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2010年4月27日

7. 人間の評価を最終的に決めるのは行動である ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

人間は一人では生きられない。一人の人間がこの世に生をうけるためには一組の男女が必要である。生まれたばかりの赤ん坊は誰かが乳を飲ませなければならない。多くは母親である。人間が一人で生きていけるようになるためには何年もの歳月が必要である。保護者が不可欠である。採取・狩猟の時代には家族内の助け合い、一族の協力が必要である。個人的な好き嫌いがあり、諍いもあったであろうが、人間は厳しい自然のなかで久しいあいだ他の人々との助け合いと協力によって生き抜いてきた。

人間のあいだで、また、人間の集団のあいだで本格的に争いが生じ始めたのは、農作と飼育によって食料が作られ、余剰食料が蓄積され、人間のあいだで、また、人間の集団のあいだで貧富の格差が生じ、支配する者と支配される者、支配する集団と支配される集団が生じてからである。

人間は動物である。食べないと生きていかれない。人間は他の動植物の命をもらって生きている。人間は食べられなくなると、人から食べ物を奪い、自分は生き抜こうとすることがある。革命はある地域の支配されている人々が、その地域の体制のもとでは食べていかれず、生きていけなくなったときに支配している人々に対しておこなう集団的行動である。戦争は地域間の利害の対立を武力によって解決しようとする地域集団間の行動である。戦争は人間を他人の命を奪う獰猛な動物にするが、我が身を犠牲にして他の人を救おうとする崇高な神にもする。人間は動物と神とのあいだを彷徨っている。革命や戦争はこれまで国の内外の矛盾を平和的に解決できないときに暴力的に一挙に解決する最後の手段として認められてきた。しかし、いまではそれがもたらす人的・物的被害があまりにも大きいために矛盾の平和的解決が至上の課題となっている。

人間の争いや革命や戦争を無くすためにはまず人間が食べられ、生きられるようにしなければならない。人間には良い面もあれば、悪い面もある。100%良い人も、100%悪い人もいない。同じ人間が環境によって良い人になるし、悪い人にもなる。人間は環境の動物である。同時に、人間は意志を持つ動物でもある。存在が意識を決定するし、意識が存在を決定する。最終的な決断をくだすのは人間の意志である。それをもたらすのは家庭・学校・社会での教育である。意志を表すのは言葉と文と行動である。

「綸言汗の如し」という。「綸」とは「組み糸」のことである。「綸言」とは「天子の言葉」である。天子が発する言葉は糸のように細いが、下に達したときは綸のように太くなることからきている。「綸言汗の如し」とは「君主の言葉は、汗のように、一度口から出れば、体内に戻らない。取り消せない。」という意味である。天子の言葉は重い。天子だけではなく、人間の発する言葉はすべて重い。書かれた言葉=文はいっそう重い。言葉と文以上に重要なのは行動である。いくら良いことを言い、良い文を書いても、行動がそれに反していれば、空しい。

人間の評価を最終的に決めるのは行動である。

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2010年4月26日

6. 人間が神や仏をつくり、神や仏となった ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

2009年はダーウィンが1859年に『種の起原』を出版してから150周年記念の年であった。1859年といえば、日本では横浜が開港した安政6年であり、安政の大獄が荒れ狂ったころであった。

ダーウィンはこの書で人間の起原に直接触れなかったが、それでもダーウィンは人間がアダムやイヴの子孫ではなく、猿の子孫であると主張しているとして非難された。ダーウィンはさらに1871年に上梓した『人類の起原』で人間の起原が下等なものから由来していることを認めた。キリスト教の聖職者たちがダーウィンをいっそう激しく責め立てた。これに対してダーウィンは敵を苦しめて喜ぶ人間の子孫であるよりも、飼育係の命を救おうとして敵に立ち向かった猿の子孫であることを願っていると述べて、反論した。

当時は神が人間をつくったという考えが人々のあいだで支配的であった。150年経った今日では多くの人々がダーウィンの進化論を受け入れている。

宇宙ができたのは150億年ほど前、地球ができたのは46億年ほど前、地球上に単細胞生物が現れたのはそれから5億年ほど経ったとき、人類が誕生したのは700万年ほど前である。人類の誕生といっても、いまのような人間が突然現れたのではない。最初の人類は猿人であった。後にホモ・サピエンス(現世人類)へと進化したといわれている猿人が、ゴリラやチンパンジーから枝分かれしたときが人類の誕生とされている。この猿人が進化して現世人類になったのは4万年ほど前である。ホモ・サピエンス(Homo sapiens=Wise man)とはラテン語で「知恵の人」という意味である。猿人が「知恵の人=賢い人=現世人類」になった。

この「知恵の人」が農作と飼育を始めたのが1万年ほど前、それまでは身近にある物を漁って、食べて、生きていた。植物の耕作と動物の飼育によって人間の生活がやっと安定し始め、人間の生活の仕方=文化が発展し始めた。直接、生産や経済活動に従事しない人が存在するようになり、都市の文化=文明が生まれた。3000年ほど前から聖書やギリシャ神話が語り継がれるようになり、2500年くらい前から孔子、ソクラテス、ブッダ、プラトン、アリストテレス、孟子などの聖人・君子が現れた。イエスが生まれたのは2000年ほど前、ムハンマドが生まれたのは1400年ほど前である。

聖書も神話も人間がつくりだしたものである。儒教、仏教、キリスト教、イスラームの創始者たちは、いずれも人間であった。人間が神や仏をつくり、神や仏となった。

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2010年4月25日

5. 私以外の人はすべて師である ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

私は高校時代に社会科学研究部に属していた。1950年6月に朝鮮半島で戦争が始まった。当時、日本は米国をはじめとする連合国の占領下にあった。連合国軍最高司令官の命により日本で警察予備隊が創設され、日本は再軍備の道を歩み始めた。戦後の「民主化政策」が終わり、「逆コース」が始まった。私たちは戦争に反対し、再軍備に反対する声をあげた。占領軍は日本の警察を通じて学校当局に対して社会科学研究部の部員名簿を提出するように要求してきたという。

これに対してキリスト者の教員が職員会議の席で反対した。「イエスは弟子に売られたが、イエスは弟子を売らなかった。師たるものは弟子を売ってはならない」と。私はこのことを高校卒業後、大学生時代に知った。この先生は私が高校在学中よく私たちの活動を批判していた。それだけにいっそうこの先生の発言に深い感銘を受けた。人をある行為によってのみ評価してはならないことを学び、もし私が人から先生といわれるようになったときには、この先生のように振る舞おうと心に決めた。この決意はいまも変わっていない。

私はこれまでずいぶん多くの人と接してきた。その人々は老若男女を問わず皆、必ず私よりも優れたもの、私が学ぶべきものを持っている。私以外の人はすべて私にとって師である。人間は互いに学びあい、教えあう。教えることは学ぶことである。人間は互いに弟子であり、師である。弟子が師を批判するのを師は喜ばなければならない。弟子が成長した証拠である。師は弟子以上に努力し、成長しなければならない。尊敬は強制して得られるものではない。自然に生じるものである。

師とは学ぶべき人であり、乗り越えるべき人である。師を越えて、初めて師の恩に報いたことになる。

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2010年4月24日

4. 戦争反対の思想として共産主義に関心をもつ ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

私は戦争を直接体験していない。それらしいものは、五条で一度、米軍機の機銃掃射をうけたことと1945年3月の米軍機による大阪大空襲の翌日に五条から和歌山線で大阪へ向かい、王寺を過ぎ、大阪市内に入り、終着駅に近いところで汽車が動かなくなり、母とともに御堂筋を南から北にとぼとぼと歩き、淀川大橋を渡ったことぐらいである。私の戦争体験は戦後であった。食糧難と飢餓によってである。

私は二度とふたたび戦争をしてはならないと思った。また、あの戦争中に命を賭して戦争に反対した人がいたことを知った。共産主義者である。戦争反対の思想として共産主義、社会主義、ソヴェトに関心を持つようになった。これが私を大学生、通信社記者、大学院生、放送局記者、大学教員の道へと進ませた。

私はこれらの経験から次のように考えるようになった。人々は多様である。人々の生き方は多様であり、思想・信条は多様である。人間の社会は多様である。この多様性を認め、互いに他の人々の生き方、考え方を尊重しなければならない。一つの考えを絶対視し、一人の人間を神格化し、それを他人に押しつけようとしてはならない。そこから争いが起こる。全能の人間はいない。人間は必ず過ちを犯す。

私はこれまでの私の人生を三つの時期に分けている。第一は1932年12月の誕生から1956年3月の大学卒業までの23年余の「基礎的学習期」、第二は大学卒業から2008年3月に日本での大学教員の職を辞するまでの52年間の「専門的学習期」、第三はそれ以後今日までの2年間の「総合的学習期」である。

私の思想形成に大きな影響を与えた出来事は、第一期は昭和天皇による1941年12月8日の宣戦布告と1945年8月15日のポツダム宣言受諾放送、第二期はスターリン批判とソヴェトによる1957年の人工衛星打ち上げ、それに、1960年代末以降のソヴェト、米国、ヨーロッパ諸国、中国、韓国・朝鮮などへの旅、第三期は2008年のキューバ訪問と2009年のヴェトナム訪問である。旅は人間を変える。

私は2009年12月30日に満77歳、喜寿の誕生日を迎えた。両親よりも長く生きた。「私の人生哲学」を語るべき時が来た。

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2010年4月23日

3. 戦後混乱期の青年時代 ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

第二次大戦後、12人の大家族が生活するのは大変であった。大阪市内は米国の空襲によって焼け野原になり、住宅も食料もなかった。私たち一家は幸いにして住む家があった。住む所がなく、防空壕や掘っ立て小屋で生活している人が身近にいた。戦争で家族を失い、身体や心が傷ついていた人がたくさんいた。戦場で人を殺めて生き残った人がいた。私は五条中学校を中途退学したが、学校へ行くどころではなかった。食べるために家族全員が必死の努力をした。私も家業の機械工具商を手伝ったり、得意先の工場で働いたりした。昼食を頂けたのが有り難かった。

この時期に私は大阪梅田の阪急百貨店で開かれていた古本市で伊藤痴遊の『明治政治裏面史』を手にした。どうしても読みたくなって、手持ちのお金にまけていただいて買った。百貨店で値切って買ったのは最初にして最後であった。伊藤痴遊は明治の自由民権運動家であったが、政治演説が禁止されたので講釈師となって講演した。無類の雄弁家であった。1928(昭和3)年の最初の普通選挙で衆議院議員に選出され、二期務めた。私はこの書をむさぼるように読んだ。面白かった。歴史と政治への関心が高まった。

生活が少し落ち着いたときに日本大学付属大阪第二中学校に入学した。夜間中学校である。1947(昭和22)年4月に小学校6年・中学校3年・高等学校3年の新しい学校制度が導入された。大阪第二中学校で学んだあと、1948(昭和23)年4月に新制の大阪府立市岡高等学校定時制に入学した。夜間高校である。家から近い大阪第二中学校から遠い市岡高校に移ったのは尊敬していた大阪第二中学校の歴史の先生が市岡高校に移られたからであった。夜間中学にも夜間高校にもさまざまな年齢・経歴・職業の男女が集っていた。戦争で生き残ったのに、自らの命を絶とうとした学友もいたが、多くの人々が苦しい生活のなかで真剣に学んでいた。停電が多かったので、蝋燭を持って学校に通った。

この時期に私はこれも古本屋で買い求めた幸徳秋水と堺利彦が訳したマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んだ。エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』を一読したとき、目から鱗が落ちる思いがした。

1952(昭和27)年3月に高校を卒業し、4月に大阪外国語大学ロシア語学科に入学した。五条中学校中退以来久しぶりに昼間に学ぶようになった。シベリアに抑留されていた人、中国東北や朝鮮から帰国した人、凄惨な戦場から生還した人がいた。中学・高校・大学でさまざまな人生を歩んできた人々に出会った。多士済々であった。多くのことを学んだ。

1956(昭和31)年3月に大学を卒業した。その直前にソヴェト共産党第20回大会が開かれた。スターリン批判が始まった。偉大な指導者として天まで持ち上げられていたスターリンが地獄に突き落とされるのを見た。最高権力者の失墜を昭和天皇に続いて再び目にした。三度目は毛沢東であった。いずれも絶賛していた同じ民衆によって罵倒された。

大学を卒業し、就職のために東京行きの汽車に乗り、列車が大阪駅を離れた瞬間、私は肩から重い荷が落ちるように感じた。独り立ちの人生が始まった。私の青年時代は終わった。私の人生哲学の基本はこの時期までにほぼ形成されていた。

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2010年4月22日

2. 「三代目は国を滅ぼしましたね」―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

幼少年時代、私はもっぱら兄弟や近所の友だちとの相撲やチャンバラ、戦争ごっこなどに興じた。小学校に入ってからも自宅で勉強らしい勉強をしたことはなかった。それでも算数は比較的よくできた。算盤塾に通っていたので、算盤が頭の中に入っていた。算盤の時間には担任の先生に代わって教壇に立って算盤を教えていた。この先生は剣道も書道も良くできた文武ともに優れた教育熱心な方であった。夏休みには水泳指導、冬休みには剣道の寒稽古などをおこなった。私はこの先生から大きな影響をうけた。

先生は吉田松陰に心酔し、松下村塾の教育を模範とされていた。士規七則を教え、児童に暗記し、先生の前で暗唱するように指示された。私は早速、懸命に覚え、授業前の早朝、学校に行き、宿直明けの先生の前で暗唱した。「志を立てることを以て万事の源と為せ」、「交わるべき友を撰んで仁義の行いを輔けよ」、「書を読んで以て聖人賢者の訓えを考えよ」。志、友、仁義、書、聖賢。これが幼き日の私の出発点であった。身近にあった偉人の伝記を愛読し、歴史書を読んだ。

国民学校では紀元節や天長節などに校長が講堂で教育勅語を朗読し、全児童は黙祷しながら聴いた。校長は天皇を現人神と讃え、「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と教えた。昭和天皇は私の父より1歳下、皇太子(いまの天皇)は私より1歳下であったので、私は子供心に、天皇は父の弟、皇太子は私の弟のように思い、天皇を神、皇太子を神の子とは考えていなかった。このことを私はあるとき母に言った。母はそのことを外では絶対に言ってはならないと戒めたが、叱らなかった。

その母が1945年8月15日の玉音放送直後に「三代目は国を滅ぼしましたね」と父にひそひそと語っていた。これは驚きであった。私にとって昭和天皇は神武天皇以来124代目であったが、明治生まれの両親にとって昭和天皇は明治・大正に続く三代目であった。母のこの言葉が私の戦後思想への旅立ちとなった。両親よりもさらに一つ上の世代にとって敗戦は「公方様(将軍)」の天下から「天子様(天皇)」の天下、さらに「マック様(マッカーサー連合国軍最高司令官)」の天下への転換であった。

昭和天皇は「満州事変」のとき30歳、「真珠湾攻撃」のとき40歳、「玉音放送」のとき44歳であった。「40にして惑わず」というが、昭和天皇は40歳ではまだ迷っていた。敗戦という大きな失敗を経て、40歳代なかばにしてやっと迷いから抜け出し始めたようである。普通の人間はおおよそこの程度である。私もそうであった。

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2010年4月21日

1. 戦時下の幼少年時代 ―私の人生哲学

中西 治 (0時00分)

私は1932(昭和7)年12月30日に大阪で生まれた。1931(昭和6)年9月18日に中国東北で「満州事変」が勃発した翌年である。父は1900(明治33)年3月3日に奈良県で生まれ、母は1905(明治38)年11月25日に島根県で生まれた。両親は大阪で結婚し、1925(大正14)年1月14日に婚姻届を提出している。私は5番目の子供であり、姉2人と兄2人がいた。これで「おさめておこう」ということで、「おさむ (治)」と名付けられた。

当時は「産めよ、殖やせよ」の時代、私のあとに弟が2人、妹が3人生まれ、私たちは10人兄弟・姉妹となった。それもいまでは私と弟1人、妹1人の3人となった。

1937(昭和12)年7月7日に中国北京で「廬溝橋事件」が起こり、「支那事変」が勃発した。中国での戦争が拡大した。1938(昭和13)年5月に国家総動員法が発令され、日本は戦時態勢に入った。私は1939(昭和14)年4月、6歳で大阪市立三津屋尋常小学校に入学した。小学校は1941(昭和16)年4月1日に国民学校と改称された。「皇国民の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的と」した。

同年12月8日に「大東亜戦争」が始まった。緒戦、日本は真珠湾奇襲攻撃に成功し、香港、マニラ、シンガポールなどを占領、勝った勝ったとはしゃでいた。戦争が始まったとき、私は国民学校3年生、8歳であった。遂に大変なことが始まったという思いはあったが、なぜかはしゃぐ気にならなかった。

1942(昭和17)年6月に日本はミッドウェー海戦に敗れ、1943(昭和18)年5月にアリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が「玉砕」した。戦局は急速に悪化した。 米国の爆撃機B-29による本格的な日本本土空襲が迫っていた。

1943年、国民学校5年生の後半に、母と私以下の子供6人が父の故郷近くの奈良県宇智郡五条町に小さな家を1軒借りて疎開した。私は同町立五条国民学校に転校した。1945(昭和20)年3月に同校を卒業し、4月に奈良県立五条中学校に入学した。同校1年生の夏休み中の8月15日に日本は敗北した。父や姉兄たち4人が住んでいた大阪の家に焼夷弾が落ちたが、不発であったため奇跡的に焼け残った。私たち疎開していた家族7人はただちに大阪の家に戻った。陸軍に入っていた長兄が復員してきた。久しぶりに家族12人が揃った。

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2010年4月20日

はじめに ―私の人生哲学

中西 治 (20時44分)

2010年4月18日のUUI開校式で行われた記念講義を複数回に分けて掲載いたします。なおDVD付きの『講義録』を定価1,000円で販売の予定です。ー事務局

特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所
ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット
講義録第1号 (2010年4月18日)

私の人生哲学
―ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット開校記念講義―

中西 治

この講義は特定非営利活動法人 (Nonprofit Organization=NPO) 地球宇宙平和研究所 (Institute for Global and Cosmic Peace=IGCP) が「ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット (Universal University on the Internet=UUI)」を開校するにあたっておこなうものである。

NPO法人IGCPは、1986年12月30日に設立された「地球と宇宙の平和をめざす国際研究所 (International Institute for Global and Cosmic Peace=IIGCP) を基礎として、2001年12月15日に設立され、日本国神奈川県知事の認証を受けて、2002年5月2日に正式に発足した。IGCPは2009年6月14日に「グローバル・アカデミー (Global Academy=GA)」を創設し、それに続いて、2010年4月18日にUUIを開校した。これにより、「メーリング・リストigcp-ml@igcpeace.org」、「ウェブサイトhttp://www.igcpeace.org/」などのデジタル通信網の確立、『ニューズレター』、『ブックレット』、『所報』などの発行とともに、IGCPの情報・広報・研究・教育体制が完成した。IGCPは新しい発展の段階に入った。

私はこの機会に「私の人生哲学」と題して記念講義をおこない、私の歩んできた道を振り返り、そこで学んだ私の生き方について述べ、IGCPがめざすもの、とくに、GAとUUIがいかなる人材の養成をめざしているのかを明らかにしたい。

目次

  1. 戦時下の幼少年時代
  2. 「三代目は国を滅ぼしましたね」
  3. 戦後混乱期の青年時代
  4. 戦争反対の思想として共産主義に関心をもつ
  5. 私以外の人はすべて師である
  6. 人間が神や仏をつくり、神や仏となった
  7. 人間の評価を最終的に決めるのは行動である
  8. 科学技術の発展にふさわしい知恵と知識をあわせもつ人間を
  9. 宇宙も、地球も、人間も生き物
  10. すべての人が教える人であり、学ぶ人である

2010年4月1日

新しい社会的事業への参画について

中西 治 (19時16分)

4 月卯月です。2010 年度が始まりました。

昨年度のグローバル・アカデミー (GA) の開設に続いて、今年度はユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット (UUI) を開校します。メーリングリスト、ウェブサイト、『ニューズレター』、『ブックレット』、『所報』、各研究部会とならんで、私たちの研究所の情報・広報・研究・教育体制が確立しました。これらの活動に要する費用は研究所員の皆さんの会費と寄付でまかなわれています。研究所員は全員が、特定の仕事に対する少額の謝礼を除いて、無償で活動しています。今日まで研究所を支えて下さった皆さんに改めて心から厚く御礼申し上げます。

下記により、 2010 年 4 月 18 日午後に横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 4 で理事会と UUI 開校式をおこないます。理事会には役員以外の方もオブザーバーとして参加できます。お忙しいこととは思いますが、ご参加をお待ちしています。場所は東急田園都市線  田奈駅下車  ホームの下です。お間違いのないようにお出で下さい。

特定非営利活動法人 (NPO) は組織として営利を追求しません。その活動には営利を目的としない基本的活動と営利を目的とする副次的活動があります。

私たちの研究所はこれまでもっぱら前者をおこなってきました。

営利を目的としない活動の枠組ができた段階で、私たちの研究所は新たな発展を期し、営利を目的とする活動を始めます。一般教育事業や情報産業などの社会的事業に研究所は NPO 法人として特色のある参画をします。新たな挑戦です。

この事業に関心のある方は積極的に申し出て下さい。会計・税務処理は研究所がおこないます。必要な経費を除いた利益は事業参加者のあいだで配分します。独創力と行動力のある起業家を求めます。

特定非営利活動法人  地球宇宙平和研究所  第 5 期理事会第 3 回会議

日時:2010 年 4 月 18 日 (日) 13 時 15 分〜15 時 35 分

議題
第 5 期理事会第 2 回会議議事録朗読
第 5 期理事会第 3 回会議議事録署名人の選任

審議事項
(1) 2009 年度事業報告について
(2) 2009 年度収支報告について
(3) 2010 年度事業計画について
(4) 2010 年度収支予算について
(5) ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット (UUI) の開校について
(6) 顧問・客員研究員委嘱について
(7) 第 9 回総会準備について

報告事項
(1) 企画広報委員会デジタル・ニューズレター部の活動 (メーリングリスト・ウェブサイト管理、『ニューズレター』編集) について
(2) 学術委員会の活動 (『所報』発行、各研究部会およびグロ-バル・アカデミーの実施) について
(3) 交流委員会の活動 (上海訪問・ロシア訪問・ベトナム交流) について

ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット (UUI) 開校式

日時: 2010 年 4 月 18 日 (日) 15 時 45 分ー 17 時 15 分

開校の辞と開校記念講義
中西治「私の人生哲学ー UUI 開校にあたってー」
参加費は会員・非会員を問わず無料

2010年3月19日

「東アジアを友愛の海に」「友愛の世界に」、「言や良し、実行あるのみ」 ―三つの会に参加して―

中西 治 (8時20分)

このところフォーラムや講演会、シンポジウムなどが盛んに開かれています。きょうは最近参加した三つの会について報告します。

第一は、2010 年 3 月 10 日に東京霞が関ビルにある日本国際問題研究所で催された国際フォーラム「アジア太平洋地域の安全保障環境と米露関係」です。

報告者はロシアのモスクワにあるカーネギー・モスクワ・センター所長ドミトリー・トレーニンさんです。

彼は 1955 年生まれ、ソヴェト時代の 1977 年に軍事外国語大学を卒業、1978 年から 1983 年までドイツ駐留ソヴェト軍対外関係局に勤務、1983 年から 1993 年まで母校の軍事外国語大学で語学教育と地域研究に従事しています。この間、1984 年にモスクワのソヴェト科学アカデミー米国・カナダ研究所から博士号を授与され、米ソの核・宇宙兵器交渉にソヴェト代表団員として参加しています。

ソヴェト体制崩壊後は 1993 年から 1997 年までロシア科学アカデミー・ヨーロッパ研究所上席研究員となり、1993 年にローマの NATO 軍事大学上席研究員、1993 年から 1994 年にブリュッセルの自由大学客員教授を務めています。また、1993 年からカーネギー・モスクワ・センターにも関係し、2008 年 12 月からは所長です。

トレーニンさんはアジア問題を、モスクワからの視点として、主としてアフガニスタンやパキスタン、中央アジア諸国、モンゴル、中国、ネパール、インドなどの大陸部の情勢について論じました。最後に、ソヴェト外交とロシア外交の違い、ソヴェト・米国関係とロシア・米国関係の類似点と相違点について次のように語りました。

ロシア連邦はソヴェト同盟の継承国家であり、類似点もあるが、相違点の方が大きい。第一は、ソヴェト外交はイデオロギー的であったが、ロシア外交はプラグマティスト的である。第二は、ソヴェトは金銭をアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国に無償援助として与えたが、ロシアは儲けるためにしか与えない。第三は、米国との関係は、ソヴェト時代はキューバ危機に見られるように、ともにグローバルな中心としての関係であったが、現在は人間的な関係である。

ロシア外交に夢がありません。ロマンがありません。これは無い物ねだりのようです。

第二は、3 月 12 日に東京麻布台の外務省外交史料館で催された講演会です。講師は慶應義塾大学の中国研究者、山田辰雄さん。山田さんとは若かりし頃に中ソ関係について共同研究をしました。何十年振りかの再会です。演題は「蒋介石と日本」でした。

蒋介石は 1887 年 10 月 31 日に中国浙江省奉化県渓口鎮に生まれ、1975 年 4 月 5 日に台湾で亡くなっています。享年 88 。 1905 年に日本を初めて訪問したのに続いて、1907 年に日本に留学し、1909 年に日本陸軍に勤務しました。この年 3 月 18 日に蒋介石に最初の妻とのあいだの長男・蒋経国が生まれました。この妻とは 1927 年に離婚し、同じ年に宋美齢と結婚しています。

1911 年に辛亥革命が始まると、ただちに日本軍を辞めて中国に帰り、革命に参加しました。 1923 年に蒋介石は孫文の指示でソヴェトを訪問し、軍制を調査しました。 1924 年に蒋介石はソヴェトの援助で設立された広州の黄埔軍官学校の校長となりました。 1925 年に蒋経国は中国の共産主義青年同盟と国民党に入り、党の決定により勉学のためにモスクワに派遣されました。第一次国共合作の時でした。中国の若者にとってソヴェトはあこがれの地でした。蒋経国は 1926 年にソヴェトの共産主義青年同盟に入り、1929 年に共産党員候補となり、1930 年にロシア人女性と結婚、1937 年に蒋介石に呼ばれて妻とともに一人息子を連れて中国に帰国しました。この間、蒋介石は 1926 年に北伐を開始、1927 年に上海クーデターを起こし、中国共産党を弾圧、南京に国民政府を樹立しました。その後は下野と復活を繰り返し、1936 年の西安事件を経て、1937 年に第二次国共合作に至りました。この時期に蒋介石は長男一家を中国に呼び寄せたのです。蒋介石は 1945 年に日本との戦争に勝利しましたが、1949 年に中国共産党との戦争に敗れ、台湾に逃れ、その地で生涯を終えました。蒋介石の一生は波瀾万丈、毀誉褒貶にみちています。評者の政治的立場によって、その評価は極端に分かれています。

山田さんはきわめて学問的に蒋介石の政治行動を近代中国史のなかに位置づけました。山田さんは蒋介石が語った「自分の生涯の革命の意志と精神が今日このように堅忍であり、すべてのことを恐れないでいるのは日本での 1 年間の兵士の生活の影響である」という言葉を紹介し、蒋介石の日本観は愛憎の混じったものであったとしています。山田さんは大陸中国でも、台湾でも蒋介石を客観的に研究することが可能になってきていると指摘しました。スターリンは 1879 年生まれ、蒋介石は 1887 年生まれ、毛沢東は 1893 年生まれでしたが、この 3 人の人間とその関係を分析するのも面白いテーマでしょう。

第三は、3 月 17 日に東京のグランドプリンスホテル赤坂でおこなわれた公開シンポジウム「東アジア共同体の構築を目指して」です。冒頭に内閣総理大臣鳩山由紀夫さんが挨拶しました。私はかつて一度鳩山さんと話したことがありますが、総理になられてから話しを直接聞くのは初めてです。鳩山さんは概ね次のような演説をしました。

私はビジョンを語る。国と地方を同格にしたい。政府と NPO を同格にしたい。民に大きな機会を与えたい。東アジア共同体を積極的に進めたい。スピード感をもって進めるのは大変であるが、新たな日本を築き、日本を東アジアに、世界に広く押し出したい。

東アジア共同体は日米同盟・日米安保を基礎に進めたい。そのことによって東アジア諸国も安心する。長期的に柔軟性をもって ASEAN+3、ASEAN+6、日中韓首脳会談などの各組織を連携させる。透明性、開放性を維持する。この地域が命を大切にするようにしたい。二度とふたたび戦争をしないようにしたい。経済的連携を強化する。自由貿易協定を推進したい。農業などに懸念があるが、この懸念を努力して解消したい。環境問題でも地球を惨めなものにしないために協力したい。中国に対しても友愛を提起する。東アジアを友愛の海にしたい。 EU も石炭鉄鋼共同体から始まり、石炭鉄鋼をめぐる戦争を阻止するための不戦共同体として創設された。友愛の世界にしたい。友愛の災害救助、これには NPO とともに自衛隊も参加する。介護のためにフィリピンやタイなどから日本に来ている人々から日本語の難しさの障壁を取り除きたい。教育の面では単位互換制などを実施したい。日中韓の協力を東アジアに拡大し、さらにアジア太平洋に広げたい。日本国民が心を閉じてしまってはうまくいかない。心の壁をとりのぞき、開かれた国益を求める。

鳩山演説は概して参加者の共感を呼び、好評でした。友愛の災害救助に自衛隊は武器を必要としないでしょう。邪魔でしょう。たくさんの人が亡くなったところに救助に行って、たとえ一人でも傷つけ殺めたとしたら、何千倍、何万倍もの恨みをかうでしょう。災害救助は危険をともなうものです。それを厭うならば、最初から行かなければよいのです。災害時に一番有り難いのは水と食料です。

討論では日本のアジア経済研究所所長白石隆さんがヨーロッパ・モデルはアジアでは機能しないのではないかと言いました。中国の台頭が話題になりました。中国の北京国際関係学院副院長王逸負さんが発言しました。鳩山演説は素晴らしい。中国はまだ内向きであり、国内問題が中心である。中国は新参者であり、学習の過程にある。中国は ASEAN だけではなく、日本、韓国、ロシア、モンゴルとも協力を拡大したい。中国はすでに ASEAN と自由貿易協定を結んでいるが、朝鮮とも自由貿易協定を締結したい。米国のカリフォルニア大学バークレー校教授ペンペルさんは日本の本屋には中国・朝鮮脅威論が溢れているが、これはパラノイア (偏執病) 的であると言いました。韓国の世宋財団理事長孔魯明さんは、核問題が解決したあと六者協議をグローバル・コリアの地域的なサブ安全保障システムにしたい、と述べ、鳩山ビジョンは具体策がないと指摘しました。

日本での東アジア共同体論議に欠けているのは朝鮮問題です。朝鮮が不安定要因であると言いながら、それを積極的に解決する方策について論じていません。中国と韓国はすでに南北朝鮮の統一を視野に入れています。朝鮮以外の地域ではすでに密接な相互依存のもとに協力が進んでおり、実質的に共同体を形成しています。だから、あえて EU のような制度を作る必要はないとの考えが強いのです。

東アジア共同体は ASEAN が ASEAN+3、ASEAN+6 などを経て、アジア太平洋不戦平和友好協力共同体へと向かう道での一里塚でしょう。 EU をはじめとする地球上の各地域の人々の努力が実って、いずれ地球社会全体が地球不戦平和友好協力共同体になるでしょう。

私は鳩山さんが「東アジアを友愛の海に」「友愛の世界に」というビジョンを語ったことを喜んでいます。一国の首相はかくあるべきです。「言や良し、実行あるのみ」です。

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