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『中国女性史入門 ―女たちの今と昔』

大江 平和

中国女性史入門―女たちの今と昔

少し前になるが、友人が一冊の本を送ってくれた。出版まもない関西中国女性史研究会編『中国女性史入門―女たちの今と昔』 (人文書院)という本である。深紅の表紙をめくると、彼女を含め三人の友人が執筆者として名を連ねていた。三人のうち二人は、私の北京滞在中、単調な学生生活の中で、常に知的刺激を与え続けてくれた存在で、私の修士論文作成にあたっては、大変お世話になった中国近代女子教育史の研究者である。もう一人は、私の小中学校時代の同級生で、何香凝の研究者である。この三人とは今も交流が続いている。

さて、本書の画期的なところは、これまでの近現代の中国女性解放運動史に限定されない、テーマ別に古代から現代までの中国女性について俯瞰できる ような女性史をそのコンセプトとしている点である。I 婚姻・生育、II 教育、III 女性解放、IV 労働、V 身体、VI 文芸、VII 政治・ヒエラルキー、VIII 信仰という8つのテーマでわかりやすく構成されている。入門書にふさわしく、キーワードはゴシックで強調されていて、各項目別に先行研究を紹介した研究案内や中国語の参考文献も挙げられており、概説だけではものたりない読者のニーズにも応えられるよう配慮されている。私が特に興味深かったのは、各テーマ、各項目につい て、現代はどうなっているのか、何が問題になっているのかなどについて、敢えて批判を恐れず「今」の中国の女性にまで踏み込んで活字にした点である。この部分は今なお変化し続けている部分だけに、それをどうとらえるのか、執筆者の苦労が偲ばれた。全体を通して読めば、中国女性の全容がつかめるだろうし、それがおっくうな場合には、興味のあるテーマだけひろい読みしてもよい。また、写真資料も豊富なので、写真をながめているだけでも興味は尽きない。

「中国の女性」に興味、関心を持つ人々に、一読をお勧めしたい一書である。

残留孤児訴訟に思う

大江 平和

去る6日に中国残留日本人孤児が「帰国後の生活支援が不十分だった」などとして国に損害賠償を求めた訴訟の判決がくだった。判決は国の法的責任を全面的に否定した。きわめて残念な結果であったと憤りすら感じる。

私の近所の公営住宅に残留孤児の老夫婦が住んでいる。二人は毎朝夕、おぼつかない足取りを互いに支え合うようにして散歩するのが日課のようだ。何気なく「ニーハオ!」と挨拶を交わすようになり、先日、夫と一緒に初めてお宅にお邪魔した。そこで、私たちは大きな衝撃を受けた。実はこの老夫婦はいわゆる「文盲」だったのだ。その存在は知っていたが、身近に接するのはもちろん初めてである。おまけに中国語も訛りが強く、何を言っているのかさっぱりわからない。かろうじて聞き取れたのは、以前は中国の山東省の「リャンシャン」に住んでいて、日本に来て十数年たつということだけだった。いつもは固有名詞など聞き取れないものは書いてもらうのだが、それもできない。帰宅して中国地図を開いてみたが、結局「リャンシャン」という地名は確認できなかった。折りをみて、かつて日本軍が侵略していった山東方面のルートを調べてみようと思う。それはともあれ、70才をゆうに超えたであろう二人が、戦争によって中国の農村に置き去りにされ、祖国、日本に戻ってきた今も日本語はおろか、自分の名前すら読むことも書くこともできずにいる。不自由な生活を強いられている現実を目の当たりにし、その苦労続きの生涯に思いをはせたとき、胸に迫ってくるものがあった。

戦後60年を迎えた本年、いまなお戦争の傷跡はまだ続いているのだ。このような老夫婦が全国に約2500人いるという。彼らの祖国、日本での晩年が少しで幸せなものとなるよう、国は最大の努力を払って生活支援の拡充をすべきであろう。

我が土、我が民(その3)―母なる河 澮河(その3)

王 元

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山西人会館

秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年、中国の人口は約2千万人であったといわれています。中国で最初に全国的に戸籍が作られたのは、前漢の 末期、平帝の元始2年(紀元2年)で、その当時の全国の人口は59,594,978人でありました。隋の戸籍登録人口は46,019,956人(609 年)。唐の戸籍登録人口は玄宗天宝14年に52,919,309人(757年)であり、いずれも前漢末の数字には及びません。中国の戸籍登録人口が前漢末 の記録を追い抜くのは、実に約1000年後の北宋まで待たねばなりませんでした。ちなみに、一億人の大台に乗ったのは清朝の康熙帝(1661-1722 年)の統治の末年とされています。

劉邦の話は次のシリーズにとっておくことにして、今回は澮河の話を続けたいと思います。臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。漢代以来、中国の人口は20倍以上増加したことから見れば、古城臨渙の停滞ぶりが分か ります。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。

秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にこの沛(漢代に「沛国」となった)は劉邦の故郷であ り、魏晋のとき南の譙(西晋のとき「譙国」となる)は曹操の故郷であって、中間にある銍は見落とされていました。しかし全地区の繁栄につれて、それなりに 繁栄ぶりを見せてくれました。シリーズ②陳琳上魏文帝(曹丕)書に見られるようなことはその証拠でしょう。

経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かったでのす。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。

隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖忽必烈(フビライ 蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降 格され、今日に至ります。

この理由はいろいろあるが、もっとも大きなものは二つ挙げられます。

一つは中華文明の発展性の方向によるものです。中華文明の発展性の方向には三つの時期が見られます。一つ目は西から東へ、つまり河川(黄 河と長江)に沿っての東進。三つ目は北から南へ、つまり大運河と海の道を使っての南下。前者は夏から秦まで、後者は隋以降であります。それから二つ目は漢から唐まで、つまりこの二つの時期が入れ替わるという過渡期です。澮河の流れは北西から東南へ。長い間、淮河の支流である渦河、頴河と共同で黄河流域(中原)と淮河流域を結びつく動脈でした。故郷の繁栄期は全体的に見れば、漢から唐までの過渡期と重なる。この時期が過ぎると中華文明の発展の中心が、他の地域へと移転してしまったので、故郷繁栄から衰落へと転落したのです。

それからもう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。これについては次回にいたしましょう。

「外交カードとしての歴史認識」という認識

わたなべ ひろし

今回の中国や韓国の「反日行動」に対する日本の報道を見ていて、僕が最も引っ掛かったのは、「外交カードとしての歴史認識」というような日本側の言い方である。

例えば町村外相の次のような言葉がその典型。

「中国、韓国の外相に『日本の戦後の活動をみれば、いかに戦前についての深い反省をしているのかがよく分かるでしょ』と話したが、なかなか『分かった』とは言わない。(歴史認識問題が)カードだから彼らはそう簡単に離さない」(毎日新聞 2005年5月27日 東京朝刊)

僕は中国や韓国の専門家はないので、彼らが自分達の言い分を正当化する目的だけで、外交上のカードとして「歴史認識」を持ち出してきているのかはよく分からない(多分違うと思うけれども)。しかし「外交カードとしての歴史認識」という考え方は、間違いなく日本の保守勢力やナショナリズムを宣揚する勢力には、つまり「何度土下座すれば気が済むんだ!」と声高に叫んでいる人たちには、とても都合の良い問題の立て方であるだろう。

以前、このコラムでネコクマさんが「内向きの理屈で強引に権力で押し切るドメスティックな手法は、もはや東アジアの問題解決には有効でない」ということを述べていたが、「外交カードとしての歴史認識」という日本側の認識も、全く同じ構図から出てきている言辞なのである。

僕は世界史の「トレンド」というものを、多様化(個人化)と普遍的価値の両方が、人類全体へと浸透していく過程として捉えている。つまり個々人の具体的な人生と人類全体の幸福が共存できるような一つの共同体として、人類社会は一体化していくということだ。昨今のグローバリゼーションなども、このトレンドの一局面に過ぎないと思っている。

世界史の方向性をそう捉えた上で、それでは「歴史認識」の問題をどう考えればよいのであろうか。それは日本の帝国主義による植民地支配という歴史的事実に対する被植民地の側からの、「人間としての尊厳の認知・回復を求めた訴え」として受けとめるべきであると僕は考えている。それは極めて「哲学的」というか、「倫理的」というか、まさに「人間的」な問題なのであり、ゼニ・カネ欲しさの(当然このことも日本の受けとめるべき責任として大切なことである)打算的行為としてのみ了解すべき問題ではないのだ。

この問題に正解やマニュアルなどは無いのである。これは戦争によって多くの生命を犠牲にしてきた人類にとっての、いわば加害者と被害者との開かれた関係を形成するという歴史的事業なのである。100年や150年くらい時間がかかってもしょうがない種類の課題なのだ。

発達心理学の岡本夏木さんは、自著で「誠実なることば」ということについて述べている。岡本さんの言う「誠実なることば」とは、「他者に向けて語りかけながら、そのことばが、より強く本人自身に語りかけることば」であるという。例えば「子供のために、教え子のために、友のために、病者のためにと他者に向けて懸命にしている行為(言葉)が、どれだけ自分自身への励ましとなり、生き甲斐となっていることか。誠実なる人間関係とはそういう相互性によってささえられて」いるのであり、そして「自分が相手に向けたことばが、その相手を通して自分に投げ返されてくるとき、それはより深い新たな真実をはらんで返ってくるという点」が大切であると指摘している。

他者に対して発した自分の言葉は、なによりも自分自身にこそより問い返されるべきであるという、このことの重みを何も考えていないカラッポな言動の累積が、現在の東アジアにおける日本の孤立化を招いているのである。

今必要なことは、中国や韓国の人たちの問いかけに対する、私たちの側の「誠実なることば」を介した応答なのである。

我が土、我が民(その2)―母なる河 澮河(その2)

王 元

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新しい三水大橋

我が故郷安徽(省)淮北(市)臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」といわれていました。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。これは今でも変 わりません。

三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で 「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深 秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の 渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたとい うことです。

この地域では古代から麦と同じように有名なのは“大盗”です。

日本の「万世一系」に対し、中国は「易姓革命」つまり、誰でも王となれる、としばしば指摘されます。中国、いわゆる四千年の歴史の中で主なる王朝 は夏商周秦漢晋隋唐宋元明清の12。中でも200年以上ながく維持されてきた大きな王朝は夏商周漢唐宋元明清の九つ。この九つの中で商漢宋明(延べ 1500年以上)の四つは私の故郷の周辺(半径140km)から誕生した王朝であり、特に漢と明は中国史上二つの農民蜂起によりできた王朝です。

そもそも中国史上初の農民蜂起は澮河の下流にある大沢郷で起きました。司馬遷『史記・陳渉世家』には以下のように記しています。

陽城の人陳勝、字は渉。少き時人と傭耕す。耕を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰はく、「苟くも富貴とならば、相ひ忘ること無からん。」 と。傭者笑ひて曰はく、「若傭耕を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰はく、「ああ、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。

是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰は く、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。

当時の大沢郷のあたりは澮河など淮河の五つの支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたちまち道が通じなくなった。こうして大沢郷に 蜂起した農民軍は120km西進して我が故郷「銍」等五県を陥れ、さらに西130kmの陳州に向かった。陳勝は陳州で王と称し、国号を「張楚」と名づけま した。中国史上初めて身分も何もない日雇い農民が王となった瞬間です。

「王侯将相寧ぞ種有らんや」。直訳では「王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と違いなどないのだ!」という意味です。現代語ではおそらく、「人間誰も皆同じである!」と訳して良いでしょう。こんな言葉が2000年以上前に叫ばれているのです。

陳勝の農民軍はわずか一年で破綻しましたが、この大沢郷蜂起が秦末大乱の先駆けとなります。これを機に挙兵した劉邦は,秦を倒した後、項 羽を滅ぼして漢を建国することになるのです。ところが同じ沛の中陽里(我が故郷「銍」から北へ100km)の出身であるこの劉邦も当時はまだ“無頼漢”で ありました。その話は次回に。

我が土、我が民(その1)―母なる河 澮河(その1)

王 元

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上の写真は1999年9月に安徽省の故郷に帰省した折に撮ったものです。時間は午前9時、雲ひとつない晴天でありました。のどかな風景は、欧州の田舎のようにも見えるでしょう。河の両岸には農作物の大豆、トウモロコシ、サツマイモなどが青々としています。しだれ柳が風に揺れ、なんともいえない情景です。その柳には蝉が元気に鳴いていて、空気の中には幼い頃から親しんだ母なる河の息吹が感じられました。

豊饒なる河で、魚などの水産物が多く生息していました。農民たちはその河からいろいろな恵みを採り、自由市場にて非常に安い値段で売りさばいていました。特に今は高くなっている、川海老やスッポンなどは、故郷の農民たちは自ら食べようとしないものでした。そこで、空に飛んでいるものは飛行機以外、地上に足が着いているものは机以外は皆食す、という食は広東に在りとまでいわれる広東人の父はいつも、驚くほどの安値でそれら珍味を買占め、我々兄弟に食べさせようと懸命でした。無論、夏になると、我々兄弟もその食材採りに借り出されました。夏の夜、懐中電灯に照らされて動きが鈍くなる田ウナギ、蛙等いつも食べきれないほど収穫しました。それから中華蝉の幼虫(日本の蝉より3,4倍の大きなもの)を油で揚げたものは本当にこたえられませんでした。

私はいつもこの河で遊んでいました。夏は魚釣りや遊泳。潜ることも好きでよく長い時間潜っては人を驚かせました。河の中は石が多くその石につかま り素早く移動していったのです。あるとき、川岸の斜面を利用し、つるつるした泥の上を裸で滑っていた。悪ガキと一緒だと、ますます迫力を増し、スピードが上がりました。そのときそこに何か異物があるのに気付かず勢いよくすべると臀部に激しい痛みが走りました。硬い石のようなものが突き刺さったのです。しかしそのことは「革命」に追われる親には言えず、自分で必死に治しました。その傷は今も残っています。こんなことは日常茶飯事でした。

以前は大きな河でした。船が1年中渡り運河として使われていたのです。ところが今は降雨量が減り、水量も70年代の四分の一になってしまいました。船どころか、冬になると流れさえ止まり、沼のようになるそうです。

しかも80年代、この河の上流の河南省永城県で製紙工場ができ、その排水が流され汚染されてしまいました。水は黒くなり、水草さえ育たなくなったのです。残念なことです。これも高度経済成長の恩恵なのでしょうか。今はだんだん奇麗になり、魚も住み着き(まだ食べることはないですが)、元の河に戻りつつあるようです。

実はこの河には三国時代からの歴史があります。その話は次回に。

連続講座「中国はどこへ行くのか」

事務局

第1回

日時:10月13日
場所:かながわ県民活動サポートセンター、八王子学園都市センター
講師:汪 鴻祥
テーマ:「日中関係の歴史、現状と未来」(要旨PDF

第2回

日時:10月13日
場所:かながわ県民活動サポートセンター、八王子学園都市センター
講師:王元
テーマ:「天安門で挫折した中国の政治体制改革」(要旨PDF

第3回

日時:1月25日
場所:かながわ県民活動サポートセンター、八王子学園都市センター

講師:川崎高志
テーマ:「中国の貧困対策の経過」(要旨PDF

講師:林亮
テーマ:「南アジアの核軍備競争と中国核戦略 −危惧される『中国封じ込め』による『制御不能な新冷戦』−」(要旨PDF