ビジネス」タグアーカイブ

コミュニケーションの市場化

わたなべ ひろし

たまに休みの日曜日、2才になる息子をベビーカーに乗せて近所を散歩などしていると、見知らぬお年寄りがすれ違いざま、息子に笑顔をみせながら「こんにちは」と声をかけてくることがよくある。

僕の中にある、コミュニティとかコミュニケーションの、最もピュアなイメージがこれである。

数年前から「社会関係資本」(social capital)という言葉を耳にするようになった。米国の政治学者であるロバート・パットナムが提起している術語とのこと。前々からこの言葉が妙に気になっていたのでインターネットで検索してみると、有るわあるわ、特に政府系シンクタンクや大手「総研」のHPなどにこの言葉はひしめいていた。それらのHPからこの言葉の内容を推し量ってみると、「信頼、規範、ネットワークといった人と人とのつながりを『資本』として考える」というもののようだ。そして、こういう人と人とのつながりである「信頼」や「規範」に支えられていない「経済」は脆弱なので、これら「社会関係資本」の涵養が必要だと、どのHP上でも判を押したように述べられていた。

僕はパットナムのテキストを読んでいないので、彼がどういう意図でこの術語を提起しているのかは知らない。ただしこの言葉をさかんに持ち上げている、政府系シンクタンクや大手総研の意図は明確である。それは「信頼、規範、ネットワーク」といった、本来無形である人と人とのつながりを、「日本経済の市場機能強化への統合戦略」(ある総研の報告書タイトル)の下、「社会関係資本」として有形化し、取り込んでいこうということなのだ。

まぁようするに、子供の散歩のとき見知らぬおばあちゃんに挨拶されることや、日頃の近所づきあいといったものを、「市場機能強化」のための有用なツールとして、それこそ「予算」を組んで「再編成」していこうというわけだ。これって、今後の教育の使命は、単なる知識の詰め込みではなく、「国を愛する心」の涵養であるとして、そのためのカリキュラム編成や宗教本まがいの副読本を配布するのと同じ発想だ。

そもそも「信頼」や「規範」といった人と人とのつながりというものを、「社会関係資本」などという言葉で取り出し、「市場機能強化」のために「有効に」活用していこうなどという考え方そのものが、それこそ「信頼」や「規範」といった人と人とのつながりを擦り減らしているのだということに、なぜ気がつかないのであろうか。

挨拶や近所づきあいなどというものは、なにも「資本」として「市場化」されようと思って残っているわけではない。人間社会にとって必要だから、残るべくして残っているのである。こういうものを「文化」という。

「市場機能の強化」などという謳い文句によって、現在ますます拡大している「市場機能の危険なまでの肥大化」=「市場の一人歩き」というものを、ギリギリのところで抑制してくれているのが、むしろこれら無形のコミュニケーションやコミュニティ的なものなのである。それなのにこれに手を突っ込み、「社会関係資本」などという形で、市場化のため、無神経に再編成などされたりしたら、それこそいっぺんで堰を切ったように「市場の暴走」は加速することになるに違いない。

なんだか守旧派の文化保守主義みたいな論調になってしまった。

ところでここまで書いてきて気が付いたことがある。

僕たち日本社会に住む者は、戦後60年、無形のコミュニケーションやコミュニティ的なものとして、つまり「文化」として、戦後日本特有の「平和」価値を育み育ててきた。上で人と人とのつながりとして言及されていた「信頼、規範、ネットワーク」というものは、そのまま戦後の「平和」価値の重要な核心として当てはまるものである。この両者は非常に親和性があるものなのだ。

「憲法」に象徴される「戦後民主主義と平和」を虚妄とし、改憲することで戦争の出来る「普通の国」にしようとしていることと、コミュニケーションやコミュニティ的なものを社会関係資本として市場化していこうとしていることとは、密接に関連しているのではないか。

こういうところからも、平和を支える社会的基盤は侵食されていっているのである。

エッセイ15 労働の量と質に応じた分配

木村 英亮

日本は国民中流階級で、貧富の差が少ない。もっと、努力するものが報いられるようにしなくては、発展がない。競争原理を導入し、実力社会にしなくて はならない、といわれている。官庁の給与体系は、年功制になっているし、会社でも長く働いていると、上がっていくようになっていた。アメリカは、非常に競争が激しく、それが発展の原動力になってきた。わたしは、競争によって実力と努力にみあった報酬をうるという考え方には賛成であるが、その差があまり大きくならないようにすべきであると思う。 人間には生まれつきの能力の差というものもあり、それによって一生の収入が決まってしまうのは公正ではないように思う。また、身障者は、大きなハンディを負っている。

社会主義時代のソ連では、賃金は

  1. 労働の量(継続時間、強度、緊張度をふくむ)、
  2. 労働の苦痛度(エネルギー消費が多いのでその補填、人の嫌がる職場に労働力供給を確保するため)、
  3. 複雑度(熟練、資格の向上のための刺激)、
  4. 国民経済的重要度(重要産業への優良労働力の確保)、
  5. 地域手当(労働力の維持・再生産費の差異の補填、たとえば寒冷地の暖房費など)

を総合して定められていた。5を除き、同一労働は同一賃金である。共産主義社会にいたれば、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るとなるが、社会主義の段階では、労働に応じて受け取る。ただし、社会主義の段階でも、医療、教育、食糧は保障される。

会社とサラリーマンはどのように変わったのか

わたなべ ひろし

ビジネスセミナーで、渋谷109に出店しているブランドショプの社長の話しを聞いたことがある。このショプの売り上げは当時とても好調ということで、セミナー参加者がそのあたりのことを質問したところ、その社長さんは大要次のように答えていた。

「私どもはマーケティングの類は一切行なっておりません。そんなことをしなくても、お店のある渋谷109周辺を毎日観察しておれば、お客様(10代後半~20代前半の女性)の間で何が流行っているかすぐわかります。当方はその流行に合わせて商品を作れば良いわけで、私ども独特のデザインを開発して流行を生み出すなどというつもりは、最初から持っておりません。」

今の日本企業における人の採用のスタンスも、このブランドショップの商品開発のスタンスとよく似ている。つまり、すでに技術や営業先(顧客)を持っている「即戦力」、ということはつまり他社が育てた「人材」を中途採用や派遣社員で採用し、賞味期限が切れたらそれでおしまい。この就職難、替わりはいくらでも労働市場から調達できる。自社で人を育てるという意識など最初から持っていない。

僕がサラリーマンになった1990年頃の会社は、こんな感じではなかった。

その頃、仕事で50人ぐらいのサラリーマンにインタビューをして歩いたことがあった。1990年頃といえば、いまだ「バブル経済」華やかなりし頃で、「世界に冠たる日本企業の生産性の良さ」といった神話がまことしやかに流布していた。しかし実際企業の現場で数多くのサラリーマンに会って話しをきいてみると、いかに企業内の仕事量というものが、不均等に配分されているかということを痛感したのをおぼえている。会社の要所要所で、自分の仕事とはあまり関係ないような、しかしその会社にとっては間違いなく必要な仕事を、それこそ身を粉にして「勝手に」やっている一部の社員がいるからこそ、「世界に冠たる日本企業の生産性の良さ」などというものが成り立っているのだということを、そのとき知った。

しかし2005年の現在、会社というものも変わった。身を粉にして働いている人は以前よりも増えたかもしれないが、それはあくまでも自分の数字のためだけである。

だいたいサラリーマンの「仕事」などというものは、最終的には売上金額という数字に換算されて評価されるわけであるが、そこに至る過程は、そりゃもう多種多様さまざまなレベルの雑務の複合体であり、期限と予算があるから完了しているようなものの、完璧な「終了」などというものはなく、当人が何を自分の「仕事」として了解するか、その内容で個々人の仕事は量的にも質的にも全く異なってくるのである。

各自が自分の目先の数字が上がる仕事しかしない、そういう社員だけの会社・組織などというものが果たして成立するものなのかどうか。

この15年間で、解雇(辞職)に対するハードルは、企業慣例・企業風土の面でも、法的・制度的にも、個々人の意識の上でも、極めて低くなった。本当に会社は「簡単に」人を辞めさせるようになった。また社員の方も簡単に辞めるようになった。どうせ辞めるのならば、何も人の仕事まで背負い込んでやっていられるかと思うのはしょうがないことなのであろう。しかしそういう働き方では、仕事というものが本来持っている自分の人生に対する意味、とでもいったものは細るばかりである。

給与労働者、いわゆる月給取りというのは、労働人口の8割を占めている。僕が就職した頃は、何か他によっぽどやりたいということがなければ、とりあえず皆サラリーマンになったのである。しかし今の時代、なりたい人が「努力と才能」の結果初めてなれるものに、サラリーマンが変わったということなのであろう。これって、当り前といえば当り前のことではある。日本のサラリーマンも、ようやく「真っ当な仕事」になっただけのことなのだろう。それはそれで良い。しかしそれでは、サラリーマンになれなかった人間、努力したが追いつかなかった人間は、どうすればよいのであろうか。それは100%その個人の問題ということで構わないのであろうか。

「自己の完成をあせる人間は、他人の人生には冷淡である。」これは中国文学者の吉川幸次郎さんの言葉である。

マーケット・メンタリティ

わたなべ ひろし

平日の深夜などにテレビのチャンネルを変えていると、ときおりテレビ東京の経済ニュース番組で小谷真生子さんを見かける。10年ぐらい前、彼女は 「ニュースステーション」に準レギュラー出演していて、久米宏さんの隣りでステキに知的な笑顔を見せていたのを憶えているが、このテレビ東京の番組ではメ インキャスターを勤めており、いつも眉間に3本ぐらいのシワを寄せて、横にいるナントカ総研のおじさんを相手に、「それではこの点に関して、マーケットは どのように反応すると思われますか?」とかきいている。

株には手をださないようにというのは僕の両親の遺言でもあるのだが、そんな小谷さんの「変貌」を見るにつけ、彼女を変えてしまった「マーケット」などというものとは、一生かかわりあいになりたくはないものだと思っていた。

しかし現在進行している金融市場による世界の一体化は凄まじいものがあるようだ。英国の社会学者であるロナルド・ドーアさんによると、国際貿易取引額と外国為替取引額の比率は1対200であるという。つまり、一所懸命モノを作ったり売ったり買ったりした「実経済」の200倍ものマネーが、思惑だけで投機的に世界中を徘徊しているのだ。

なんにしても実経済の200倍の規模である。この国際金融市場の獲得を目指し各国はしのぎをけずっており、そして自国の投資環境を整えることが、現在では国家の重要な役割となっている。

そう考えれば、ブッシュ大統領のイラク侵攻も含めた数々の「マッチョ」な対外政策にしても、どう見てもブッシュ大統領よりは頭の良さそうな英国のブレア 首相の対米追随姿勢にしても、またロシアのプーチン大統領のチェチェン問題を始めとする強気の政策にしても、その幾分かは自国の投資環境の整備の一環とい うことなのかもしれない。

つまり、今世界中の政治家にとって、有権者の他にもうひとつ顔を向けておかなければいけない相手として、「マーケット」というものがあるということであ る。そして政治家である彼(彼女)らにとって必要な資質とは、「強気の一貫性」ということのようだ。決して「マーケット」に不安を与えてはいけないのである。

そしてわが小泉純一郎首相である。まだ解散が決まる前、次のような雑誌のコラムを目にした。

解散・総選挙の結果、小泉純一郎首相が指導力を喪失した場合、海外を含む市場の目が財政危機に向くリスクが高まる。膨大な公債発行残高に 加え、基礎的財政収支の黒字化のメドさえつかない悲惨な状況の暴発を防ぎ、長期金利の上昇を抑えているのは、構造改革によって小さな政府を実現すると言い 続ける、小泉首相のぶれない姿勢にかかるところが大きい。(『週刊ダイヤモンド』2005年8月5日号 p7)

このコラム氏によれば、「独裁的といわれる小泉首相の手法」は、「官僚と自民党族議員が結び付き、そこに総理総裁が乗るというボトム アップ型の政策意思決定システム」を改革するための「必然」だとのこと。もちろんこのコラムの主旨は構造改革を支持するものであるし、「独裁的といわれる 小泉首相の手法」を、「海外を含む市場の目」に対して「ぶれない姿勢」を示すものとして評価しているのである。

金融関係の「専門家」たちによる、このような小泉評価は一般的のようで、その後テレビや新聞で何度も目にした。

僕はこのような小泉評価は、賛同はできないが納得はできる。

「マーケット」にとって、例えば靖国もイラクも憲法も善悪の問題ではない。損得(投機)の判断材料としてのみ意味がある。そして実際に投 資をやるかやらないかはともかく、こういうメンタリティをもった人たちは確実に増えているのではないだろうか。そもそもそういう方面のセンスや知識を幾分 かでも持ち合わせていなければ、普通の日常生活を送ることにも支障をきたすような方向に、社会そのものがむかっているのであるから。

戦争や平和というものが社会の中で語られる文脈というか、基盤そのものが変わってきているということを、最近とくに強く感じる。

今の日本で働くということ

わたなべ ひろし

最近帰りの電車で、まぁ10回に8回ぐらいの割合で見かけるひとがいる。帰りの電車といっても、7時頃から11時の範囲で同じ電車に乗っているわけではない。そのひとは網棚の雑誌を集めて回っているのだ。いつも雑誌の入った大きな袋を2つから3つ提げながら、視線を網棚に上げて、一心不乱に車内を歩いている。混んでいてもいっさいお構いなしだ。

そういえば、新宿や池袋の駅の周辺で、当日やせいぜい前日発売の雑誌をビニールシートか何かに広げて、一律100円で売っているオッチャンたちが増えたような気がする。僕も最近はこの「店舗」のお世話になることが増えてきた。網棚から集められた雑誌も、こういう形で売られることになるのだろう。もちろんこれも商品なので、網棚に残っていればどんな雑誌でも良いというわけではなく、手にとって一生懸命状態をチェックしていた。回収されること無く網棚に戻される確率は、僕の見た範囲では4割から5割と、なかなか品質には厳しいようであった。

生来の性根の卑しさもあるのだろうが、この雑誌回収のひとに限らず、近頃ひと様の仕事というか、生業がみょうに気になってしかたがない。でもこれは僕ひとりのことでは無いようだ。先日吾妻ひでおさんの『失踪日記』というマンガを読んでいてそう思った。

『失踪日記』の内容を簡単に紹介すると、仕事のストレスから鬱病になり失踪、路上生活者や配管作業員を経験し、最後はアルコール依存症で精神病院に隔離入院という、極めてハードな体験を軽いタッチで描いている。これに「過労死」と「自殺」(不謹慎ですみません)が加われば、今のサラリーマンをとりまいている「不安アイテム」が全て揃う。

この本が売れているという。ある書評誌によれば、自分のあり得る姿を投影し、怖いもの見たさで読んでいるサラリーマンも多いのではないかとあった。僕が網棚の雑誌回収をしている彼のことが気になるのも、これと同じことなのだろうか。

ここ10年ほどの間に労働市場の自由化(流動化)は、大幅に進んでいる。ここで言う労働市場の自由化(流動化)とは、就業機会の多様化ということもあるかもしれないが、ようするに景気・不景気といった世の中の動きに合わせて、雇用者が労働者を「自由」にできるということで、それを制度化したものが「派遣社員」であろう。

新聞によれば、大手スーパー各社のパート・アルバイトの構成比は77%に上るという。これはすごい数字である。400万人のフリーターが問題だとか言っているが、何のことは無い、そういう人たちの存在を前提として、多くの企業の仕組みが出来あがっているのだ。 フリーターと言われる人たちの生涯所得は、正規の従業員の4割から6割だそうである。

米国のクリントン政権で労働長官をつとめたロバート・ライシュは、1991年の自著の中で、これからの労働者を「ルーティン生産サービス」「対人サービス」「シンボリック・アナリスト」の3つに分けている。

「ルーティン生産サービス」と「対人サービス」は、単純なルーティン作業が中心の職種で、賃金は労働時間や仕事量によって決定される。必要とされるのは、読み書きと簡単な計算、信頼性、忠誠心、対応能力といった能力である。一方「シンボル・アナリスト」は、標準化された商品ではなくデータや言語、音声、映像表現などのシンボル操作を行なう、いわゆる「専門家」と言われるひとたちだという。

要するにライシュは、今後の労働形態は、大多数のルーティンワーク労働者と、ごく僅かの「知識」労働者に分れると言っているのである。僕は日本の雇用形態というか、就業構造は、前述のスーパー業界の例を見てもこの通り進んでいると思う。

今働いているこの仕事以外に、収入ややりがいなど、自分をもっと活かせる仕事が他にあり、その仕事と出会えるために常に自身の「市場価値」を高める努力をする必要があると声高に言われる一方で、もしかしたら網棚にある雑誌の回収や路上生活者は自分の明日の姿かもしれないというリアルな不安と、この両者の振り幅の中で日々の仕事に従事しているというのが、現在のサラリーマンの多数なのだろうか。しかもそのいずれにころぼうが、それは「自己責任」だというのだ。

こういうのって、働く側は肉体的にも精神的にもたまらないが、雇用する側にすれば非常に都合の良い環境なのではないだろうか。これが労働市場の自由化(流動化)を支えている背景である。

網棚の雑誌を物色する彼の姿を横目で気にする日々はまだまだ続きそうである。

ビジネス社会の「人間観」

わたなべ ひろし

今年の2月、初めて「管理職研修」なるものを業務命令で受講した。主催はビジネスマン教育で有名なSN大学である。研修内容はともかく、講師であるコンサルタントの先生が合間あいまに開陳するコメントが僕などにはとてもおもしろかった。

例えばこんなふうである。

「自分の周囲で起こっていることは、どんなささいなことでもその全てが自分に対する問いかけだと思った方が良い。その問いかけに答えていくことが人生というものです。」

「自分の主体性こそが、最良の問題解決のための方法です。」

「マネージメントとは、他者との信頼関係を結ぶ能力のことです。そして他者との信頼関係を結びたいと思ったら、まず自分自身を徹底的に見つめなおしてみることが必要です。自分自身を真に分かっていない人に、他人との信頼関係は築けません。」

講師によるこれらの「人生哲学」を聞き、根がこういうものを嫌いではない自分などは「ビジネスマン研修恐るべし」とすっかり感心してそのときは帰ってきた。

最近仕事の関係で、いわゆるビジネス書やビジネス雑誌と言われるものにまとめて目を通す機会があった。そこで僕の目に入ってきたのは、「自己実現」 やら「主体性の創造」やら「自身の存在意義」といった、それこそひと昔前なら左翼雑誌(古いねどうも)でお見受けするような大量の言葉たちであった。その とき僕は思った。これはビジネス社会における「人間観」の表出なのではないか、こういうものを提示して常にビジネスマン=労働者たちに自分の仕事の意味や 生き方を説き、与えていかなければ、現在のビジネス社会=資本主義そのものが立ち行かなくなってしまうからこういうものが大量に氾濫しているのではない か、と。

それはこういうことである。よく「自分探し」などといわれるが、高度資本主義社会というものの特徴のひとつは、「仕事と人生の意味づけへの執拗な問 いかけ」の一般化だと僕は考えている。この社会に属する多くの人たちは、自分の人生にとって仕事はどのような意味があるのか、自分の「アイデンティティ」 の確立を可能にするような仕事とは何か、ということを、切実に考えながら日々を過ごしている(かくいう僕もその一人である)。そして現状の資本主義社会が 高度の情報化、サービス産業化、知識社会化に依拠していることと、それは密接に関連していると思う。このような社会では、自分が日々行っていることが、果 たしてどれ程「仕事」の体をなしているのかおよそおぼつかなく感じてしまうからである。

そしてビジネス雑誌やビジネス書などで展開されている「人間観」などは、この高度資本主義社会において悩み多きビジネスマン=労働者たちに対する資本の側 からの回答であり、メンテナンスの一環なのである。ストレスの少ない鶏や豚の肉は美味しいとか言うが、まさにそれだ。そう考えれば、僕が受講した管理職研 修なども、そのときは「なかなか言うことが深いなぁ」と感心させられたのであるが、深いのも当たり前の話で、まさにそこは現在のビジネス社会=資本主義に とっては、自己の存続をかけた最前線であったというわけである。

考えてみればこのような「仕事と人生の問い」に対して、例えば資本主義を批判する側である労働組合などは、訴求力のある魅力的な「人間観」を打ち出 せていないのではないだろうか。そしてそこに労働運動の現状の衰退をもたらした一因があるのではないか。 さらにこのことは平和や護憲を訴える私たちの主張や運動にも言えることだと思う。いかなる「人間観」に基づいて平和や護憲を訴えているのか、そしてそのこ とが各個人の具体的な幸福や生きがいとどのように結びついてくるのか、こういう問いに答えられる、というかそもそもこういう問いから始めている平和論や護 憲運動が果たしてどれほどあるのだろうか。

平和学と言っても、それはいかなる「人間観」を提示することができるのかということに尽きると僕は確信している。

「市場の発見」から「市場の創造」へ

わたなべ ひろし

自分の仕事柄、マーケティング、あるいはマーケティングリサーチという言葉を、日常頻繁に聞いたり使ったりしている。「市場調査」とでも訳すのだろうか。しかし、まぁ大多数のサラリーマンなら日本語などに訳す必要などないくらい、一般化している言葉だろう。マーケティングというと、ちょっと前までは「市場(マーケット)の発見をその目的とする行為」として、広く認知されていた気がする。ニーズはあるがまだまだ未開拓の潜在的市場を探し出し、そのニーズに見合った商品やサービスを開発すれば、当然ヒット間違いなしというわけだ。

しかし近年は、このような「市場の発見」から一歩進んで(?)、「市場の創造を目的とした行為」とでもいったニュアンスに、マーケティングの持つ意味合いが変わってきた。例えば社団法人日本マーケティング協会などは、その綱領の中でマーケティングを「市場の創造」と明確に定義している。つまり未開拓の潜在的市場などといったものはもはや存在しない、あるいはそんなあるのか無いのか確証性の低いものに頼るのではなく、自分たちで市場やニーズを創り出し、そこで自分たちの商品やサービスを作ったり売ったりしていこうというのである。自分たちで「創った」市場やニーズで、自分たちが作ったものを売るのであるから、こんな確かなことはない。

その結果どういうことが起こったかというと、あらゆる階層、あらゆる年代の24時間、365日、人生すべてが、様々な局面に細分化され、市場、つまり自分たちの作った商品やサービスを買わせる(売るではない!)対象として、常に意識化されていくことになる。そして、伝統、地域性、モラル、愛情、歴史、公共性等々といった、誰かが恣意的に作ったのではなく結果としてひとが社会や共同体を形成していく上で必要でありその目的で長い時間をかけて鍛え上げられ残ってきたこれらのものでさえ、「市場創出」のための一要素として意識され、有効とあらば動員されていく。

かくて少なくともビジネスの世界においては、偶然性や結果論が入る余地は次第に無くなっていき、人間存在のすみずみにわたってその全てが、「顧客」として操作すべき管理対象となるのである。そして最近痛感するのは、この「市場の発見」から「市場の創造」へというマーケティングの指向性が、ビジネスの世界だけではなく、政治や軍事にも適応されてきているということである。例えばそれは米国のイラク侵攻にいたるプロセスをみれば、よくわかることであろう。「市場のニーズが無ければ自分たちで創り出せ!」である。(更に、先日の当コラムにおける岩木さんの文章を読んで僕が感じたことも、戦争行為におけるマーケティング感覚とでもいうものであった。)

さて問題はここからである。現在世界中を席巻している、ネオリベラリズと呼ばれる潮流の本質は「市場至上主義」とでもいうもので、僕なりに解釈すれば、それは人間の恣意性(社会主義的に言えば計画性)にではなく、「神の手」たる「市場」に最終的な判断を委ねるということである。ここにも「市場(マーケット)」が出てくる。先の創出対象の「市場」が「小文字の市場」であるならば、この「神の手」である「市場」は「大文字の市場」とでも言えようか。各企業や大国がありとあらゆるものを利用し、動員して、自分たちに都合のよい「市場」を創出し、すみずみにわたって管理し、自分たちの意のままになるようにしても、それを委ねる先が「神の手」という人知による管理対象の対極にあるこれまた「市場」だというのだ。

こうして人間の歴史は、偶然性や不可視性の跋扈する時代へと、振り出しにもどることになる。

二酔人四方山問答(1)

岩木 秀樹

学生時代同級生だったA君とB君は考え方やバックボーンもどこか違うが、何故か気が合い、今日もまた酒を飲みながら様々な四方山話で盛り上がっている。A君は国際問題やイスラーム情勢に詳しい大学院生で、B君は会社員である。

B:最近イラク情勢の記事は一時期のことを思えば、あまり目に付かなくなったね。だいぶ安定してきているのかな。

A:そんなことないよ。むしろ治安は悪化している。4月末にイラク移行政府が発足し、シーア派とクルド人が実権を握ったことから、旧政権で実力を持っていたスンニ派の中の過激なグループや外国人勢力の活動が活発化している。移行政府発足後の死者は5月末で米兵49人を含めた610人にのぼるとされているよ。

B:へーそんなに!

A:その上、イラク人の死者数はきちんとカウントされてないんだ。5月29日には移行政府は国軍4万人を動員してバグダードを包囲し、武装勢力を掃討する「バルク(稲妻)作戦」を開始した。それに対して首都周辺地域では武装勢力による自爆攻撃などが後を絶たず毎日のように多くの死者が出ているよ。

B:そういえば、ほら日本人で警備会社に勤めている人がイラクで拘束された事件はどうなったんだろう。はっきりしたことはわからないけど、絶望的だと報道されていたよ。今回は以前ボランティアで行った人たちと違って、自己責任論はあまり聞こえなかったようだけど。最初からあきらめムードだったからかなー。

A:それもあるかもしれないけれど、自衛隊出身者でアメリカ軍を支援する警備会社、いや民間軍事会社や戦争請負会社と言った方がいいかもしれないけれど、そのような背景があるからあまり政府も非難できなかったのかもしれない。

B:今回初めて知ったよ、そんな会社があるなんて。新聞には、今世紀に入って急に民間軍事会社が増え、現在100社近くあり、報酬も要人警護をすると1人1日20万円もらえると書いてあった。正規軍に所属する人がどんどんこちらに転職するわけだ。

A:しかも米軍にとっても都合がいいんだ。米軍兵士が亡くなると内外から強い反発を受けるし、大儀の無くなった戦争に米兵の士気は落ち、治安の悪化から米兵は疑心暗鬼になり全てが敵に見え、多くの民間人を殺害している。このような状況に民間軍事会社は渡りに船というわけだ。

B:正規軍の死傷者が多くなり、傭兵に頼り、さらに民間に委託する。最近、戦争の民営化とか戦争の外注化などと言われているね。民間軍事会社にとって、現在のイラクは魅力的な市場で、治安が悪化すればするほど、自社を高く売りつけられるという構図があるらしい。

A:そうだね。イラクの復興事業費は米国だけで2兆円近くで、このうちの20%前後が警備費に回されている。民間軍事会社は巨額の事業の受注を今か今かと待っている。さらに政治家もこれらの企業の顧問などをして、治安の悪化を金儲けの道具にしている。

B:それって、戦争商人じゃないの!

A:そうだよ。戦争の継続、治安の悪化を望む会社や政治家がいるのは確かだ。それが新たな戦争原因になり、戦争形態を変えているのも事実なんだ。