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北京での大きな祭りの成功を祝う!

中西 治

北京でのオリンピックの閉会式を最初から最後まで寝ないで見ました。

開会式は、秦の始皇帝から共産党の胡錦涛までの中国を中国的に誇示しているな、と感じながら、途中で眠ってしまいました。

中国人は 100 年來の夢ではなく、幾千年來の夢、中国を中心とした世界の夢を実現したな、と夢うつつのなかで思いました。

祭りは大きくて、愉しいのがよろしい。華やかで、美しかったです。

小さな国がすれば、こけおどしに見えますが、大きな国がすれば、さすが大きな国は大きなことをするなと思わせます。

メダルを幾つとったのかなどは問題ではありません。オリンピックは参加し、仲良くなることに意味があるのです。

開会式で各国ごとに国旗を掲げて入場するのも、優勝者を国旗と国歌で讃えるのも異様です。

オリンピックは国が主催するのではなく、都市が主催するのです。都市に集う人々が主催し、個人とそのグループが参加するのです。だから、国と国が戦争しているときにもオリンピックは開かれるのです。都市が、人々が、見ず知らずの人と人が殺し合う戦争の愚かしさを国に教え、止めさせるのです。人々が入り交じった閉会式の最後の状況が正常なのです。

日本は 1964 年の東京オリンピックを経て、農工社会から工業社会・知識情報社会へと変わりました。中国もこのオリンピックを経て、急速に農業社会から農工社会・工業社会・知識情報社会へと変わるでしょう。中国は洗練された社会になるでしょう。

中国共産党の功績は中国を外国の支配から解放し、一つの国にまとめ、米国やロシアと並ぶ大国に仕上げたことです。今回の祭りはその到達点を示すものです。

地球は一つですが、日本も中国も世界も一つではありません。日本も中国も世界も多様です。さまざまな人々がさまざまな生き方をしています。人々は多様な生活を求めています。

中国の内外で、この祭りを苦々しく見ていた人々がいました。中国の指導者は今後この人々にもっと配慮しなければなりません。

ともあれ、北京での大きな祭りの成功を祝います。おめでとう!

中国の旅のご案内

事務局

今年の夏の中国への学術交流計画をお知らせいたします。現時点で確定でなくて結構ですので、参加希望もしくは参加できそうな方は、三つの案のうちどれを希望するか(複数希望可)、事務局岩木に6月10日までにお知らせください。

募集人数はいずれも15名で、最低人数は11名となっております。人数が減った場合は料金が高くなります。また旅行代金の他に、土産・チップ・企画料として、研究所に一万円を振り込んでいただきます。多くの皆さんのご参加をお待ちいたしております。なお朝鮮への交流は2007年8月上旬から中旬、キューバへの交流は2008年2月から3月を予定しています。詳しくは追ってお知らせいたします。

地球宇宙平和研究所事務局
岩木秀樹

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中日両国の教育・学術交流について ―中国東北遼寧省阜新蒙古族自治県便り

植木 竜司

前回に引き続き、中華人民共和国阜新蒙古族自治県の中西治外語研究中心(中西治外国語研究センター)で日本語や日本文化等について研究をされている白長虹さんと戴英鋒さんが書かれた文章を紹介します。今回は「中日両国の教育・学術交流について」です。
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訪中報告

中西 治

地球宇宙平和研究所の皆様

以下に簡単な訪中印象記を書きます。

今回の訪中でもっとも衝撃的であったのは南京大虐殺記念館でした。正式の名称は「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館」です。

この記念館は中国に侵攻した日本軍が中国人を人間と考えず、動物として扱い、大屠殺した場所の一つ「万人抗」の上に建てられています。完成したのは1985年8月15日ですが、完成後の1998年4月にもこの記念館の敷地からたくさんの遺骨が発見されています。

表面の土は取り払われていますが、いまも地中に遺骨が累々と横たわっています。私たちは二つの花束を捧げ、深く深く頭を垂れましたが、私たちを見る周囲の目は冷たいものでした。

私は1973年に初めてアメリカ合衆国を訪ねたときにジャップと言われましたが、このように冷ややか視線を感じたのは初めてでした。戦争は人間を畜生にします。私たちの父や兄が犯した罪の責めをいま私たちが受けているのです。

南京市内には大屠殺が行われた場所は合わせて17か所あり、屠殺された中国人の数は30万人に及ぶと言われています。この数をめぐって論議が行われていますが、その数がたとえ3万人であったとしても大屠殺にかわりはなく、その責任を免れることはできません。ましてや現にあった大屠殺をなかったとは言えないのです。

南京大屠殺が行われたときの日本軍の最高指導者が華中方面軍司令官松井石根大将であり、副参謀長が武藤章大佐です。この二人は後に極東国際軍事裁判でA級戦争犯罪人として裁かれ、絞首刑に処せられました。

この人々を神として崇めている靖国神社に日本の首相が行くことはこの人たちが行なったことは良かったと日本国が認めることになります。中国人はこれを絶対に認めません。立場をかえれば、このことはすぐ理解できるでしょう。

何よりも重要なのは、この大屠殺は日本軍が中国に侵攻して行なったことです。

私は今回の訪問中に東アジアの情勢と日中関係について湖南大学の学生諸君に講義し、多くの質問に答えました。また、復旦大学日本研究センターで報告し、同センターの同僚と論議しました。この席には上海に留学中の日本人学生が6人参加しました。

私の講義と報告の出発点は日中戦争が1931年9月18日の出来事(満州事変)で始まる日本の中国に対する侵略であったということです。

訪中に先立って書いた基調報告を別便で送ります。お読みいただければ幸いです。

なお、A級戦犯で絞首刑を宣告されたのは次の7人です。

東条 英機
土肥原 賢二
広田 弘毅
板垣 征四郎
木村 兵太郎
松井 石根
武藤 章

松井石根に対する訴因は「捕虜と一般抑留者に関する規則の実施をおこたったこと」、武藤章に対する訴因は「中国に対して侵略戦争をおこなったこと」、「通常の戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、許可したこと」、「捕虜と一般抑留者に関する規則の実施をおこたったこと」などです。

他に、荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、梅津美治郎、鈴木貞一など16人が終身の禁固刑、東郷茂徳が20年の禁固刑、重光葵が7年の禁固刑です。

中国の主導する普遍的国際秩序形成の可能性

ねこくま

「戦後60年と東アジアの平和」シンポジュウムに参加してきました。専門的、包括的で東アジア安全保障の枠組みが今後いかなる方向性をもって再編成されるかについて示唆に富んだ報告の数々でした。5名のパネラーの報告は、いま私が研究しているアジア太平洋地域あるいは東アジアの安全保障秩序がどうなるかという問題を考える上で、非常に参考になりました。とくに清水学先生の「上海協力機構」に関する報告が、私にとっては一番参考になりました。

「上海協力機構」とは、中国がロシアと、旧CIS共和国の何カ国かが、安全保障上のコンセンサスをとりまとめるために締結した組織です。ところが一時アメリカのイラク侵攻に際して、ロシアやこれらイスラム系共和国が基地を提供するなど積極的に協力したために有名無実化したものと見なされていました。これが中国が主導したか、ロシアが主導したのか見えないのですが、米軍基地を地域から撤退させるという決議を実行し、中国が地歩を取り返した訳です。

まあ、今回はこれら中近東地域をめぐる中国の逆襲といった趣ですが、米軍基地の撤退、同機構へのインド、パキスタンの加盟認可、さらにオブザーバーながらアメリカから敵視されるイランを加えたことで「上海協力機構」の意味合いが大きく変化したと思われます。

ここから先は、今年末に発刊予定の某学会誌「グローバリゼーション特集号」に書いた論文の内容に関わるわけです。この論文で私は、中国がアジア太平洋地域で東アジア共同体を指向し、安全保障面ではARF(ASEAN地域フォーラム)や TAC(東南アジア友好協力条約)に積極参加している状況を、私は「アメリカ主導のグローバル秩序と東アジアの地域的安全保障枠組みの角逐」と捉えました。しかし、清水先生の提起した「上海協力機構」をめぐる中国安全保障枠組みの拡大の試みは、アジア太平洋地域での中国の試みと結びつくと、アメリカのグローバル安全保障秩序と平衡する新たな地球規模の安全保障枠組み形成試みの一貫と解釈できるようになります。

タイトで画一的な価値に支えられたアメリカ主導のグローバル秩序と、多元的で緩やかな結びつきによる秩序の主導権をめぐる競争が始まっていると理解できるわけです。国際社会の歴史は非常に早いテンポで変化しつつあり、アメリカ中心のグローバル秩序が何時までその有効性を保てるのかも不透明です。

地球大の安全保障秩序を普遍的に保持しようという努力に費やされるエネルギーはいかほどのものなのでしょうか。緩やかで協調的な国際秩序の方が、現実的で実効的なグローバル秩序の資格を有しているのではないでしょうか。今回のシンポジュウムに出席してASEAN的な緩やかな求心力による秩序こそ、冷戦とグローバリゼーションで傷ついた世界が求めている秩序ではないかと感じました。

東シナ海の浪高し

ねこくま

「春暁」ガス田にミサイル駆逐艦など5隻の中国軍艦が出現しました。昨年11月原子力潜水艦が日本の領海に迷い込んで海自の対潜哨戒機の追跡を受けたばかりです。やってきたのは写真で見る限りソブレメンヌイという中国がロシアから購入したばかりの新鋭ミサイル駆逐艦です。

従来中国海軍の艦艇は電子装備とかミサイルが旧式で、航空攻撃への防空能力をほとんど持たないのが特徴でした。しかしロシア製ソブレメンヌイ駆逐艦は中 国海軍で初めて飛来する航空機を迎撃できる防空能力を備えた中国期待の新鋭艦です。まあようするに虎の子の軍艦を出してきたことになります。

さらに中ロ両国の軍隊約1万人が参加する合同軍事演習「平和の使命2005」が、ロシア極東、中国山東半島および周辺海域で実施されたそうです。両国初 の本格的合同軍事演習で、台湾解放を視野に入れたとも対米戦を想定したとも言われています。緩慢ですが着実な中国の軍事力近代化が進んでいます。一方で陸上自衛隊がロシア製火器を輸入するという記事がでていました。自衛隊の仮想敵がロシア製火器を装備している可能性が高いので、 実際に自衛隊の装備を射撃してみて対弾性能とか防御能力を実地で試験するのが目的のようです。昔ロシアが日本の航空自衛隊に、ロシアが中国にも売った SU27という新鋭戦闘機を空中戦の訓練相手に買わないかと売り込みに来ました。このときは日本は相手にしなかったようですが、今度は小銃や対戦車ミサイルに限らずロシアから色々購入することになるかもしれません。

米軍との合同作戦を前提に戦力が構成されている自衛隊ですから、当然アメリカが仮想敵とする中国軍事力との衝突を準備し始めているのでしょう。

海の向こうでは、日中戦争をテーマにしたオンラインゲームが「若者の愛国主義と民族精神を育てる」ために中国で開発中と伝えられていま す。参加者が兵士に扮して日本軍と戦うロールプレイング・ゲームだそうです。中国の指導者たちが、アメリカの軍事力に正面から対決できない大衆の憤懣を、 侵略戦争の歴史を受け入れない日本に転化することはたやすいでしょう。それでも日本の政治家たちは、中国やアジアのナショナリズムを逆なでする靖国参拝を 強行しています。

ここは少々冷静になって状況の沈静化を図らなければならないところです。そこで客観的な数字の登場となります。防衛白書の日中軍事力比 較を見てみましょう。17年度防衛白書によれば中国陸上兵力160万人(日本14.8万人)、中国海上兵力750隻(日本150隻)、中国航空兵力 2390機(日本480機)です。しかも中国の国防費は17年連続で10%以上の伸びを達成しているとされています。

白書の巨大な数字を見れば中国軍事力は巨大で、日本が喧嘩を売るどころか極東アメリカ軍の力を借りなければ日本の防衛も覚束ないかに見 えます。しかし中国軍の実態は、数は多いものの外洋で作戦可能な軍艦は件のロシアから最近輸入されたごく少数のミサイル駆逐艦や潜水艦のみで、弾道ミサイ ル戦力を除外すれば沿岸地域に限定された中国の軍事力投射能力が小規模で限定的なものであるのは周知の事実です。

一方で最先端軍事技術を満載するイージス艦を中心に構成される日本の海上自衛隊は、世界有数の海軍力を誇っています。軍事力の比較は複 雑で単純化が難しい問題です。それ故従来から相手の軍事的意図と能力を取り違えて、軍事力強化のエスカレーションを引き起こし、戦争を引き起こすのが世界 政治の現実です。

世界最強の軍事力を保有するアメリカから敵視され、国内には「台湾解放問題」を抱え、わずか半世紀前に中国大陸に侵攻した隣国日本は排外的なナショナリズムを強めている。これでは中国ならずとも防衛力強化に乗り出さざるをえないでしょう。

領土問題とナショナリズムは、政治家が大衆の支持を得るためにもてあそぶ道具としては危険すぎます。領土紛争は国境線をめぐって長期的で 本格的な戦争を引き起こします。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、激高した狂気のナショナリズムが引き起こす悲劇を目の当たりにしたばかりです。

キッシンジャーは中国の軍事力はアメリカより20年は遅れている。しかし20年後にはその遅れは今より遙かに縮小されているだろう。中国のグローバルパ ワーとしての台頭をアメリカは受け入れるべきだと言明しています。地理的条件からも現実の経済的結びつきからも日本は対中関係を独仏関係並みに改善しなけ ればならないくらいの発言を、日本の政治家からも聞きたいものです。

我が土、我が民(その6)-故郷の大地を俯瞰する(その2)

王 元

寨と圩

もとは防護用の木の柵を指したが、基本的には「砦」です。故郷では「寨圩」または「圩寨」とも言います。臨渙城内にはさらに「西小圩子」という寨があ り、臨渙小学校も「北寨門」の付近にある。「圩」と「寨」を区別しない傾向は、おそらく、圩と寨を合体させたことからなる現象でしょう。つまり、洪水を防 ぐための「圩」の上に防衛のための木の柵を設置し、「寨」になることで一石二鳥の効果を得るのです。

圩の建造と維持は大変な労力と財力がかかるものです。そのため、出来るだけ規模を小さく抑える必要があり、家屋、倉庫等、最重要な財産を圩内に納め、場 (穀物の乾燥や脱穀に使うところ「穀場」ともいう)、牛舎、猪圏(家畜小屋)等は圩外に置かれることになります。したがって、「圩」は通常、村の中央に位 置しています。圩の周辺は小作人等の家屋があります。

また、ほとんどの「寨圩」は人口が少なく、村に当たります。ただ、最近の半世紀あまりは黄河、淮河それから澮河が皆、氾濫しなくなり、圩(堤)は重視されなくなってきました。平和な時期は当然「砦」も必要ではなくなります。

臨渙天主堂神甫楼
臨渙天主堂神甫楼。1949年当時の宿西県県政府の所在地でもある。

坊と園

坊は「作坊」、旧式の小規模の工場です。臨渙の名物の一つ、胡麻油はこのような作坊で生産されます。手工制作が基本で「小磨麻油」と呼ばれています。こ れらの作坊は主に城内に集中しますが、家庭作坊の形で周辺の村にも点在しています。中には「園」とよぶものもあります。例えば、「醬(菜)園」。これは味 噌、漬物、醤油、お酢等を作る作坊です。「坊」との違いは単に作業場でけではなく、物干しの庭園が付く為、「園」とよぶようになりました。

園、単一作物、特に果実類を生産する農園です。この地域に黄河が運んで来た淤土(堆積土壌、例えば、黄土や砂土等)は瓜(西瓜、メロン)、果(桃、李、杏、柿、棗、梨、林檎)の栽培に適しています。

楼と閣

「楼」とは、多重層建ての建築物を指すものですが、我が故郷の場合は基本的には二階建ての家屋、所謂「土楼」になる。故郷の地名に「楼」が多くあります が、その地は現在でもその楼を確認できるようなものはなく、昔ある時期に存在したもので、後に地名となり、残ったのかもしれません。

長い間、故郷の「楼」といえば、天主堂(天主教の教会)神甫楼でした。これは3階建ての煉瓦構造の建築は最近まで故郷での最高峰の建築でした。少年時代の遊び場でもあり、記憶の中での大きな建物なのに、今は…これなのです。

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左隣は新しく建てられた教会です。最新で最も高い建築となりました。臨渙での「教(会)」の復権を示すものと見ていいでしょう。

「閣」とは一般的「楼」の上半の部分を指します。但し、物見やぐらではなく、日本で言う「蔵」、つまり貯蔵庫です。但し、今の臨渙で地名に用いられる「閣」は特に木造寺廟建築を指します。

小学生の時、よく今は無き「南閣」という臨渙随一の名所に行きます。臨渙集最南端高台に置き、?河に面して、煉瓦構造、臨渙城の南門として建てられてい て、漢、唐、宋、明歴代の時に改築され、1975年最後に壊されたのは清代のもの。?河を臨み見る高い台地にたてられて、見当たり、風あたりの良い所でし た。

我が土、我が民(その5)

王 元

臨渙というと、行政的には「臨渙区」又は「臨渙鎮」を指します。経済的には「臨渙集」、文化的には「臨渙城」になります。以下、それぞれの地図を見ながら、行政、経済、文化の三つの側面から我が故郷を分析してみたいと思います。

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上の行政区画図に示されたように、臨渙区は面積211.49平方km、人口は8万人、臨渙鎮(1.3万人、臨渙郷を含め)+周辺の六つの 郷、60の行政村からなります。小学校は51校、中学校は13校、高等学校は2校。この二つの高校はそれぞれ鉄道の西側にある臨渙(行政地図上では間中に 「工委」と記すところ)と、海孜に位置します。両地は約15里(7.5km)離れています。高校三年生の時、眠られない夜、臨渙から海孜まで往復15km のジョギングをしたことある。

この行政地図にある地名を纏めて以下の表を作成しました。○が付くのは郷政府所在地です。この中、「工委」は地名ではなく、区政府工作委員会の略称であり、いわば臨渙鎮なのです。

周荘 張圩 劉楼 大商家 海孜○
牛荘 周圩 徐楼 大孫家 郭井子
雷荘 李合圩 丁楼 大徐家 謝湖
呂荘 李圩 馬楼 梁家 澮北
趙荘 陳圩 朱小楼 大馬家 柴窪
趙平荘 劉圩 前袁楼 劉閣 臨南
毛荘 沈圩○ 后袁楼 薛厂 陳口
曾荘 前陳圩 前王楼 西劉 沈橋
劉洪荘 紀圩 張楼 李場 石集
黄荘 長豐 祁集○
韓荘 鄭溝 梁廟 騎路
祁荘 湖溝○ 徐廟 乙寨 韓村
常荘 双溝 四里廟○ 劉油坊
張荘 馬溝湾 丁小廟 高皇○ 桃園
張荘 工委○ 宋園

臨渙区に七つの郷、60の行政村があるが、行政地図にある地名は78に上ります。これは( )の中のものも入れた結果です。「行政村」とは自然村 ではなく、基本的に人口規模で決めたもので、通常幾つかの自然村を合わせたものである。例えば、臨渙城の直ぐ東にある「周荘」は西の陳荘」と東の「王荘」 と三つの「村(荘)」合わせたものであり、陳荘・周荘・王荘の人口規模から言うと4:2:5の関係であるが、陳荘と王荘の争いから漁夫の利を得たのはこの 周荘です。同じように、城西の黄荘は黄荘+賀荘+周荘(城西)からなります。

臨南、澮北のような新しい地名も出てきました。臨南は南碼頭(馬姓が多い)+劉洪荘からなり、澮北は中心的李沃子+周辺のいくつかの自然村からなります。他方、記憶にある碼頭荘(北碼頭、呉姓が多い)、高湖(李合圩付近)は行政地図から見当たりません。

統計したことはないですが、自然村の数は恐らく150位に上るのではないでしょうか。行政地図、地名は行政的なものに過ぎないことも忘れてはならないことだと思います。

以下、地名に多用されるものについて簡単に纏めました。

(1)荘
「荘」の由来は恐らくですが、二つあります。一つ目は取引規模の大きな商店、特に卸売りが中心である店を指すものです。このようになった「荘」の中で、 最大規模といえるのは河北省の省都の石家荘でありましょう。二つ目は地主の荘園を指します。小作人を雇用し田を耕させる農園である。我が故郷の「荘」は皆 規模が小さく商工業も皆無な状態であることから見れば、おそらく後者の部類に属するといえます。

(2)村
故郷の地名には中国農村で典型的な地名である「村」が多くありません。行政地図上では「韓村」のみとなります。村は 「自然村」といわれるように自然発生的な共同体であることに対し、「荘」は地主一家の家族中心とする共同体が雛形で、人為的な要素が含まれます。ただし、 今日の故郷でいう「荘」は「村」と同様視すべきでしょう。

(3)圩
「圩子」ともいいます。淮河流域に特有な防洪営造物。低地の周りの堤をいいます。家屋などを洪水から守るため、家屋を 囲むという形で建てられ、「囲子」とも書きます。これは基本的には地方の有力な人物(地主、郷紳等)が宗族や家族の力を合わせて作り上げたものなのです。 個人的には、「圩子」という文化は恐らく「捻子」と何らかの関係があると思います。例えば、「捻」は「圩」の暗黒面ですが、事実は確認していません。

「和華の会」の親友たち

大江 平和

先月20日から29日まで、中国へ行ってきた。猛暑のなか、北京を皮切りに、西安、広州を回ったあと、再び北京に数日間滞在して戻ってきた。本帰国 して丸3年がたつが、帰国して以降、仕事抜きの個人旅行は今回が初めてである。そこで、このコラムで3回ほど連続して、中国での所感を書いてみようと思う。

今回の中国行きの目的は、旧交を温めることであった。西安はよくわからないが、北京と広州には、「日本人妻の会」なるものがある。北京のそれは通称「和華の会」というしゃれた名前で呼ばれている。中国人の配偶者をもち、現地で生活する日本人女性たちの会である。具体的な会員数は定かでないが、全体 的には増加の一途をたどっているようだ。その反面、生活の場を日本に移したり、残念ながら離婚をしたりして減少もしているらしい。私が再会を楽しみにしていた親友たちもこの会に属している。私もかつて北京に住んでいた頃はそうだったが、中国語という言語環境に囲まれて生活している彼女たちにとって、最大の楽しみは、心通い合う仲間たちと日本語で言いたい放題おしゃべりすることである。夫のこと、子供のこと、子供の学校のこと、舅、姑のこと、マンション購入のこと等々話はいつまでも尽きない。おしゃべりに夢中になっているうちに彼女たちの表情も和らぎ、時折笑い声がはじける。話の中身は、日本の主婦とさほど 変わりないようにみえるが、激動の中国の地で、価値観の異なる中国人の夫とともに家庭を円満に切り盛りしていくのは、並大抵のことではないようである。平和のために、対話を通してどう理解を深め、信頼を築いていくか、日々、努力と智慧と忍耐を要するのは、国際社会も家庭も同じセオリーかもしれない。彼女たちの話にじっと耳を傾けながら、「頑張って!」と心からのエールを送った次第である。

我が土、我が民(その4)―母なる河 澮河(その4)

王 元

それから我が故郷臨渙の停滞もう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。つまり黄河が流れを変え、淮河から海に(または長江に)流れ込んだということです。水量がとても減っていることで最近静かになってきた黄河ですが、歴史上、改道や氾濫をくり返してきました。黄河の改道は黄河自体の流れが変わり、洪水災害を引き起こすだけの問題ではなく、氾濫流域の既存の河川に大きな影響を与えるのです。そして、広義的な「黄氾区」(学術的には「黄(河)淮(河)堆積平原」と呼ぶのが正しいでしょう)を残すこともあります。黄氾区は洪水が引き上げてから手間を掛ければ肥沃な耕地となり、農作物をはじめとする果実等の栽培にも適する地で、地域の経済にプラス効果が大きいのです。問題は既存河川及びその地下水脈も同時に変化が起きることです。これで永遠に消滅した河川も少なくありません。

澮河は黄河改道から大きな影響を受けました。消滅こそしませんでしたが、水量の変化により運航水道としての価値が時々に変わることで地域の安定、成長に影を落としました。漁獲高の変化はむしろその次の問題として存在します。

唐代日本の僧侶、円仁の『入唐求法巡礼記』には山東半島から西の五台山へ、さらに南の長安への旅は2ヶ月かかりましたが、帰国の際に鄭州から揚州まで11日間しか、かからなかったと記してあります。当時彼が使った河は恐らく「通済渠」と思われます。それは澮河の南に並行して流れるもので、これは隋の煬帝が造った運河でした。

旺文社刊『黄河物語』第167頁に黄河の「主要な河道変遷」という図が載っています。青色は?河です。

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黄河改道にもたらすもう一つのことは、この地域内にあった無数の沼沢や湿地のことです。これらの沼沢の多くは時間が経つと自然消滅していきますが、長い年月を経て存在し続けているものもあります。その中でも有名なものは雷沢、大野沢、荷沢、孟諸沢、圃田沢です。中国の四大奇書のひとつと言われる『水滸伝』の舞台である「梁山泊」もその一つであります。

7月15日大江平和さんの投稿「残留孤児訴訟に思う」の中で、「帰国孤児の老夫婦は以前は中国の山東省の「リャンシャン」に住んでいて」と述べていらっしゃいますが、この「リャンシャン」はもしかしたら「梁山泊」の「梁山」(Liang Shan)であるかも知れません。この「梁山」は黄河の南岸、黄河と大運河と交叉するところにあります。一帯は古くから黄河の氾濫がくり返されることによって無数の水路と沼沢が生まれました。『水滸伝』では周囲800里とうたわれた大沼沢だったのです。近くに梁山という名の山があったことから梁山泊と呼ばれたそうです。泊は沼沢という意味で、今はその沼はなく、梁山と呼ばれています。