「宙(そら)読む月日」 第14回
先週の火曜(10月16日)、エネシフジャパンが主催した園子温 SONO Sion 監督の映画
映画《希望の国》はフィクションです。舞台は東日本大震災から数年後の日本。福島県と同じく原発を持つ「長島県」という架空の地方自治体が、地震と津波に襲われ、再び原発事故が起こります。長島原発から半径20km圏内の鈴木家は強制避難となり、隣家で20km圏外の小野家は待機扱いとなります。映画ではこの2つの家族のたどる運命が、静かに美しく描かれていきます。福島発の原発災害があったにもかかわらず、また同種の過ちを繰り返してしまうという設定が、現在進行形の問題と格闘している罹災者(りさいしゃ)を必要以上に痛めつけることなく、かつ警世の意義を保つことを可能にしています。
試写会後のトークショーで園監督は、(国、地方自治体、電力会社ではなく)あくまで被災した家族を描いた理由を、「国が言ったからそうしよう、というのでは抵抗力は生まれない。個人、家族を単位として考えれば、考えるための基礎ができる」(主意、以下同様)からだと述べられていました。社会の矛盾やしわ寄せは、個人の生活に凝縮して現れるものです。
わたしはこの映画を見て、フィクションの力を改めて感じました。デイヴィッド・クリスチャン David CHRISTIAN の標榜するビッグ・ヒストリーは、科学と歴史学に立脚した万物のノンフィクションの物語です。科学と歴史学では当然、実証ということが重視されます。しかし、来るべき未来の破局は、現実のものとなり、「実証」されてしまってからでは遅いのです。その意味で、フィクションが果たす役割は大きいと言えます。
こんな時わたしが思い出すのが、ジョン・レノン John LENNON の歌う〈イマジン〉 Imagine です。過去に存在した現実、現に存在する現実にとらわれることなく、「想像してごらん」と歌いかける優しいメロディーが胸にしみわたります。(歌詞は動画をご覧ください。)
最後に一つだけ「ネタバレ」をしましょう。 日本語で《希望の国》、英語で THE LAND OF HOPE (希望の地)というこの映画のタイトルは、映画の始まりではなく終わりに登場します。「それが希望なのか、絶望なのか、映画を観た後に判断してほしい」「映画というのはたくさんのメッセージを詰めこむメディア(媒体)ではなくて、巨大な質問状を突きつけるもの」であるという監督の思いからです。
映画自体は決して明るいとは言えない内容です。にもかかわらず、そうしたフィクションを通して自らを省み、現在の行動を変えていくことができるという”学び”の中にこそ、「希望の地」は輝くのでしょう。想像してごらん、この手のなかに「希望の地」を。
(*37) なお、昨年来原発見直しの気運が高まる一方で、脱原発・反原発を目指す人びとの間で、最終目標やそれを達成するための手順・路線をめぐり、仲たがいが起きているが、ここではそのことには触れない。この社会運動の顕著な特徴の一つは、そうした分裂と対立を含みつつも、裾野(すその)の広い参加者を得ていることである。一方で子を持つ母、若い女性たちの参加が目立ち、他方で「反原発は左翼のやるもの」というイメージを破って、右翼・保守だからこそ原発に反対するという人びとが現れている。