」とある。遠いイラクのサマワの地で任務に就くことが、わが国を防衛することなのか、疑問に思っている隊員も多 いし、その問題が日本各地で裁判になっている。

B:命令だから嫌々来て、サマワの人々からはそれほど喜ばれず、危ないときには他国の軍隊に守ってもらうなんて、自衛隊員も忸怩たる思いだろうな。

A:いや戦闘行為に勇ましく参加し、戦果を挙げるよりましかもよ。ところでサマワだけでなく、8月に入ってイラク各地で戦闘行為が続いている。

B:へーそうなんだ。

A:3日にはバグダード北西200キロのところで、海兵隊員14人と通訳1人が死亡した。道路爆弾による米兵犠牲者としては最大だ。6、7 日にかけて、米軍兵士やイラク人警察官が30人以上亡くなった。このような状況の中、アメリカの最新の世論調査では、ブッシュ大統領のイラク政策に対する 支持が過去最低の38%になった。

B:アメリカの世論もそろそろ潮時だと判断する日も近いような気がするよ。日本も撤退戦略を考えた方がいいんじゃないかな。

A:そうだね。今まで述べたこれらの数字は米兵を中心としたもので、イラク人の被害はほとんどカウントされていない。アメリカでも日本でも報道されていない。つまり人間扱いされてないということだ。このことがイラク戦争の本質を象徴していると思う。

B:そうそう、ある人が言っていたけれど。イラク戦争の始めの頃、米国の第何軍がイラクのこの町を落とし、海兵隊があの町を包囲しなどと、どのマスコミもイラク全土を俯瞰図で説明していた。あの視点は米軍の司令官の視点だと言っていた。

A:その通りだと思う。私たちも爆弾が空から降ってきて、地獄絵図となるイラクの民衆の視点ではなく、アメリカの軍人の視点でイラク戦争を見てしまった。現在の報道もあまり変わっていない。そのことは重々自戒してイラク情勢を見なければと思う。

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