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二酔人四方山問答(37)

岩木 秀樹

B:どうしてオスマン帝国はあのような広大な帝国を作ることが出来たんだろう。イタリアやイベリア半島を除けば、ほとんどローマ帝国と版図は変わらないよね。

A:そうだね。東地中海、黒海、紅海はオスマンの内海だった。

B:バルカン半島もオスマン領だったんでしょ。

A:そう。現在でいえば、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、ハンガリー、旧ユーゴスラヴィア諸国、アルバニア、ギリシア、ブルガリアはオスマン帝国のものだった。この地域では現在でもオスマンの遺産が残っている。ブルガリアのヨーグルトはその典型だ。

B:カスピ海ヨーグルトもそうでしょ。でもなぜオスマン帝国はバルカン半島のほとんどを支配できたんだろう。

A:やはり巧みな支配をしたんだろう。オスマン帝国は軍事的・政治的には集権的な国家体制だったけれど、オスマン領に入った当初は、間接支配をして、徐々に色々な制度を浸透させた。

B:急激に制度などを変えると反発があるよね。

A:当該地域の支配者の地位も当面は認めたりした。またオスマン支配が進む頃、ちょうどキリスト教の正教とカトリックが対立し、分裂していた。その二つの分断線が現在のボスニアあたりだった。その分裂に付け入り、オスマン支配の拠点を作り、多くがイスラームに改宗した。

B:なるほど。このあたりは現在もイスラーム教徒が多いよね。

A:また当時はビザンツ社会の解体期であり、社会的混乱と分裂が進んでいた。そこにオスマンが介入し、社会の安定をもたらした。

B:1453年にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は滅び、ローマの火は消えるんだよね。これ以降、キリスト教はイスラーム世界では衰退していくんでしょ。

A:それがそうでもないんだ。ローマのカトリックに対抗するために、オスマン帝国の側につく正教の聖職者もいて、正教はそれほど衰退しなかった。

B:へーそうなんだ。

A:キリスト教の五つの総主教座のうち、ローマだけが取り残され、他のアレクサンドリア、アンティキオ、エルサレム、コンスタンティノープルの四つはオスマン帝国領に入ることになった。

B:えー。五つのうち四つがオスマン帝国の管理下に入ったんだ。

A:むしろ正教はオスマン帝国内で保護された。ちなみに中東は「宗教の博物館」とも言われている。ヨーロッパではかなり昔に異端となったキリスト教各派が中東には現在でも存在する。

B:それはイスラーム世界の中でもキリスト教の存在が認められ、ある程度保護されていたということだね。

(つづく)

二酔人四方山問答(36)

岩木 秀樹

B:イスラームは寛容性・多様性・他者性を重視することがわかったよ。

A:そのような思考様式により国際秩序観も作られた。近代西欧国際秩序では同質文化間つまりキリスト教文化間の関係が主たる体系だったのに対して、イスラーム国際秩序では異質文化間つまりイスラーム国家と非イスラーム国家間の関係が主たる体系だった。

B:へー、やはりイスラームは自分と異なるものがすでに前提にあり、異文化関係を重視していたのか。

A:イスラーム国際秩序は東西交通の大動脈を包摂する開放的な国際体系として重要な役割を果たした。

B:そうなんだ。

A:さらに非イスラーム教徒を多様に捉えてもいた。それだけ他者認識に富み、細かく分析していたということだ。

B:非イスラーム教徒をどのようにカテゴライズしていたの。

A:ハルビー、ムスタミン、ズィンミーの三つに分けていた。

B:それってどう違うの。

A:ハルビーとはイスラーム教徒と戦争状態にある者、ムスタミンとはイスラーム世界を旅行または滞在する安全通行保障権を与えられた者、ズィンミーとはイスラーム世界に住みイスラーム支配に服する啓典の民のことだ。

B:非イスラーム教徒をそのように重層的に捉えていたんだ。

A:またイスラーム世界では領域的な国家というよりも脱領域的国家思考が強かった。これは東地中海の属人法の伝統も影響している。

B:属人法ってなに。

A:ある一定の領域に統一的な法を適用するのではなく、様々な人を弁別してそれらの人集団ごとに法を適用するシステムだ。ちなみにイスラーム世界では人を類型する基準は民族ではなく宗教集団だった。

B:え、民族によって人を分けていたんじゃあないの。

A:民族意識などはなく、強いていえば言語集団意識ぐらいしかなかった。民族意識は19世紀末もしくは20世紀初頭、さらに言えば現在ですら、上から一生懸命植え付けているのが現状だ。

B:じゃあ、イスラーム帝国では宗教集団によって、適用される法が異なっていたということなの。

A:そう、ある程度はね。そのような脱領域的国家思考とともに、国家そのものにそれほどの信用をおいていないんだ。

B:え、どういうこと。

A:国家のことをダウラとかデヴレットと言うのだけれど、その語源は変転するもの、変わりゆくものと言う意味だ。つまりイスラーム教徒にとって国家や国家機構、国家の政治的指導者は変わるものだという意識がある。

B:へー、それはおもしろいね。今後の世界の行く末を見る上でも、変化の中で国家を見るということや、国家の存在を自明のものにしないということは重要だよね。

A:イスラーム教徒にとってイスラーム共同体であるウンマは重要だが、国家機構のダウラは二次的なものなんだ。

(つづく)

二酔人四方山問答(35)

岩木 秀樹

B:冷戦崩壊以後、特に9・11事件以後、イスラーム地域で戦争が絶えないよね。

A:そうだね。オスマン帝国の領域やその周辺で問題がくすぶり続けている。そのことを指して、「ポスト・オスマン・シンドローム」と名づけた研究者もいる。オスマン帝国は1922年に政治的に解体したが、その遺産の最終的な精算は出来ていない。

B:言われてみれば、紛争の多くはオスマン帝国の領域やその周辺だね。イラクもパレスチナも旧ユーゴスラビアもチェチェンもそうだ。

A:だからオスマン帝国の共存形態や、なぜそれが崩壊して現在の中東諸国体制になったのかを見ていくことは、現在の問題の淵源をたどることにもなるんだ。

B:そうか。じゃあオスマン帝国がどのようにして共存していたのかを教えて。

A:その前に、イスラームにおける共存の考えを見ておこう。オスマン帝国も、イスラームの教えやそれ以前のイスラーム帝国の影響をかなり受けている。

B:では、なぜイスラームが比較的寛容なのか教えてよ。

A:おそらく、イスラーム教徒は最も偉大な教えであるので寛容なのは当然だと考えるかもしれないが、研究者は次のように説明する人が多い。第一はイスラームは都市の宗教、商業の宗教であるから、他者の存在が前提となる。

B:商売は身内の中だけでやっていても、利潤は増大しないよね。

A:そう。だから商業的雰囲気の中で形成されたイスラームは他者性や異人を大事にする。他者がいるから自分たちも存在すると考える。だから当然、寛容となる。そして第二の理由は預言者の多元性だ。

B:なにそれ。色々な預言者も認めるってこと。

A:その通り。アダムから始まって、アブラハム、モーセ、イエスなどを預言者として認めるんだ。最大にして最後の預言者がムハンマドとなる。だからユダヤ教やキリスト教を啓典の民、兄弟の宗教として認めた。

B:なるほど。前にも聞いたことがあるね。

A:啓典の民には、税金を払ってもらえば、ある程度の自治や宗教の自由は容認した。戦争をしたり、抹殺するより、税金をもらうとは実に現実的で実利的な政策だと思う。

B:殺したりするのも労力がかかるし、恨みを買う。税を取るとはうまいやり方で、一つの共存の方法だね。

A:さらにこの啓典の民の範疇が広がることになる。ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒まで広がったこともある。

B:へー、そんなに。

A:たぶん寛容思考からではなく、税を取りたかったためだろうが、それでも血で血を洗う闘いよりもましだと思う。

B:「コーランか剣か」はやはりヨーロッパで作られたイスラームに対する間違った認識なんだね。

A:そう。正確には、啓典の民には「コーランか剣か税か」だ。イスラームに改宗するか、戦うか、税金を納めるかだ。しかも先程述べたように、啓典の民の概念は広がることとなった。

(つづく)

二酔人四方山問答(34)

岩木 秀樹

B:君から色々イスラームについて話を聞いてきて、寛容な宗教だということがわかったよ。

A:そうだ。キリスト教と比べれば、比較的寛容だったということは歴史家やキリスト教徒も大筋は認めている。

B:やっぱり、異教徒も平等に扱って共存していたんだよね。

A:いや、完全な平等ではなく、イスラーム教徒が優位に立っていたことは事実だ。異教徒は税が課せられたり、服装や乗り物なども規制されていた。ただヨーロッパ近代に比べて、比較的共存していたことは事実だ。そこで、最大で最後のイスラーム帝国であるオスマン帝国の体制を、専門家は「柔らかい専制」と呼んでいる。

B:ふーん。専制であるけれども柔らかいシステムを持って多宗教の共存体制をある程度維持していたということか。ところでオスマン帝国の名前を高校の世界史で習ったけれど、かなり以前にあった帝国なんでしょ。

A:いや80数年前には存在していたイスラーム帝国だ。第一次大戦によって崩壊し、その後、現在の「中東諸国体制」が西欧主導で作られた。

B:あっ、そうそう。オスマン=トルコ帝国とかトルコ帝国とか聞いたこともあるよ。

A:それは欧米経由の間違った認識が日本にも入った、いわば偏見や認識不足から来るオリエンタリズムだ。

B:どういうこと。トルコ人による帝国ではなかったの。

A:そうだ。そもそもイスラーム帝国には民族意識は希薄で、人を分かつ類型は宗教だった。当時トルコ人とは野卑な農民といったイメージだった。だからあなたは、なに人ですかと、オスマン帝国内で聞けば、おそらくイスラーム教徒ですとか、もしくは後期であればオスマン臣民ですなどと答えただろう。

B:でもスルタンや高位の政治家はトルコ人だったんでしょ。

A:いやスルタンですら混血が進みいわゆるトルコ民族ではなかった。いわんや政治家や官僚、軍人は実力登用主義をかなり長い間とっており、血縁は重視されなかった。

B:なるほどだからこそ、600年以上も帝国が維持できたんだね。

A:そう。600年以上もあれほどの広大な領土を維持するには、ある特定の集団のみが中枢にいるシステムでは無理だろう。600年持つ体制とは世界史上でもかなり少なく、当然ある一定の共存体制が前提となる。

B:トルコ人中心の帝国ではないから、トルコ帝国でもなく、オスマン=トルコ帝国でもなく、オスマン帝国と名づけるんだね。

A:そう。ただ問題はまだある。オスマン帝国とは自称ではなく、後代の人々が名づけた名称だ。

B:当時はどう言っていたの。

A:「崇高なる国家」もしくは「崇高なるオスマン国家」。しかもその綴りはトルコ語風ではなくペルシャ語風の言い方だった。帝国という言葉はなく、オスマンという初代スルタンの固有名詞もない場合が多かった。

B:へー。しかもペルシャ語風に言っていたとは。

A:トルコ語でもなく、固有名詞もない言い方はまさにこのイスラーム帝国のコスモポリタン性を示しているかもしれない。実際、イスタンブルはイスラーム教徒が過半数を占めていなかったと言われている。まさに世界が集約された帝都だった。

B:そうしたら自称としてオスマン帝国という名前ではなかったのだから、この言い方も問題があるね。

A:そう。将来、歴史家が名称を変えるかもしれない。当時の自称と他称を吟味しながら、後代の歴史家がその国家をどう歴史的に位置づけるかで変わる可能性はあると思う。

(つづく)

グローバリゼ−ション・エンパイア・インペリアリズム —アメリカ合衆国は帝国か、その政策は帝国主義か— (PDF)

中西 治

グローバリゼ−ション(globalization)とエンパイア(empire)それにインペリアリズム(imperialism)についての論議が盛んである。グローバリゼ−ションは1980年代初めから使われ始めた比較的新しい用語である。それに対してエンパイアは古くから使われている用語であるが、最近のエンパイア論の火付け役はイタリアの社会科学者で実践家のアントニオ・ネグリとその若い同僚マイケル・ハートが2000年に出版した『エンパイア』である。火に油を注いだのが、2001年9月11日の事件に対するアメリカ合衆国(以下、米国と略称)の対応である。この事件のあと米国は帝国に変貌したとの説がある。このことと関連してインペリアリズムも論議の対象となっている。

そこで本論文では初めにグローバリゼ−ションとは何であるのかを考察し、それが多義的な概念であることを明らかにする。ついで、エンパイアとは何であるのかを検討し、欧米で使われているエンパイアという用語と日本で使われている帝国という用語の意味内容は完全には一致せず、帝国はエンパイアの意味の一部であることを指摘する。そのあと、インぺリアリズムとは何であるのかを歴史的に検討し、インぺリアリズムがきわめて政治的な用語であること、インぺリアリズムの時代が第二次大戦後に終わったことを解明する。それがいまふたたび蘇っている。それとの関連で最後に米国は帝国か、その政策は帝国主義かの問題を検討する……

本論文は会員の方のみPDFファイルで閲覧可能です。

  1. はじめに
  2. グローバリゼ−ションとは何か
  3. エンパイアとは何か
  4. インぺリアリズムとは何か
  5. 米国は帝国か、その政策は帝国主義か
  6. むすび

『ソシオロジカ』創価大学社会学会, Vol.29, No.1・2 (通巻49号) に掲載