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「地球宇宙平和研究所 中国東北・朝鮮訪問団」の募集

事務局

中国東北・朝鮮訪問の詳細が添付資料のように決まりましたので、お知らせいたします。瀋陽滞在中の日程は参加者の希望によって決める予定です。

本研究所の理事でもある神保さんが旅行社の担当であり、下記のようなメールが来ていますが、希望者はまず研究所事務局の岩木までご連絡いただき、その後旅行社への手続きをしてください。研究所への参加希望の締め切りは7月31日(木)といたします。

なお旅行代金のほかに、土産代・チップ代・企画料等として、一人1万円を研究所まで振り込んでいただきたいと思います。なにとぞよろしくお願いいたします。

一人でも多くの方に参加いただきたいと思いますので、ご友人等をお誘いいただいても結構です。よろしくお願いいたします。

訪中のお知らせ

事務局

研究所では 2008 年 9 月 1 日 (月) から 9 月 8 日 (月) まで、北京および東北への中国訪問をいたします。

中国東北は研究所としても初めての訪問となります。また北京大学や東北部の大学研究機関との学術交流も予定いたしております。

なお旅行代金のほかに、おみやげやチップ代および企画・運営料として一人 1 万円を研究所に振り込んでいただきます。何とぞよろしくお願いいたします。

募集締め切りは 7 月 15 日といたします。希望者は事務局までご連絡ください。ぜひ多くの方のご参加をお待ちいたしております。

阜新万人坑を訪ねて

植木 竜司

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2007年8月16日、中国遼寧省阜新市にある「万人坑」を見学しました。

私は昨年10月より本年3月まで阜新市に滞在しましたが、「万人坑」の存在については知りませんでした。阜新市は炭鉱の町であり、第二次大戦中に日本軍がこの地を占領し、この地の多くの石炭資源を掠奪し、その過程で万単位の阜新の人々が亡くなったことは知っていましたが、それらの人々が同じところに大規模に埋葬された場所があることは知りませんでした。

12日に見学をした瀋陽市の「九・一八事変博物館」で購入した李秉剛著/張玉彬・胥敏訳『万人坑を知る―日本が中国を侵略した史跡』(東北大学出版社、2005年9月)という本に「阜新炭鉱の万人坑」についての記述があり、阜新に関係を持つ日本人としてここは見ておかねばと思い、阜新市の友人にお願いして見学させていただきました。

中国国内には第二次大戦中の日本軍の占領と関係がある「万人坑」が北の黒龍江から南の海南島までいくつもありますが、ここ阜新万人坑はその中でも七万人の労働者の遺骨が納められている最大規模の万人坑であるとのことです。

1936年10月1日、満州炭鉱株式会社阜新鉱業所が設立され阜新の石炭資源が大規模に掠奪され始めました。1939年4月までに鉱業所に属していた採炭所は一箇所から八箇所まで増やされ、満州炭鉱株式会社の最大の炭鉱でした。1936年から1945年8月まで、2527.5トンの石炭が掠奪され、同時に数万人の炭鉱労働者が亡くなり大規模な「満鉄墓地」が形成されました。

今回の見学は阜新万人坑の館長さんとともに記念碑や満鉄墓地、死難砿工遺跡館、阜新砿史陳列館等の施設を回らせていただき、それぞれの施設で解説も聞かせていただきました。一番印象に残ったのが死難砿工遺跡館です。日本の占領者たちは、労働者に対し長時間の作業をさせ、生活条件も悪く、数多くの人々が過労死、餓死、病死したそうです。死難砿工遺跡館にはそれらの人々の遺骨の一部が当時の埋められたときのままの形で残されていました。その中には他の遺骨とは異なった向きをむいた遺骨がいくつかありました。館長さんの話によるとそれらは外へ這い上がろうとしている姿であり、生き埋めにされたものであるとのことでした。病気や怪我等で、労働の役に立たない人間は生きていても埋められたのであり、人命よりも鉱山を重んじた戦時中の日本の蛮行の証拠といえるでしょう。

阜新万人坑は「全国重点文物保護単位」の一つですが、現在一般に公開されておらず、施設は老朽化が目立っていました。阜新市民でも訪れたことがない人が多くいるとのことであり、「風化」が進んでいるといえるでしょう。阜新の人々の対日感情は私の印象ではそこまで悪くなく、つい六十数年前に七万人もの人がここで日本の侵略の犠牲になったとは考えられないほどです。

しかし、阜新万人坑は日本が占領中にどれだけ残虐で非人道的な行為を行ったかを物語っています。もし阜新の人々の間でこの歴史の風化が進んだとしても、日本人は決して忘れてはならない歴史であると思います。

阜新市は日本ではあまり知名度のない中国の一都市ですが、確かに六十数年前にこの地にも日本人がやってきて数多くの悲劇を生み出しました。新たな友好の歴史をつくっていくのにあたって、やはり加害者の側であった日本人がこの歴史的事実をしっかり認識し反省した上で、はじめて本当に強固な友好関係が構築できるのではないかと思います。

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中華人民共和国遼寧省阜新市人民政府代表団の歓迎宴

植木 竜司

4月21日、都内で中華人民共和国遼寧省阜新市人民政府代表団の歓迎宴が行われました。

歓迎宴は、4月17日から24日までの日程で中華人民共和国遼寧省経済貿易代表団が訪日し、その中に私たち研究所と関係の深い阜新市の代表団も含まれており、この機会を利用して設けられたものです。

この歓迎宴には、阜新市側から阜新市人民政府対外経済貿易局の趙軍局長、対外経済貿易局の王志偉副局長、招商処の韓文明副処長、招商一局の高慶豊局長の4名が、日本側は中西治理事長、西多英治さん、王元さん、植木竜司の4名、合計8名の方が参加されました。

阜新市側の参加者からは、遼寧省経済貿易代表団阜新市人民政府代表団の訪日の目的や日本での活動、現在の阜新市の経済状況やこれからの展望、阜新市の産業・農業について、対外経済貿易局、招商処の業務内容や役割などについてのお話がありました。

趙局長からは、阜新市は中国でも有名な炭鉱の町であったが、石炭は枯渇しつつあり、現在は経済構造を転換しようと試みている段階であり、そのために中央政府や省政府が力を入れて阜新市を支援しているとし、阜新市として現在、外国企業の誘致、中国国内でも有数の製造業が盛んな都市である隣接する瀋陽市の製造業のサポート役としての産業促進、一年中強い風が吹く気候を利用した風力発電事業、残りわずかとはなっているが石油の高騰によって需要が増している石炭に関連した炭鉱業の促進などを進めていることが紹介されました。また、阜新市には豊富な人的資源があり、今回の訪日団と同じ飛行機で数十名の研修生が日本に来たことや、今回の訪日でいくつかの日本の企業と交流したことなども述べられました。

日本側の参加者からは、以前の阜新市訪問の感想や、日本での夕張市の例などを交えた資源型都市の経済構造転換に関するお話、人的資源をより活かしていくための教育について、中西理事長が現在進めている阜新市における教育事業の紹介などが述べられました。

阜新市の未来について意見を交換し、阜新市が10年後、20年後には今では想像がつかないほど変化し発展すること、阜新市のような都市の発展に取り組むことこそが中華人民共和国政府が現在行うべき第一の課題であること、社会の底辺にいる人たちの幸せのために働き、政策を実行していくことが政治や行政を預かっている者の役割であることなどで、両者の意見が一致しました。

趙局長は宴席の最後に、今回の参加者4人の阜新市訪問を歓迎するとし、早い時期にぜひ実現させてほしいと述べられました。

終始和やかでたいへん有意義な懇談となり、阜新市代表団の方々もたいへん喜んでくださいました。

今回の遼寧省経済貿易代表団の訪日は今月上旬の温家宝首相の訪日に関連して実現したものであり、ここ数年冷え込んでいた日中関係が大きく動き出したことを印象付けるものでした。その中にあって、この歓迎宴は日本との関係がまだ少ない都市である阜新市がこれから日本との交流を増大していくきっかけとなるような大きな意義を持つ会となったのではないかと思います。

中日両国の教育・学術交流について ―中国東北遼寧省阜新蒙古族自治県便り

植木 竜司

前回に引き続き、中華人民共和国阜新蒙古族自治県の中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)で日本語や日本文化等について研究をされている白長虹さんと戴英鋒さんが書かれた文章を紹介します。今回は「中日両国の教育・学術交流について」です。
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阜蒙県の紹介 ―中国東北遼寧省阜新蒙古族自治県便り

植木 竜司

中華人民共和国遼寧省阜新蒙古族自治県(以下、阜蒙県)の職業教育中心に設置された「中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)」では現在、戴英鋒さんと白長虹さんが、日本語や日本文化等について研究されています。

戴英鋒さんは、阜蒙県の蒙古族実験中学で1999年より日本語の教師をされている方です。大学ではモンゴル文学を専攻されていたそうです。

白長虹さんは、阜蒙県の東梁学校で、本年7月まで中学生に日本語を教えられていた方です。現在は、日本語の授業が廃止されたため、小学生に国語と算数を教えられています。大学では日本語を専攻されていたそうです。

お二人が日本語で書かれた「阜蒙県の紹介」の文章と、「中日の教育・学術交流」についての文章を二回にわたって紹介します。今回は「阜蒙県の紹介」の文章です。

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大板鎮衙門村敖宝節を訪ねて ―中国東北阜新便り

エミリー

こんにちは。先日9月5日に、衙門村委員会からのご招待で「大板鎮衙門村敖宝節」へ行ってきました。先日、遼寧省阜新蒙古族自治県人民代表大会常務委員会主任の陳玉明先生にお会いした際に、「9月5日にモンゴル族の敖宝節の祭事が行われます。現地に来賓用の特別席を準備し、皆さまにご紹介したいと思いますので、ぜひ和服でお越し下さい」とご招待状を頂戴しました。

朝8時45分に、私が住む遼寧工程技術大学の教員宿舎からタクシーに乗り、1時間ほどで「大板鎮衙門村」という場所に着きました。「大板鎮」は、私の住む阜新市に隣接しています。「鎮」は、県や自治県の下位の行政区画単位です。「衙門村(ヤームン村)」のことをもう少し詳しくご紹介しますと、場所は東経121度 53’ 35”、北緯42度にあり、609戸、2142人の人々が住んでおり、住民の85%は蒙古族でモンゴル語を話すそうです。私の住む阜新市には漢民族が多く、阜新蒙古族自治県を除けば、ほとんどの学校教育が中国語(漢語)で行われます。そのためモンゴル語で生活をする人が少なく、阜新市のモンゴル族の方々にとって、衙門村は大変貴重な地だそうです。その地で毎年旧暦の7月13日(今年は9月5日)に、「敖宝節」の祭事が行われるそうです。それはモンゴル族の祭事文化だそうです。衙門村の住民はもちろん、阜新市や近隣のモンゴル族の方々が集まるそうです。

大板鎮 大板鎮衙門村

「敖宝節」というのは、おそらく「敖包」をもじっているものではないかと思います。「敖包」とは、石を積み重ねて作ったピラミッドのような円錐形の建築物です。かつてモンゴルの草原では、石は非常に少なく貴重なものであったそうです。草原には宗教的な建物がなく、住民が長い時間をかけて少しずつ小石を集めて積み重ねていったそうです。そして「敖包」を建て、神を祭り、健康や生活や幸福をお祈りしたそうです。またそれは、牧畜民が草原で放牧する際に、方向を確かめる目印としても使われたそうです。今でも県や鎮など単位で、住民が石を集めて持ち寄り、「敖包」を建てるそうです。モンゴル語ではこの建築物を「オウボウ」と言い、その言葉には「石の山」「堆積」という意味があるそうです。この「オウボウ」という音に、「ao bao」と発音する漢語の漢字を当てはめ「敖包」という言葉ができたそうです。

祭事に向かう人々で随分混雑した山道を越え、ようやく祭事が行われる場所に到着しました。到着すると、陳玉明先生と阜新蒙古族自治県人民政府副県長の李峰先生が出迎えて下さいました。モンゴル、新疆ウイグル、中国東北各省の蒙古族自治県からいらした政府高官の方々とともに、壇上の来賓特別席の最前列に座らせていただきました。日差しが非常に強く気温が高くて大変でしたが、青い空と山々が美しい爽やかな場所でした。

壇上の向こうには、立派な敖包が建っていました。その敖包は242年前に建設されたそうです。敖包の頂上にはチンギス・ハンの武器をかたどった物が飾られ、敖包の中央部には神の像を、下部にはチンギス・ハンの像を、白い石に彫ったものが飾られていました。

敖包 敖宝節

午前10時頃から、爆竹と共に盛大に式典が開始されました。開式の辞、来賓紹介、来賓一人一人に白酒、ハーダーという白い布、歌と馬頭琴演奏を捧げる歓迎の儀式、モンゴル舞踊、敖包での祈りと焼香の儀式などが厳粛に執り行われました。私も遼寧工程技術大学の日本人教員としてご紹介いただき、ハーダーを頂戴しました。式典には、多くの人々と報道陣が集まっていました。式典を見ていて私は、広島の広島平和記念式典を思い起こしました。

モンゴル舞踊 ハーダー

式典の後、政府高官の皆さまと共に、昼食、阜新市内観光(阜新蒙葯有限責任公司という製薬会社、遼寧阜新瑞応寺、阜新蒙古族自治県蒙古族実験中学・高等学校の見学)、モンゴルのパオ(包)型レストランでの夜の宴会にも参加させていただきました。テレビ局と公安が、終日同行していました。夜の宴会では、羊の丸焼きなどのモンゴル伝統のご馳走が振る舞われ、歓迎の挨拶や歌謡ショーなどが行われました。私も皆さまとダンスをしたり、日本の曲を歌ったりして楽しみました。日本の「北国の春」と「四季の歌」は、漢語にもモンゴル語にも翻訳され、こちらで親しまれています。和服を着た日本人が珍しかったのか、私は高官や公安の皆さまから一緒に写真を撮って欲しいと言われ、何十枚と記念撮影をしていただきました。帰りは、政府の車で大学まで送っていただきました。

製薬会社 パオ型レストラン

この日は、こちらの多くの伝統的な文化に触れることができ、大変感動しました。また日本での日常生活ではお会いすることができない貴重な方々と共に過ごすことができ、大変感謝しています。

こちらは日中30度を超えますが、朝は5度くらいまで下がり、秋が近づいてきたようです。日本もそろそろ季節の変わり目を迎えることと思いますので、皆さまもお身体おいとい下さいませ。

中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)の開所式

岩木 秀樹

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2006年8月30日に、中国遼寧省阜新蒙古族自治県(以下、阜蒙県)の職業中心(職業教育学校)で、中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)(以下、センター)の開所式が行われました。

この職業教育学校の創立は1980年で在校生は約2000名、教員は約200名で、思っていたよりも大きく立派な所でした。

開所式に先立ち、阜蒙県県長李峰さんや遼寧工程技術大学人事部長の許振良教授、また職業教育学校の校長先生をはじめ学校の首脳陣らとともに会議をし、今後のセンターの運営や展望等の意見交換をしました。

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その後、学校を案内され、センターの事務室を見ました。大きな所長用の机や本棚、ソファーや事務用の机などがすでに備え付けられておりました。短期間にもかかわらず、このような素晴らしい事務室を作られた方々の努力が目に浮かびました。

さらにその後、校庭で開所式のセレモニーが盛大に行われました。この地域のテレビ局や新聞等のマスコミも取材に来ており、また数百名の学生も参加し、センターの開所をともに喜び合いました。

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セレモニーではまず中西治さんから挨拶がありました。日本語から語学教育を始めて、近い将来には朝鮮語、モンゴル語、英語などの教育も行い、阜蒙県から世界に人材を送り出し、ここで教育を受けた若者が地球の各地で活躍することを希望するとして、「学べ、学べ、学べ」をこのセンターのスローガンとしていくことを述べました。

その後、大きな花火の音がする中で、中西治さんと許振良教授によるテープカットが行われ、記念撮影をしました。また中西外語サッカーチームの選手も駆けつけてくださり、一緒にカメラに収まりました。

すがすがしい青空と、遠くにはモンゴルにまで続いているかとも思わせる緑の果てしない草原が、このセンターの将来を象徴しているような気がしました。私自身も多くの若い人たちと一緒に学び、地球の平和に寄与することを再確認した旅となりました。ぜひ多くの方がこのセンターに立ち寄り、阜蒙県の空気を吸い、土地の食べ物を食しながら、交流をしていただければと思います。

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中国東北訪問報告

中西 治

地球宇宙平和研究所の皆様

今晩は。先程、中国東北の旅から帰ってきました。短い旅行でしたが、大変実りの多いものでした。簡単な報告をします。

第一は、遼寧省阜新市にある遼寧工程技術大学で竹本恵美さんとお会いしました。竹本さんはこの大学に招かれて、今日、2006年9月1日から外国人専門家として日本語をはじめ日本について教え始めました。到着早々は食事が口にあわず苦労されたようですが、健康を取り戻されていました。任期は2007年7月末までですが、すでに中国語で自己紹介をされており、進歩の早さに驚いています。私も負けないように努力しなければと思いました。

第二は、8月30日に阜新蒙古族自治県の職業中心(職業教育学校)で中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)の開所式が同県県長をはじめとする要人が参加して盛大に執り行われました。テレビや新聞などマスコミも取材に来ていました。中西治外国語研究センターは中西治が個人として資金を提供し、設立されたもので、同県教育局の認可を得た正式の独立した法人です。差し当たっては、日本語と朝鮮語の教育から始めますが、近い将来に蒙古語、英語などの教育も行います。多面的な人材の養成と派遣を行います。これは中西治の新しい職業です。いずれ、地球全体に広げようと思っています。

赤い月は見られませんでしたが、蒙古の山々に沈む巨大な太陽を取り巻く美しい光景を見ました。

暑中お見舞い申し上げます

中西 治

暑中お見舞い申し上げます。

いかがお過ごしでしょうか。

私は多年の夢が叶いました。

中国東北の大地に立ちました。

2005年7月31日(日)から 8月2日(火)まで2泊3日の短い旅でしたが、中国東北、遼寧省の阜新蒙古族自治県に行ってきました。

成田から3時間の空の旅で遼寧省の省都沈陽(瀋陽、旧奉天)に着きます。阜新は沈陽から車で西におよそ3時間の所にあります。この地は内蒙古自治区さらに外モンゴルへと続く、蒙古族の居住地区です。

沈陽から阜新までの間は新民、黒山などの市街部を除いて道の左右両面、見渡す限り果てしなく続く玉蜀黍畑です。中国の自然の広大さに感動し、農民の勤勉さに頭が下がりました。

中国東北は中国の穀倉であるとの感を深くしました。

阜新では県長さんをはじめ遼寧工程技術大学の先生方の暖かいもてなしをうけました。多くの新しい友ができました。私たちの研究所に対する関心と理解が生まれました。

来年夏には研究所として中国東北に代表団を送り出したいと願っています。

暑さ厳しき折柄、くれぐれも御身お大切に。