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沖縄・名護市の皆さんへ

中西 治

1 万 7950 人の皆さん
ありがとうございます。
皆さんの一票のおかげで私は勇気づけられました。
私の思いは独り善がりではなかったことを。

1 万 6362 人の皆さん
ありがとうございます。
皆さんの思いは分かります。
1 万 7950 人と仲良くして下さい。

あの戦争に生き残った人々であり、その子孫ではありませんか。
ここで争ってはあの戦争で亡くなった両親や祖父母に申し訳ないではありませんか。

戦後 65 年、やっと出発点に立ちました。
ともに、沖縄の平和のため、日本の平和のため、アジアの平和のため、地球の平和のため、すべての人間の幸せのために努力しましょう。

人間はみな同じです。
米国人も同じです。
思いは同じです。

沖縄訪問報告 「沖縄と日本と私と」

岩木 秀樹

平和祈念公園より

よく、「沖縄問題」と言われる。しかし沖縄が問題なのではなく、現実は「日本問題」であり、「アメリカ問題」である。この「沖縄問題」という言い方はおかしいと思う。

私は中東イスラームを研究対象としている。最近は少し様相は異なってきたが、歴史的に中東に対して、日本は良いことも悪いこともしておらず、いわば無関係の関係であった。だから研究は「楽で」あった。しかし沖縄はそうではない。日本の歴史と沖縄の歴史は密接で交錯しており、加害と被害の関係は現在まで複雑につながっており、自分の歴史観が大きく問われることになる。

今回の沖縄訪問を通して、沖縄をみることで、日本をかえりみることになり、さらにアメリカの世界戦略まで考える必要があり、ひいては自分を見つめ直す機会になった。

以下に日程と会計報告を書いたが、それに沿って簡単に沖縄訪問の印象を書きたい。

2月28日(土)に沖縄に降り立った。東京では雪が降っていたが、沖縄は初夏であり、半袖でも汗ばむ陽気であった。日本は面積では小さな国だが、南北の距離を考えると変化に富む多様な国かもしれない。

佐喜眞美術館では、丸木位里・俊さんの沖縄戦の怒りの絵を見た。その巨大さと反戦の迫力に圧倒され、学生の時に見たゲルニカを彷彿とさせた。沖縄国際大学の黒こげになった木を見て、また校舎から間近にある普天間基地を見て、これほどすぐそばに基地があることを改めて知った。事故は起こるべくして起こった。今こうしている時にも、いつヘリコプターが落ちてきてもおかしくないであろう。

その後、仲間理さんと城間康之さんと懇談・懇親会を行った。沖縄の人々の平和への強い意志を感じた。私が意見を率直に吐露したことに対して、共感していただき、勇気づけられた。今後の沖縄の大学との交流が進む一歩になったように思う。また沖縄料理もとてもおいしく、安く、沖縄に行ったときにはまた訪れてみたい。

その後、ホテルに戻った。ホテルは、新都心のおもろまちにあり、便利できれいで快適であった。新都心はきれいに区画整理され、大きな建物が多かった。北谷に次いで、新しい沖縄の中心地になりそうだ。

3月1日(日)にはまず旧海軍司令部壕に行った。ところで、沖縄は車社会であり、私たちもほとんどタクシーで移動した。移動中にタクシーの運転手さんから色々な話を聞くのが楽しく、勉強になった。ある運転手さんは、沖縄の窮状を訴えて自決をした海軍の大田少将にはある程度の共感を寄せていたのに対して、第32軍の司令官である牛島陸軍中将に対しては、そのようなものは感じていないようであった。しかし壕の中の大田少将の司令官室だけは入ることができず、そこには仏像のような物が置かれていた。大田少将のみ特別扱いで、やや神聖化されていた。

沖縄県平和祈念資料館は新しくできた資料館で、ここでは平和の尊さや戦争の悲惨さが視覚にも訴える形で、非常に工夫されていた。ただ私の見落としかもしれないが、朝鮮半島等から軍夫や従軍「慰安婦」として沖縄に強制連行された人々は約1万人もいたが、それについての記述はあまり見られなかったことは残念であった。

その後、平和祈念公園の平和の礎も見た。ここには敵味方、国籍、軍人、民間人を問わず、沖縄戦における戦没者24万人の名前が刻まれている。戦争を賛美し、勝者の軍人を顕彰する靖国神社とは明らかに異なる。しかし、平和の礎に初めて来て、問題はそれほど単純ではないことを知った。やった方もやられた方もいっしょになっているということは、ドイツでいえば、ヒトラーもアンネフランクもいっしょに刻印されているということだろう。多くの朝鮮半島、台湾出身の人々はここに名前が刻まれることを良しとせず、空白の刻銘板が多く残っている。大和、沖縄、朝鮮・台湾という帝国主義時代の三層構造を改めて考えさせられた。

魂魄の塔は1946年に建立されたものであり、沖縄戦で亡くなった沖縄県民のための塔である。近くにも他の県の塔があるが、中には「よく戦った」という顕彰施設も存在する。

その後、ひめゆりの塔やひめゆり平和祈念資料館を訪問した。平和の尊さを語り継ぐひめゆりの人々のたゆまぬ努力には脱帽する。ただ周りは観光地化され、酒に酔った赤ら顔のおじさんたちの団体が来ていたが、資料館の名前の通り平和祈念が念頭にあるか疑問に思った。また映画の影響もあろうが、ひめゆり以外でも多くの若い人々が亡くなったが、他の塔は見向きもされず、ここに大挙として人が押し寄せることに、ジェンダー化された観光地としての記念碑を若干感じた。

県立博物館は新しくできたもので、沖縄の自然・歴史・文化がとてもよく分かり、見やすい博物館だった。その後、観光客のメッカである国際通りを散策した。「鉄の暴風」から立ち直り、これほどまでに栄えるとはまさに奇跡のワンマイルであろう。

3月2日(月)は、道の駅かでなにある嘉手納町学習展示室を見た。またそこから嘉手納飛行場が一望でき、その広大さに驚いた。返還されても汚染物質等で農地にはならず、住宅地にもならないなら、いっそアメリカにも儲けさせるためにも、沖縄ディズニーランドをここに造ったらとタクシーの運転手さんに言ったら、苦笑された。

チビチリガマは「強制集団死」が行われた場所であり、碑文には老人と女性と子どもの名前が刻まれていた。親が子供を殺すとはこれほどの地獄がこの世にあるのか。皇民化教育を受けていた若い母親ほど「貞節」を守るためにと「自決」しなければならないとの強迫観念にとらわれていたという。

2000年のサミット開場であった万国津梁館に行き、その後、ちゅら海水族館でジンベイザメやマンタに会い、しばしほっとするひとときを持った。

帰りには、北谷のアメリカン・ビレッジを見学し、夕食も兼ねながら研究会をした。発表者とテーマは以下の通りである。

  • 江尻友昭「沖縄の基地の価値と意義」
  • 岩木秀樹「『沖縄問題』と『日本問題』-沖縄の歴史・基地・現在-」
  • 玉井秀樹「海兵隊グアム移転をどう評価するか-在日米軍再編ロードマップの意味を考える」

3月3日(火)、ホテルをチェックアウトした後、沖縄県知事公室基地対策課の方から基地問題の現状と課題についてレクチャーを受けた。様々な資料を通して現状を教えていただいた。私も率直に色々な質問や意見を述べた。基地が無くならない理由、米兵の犯罪原因、これからの県としての取り組み、アメリカの世界戦略と沖縄などの問題が議論された。これまでの沖縄訪問の締めくくりとしてふさわしいものになったと思う。

その後、首里城を見学し、琉球の歴史に触れ、後ろ髪を引かれる思いをしながらも、初夏の沖縄から雪降る東京に向かった。

沖縄訪問を前にして書籍を読み、また現地を訪れて、改めて沖縄の批判精神や非暴力平和思考、国家を乗り越えるメンタリティやネットワークを強く感じた。

また分断される沖縄もかいま見ることができた。基地反対の声を封じ込めるために振興策という名の札束をばらまく中央政府、「強制集団死」させられた人々を援護法という名のこれまた札束でほおをたたき、「軍に協力するために死んだ」と歴史も塗り替える手法がある。歴史認識においても基地問題に関しても、沖縄が分断されているように感じた。だが分断されながらも基地の存在を無条件に肯定する人はほとんどいないことも強調しなければならないであろう。

また天皇制存続と憲法9条の存在と沖縄の基地は密接な関係があるということも今回知ることができた。天皇制維持のためには、諸外国の批判をかわすために非武装国家となる必要があり、それでは侵略の不安があるので、日本の安全保障のために沖縄に基地をおくということであった。もちろん9条は人類の平和希求の到達点ではあるが、このように沖縄が犠牲となったことも忘れてはならないであろう。

最後に、沖縄の自己批判にも感銘を深くした。沖縄は単なる被害者ではなく、ベトナムや最近では中東地域に向けて発進する基地であり、加害者でもあることも自覚している。さらに日本のことを本土という言い方をせず、どの土地でも住んでいる人にとっては、そこが本土である。だから沖縄島も沖縄本土とは呼ばないとの主張にも心を打たれた。このような沖縄に息づく自己批判、批判精神、平和思考、ポスト国家思考を私も体現しながら、「命こそ宝」の思想を広めていきたい。

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沖縄訪問団結団式に参加して

わたなべ ひろし

2月15日に八王子で行われた、研究所の沖縄訪問結団式を兼ねた研究会に参加した。報告者は会員の玉井秀樹さんと中西治理事長のお二人であった。

玉井さんの報告は、戦後における沖縄の米軍基地の問題を概観し、その上でどうしたら米軍基地を縮小、全面返還できるのかということを、沖縄に米軍基地を一方的に押しつけている日本人として、そして平和研究を専門とする者として(さらに当研究所の会員の一人として)、何よりも自分自身に問うという真摯なものであり、非常に共感することができた。

報告後の質疑応答の際、沖縄の米軍が出て行くかどうかは、まず何より米国の問題なのではないか、そして米軍にその意思が無い限り沖縄の基地はなくならないのではないかと質問すると、玉井さんからは、沖縄における米軍基地の存在は、米軍の意思というより、日本人(日本本土人)の思惑の結果ではないのかという答えが返ってきた。全くおっしゃる通り。僕も全面的に同意します。

ただ欲を言えば、玉井さんはこれまでの日本人による沖縄へのかかわり方に対して非常に批判的であったが(そして僕もそう思うが)、それでも沖縄における反基地闘争と、本土における平和と民主主義の為のさまざまな思想や運動は、戦後史の中でお互いに影響を与え合ってきた部分も少なからずあったのではないだろうか。その点を、それこそ日本人として、平和研究者として、(そして当研究所の会員として)玉井さんには明らかにしていただけたらと思いました。

中西理事長も、報告の中で沖縄戦に触れていた。

中西さんによれば、英国首相のチャーチルは、沖縄戦において戦火の中に次々と自身の命を投じていく沖縄のひとたちの姿を目の当たりにし、戦慄したというのである。そして彼は、こんな日本人相手に本土決戦など行えば、連合国軍兵士の死者が何十万人出るか分からないと恐怖し、ソ連の速やかな対日参戦を促したということであった。

僕は中西さんからこの話をお聞きして、沖縄戦の酷さがあの第二次大戦の終わり方や、戦後の国際体制構築に向けた指導者たちの様々な思惑などに大きな影響を与えていたことを知り、非常に納得するものがあった。ある本によれば、沖縄住民の4人に1人は沖縄戦で亡くなっているそうである。それ程多数の死というものが、歴史に対して何の影響も与えないなどということはあるはずが無いと思ったからである。

日本近現代史家である大江志乃夫氏は、日本の戦後史をまとめた著作を、沖縄戦の叙述から始めている。そして大江さんは次のように序章を結んでいる。

沖縄が切り捨てられたところから、戦後の日本国の歴史ははじめられている。……あくまで戦後の沖縄にこだわりつづける立場から、日本の激動の歴史にいどみたいと考えたのである。したがって、この[本書における]戦後は、八月一五日ではなく、六月二三日から始まる。

僕は学生時代に大江さんのこの文章を読んで、日本の「戦後」と沖縄の関係、同じ「日本国民」であっても「戦後」の意味は決して一様なものではないということを教えてもらった。

当研究所の沖縄初訪問が、実り多きものでありますよう祈っております。

エッセイ 33 奴隷根性について

木村 英亮

安倍晋三官房長官は記者会見で、沖縄の普天間飛行場の移設計画について、地元の納得がなくとも、「日米協議整えば決着」と述べたと報道されている(『朝日新聞』、2006.3.7付)。

アメリカとの関係について、日本政府の態度には腑に落ちないところが多々ある。ここで問題になっている米軍再編のための沖縄の普天間基地 の移転についてもそうである。日本は「思いやり予算」として、本来アメリカが払うべき基地整備や運営のための費用を自発的に負担している。その上今回は、 住民が反対している地域に航空基地を移そうというのである。日本本土においても、基地を受け入れたいという地域はないようである。 そもそも米軍は、日本を守るためにいるはずであるが、日本とはだれなのであろうか。住民が反対する基地が軍事的に有効に機能するかどうかあやしい。米軍基地があるほうがかえっ て危険なのに、どうして金を払ってまでいてもらうのだろうか、という疑問をもつ人は多い。戦後60年間米軍基地の存在に慣れ、住民や、市長、知事の反対するなかで、まずアメリカと決め、経済振興策でなんとかなだめようとし、だめなら法律を改正して知事の権限を奪おうという。

このようなことは、ふつう独立国の政府はしない。

2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の建物に米軍大型ヘリが衝突炎上し、調査にも日本人は立ち入れなかった。たとえばハー バード大学の傍に日本軍の基地があり、ヘリが墜落するといったことは想像できない。もしそんなことがおこったらアメリカ人はどうするであろうか。