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発展継続国、フィリピン・マニラを訪れて

遠藤 美純

IMG_4228今年2013年の8月4日から11日までの8日間、研究協力者となっているプロジェクトのIT関連産業の調査に同行し、初めてフィリピン・マニラを訪れた。東南アジアの訪問も初めてであった私には、見るものすべてが新鮮で刺激的であったが、最も印象的だったのは想像以上の豊かさと貧しさ、その格差であった。

短い訪問ではもちろんその実情は分からないが、その貧しさは、路上生活やいわゆるスラム街など目に見える形ではっきりしたものであった。いかほどのお金が稼げるのだろうか、衛生的とは言えない環境下で、自ら仕事を作って生きている人々がいた。そして、その貧しさには、目も眩むような豊かさが隣接していた。東京の丸の内のようなマカティ地区、青山や六本木のようなボニファシオ地区やイーストウッド地区など、先進国と同じかそれ以上の景観があった。そこに展開する巨大なショッピングモールは、日本の郊外型ショッピングモールの数倍の規模で、超高級ブランドから、電化製品、高級マンションの営業まで幅広い商品が備えられている。さらにそのようなモール群が、市内のあちこちに点在しているのである。その規模も質も日本人の平均的想像をはるかに越えていると思う。生活物資は安価なフィリピンでも、ブランド品は日本での価格とそこまで変わらない。にもかかわらず、夜遅くまでショッピングや食事を楽しむ多くの人々でにぎわっていた。この光景はマニラ郊外にも広がりつつある。

フィリピンでの大卒初任給は、日本円にするとおよそ2万円半ばから4万円程度だと聞いた。大規模な消費を支えることのできるような給料ではないだろう。その消費を支えている一つには、国民労働者の10分の1を占めるという海外出稼ぎ労働者からの送金がある。空港に専用の入口や窓口が用意されるほどのこの「基幹産業」がここ数年好調だと言う。また、今回の調査の対象となったIT関連産業の成長もある。ITおよび通信技術の発展によって、高い外貨獲得能力をもった労働者が直接海外に行くのに加え、細分化された業務が世界各国からフィリピンに外注されるようになっているのである。今回の限られた調査・インタビューの中でも、その成長をかいま見ることができた。

ソフトウェア産業やハードウェア産業では、下流工程にとどまらず、上流工程を担うフィリピン企業も少なくない。半導体集積回路の設計をする有力企業があるとも聞いた。2015年のASEAN経済統合を視野に入れた事業が展開され、その下流工程が外部発注される勢いである。さらに、大変活況なのがコンタクトセンター事業である。電話によるコールセンターに、メールやチャット、Facebookのような文章などのやりとりを加えたのが、コンタクトセンターである。英語に堪能で、サービス業に向いたフィリピンの労働者が、一定の技術的知識を獲得したとき、アメリカ合衆国はもちろん、世界中の短時間知的コンサルタントを一挙に担うというのである。2000年代半ばから倍増しているその雇用は、リーマン・ショックによってかえって拡大し、数年後には100万人規模のフルタイム雇用相当にまで達すると言う。フィリピンとアメリカ合衆国を直結する光ファイバーが引かれ、さらにフィリピン諸島間にも通信網が築かれている。マニラ以外の各地にも事業が展開され、有名な観光地セブ島には数万人規模のコンタクトセンター事業がある。そして、すでにフィリピンでの人件費は上昇し始め、その人件費のコストメリットは、ペソ高と相まって低下しつつさえあると言う。フィリピンでも労働の高度化が求められるようになっている。フィリピンでの産業は、知識情報型産業へと一気に展開しているかのようである。インタビューに応じてくれた企業や関連団体の人々の話には営業的側面もあったろうが、自信に満ち、仕事が楽しくてしょうがないといったその様子が印象的だった。

フィリピンは、日本では発展途上国と見なされている。先進国に追いつこうとするその途上にある国というわけだ。しかしフィリピンの現状はそう単純なものではないようである。国内の極端な貧富の格差は、同じ国に二つの世界があるかのようである。ゴミを拾う人もいれば、ゴミを捨てる人もいる。高級住宅街はその全体が高い塀に囲まれ、一般的な家屋でさえ高い塀と鉄条網を備えている。マニラには壁が多い。しかし、フィリピンの貧しい地域でさえ、ここ数年で環境はよくなりつつあると言う。マニラ市内ならば裏道も舗装され、ゴミの回収もある程度されているようだった。フィリピンは、急激な発展のさなかにあり、一部はいわゆる先進国を追い越してその先にさえ行こうとしている。

発展途上国を英語ではdeveloping countryというが、フィリピンは発展途上国というよりも、この言葉通りに現在進行形で発展し続けている発展継続国であるようだ。人も社会も若い、これからの国である。一方、先進国を英語ではdeveloped countryと言う。直訳すれば発展済みの国であるが、発展の伸び代のない国なのかもしれない。さらに、最近の日本では、貧富の格差の拡大や、それに伴うセキュリティや相対的剥奪に関わる不安が、将来の展望として語られることがよくある。その極端な未来像は、今のフィリピン・マニラにあるとさえ言えるのかもしれない。

タイの赤シャツ制圧その後: ウボンラーチャターニー中央刑務所訪問記

高橋 勝幸

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2010年6月17日(木、9:20-13:40)僕は、ウボンラーチャターニー中央刑務所へ赤シャツの被拘留者を訪ねた。ウボン大学の同僚、学生、地元赤シャツ、バンコクの人権NGOの6人に僕がついていった格好だ。ウボン県は非常事態宣言が5月16日以来布かれている。一説によると、82人に逮捕状が出されている。僕の訪問時には、男性20人、女性6人の26人が拘留されていた。僕らが面談したのは、男性15人、女性6人の21人である。訪問の目的は、逮捕の経緯、取調べの状況と拘留の状態を知ることであった。判決前の人がなぜ刑務所に拘留されているのかはわからない。

監房の広さは8m×8mの64平米だという。食事、水浴び、排泄も同じ監房で行なわれている。3食付で、9時、12時、4時に提供される。監房にある書籍は仏教関係のみである。監房でテレビドラマを見ることはできる。午後10時就寝。

女性の監房は他の犯罪者と一緒。エイズ患者、麻薬で捕まった人もいる。他の犯罪者からは政治犯として疑いの目を向けられる。みな肌色の囚人服を着用していた。下着、生理用品が欲しいとのこと。家族親戚の訪問可。一般の訪問は事前に、訪問相手の氏名を伝えること。訪問日は制限されている。見舞品として「危険物」を差し入れすることを防止するため、果物などは刑務所で購入しなければならない。服の差し入れ可。

最初に手分けして男性5人と面談した。僕は要領を得なかったので、手持ち無沙汰な拘留者と話すことにした。

男性(1):
5月19日に県庁が燃えたとき、現場にいなかった。6月初旬に捕まった。入所して約1週間になる。同室に20人が収容されている。すべて赤シャツだ。狭苦しい感じはしない。食事はよい。サービスはいい。

男性(2):
ワーリン郡在住。自営の商売の他、日雇い。子供2人。チャックトンロップ(戦旗掲揚グループ。ウボン最大の赤シャツ・グループ)の会員。ほとんど活動に参加していない。しかし、5月19日は県庁にいた。県庁舎の2階から火が出た。軍人、警官は火を消そうともしなかった。当局が人民を射撃した。6月9日午前8時にワーリン市場で捕まった。武器所持と県庁焼き討ちの容疑で逮捕された。県庁焼き討ちの罪は重い。武器所持が本当なら、なぜ現行犯逮捕しなかったのか不思議である。証拠はない。ウボンの警察佐官が取り調べた。写真を提示され、その中に写っている人物を知らないかと尋問された。写真を見ても誰も知らなかった。保釈されたら、証人がいるので裁判で戦いたい。取り調べ、手続きに時間がかかりすぎる。監房ではニュースが入らない。仏教の本しか置いていない。監視人はいい。腹が立つことに、プアタイ党議員も職員も見舞いに来ない。[戦旗掲揚グループは民主党を非難し、プアタイ党を支援していた。]

次に6人と面談した。

男性(3):
66歳。市内在住。チャックトンロップの会員。警察から電話があって、出頭を命じられた。県庁の焼き討ち時に、庁内に建つラーマ5世王の像の東側で、自分が驚いて両手を挙げている写真が証拠になった。その日、私は県庁の外にいたが、警察の射撃の音を聞いて、子孫たち(仲間)を助けようと、敷地に入ったのだった。それまでは年寄りはみな外にいた。まだ、県庁は燃えていなかった。警察、軍、警備員が立っていた。自分は大通りに戻った。小さい火が建物からあがった。国王は関係がないので、国王の旗を柵から外して、警察に渡した。兵は庁舎を守らなかった。消防車も来なかった。100人もいれば消火できたはずだ。点火したのが誰かは知らない。県庁には放火すべきではなかったと思う。今回のデモには、3月12日から王宮前広場で15日間、4月10日から3日間ラーチャダムノーン、その後ラーチャプラソンに15日間滞在した。ウボン県庁前の夜の集会にも、時間があれば参加した。現在、自分には5人以上の政治集会への参加(非常事態法違反)、焼き討ち、公共物破損の容疑がかかっている。拘留は2回延長され、24日間既に拘留されている。6回まで延期できる。人権の立場から、援助してほしい。

男性(4):
63歳。市内在住。チャックトンロップの会員。6月9日逮捕され、6月10日より拘留。プアタイ党の見舞いがないのは不満に思う。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日、家にいたので、集会には参加していない。ただその朝、スタット寺院でタイヤが燃えているのを目撃した。県庁の焼き討ちはよくない。人民の財産の破壊であり、賛成しない。残念なことである。軍警の仕業だと思う。王宮前広場で3月12日から3日間、デモに参加したが、楽しかった。政府は正しくない。

次いで、4人の男性が現れた。

男性(5):
28歳。日雇い。6月14日に逮捕された。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日に現場(県庁)にいなかった。2年前に撮られた写真が証拠になっている。不当だ。

男性(6):
51歳。ワーリン在住。日雇い。チャックトンロップの会員。焼き討ち、武器所持、爆発物所持の容疑。5月19日県庁で石を握っている写真が証拠となった。5月19日のその時、県庁そばの寺の前にいた。子供を2時ごろ学校へ迎えに来たのだ。銃弾の音を聞いて、走って県庁敷地に入った。怒って、思わず地面に転がっている石を握った。火はまだ上がっていなかった。火災を目撃していない。集会にも参加していない。5月25日に逮捕され、拘留されて12日になる。拘留が2回延期された。自分も妻もムスリムでナラティワート県出身。自分はナラティワートでも貧乏で、ウボンに仕事を探しに来た。ウボンでも貧乏して、赤シャツを支持した。妻の先夫は軍人で国境警備のため、ワーリンの基地に異動になった。彼は妻子に対して責任を果たさなかったので、自分は彼女に同情し、結婚した。子供をもうけた。先夫との間の2人の子と合わせて、3人の子がいる。父親の自分が逮捕されたので、子供は学校に通っていない。誰も見舞いに来ない。電話番号もわからない。妻子はナラティワートに帰った可能性がある。(落涙。両手の指を僕たちを隔てる金網に絡ませながら、切々と訴えた。)

男性(7):
50歳、日雇い。チャックトンロップ。チャチョンサオ出身。仕事を探しに2007年にウボンに来た。チャックトンロップのラジオ、「ウボンの人民の声放送」の警備員をしていた。月給3,000バーツ(食住支給)。5月20日の昼前後に捕まった。放送機器が没収された。拘留されて1ヶ月近くになる。ラジオ放送による教唆、大衆騒乱の容疑。3月12日から4月8日まで王宮前広場でデモに参加した。仕事柄、赤シャツを支持している。赤シャツの意見は正しいと思う。県庁の焼き討ちについては知らない。監房には仏像と国王の写真があり、仏を敬っている。

男性(8):
26歳。仕事はガス輸送車の運転。チャックトンロップ。5月19日、スタット民主党議員の家の付近にいるところを写真に撮られた。赤シャツが反対運動をしていた。仕事中に通りがかり、ちょっと寄ったに過ぎない。電話が警察からかかってきた。出頭し、そのまま収容された。チャックトンロップにも会員になって、1ヶ月しか経っていない。

男性(9):
日雇い(小作含む)。チャックトンロップ。焼き討ちの容疑。6月12日から拘留され、4日になる。5月19日当日、自分はタラートノーイ(市場)にいた。証拠写真も似ているが、自分ではない。サンティ・アソークへの抗議運動にも行っていない。王宮前広場のデモには2-3日行った。小5、中1、中3の3人の子がいる。妻は腰を痛め、働けない。自分なしでは、家族は食べられない。

最後に12時半過ぎに、女性の逮捕者6人と面談した。

女性(1):
23歳。料理店勤務。チャックトンロップ。(リーダーであるトーイの家で、筆者は会っている)拘留は5月24日から22日になる。5月19日午後、民主党事務所、同党議員スタットの家、県庁と3箇所で反対運動に参加した。県庁にいるところを写真に撮られた。県外の友人から涙の電話があった。何も知らない友人は警察に写真を突きつけられて、彼女の友人の居場所を聞かれたというのだ。その日、県庁で兵が人民を銃撃したので、頭に血が上った。(涙ぐみながら)足を撃たれた人も、捕まって同じ監房にいる。撃った人はどうなっているんだ。6人が負傷し、一人は重傷だ。ゴム弾を使えばいいのに、実弾を使う必要はない。県庁は新しく建てることができる。しかし、家族は生命を取り戻せない。赤シャツはテロリストだといわれている。農民に武器はない。銃を売買しているというのか。兄弟同志が民主主義を要求して立ち上がった。我慢ならなかった。監房ではニュースを知る権利もない。4,5日前にこっそり新聞を読んだ。

女性(2):
ノーポーチョー・ウボン。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。寝食の状況よくない。睡眠薬がないと眠れない。5月の初旬にラーチャプラソン(バンコクの集会)からウボンに戻った。(金網越しに握手を求める)

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ベトナム訪問を終えて

中西 治

私たちの地球宇宙平和研究所代表団が 2009 年 9 月 1 日から 8 日間ベトナム社会主義共和国を訪問し、無事けさ帰国しました。

代表団はホーチミン (旧サイゴン) 市でバンラン大学と人文社会科学大学、首都ハノイでベトナム社会科学院を訪れ、ベトナムの現状と将来、日本の現状と日本・ベトナム関係、私たちの研究所とベトナムの大学・研究所との今後の交流について意見を交換しました。

障害者の施設や日本語を教える小・中学校を見学し、現地で活躍する日本人実業家の方々、総領事館と大使館の外交官の方々から種々お教えをいただきました。

ベトナム戦争中のホーチミン市近郊の戦場クチで、小柄なベトナム人が一人やっと通れるような狭いトンネルをくぐりました。戦争証跡博物館、水上人形劇をみました。ホーチミン廟を訪れ、ハロン湾を船で巡航し、世界遺産の景観を身近に見ました。自然がつくり出した美しさに心を打たれました。

街はオートバイで溢れています。次々と押し寄せるオートバイと自動車と自転車の大波があっという間に大洪水となり、街を埋め尽くします。それでもこれらの車は奇跡的に流れていました。私たちの自動車の運転手が危うく衝突しそうになった二人乗りのオートバイの男女に「死にたいのか」とどなっていました。私たちの車の運転手の一人も出勤途中のバイクの事故で右手の各所に擦り傷を負いながら、左手だけで右手をかばいつつ運転をしていました。人々は命がけで車に乗っています。生きています。

私はかつて東京で、北京で、上海で、武漢で交通の大渋滞を見ました。ベトナムはそれらをはるかに超えています。

200 万都市サイゴンが短期間に急速に 800 万都市ホーチミンに発展しました。急激な都市化に対策は追いついていません。交通戦争です。いまはオートバイですが、いずれ間もなく自動車です。この戦争はまだ拡大します。この戦争に勝つことが現在のベトナムの最大の課題です。ハノイの社会科学院でこの問題も取り上げました。道路の拡幅、市内環状高速道路網の建設、公共交通機関の拡充、地下鉄の建設、都市機能の分散・移転などの抜本的対策が必要です。

日本も中国も交通戦争に勝利しつつあります。米国との戦争に勝ったベトナム人民も、交通戦争に勝利するでしょう。クチでトンネルを掘ったベトナム人民です。ホーチミンでも、ハノイでも「アナ (坑) 」を掘って勝利するでしょう。

ベトナムは矛盾に満ちています。矛盾は発展の源です。ベトナムは大発展するでしょう。

ベトナム人民の平和と幸せ、日本人民との平和と友好を願っています。

私たちの研究所の活動の幅を広げようと思っています。

2009 年 9 月 8 日 17 時
ベトナムから帰国した日に

ベトナムの今 ~ストライキに泣く日系ベトナム企業~

野津 志乃

2008年1月ホーチミン市近郊のT工業団地は異様な雰囲気に包まれていた。先日も私の働く会社の近くのいくつかの工場で路上に多くの工員さん何百と集まり、公安も駆けつけるほどの状態になっていた。

http://www.nld.com.vn/tintuc/cong-doan/213766.asp
http://www.nld.com.vn/tintuc/cong-doan/213621.asp

ここ2,3年急激に世界の注目がベトナムに集まっている。去年WTOに加盟指定から特に投資が盛んになってベトナム株が急騰。

ホーチミン市とハノイ市で、オフィス、高級マンション、小売用地など各種不動産の賃貸料が急上昇している。地価も上がり、土地成金、株成金が増え、お金持ちのベトナム人が増え、外資の高級デパートで買い物をする人が増えた。高級車に乗るベトナム人も増えた。

それに伴って物価も急騰。2007年は年間で12.63%UP (2006年12月比)、過去11年で最高となった。ほぼ全ての品目で上昇したが、最も高かったのがCPI算出品目で最大の割合を占める食品で、前月比4.69%上昇、年間では21.16%上昇となっている。地価とガソリン、そして食品の値上げが生活を直撃している。ホーチミンに住んでいる低所得者の生活は苦しい。

またホーチミンの最低賃金が2008年1月より引き上げられた。外資系の企業、工場の最低賃金はベトナム企業より高く設定されており、100万ドン(62.5$)になった。

2008年1月の消費者物価指数 (CPI) 上昇率は前月比2.38%、昨年同期比14.11%と非常に高かった。

そのような状況の中で多くの日系製造業の会社で多くのストライキが発生するにいたった。台湾系の会社等は人件費が高騰し採算が取れなくなれば撤退する会社もあるが、日系はある程度余裕があるため賃上げができることあり、狙い撃ちされている感がある。工業団地では一社がストライキを起こせば連鎖的に近隣に広がる。一旦賃金改定に関して決着したいたが、近隣のストライキに刺激され再度ワーカーから賃上げ要求がなされ再ストライキといった事態もある。これはベトナム特有の問題もある。基本給から手当の額までお互いにすぐに見せ合い比較するからだ。

また一党独裁のベトナム政府は物価上昇による生活苦から国民の不満が政府に向かうことを恐れているように感じる。そのため、政府は意図的に労働者側に立ち、物価上昇にともなって賃上げをしない企業側に今回の問題があるというスタンスをとっている。新聞などでも物価上昇による労働者の生活苦と企業の待遇の悪さが書き立てられる。しかしその記事は誇張や誤り、うそがある。扇動的に感じる。

2月7日はベトナム旧正月。多くの労働者が田舎に帰郷し始め、工業地区は落ち着きを取り戻しつつある。旧正月が終わり、労働者が都市部に戻ってきた後、現在の状況がどういう方向に向かうのか注目したい。

タイのクーデタ その2:新首相スラユット=チュラーノンで思い出すこと

高橋 勝幸

2005年12月11日、旧解放区へ向かうスラユット=チュラーノン

スラユット=チュラーノン大将が2006年10月1日、24人目のタイ国首相に就任した。父パヨームはタイ共産党のタイ国人民解放軍の参謀として、息子のスラユットと長い間対峙したことがある。父親が共産党軍の幹部であったことから、スラユットの昇進は一時遅れた。1978年から1988年までの10年間、プレーム首相の副官を務めた。チャートチャーイ政権を打倒したクーデタ後、1992年5月、スチンダー大将の首相就任に市民が反対し、スラユットが率いた特殊部隊が発砲し、流血事件に発展した。スラユットはこの経験から、軍部の政治不介入を決意したという。1998年に陸軍司令官になり、東ティモールの国連平和維持軍参加とその成功により、軍のイメージを回復した。タクシン首相との確執により2002年、閑職の国軍最高司令官に就任し、2003年退役した。3ヶ月の出家後、プレーム枢密院議長によって枢密院議員に推された。

私は抜き差しならない政情不安にもかかわらず、このクーデタの発生を予期しなかったが、スラユットのような退役軍人が首相になることも予想しなかった。国内外の世論の反発から、軍部に影響力をもつ人物が首相に就くとは考えなかった。クーデタ直後にプレーム枢密院議長や首謀者のソンティ陸軍司令官とともに、スラユット枢密院議員もチットラダー王宮で国王に拝謁しているからである。また、クーデタを実行した「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」は速やかに民政移管をすると約束していたからである。私は2つの判断ミスをした。1991年のクーデタをいれれば、3つの予想が外れた。タイに関心をもって20年近くになるが、現実政治は水物で、実に扱いにくい。

昨年、すなわち2005年12月11日、タイ共産党が1970年代に本部を置いた解放区で私はスラユットを見た。ナーン県プーパヤックにタイ共産党を記念する博物館などの施設が建設され、その開所式が行なわれた。父パヨームも当地で活動していたので、スラユットも見えたわけである。

パヨーム=チュラーノンその父パヨーム=チュラーノン中佐は1947年11月8日のクーデタにタイ国軍最高司令部のスポークスマンとして加わった。このクーデタは政情不安を解決するために行なわれ、その後は、軍部は政治から手を引き持ち場に戻り、民主主義にのっとり民政移管されると、パヨームは信じていた。1947年クーデタはプリーディー=パノムヨンをリーダーとする抗日自由タイ派の文民政権を打倒し、タイの民主化を大きく遅らせたといってよい。パヨームはその後、陸軍を辞職し、1948年1月29日の国会議員選挙に立候補し、ペッチャブリー県から選出された。パヨームはクワン政府の国防大臣補佐官に就任した。クーデタ=グループはクワン首相に辞職を強要し、ピブーン元帥が首相に返り咲いた。国防大臣は続投したが、パヨームは補佐官を辞職した。軍の腐敗と政治参加に反対し、1948年10月1日に決行を予定していた「参謀本部反乱」に参加したが、そのクーデタは失敗した。それはサリット少将の結婚式の日を狙い、パヨームは式場の首相府でピブーン首相、ピン=チュンハワン中将、カート中将、サリットらクーデタ=グループの幹部を逮捕する予定であった。しかし、クーデタ計画は前日に漏洩した。パヨームの逃亡は成功した。パヨームは逃亡中に、タイ共産党に参加したと思われる。パヨームの最初のタイ共産党の接触は第二次大戦中であった。パヨームは、ピブーンの対日協力に反対であったので、抗日運動に協力しようとした。パヨームは共産党の政策に当初反対であったが、クーデタでは(戦後)ピブーン政権を打倒できないと認識すると、人民の革命の必要性を感じ、入党を決心した。中国に亡命し、1952年から1954年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で学んだ。1961年9月の第3回党大会で党中央委員会委員に選出されたと思われる。

スラユットは、父と考え方は異なっても、父子の絆は変わらないと述懐した。スラユットは1980年、北京で療養中の父と亡くなる直前に再会した。この頃はまだタイ国内ではタイ共産党が治安の脅威であったが、プレームの取り計らいで、チャートチャーイ=チュンハワン少将(パヨームが逮捕しようとしたピンの長男)の訪中団に参加した。中国側は党の保護下にあるパヨームの面談を拒否したが、外交経験豊かなチャートチャーイが鄧小平と交渉して、再会が実現した。その数ヵ月後に、パヨームは亡くなった。

一方、スラユット首相の母アムポートは、ボーウォーラデート親王の右腕のプラヤー=シーシッティソンクラーム大佐を父にもつ。母方祖父は、立憲革命後の政府を共産主義として、1933年10月11日人民党に反対して蜂起したその反乱で戦死した。

今回の首相人事は、プーミポン国王、プレーム枢密院議長、スラユット首相、国家治安評議会議長であるソンティ陸軍司令官のラインを浮き彫りにした。その中で、新首相は反体制運動の血統つきである。父は国王の天敵であった共産党幹部、母はボーウォーラデートの反乱に参加した勤王派の娘である。相対立する反体制派の混血児スラユット首相がタイの民主化に向けてどれだけ力を発揮できるのかが注目される。

革命の英魂へ読経 復元されたパヨームの住居 タイ共産党本部があったナーン解放区

タイのクーデタ

高橋 勝幸

「国王を元首とする民主主義体制下の統治改革グループ」が2006年9月19日夜半、バンコクでクーデタを決行した。タクシン首相が国連総会出席等外遊によりタイを留守にしている間の出来事であった。実に1991年2月23日以来、15年ぶりのクーデタである。プミポン国王の承認のもと、現在、「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」が国家を運営している。

正直いって、私はクーデタがまさか起こるとは予期していなかった。私は1987年10月から1988年9月まで1年間、2001年6月から2004年5月まで3年間、タイに滞在していたことがある。私は前回のクーデタが打倒したチャートチャーイ政権が発足した年、そして今回のクーデタが倒したタクシン政権の最初の3年間をタイで過ごした。チャートチャーイ政権の「インドシナを戦場から市場に」という政策は、ポル=ポト派を含む3派連合から距離を置き、実効統治しているヘン=サムリン政権と交渉した。この経済・外交政策はタイの優越性に対するカンボジア人の反感を後に招いたが、私は対立・没交渉よりよいと思った。しかし、ポル=ポト派と利権のあるタイ軍は反発した。一方、タクシン政権は、ポピュリズム政策 ―1村1品運動、一律30バーツ治療制度、農民への債務繰り延べ、100万バーツ村落開発基金など― と批判されながらも、貧困と農村振興に正面から取り組み、北部、東北部で絶大の人気を博した。タクシンが他人の批判に耳を傾け、ビジネス倫理観をもてばよいのにと、私は常々思った。タクシンはタイにとって異色の首相であり、私は興味深く観察していた。

しかしながら、私はタクシン政権下にバンコクで暮らしてまもなく、一昔前なら、すなわち、前回のクーデタ時の1991年なら、クーデタが必ず起こるとも思っていた。というのは、タクシンは警察官在職中の1980年代にコンピュータを警察に貸し出すサービスを始め、電機通信ビジネスで成功し、1998年タイ愛国党を創設した。政府の許認可が必要な携帯電話、衛星、格安航空などで親族が巨富を築いた。タクシン首相は議会の圧倒的勢力と資金にものをいわせ、中央集権化を図り、独裁的傾向を帯びた。2003年2月に「麻薬取り締まり戦争」が宣戦布告され、最初の3ヶ月間で2,000人以上が殺害され、さすがに国内外から人権批判を浴び、控えたものの、3,000人近い人が殺された。国連による人権批判には、「国連は親父でない」と反論した。聞くのはポッチャマーン夫人の意見だけという噂が流れるほどであった。南タイでは、テロが横行し、政府の抑圧的政策がテロに拍車をかけた。しかし、軍部の政治的役割が後退し、民主化が進み、1997年の通貨危機を克服して、経済成長を進むタイで、クーデタが実際に起こるとは信じられなかった。

前回1991年2月23日のクーデタの際も、まさかの出来事であった。高い経済成長、外国の観光客や投資の増加、政治的安定、民選の首相のもとで、クーデタが決行されたからである。しかも、1977年10月20日以来、およそ13年半クーデタは成功していなかった。1991年のクーデタの理由の一つは国会の独裁である。末廣昭氏によると、タイ式民主主義は、国会を私物化する政党政治を批判し、これを駆逐するクーデタは民主主義の破壊ではなく、政治的安定を実現する、という。

今回と前回のクーデタとの共通点がいくつかある。第一に、クーデタの理由として、政治家の汚職、政党による独裁が挙げられたことである。第二に、民主化が定着する中であった。第三に経済が高度成長を維持し、外国人観光客が増加する中で行なわれたことである。第四にプミポン国王が役割を果したことである。第五に軍部の人事が絡んでいたことである。第六に、国民の大多数が、民主主義の否定であるクーデタを支持したことである。

決定的な違いは、今回、政情がタクシン派と反タクシン派に2分されていたことである。タクシン首相退陣を求める運動が勢いを増す中、タクシン首相の国王に対する不敬な言動―例えば「憲法を超えたカリスマのある人が政治に混乱をもたらしている」―は国内世論に大きな影響を与えた。また、軍部の政治的影響力が決定的に減少したものの、枢密院、すなわち、国王の取り巻きの退役将官が重要な役割を果したことである。国王とタクシン首相の確執が根にあった。前回は、国王はクーデタ後の民主派(市民)と反民主派(軍部)の対決の仲介の労をとった。今回は、タクシン首相と国王あるいは国王の取り巻きとの対立が決定的な要因であった。

王制はタイの国家の正統性原理の一つであるが、タイを安定させ、国民が信奉し、支えているのは王制というよりも、プミポン国王個人といってよい。歴史を振り返れば、タイは、世界恐慌を背景に、若手将校、中堅文民官僚の政府に対する不満が鬱積し、かれらが1932年6月24日にクーデタを決行し、専制君主制から立憲君主制に移行した。その後最初に成功したクーデタは1947年11月8日である。第二次大戦において日本と協力したピブーン軍事政権は日本の敗戦の前に抗日文民政府と民主的に政権を交代した。しかし、戦後の経済的混乱、1946年6月9日のアーナンタ国王の変死、冷遇された軍部の不満は、アジアに拡大する冷戦も助けて、1947年の退役将校によるクーデタを成功させた。プミポン現国王は兄の国王の死去により、その前年の1946年に即位した。今年6月9日には盛大に即位60周年が慶祝された。タイでは長らく、クーデタ⇒暫定政府発足⇒憲法制定⇒総選挙⇒政府発足⇒安定期⇒政治危機⇒クーデタのサイクルを繰り返してきた。戦後、すなわち、1947年から今回まで、失敗を含めてクーデタは15回を数える。プミポン国王は、この最初のクーデタから今回のクーデタまで、観察、仲裁、あるいは関与している。現在のタイにあって、最もタイの政治のカラクリを知悉しているのが国王であるといってよい。

王宮前広場2006年2月26日
王宮前広場2006年2月26日。タクシン首相の退陣を求める市民団体「民主主義市民連合」の集会開始前の風景(筆者撮影)

癒しの国ラオス:ラオスの開発課題とその展望

掛川 三千代

筆者が、在ラオス日本国大使館に、経済と開発問題担当の専門調査員として勤務して、早くも2年10ヶ月が過ぎ、あと2ヶ月余りの契約期間を残すばかりとなった。地球宇宙平和研究所から、「定期的なコラムの投稿者になりませんか」と親切に声をかけて頂いたこともあり、この機会に、日本では殆ど知られていないラオス人民民主共和国のこと及び当地で得た経験を、エッセイー風に書き、ラオスのことを、より多くの人に知ってもらえることを期待したい。

さて、「ラオス」と聞いて、どこにある国で、どのような歴史を有し、どのような人々が住んでいるか等をすぐに思い出せる人は非常に少ないであろう。実際、赴任前、米国人の友人に「ラオスに行くことになった。」と言うと、「ラゴス?アフリカに行くの。」という返事が何回か返ってきた。また、ラオスの隣国タイの首都バンコクのある有名ホテルで、「どこから来たのですか?」と聞かれ、「ビエンチャンです。」と言うと、「ベトナム?」と回答する従業員がいた。「いいえ。隣の国の首都、ビエンチャンです。」と言うと、「え、ビエンチャン?イサン地方(タイ東北地方)の北の方ね。」と言われる。バンコクからすれば、タイの東北地方は、かなりの田舎であり、その北にあるビエンチャンは、隣国ラオスの首都であっても、一層田舎であり、イメージはなかなか浮かばないらしい。このような反応が返ってきた時は、「隣国の首都ぐらいは知っていて欲しいなあ。」と思うことがよくあった。でも、実際、ラオスにとって、タイは非常に重要な経済パートナーであるが、タイにとっては、「ラオスは、タイの一地方」ぐらいにしか思われていないのであろう。詳細は、徐々に述べることにしたい。

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Map of the Lao PDR

1.国の概要

ラオスは、周囲を中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに囲まれた内陸国である。また、国土の約8割が山岳地帯であり、肥沃なメコン河流域があるとは言え、耕地に適した土地は決して多くはない。人口は約560万人であるが、国土は24万k㎡(本州の面積に相当)であり、人口密度は23人/k㎡と極めて低い。現在、首都ビエンチャンの人口は約69万人と言われが、その他では旧都ルアンパバーン、南部の中心地パクセーを除いては、過疎に近い状態である。国は多民族国家であり、低地ラオ族が約60%を占め、その他は49の少数民族がいると政府発表では言われているが、民族の分類により、100を超える少数民族がいるとも言われている。また、国民の多くは、小乗仏教を信仰している。

ラオスの最初の統一王朝は、1353年のランサーン王国(百万の象、即ち多くの象という意味)で、首都はシエントーン(現在のルアンパバーン)に置かれた。その後、ビルマの侵攻を避けるため、1560年にビエンチャンに遷都した。18世紀初頭には、王位継承を巡る内戦等から、ビエンチャン、ルアンパバーン、チャンパサックの3国に分裂し、1779年にはシャム(現在のタイ)の属国となった。1893年には、仏シャム条約により、フランスの植民地となり、1899年には仏領インドシナ連邦に編入された。第二次世界大戦の後期には、ラオス南部に於いて日本軍の侵攻を受けた。第二次世界大戦が終了すると同時に、ラオスは植民地政策より解放されたかのように見えたが、1949年、仏ラオス協定により、フランス連合内のラオス王国となった。その後、1953年には、仏ラオス友好条約により、完全独立を達成した。しかし、ベトナム戦争の影響を受け、共産主義勢力(左派)と反共産主義勢力(右派及び中立派)の間で内戦が繰り返された。また、ベトナム戦争中の軍需物資供給路であったホーチミン・トレールの一部がラオス南部を通過していたこともあり、1964年から75年までに、米軍により約300万トンの爆弾を受けた(当時の人口は300万人)と言われている。また、そのうち約3割が不発弾として、今なお、ラオスの東部、南東部に多く残留しており、開発の障害となっている。

最終的に、1975年4月、サイゴンが陥落、ベトナムの統一が達成された。ラオスにおいても、共産主義勢力が革命により権力を握り、同年12月に王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した。75年から80年代初頭にかけ、多くのラオス人が、政治難民として国外に逃亡した。最もよく知られているのは、モン族である。山岳地帯に住むモン族は、ベトナム戦争中、米軍の手先となって共産主義勢力と戦わさせられた。また、王国派であった人々も、革命と同時に、フランス、米国、豪州、日本等に逃亡している。現在、米国に居住するラオス人は約50万人とも言われており、ウィスコンシン州、ミネソタ州、カリフォルニア州等に小さな「ラオス・コミュニティ」があるそうである。

本来、国家設立と同時に、憲法の起草がされるのが通常であるが、ラオスの場合は、人民革命党の決裁により全てが決まり統治されてきた。憲法が制定されたのは革命後16年も後の1991年であり、この16年間、憲法無しで国を治めてきたのである。

上記の通り、内陸国という地理的条件の中で、ビルマの侵攻を受けたり、シャム(タイ)に攻められたり、また、フランスの植民地支配下に置かれたり、日本の侵攻を受けたり、更には、ベトナム戦争中は、米軍と正式に戦争はしていなかったにも拘らず、ホーチンミン・トレールの一部が、ラオスを通過していた為、米軍により爆撃を受けた。ラオスの歴史を振り返ると、波乱万丈であり、このような中を、人々は賢明に生き延びてきた。

政治的には、ベトナムの後を継いで、社会主義政権となったラオスは、本格的な社会主義路線を敷いたかのように見えたが、個人主義の強いラオス人の間では、集団農業経営が成り立たず、1979年には同経営を中止している。計画経済の行き詰まりを打破する為、1986年に、「新経済システム」を導入、実質的な市場経済、開放政策の実施を開始した。

次回に続く。

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Tat Luang-front

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Hmong women at Thongsi village

タイから垣間見た「東アジア共同体」

高橋 勝幸

中国の反日デモを契機に、民間の間からも東アジア共同体の必要性を唱える声が高まった。2005年12月にはマレーシアで初めて東アジアサミットが開かれる。私の身近でも早稲田大学の天児慧さんがAHC(Asian Human Community)を発足させ、この原稿は6月18日に行なわれた第3回準備会の私の発言をまとめたものである。

私は、東アジア共同体について、この5月に複数のタイ人に意見を聞いた。チュラーロンコーン大学アジア研究所研究員、AP通信記者、雑誌編集長、NGO活動家(Focus on the Global South)、大学生らである。これはあくまでごく一部の意見であり、政府関係者にも聞いていないので、一般化することはできないが、概して、東アジア共同体の構想には消極的であった。

彼らの意見を集約すると、アセアンですらうまく機能していないのに、東アジア共同体は一層複雑で大きすぎるという。共同体というには日本とタイは距離が遠い。確かに、在留日本人、日本の商品、アニメ、ポップスは巷にあふれている。しかし、同じコミュニティを形成するには違和感がある。

アセアンは外見からは、アジアにおいて稀有の共同体のように映るかもしれない。しかし、実態も実感もないという。会議で確実に決議されることは、次、いつ、どこで会議を開催するかである。強いて言えば、査証なしで移動ができること。確かに、入国手続きのアセアン国籍専用レーンが空いているのが羨ましい。

そもそもタイ人は隣国を知らなさ過ぎるという(日本もさして変わらないかも知れないが)。隣国に対する関心が低い。タマサート大学に東南アジア研究プログラムができたのは2000年である。学部レベルでタイ語で教える。チュラーロンコーン大学に同プログラムができたのはその後で、修士課程のみで英語コースである。現行のホームページの案内は、アセアンが取り組む東アジア共同体形成のダイナミズムを東南アジア研究の重要性として強調している。学生は半分がタイ人で、インドシナ3国、ビルマ、シンガポールの学生も学んでいる。

中国の反日デモに関連して、私が思い出したのは、千人におよぶカンボジア人が2003年1月29日にカンボジアのタイ大使館前で、抗議デモを行なったことである。このデモはエスカレートして、タイの大使館、企業、ホテル、レストランが焼き討ちされた。事の発端は、カンボジアでも人気のあったタイ人女優が「アンコール・ワットはタイのもの」と発言したとカンボジアの新聞が報道し、その年の7月の選挙対策として、反ヴェトナム感情に訴えられないフン=センが反タイ感情に訴えかける演説をしたことである。当時のタイ側の新聞には、タイ人ビジネス関係者がカンボジアで我が物顔に振る舞っていたとの反省があり、1970年代の日本の東南アジア進出を想起し、日本の福田ドクトリンに学べといった論調も見られた。

焼き討ちの前日の晩から当日の未明まで、私はタイの首相府前で寝そべっていた。東北タイを流れるメコン河支流のパクムンダムの開門を要求する貧民会議(サマッチャー・コンヂョン)の長期泊り込みによる抗議行動に参加していた。当日には当局が強制退去させることになっていた。ところがこの事件である。強制立ち退きのニュースはカンボジアのニュースに掻き消されてしまった。数日後、首相府前に行くと、ダムに抗議する者はいなかったが、カンボジアの2州(アンコール・ワットを含む旧タイ領)はタイに帰属するというタイ字紙の論説のコピーを配布する活動家に出会った。

タイは国境を接するカンボジア、ラオス、ビルマ、マレーシアとそれぞれ問題を抱えている。ヴェトナム戦争(タイのアメリカ協力)以外にも、ナショナリズムに由来する歴史認識の問題がある。メコン河開発をめぐって、中国を含む流域国の利害関係がある。FTA導入と健全な国民経済の保護をめぐる葛藤がある。これらの問題が認識されており、その解決のためにも、東アジア共同体の構想が寄与する可能性もあるのではないかと、私は思った。

東アジア共同体の引き合いに出されるのがEUだが、その憲法条約にフランス市民の55%が反対し、大差で不支持を表明した。私などは新聞を読んで悲観的な気持ちになった。しかし、タイのNGO活動家が紹介してくれたATTAC Japan (Association for the Taxation of financial Transactions for the Aid of Citizens) によると、この「ノー」の意味は、政府間が進めるアメリカ流のグローバリズムと新自由主義の暴走を食い止めようとするもうひとつのグローバリズムの動きであった。

「日本がリーダーシップをとる東アジア共同体をどう思う?」と尋ねたところ、タマサート大学東南アジア研究プログラムの卒業1期生は「冗談じゃない。アセアン+3だ。」と答えた。戦後60年の今年、8月16日(タイの平和の日)には、バンコクの自由タイ(抗日運動)公園(昨年、自由タイ博物館がオープン)において盛大な平和祝賀行事が催される。「大東亜共栄圏」と同じ轍を踏まないように、誰のための、何のための「東アジア共同体」なのか、日本人はよくよく考える必要があると思った。