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ムハンマドの死 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (7)

岩木 秀樹

ムハンマドは632年に大巡礼を行い、後にそれが別離の巡礼と呼ばれるようになった。この巡礼には10万人の信徒が参加したと言われている。この機会に、古来行われてきた巡礼の行を再確認するとともに、ムハンマドはそれを、多神教時代の名残ではなく、アブラハム以来の儀礼として再定義をした。このとき定められた巡礼の儀礼が、今日に至るまで実践されているのである。その後、632年6月8日にメディーナのモスクに隣接する自宅にて、ムハンマドは没した。およそ62年間の人生であった。(小杉 2006:142-143)

ムハンマドの前半生は、血筋のいい生粋のアラブ人、「アミーン(誠実者)」、家庭人、商業従事者であり、40歳の時に啓示を受けてからは大きな転換を遂げて、預言者、宗教指導者、統治者・政治指導者、立法官、仲裁者、司法官、外交官、戦略家・戦士として活躍した。預言者となった後でも、およそ13年のメッカ時代は、預言者、宗教指導者に過ぎなかったが、メディーナに移ってからのおよそ10年は、統治・行政、立法、司法、外交、軍事など、あらゆる分野で指導権を発揮したのである。(小杉 2011:147)

おわりに

イスラームの創唱者であるムハンマドは、570年頃ビザンツとペルシアの狭間であるアラビア半島に生まれた。40歳の頃、神より啓示を受け預言者としての人生が始まる。しかし預言者には何ら神性はなく、普通の人間と同じである。イスラームは新奇な宗教ではなく、ユダヤ教キリスト教に連なるアブラハムの一神教とされている。

従来の偶像崇拝、部族主義、貧富の格差やモラルの低下などを批判したムハンマドは、当然のことながらメッカの既存の勢力と摩擦を生んだ。対立が深刻になった頃、妻と伯父の死に直面し、精神的また政治的支柱を失った。そのような危機の時期に夜の旅と昇天の旅を経験し、イスラームが一神教の系譜に位置することを確認する。多くの宗教でも見られるが、危機の時期に重要な宗教的体験をしたのである。

622年にヒジュラを迎えた。このことは単にメッカから逃れたのではなく、メディーナの調停者として迎えられたのである。この年がイスラーム暦の元年になるということは、メディーナにおいてウンマを形成したことがどれほど重要であったのかが理解できよう。ムハンマドは預言者としての立場ばかりでなく、政治家・司令官・立法者等の立場も兼ね備えていくことになる。その後メッカとの戦いを経て、メッカを征服した。またいわゆるメディーナ憲章を作り、宗教共存の安全保障体制を確立した。

632年に、メッカへの大巡礼の後、ムハンマドは自宅で亡くなった。ムハンマドは多くの宗教の創唱者とは異なる点がある。第一に、彼は預言者ではあるが普通の人間であり、神格化されることはなかった。終生、家庭人、生活者であり、家庭を持ち子どもを育てるなど、出家や隠遁はしなかった。第二に、彼は単なる宗教者ではなく、商人、政治家、軍人等の多くの側面を持つ人物であった。これらの点がイスラームの特徴に影響を与えることになるのである。

メディーナ憲章 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (6)

岩木 秀樹

メディーナ時代の早く、バドルの戦いの少し前に、キブラの方向(礼拝の方角)がエルサレムからメッカに変わった。メディーナから見るとエルサレムは北北西にあたり、メッカはほぼ真南にあたるから、正反対の方角に変わったことになる。このことはムハンマドを預言者とは認めないユダヤ教徒に見切りをつけたとも捉えられる。エルサレムへの礼拝がユダヤ教徒の融和策としても機能していたとすれば、この時点でその役割は終わった。メッカをアラー信仰の中心地にして、メディーナをイスラーム共同体政治の中心地にしたのである。(小杉a 2002:118-133)

この聖地変更により、一神教イスラームとアラブの伝統としてのメッカの聖地性が結合した。この後、ユダヤ教徒との対立を通じてイスラームの理論武装化が行われた。イスラームはモーセのユダヤ教よりも、またイエスのキリスト教よりも遙かに古いアブラハムの純粋な一神教の復活とされた。(佐藤他 2002:137)

ヒジュラからほどなくして、メディーナの指導権を握ったムハンマドが、メッカから移住した弟子たち、メディーナでイスラームに加わった者たち、メディーナ在住のユダヤ教徒たちと結んだ文書はいわゆるメディーナ憲章と呼ばれている。(小杉 2011:113)

メディーナ憲章は、ムハンマドに司法、行政、外交の最高決定権を委ね、対外的には団結して外敵にあたる集団安全保障、対内的には無差別復讐システムの廃止、犯罪者の引き渡しと罰則の規定、信教の自由、正義の原則、財産権の保証、戦費負担の義務などを定めたものであった。当時のアラビア半島において国家はなかったので、メディーナ憲章は、国家を創設する社会契約とも言えよう。(中田 2001:193)

この憲章を合意の基礎としてメディーナに成立するウンマは全住民を組織するが、成員の基本的区分は宗教共同体を前提とする。各共同体は、統治権に服さなければならないが、そうである限りは安全が保障され、信教の自由も保障される。対外関係は統一され、成員は防衛の義務を負う。全体を規制するものはムハンマドの権威であり、その権威は承認されなければならないのである。(小杉 2011:135-136)

この憲章こそ、しばしば抗争を生む部族主義の紐帯に代えて、信仰を基礎とする共同体を樹立し、宗教共存による安全保障の原理を打ち立てるものであった。ここにウンマの理念と原理の祖型が作られたのである。メディーナ期の10年間は、その意味ではイスラーム社会の制度化、組織化の歴史であった。(小杉 1994:40)

ヒジュラの意味 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (5)

岩木 秀樹

メッカでの軋轢が激しくなり、622年にムハンマドらはヤスリブの町に移住した。これがヒジュラである。ヤスリブの名はムハンマドにちなんで「預言者の町」、「メディーナ・アンナビー」略して「メディーナ」と呼ばれることになる。当時のヤスリブは抗争が多く、抗争の調停者、和平と統一をもたらす指導者を必要としていた。したがってムハンマドはメッカから単に逃れたのではなく、ヤスリブからは調停者、預言者として迎えられたのであった。

このようにヒジュラにより、メッカにおける不安定で他律的なムスリム集団が、イスラーム的理想に従う自立的な共同体へと変わる契機となった。ユダヤ教における出エジプト、キリスト教におけるイエスの誕生にも比すべき人類史的意味を持つのである。ムハンマドの生誕の年や啓示が最初に下された年ではなく、このヒジュラの年が後にイスラーム暦の起点とされたことは、そのことを象徴している。(中村 1977)

ヤスリブの住民がよそ者であるムハンマドを自分たちの指導者として迎えた理由はいくつか考えられる。宗教的には、彼らも多神教徒であったが、カーバ神殿を擁するメッカと違い、父祖の宗教に固執することにそれほど大きな利害が絡んでいたわけではなかった。またヤスリブにはユダヤ教徒も多く存在し、彼らを通して一神教に親しんでいたことも大きい。さらには社会的問題を抱え、2つの部族連合が紛争を繰り返しており、それをやめさせてくれる人物や契機を探していたのである。他方、ヤスリブのユダヤ教徒もアラブ人の預言者ということで、ムハンマドに期待をしており、自分たちを助けてくれるとの期待も当初はあったようである。(小杉 2009:20)

しかし、ムハンマドを受け入れることはメリットばかりでなく、メッカとの対立というリスクもあった。ただ対立は単なる負の要因ではなく、むしろ対立を望んでいた側面もある。メッカの隊商を積極的に攻撃することにより、生活の糧を得られるばかりでなく、メッカとの対立を鮮明にするという戦略的意義もあったのである。(小杉 2002:93,107)

ムハンマドの一生は、前半13年間のメッカ期と、後半10年間のメディーナ期に分けられる。メッカ期は、いわば平和的布教期であり、メッカを支配するクライシュ族がイスラーム勢力を圧迫し続けた結果、ムハンマドと彼に従う者たちはヒジュラを行って、メディーナに移住した。これによって、メディーナにおいてウンマ(イスラーム共同体)と国家が成立し、メッカとの武力的対立の時代に入った。(小杉 2011:120)

624年3月にメディーナの南西部の紅海沿岸に近い水場バドルで、バドルの戦いが行われた。この戦いでイスラーム軍は倍する数の600名ほどの敵軍に大勝して、多くの戦利品及び捕虜の莫大な身代金を獲得した。そのような経済的意義にも増して勝利の宗教的・政治的意義は大きかった。この勝利はムスリムに神の加護を確信させることになり、またこれによってムハンマドとウンマのメディーナでの地位・威信は飛躍的に高まった。メディーナに来襲したクライシュ族を625年4月のウフド戦いで、ついで627年4・5月のハンダク(塹壕)の戦いで撃破したムハンマドは、これらの戦いの過程で、敵対していたメディーナのユダヤ教も掃討していった。ウンマの優勢を確信したムハンマドは、メッカ巡礼のため、628年3月に千数百名とともにメッカに向けて進んだ。これを阻止しようとしたメッカ軍との間にブダイビアの盟約と言われる和平が成立した。その後この盟約は破棄され、630年1月ムハンマドらはメッカに軍を進め、メッカをほとんど無血のまま征服した。(佐藤他 2002:138-139)

危機の時代 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (4)

岩木 秀樹

既存の社会との思想的・社会的対立が深刻になった頃、ムハンマドにとって大きな危機の時代を迎えた。それは619年には妻ハディージャ、その後間もなくの伯父アブー・ターリブの死であった。最初のイスラーム教徒であり夫の良き理解者で励まし役でもあったハディージャの死は、ムハンマドの宗教者としての生活に精神的打撃を与えた。ハーシム家の家長でもありムハンマドを庇護してきたアブー・ターリブの死は、政治的打撃であった。

このような困難な時期にムハンマドは夜の旅と昇天の旅を経験する。それはムハンマドとイスラームにとって大きな転機を迎える622年のヒジュラ(聖遷)のおよそ一年前であったとされる。夜の旅とは、一夜のうちにムハンマドがメッカからエルサレムへ往復したことであり、昇天の旅とは、その時エルサレムにおいて、かつてのソロモンの神殿から七層の天に昇り、諸預言者たちに出会い、ついにはアラーの御許に達するというものである。

昇天の旅の物語は諸預言者の系譜の物語であり、ムハンマドがこれらの預言者たちの系譜を引き彼らと同族であることと、彼らがアラーから命じられたのと同じ使命をムハンマドがはたしているということを、確認しているのであろう。これはイスラームが新奇な教えではなく、人類の祖先アダム、アブラハムらから連綿と続く一神教の系譜に位置するとの主張であろう。

イスラームは秘蹟やミラクルの少ない比較的合理的な宗教だと言われているが、この夜の旅と昇天の旅は、やや神秘的なものであろう。これが肉体を伴う現実的な体験であったのか、魂の飛翔による旅であったのかについては、ムスリムの学者の間でも見解が分かれている。ただ宗教体験においては即物的な実体験であるか、精神的な体験であるかはそれほど問題ではない。ここで重要なことは、深刻な危機の時代にこの旅を体験したということである。この体験によって、啓示に基づく一神教としてのイスラームが系譜的に位置づけられ、ムハンマドは世界宗教の確立者としての自らの役割を新たな次元で確認したのであろう。(小杉a 2002:77,80-81,85)

預言者ムハンマド – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (3)

岩木 秀樹

610年のラマダーン月(第9の月)に、いつものようにヒラー山の洞窟で、瞑想後に仮眠をしていると、突然大音声によって呼び覚まされた。それがアラーによる大天使ガブリエル(ジブリール)を通じてムハンマドにくだされた最初の啓示である。不意の訪問者は、突然アラビア語で「読め!」と叫んだ。驚いたムハンマドはとっさに「私は読む者ではありません」と答えた。当時のアラビア半島では珍しくないのであるが、彼も読み書きが出来なかったのである。この問答が三度繰り返された後、アラーは読むべき内容を以下のように言った。

読め!「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」
読め!「汝の主はペンによって教え給うた最も尊いお方」
「人間に未知のことを教え給うたお方」であると
(『コーラン』第96章1-5節)

彼はこれが神の言葉であることを信じることが出来なかった。恐れおののく彼を励まし、断続的にくだされる言葉は神の啓示に他ならないと信じたのは妻ハディージャであった。彼女の励ましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物として極めて重要な役割を果たしたと言えよう。(佐藤 1997:49)

身内やごく近しい人々に自分の思うところや体験を説いていたムハンマドは、614年頃から、メッカの辻々に立って大衆伝導を始めた。ムハンマドが最初に説いたのは、メッカ社会における貧富の格差の増大による富裕な商人たちの拝金主義、享楽主義、利己主義、そして人々のモラルの退廃への警告であった。(佐藤 2002:134)したがってメッカの人々、特に富裕な商人たちはこのような布教に大きく反対することになった。ムハンマドの運動が、彼らの政治経済的利害や部族的伝統にまで抵触するようになったのである。メッカの人々は次第に遊牧の生活をやめ、商業に従事するようになって、血縁的つながりよりも個人の経済的利害を優先させ、伝統的宗教との関係はかなり形骸化してきた。とは言うものの、新たな形で伝統的宗教と経済活動は密接に結びついてもいた。したがって、イスラームの徹底した個人主義が理解できなかっただけでなく、何よりもムハンマドの運動が彼らの政治経済的利害を脅かすと考えたのである。(中村 1998:37)

またクライシュ族でさえ、容易にムハンマドに従わなかった。メッカ期の13年の間にイスラームに入信した人は数百人にすぎない。当時にメッカの人口は1万人程度と推測されるから、クライシュ族の人々はほとんどがイスラームに反対し続けたのである。その反対理由は、宗教的理由、社会・経済的理由、政治的理由に分けられる。宗教的には、クライシュ族をはじめとする当時のアラビア半島の大半の部族は多数の偶像を神として祀る多神教徒であった。唯一の神アラーのみを認めよというムハンマドの主張は、父祖伝来の宗教に反するものであった。また唯一神アラーの下で人間は平等であると説き、部族的出自と富裕の価値を否定したので、社会・経済的問題へと発展した。さらに政治的理由として、皆がイスラームを認めれば、ムハンマドの指導権が確立するので、次世代の指導者になろうとする者は対抗心を燃やしたのである。(小杉 2009:15-17)

ムハンマドの誕生と結婚 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (2)

岩木 秀樹

メッカは、イスラーム以前からの聖地であり、アラビア半島を縦断する隊商交易の中継基地として、約1万人が住んでいた。シリアやエジプトとの行き来があり、ユダヤ教やキリスト教も伝わっていたが、多くはカーバの自然神を信じていた。(三浦編 2011:28)

ムハンマド(1)はメッカを支配するクライシュ族のなかのハーシム家に、西暦570年頃に生まれた。ムハンマドの父アブドゥッラーはムハンマドが生まれる前に亡くなっていた。ハーシム家の長であった祖父のアブドゥルムッタリブの保護に頼って、母親のアーミナによって育てられたが、その母もムハンマドが六歳になった頃に亡くなり、その二年後には保護者の祖父も亡くなってしまった。その後ハーシム家の家長となった父方の伯父のアブー・ターリブによってムハンマドは育てられた。ちなみにイスラーム社会では現在でも肉親が亡くなった場合、近親の者が扶養することはよくあることである。イスラーム教徒にとって、孤児や貧者、女性、旅人は保護すべき対象であり、それが当然の義務とされている。

伯父アブー・ターリブ率いるハーシム家は貧しく、前代の勢威は失われていた。ムハンマドは血筋から言えば高貴な家柄であるが、勢力の小さな部族の一員として育った。少年時代には牧畜の仕事もしており、若くして伯父の隊商についてシリア方面へ出かけたこともある。誠実な者(アミーン)と呼ばれており、実直な青年であったようである。(小杉 2006:52-53)

ムハンマドが25歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商を任せた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディージャは、人を介して結婚を申し込み、その年から結婚生活が始まった。ムハンマドは25歳、ハディージャは40歳で再々婚であったといわれている。ムハンマドが年上の女性と結婚したため、イスラームには姉さん女房を嫌う習慣はなく、むしろ好ましいと論じる人もいる。また再婚についても奨励されている。この点はキリスト教、特にカトリックとはかなり異なっている。(小杉 1994:26)二人の間には三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

イスラームにおける結婚について、四人妻の規定があるが、寡婦と孤児に対する対策として定められたものである。イスラーム以前のアラビア半島は、ほとんど制限のない多妻制度が行われていたから、妻の人数を最大4人までに制限するという意味もあった。男女比を考えれば、いかなる社会でも一夫一婦が普通であり、イスラーム社会でもその例外ではない。なお四人妻の制度は、ムハンマドは例外であったが、彼の妻となった者はアーイシャを除くと夫と死別または離別した女性ばかりであり、かなり政治的理由による結婚もあったのである。(小杉 2009:139-141)

結婚によって生活の安定をえたムハンマドはやがて近くのヒラー山の洞窟に毎年一定期間籠もるようになる。メッカ社会の疲弊、貧富の格差、精神の荒廃、また父母や息子の死による人生のはかなさについて瞑想していたのかもしれない。いずれにしても彼は通常の家庭生活を送っていたわけで、その点がシャカやキリストとは大きく異なっている。啓示が始まったのは610年ムハンマド40歳の時である。儒教の伝統でも40歳を不惑として特別の区切りをするが、洋の東西を問わず40歳には何か意味があるのかもしれない。(小杉 1994:26-27)

(1) なおムハンマドの生涯については、(小杉a 2002)(佐藤 1997)(佐藤編 2002)(中村 1998)らを参照。

預言者と啓典 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (1)

岩木 秀樹

日本語の預言者とは、ユダヤ・キリスト教に由来するヘブライ語(nabi´)の翻訳語であり、旧約聖書に描かれた「神の託宣を語る者」すなわち「ヤハウェの代弁者」たちを指す。ユダヤ・キリスト教と同じ伝統を共有するイスラームにおいても「預言者(nabiy)」の語の基本的意味は同じである。預言者の中でも特に固有の啓典を授かり、その宣教を命じられた者が使徒と呼ばれる。アラーが遣わした預言者の数は12万4千人、使徒の数は313人とも言われている。またコーランに出てくる預言者は25名であり、その中でも重要な6人は遣わされた順に、アダム(アーダム)、ノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラヒーム)、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)、ムハンマドである。彼ら預言者たちは、未来のことを予測する予言者ではなく、アラーの啓示を預かり、他の人々に伝えるのが役目である。そのような意味で重責を担ってはいるが、他の人間と何ら変わりはなくイスラームでは預言者たちの神性は一切認めていない。したがって、かつてイスラームに対して名付けられていた「マホメット教」なる名称は、キリストに神性を認めるキリスト教徒による誤った自己認識の投影であった。

アラーの啓示をまとめた啓典はコーランだけではなく、最初の預言者アダム以降、数々の預言者に様々な形で啓示を授けた。例えば、モーセに与えられた律法の書(旧約聖書のなかの巻頭の5書)、ダヴィデ(ダーウード)に与えられた詩篇(旧約聖書のなかの一書)、イエスに与えられた福音書(新約聖書のなかのイエスの生涯と言行の記録)などがそれである。イスラームではこのようにコーランとともに旧約聖書や新約聖書の一部が啓典とされている。その中でも人の手が入ってない純粋なアラーの言葉を集めた啓典コーランと最後の預言者であるムハンマドのスンナ(言行)に従うムスリムだけがアラーの真の信徒とみなされている。(中田 2001:163-164、清水 2003:16-20)

ムハンマドの生涯とイスラームの成立

岩木 秀樹

イスラームはユダヤ教やキリスト教の伝統を受け継ぐ厳格な一神教である。しかしキリスト教とは異なって預言者に神性はなく、ムハンマドでさえも「市場を歩くただの商人」にすぎないとされている。またイスラームを受け入れた信徒は、部族や民族などの血縁的な絆を断ち切って一つの共同体を構成し、コーランの教えにしたがって判断し、行動するものとみなされた。ここには、イスラームがやがて世界宗教として発展していくための基本的な原理が、明快な形で示されているのである。(屋形 1993:102)イスラームは、偶像崇拝しない純粋な一神教であり、部族を超える宗教共同体を作り、宗教と政治、経済、生活を分離しない宗教である。

ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの狭間に位置するアラビア半島は、長らく国家を持たない政治的空白地帯であった。そこに生まれた新しいイスラームという原理が、それまでにない型の世界帝国を短期間に生み出したことは、歴史的な大事件であった。この事件が興味深いのは、この帝国を築いたのがイスラームという宗教だったからであろう。(小杉 2006:15)

ここではイスラームの創唱者で最後の預言者でもあるムハンマドの生涯を見ていき、イスラーム成立の歴史的経緯を考察する。

目次

  1. 預言者と啓典
  2. ムハンマドの誕生と結婚
  3. 預言者ムハンマド
  4. 危機の時代
  5. ヒジュラの意味
  6. メディーナ憲章
  7. ムハンマドの死

引用文献

小杉泰『イスラームとは何か』講談社、1994年。
小杉泰『ムハンマド』山川出版社、2002年a。
小杉泰「イスラーム」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年b。
小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社、2006年。
小杉泰『『クルアーン』語りかけるイスラーム』岩波書店、2009年。
小杉泰『イスラーム文明と国家の形成』京都大学学術出版会、2011年。
佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論社、1997年。
佐藤次高他「アラブ・イスラーム世界の形成」佐藤次高編『西アジア史 アラブ』山川出版社、2002年。
佐藤次高編『西アジア史 アラブ』山川出版社、2002年。
清水芳見『イスラームを知ろう』岩波書店、2003年。
中田考『イスラームのロジック』講談社、2001年。
中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書、1998年。
三浦徹編『イスラーム世界の歴史的展開』放送大学教育振興会、2011年。
屋形禎亮他『西アジア』朝日新聞社、1993年。

二酔人四方山問答(36)

岩木 秀樹

B:イスラームは寛容性・多様性・他者性を重視することがわかったよ。

A:そのような思考様式により国際秩序観も作られた。近代西欧国際秩序では同質文化間つまりキリスト教文化間の関係が主たる体系だったのに対して、イスラーム国際秩序では異質文化間つまりイスラーム国家と非イスラーム国家間の関係が主たる体系だった。

B:へー、やはりイスラームは自分と異なるものがすでに前提にあり、異文化関係を重視していたのか。

A:イスラーム国際秩序は東西交通の大動脈を包摂する開放的な国際体系として重要な役割を果たした。

B:そうなんだ。

A:さらに非イスラーム教徒を多様に捉えてもいた。それだけ他者認識に富み、細かく分析していたということだ。

B:非イスラーム教徒をどのようにカテゴライズしていたの。

A:ハルビー、ムスタミン、ズィンミーの三つに分けていた。

B:それってどう違うの。

A:ハルビーとはイスラーム教徒と戦争状態にある者、ムスタミンとはイスラーム世界を旅行または滞在する安全通行保障権を与えられた者、ズィンミーとはイスラーム世界に住みイスラーム支配に服する啓典の民のことだ。

B:非イスラーム教徒をそのように重層的に捉えていたんだ。

A:またイスラーム世界では領域的な国家というよりも脱領域的国家思考が強かった。これは東地中海の属人法の伝統も影響している。

B:属人法ってなに。

A:ある一定の領域に統一的な法を適用するのではなく、様々な人を弁別してそれらの人集団ごとに法を適用するシステムだ。ちなみにイスラーム世界では人を類型する基準は民族ではなく宗教集団だった。

B:え、民族によって人を分けていたんじゃあないの。

A:民族意識などはなく、強いていえば言語集団意識ぐらいしかなかった。民族意識は19世紀末もしくは20世紀初頭、さらに言えば現在ですら、上から一生懸命植え付けているのが現状だ。

B:じゃあ、イスラーム帝国では宗教集団によって、適用される法が異なっていたということなの。

A:そう、ある程度はね。そのような脱領域的国家思考とともに、国家そのものにそれほどの信用をおいていないんだ。

B:え、どういうこと。

A:国家のことをダウラとかデヴレットと言うのだけれど、その語源は変転するもの、変わりゆくものと言う意味だ。つまりイスラーム教徒にとって国家や国家機構、国家の政治的指導者は変わるものだという意識がある。

B:へー、それはおもしろいね。今後の世界の行く末を見る上でも、変化の中で国家を見るということや、国家の存在を自明のものにしないということは重要だよね。

A:イスラーム教徒にとってイスラーム共同体であるウンマは重要だが、国家機構のダウラは二次的なものなんだ。

(つづく)

二酔人四方山問答(35)

岩木 秀樹

B:冷戦崩壊以後、特に9・11事件以後、イスラーム地域で戦争が絶えないよね。

A:そうだね。オスマン帝国の領域やその周辺で問題がくすぶり続けている。そのことを指して、「ポスト・オスマン・シンドローム」と名づけた研究者もいる。オスマン帝国は1922年に政治的に解体したが、その遺産の最終的な精算は出来ていない。

B:言われてみれば、紛争の多くはオスマン帝国の領域やその周辺だね。イラクもパレスチナも旧ユーゴスラビアもチェチェンもそうだ。

A:だからオスマン帝国の共存形態や、なぜそれが崩壊して現在の中東諸国体制になったのかを見ていくことは、現在の問題の淵源をたどることにもなるんだ。

B:そうか。じゃあオスマン帝国がどのようにして共存していたのかを教えて。

A:その前に、イスラームにおける共存の考えを見ておこう。オスマン帝国も、イスラームの教えやそれ以前のイスラーム帝国の影響をかなり受けている。

B:では、なぜイスラームが比較的寛容なのか教えてよ。

A:おそらく、イスラーム教徒は最も偉大な教えであるので寛容なのは当然だと考えるかもしれないが、研究者は次のように説明する人が多い。第一はイスラームは都市の宗教、商業の宗教であるから、他者の存在が前提となる。

B:商売は身内の中だけでやっていても、利潤は増大しないよね。

A:そう。だから商業的雰囲気の中で形成されたイスラームは他者性や異人を大事にする。他者がいるから自分たちも存在すると考える。だから当然、寛容となる。そして第二の理由は預言者の多元性だ。

B:なにそれ。色々な預言者も認めるってこと。

A:その通り。アダムから始まって、アブラハム、モーセ、イエスなどを預言者として認めるんだ。最大にして最後の預言者がムハンマドとなる。だからユダヤ教やキリスト教を啓典の民、兄弟の宗教として認めた。

B:なるほど。前にも聞いたことがあるね。

A:啓典の民には、税金を払ってもらえば、ある程度の自治や宗教の自由は容認した。戦争をしたり、抹殺するより、税金をもらうとは実に現実的で実利的な政策だと思う。

B:殺したりするのも労力がかかるし、恨みを買う。税を取るとはうまいやり方で、一つの共存の方法だね。

A:さらにこの啓典の民の範疇が広がることになる。ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒まで広がったこともある。

B:へー、そんなに。

A:たぶん寛容思考からではなく、税を取りたかったためだろうが、それでも血で血を洗う闘いよりもましだと思う。

B:「コーランか剣か」はやはりヨーロッパで作られたイスラームに対する間違った認識なんだね。

A:そう。正確には、啓典の民には「コーランか剣か税か」だ。イスラームに改宗するか、戦うか、税金を納めるかだ。しかも先程述べたように、啓典の民の概念は広がることとなった。

(つづく)