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エッセイ 59 思想について

木村 英亮

エッセイを書きながら、これがどれだけ自分のことばになっているであろうか、といつも気になってきた。

「日本では、生活の次元に止まる未萌芽の思想と、まだ生活に媒介されない、したがって生産性をもたない、外来の、カッコつきの思想があるばかりだ」(竹内好「日本共産党批判」1950,『全集・現代文学の発見』第4巻、学芸書林、1968,425ページ)。

竹内は、この文の初めの方で、「思想に一貫性がなければ、その人は、個人にしろ団体にしろ、独立した人格とは認められないだろう」(422ページ)と言っている。私もその通りだと思う。しかし、実際はこのように思っている人は少ないのではないか、という気もする。ソ連が崩壊したあと、それまでソ連の大学で必修科目であった「マルクス・レーニン主義」を担当していた教員たちは、「経営学」を教えている、と聞いたことがある。ソ連共産党の指導者たちで、いまも社会主義を信じている人は、少ないように見える。

それは、日本人の場合も同じである。ソ連崩壊後、社会主義を過去のものと考える人は圧倒的に多い。研究者の場合、1991年7月、『社会主義経済研究』誌が、「社会主義に未来はあるのか」というテーマで、社会主義経済学会会員などから抽出した240名にアンケートし57名の回答を得て、第17号(1991年11月)に掲載している。アンケートは3問で、1. 21世紀半ばまでに「社会主義体制」が世界のどこかで実現する可能性があると考えるか。a.ある b.ない c.どちらとも言えない、2. aと答えた方に対しその場合の企業の形態について、3. b.c.と答えた方に「資本主義体制」はどのように変化するか、というものである。1 についての回答は、a 23 b 6 c 21 その他7であった。1991年12月にソ連が崩壊した後、aはもっと減ったであろう。

このような判断は、どのくらい自分の「生活に媒介」されたものなのであろうか。

エッセイ22 御用学者について

木村 英亮

国際関係論の講義で、テキストに引用されている文に御用学者ということばがあり、学生に意味を聞かれ、『大辞林』(三省堂)をひいてみた。

まず、「御用」について、「4.政府などの権威にへつらって主体性のないこと」、とある。「へつらう」は、「自分よりも身分・地位の高い 者や強い者に対し、相手の喜ぶようなことをことさらに言ったり行ったりする。おもねる」とある。「主体性」は、「自分の意志・判断によって、みずから責任 をもって行動する態度のあること」。

「御用学者」は、「時の政府や権力者に迎合して、その利益となる説を述べる学者」。 迎合的意見が、権力者の利益になるかどうかはあやしく、御用学者が権力者を誤らせることも多い。権力者の利益になるのは、むしろ反逆者の意見である。しかし、権力者がへつらいから免れ、本当に自分のためになる意見を聞くことは難しい。

多くの情報を集め、自分で判断するのが一番であろう。しかし、その情報が偏ってしまっては処置なしである。

「御用商人」は、「4.近世、幕府・諸藩の御用を務め、特権を得ていた商人」。

「御用大学」ということばはまだない。

「御用」の項の最後は、「御用済み」。

今の大学における学問

わたなべ ひろし

先日次のような新聞記事を目にした。

日本学術会議が、参加している1481学会を対象にアンケート調査を実施。全体の約5割に当たる838団体が回答した。研究者として倫理的に問題がある行為が、1999年以降の5年間に学会の役員会などで話題になったケースがあるかどうか尋ねたところ、113学会が「ある」と回答した。不正の内容で最も多かったのは、論文の二重投稿で67学会。論文やデータ盗用の23学会がこれに続き、データのねつ造、偽造は6学会であった。(読売新聞 7月5日 一部要約)

職場の同僚の話しによると、論文やデータの盗用などまだかわいい方で、例えば彼の専門である生物学の分野では、学術誌の審査員(レフリー)を務める大学の教授が、審査対象である未発表の諸論文それぞれのアイデアやデータを盗用して組み合わせることによってより「完成」された論文を作成し、先に発表して自分の成果にしてしまったりするというのである。

この話しを聞いて僕は絶句してしまった。

日本学術会議というのは、科学技術系の学会の団体なので、人文・社会科学系の学会ではこんなことはないと思いたいのだが、当コラムでの木村英亮さんの文章などを読んでいると、それも怪しいものである。

先週、「大学の後輩」という人から自宅に電話があった。「大学の卒業者名簿から渡辺さんに電話をかけさせていただきました。」という前置きの後、彼が話し始めたのは「投資」の勧誘、具体的には「金(ゴールド)」の先物買いのことであった(と思う。なにぶんこれ系のお話しにはうといので)。彼によれば、なんでもアメリカが近々金相場への介入を計画しており、そのため金の相場は間違いなく上がるとのことで、例えば今600万円の投資をすれば半年後に最低でも(!)1600万円にまで増えると言うのだ。

普段なら「投資」の話しが出た段階ですぐにきるのだが、なんといっても「愛校精神」旺盛な僕なので、少し彼と話しをしてみた。

「君はいくつになるの?」
「24才です。」
「じゃあまだ卒業してあまりたってないんだ。今うちの大学の就職率ってどれくらい?」
「私のときは60%ぐらいで良かったです。」
「60%ぐらいで良いんだ!僕のときはほぼ100%で当たり前だったけどなぁ。学部はどこ?」
「経済学部です。」(ちなみに僕は文学部)
「ゼミの先生は君の就職先のこととか知っているの?」
「就職が決まったときはとても喜んでくれました。」
「お金を投資してお金を儲けるというのようなことは、僕はあまり好きじゃないんだ。君の仕事について、ゼミの先生や大学の先輩は何も言わない?」
「このような仕事をしているおかげで、いろいろな方とお知り合いになれてとても楽しいです。投資された方にも非常に喜ばれていますし。」

彼との電話をきった後、僕が最初に考えたことは、彼のゼミの先生のことであった。

大学の後輩ということを看板に突然相手に電話をかけ、半年後には600万円が1600万円になるともちかけて「金」の先物買いを勧誘して歩くような彼の仕事を、僕の感覚では「まとも」だとは思えなのだが、その先生はどう思っているのだろうか?就職の段階で、教え子がどのような種類の会社に入り、どんな仕事をすることになるのか、いやしくも大学の経済学部の教員であればわかりそうなものであろう。それとも自分の教え子として恥ずかしくないまっとうな会社に入ってくれたということなのであろうか?あるいは教え子の人生は教え子自身が決めることなのだから、就職先などは本人が決めればそれで良いということなのであろうか?

今大学においてどのような研究・教育が行なわれているのだろうか。それは少なくとも、憧れの対象としてあのような本を書きたいとか、あの先生のような研究者になりたいとか、学生時代僕が想っていたものとは全く別物になってしまっているようだ。

僕は学問というものは、全人格的なものであると思っている。しかし、今の大学においては、自身の学問と自身の「人格」は切り離されたものになってきているのであろう。

エッセイ9 時間と仕事

木村 英亮

スクールという言葉は、暇を意味するギリシャ語のスコレに由来する。東奔西走、いらいらしていては勉強はできない。いま大学教員は、講義負担のほか に、会議、雑用が増え、ゆとりを失っている。講義負担も総合課目から大学院まで、過大である。さまざまな沢山の講義のいずれにも十分な準備をして教壇にた つことは不可能であろう。結局手抜きが行われざるをえず、しわ寄せをうけるのは学生である。以前は助手というポストがあり、事務職員もサポートしていた。これらの人々の削減によって、教員の仕事はいっそう増えている。

普通の大学では図書館もおもに学生向きで研究図書館ではない。結局、大学の研究室にいては研究できない。

教育・研究の仕事は、生産会社の場合と異なり、生産性の向上といった考え方にはなじまない。大学の場合、学生は教員から教わるばかりでな く、自分達で自主的に勉強することも大切である。ゼミやクラブ活動が大きな意味をもっており、そのためのスペース、図書館、機器の充実、教員・職員による 援助・コンサルティングの体制も必要である。

しかし、同様のことは初等・中等教育の場合にも言えよう。教員が忙しすぎることは、小学生・中学生・高校生には困ることであり、社会的 に損失である。子供の数が減っているいま、教育の充実の機会である。教員の質を確保するとともに、余計な雑務から解放するよう、行政、父母とも努めてほし いと思う。

「いかに生きるか」という学問分野

わたなべ ひろし

大学を出て働くようになってから、ずっと考えてきたことがある。それは、大学という「お勉強」ができる環境を卒業して、これから自分は何をどうやって学んでいけばよいのだろうかということである。

最高学府である大学に長年在籍しながら、何をどうやって学べばよいのであろうかというのもみっともない話しではあるのだが、しかし事実なのだからしょう がない。大学では日本社会論をテーマとしていたので、研究対象への「留学」のつもりで実社会に出るのだと強がってみても、実際のところ何をどう勉強すれば よいのかさっぱりわからなかった。

英文学者の中野好夫さんが、自身の大学教師生活について語った文章の中で、次のように述べている。

「最初から私は大学教授になれるような勉強の仕方をしなかった。不勉強だとは申さぬが、それは好きなもの、というよりは、なんらかの意味でいかに生きるかという私自身の関心に切実な題目だけを、全くわが儘勝手に勉強した。」

これから何をどのように学べばよいのか僕は今でも分かってはいないのだが、中野さんのこの文章を読んだとき引っ掛かるものがあった。「あぁ、中野さんもやっぱりそうなのか」という具合にである。

それは「いかに生きるかという私自身の関心に切実な題目だけを」のところだ。なんというか、こういうふうに僕も「勉強」すればよいのかもしれないと、なんとなく行き先が見えた感じがしたのである。

これを仮に「いかに生きるか」という学問分野とでも名づけておこう。僕にとっては、反戦平和の問題も、戦後日本社会をいかに捉えるべきかという問題も、全てこの「いかに生きるか」という学問分野に含まれるものなのである。(そうは言っても、中野好夫という人の学問は、名訳の誉れ高いギボンの『ローマ帝国衰亡史』を始めとする数多くの翻訳があり、17~18世紀の風刺家にして『ガリヴァー旅行記』の作者であるジョナサン・スウィフトの研究があり、それこそ学術研究の面で多くの成果を残している。彼の「わが儘勝手」の勉強は、そういうものをしっかりと生み出しているのであり、僕のようなチンピラとは次元がことなるのではあるが。)

近年は、世界的なレベルで見て日本人の学力レベルが落ちているとか言われているが、例えばさまざまな私的サークルの数の多さ、多種多様な セミナーや講演会の実施、小説家や評論家といった文章や言葉を生業とする専門家の人数の多さ、書籍の発行部数等々、僕は日本人というのは「お勉強」や「学 習」の好きな国民だと思っている。そしてそれ等の「お勉強」や「学習」を通して人々が学びたいと思っていることは、学術研究的なものやノウハウ的なものよ りも、「いかに生きるか」ということなのではないだろうか。

この夏、『週刊金曜日』誌上に5回にわたって連載された、作家の辺見庸さんの「いま、『永遠の不服従』とは何か」という文章は、「いかに生きるか」という学問分野における僕にとっての収穫であった。

辺見さんは昨年の3月、新潟での講演中に脳出血で倒れ、不自由になった身体(それがどの程度のものであるのかは、もちろん分からないが)をおしての、病床 からの文章であった。辺見さんは元共同通信の記者であり、そのうえ芥川賞を受賞した優れた小説家でもある。僕は以前から辺見さんのファンで、彼の言語感覚 によって造形された世界は迫力があり、こちら側に「これを見ろ」と言わんばかりにグイッと突きつけるなにものかがあった。ただ最近(つまり病気で倒れる以 前)は、少し無理をしているというか、辺見さんの想念の深淵にまで彼の言葉が届ききれず、上っ面の方で折り合いをつけてしまっている感じがしていた。

しかし今回連載された文章は、1年数ヶ月の不自由な病床の中で、虚飾や衒い(てらい)を排せざるをえなかった彼が、それでも今の自分に残っているものだけを手がかりに、自分という存在の岩盤にたどり着く到達感が感じられるような、まことに「凄い」ものであった。

「脳がやられるというのはけだし不可思議です。……(電話番号やメールアドレスといった)社会生活上必要とみなされている記憶が消滅し、逆に(映画のセリ フや場面といった)社会的にどうでもいいような記憶が生き残ること。記憶と想念における無用と有用。これらを随分考えました。結論はありません。」

辺見さんの文章を読むことで、「いかに生きるか」という学問分野の特徴は「問いはあるが答えは無い」ということなのではないかと気づかされた。

エッセイ2 大学における研究と教育

木村 英亮

いま業績主義となり、大学でも教員に1年間に書いた論文などの数を届けさせるようになった。大学のニュースなどにも前年度の業績表が載せられている。これらの業績の数を給与などに反映させようとする。しかし、これだけでは、質より量ということになりかねない。数年に一回画期的な業績を生むような研究者よりも、毎年平凡な論文を書く者の方が評価されることになりかねない。また、このように言って研究していないことを弁解する者もでてくる。

また、大学院生の論文を活字にするためといって、自分の名であるいは連名にして紀要などに載せ、業績にカウントさせるようなことも生ずる。

わたしは、大学の主な仕事は教育にあるので、教員の評価はそちらに重点を移すべきではないかと思う。大部分の大学は、教育機関であることを忘れている。もちろん、研究していない教員の講義は魅力を欠くであろうが、それは第一に講義を通して、学生によって評価されるべきであろう。学生には、そのような力はないという教員もいるが、全体としてみると、学生の評価はあたっているように思われる。それは、政治の世界の選挙で、民衆の判断があてにならないという意見と似たところがある。

受験生や社会も、大学を評価するとき、教員の学界における活動状況だけでなく、教育の面での評価の方法も考える必要である。

また、研究者として優れているが、教育者としては適当でない人のために、大学院だけや研究所のポストを拡充すべきであろう。

ともかく、現在の大学は、青年の3-4割が進学するという条件に合っていない。

エッセイ1 遊びと仕事

木村 英亮

研究を推し進める主な力は、好奇心であって、必ずしも収入になるからではない。それは、音楽や美術、文学と同じように、人間の本性にもとづく営み で、いわば遊びの要素がある。これは、物理学者の朝永振一郎が1965年に書かれていることであるが、まったくその通りであると思う。

いま社会全体で、経済的に引き合わない研究が排除される傾向にある。もちろんひとりよがりの研究や、どのような成果がもたらされるかわ からない研究もあるであろう。しかし、経済的、技術的に必要な分野のみの研究でいいのであろうか。それでは研究に大きなゆがみが生まれるのではないかと危 惧される。

たしかに、科学の発達によって、経済的に豊かになったばかりでなく、医学は寿命をいちじるしくのばした。しかし、他方では殺戮の手段も 度外れに大きくなった。また、国家が核兵器など軍事科学に膨大な予算を投入することによって、それ以外の研究分野を圧迫するという現象もおこっている。さ まざまな分野の研究があってこそ、人類のためになるのであって、目先の必要にばかり応えていては、科学は大きくゆがみ、バランスがくずれる。環境や資源、 食糧の問題として、緊急の課題になっていることの根元は、ここにあるのではなかろうか。

文科系の大学においても、いまは経営学や法律学などいわゆる実学を学ぶ学生が増加し、カリキュラムでも、哲学や文学などは縮小される傾向にある。教養教育はないがしろにされ、専門学校化しつつある。

人間の生活は、経済的発展によって余裕が大きくなってしかるべきであるのに、かえって貧しくなっているように思われるのである。