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キューバとの学術交流、新段階に

中西 治

昨 14 日午後、私と浪木明さんの二人は、キューバ・アジア・オセアニア研究センターの副センター長エドゥアルド・レガラド・フロリドさんと 10 か月ぶりに横浜で再会しました。彼は現在日本で研究中であり、今月末に帰国します。私たちは『地球宇宙平和研究所所報』第 3 号を研究所から研究センターに贈呈しました。また、キューバ共和国のコシーオ駐日大使へ贈呈する所報第 3 号を、同席したトラベルボデギータの清野史郎さんに託しました。

私たちが今年 2 月にハバナの同センターを訪れたときに副センター長を務めていたのは、マリア・アイダ・ノガレス・ヒメネスさんでした。マリアさんはその後、アフリカのセイシェル駐在大使に任命されました。エドゥアルドさんが彼女の後任の副センター長になりました。

私たちはエドゥアルドさんと、私たちの研究所とハバナの研究センターとの今後の学術交流について、2 時間ほど話し合いました。私たちは次のキューバ訪問を 2010 年 2−3 月頃に計画しています。そのときにシンポジュウムを開催することや双方がそれぞれの人材の日本語とスペイン語の能力を高めるために協力することについて基本的に意見が一致しました。シンポジュウムのテーマやその他の具体的な問題は今後の意見交換によって決めます。

私たちの研究所とキューバとの学術交流は新たな段階に入ります。

スパイか、英雄か ―5人のキューバ人のこと―

中西 治

ことの起こりは 1998 年 6 月であった。

キューバ共和国当局はハバナを訪問していた米国の連邦捜査局 (FBI) 使節団に米国のフロリダ州マイアミで活動しているキューバ人反カストロ派諸集団のキューバ共和国に対する破壊活動についての資料を手渡した。米国当局は回答を約束した。

同年 9 月 12 日に FBI は「奇妙な回答」を寄せた。米国在住の反カストロ派ではなく、親カストロ派の 5 人のキューバ人をスパイ容疑で逮捕した。

2001 年 12 月 27 日にマイアミ地方裁判所は次のような判決を下した。

ヘラルド・エルナンデス・ノルデロ (Gerardo Hernandez Nordelo) に終身刑を 2 回とそれに加えて懲役 15 年。終身刑を 2 回とさらに懲役刑とは、なんとも奇怪な判決である。終身刑は 1 回で十分であるが、罪状ごとに刑期を認定すると、こういうことになる。彼は死んだあと、また生まれてきても、生まれた日から終身刑に服することになる。そのあと、また生まれてきても 15 年の懲役刑が待っている。彼は 1965 年 6 月 4 日にハバナで生まれ、 1989 年にキューバ共和国外務省国際関係大学を卒業し、国際政治関係で学位を取得している外交官である。

ラモン・ラバニーノ・サラサール (Ramon Labanino Salazar) に終身刑に加えて懲役 18 年。彼は 1963 年 6 月 9 日にハバナで生まれ、 1986 年にハバナ大学を卒業し、経済で学位を取得している。

アントニオ・ゲレロ・ロドリゲス (Antonio Guerrero Rodriquez) に終身刑に加えて懲役 10 年。彼は 1958 年 10 月 18 日にマイアミで生まれ、ソヴェト・ウクライナのキエフ工科大学を卒業し、空港建設技術で学位を取得している。

フェルナンド・ゴンザレス・リョルト (Fernando Gonzalez Llort) に懲役 19 年。彼は 1963 年 8 月 18 日にハバナで生まれ、 1987 年にキューバ共和国外務省国際関係大学を卒業し、国際政治関係で学位を取得している外交官である。

レネ・ゴンザレス・シェベレルト (Rene Gonzalez Sehwerert) に懲役 15 年。彼は彼の家族がバチスタ政権下のキューバから米国に亡命中の 1956 年 8 月 13 日にシカゴで生まれた。カストロ革命の成功後に帰国し、パイロットとフライト・インストラクターになった。彼の兄弟のロベルト・ゴンザレスは弁護士であり、レネをはじめ全員の釈放のために闘っている。

いずれも知識人である。キューバ共和国の人民権力全国会議 (国会) は、この判決の 2 日後の 2001 年 12 月 29 日に、臨時議会で 5 人にキューバ共和国英雄の名誉称号を与えた。

米国の裁判所も揺れている。アトランタ第 11 巡回裁判区控訴裁判所の 3 人の判事は、マイアミ地方裁判所の有罪判決を破棄する決定を下した。そのちょうど 1 年後の 2006 年 8 月 9 日に、同控訴裁判所は判事全員による法廷を開き、過半数により、この決定を却下した。 5 人はふたたび有罪に戻った。 5 人についての判決はまだ確定していない。

争点はどこにあるのか。

米国は 5 人を「スパイ罪」容疑で逮捕したが、起訴したのは、スパイ罪ではなく、スパイのための陰謀、「共謀罪」であった。もっとも重い判決をうけたヘラルド・エルナンデスには、公判中に殺人を謀議した容疑も追加された。その殺人事件とは、 1996 年 2 月 24 日にキューバ空軍機がキューバ領空を侵犯した反カストロ派のキューバ人組織「救出に向かう兄弟たち」の小型飛行機を撃墜した事件である。

キューバ側は、 5 人のキューバ人は米国の安全保障にかかわるようなスパイ行為をしていない、彼らがおこなったのは、革命キューバに対する破壊活動を繰り返していた反カストロ派についての情報の収集である、これは本来 FBI がすべきことである、と主張している。

フィデル・カストロは 2007 年 8 月 22 日に「帝国の異例な道義的敗北」と題する声明を発表した。「彼らとその家族の残酷で途方もない運命は、半世紀近くにわたり国連の最も基本的な基準と諸国民の主権を踏みにじり、キューバ国民に対してテロリズムを適用するというワシントン政府の背信の政策の結果である。」と。

私はこの事件について次のように考えている。

第一は、この事件は反カストロ派キューバ人集団が引き起こした 1961 年のヒロン海岸上陸事件、 1976 年のバルバドス海岸上空でのキューバ航空機爆破事件等々の一連の事件の延長線上にあり、その結果である。注目すべきは、このように多年にわたり重大な事件が展開するなかで、キューバと米国の警察当局が情報の交換をおこない、協力してきたことである。今回はうまくいかなかったが、これまでは一定の成果を上げてきたようである。キューバは FBI を信頼しすぎていたようである。

第二は、 5 人の経歴とこの事件についてのキューバ側の説明を読んで、彼らはキューバ当局の指示にもとづいてマイアミの反カストロ組織の情報収集にあたっていたと考えられる。キューバと米国とのあいだに正式の外交関係があれば、これらの調査は在米キューバ共和国大使館の仕事としておこなわれていたであろう。両国間には外交関係がないので、キューバはそれを内密におこない、しかも、その結果を FBI に教えていた。調査対象の組織に入り込み、見つかれば、殺されることは十分に予測される。 FBI が 5 人の逮捕前にマイアミのキューバ人反カストロ派に彼らのことを伝えなかったのは、 FBI の革命キューバに対するせめてもの配慮といえるかもしれない。

キューバから見れば、彼らは国のために命がけの活動に従事した英雄となる。米国から見れば、米国内の組織の重大な情報をさぐるスパイである。スパイと英雄は紙の裏表である。

第三は、 5 人にはいずれも重刑が言い渡されているが、それでも死刑は宣告されていない。これは 5 人を殺さないという意思表示である。米国の裁判官のあいだでもこの判決に対しては異論がある。米国とキューバのそれぞれの政治情勢が変化し、両国関係が改善されるならば、また、米国内外の世論がこの問題に強い関心をしめすならば、 5 人が解放される可能性はある。スパイ事件では両国関係の改善のためとか、スパイの相互釈放などにより勾留されている者が解放されるのは珍しいことではない。

1492 年にコロンブスがキューバに到達してから 500 年余、 1902 年にスペインの支配から脱してキューバ共和国として独立してから 100 年余、 1959 年にカストロ革命が成功してから間もなく 50 年。最初の 400 年間はスペインの植民地、次の 50 年間は米国の保護国、最後の 50 年間は米国からの完全独立のための闘いの日々。世界はとっくにキューバを独立国家として認めている。米国もそろそろこれを認めるべきときである。そこからキューバと米国の新しい時代が始まる。

キューバ大使訪問報告

浪木 明

2008 年 3 月 26 日 (水) 午後 3 時から約 20 分間、キューバ共和国大使館にて、ホセ・フェルナンデス・デ・コシーオ大使を訪問し、地球宇宙平和研究所から中西治理事長をはじめ他 3 名の方が参加し、今回の第二次キューバ訪問帰朝報告とともに今後の具体的な交流についての話し合いが行われました。

最初に、中西理事長よりコシーオ大使の多大な尽力により、今回のキューバ訪問において三つの研究機関との交流が実現したことに対する謝意が示され、研究所ホームページに掲載されたキューバ関係の記事やエッセイのコピーが大使に手渡されました。

理事長からの「是非読んでいただきたい」との要望に対し、大使は「キューバ本国に送りたい」と応答されました。また、アジア・オセアニア研究センター訪問時の「世界地図が入手できると有難い」との要望を受けて、中西理事長が購入された地図が大使に渡されました。大使は「イバニェスセンター長は私の友人であり、必ずお渡しします」と即答されました。

次に、理事長から「特にアジア・オセアニア研究センターと恒常的な交流を続けたい」との要望が出され、「研究センターのホームページを拝見したが、日本研究に力を入れておられるようだ」との感想が述べられると、大使は「私たちとしてもまず、日本研究に何か出来ることをしていきたい」と応じられました。

さらに、理事長から「若い人材による交流」が提起されると、大使は「研究センターにとって願ってもない交流である」とコメントされました。その上で、センターを中心にセミナー等を開催し、相互に交換できるものを目指し、より具体的にはトラベルボデギータの清野史郎取締役と提携し、日本の若い人たちにキューバでスペイン語の語学研修を行うことなどが提案されました。

最後に、理事長から今後のキューバ関連の出版活動の中で大使について紹介したいので、大使の若かりし頃の革命運動について伺いたいとの要望に、大使は「喜んでお応えしたい」と応じられ、誠意には誠意で応ずるとの大使の人柄が終始強く反映された会見でした。

会見終了後、アンドレス・ゴンサレス・バジェステル参事官の解説で、 2004 年キューバ・アイルランド合作の「テロとの闘い」を約 30 分間鑑賞し、参加者全員に関連資料一式が配布されました。後日、中西理事長が連載エッセイの中で紹介される予定です。なお、 5 月にチェ・ゲバラの娘さんが来日されるそうです。

キューバを訪ねて(4)「1962年のキューバ・ミサイル危機」

中西 治

2008年2月28日(木)にハバナの防衛情報研究センター (Centro de Estudios de Información de la Defensa = CEID) を訪問しました。私は東京でコシーオ大使に1962年のキューバ・ミサイル危機に関心を持っていることを申し上げました。大使からこのことを伝え聞いたハバナのアジア・オセアニア研究センターのイバニェスさんが防衛情報研究センターでの会合を準備して下さいました。このセンターは2001年9月26日に設立された若い研究機関です。

防衛情報研究センターではビダル(Dr. C Manuel Carbonell Vidal)副センター長とディアス(MsC Enrique R. Martinez Diaz)分析員、それに、もう一人キューバ・ミサイル危機問題の専門家が私たちとの話し合いに参加されました。最初にこの専門家が映像を使って事件の経過とキューバ側の見解を明らかにされました。

1959年1月1日午前2時にバチスタがキューバから脱出し、ドミニカ共和国に亡命しました。キューバ革命は成功しました。フィデル・カストロは同年2月16日に首相に就任し、4月にはアイゼンハウアー大統領下の米国を訪れました。フィデル、32歳でした。米国との関係が悪くなり始めたのは、同年 5月にキューバの革命政権が土地改革に着手してからです。ソヴェト製原油の精製を拒否した米国系石油企業をカストロ政権が1960年6月に接収しました。革命キューバとソヴェトとの関係が深まりました。

1961年1月に米国はキューバとの国交を断絶しました。同年4月にキューバは社会主義革命を宣言しました。キューバの反革命勢力はケネディ大統領下の米国の支援をうけて、キューバ本土中部のカリブ海側の豚湾(Bahía de Cochinos)のヒロン海岸に上陸しました。この勢力はカストロの革命軍によって撃退されました。キューバと米国との関係は決定的に悪くなりました。フルシチョフのソヴェトは1962年10月にキューバ革命をまもるためと称してキューバにミサイルを持ち込みました。

私は、ソヴェトのミサイルをキューバへ持ち込むという構想は最初にいつ、誰が考えついたのか、と尋ねました。防衛情報研究センターの方々は次のように答えました。

キューバ・ミサイル危機については、ケネディ大統領がキューバにソヴェトのミサイルが存在するとの報告をうけた1962年10月16日から28日までの「危機の13日」がもっぱら論じられている。これは的はずれである。危機はバチスタに対するカストロの1953年7月26日のモンカダ兵舎襲撃の時から始まっている。危機の主要な原因は米国のキューバに対する攻撃である。本格的な危機の始まりは、10月22日に米国が海上封鎖を開始した時である。

キューバにミサイルを配備する考えは、1962年にフルシチョフがブルガリアのバルナで休暇中に浮かんだものである。カストロはミサイルについて何も考えておらず、キューバへのソヴェトのミサイル配備は不要であると思っていた。カストロがそれを容認したのは、米国のキューバ革命への介入を阻止するためであった。また、米国がイタリアとトルコにミサイルを配備していたので、ソヴェトのミサイルをキューバに受け入れることによってバランスをとるためであった。カストロはキューバからのソヴェトのミサイル撤去をラジオ放送で初めて知った。

私は1962年以降の経過はその通りであるが、すでに1961年にソヴェトは核兵器について考え始めており、キューバもそのことを知っていたのではないかと尋ねました。1961年7月にフルシチョフはソヴェトの教員を前にして演説し、キューバが侵攻された場合にはソヴェトはキューバに対して核で支援すると述べています。また、同年11月にソヴェトを訪問したゲバラはキューバに帰国したあとのラジオ演説で米国人はキューバに侵攻すればソヴェトの核兵器を味わうことになるであろうと語っています。フルシチョフもゲバラも、キューバに配備された核によってとは言っていませんが。防衛情報研究センターの研究者たちはその事実を知らないと言っていました。

最後に、私は、この事件のあとソヴェトは米国との秘密の合意にもとづいてトルコから米国のミサイルを引き揚げさせた、また、米国にキューバ革命に対して直接の軍事介入をさせなかったのではないか、と指摘しました。これに対して研究センターの方々は、そうではなく、米国がキューバを攻撃できなかったのは、キューバ人の強い意志と行動の結果である、その証拠にソヴェト崩壊後も米国によるキューバ攻撃はおこなわれていない、と強調しました。なかなかの自負です。

1868年の第一次キューバ革命のときの革命歌=現在の国歌が誕生した地バヤモや1953年のカストロ革命の口火を切ったモンカダ兵舎なども訪問しました。フィデルとラウルのカストロ兄弟とキューバ革命については稿を改めて書きます。

(終わり)

キューバを訪ねて(3)「ペソと兌換ペソ」

中西 治

2008年2月27日(水)午後にハバナ大学経済研究センター(La Universidad de La Habana Centro de Estudios de la Economia Cubana = CEEC)を訪問しました。昨2007年にも私たちの研究所の第一次訪問団が訪ねています。ハバナ大学は1728年に創立され、今年、創立280年を迎えるラテンアメリカの名門大学の一つです。経済研究センターは1989年に設立されています。

元センター長のコルドビ(Dr. C.Juan Triana Cordovi)教授は私たちの質問にも答えながら、キューバ経済について次のよ うに語りました。

1991年12月のソヴェトの崩壊は私たちに自分の頭で考える機会を与えました。ソヴェトの改革は頭を使わない改革であり、歴史を否定し、システムを破壊しました。中国は歴史を肯定し、権力システムを維持しながら、改革・近代化を進めています。キューバでは14年前から変革の時期が始まり、 2007年の経済成長は7.25%、この3年間の平均成長率は9.3%です。

現在の主要な貿易相手国はベネズエラ、中国、カナダ、スペイン、オランダなどです。ベネズエラとの貿易は主として石油です。キューバの石油消費の 3分の2は輸入、3分の1はキューバ産です。キューバはかつてソヴェトに砂糖を国際価格以上で買ってもらい、その金で石油を国際価格で購入していました。日本との経済関係は債務問題が未処理のため低迷しています。米国の経済封鎖は国民の生活にとってそれほど大きな影響はありません。

2月28日(木)午前にハバナ市内の有機栽培農園を見学しました。第二次大戦後、日本でも焼け跡を耕して家庭菜園を作りましたが、それを数十軒分ほどまとめたような規模です。農園長は元陸軍大佐、売店に1人、農場に4-5人の人が働いていました。野菜くずや枯れ葉などを埋めて堆肥を作っている大きな畝が3列ほどありました。堆肥は少し離れたところでも作っているそうです。人参や葉物の野菜を作って、売っています。

キューバ人はもともと葉物の野菜はあまり食べなかったようです。ソヴェト崩壊後の生活難のときに生きるために菜園づくりを始めました。それがいまではキューバ人も葉物の野菜を食べるようになり、有機栽培農園が企業としてやっていけるようになりました。働いている人の賃金は月収1200ペソ(およそ60兌換ペソ、日本円で7200円くらい)です。キューバ人労働者としては高給です。

キューバ人はあまり働かず、農業のような厳しい肉体労働には従事したくないようです。多くの人は、とくに若い人は観光業や通訳のような知的労働を望み、農園は高給を出さないと労働力が確保できないのです。ここでは従業員はアジア人的に働いていると農園長は笑って話していました。農園長も収入は軍人時代よりは良いと言っていました。作物の種類は従業員と話し合って決めるのかと尋ねると、農園長は「私は会議嫌いで通っている。私が一人で決める。みんなで決めるようなやり方だと私はこの仕事を辞める。」と言っていました。なるほど、元将校です。

人気のある観光業や通訳の月給は400ペソ(およそ20兌換ペソ、日本円で2400円くらい)です。それでも生活ができるのは、パン、米、豆類、オリーブ・オイル、バター、砂糖、石けん、コーヒー、紙巻きたばこ、マッチ、練り歯磨きなどの主食と生活必需品が低価格の配給で入手できるからです。それに医療費と大学までの学費は無料です。キューバは社会主義国です。そこへグローバリゼーションの大波が押し寄せています。

一般に、先進国は物価の安い途上国で品物を買い、物価の高い先進国で売って利益を得ます。途上国の労働者は低賃金ではあるが、仕事を確保します。先進国の労働者は安い商品を買って、生活を利便にします。ついで、先進国の資本が途上国に進出し、現地で賃金の安い労働者を使って生産を始めます。先進国の労働者も途上国に行き、先進国の賃金で現地の労働者よりも豊かな生活をします。現地の労働者は新たな職を得ます。

先進国の資本や人とともに高い価格の商品が途上国に流入します。ソヴェトや中国などの社会主義国は、外貨の流出を防ぎ、かつ、外貨を増やすために、また、外国品の高い価格が自国の物価に直接影響を及ぼさないようにするため、外国人しか買えない店や外貨でしか買えない店を作ったり、兌換人民元などの制度を導入しました。外国人や外貨を持っている人だけしか外国製品や質の高い自国の製品を買えないので、現地の住民の多くはこの制度に不満を持ちました。一部の人は外貨の獲得に走りました。物価は徐々に上昇しました。

ソヴェト体制の崩壊後、ロシアのエリツィン政権は1992年に「ショック療法」を実施し、物資の流通を市場に任せました。物価は1年間に25倍にはね上がりました。物価に比例して賃金や年金も上がれば良いのですが、そうならなかったので、民衆の不満が噴出しました。エリツィンはこの不満を代弁する議会を武力で解散させました。物価が高くなったので二重価格制の意味はなくなりました。

世界経済の市場化は、発展途上国の安い物価を先進国の高い物価に合わせて上げさせます。経済のグローバリゼーションは、先進国と発展途上国で時流にうまく乗れる人を大変豊かにし、時流に乗れない人を大変貧しくして社会を二極化します。中間の多くの人々の労働条件と生活条件は悪化します。途上国の低賃金労働が先進国の労働者の足を引っ張るのです。正規労働者が減り、不正規労働者が増えます。グローバリゼーションは、途上国の物価を高いところへ、先進国の賃金を低いところへと引き寄せます。

現在のキューバでは観光業などで外国との合弁企業が活動しています。キューバの労働者の賃金は、120円=1兌換ペソ=20ペソ、1ペソ=6円、として、400ペソ(2400円)から1200ペソ(7200円)、といったところです。外国との格差が大きいので、ペソと兌換ペソの二重通貨制を採っています。ロシアと中国の経験に学びながら、これをどのようにして一本化するのか、キューバ指導者の腕の見せどころです。

(続く)

キューバを訪ねて(2)「革命いまだ終わらず」

中西 治

2008年2月27日(水)にハバナのアジア・オセアニア研究センター(Centro de Estudios sobre Asia y Oceania = CEAO)を訪れました。いよいよ今回の訪問団のキューバでの学術交流の本格的な始まりです。このセンターへの訪問はコシーオ(Jose Fernandez de Cossio)駐日キュー バ大使の特別の計らいで実現しました。

CEAOは1985年11月に設立され、日本、オーストラリア、東南アジア、中央アジア、インドシナ、中華人民共和国、南太平洋、朝鮮半島、インド・南アジアなどの研究部門を有しています。センターの建物は大変瀟洒でした。元ラオス駐在大使のヒメネス(Lic. Maria Aida Nogales Jimenez)副センター長が私たちを玄関であたたかく迎えて下さいました。ヒメネスさんは品のある洗練された女性です。

二階でおこなわれた会談で元インド大使のイバニェス(Lic.Juan Carretero Ibanez)センター長が最近の危険な国際情勢を指摘し、パレスチナとイスラエルの紛争、米軍のアジアでの軍事的・政治的プレゼンスの増大、コソボの独立、日本のミサイル防衛計画への参画などを挙げられました。また、キューバにある米軍のグアンタナモ基地については、紛争を防止するために米軍基地のまわりにキューバ軍を配備して囲い、条件ができるまで、米国との戦争を挑発しないように、50年間忍耐づよく対処してきたと述べられました。

イバ二ェスさんの対米認識はきわめて厳しいです。新しい大統領に誰がなっても、米国の対キューバ政策は変わらないだろう、米国の政治はロビーによって操られており、米国では亡命キューバ人が強力なロビー活動を展開し、米国政府に反カストロ・反キューバ革命政策を遂行させているからだ、ということでした。革命後50年近く米国のキューバに対する経済封鎖・孤立化政策と闘ってきた革命世代としては当然の考え方かも知れません。この席にはセンターから日本、朝鮮などの研究者も参加され、日本の政治情勢や朝鮮の核実験問題なども論議されました。

私たちの研究所とCEAOとの今後の交流については帰国後、コシーオ大使と話し合って具体化することにしました。

会談が終わったあと、一階でお茶とお菓子が出され、うち解けた懇談がおこなわれました。ヒメネスさんは、この建物のかつての所有者が毎年、亡命先の米国からキューバに来られ、このセンターの前を行ったり来たりされる、私たちはその方をセンターに入れ、室内を見ていただく、私たちは前の所有者の感情を考え、できるかぎり昔のままの状態を維持するように努力している、その方はそれを見て、安心して帰って行かれる、と語られました。

国内旅行をしたあと泊まったハバナのホテル、ハバナ・リブレも、元はハバナ・ヒルトンです。フィデル・カストロが1959年の革命のときにこのホテルの最上階で革命の指揮を執りました。その後、キューバ政府によって接収され、建て替えられました。革命によって接収された外国人の財産、外国に逃れたキューバ人の財産は数知れずあります。これを返すとなると、与える影響は大です。フィデル・カストロやラウル・カストロのような革命世代は、これを絶対に許さないでしょう。それは彼らのこれまでの人生を否定するものです。

革命はまだ続いている、問題の解決は次の世代だ、と感じました。いずれ時が解決するでしょう。

ヒメネスさんは私にロシア語で別れの挨拶をされました。私も。「ダスビダーニヤ(また会う日まで)」。

(続く)

キューバを訪ねて(1)「遠くて近い国」

中西 治

2008年2月25日から3月6日までキューバ共和国を初めて訪問しました。キューバは遠い国だと思っていました。キューバの人々も私たちをはるか遠い国からの客人として歓迎してくれます。彼らにとって日本は、大西洋のかなた、ヨーロッパ、アフリカの向こう、インド、中国の先、極東の国です。

実際は案外、近い国でした。成田からカナダのトロントまで飛行機で13時間、トロントからキューバの首都ハバナまで3時間半、日本から米国東海岸のボストン、ニューヨーク、ワシントンDCへ行くのとそう変わりません。

2月25日に雪のトロントで1泊したのち、26日午後2時前に初夏のような気候のキューバ共和国の首都ハバナのホセ・マルティ国際空港に降り立ちました。ただちに日本の円を現地通貨のペソに換えました。1万円=82.20兌換ペソです。私は外国に行ったとき、まず1万円を現地通貨に換え、現地通貨の値打ちを計ります。1兌換ペソはおよそ120円です。

出迎えの自動車で空港から新市街の中心にある革命広場に向かいました。自動車が多く、しかも、古いためか排気ガスの臭いが強く鼻につきます。革命広場の中央演壇に立ちました。フィデル・カストロがよく大演説をしたところです。かつては立ち入り禁止でしたが、いまはだれでも自由にここに立ち、石の椅子に座ることができます。座り心地はあまり良くありません。

演壇の後ろにはホセ・マルティの像とオベリスクが立ち、高い筒状のホセ・マルティ記念博物館があります。博物館では青年共産同盟の集会が開かれていました。最初に国歌の斉唱があり、若い女性が演説していました。博物館の頂上にエレベーターで上り、市内を一望しました。革命広場に面して壁に大きなチェ・ゲバラの肖像を掲げた内務省の建物や国立劇場、博物館の裏側にキューバ共産党本部などがあります。キューバ共和国の権力が集まる場所です。

小さな住宅が密集しているのも見えます。この地域はもともとこのような住宅の立ち並ぶ所でした。それを嫌ったバチスタがたくさんの住宅を取り壊し、大きな広場を作り、巨大建造物を建てたそうです。それをもっともよく利用しているのがバチスタを倒したフィデル・カストロたちです。

博物館の売店でフィデルについての本2冊とチェ・ゲバラについての本1冊を買いました。合わせて3冊、計54.85兌換ペソ(約6500円)でした。

旧市街にあるホテル、アンボス・ムンドスに向かいました。アーネスト・ヘミングウエイが定宿とし、「誰がために鐘が鳴る」を執筆したところです。ヘミングウエイの部屋は5階。私の部屋はその1階下の4階。ヘミングウエイの部屋は私の部屋と広さはそう変わりませんが、角部屋で旧市街が見渡せます。私の部屋の前は、細い歩道を挟んで、現在舗装中の新しい大学の建物です。このあたりは世界遺産に指定されているので自動車立ち入り禁止です。

まだ明るい午後5時半すぎにホテル近くの銀行に行き、ふたたび1万円を兌換ペソに換えました。空港と同じ銀行で、同じ日なのに、今度は82.65兌換ペソでした。帰りにホテル近くの露天の古本屋に立ち寄り、本を物色、本屋の中年の婦人が勧めるフィデルについての10兌換ペソの本を8兌換ペソにまけて貰って買いました。28日には1万円=83.95兌換ペソでした。

夕食はアル・カポネゆかりのホテル、ナショナル・デ・クーバでとり、ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブ・ディナーショウーを楽しみました。真っ黒い人、薄黒い人、褐色の人、白い人。打楽器だけの音楽、それに弦楽器や管楽器の混じった音楽。アフリカ風のもの、ヨーロッパ風のもの、それらが混じったもの。歌も踊りも主役は黒い人でした。これがキューバだと思いました。宴たけなわでしたが、翌日に備えて途中で席を離れました。ハバナの夜は長く続きます。

(続く)

キューバ大使表敬訪問

岩木 秀樹

2008年2月12日(火)午前11時から12時過ぎまで、港区東麻布にあるキューバ共和国大使館に、ホセ・フェルナンデス・デ・コシーオ大使を表敬訪問しました。

地球宇宙平和研究所から中西治理事長をはじめ他5名の方が参加し、2月25日からのキューバ訪問に先立ち様々な意見交換をしました。

大使は着任早々の大変忙しいときにもかかわらず、予定時間の30分を大幅に超過して、和やかな中にも熱のこもった話し合いが持てました。

大使は1933年生まれで、メキシコ大使や英国大使を歴任され、柔らかな物腰の中にも貫禄のある、まさに一国を代表する大使といった印象でした。本来なら特命全権大使がNPO法人の訪問を受け、長時間の意見交換をするということは異例のことですが、研究所の趣旨や昨年のキューバ訪問の実績に共感され、さらに加茂雄三先生やトラベルボデギータの清野史郎さんのご尽力のおかげでこのような貴重な機会を持てました。あらためて関係された皆さんに御礼申し上げます。

この表敬訪問の内容については、まず大使から歓迎の意が表され、中西理事長から御礼の言葉があり、その後日本人6名が自己紹介をし、意見を述べました。それを受けて大使は、キューバミサイル危機について最近いくつかの国際会議が開かれていること、環境問題に国家をあげて様々な取り組みをしていること、この2月24日にキューバで国会が召集されるのでタイムリーな訪問時期であることなど、一人一人の関心に合わせた返答があり、これらにアプローチするための便宜をはかっていただけるとのことでした。

中西理事長は、米国の厳しい包囲政策の中で50年もキューバが存続できたことを高く評価するとして、朝鮮・ベトナム戦争で米国社会が変わったように、アフガン・イラク戦争で米国のキューバ政策も変容する可能性があり、そのような時期に訪問できることを嬉しく思うと述べました。またキューバの日本研究者や政府要人とも交流をし、さらに今後とも継続的な相互の交流を要望しました。

大使は日本とキューバ両国間の学術交流は非常に重要であり、できるかぎり便宜をはかりたいと述べました。

中西理事長はキューバ帰国後に、キューバに関する出版物を出したいとして、最後にカストロ議長の病気回復を喜んでいるとして、できればカストロ議長ともお会いしたいと要請し、表敬訪問は終了しました。

キューバ視察旅行報告

木村 英亮

2月26日(月)木村、浪木、浪木(香織)、片山、石橋、芝宮の6名、17時エアカナダ機で成田出発、現地時間15時10分トロント着、ホリデイ・イン泊、雪、0度。

2月27日(火)10時05分エアカナダ機でトロント発、13時45分ハバナ着、気温25度。空港からガイド・ホセの添乗で革命広場などを見てホテル・ハバナ・リブレ着、夕刻アメリカから鈴木合流、7名となる。革命広場はカストロの肖像や赤旗などなくあっさりした印象。ホテルは1958年ヒルトン・ホテルとして建築、地上25階建て、翌年カストロらが革命本部とした。1998年改修。野外劇場キャバレー・トロピカーナで20時-22時30分、夕食とショー鑑賞。

2月28日(水)10時20分ホテルを出て徒歩でハバナ大学訪問、午前中リク教授より大学について説明を受け、キャンパス見学。昼食後14時から16時30分ハバナ大学経済研究所でアミシア・ガルシア所長を含め3名の教授とトラベルボデギータ清野の通訳で懇談、富山大学の佐藤幸雄参加。旧市街見学。大学の建物は改修期にきている。

3月1日(木)8時30分ホテル出発、郊外アラマルの有機栽培農場訪問、農場長の説明の後見学、農場手作りの昼食を御馳走になり、午後は個人農場ラス・アメリカス農場見学、通訳はトラベルボデギータの佐々木。個人農場は0.5ヘクタール、夫婦で経営。

3月2日(金)8時ホテルをチェックアウト、ヘミングウェイ博物館見学、高速道路でシエンフェゴスに向かい、市内観光後昼食、世界遺産の古都トリニダのホテル・トリニダ・デル・マル泊。
軍事的必要もあって高速道路は整備されている。

3月3日(土)8時30分チェックアウト、トリニダの博物館、配給所を見た後市場で買い物、サンタクララでゲバラ記念碑・廟・博物館などを見学後、ビーチリゾート・バラデロに向かい、ホテル・メリア泊。

3月4日(日)11時チェックアウト、ハバナへ向かう。途中「老人と海」ゆかりの港町コヒーマルで昼食、ハバナ・リブレにチェックイン、旧市街のレストラン・エル・アルヒーべで最後の夕食。

3月5日(月)木村、浪木、鈴木、片山の4名、9時から9時40分まで日本大使館訪問、大野正義一等書記官と会う。鈴木はそのままアメリカへ、他6名は11時チェックアウト、14時45分ハバナ発18時20分トロント着、ホリデイ・イン泊、マイナス19度。

3月6日(火)13時25分トロント発、日本時間7日16時55分成田着、離陸が遅れ実際には18時ごろ到着。

日本から遠く往復に時間がかかり、実質5日のキューバ滞在であったが、企画と通訳の面でのトラベルボデギータの尽力、スペイン語の堪能な実務担当浪木の努力、見事な日本語を話す魅力的なガイド・ホセのサービスに恵まれたことによって、全員元気に期待通りの成果を挙げることができた。

経済的には楽でないであろうが、裸の子どもたちをみると栄養不足には見えず、また旅行中不安を感じたことはなかった。空と海は青く美しく合弁のホテルも整備されていて、観光立国の政策は成功している。ただし、高級ホテルばかりに滞在していたので、実態の把握はもちろん不十分であろう。ショーにサーカス的なものがあったこと、ゲバラ廟の永遠の火、タクシー運転手がウラジーミルであったことなどにソ連の影響を感じた。

参加者7名中、研究所メンバーは木村、浪木の2名のみであったが、旅行中に1 名増やすことができた。