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朝鮮の核実験についての国連安保理の新しい決議に寄せて

中西 治

国際連合安全保障理事会は2009年6月12日午後 (日本時間13日未明) に、朝鮮が同年5月25日におこなった核実験を非難する新しい決議第1874号を採択しました。

今回の安保理決議は冒頭で「国連憲章第7章の下で行動し、同章第41条に基づく措置をとる」と規定しています。同条は「兵力の使用を伴わない非軍事的措置」についての規定です。ちなみに、第42条は「第41条に定める措置では不充分であろうと認めたときにとられる空軍、海軍または陸軍の軍事的措置」についてです。

一般的には、公海上での他国船舶の停船や捜索は「戦争行為」です。今回はこれを非軍事的におこなわなければなりませんので、当該船の所属国の同意を必要とします。しかも、朝鮮に出入りする貨物の領内および公海上での検査が、中国の反対によって、国連加盟国の「義務」から国連加盟国への「要請」に変わりました。各国は貨物の検査をしてもよいし、しなくてもよいのです。

かつて1962年10月のキューバ・ミサイル危機のときに米国はキューバ周辺の海上封鎖を発表しましたが、実際にはソビエト船の停船や捜索はおこなわれませんでした。米国とソビエトの直接の戦争を避けたいとの思いがケネディさんとフルシチョフさんの双方にあったからです。

私はすべての国の核爆発実験と核兵器保有に反対ですが、今回の決議を安保理に採択させる上で重要な役割を果たした米国やロシアをはじめとするすべての核兵器保有国に、朝鮮を非難する資格があるのだろうか、と思っています。

米国は第二次大戦中に世界で初めて原子爆弾を作り、広島と長崎で最初に使いました。戦後も核兵器を作り続け、1970年にその保有数は2万7000に達し、その後、減っていますが、いまでも核弾頭を2702発、実戦配備していると言われています。ロシアもソビエト時代の1982年に4万近くの核兵器を保有し、その後、減少していますが、いまでも核弾頭の実戦配備数は4834発と言われています。

1970年に発効した核兵器不拡散条約 (Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons: NPT) は、1966年以前に核爆発実験をおこなった米国・ロシア・英国・フランス・中国の5か国だけに核兵器の保有を認め、それ以外の国には核爆発実験も核兵器の保有も認めていません。NPTは核兵器保有国を限定しながら、それを皆無にするための過渡的条約です。しかし、実際には、1998年に核実験をしたインドとパキスタンをいまでは核保有国として認めています。

米国やロシアなどの核兵器保有国が朝鮮の核実験を非難するというのならば、まず、自国が過去におこなった核実験について謝罪し、現在保有している核兵器をすべて即時廃棄すべきです、少なくとも廃棄の日程を具体的に明らかにすべきです。自国の核保有は良くて、他国の核実験は悪いというのは道理に反します。

朝鮮は1950年に始まった朝鮮戦争について1953年に「国連軍」と休戦条約を締結し、現在、米国と停戦状態にありますが、まだ戦争は完全に終わっていません。米国の陸軍と空軍は依然として韓国に2万6000人駐留しています。加えて韓国軍兵士が69万人います。さらに、日本には1万7000人の米軍兵士がおり、米国の第七艦隊が日本に母港をもっています。朝鮮は米国の核ミサイル網で包囲されています。これに対して朝鮮軍は100万人と言われています。

朝鮮半島の緊張を緩和する唯一の方法は朝鮮戦争を完全に終わらせ、朝鮮と米国とのあいだで平和を回復し、国交を正常化することです。朝鮮はこのために虚勢を張っています。戦争が再開されれば元も子もなくなります。平和的な話し合いによる解決しか道はないのです。

核兵器の廃絶を唱えるオバマさんは、朝鮮半島の平和、アジアの平和、世界の平和のために、これまでの枠組を越え、もっと大胆・積極的に指導性を発揮すべきです。世界がオバマさんに期待しているのはこのことです。

私は2005年8月25日から9月2日まで朝鮮と中国を旅しました。新潟からウラジヴォストーク経由で平壌に入り、朝鮮社会科学者協会や金日成総合大学の研究者たちと話し合いました。少年宮や人民大学習堂、モラン第一高等中学校を見学し、アリラン公演やサーカスなども見ました。開城と板門店も訪れました。平壌から国際列車で中国東北を横切り、北京に着き、北京大学日本研究センターの人々と朝鮮問題について論議しました。

私は文化大革命末期の1975年4月に初めて中国を訪れました。中国は1978年に改革開放政策に転じて30年、いまでは繁栄した強大な国になっています。私は、朝鮮は中国の文化大革命から改革開放政策への移行期にあたるのではないか、と思いました。「現在の朝鮮は四半世紀前の中国である。朝鮮は20年くらいで現在の中国のところまで来るであろう。」と書きました。多彩な人材がたくさん育っているので、朝鮮には未来があります。中国は変わりました。朝鮮も変わります。すべては変わるのです。

頑な心を和らげるのは温かい心です。朝鮮半島の北と南、朝鮮と米国、朝鮮と日本、どこにも人間が住んでいます。どこにも優しい人も厳しい人もいます。誰かが先に優しい温かい心で接し始めなければなりません。2000年6月に金大中さんの温かい心に金正日さんも応えました。朝鮮と韓国の統一、朝鮮の非核化に向けて動き始めました。それはつい最近まで続きました。ふたたびこの道に戻らなければなりません。この道しかないのです。いま求められているのは大きく人を包み込む大人です。

朝鮮の核実験について

中西 治

2009年5月25日に朝鮮中央通信は「同日、2回目の地下核実験を成功裏に実施した」と発表しました。

韓国の地震観測では、2006年10月9日の1回目の実験はマグニチュード3.58から3.7と言われていましたが、今回の実験は4.5と伝えられています。前回よりも核爆発の規模は大きいようです。

私はすべての核爆発実験に反対であり、すべての核兵器の保有に反対です。核戦争の脅威をなくすためには核兵器を廃絶しなければなりません。

私は今回の朝鮮の核爆発実験にも反対です。無駄です。いずれ核兵器はなくなります。

今回の朝鮮の行動は十分に予想されるものでした。今年4月5日に朝鮮が人工衛星を発射し、地球をまわる軌道に乗せたと発表したのに対して、国連安全保障理事会は同月13日に議長声明を発表し、この発射が前述の朝鮮の第1回核実験と関連して出された2006年10月14日の国連安保理決議第1718号に反するとしました。

朝鮮は安保理が朝鮮の人工衛星打ち上げ問題を議題としたことに抗議し、この議長声明に賛成した米国・中国・ロシア・日本が参加する6か国協議はその存在意義を失ったとして、今後これまでの合意に拘束されないと発表しました。朝鮮は核施設の無能力化作業を中断し、再び核兵器生産の道を歩み始めました。その結果が今回の核実験です。

この間、5月7日に朝鮮宇宙空間技術委員会は平壌で、4月5日に打ち上げられた人工衛星「光明星2号」は正常に運行し、地上基地との通信実験に成功した、と発表しました。この報道は中国の新華社通信によって5月8日に伝えられましたが、日本ではほとんど話題になりませんでした。

私はここにいたるまでに双方にもっと適切な対応策があったと思っています。私はその都度、意見を表明しました。まだ間に合います。朝鮮も、日本も、中国も、ロシアも、米国も、これ以上、「目には目を」といった対応を繰り返してはなりません。

どの国も核戦争をするわけにはいかないのです。そんなことをすれば、とくに、朝鮮と日本のような隣り合った小さな国は、戦争が始まった途端に、あっという間にともに廃墟と化すのです。ロケットが発射されたことを知った時には、ロケットはもうとっくに日本の上空を通過し、はるか彼方に飛び去っていることを今度の出来事を通じて日本人はよく知ったはずです。

核戦争が始まってからでは遅いのです。

日本と朝鮮、米国と朝鮮、日・朝・韓・中・露・米の6か国は対話と協議を再開し、朝鮮半島・北東アジア・東アジア・世界の非核武装化を実現しなければなりません。ときあたかも、核兵器の廃絶を要求する声と運動が地球全体に広まり、高まりつつあります。

いまこそ人間は理性の声に耳を傾けなければなりません。私たちはホモ・サピエンス(知恵の人)なのですから。

久間発言に寄せて(続)

中西 治

第一は、原子爆弾をはじめとする核兵器を作って良いのか、使って良いのかです。

オランダのハーグで1899年7月29日に「毒ガスの禁止に関する宣言」が署名されました。また、同じくハーグで1907年10月18日に「陸戦の法規慣例に関する条約」が署名されています。

この条約は「交戦者は、害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものに非ず」と規定し、毒ガスの他、「不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物その他の物質を使用すること」を禁じています。毒ガスの使用が禁止されているのですから、核兵器の使用も当然、国際法上、禁止されていると考えて良いでしょう。

使用は禁止されていますが、製造は禁止されていません。それは、これらの宣言や条約に参加していない国が、戦争相手国になった場合、相手国が使えば、それに対抗しなければならないからです。宣言は、毒ガス不使用の「義務は、締盟国間の戦闘において、一の非締盟国が交戦国の一方に加わりたるときより消滅するものとす」と述べています。つまり、この宣言に署名していない国が交戦国の一つである場合、毒ガスを使用しても良いのです。

米国は陸戦条約を採択した第二回ハーグ万国平和会議の呼びかけ国であり、ドイツはこの条約の主導国です。日本はこの二つの文書に署名し、批准しています。広島と長崎に原爆が投下されたとき、ヒトラー・ドイツはすでに降伏しており、日米間だけについて言うと、米国はこの条約に違反しています。しかし、日本はそのことを声高に言えないのです。日本は国際条約破りの常習犯だったからです。

上記の陸戦条約と同時に調印された「開戦に関する条約」は、「締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざることを承認す」と規定しています。しかし、1931年の「満州事変」も、1937年の「支那事変」も、宣戦布告をしないで、日本は中国に対する戦争を開始し、1941年には不意打ちでパールハーバー(真珠湾)を攻撃しています。米国に対する宣戦布告はその後でした。明らかな開戦条約違反です。

第二は、日本は中国に対する一連の軍事行動を「戦争」と呼ばず、「事変」と称しながら、軍事行動を拡大していきました。日本は戦時国際法が義務づけたルールを無視し、道義のない戦争をアジア太平洋に広げていきました。

陸戦条約の一部である「陸戦の法規慣例に関する規則」は、戦争法規の定める権利義務の主体となる「交戦者」として、正規「軍」の他に、「民兵と義勇軍」、敵の接近にあたり自ら兵器を操る「群民兵」などの不正規軍を認めています。いずれの場合も公然と兵器を携帯し、戦争の法規慣例を順守する必要があり、「民兵と義勇軍」に対しては、「遠方より認識し得べき固著の特殊徽章を有すること」を義務づけています。

正式な戦闘行為は、はっきりと識別できる、ある国の交戦者が公然と武器を持って、これまた、はっきりと識別できる他の国の、公然と武器を持った交戦者に対しておこなう戦闘行為です。その場合でも「兵器を捨て、または、自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」は禁じられています。

戦時下にあっても、兵器をもたない民間人は、戦闘行為とは無関係であって、何人も殺してはならないし、殺されないのです。また、「防守せざる都市、村落、住宅、または建物は、いかなる手段によるも、これを攻撃または砲撃することを得ず」です。砲撃する場合には、「攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除くほか、砲撃を始むるに先立ち、その旨、官憲に通告するため、施し得べき一切の手段を尽くすべきものとす」でした。「都市、その他の地域は、突撃をもって攻取したる場合といえども、これを略奪に委することを得ず」なのです。

これが20世紀初めの戦争のルールでした。

1914年に始まり、総力戦となった第一次大戦は戦争の規模と性格を変え始めました。1917年11月7日のロシアにおけるソヴェト革命とそれに続く内戦と外国の軍事干渉、1931年の「満州事変」以後の日本の中国に対する戦争、1934年のドイツにおけるヒトラーの政権獲得と1935年の再軍備、1936年のラインランド進駐、1935-36年のイタリアのエチオピアに対する戦争、1936年のスペインにおける人民戦線内閣の発足と内戦、1938年のドイツのオーストリア併合とチェコのズデーデン地方併合、1939年のドイツのポーランド進攻、1941年のドイツの対ソヴェト戦争の開始と日本の米国と英国に対する戦争の開始など戦争に継ぐ戦争が続きました。交戦者と民間人の区別が難しくなり、無差別の大量虐殺が横行しました。

戦争は人間を狂わせ、畜生にします。その行き着いた先が、広島と長崎でした。人が人を殺す戦争を絶対に始めてはならないのです。

第三は、核兵器は使える兵器か、使えない兵器かです。

すべての兵器は使うために作られます。核兵器もその例外ではありません。広島と長崎以降に核兵器が使われていないのは、日本人を含めて、世界の多くの人々が核兵器の使用に反対してきたからです。使える兵器を使わせなかったのです。

核兵器が存在する限り、核戦争の脅威は無くなりません。核戦争を無くすためには核兵器を無くさなければなりません。

あらゆる兵器のない、あらゆる戦争のない平和な世界をめざして、ともに努力しましょう。

久間発言に寄せて

中西 治

久間章生防衛大臣が2007年6月30日に麗沢大学での講演で「原爆を落とされた長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べ、厳しい批判をうけ、7月3日に大臣を辞任しました。

また、米国政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)が3日に首都ワシントンで開かれた記者会見で「米国は長崎と広島に原爆を落とし、多数の市民の命を奪った。これは技術の無責任な利用ではなかったか」との質問に答え、「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語り、論議の火に油を注いでいます。

これら二つの発言は戦争と兵器について多くのことを考えさせますが、ここでは一つのことについてだけ書きます。それはこれらの発言の前提になっている、日本がポツダム宣言を受諾するうえで決定的な役割を果たしたのは広島・長崎への原爆の投下であったのか、それとも、そうではなく、ソヴェトの対日戦争への参加であったのかの問題です。

日本の敗戦がもはや決定的になった1945年7月26日に米国のトルーマン大統領、中国の蒋介石大総統、英国のチャーチル首相の3人は ポツダム宣言を発表し、全日本軍に無条件降伏を要求しました。日本はこの「無条件降伏」の語句にこだわり、「国体=天皇制の維持」が明記されていないことに不安を感じ、この宣言を「黙殺」しました。連合国はこれを日本によるポツダム宣言受諾の拒否と受け取りました。広島・長崎の悲劇とソヴェトの対日参戦にともなう悲劇が起こりました。もし、日本政府が即座にこの宣言を受け入れていたならば、これらの悲劇は回避されました。政治における決断の重要性を改めて感じます。

8月6日に原子爆弾が広島に投下されました。東郷茂徳外務大臣は鈴木貫太郎首相に最高戦争指導会議の開催を求めましたが、首相はこれに応じませんでした。8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)にソヴェトは日本に宣戦を布告し、翌9日から戦争状態に入る旨を通告しました。鈴木首相は「いよいよ来るものが来た」と感じ、9日午前11時前から最高戦争指導会議を緊急に開きました。会議は午後1時まで続きましたが、結論は出ませんでした。午後2時半から臨時閣議が開かれ、午後4時すぎに長崎にも原爆が投下されたことが閣議に伝えられました。会議は午後5時30分から6時30分までの1時間の休憩をはさんで午後10時すぎまで続きましたが、結論は出ませんでした。ついに、同日午後11時50分ころから昭和天皇の御前で最高戦争指導会議が開かれ、最後に昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決定しました。時に1945(昭和20)年8月10日午前2時30分でした。

これらの会議で原子爆弾はどのように論じられていたのでしょうか。たとえば、阿南惟幾陸軍大臣は午前中に長崎への原爆投下があった9日午後の臨時閣議で、8日に捕虜にした米空軍将校の供述を紹介し、原子弾は1発にして6平方マイルを破壊し、その爆力は500ポンドの爆弾36を搭載せるB-29, 200機に該当すると述べていますが、「その効力は空の色の明るい時が著しく、雨天には効力少なく、日中には効力が大きい。地下壕は丸太の程度で覆うてあれば十分である。裸体は禁物で白色の抵抗力は強い。農作物や立木には大なる被害はない。熱風により焼失することはない。建物などは上から圧しつぶされる。したがって、鳥居などはそのままで、電車、汽車なども脱線する程度である。地上に伏しても毛布類を被っているとよい。」でした。

広島と長崎に原爆が投下された当時の日本の最高戦争指導者たちの原爆の威力についての認識はこの程度でした。だから、広島に原爆が投下されたあと、最高戦争指導会議の開催を求めた外相の要請に首相は応じなかったのです。ところが、ソヴェトが対日戦争に参加した途端に昭和天皇の参加した最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決まったのでした。何がポツダム宣言の受諾に決定的な役割を果たしたのかは論を待たないでしょう。日本国民の多くが原爆の恐ろしさを知るのは、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効したあとのことでした。

朝鮮の「核実験」問題によせて

中西 治

朝鮮が昨10月9日に「地下核実験を安全に成功裏におこなった」と発表しました。

私はこれまで折りに触れて政治的問題について意見を表明してきました。小泉内閣が退陣し、安倍内閣が登場したのを機会にメーリングリストを通じての政治的意見の表明を止めようと思いました。

昨日來、多くの方から朝鮮の核実験問題について意見を求められました。早速、禁を破ってこの問題についての私の考えを明らかにします。

私は朝鮮の先日のロケット実験も今回の核実験も「こけおどし」だと考えています。

ロケット実験も当初は大陸間弾道弾の発射実験として騒ぎ立てられましたが、実際は朝鮮の近海に落ちています。今回の核実験も朝鮮は核実験といっていますが、韓国も、日本も、米国もいまだに核実験とはいっていません。

本当の核実験ならば、すくなくとも米国はただちに核実験と認定します。今回はあまりにも規模が小さいためににわかに核実験とは断定できないのです。

韓国の観測ではマグニチュード3.58~3.7、TNT火薬換算で0.4~0.8キロトン程度といわれています。

包括的核実験禁止条約が想定しているのはおよそ1キロトン以上の地下核実験です。これは広島型原爆(濃縮ウラン型)の約15分の1、長崎型原爆(プルトニウム型)の約20分の1です。

今回の朝鮮の実験は長崎型原爆の50分の1程度といわれています。これは核実験とはいえないのです。

朝鮮は周りが大騒ぎしてくれたおかげで、この程度で核保有国に仲間入りしたのです。

朝鮮の「思うつぼ」です。

朝鮮がたとえ一発のミサイルを持ったとしても、一発の核兵器を持ったとしても、朝鮮半島をめぐる情勢は基本的には変わりません。周辺の中国、ロシア、米国軍はたくさんのミサイルと核兵器を持っているのです。

私は朝鮮は無駄なことをしていると思っています。朝鮮は虚勢を張っています。

私はすべての核爆発実験とすべての核兵器の保有に反対です。私は改めてすべての核保有国にすべての核兵器の廃棄を求めます。

自国は思う存分核実験をし、大量の核兵器を持ちながら、他国は一回の核実験もしてはならないというのは理に合わないでしょう。朝鮮の核実験を非難するものは率先してすべての核兵器を廃棄すべきです。

今回のこともふくめて朝鮮半島をめぐる諸問題を話し合いで平和的に解決しなければなりません。私はそのために努力します。

戦後社会を支えたもの 承前

わたなべ ひろし

文芸評論家の加藤典洋さんが、哲学者の鶴見俊輔さん、作家の黒川創さんとの鼎談の中で、次のような発言をしていた。

「なぜ日本の戦後の思想がけっこう豊かだったかというと、丸山真男みたいな、 だまっていたら東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような人 間が、戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で 被爆する。そういう経験がなかったら、日本の戦後は全然違っていたと思う。」 (『 日米交換船』p70)

加藤さんのこの発言を読んだとき、僕はとても違和感を感じた。

それは主に「戦争でひょいとつままれて」の部分によっている。

このような言い方からは、加藤さん自身「けっこう豊かだった」と評価している「日本の戦後の思想」というものに対する敬意というか、尊重する気持ちが感じられないからである。

それは決して「戦争でひょいとつままれて」もたらされたようなものではなかった。

ここに出てくる「丸山真男」とは、日本政治思想史家で、東京大学法学部の教授を1950年から71年まで勤めた丸山眞男さんのことである。今年2006年は、丸山さんが亡くなって10年目に当たる。その丸山さんについて、先日、苅部直『丸山眞男−リベラリストの肖像』を読んだ。苅部さんは、丸山さんが生きた時代状況と丸山さん自身の学問、思想の関連性を、具体的、評伝風に描いており、僕などにはとても読みやすかった。その苅部さんの本から、加藤さんの言う「戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」部分を引用してみる。(なお引用は少し要約してあります。)

「(召集時、丸山は)すでに三十歳、陸軍二等兵としての教育召集であった。東京帝大の教授・助教授が徴兵されることは珍しく、まして二等兵の例はほかにない。おそらくは思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰であった。大学卒業者には、召集後でも幹部候補生に志願すれば、将校になる道が開かれていたが、『軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい』と、あえてそれを選ばず、丸山は二等兵のまま、所属部隊ごと朝鮮の平壌へ送られた。」(p107−108)

「(丸山は、朝鮮で病気になり東京に戻った4ヵ月後の)1945年3月、再び召集を受ける。配属されたのは、広島市の陸軍船舶司令部である。やはり二等兵であった。そして8月6日の朝、(丸山のいた)司令部から5キロメートルの地点に、最初の原子爆弾が投下された。まもなく、火傷やガラスで重症を負い、助けを求めにやってきた市民たちの群れで、司令部の広場はいっぱいになる。」(p111−112)

苅田さんによれば、丸山さんが自身の被爆体験を公に語ったのは、終戦から20年後の講演においてであった。そして「広島市民に比べれば自分は傍観者にすぎないという思いから、被爆者手帳の交付を申請することはなかった」という。

このような丸山さんの戦争体験や被爆体験を読むと、極めて不本意で理不尽な境遇に陥りながらも、そこに自分の意志というものを介在させようとする人間の強さを感じる(もっとも苅部さんの書き方が上手いということもあるのだろうけれど)。

こういったものこそ「主体性」というのであろう。

加藤さんが述べているように、僕も「日本の戦後の思想」は豊かなものであったと思う。しかしその豊かさは、「ひょいとつままれて」放り込まれた環境の中で、結果として獲得したというような、受動的で消極的なものなどでは決してなかったのである。

例えば丸山さんなら、「ひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」ようなことが無かったとしても、きっと「東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような」人では無かったと思う。他の環境の下でも、そこで「主体的」に働きかけ、「日本の戦後の思想」を豊かなものにするような仕事をしていたに違いない。

そしてそのようなことは、丸山さんひとりに限ったことではなかった。こういう人たちが、「日本の戦後の思想」の裾野を形成していた。そして僕自身、その恩恵を有形無形にこうむってきたとしみじみ感じる。

それではその上で、自分は何をすればよいのだろうか。僕自身の課題がここから始まる。

平和を語り継ぐということ

近藤 泉

◆人は何かをする為にわざわざ生まれてきたのだろうね、とよく子ども達と話します。

私は、731部隊の訓練を受けた特攻隊の生き残り(実戦はしていません)の父、広島の爆心間近で生き残った特別被爆者の母の元に生まれたので、自分で「平和の申し子」だと信じています。加害者の立場(実際に加害はしていません)と被害者を両親に持つなんて、まるで何か決め事があって生を受けたとしか思えないからです。

◆私は、子ども達が小さい頃から共にニュースを見るようにし、色々な人との出会いを 作るよう努めてきました。また中国や沖縄・広島に連れて行き、人が為してしまった悲惨とこれから人が為すべきことを、その子の性格を大事にしながら語り合ってきました。

親の考えをおしつけ過ぎるのはよくないのでは、と心配する友人がいます。しかし、それは杞憂でしかありません。子ども達は親よりも真剣に歴史を学ぼうと し、親よりも深く人間の本質を感じ取っていると思うからです。「本物」の前では親の言葉はほんのきっかけに過ぎず、子ども自らが眼にし、耳を傾けたものを慎重に心に刻んでいっている様子は神々しささえ感じます(かなり親ばかかもしれませんが)。親であってもそれを尊重し、一人の人として応援していきたいと 常々思っています。

我が子は、社会から預かった「未来」だと信ずるからです。

◆昨年・今年と、小・中・高・大の子ども達を中国に連れて行くことができました。社会 人の長女は、かつて中国で幼稚園を2年間経験しました。

中国を訪れて子ども達にとって何が一番良かったかと言えば、一つは「報道や学校教育は、ほんの一部分 しか伝えてくれない。」事実を学んだことです。実際に出会った中国の人が日本人である自分に、まるで近所のおじさんかおばさんのように暖かく接してくれる ことにとても感動していました。目の前にいる人を信ずることの大切さ、民間外交という意味を肌で感じ、広い世界も一対一の人の信頼で成り立っていることを 知りました。

さらにもう一つ良かったことは、歴史を学ぶことの大切さが分かったことです。教育の場で与えられる内容が極めて表面的なことを知り、歴史の勉強が出来事 を覚えることではなく、その背景や人々の生きざまを慮り、歴史から何を学ぶのかを「自ら考える力」をつけることだと子ども自身が気づいたことです。

そして親以外のおとなの人が、自分達に物を教え、育ててくれようとしていることも知りました。これは、中国で出会った方々のみならず、 昨年の当研究所訪中団のみなさまや今夏炎暑の広島で60年前の母の足跡を訪ねる旅に同行して下さった事務局の竹本さんが、熱い志と愛情を子ども達に注いで 下さったことに深い感謝の念を禁じえません。

◆信ずれば、道は必ず拓いていく——そんな言葉が浮かんできます。平和を語り継ぐということは、けしてむづかしいことではない、子どもは自ら太陽の光に向かって伸びていく力を持っています。親は自分の信ずる道を誇りを持って歩いていくのみです。

「アンゼラスの鐘」を観て

その他

投稿者:社会派かあちゃん

被爆60周年平和祈念作品「NAGASAKI・1945 ~アンゼラスの鐘~」完成披露上映会に行く機会を得た。

これは、自ら被爆しながら負傷者の救護活動に携わった秋月辰一郎医師(88)と周囲の人々の苦闘の日々を描いた長編アニメである。学校上映を含む全国1,000会場での上映をめざすと同時に、英語を始めとする各国版DVDを作成し、未来を担う世界中の子どもたちにも届け平和を訴えたいという。

浦上天主堂から北東へおよそ1キロの浦上第一病院は、カソリックの神学校だった。病院に迎えられたたった一人の医師秋月辰一郎は仏教徒だが、その誠実で飾らぬ人柄はカソリックの信者たちの敬愛を得ていく。再びあってはならないはずの原爆の投下――浦上天主堂は無惨に破壊され、美しい鐘を響かせていたアンゼラスの鐘も吹き飛ばされ、瓦礫の中に埋もれる。秋月医師は仲間たちと共に懸命に医療活動を続ける。ふたたびアンゼラスの鐘が長崎の空に響き渡る、「復活」のときを信じて…。

「NAGASAKI・1945 ~アンゼラスの鐘~」製作委員会公式ホームページ

製作委員会・アニメーションを製作した虫プロ社長・監督達が舞台挨拶をする中で、主役の秋月医師を担当した声優の次のような言葉が真摯で心に響いた。「私は戦争を知らない世代であるし、アニメといっても架空の世界ではなく現実に起きた事を描く作品でもある。悩みながらも秋月先生の心を感じながら必死で頑張った。」実際、登場人物達の声には微塵の空々しさも嫌味もなく、秋月医師の苦悩と人々を救わずにはいられない強い意志、被爆した人々の家族愛や未知の病への恐怖が真っ直ぐに伝わってくる秀作だった。そしてアニメとは言え画面の閃光爆風に涙が溢れた。製作委員会代表の「原爆投下の時、動く映像で残されているのはきのこ雲だけである。他には何も残っていない。何一つ見ることができない。この作品はそれを映像にした。」との言葉は、そこに熱い思いが込められているが故にずしりと重い。

戦争を体験した者は、文字を使い、絵に描き、声を振り絞り、「作られた地獄」と「自らが築く平和」を命がけで後世に残そうとしている。それは後継者に受け止められてこそ完結する。この作品も今後の上映活動で多くの若い世代に観てもらうことで、初めてその使命を果たすことになる。各地での上映会は製作時と同じようにボランティアと募金により、これから進められていく。上映会の成功を祈りたい。そして、浦上第一病院で闘病中の秋月医師の心安き平和の日が一日も早くやってくることを。

60周年の広島に思う ―母の足跡(3)

近藤 泉

◆川べりで猛火を逃れたかに思えた母は、このあと地獄絵図を見ます。

対岸の天にも達するかのような火柱、目を覆う被爆の傷、自分の命を守ることだけに必死な兵隊、黒い雨、溺れ行く人々、そして母自身も水の底に沈み、青年に助けられます。

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稲荷大橋から相生橋方向を望む

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母は青年とともに稲荷大橋を西に渡り、1.5キロ程直進し相生橋と思しき橋まで辿りつきます。相生橋は原爆投下目標とされ、原爆ドームのすぐ前、爆心地付近です。母はまさに爆心地に向かって歩き続けていたのです。

母は青年から橋のたもとで待つように言われ別れますが、待ち切れず一人四日市の救護所に向かうトラックに乗り込みます。救護所となった小学校で二夜を過ごした母は、瀕死の状態で列車に乗り佐世保の疎開先へ帰り着きます。

今回、私が母の足跡を辿り実際に歩くことができたのは稲荷大橋までです。

母の書き残した体験記には、地図の上で少し不一致がありそうな気がします。しかし、母は見知らぬ土地で体を貫き通す原爆を被曝し激しい精神的ショックの中、命がけで壊滅した街を逃げ惑ったのに、よくここまで書きぬくことができたと改めて感じ入りました。

◆8月6日の暑い陽に照らされた京橋川の水面を見つめていると、戦争の悲惨さを訴え続けた母の深い深い悲しみが未だに広島の水底に沈んでいるような心持ちにとらわれました。そして、誰よりも平和を愛した母の暖かい胸のぬくもりが蘇って来ました。

60周年の広島に思う ―母の足跡(2)

近藤 泉

◆かろうじて歩ける状態の駅前大橋を渡った母は、目の前に広がる街の惨状に足がすくみます。倒れた家の下敷きになった人々を助けることができず走り続けます。今も小さな旅館が数件並ぶ京橋町のこの辺りも母が通ったような気がしました。

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僅かな火の手を見つけ、全市に燃え広がると直感した母は、川へ向かいます。

(母の体験記より) 潰された家の端から僅(わず)かに炎が紅い舌を出しているのを見た。頭を突きぬけるような恐怖が身体中を走った。夢中になって彼を呼んだ私は、炎を指さして、 「川に逃げましょう。」 恐怖で声が上づっていた。 (中略) 「火事だ、川に逃げよう。」 大きく頷(うなづ)いた彼は、右に道を折れ、川に行く道を急いだ。

駅前大橋から市内を南下していた母は、右に道を折れいったん川べりに逃げたあと相生橋に向かって再び歩き続けます。相生橋は稲荷大橋を右に渡ってまっすぐ先なので、母が逃げた川べりというのは上柳橋か京橋から稲荷大橋までの京橋川沿いのどこかだと考えられます。今市内の川はみな高い石垣の堀になっていますが、母の記述によると当時は草の生い茂る土手だったようです。

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京橋

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京橋から稲荷大橋を望む

かなり川幅のある対岸に天にも届きそうな火柱が現れ、こちらへ倒れてきて人々の阿鼻叫喚が始まった、と母は書いています。現在この川沿いの道は「平和の道」と名付けられ、木陰の涼やかな静かな散策路になり、川の流れはどこまでも穏やかでしたが、必死に生きようとした母の存在が感じられて仕方 がありませんでした。