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Анна Политковская(アンナ・ポリトコフスカヤ)

宮川 真一

ロシアのチェチェン紛争でプーチン政権の弾圧政策を批判してきた著名な女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ(48)が今月7日、モスクワ市の自宅アパートのエレベーターの中で射殺体で発見された。ポリトコフスカヤは反クレムリン派の新聞『ノーバヤ・ガゼータ』の評論員であった。1999年からチェチェン紛争の取材で現地入りを重ね、ロシア連邦軍による無差別攻撃の実態を暴露する記事を発表し続けていた。ポリトコフスカヤの名を一躍有名にしたのが、2002年に発生したモスクワ劇場占拠事件である。

2002年10月23日午後9時頃、ロシアで大評判の初の国産ミュージカル「ノルド・オスト」を上演中のモスクワ南東の文化宮殿(劇場)に、多数の武装集団が突然侵入し、観客、出演者など858人の人質を取って立てこもった。この武装集団はモブサル・バラエフ野戦司令官が率いるチェチェン武装勢力で、女性18人を含む総勢およそ50人であった。ロシア国民は彼らを狂人とみなした。

夫とともに人質となったロシアの通信社「インテルファックス」に勤務するオリガ・チャルチャニックは、「武装グループは、チェチェンで起きている悲劇を私たち人質に話し、特に子どもたちがたくさん殺されていることを強調して、だからこういう行動をおこしたと説明してました」と述べている。劇中でパイロットの役を演じていた俳優マラット・アブドラヒムは、女性ゲリラたちと会話を交わした。その中の1人「16歳」の「ズーラ」は、「家族は、殺されました。戦争を止めさせてロシア軍がチェチェンから出て行くなら、私は死んでもいい。死にに来たんです」と語った。アブドラヒムは子どもや体の弱い人の釈放を要請したという。するとある女性ゲリラが言った。「私は生後1ヵ月の赤ちゃんを残してここにやってきました。そうしなきゃならないほどチェチェンでは子どもも老人も殺されているのよ。」また別の女性ゲリラは「あなたたちも少しは我慢しなさい。私たちはロシアが軍事侵攻してから8年間我慢しています。あなた方を悪くは思っていない。ロシア政府に戦争中止を呼びかけたいだけなの」と話したという。世論調査では、人質奪取の動機はチェチェン戦争か国際テロリズムかで拮抗している。

10月25日夜、事態が急変した。ワシントンでチェチェン問題の会議に参加していたポリトコフスカヤが急遽帰国し、武装集団との交渉を開始したのである。彼女が「あなたたちにも生き残ってほしい」と呼びかけると、バラエフは「われわれの目的は、戦争を止めさせること、ロシア軍を撤退させることだ。そのためにここに来たんだ。それができないならここで死ぬ」と声を荒立てた。「もっと要求を細かく出さないと解決しません」とのポリトコフスカヤの提案に、彼らは要求事項をノートに書き記した。それは「第1に大統領が戦争を止める意思を表明する。第2に、大統領発言から24時間以内にチェチェンのどの行政区域でもよいからロシア軍が撤退をはじめる。その動きが始まったことを国際監視員が確認する。この時点で人質を全員解放する」というものであった。ポリトコフスカヤはこの2つの条件を事件対策本部に伝えた。

人質の1人であったタチアーナ・ポポーヴァによれば、この交渉の後で武装ゲリラたちはどこかに旅立つ準備を始めた。荷物をまとめた後、彼らは互いに握手を交わし、抱き合ったりし始めた。舞台上の旗は引き降ろされ、丁寧にたたまれた。バラエフは舞台に上がり、幾分陽気とも思える調子でこう語った。「諸君に秘密を明かしてやろう。明朝11時には全てが解決するはずだ。連中は妥協し始めたようだ。我々の要求をのむことを承諾した。11時にカザンツェフが来ることになっている。もしも11時に万事が上手くいけば、諸君は全員生きたまま帰れる。俺が保証しよう。従って苛立つんじゃない。」

しかし、翌26日午前5時半頃、正体不明のガスが突然ホール内に入ってきた。そしてロシア内務省特殊部隊が劇場内に強行突入し、人質の大半を解放した。特殊部隊は武装グループの3人を逮捕、女性全員を含む残りを射殺、事件はおよそ58時間後に終息した。世論は劇場急襲という決定を支持している。モスクワ市のユーリー・ルシコフ市長はこの日正午すぎの報道で「ヴィクトル・カザンツェフが大統領の連邦南部地域における全権代表として、本日の10時に犯行グループとコンタクトする予定だった。我々はこの話し合いを平和的解決の体制の中で行おうとしていた」と語った。だが、武装集団は「不安定な心理状態に陥り、その状態の中で彼らは人質を殺害し始めた」と指摘し、これが強行突入の開始の原因となったと強調した。一般市民の64%はこの報道を鵜呑みにしているが、市長が真実を語っていないことはポポーヴァが証言している。「事件が起きた当時ホール内にいた人間の1人という立場から、私は、彼らが私達を公衆の面前で射殺しようとはしなかったと言わねばなりません。」モスクワ市が27日に発表したところでは、人質のうち銃弾による死者1人(これは偶発的な発砲で、処刑ではなかった)を除き、116人全員が特殊ガスを原因とする死亡であることが判明した。特殊ガスの使用はごく一部の医師に突入直前になって知らされただけで、救急病院のほとんどの医師は知らなかったという。従って解毒剤も用意されていなかった。それでもロシア市民はマスメディアを通した政治家たちの「ノルド・オスト」をめぐる言葉を信じる向きにある。

そもそも、この事件はロシア側の挑発だったことが明らかになりつつある。2003年4月28日付のロシア紙『ノーバヤ・ガゼータ』は、ポリトコフスカヤがハンパシャ・テルキバエフという30歳のチェチェン人からとったインタビューを掲載した。彼はこの占拠事件でゲリラの1人として襲撃に参加し、特殊部隊突入の寸前に姿を消した人物で、ロシア特務機関員である疑いが濃厚だ。彼はインタビュアーに「僕はチェチェン人たちのモスクワ入りをアレンジして、劇場に一緒に入った」と語っている。ポリトコフスカヤは次のように結論した。占拠事件の犯人グループの中には、テルキバエフらロシア特務機関員が混ざっていた。ロシア市民もうすうす気付いているように、事件の発生をロシア当局は予期していた。しかし予防しようとはしなかったのだ。2003年4月17日、ロシアのセルゲイ・ユシェンコフ下院議員が自宅前で暗殺された。元ロシア連邦保安局大佐のアレクサンドル・リトビネンコは「私はユシェンコフに、テルキバエフについての詳細なデータを渡した。彼はそのために処理されたのだ」と話している。テルキバエフもその後、交通事故で命を絶つのである。

(アンナ・ポリトコフスカヤ[三浦みどり訳]『チェチェンやめられない戦争』日本放送出版協会、2004年。)

1999年モスクワ連続爆弾テロ事件

宮川 真一

6月25日、またもやチェチェンがらみのおぞましいニュースが世界を駆け巡った。この戦闘の発端は7年前にさかのぼる。1999年8月末から9月中旬にかけて、モスクワのアパートを中心にロシア各地で連続爆破テロ事件が発生し、およそ300人が犠牲となった。ロシア側はこれをチェチェンの仕業と断定し、政府、メディア、ロシア正教会、知識人らが、揃ってチェチェン攻撃を主張した。これらの事件はロシア一般の人たちにも大きなショックを与え、この「戦争」を支持する世論が形成された。9月18日、ロシア軍がチェチェンに空爆を開始し、「第二次チェチェン戦争」に突入した。しかしながら9月22日、リャザンで大量爆発物を警察官が発見した。これは連邦保安局の職員が仕掛けたものであった。数々の事件現場も数日後にはブルドーザーで更地にされてしまっている。

今回の戦争は「プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」と故サハロフ博士夫人は証言する。有力紙「独立新聞」編集長トレチャコフは、チェチェン武装勢力のダゲスタン侵攻は「ロシア秘密機関の作戦で、しかも上層部で承認されたもの」と断定する。戦略センター所長ピオントコフスキーは「爆弾事件で警察は明確な証拠を出していない。この事件はチェチェン戦争で政治的に利用された。この事件で戦争に対する世論が大きく変わった。第一次戦争には世論の70%が反対したが、今回の戦争では違った。プーチンが大統領になったのも、この爆弾事件が利用された証拠だ」と語る。爆弾テロ事件の真犯人は今なお捕まっておらず、容疑者たちはチェチェン人ではなく、チェチェンで訓練を受けた外部の人間だったことも明らかになっている。人権活動家セルゲイ・コバリョフ下院議員は欧州評議会議員総会で、「北カフカスにおける主犯はロシア政府と軍首脳部である」と断じた。

チェチェンNGO「チェチェン母親協会」代表マディナ・マゴマードワが2000年2月に来日し、チェチェンの現状を訴えた。ロシア当局はチェチェン共和国における取材や援助団体の活動をコントロールしており、世界に発信される情報はほとんどがロシア寄りのものとなっている。マゴマードワの発言はチェチェン内部からの貴重な証言となった。「今や、チェチェンという国全体が、スターリン時代のように巨大なラーゲリ(強制収容所)と化してしまいました。私たちには、身を守る術がまったくないのです。」「前回の戦争で、100万人強の住民のうち約12万人が死にました。300年以上前、チェチェン人は400万人もいましたが、今は100万人もいません。過去400年間、30年から50年ごとにロシア人によって大量虐殺されているからです。あたかも100万人を超えないように人口を調節しているかのようです。前回の戦争で約300の集落のうち250が破壊され、5つある市は、70%が破壊されました。教育機関の約80%が壊され、停戦中も全く復興できず、今回の戦争が始まったのです。電気、水道、ガスなどライフラインは破壊され、生活が成り立ちません。ロシア軍の妨害によって深刻な食糧不足に陥っています。」「前回の戦争中、私の弟と同じようにチェチェン市民約1万8000人がフィルター・ラーゲリと呼ばれる強制収容所に連行され、多くの人が拷問で死にました。釈放されない行方不明者は未だに1583人もいます。ロシア軍は、今回の戦争でも同じことを始めています。村の中に入り、金目のものを略奪し、抵抗すると射殺するか連行していきます。」

「人権のための医師団」はイングーシで実施した無作為調査の結果を2000年2月 に発表した。その結果、ロシア軍のチェチェン民間人に対する処刑・違法な拘留・拷問など、広範囲で組織的な虐待行為が明らかになっている。回答者326人の44%がロシア連邦軍による民間人の殺害現場を目撃し、そのうち8%は家族が被害者だった。また、4%の人から、家族がロシア軍による拷問を受けたという報告があった。チェチェンを逃れイングーシに入った理由は、71%がロシア軍の砲爆撃を避けるためで、25%がロシア軍から危害を加えられるのではないかとの恐怖からだという。調査および詳しい証言により、病院、医師および患者に対して攻撃が加えられたとの証拠も提示されている。ハッサン・バイエフ博士と看護婦は、120人の患者が病院から連れ去られ、ロシア軍によって拘留されたと話す。博士は患者7人とチェチェン兵士6人、70歳のロシア人女性の遺体を見たと証言。全員がロシア軍により病院のベッドで射殺されたのだった。

※ハッサン・バイエフ(天野隆司訳)『誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』アスペクト、2004年。近年日本で出版されたチェチェン関連本の中でも秀逸。チェチェン人から見た「チェチェン戦争」、バイエフの数奇な人生に、言葉を失います。

ВТОРАЯ ЧЕЧЕНСКАЯ (第二のチェチェンの)

宮川 真一

チェチェンをめぐる戦いは、ロシア国内におけるナショナリズムの複雑さを示している。国家が弱体化して社会が国家から相対的に自立するなか、ペレストロイカ以来ロシア人の間では「国家意識」としてのナショナル・アイデンティティは希薄になっている。同時に、チェチェン人などロシア内の少数民族では、「民族意識」としてのナショナル・アイデンティティは高揚している。ロシアが何を原理として新たな国家を統合し、いかなる国家形態を模索しているのか、ロシアの国家としてのアイデンティティが問われている。今日ロシア国内での主要な問題はマジョリティのロシア人とマイノリティの非ロシア人との関係である。ツィガンコフは、もし非帝国的な、新しいリベラルなナショナル・アイデンティティが形成されなければ、ロシアに残された選択肢は新たな全体主義体制か民主政府かではなく、分裂と内戦を導くことになるであろうと警告を発している。

歴史を振り返れば、現代の「チェチェン戦争」は、帝政ロシアからソビエト時代に跨る数世紀に及ぶ「大カフカス戦争」の一環である。この戦争の本質はロシア帝国主義に対するチェチェン民族解放闘争であった。「第二次チェチェン戦争」には様々な要因が交錯している。カフカス山脈南のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンや中央アジア諸国への政治的影響力を維持するという地政学的要因が挙げられる。非ロシア系住民のロシアからの分離独立運動を刺激することを警戒する政治的な要因も挙げられよう。チェチェンは石油戦略の要衝の地にあることが経済的な要因をなしている。「第一次チェチェン戦争」の挫折、NATOの一方的拡大、セルビアへのNATOの空爆などはロシア民族主義を大いに傷つけた。チェチェンでの戦勝は1990年代の混乱と屈辱の終わりを画す、輝かしい出来事だった。2001年米国同時多発テロ事件以降、ロシア社会でもイスラム嫌いの風潮が強まった。完全に腐敗したロシアの軍隊と警察は、チェチェンでやりたい放題の限りを尽くしている。殺人、略奪は日常茶飯事となってしまった。こうして、100万人のチェチェン人のうち30万人が犠牲となり、50万人が難民となった。

「第一次チェチェン戦争」は世論の7割が反対した。「第二次チェチェン戦争」は、世論の支持を背景にロシア側優位に進められている。そこでは数度におよぶ大規模なテロ事件が追い風となった。1999年モスクワ連続爆弾テロ事件、2001年米国同時多発テロ事件、2002年モスクワ劇場占拠事件、2004年ベスラン学校占拠事件である。テロリズムとは「組織的暴力による恐怖を強制の手段として用いようとする思想や行動」であり、次のように分類される。多くの民族解放運動における反体制集団によって実行されるような「抵抗テロリズム」、世界に衝撃を与えて特定の政治的不満と課題を認めさせようとする「表示テロリズム」、宗教的信条に動機づけされた「救世主テロリズム」、あるレジームによってそれ自身における無辜の市民や「敵」に対して日常的に行使される「国家テロリズム」である。

次回以降、これら大規模テロ事件を検証しつつ、この地で何が起きているのかを探りたいと思う。

※拙稿「『第二次チェチェン戦争』におけるテロリズム」『ソシオロジカ』(創価大学社会学会)Vol.28、No.2、2004年;同「現代ロシアのナショナル・アイデンティティと『第二次チェチェン戦争』」『比較文明』(比較文明学会)21、2005年。