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古田元夫著『ドイモイの誕生』紹介

中西 治

私たちの友人である古田元夫さんが、新著『ドイモイの誕生』青木書店、を2009年9月10日に上梓しました。

古田さんは2008年5月18日に私たちの研究所の第7回総会で「今日のベトナムとアジアの平和」と題して記念講演をしました。古田さんは、また、私たちの研究所代表団が2009年9月1-8日にベトナム社会主義共和国を訪問するにあたって種々ご指導下さいました。

古田さんのおかげで、私たちの代表団はハノイでベトナム社会科学院と学術交流をすることができました。

その古田さんが、新著で、ベトナム共産党が1986年12月の第6回大会で「ドイモイ(刷新)」と呼ばれる改革を本格的に開始するまでの過程を明らかにしています。

1986年といえば23年前。

その前年の1985年3月にゴルバチョフがソビエト共産党書記長に就任し、1986年2-3月の第27回党大会を経て、同年6月の党中央委員会総会で「ペレストロイカ(ベトナム語訳では改組)」を打ち出し、7月に「ペレストロイカは革命である」と述べました。その最初の具体的な政策が同年11月の「個人勤労活動法」の採択でした。それまで禁止されていた「白タク」が公認されました。

ベトナムの「ドイモイ」はソビエトの「ペレストロイカ」の影響をうけたものとされてきました。

古田さんは、ペレストロイカがドイモイ路線の形成に影響を与えていることは事実であるが、「それをドイモイ路線形成の主たる要因として扱うことは問題である」と主張しています。

古田さんは「ドイモイ路線形成には、まずベトナムの一般の人びとや、地方の下級の共産党組織による「下からのイニシアティブ」が重要な役割を果たし、これを受けて共産党の最高指導部のなかに生まれたチュオン・チン(長征、本名ダン・スアン・ク)を中心とする改革推進勢力が、より保守的な、あるいはより慎重な他の指導者を、ある時には説得し、ある時にはその反対を押し切って、ドイモイ路線の形成にいたった」ことが決定的に重要な意味をもっている、と強調しています。

古田さんがこの書を歴史学研究会のシリーズ「民族を問う」の一冊として世に問うたのは、ドイモイ路線の形成がベトナムにおける社会主義の「民族化」の道を切り開くものであり、社会主義と民族という問題が交差する性格をもっていると考えているからです。

1965年以降、米国軍の爆撃が恒常化するなか北ベトナムでは農業が集団化され、大半の農家が高級合作社に参加し、国家がその作物を安い価格で買い取り、都市に提供していました。

都市では配給制度が実施され、国家が米や布をはじめ生活必需品を安い値段で労働者をはじめとする市民に提供していました。ソビエトや中国からの無償の援助物資が大きな役割を果たしていました。

「丸抱え(配給制度)時代」、「貧しさを分かちあう社会主義」、ベトナム版「戦時共産主義」でした。

1975年4月にサイゴンが陥落し、1976年7月に南北ベトナムが統一し、ベトナム社会主義共和国が発足したあと、いつまでも戦争中の制度を維持することはできませんでした。

1977年には中国との関係が悪化し、中国からの援助物資が来なくなりました。ソビエトや東ヨーロッパ諸国からの援助も減り、生活必需品は通常の貿易で入手しなければならなくなりました。

国内での食糧生産量は籾換算で1976年に1349万トン、1977年に1262万トン、1978年に1227万トン、1979年に1398万トンであったのに、国家徴収量は1976年に204万トン、1977年に169万トン、1978年に159万トン、1979年に145万トンと激減していました。もはや、戦時中のように農村から安価な食糧を調達できなくなりました。

地方の党と政府が米を農民から高い値段で買い入れるとか、配給制で安価に提供してきた生活必需品の価格を引き上げ、その代わりに賃金を引き上げるとかの「地方の実験」を始めました。これをハノイの中央の党と政府は簡単に認めませんでした。

この1970年代末から1986年の「ドイモイの誕生」にいたる時期を、古田さんは「ベトナムにおける改革路線の形成過程」として、近年公刊された「党文献」や「未公開資料」および「著者によるインタビュー」などを使って詳細に明らかにしています。

古田さんは「地方の実験」に対して当初、否定的であったチュオン・チンがこれに肯定的になり、第6回大会では党書記長として「ドイモイの生みの親」に変身する過程を描き出しています。同志たちとの一連のやり取り・論争は一編のドラマです。

1985年6月のレ・ズアン書記長の発言、「自らの理論のなかで、マルクスはプロレタリア独裁を、レーニンは労農同盟に言及したが、ベトナムは集団主人公と言っている。」、という言葉や1986年4月のチュオン・チンの発言、「第6回大会は、観念のドイモイ、知識のドイモイ、発想のドイモイ、とくに経済の発想のドイモイ、ホーおじさんの作風にならっての仕事のしかたのドイモイという面に体現される、基本的で重要なドイモイの一歩を記す大会にならなければならない。」という言葉は心に残ります。

私はこの本を読んで、ソビエトの「戦時共産主義」から「新経済政策(ネップ)」への転換、「独ソ戦争」から「スターリン死後の改革」、「ゴルバチョフのペレストロイカ」から「ソビエト体制崩壊」への過程、中国の「文化大革命」から「改革開放政策」への転換、「朝鮮とキューバの現在の状況」などを思い浮かべています。

日本やドイツのように戦争に負けた国では、否応なく戦時中の体制が破壊され、新しい体制を作ることになります。

戦争に勝った国、負けないで持ちこたえた国は、非常時の体制から平時の体制への切り替えがきわめて困難です。人びとは貧困と生活の不自由さから変革を求めます。指導者はその体制で戦争に勝利したのですから、体制に愛着を持っています。

人びとと指導者とのあいだには常に認識と意識の相違があります。人びとの認識と意識が進んでいる場合、「下からの改革」となり、指導者の認識と意識が進んでいる場合、、「上からの改革」になります。

いずれの場合も下と上とのあいだで衝突が生じます。これを上手く処理したとき、体制は持ちこたえ、新たな発展をします。上手く処理できなかったとき、体制は混乱し、崩壊します。

1986年段階で、改革はベトナムの方がソビエトよりも先を進んでいました。ベトナムではいまも体制は維持されていますが、ソビエトでは体制は崩壊しました。

ベトナムを初めて訪れて、「百聞は一見に如かず」と思いました。その後、この本を読んで、「一見は一読に如かず」と感じています。本は人間の認識と意識を変えます。

古田さん、おめでとうございます。ありがとうございます。

ベトナム社会主義共和国訪問記 2009年9月1日〜8日

浪木 明

1 日 (火) 曇り。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名、 18:05 日本航空 759 便にて成田空港出発。出入国カード健康申告、税関申告書記入。 22:15 ホーチミン着。前日現地入りしていた馬場と合流。コンチネンタルホテル泊。 10000 円を 1,936,500 ベトナム・ドンに換金。

2 日 (水) 曇り。現地在住の村山女史と合流。参加者 8 名全員揃う。 64 年目の国慶節 (建国記念日) 。ホテル前に、送迎のマイクロバスを長時間 (10 分程度) 駐車したとして、 50,000 ドン罰金を途中支払う。約 70km 離れたクチへ向かい、クチトンネル歴史遺跡区を見学。市内へ戻り水上人形劇を鑑賞。市内レストランで食事。

3 日 (木) 曇り。バンラン大学訪問。 1995 年設立され、急速に成長したベトナム私学の一つで、「道徳心、意志、創造」をモットーとする。国際協力プログラムを重視。意見交換では、独立とグローバリゼーション、社会主義の維持、教育と生活様式、外国語・愛国教育、ホーチミン思想、信教の自由等を議題に活発な話し合いが行われた。通訳はグエン・ティ・ハイン・トゥック女史とチャン・クァン・トゥエ氏。午後、レ・クイ・ドン中学校を訪問し日本語クラス見学。戦争証跡博物館見学後、在ホーチミン日本国総領事館を表敬訪問。水城幾雄総領事と会談。夜は、ホーチミン日本商工会の小須田森仁会長と会食。

4 日 (金) 曇り。視覚障害者学校見学。政府からの援助はなく、点字書籍販売等で学校を維持運営。子供たちによる楽器・合唱の心温まる歓迎があった。日本食レストランで昼食。午後、人文社会科学大学訪問。グエン・バン・ティエップ人類学部長を中心に討議。 WTO 加盟とグローバリゼーション、対仏・対米戦争におけるベトナム共産党の役割、格差と住宅問題、儒教精神などをめぐり話し合いが行われた。

5 日 (土) 曇り。 10:30 ベトナム航空 218 便にてホーチミン空港発。 12:30 ハノイ空港着。エアバス機で軽食も出され、快適な国内移動だった。ホライゾンホテルにチェックイン。午後、市内観光 (文廟、ホーチミン博物館) 。夜、ホアンキエム湖岸のレストランにて夕食。満月が美しかった。現地法人経営者の村山文雄氏、ベトナムガイド誌「ビナ BOO 」の芝きくよ女史が同席。

6 日 (日) 晴れ。 7:30 ホーチミン廟拝観。防腐処理を施されたホー・チ・ミンの遺体が補修のため翌日からモスクワに搬送され、約 2 ヶ月間この廟は閉館されるとのこと。午後は世界遺産ハロン湾見学。観光船を貸し切って 4 時間の贅沢なクルージングを堪能。船内で海産物の昼食、途中洞窟見学をする。ハノイ市内に戻り、歴史ある一軒家を改築したレストラン「シーズン」にて夕食。ベトナム・ソークレス株式会社の池田英知氏が同席。

7 日 (月) 晴れ。ホテルチェックアウト後、ベトナム社会科学院を訪問。緊急に首相と会うことになったドー・ホアイ・ナム院長に代わって出席したヴォー・ハン・ヴィン副院長他 9 名の皆さんが歓迎。中央政府のみならず地方政府の政策策定を行い、経済発展に寄与し、大学院レベルの人材育成に取り組まれているとの紹介があった。ベトナムの交通戦争、エネルギー不足、中越関係、日本の民主党政権とアジアなどについて活発な論議が行われた。通訳はヴー・ティ・ホン・ミン女史。昼食にベトナムのフォーをいただいた後、午後双日株式会社アジア・大洋州副総支配人の渡邊理史氏とベトナムと日本の経済関係等について懇談。在ベトナム日本国大使館を表敬訪問し、眞鍋寛参事官と会談。外務省、大使館、 NGO の文化交流における役割、資金協力援助について貴重なアドバイスをいただいた。夜、ハノイ空港内の海鮮レストランで夕食。馬場、村山女史に別れを告げて 23:29 日本航空 752 便にてハノイ発。

8 日 (火) 曇り。 6:29 成田着。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名無事帰国。解散。

最後に今回のベトナム訪問の所感を述べたい。

  • ベトナムの国慶節記念週間及び大学の夏休み期間にもかかわらず、多くの研究者との学術交流が実現し、今後の一層の交流促進を固く約し合うことが出来た。
  • 今回の学術交流は全てベトナム語と日本語の専門通訳 3 名を介して行われた。
  • 短期間に現地社会で活躍されている方々から有益な情報を得ることが出来た。
  • 今回は 8 名 (会員 5 名・非会員 3 名/ 男性 4 名・女性 4 名) の参加だったが、コストパフォーマンスに優れ、移動・食事等の点で適正人数であった。また全員がそれぞれの役割を全うし、密度の高い充実したベトナム訪問だった。

ベトナム訪問を終えて

中西 治

私たちの地球宇宙平和研究所代表団が 2009 年 9 月 1 日から 8 日間ベトナム社会主義共和国を訪問し、無事けさ帰国しました。

代表団はホーチミン (旧サイゴン) 市でバンラン大学と人文社会科学大学、首都ハノイでベトナム社会科学院を訪れ、ベトナムの現状と将来、日本の現状と日本・ベトナム関係、私たちの研究所とベトナムの大学・研究所との今後の交流について意見を交換しました。

障害者の施設や日本語を教える小・中学校を見学し、現地で活躍する日本人実業家の方々、総領事館と大使館の外交官の方々から種々お教えをいただきました。

ベトナム戦争中のホーチミン市近郊の戦場クチで、小柄なベトナム人が一人やっと通れるような狭いトンネルをくぐりました。戦争証跡博物館、水上人形劇をみました。ホーチミン廟を訪れ、ハロン湾を船で巡航し、世界遺産の景観を身近に見ました。自然がつくり出した美しさに心を打たれました。

街はオートバイで溢れています。次々と押し寄せるオートバイと自動車と自転車の大波があっという間に大洪水となり、街を埋め尽くします。それでもこれらの車は奇跡的に流れていました。私たちの自動車の運転手が危うく衝突しそうになった二人乗りのオートバイの男女に「死にたいのか」とどなっていました。私たちの車の運転手の一人も出勤途中のバイクの事故で右手の各所に擦り傷を負いながら、左手だけで右手をかばいつつ運転をしていました。人々は命がけで車に乗っています。生きています。

私はかつて東京で、北京で、上海で、武漢で交通の大渋滞を見ました。ベトナムはそれらをはるかに超えています。

200 万都市サイゴンが短期間に急速に 800 万都市ホーチミンに発展しました。急激な都市化に対策は追いついていません。交通戦争です。いまはオートバイですが、いずれ間もなく自動車です。この戦争はまだ拡大します。この戦争に勝つことが現在のベトナムの最大の課題です。ハノイの社会科学院でこの問題も取り上げました。道路の拡幅、市内環状高速道路網の建設、公共交通機関の拡充、地下鉄の建設、都市機能の分散・移転などの抜本的対策が必要です。

日本も中国も交通戦争に勝利しつつあります。米国との戦争に勝ったベトナム人民も、交通戦争に勝利するでしょう。クチでトンネルを掘ったベトナム人民です。ホーチミンでも、ハノイでも「アナ (坑) 」を掘って勝利するでしょう。

ベトナムは矛盾に満ちています。矛盾は発展の源です。ベトナムは大発展するでしょう。

ベトナム人民の平和と幸せ、日本人民との平和と友好を願っています。

私たちの研究所の活動の幅を広げようと思っています。

2009 年 9 月 8 日 17 時
ベトナムから帰国した日に

ベトナム社会主義共和国訪問にあたって

中西 治

台風一過、太陽が出てきました。

私たちの研究所代表団8人が本日、2009年9月1日から8日まで8日間ベトナム社会主義共和国を訪問します。

私たちの研究所は2001年に設立以来、中国に2回、朝鮮・中国に1回、キューバに2回、計5回、外国を訪ねました。

今回のベトナム訪問は6回目の外国訪問です。

ベトナムではホーチミン(旧サイゴン)市でバンラン大学、社会科学人文大学、小学校、知的障害児施設を訪ねます。首都ハノイではべトナム社会科学院を訪れ、Do Hoai Nam院長とお会いします。

日本では2009年8月30日の衆議院議員選挙の結果、1955年体制が崩壊し、2009年体制が発足しました。

新しい時代が始まりました。

平和な、物心ともに豊かな、幸せな時代に出来るか否かは日本に住む人々の意志と行動に掛かっています。

私たちの研究所は平和な社会をつくるために努力します。

ともに初秋の良い日々を!

2009年9月1日
ベトナムに旅立つ朝に

ベトナム戦争を遠く離れて

わたなべ ひろし

先月行なわれた当研究所の総会記念講演で、東大の古田元夫教授のお話しを聞かせていただいた。古田さんの専門はベトナムとのこと。

古田さんのお話しによれば、2000年以降のベトナムの経済成長は著しいものがあるようで、平均成長率は8%に達するという。そしてベトナムの経済成長の特徴として、古田さんは外資の流入とIT化を上げていた。これが両輪となって、ベトナムを「貧困な発展途上国」から「現代的な工業国」へと押し上げているということであった。

僕などが特に面白かったのは、現在のベトナムは社会主義か否かという点についての古田さんのお話しであった。ベトナム自身は、自分たちの経済を「社会主義指向の市場経済」と規定しているそうだが、いかにも苦しい感じ。一方、古田さんもベトナムを社会主義国として定義づけておられるのだが、その理由はといえば、資本主義以外の選択肢が存在しない現在の世界において、「あえて」(このカギ括弧は古田さんのレジメより)社会主義の国号を名乗っているのであるから、それは社会主義とみなしてよいのではないかというものであった(と思う)。

古田さんのような良い方(スミマセン、そうお見受け致しましたもので)に、ベトナムはがんばって社会主義を名乗っているのだからそれを認めてあげようと言われても、当のベトナムの「社会主義者」の方々は、非常に複雑な思いを抱くのではないだろうか。

1960年代、ベトナム戦争と向き合うことで(古田さんなどもそのお一人であったのだろう)、日本の反戦平和の思想がどれほど「豊か」なものになったことか、僕はベトナムと聞くとまずこのことを考える。そのことで、いわゆる「アジア」というものが僕たち日本人の視野に入ってくるようになり、それまでの被害者意識に立った「戦争体験」に依拠していた日本人の反戦平和意識というものが、自分たちのかつてのアジア侵略に対する加害者責任を伴ったものへと転換していく重要な契機となったと思うからである。

そして、例えば米国の日本研究者であるトーマス・ヘイブンズの『海の向こうの火事―ベトナム戦争と日本1965-1975』などを読むと、当時の「ベ平連」などに代表される日本の反戦運動が、米国で展開されていたベトナム反戦運動からどれほど多くのことを学んでいたかということがよく分かる。戦後の日本の「平和」は、日本一国のみで成立したわけでは決してないのである。

2008年の現在から、ベトナム戦争に関連してある種の感慨を持って思い出すのは、1971年のニクソン米大統領による、いわゆる「ドル・ショック」である。

米国はベトナム戦争の戦費を賄うためドルを垂れ流し、その結果国際基軸通貨としての信用を失い、金との交換停止を宣言することで、為替が固定相場制から変動相場制へと移行する。そしてこの変動相場制による為替市場の出現と、その後のITの発達を背景として、90年代以降の金融市場至上主義のグローバリゼーションが出来することになった。

古田さんが言うように、現在のベトナムの経済成長を支えているのが外資の流入とIT化であるとすると、そもそもそれをもたらしたグローバリゼーションそのものを生み出す遠因を作り出したのがベトナム自身なのであるから、現在の彼等の経済成長もむべなるかなということなのかもしれない。

ベトナムの今 ~ストライキに泣く日系ベトナム企業~

野津 志乃

2008年1月ホーチミン市近郊のT工業団地は異様な雰囲気に包まれていた。先日も私の働く会社の近くのいくつかの工場で路上に多くの工員さん何百と集まり、公安も駆けつけるほどの状態になっていた。

http://www.nld.com.vn/tintuc/cong-doan/213766.asp
http://www.nld.com.vn/tintuc/cong-doan/213621.asp

ここ2,3年急激に世界の注目がベトナムに集まっている。去年WTOに加盟指定から特に投資が盛んになってベトナム株が急騰。

ホーチミン市とハノイ市で、オフィス、高級マンション、小売用地など各種不動産の賃貸料が急上昇している。地価も上がり、土地成金、株成金が増え、お金持ちのベトナム人が増え、外資の高級デパートで買い物をする人が増えた。高級車に乗るベトナム人も増えた。

それに伴って物価も急騰。2007年は年間で12.63%UP (2006年12月比)、過去11年で最高となった。ほぼ全ての品目で上昇したが、最も高かったのがCPI算出品目で最大の割合を占める食品で、前月比4.69%上昇、年間では21.16%上昇となっている。地価とガソリン、そして食品の値上げが生活を直撃している。ホーチミンに住んでいる低所得者の生活は苦しい。

またホーチミンの最低賃金が2008年1月より引き上げられた。外資系の企業、工場の最低賃金はベトナム企業より高く設定されており、100万ドン(62.5$)になった。

2008年1月の消費者物価指数 (CPI) 上昇率は前月比2.38%、昨年同期比14.11%と非常に高かった。

そのような状況の中で多くの日系製造業の会社で多くのストライキが発生するにいたった。台湾系の会社等は人件費が高騰し採算が取れなくなれば撤退する会社もあるが、日系はある程度余裕があるため賃上げができることあり、狙い撃ちされている感がある。工業団地では一社がストライキを起こせば連鎖的に近隣に広がる。一旦賃金改定に関して決着したいたが、近隣のストライキに刺激され再度ワーカーから賃上げ要求がなされ再ストライキといった事態もある。これはベトナム特有の問題もある。基本給から手当の額までお互いにすぐに見せ合い比較するからだ。

また一党独裁のベトナム政府は物価上昇による生活苦から国民の不満が政府に向かうことを恐れているように感じる。そのため、政府は意図的に労働者側に立ち、物価上昇にともなって賃上げをしない企業側に今回の問題があるというスタンスをとっている。新聞などでも物価上昇による労働者の生活苦と企業の待遇の悪さが書き立てられる。しかしその記事は誇張や誤り、うそがある。扇動的に感じる。

2月7日はベトナム旧正月。多くの労働者が田舎に帰郷し始め、工業地区は落ち着きを取り戻しつつある。旧正月が終わり、労働者が都市部に戻ってきた後、現在の状況がどういう方向に向かうのか注目したい。