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2. プーチン大統領の功罪: プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治

2000年〜2007年にGDP 4.5倍増

プーチンの大統領在任中の功の第一は、経済が再び発展し始めたことである。

その指標の一つである国内総生産(GDP)は2000年に7兆3060億ルーブルであったが、2007年には32兆9870億ルーブルになった。約4.5倍になった。

国民一人当たりのGDPは2000年の4万9835ルーブルから2007年の23万2306ルーブル、約4.6倍になった。

人口は2000年の1億4630万人から2007年の1億4200万人となり、430万人減った。

ロシア社会の衰退が続く中で生産が上向いたのである。(5)

採油量、2000年代に上向く

注目されるのは液化ガスを含む石油の採取量である。ソヴェト時代、1980年に5億4700万トンあった採油量が、1990年には5億1600万トン、1995年には3億700万トンにまで落ちていた。

それが2000年には3億2400万トン(内、石油3億1300万トン)と上向きはじめ、2007年には4億9100万トン(内、石油4億7300万トン)まで回復した。(6)

しかも、この間、原油価格は1998年の1バレル=20ドル以下の水準から2000年には100ドルを超え、2007年でも100ドルに近い水準にあった。(7)

これがプーチン大統領にとって大変な追い風になった。プーチンはこの風に乗り、民営化された石油とガスを国家の手に、政府の手に取り戻そうとした。

ソヴェト時代、石油・ガスは国家のもの

ソヴェト時代、土地も地下資源も生産手段もすべて国家のものであった。当初、これらの資源と施設は最高国民経済会議が管理していた。

1932年になって、重工業、軽工業、林業の3人民委員部(省)が作られた。1939年1月に重工業人民委員部から分かれて燃料工業人民委員部が作られ、同年10月に燃料工業人民委員部はさらに石油工業人民委員部と石炭工業人民委員部の二つに分けられた。

同年9月にはヨーロッパで第二次大戦が始まっていた。戦争の開始とともに石油工業を管理する単独の省が登場した。第二次大戦は石油の戦争であった。

第二次大戦終了後、1946年に石油工業人民委員部はソヴェトの東部地域担当と南部・西部地域担当の二つの人民委員部に分けられたが、1948年には再び一つの石油工業省に統合された。また、1955年1月には石油工業企業建設省が作られたが、これも1957年5月には廃止された。

フルシチョフ失脚後の1965年10月2日に石油採取工業省とガス工業省が作られたが、前者は1970年6月3日に再び石油工業省となった。1989年6月27日には石油工業省とガス工業省は統合され、石油ガス工業省となり、1991年11月14日に廃止された。(8)

ソヴェトのような広大な土地でたくさんの石油ガス企業を一つの省ですべてを管理・運営することは不可能であった。試行錯誤を繰り返したが、1990年代初めにはソヴェト体制そのものがすでに統治能力を失っていた。石油ガス工業省はその一例であった。

ガス工業省から「ガスプロム」へ

1985年2月12日から1989年6月27日まで最後のガス工業大臣を務めたのはチェルノムイルジンであった。彼は1989年8月にガス工業省を基礎として国家ガス・コンツェルン「ガスプロム(ガス工業)」を創設し、理事長となった。ガス工業省の財産は「ガスプロム」に移った。石油ガス工業省は実際には石油だけの工業省となった。

チェルノムイルジンはこの功績により、ソヴェト同盟解体後、民営化を推進するエリツィン大統領によって抜擢され、1992年5月にロシア政府副首相兼ロシア政府燃料エネルギー・コンプレクス副議長となり、同年12月には首相に昇進、1998年3月まで務め、退任後、「ガスプロム」に戻った。

チェルノムイルジンの庇護のもと「ガスプロム」は1993年にロシア株式会社「ガスプロム」となり、1998年には公開型株式会社「ガスプロム」となった。(9)

コンツェルンは独立した経営体であり、株式会社のとき株式は100%政府が所有していた。公開型になって、株は一般に公開されるようになった。国の持ち株は35%から40%止まりであった。(10)

石油工業省から「ロスネフチ(ロシア石油)」へ

先に述べたように、石油工業省は1989年6月27日にガス工業省と合併し、石油ガス工業省となったが、同年8月にはガス部門が「ガスプロム」として独立・分離した。残された石油部門は、遅まきながら1991年に民営化されることになったが、省名は依然として旧来の石油ガス工業省であったので、新しくできた会社は「ロスネフチェガス(ロシア石油ガス)」社となった。

これを1993年に実態にふさわしく改名して生まれたのが、国家企業「ロスネフチ(ロシア石油)」であり、1995年には公開型株式会社「ロスネフチ」となった。

1995年から1998年にかけて「ロスネフチ」の指導部は頻繁に交代し、事実上、管理のない状態であった。採油量は激減し、石油精製は生産能力の三分の一にまで低下した。「ロスネフチ」は四分五裂の状態となった。

転換は1998年10月に起こった。セルゲイ・ボグダーンニチコフがCEO(経営責任者)となった。彼は即座に大胆な計画を実施し、会社を危機から抜け出させ、2000年までに黒字企業にした。それ以降、採油の年間平均増加率は11%を超えている。(11)

「ガスプロム」を取り戻す

プーチン大統領は国の財産から個人の財産になっていた石油とガスを政府に取り戻すことにした。第一に目標にしたのは「ガスプロム」であった。

2000年6月にチェルノムイルジンを「ガスプロム」会長から解任し、2001年5月にはチェルノムイルジンの後任者ヴィアヒレフを「ガスプロム」CEOから解任した。チェルノムイルジンとヴィアヒレフはガス工業省の大臣と第一次官以来、「ガスプロム」でも最高責任者とその次席、最高責任者が席を外すときは、その席に座るという関係であった。

この二人を追放したあとに送り込んだのが、ドミートリー・メドヴェージェフであった。この結果、2005年半ばに政府と政府所有の会社とで「ガスプロム」株の50.002%を確保した。「ガスプロム」を政府の手に取り戻した。(12)

「メディア・モスト」と「シブネフチ」、「ガスプロム」の所有に

プーチンの次の目標はマスコミであった。プーチンは2000年6月にグシンスキーを逮捕させた。理由はグシンスキーが自分の会社の金を横領したという容疑であった。

グシンスキーはNTVテレビをはじめ新聞・雑誌などを傘下にもつ「メディア・モスト」のトップであった。NTVはチェチェン問題でエリツィンとプーチンを厳しく批判していた。グシンスキーは間もなく釈放されたが、同年8月に起こった原子力潜水艦クールスク号の沈没事故問題で再びプーチンを批判した。この批判にはベレゾフスキーのORTテレビも同調した。

グシンスキーは債務不履行の理由で「メディア・モスト」を取り上げられ、国外に逃げた。

同年11月にはベレゾフスキー逮捕の噂が流れた。ベレゾフスキーは急遽、ロンドンに逃れた。ベレゾフスキーはメディア企業の他に「ロスネフチ」から分離・独立した「シブネフチ(シベリア石油)」を持っていた。

数か月後、「メディア・モスト」と「シブネフチ」は「ガスプロム」の所有となった。見事に「国有化」された。(13)

ホダルコフスキー、「メナップ」と「メナップ銀行」設立

2003年10月25日にホダルコフスキー「ユーコス」CEOが逮捕された。彼は「民営化」の申し子のような存在であった。純資産は150億ドル、ロシア一番の大金持といわれた人物である。1987年、ゴルバチョフが私企業を認めたとき、彼は学友といっしょに協同組合方式でディスコ併設のカフェを開き、「多領域科学技術向上センター」というロシア語名の頭文字をとって「メナテップ」と名付けた。「メナテップ」はコンピュターの販売なども手がけ、稼いだ金を元手に翌1988年に「メナテップ銀行」を設立した。

時あたかも、1992年、ソヴェト体制が崩壊し、エリツィンが「民営化」を促進するために、1万ルーブルの「バウチャー」を発行し、国民一人に一枚ずつ無料で配った。この「バウチャー」で一万ルーブル分相当の株が買えるのである。これまで国の財産であった工場や企業を株式会社化し、全国民を株主にしようとする政策である。

超インフレと「バウチャー」の行方

私は丁度この時期、1992年9月はじめから1993年6月末までモスクワ大学内に住み、研究していた。経済学部の先生方は学内でレストランを経営していたが、それほど流行っているようには見えなかった。私はモスクワ大学の歴史学の友人に「バウチャーを貰いましたか」と尋ねた。「貰ったけれども、どうしてよいのか分からないので、机の引出に入れてある」と答えられた。

このときは10か月間で物価が25倍にもなった超インフレ、「バウチャー」は日毎に値打ちが下がるので、その日の生活に困る人々は街角で「バウチャー」を買い集めていた若者に5000ルーブルとか、7000ルーブルで売っていた。最初は値段があって、ないようなものだった。そのうちに、今日の値段はいくらであったという記事が新聞にでるようになった。多くの市民はこうして安い値段で「バウチャー」を売ってしまったと思う。

「ユーコス」、設立から破産へ

「メナテップ銀行」は「バウチャー」を買えるだけたくさん買い込んだ。彼らは数か月で企業帝国を一つ作り上げた。彼らは政府にも金を貸し付けた。その担保として「ロスネフチ」から分離・独立した「ユーコス」の政府所有株を受け取った。「ユーコス(Yukos)」とは、「ユ(Yu)ガンスク・ネフチェガス(石油ガス)生産連合」と「ク(k)イブイシェフ・ネフチェ(石油)オ(o)ルク(有機)・シ(s)ンテース(合成)精油所」が統合したことに由来している。1993年4月に「ユーコス」は設立された。ホダルコフスキーは、この「ユーコス」株を形だけの競売入札にかけて自分のものとした。

2003年4月に「ユーコス」と「シブネフチ」は合併を決めた。世界第四位の石油メジャーが誕生するはずであった。しかし、同年10月にホダルコフスキーが逮捕されたためにこの合併はご破算になった。ホダルコフスキーは脱税、重窃盗などで禁固8年に処せられた。
2004年12月、「ユーコス」の重要な子会社「ユガンスク・ネフチェガス(石油ガス)」が売却され、「ロスネフチ」のものとなった。2006年8月に「ユーコス」は破産宣告をうけた。(14)

プーチン、成り上がり者に厳しく、エリツィン一家には甘い

プーチンのやり方は荒っぽい。とくに、グシンスキーやベレゾフスキーやホダルコフスキーのような、ソヴェト体制末期から「民営化」の波に乗って荒っぽく稼ぎまくり、一代で巨万の富を築いた「オリガルヒ」と呼ばれる「少数の成り上がり者」に対しては厳しい。何とか、かんとか理屈を付けて逮捕し、「悪者は監獄にぶち込んでおけ」と言って憚らない。このため小心者は逮捕の噂が流れただけで、慌てふためいて財産を放り出してだして外国に逃げ出してしまう。かくして彼らが一挙に手に入れたものをプーチンは一挙に取り返してしまうのである。

それは何でも、かんでもではなく、石油とガスとマスコミである。それは政治をおこない、国を運営する上で不可欠であるからである。それに誰でも、彼でも逮捕し、獄にぶち込むのではない。チェルノムイルジンのように、ソヴェト同盟共産党の中央委員で、大臣にもなったような人は重職から追放するに止め、逮捕していない。エリツィンのようにお世話になった大恩のある人に対しては、その家族を含めて、甘い。財産を没収したり、逮捕したりしないだけでなく、その財産と特権を守っている。ちゃんと、相手を見て、行動しているのである。

それでも、プーチンの行動は貧困に苦しむ庶民の中では評判がよい。一夜にして財をなし、わが世の春を謳歌している連中が、これまた、一夜にしてスッカラカンになり、奈落の底におちるのである。苦々しく思っていた者にとっては何とも爽快で、気持ちが良い。プーチンは「正義の味方」である。しかも、国の財産を取り返し、国の財政は楽にしている。一石二鳥である。プーチンは「名君」となる。

「チェチェン・イチケリア共和国」独立、「第一次チェチェン戦争」

チェチェンでは1991年11月にチェチェン出身のドゥダーエフ空軍少将を中心とするチェチェン民族会議がソヴェト同盟から離脱し、「チェチェン・イチケリア共和国」の独立を宣言した。

これは法的には問題があった。ソヴェト同盟から離脱できるのはロシア連邦共和国やウクライナ共和国などの15のソヴェト同盟加盟共和国であって、ロシア連邦共和国の一部であるチェチェンにその法的資格はなかった。しかし、当時はまだソヴェト同盟が存在していた時期であり、ロシア連邦共和国もソヴェト同盟に加入していた。政治的にはチェチェンがロシア連邦共和国から脱退し、独立するためには、一挙にソヴェト同盟からの脱退を宣言することも意味があったし、このような行為はあり得た。

これに驚いた当時のロシア連邦共和国大統領エリツィンは内務省治安維持部隊をチェチェンに派遣したが、敗北し、撤兵を余儀なくされた。チェチェンは事実上、独立状態にあった。

ロシアの国内情勢が安定化し始めた1994年12月、エリツィン大統領は再びチェチェンに軍隊を送った。今回もロシア軍は苦戦したが、何とか「チェチェン・イチケリア共和国」の首都グローズヌイを制圧、ドゥダーエフも戦死した。1996年8月に双方は休戦協定を締結、1997年5月に「ハサヴユルト和平合意」に達した。5年間の停戦と2001年にチェチェンの独立問題を再び検討することが決まった。1997年にロシア軍は完全に撤退した。「第一次チェチェン戦争」は終結した。

第二次チェチェン戦争、「反テロ特別治安体制」終了宣言

1999年8月にチェチェンの独立派がダゲスタンに進攻し、同年8〜9月にモスクワのアパートで連続爆破事件が起こった。同年9月、プーチン首相は「チェチェンにおける反テロリスト作戦」を開始した。ロシア軍をチェチェンに派遣し、「ハサヴユルト和平合意」を無効とした。「第二次チェチェン戦争」が始まった。

「第一次戦争」では地上戦で苦戦したロシア軍は最初に首都グローズヌイをはじめとする都市への絨毯爆撃を実施した。クラスター爆弾や燃料気化爆弾、弾道ミサイルを使用した。2000年にはグローズヌイを制圧し、カディロフをチェチェン共和国の大統領とした。こうした中でプーチンはロシア連邦の第二代大統領になった。

2001年には米国で9.11事件が起こった。2002年にはロシアでもチェチェンでのゲリラ戦に加えて各地でテロ事件が頻発した。「テロとの戦いの時代」であった。

2003年から2006年にかけて「チェチェン・イチケリア共和国」の第二代・第三代・第四代大統領が殺害された。2005年11月にはチェチェン共和国議会選挙が実施された。プーチンはこれを「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」とした。

2007年には「チェチェン・イチケリア共和国」の第五代大統領ウマロフが北カフカスでのイスラム国家の建設をめざす「カフカス首長国」の建国を宣言した。

2009年5月、プーチンは「反テロ特別治安体制」の終了を宣言した。

2010年にモスクワ地下鉄爆破事件、2011年にドモジェドヴォ空港爆破事件と事件は続いている。(15)

ソルジェニーツィンとロイ・メドヴェージェフの意見

チェチェン問題については、ソヴェト時代の反体制派の中でも意見が分かれていた。作家のソルジェニーツィンはチェチェン戦争が始まった1991年に賢明な解決策としてチェチェンの独立を、間髪を入れずに承認し、チェチェンをロシア本体から切り離して独立国家というものを味あわせてやればよいと述べていた。(16)

これに対して、歴史家のロイ・メドヴェージェフはプーチンを支持しており、チェチェンの独立に反対している。

その論拠の第一は、チェチェン人は強い、勇敢な、戦闘的な北カフカスのナロードノスチ(亜民族)であるが、まだ、現代的なナーツィア(民族)としては形成されていない。人口は1995年に60万人ほどであり、多くない。

第二は、ロシア連邦から除外されたチェチェン、もしくは、離脱したチェチェンは、力も、地政学的条件も、経済的・文化的可能性も、歴史的経験と伝統も、有しないであろう。この歴史的経験と伝統は、独立した、国家的(ましてや<無国家的>)存在のためには不可欠である。幾つもの古い文化と宗教が絡み合っているカフカスのような特別な地域ではとくに必要である。(17)

私はどちらかと言えば、ソルジェニーツィンの意見に賛成である。独立には良い面と悪い面がある。不便を痛感したときに考え直せば良い。実践ほど偉大な教師はいない。ロイ・メドヴェージェフの考え方は旧来の植民地主義者の主張と同じである。抑圧されている人は誇り高い人である。人間の自尊心を傷つけてはならない。

チェチェンでは2000年までに10万トン以上の石油が採掘されていた。幹線パイプラインも復興し、精油所も再開していた。(18)

石油を重視するプーチンはこれを捨てたくはなかったであろう。プーチンのやり方を見ていると、やはり、こういう人しかロシア大統領にはなれないのかと思う。プーチンも、ロイ・メドヴェージェフも、ロシア人である。大ロシア人である。

(続く)

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5 連邦国家統計局編『ロシア統計年鑑 2008年』連邦国家統計局、モスクワ、2008年(ロシア語)、32ページ。
6 同上書、389ページ。
7 田畑伸一郎「ロシア経済:油価高騰による高成長の終焉」『国際問題』2009年4月 No.580,日本国際問題研究所、26−27ページ参照。
8 V.I.イヴキン『ソヴェト同盟の国家権力――最高権力機関・部とその指導者 1923−1991年:歴史伝記便覧』ロシア政治百科事典社、モスクワ、1999年(ロシア語)、42−43,67−70ページ参照。
9 http://www.gazprom.ru/about/2011/06/24
10 Marshall I.Goldman, Petrostate: Putin, Power, and the New Russia, London:Oxford University Press, 2008:マーシャル・I・ゴールドマン、鈴木博信訳『石油国家:知られざる資源強国の歴史と今後』日本経済新聞出版社、2010年、160ページ。
11 http://www.rosneft.ru/about/history/2011/06/24参照。
12 前掲、マーシャル・I・ゴールドマン、鈴木博信訳『石油国家:知られざる資源強国の歴史と今後』133−134,160−162ページ参照。
13 同上訳書、163−166ページ参照。
14 同上訳書、169−194ページ参照。
15 http://tanakanews.com/a0121russia.htm田中宇「チェチェン戦争が育んだプーチンの権力」(2000年1月2日)2011/07/01;http://chechennews.org/basic/whatis.htm大富亮「チェチェン紛争とは何か?」(2005.11.30);http://ja.wikipedia.org/wiki/「チェチェン共和国」、「第一次チェチェン紛争」、「第二次チェチェン紛争」2011/07/01。
16 前掲、中西治『現代人間国際関係史』、471―472ページ参照。
17 前掲、ロイ・メドヴェージェフ『ウラジーミル・プーチン』143,161ページ参照。
18 同上、161ページ。

プーチンとは何者か : プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治

労働者夫婦の家庭に生まれ、洗礼をうける

プーチンは1952年10月7日にレニングラード市の労働者夫婦の家庭に生まれた。夫婦は1941年6月に独ソ戦争が始まる前に二人の男の子を授かっていたが、二人とも幼くして亡くなっていた。夫婦はともに17歳で結婚し、40歳を過ぎて久しぶりに授かった子に父と同じ「ウラジーミル(愛称ワロージャ)」という名を付けた。

父は車両工場の組立工で、仕事熱心な、真面目で、言葉少なく、ときには厳しい性格の共産党員であり、職場の党組織の書記をしていた。

母は近所の工場で雑役婦をしており、心優しい、言われたことをよく聞く、従順な、おとなしい女性であった。それでも、ワロージャが生まれると、夫に内緒で近所のおばあさんと一緒に赤ん坊を教会に連れて行き、洗礼を受けさせるような意志の強い女性でもあった。

「不良少年(フリガーン)」から「模範少年」に

母はワロージャをいつも身近に置いて育てたいために夫の工場が割り当ててくれた共同住宅の中庭の掃除婦になった。一家はその共同住宅のエレベーターのない5階に住んでいた。ワロージャは保育所や幼稚園に入らず、いつも母親の目の届く中庭で育った。学校には一時間目はいつも遅刻する、喧嘩早い性格の「不良(フリガーン)」であった。

小学校4年生のときにドイツ語のサークルに入った。語学習得の才覚をもった、物覚えのよい利口な子でもあった。

10-11歳でスポーツを始めた。中庭で一番であり続けるために、ボクシングを習い始めたが、鼻の骨を折ってすぐに止めた。ついで、近所のスポーツ・クラブに通い、レスリングと柔道を合わせたようなサンボを始めた。ここで彼の人生を変えるような優れた指導者に巡り会った。この指導者がクラブの全員をサンボから柔道に転向させた。柔道は哲学であった。

それまでワロージャに大きな影響を与えてきたのは、母と中庭と学校であった。とくに「中庭」であった。彼はこの「中庭」を卒業した。「ピオネール(パイオニア=先駆者、少年共産団員)」に推薦された。文武ともに優れた「模範少年」になった。

KGBを志願、レニングラード大学法学部をめざす

ワロージャは「飛行機乗り」か、「船乗り」か、「スパイ」になりたかった。読み漁っていたスパイ小説やスパイ映画の影響をうけて「スパイは一人で数千人の人間の運命を決めることができる」と考えた。

彼は9年生の初め、16歳の時に大きな建物の国家保安委員会(KGB)レニングラード本部へ行き、ここで働きたいと申し出た。出てきた男の人が、ここは希望して入るところではない。自己希望者は採らない。軍隊か、大学・高専などの高等教育機関の卒業者を迎える、と語った。「どこの大学か」と尋ねた。「どこでもよい」。「どのような学部が有利か」、「法学」。ワロージャはレニングラード大学法学部に入ることを決めた。

これは一見、若者の突飛な思いつきのようにみえるが、彼の祖父と父のことを知ると、決してそのようなものでないことが分かる。

祖父はレーニンとスターリンの料理人

祖父はコックであり、1917年の十月革命が成功し、ソヴェト政権が発足したあと、レーニン一家の料理人を勤めた。当時、レーニンは新政権の首相。レーニンの命を狙う反革命派がたくさんいた時代、祖父はおそらくレーニン支持のボリシェヴィキ(多数派)であったであろう。そうでなければ、レーニン一家が口に入れるものを作らせてはもらえなかったであろう。

祖父はレーニンが1924年に亡くなったあと、スターリンの別荘の一つに移り、長い間働いた。1953年にスターリンが亡くなったあとも、祖父はイリインスコエにあったモスクワ市共産党委員会の保養所で料理を作っていた。幼いワロージャ少年はよく祖父を訪ねてイリインスコエに行っている。

父母はレニングラードで死地をさまよう

父は1911年にサンクトペテルブルグで生まれたが、1914年に第一次大戦が始まり、食べるものが無かったのでトヴェリ州のポミノヴォ村に移り住んだ。そこで一人の女性と知り合い、結婚した。ともに17歳であった。

1932年、父母が21歳のときに、二人はレニングラードに出てきた。郊外のペトロゴーフ(後のペトロドゥヴァレーツ)に住んだ。母は近くの工場で働いた。父はすぐに軍隊に入り、潜水艦隊に勤務した。除隊後、年子(としご)で二人の男の子が生まれたが、そのうち一人は数か月で亡くなった。

1941年にヒトラーのドイツ軍がソヴェトに進攻してくると、父は志願して軍隊に入り、レニングラードの防衛に従事し、幾度も死地をくぐり抜けた。母はドイツ軍に包囲されたレニングラードで食料不足によりひもじい生活を強いられ、餓死寸前までいった。もう一人の男の子はジフテリアで死亡した。父母の肉親にも多くの死者が出た。父母はレニングラードで死地をさまよった。(2)

祖父も父も共産党員で、自分もスポーツも、勉強もでき、ピオネールにもなったワロ-ジャが9年生の初めにKGBをめざしたことは不思議ではない。

KGBは「正義の味方」、「勇敢な愛国者」

日本ではKGBは大変評判が悪いが、ソヴェトでは「体制の擁護者」であり、「正義の味方」である。彼らは外国語を身につけ、外国に行けるエリートである。それでは保守主義者のエリート集団かというと必ずしもそうではない。

第一に、彼らは民衆の不満を誰よりもよく知っている。それを知り、対策を立てるのが仕事である。第二に、外国の実情をよく知っている。とくに、科学技術の水準においてソヴェトが外国にどれだけ遅れているのかをよく知っている。彼らは体制の擁護者であると同時に体制の改革者でもある。

ソヴェト時代、1983年にモスクワ大学のなかで映画を見たことがある。1917年の革命直後の内戦を描いたものであった。スクリーンにKGBの前身である「非常委員会(ChK=チェカ)」の職員(チェキスト)が出てきたとき観客の学生が拍手するのを聞いた。KGBの職員も「チェキスト」といわれるが、「チェキスト」は「正義の味方」であり、「勇敢な愛国者」である。

KGB職員からペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)へ

1975年、プーチンは国立レニングラード大学法学部国際学科を卒業すると、大学の派遣によりKGB職員となった。一連の研修を受けていた1983年7月28日に結婚し、長女に恵まれた。1985年にドイツ民主共和国(東ドイツ)のドレスデンに赴任し、ソヴェト・ドイツ友好会館の館長になった。ここで次女を得た。

1990年に帰国し、KGB職員の身分のまま、母校レニングラード大学学長の国際問題補佐となり、続いて、レニングラード市ソヴェト議長参事官となった。1991年6月28日にサプチャクがサンクトペテルブルグ市長に当選すると、同市の対外交流委員会議長になった。

1991年末にソヴェト同盟共産党とソヴェト同盟がなくなると、翌1992年にKGBでは中佐として「現役」を終え、「予備役」となり、「予備役大佐」となった。ソヴェト同盟共産党からは脱党せず、党員証はいまもプーチンの手元に残っている。1994年3月にペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)となった。

モスクワへ、首相に、父の臨終に立ち会う

1996年8月、サプチャクが市長選挙で敗北したあと、プーチンは活動の場をモスクワに移し、ロシア連邦大統領総務部長パーヴェル・ボロジーンの副部長になった。

1997年には国立サンクトペテルブルグ鉱山大学から経済関係の論文で博士候補(修士)の学位を授与された。同年3月26日にはロシア連邦大統領府次官兼ロシア連邦大統領監督総局長になった。

1998年5月25日にはロシア連邦大統領府第一次官、同年7月25日には古巣のKGBが改組されたロシア連邦の連邦保安局(FSB)長官に任命された。

1999年3月29日にロシア連邦安全保障会議書記になり、同年8月9日にロシア連邦政府議長(首相)臨時代理に任命された。同日、エリツィンはテレビ演説でプーチンを大統領の後継者に指名した。8月16日にプーチンは正式に首相になった。

プーチンが首相になった数日後にプーチンの父はペテルブルグで亡くなった。プーチンは忙しい中、毎週週末にはモスクワからペテルブルグに戻り、父を見舞い、臨終に立ち会うことができた。父は自分の名、ウラジーミルをプーチンに付けたが、それはレーニンの名でもあった。「ウラジーミル」とは「ウラジー(支配せよ)ミール(世界を)」という意味である。首相となり、エリツィンの後継者として大統領になる息子を見て、父はきっと満足してこの世を去ったことであろう。プーチンは親孝行な子供である。

大統領から再び首相に

1999年12月31日にエリツィンが大統領を辞任したあと、プーチンは大統領代理になり、エリツィンから「核の小ケース」を含む大統領権力の象徴を受け取った。2000年3月26日、プーチンはロシア連邦大統領に当選し、5月7日に正式に就任した。

2004年3月14日、プーチンは二期目の大統領に当選、5月7日に正式に就任、2008年5月7日に任期満了とともに大統領を辞任し、ドミートリー・メドヴェージェフと交代、同日、新大統領により首相に指名され、翌8日、正式に首相になった。メドヴェージェフ・プーチンの「タンデム(双頭)」体制が発足した。(3)

プーチンはなぜ大統領になれたのか

第一は、エリツィンがプーチンを見込んだからである。時代は大変動のあとの安定と秩序を求めた。KGB育ちのプーチンは時代が求める指導者であった。時が味方した。

第二は、プーチンの機敏で「果敢な」行動である。プーチンは一連のテロ事件をフルに利用し、チェチェンに対する戦争を積極的に推進した。「必要な人が必要な時、必要な場所に現れた。」

第三は、プーチンの政治的現実主義である。プーチンはロシア共産党の現実の力を認め、これと妥協した。同時に、大統領選挙での野党の統一候補擁立を阻止した。プーチンはしたたかな政治家である。

第四は、国民経済の一定の回復と国民生活の「奇妙な安定」である。1998年の金融危機は輸入を減らし、国内生産を増やすことになった。生活は低い水準ではあるが、安定し始めた。なんとなく先に希望が持てるようになった。プーチンは運の強い人である。(4)

ーーーーー
2) プーチンの生い立ちは、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』VAGRIUS、モスクワ、2000年(ロシア語):高橋則明訳『プーチン、自らを語る』扶桑社、2000年、参照。

3) ロイ・メドヴェージェフ『ウラジーミル・プーチン』若き親衛隊社、モスクワ、2007年(ロシア語)、682-683ページ;前掲、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』132ページ:高橋則明訳『プーチン、自らを語る』176ページ。

4) 前掲、中西治『現代人間国際関係史』、466ページ参照。

2011年タイ総選挙を読む

高橋 勝幸

2011年7月3日のタイ下院議員選挙では、初の女性首相誕生に期待をさせたタイ貢献党に圧勝・政権交代の風が吹いた。

初の女性首相になるか
タクシンの実妹インラック・チナワット
敗北を認めたアピシット

まず今回の選挙結果を見てみよう。投票者は35,203,107人、投票率は75.0%であった。前回2007 年選挙では投票者は33百万人ほど、投票率74.5%であったので、投票者は241 万人ほど増えたが、投票率はほぼ同じである。クーデタ及び現行憲法公布後初めて行なわれた前回選挙と同じく、今回も関心が高かったことを示している。下院の定数は500人、今回と前回の選挙結果を比較すると、タイ貢献党(タクシン派)は233(前身の「市民の力党」[注1]の議席)から265(53%: 括弧内の数値は全当選者中に占める割合。以下、同様) と32議席増やし、民主党は164から159 (32%) と5議席減らしている。比例代表の得票数はタイ貢献党が15,744,190票、得票率は44.7%、民主党は11,433,762票、32.5%である。

投票所風景 開票風景

プームチャイタイ党(市民の力党と中道主義党[注2]から移籍。民主党連立政権参加)は現職32から34 (6.8%)と2議席増やした。70の目標を掲げながらも、タイ貢献党の風を考慮すれば、善戦したといえよう。タイ国民発展党(タイ国民党[注3]と中道主義党から移籍。民主党連立政権参加)は25から19 (3.2%) と6議席減り、チャートパッタナープアペンディン党(ルアムチャイタイチャートパッタナー党とプアペンディン党が合併。民主党連立政権参加)は9から 7 (1.4%) と2議席減り、その他6政党が16議席を分けた。棄権票[注4]は2.9%から2.7%に減っているので、首相府周辺を占拠して黄シャツ(PAD, 反タクシン、反民主党の「民主市民連合」)が棄権票を推進した運動は失敗したといえる。

黄シャツの棄権票推進デモ 棄権票宣伝ポスター

小選挙区選挙は常識的には大政党が有利である。この選挙直前に憲法を改正する法律を制定し、下院議席を480から500に20増やし、比例代表を80から125に45増やし、小選挙区を400から375に25減らした[注5]。今回の選挙では民主党は政権党であったにもかかわらずほぼ現状維持と言ってよく、タイ貢献党は圧勝に見えるが、2005年選挙(377議席)と比較すると勝ちすぎてもいない。

過渡期のタイ選挙の経緯

次に2001年1月6日、2005年2月6日、2006年4月2日(無効選挙)、2007年12月23日の総選挙を比較しよう。

1997年憲法下初の2001年選挙は、小選挙区比例代表制の導入により、2大政党制の素地を作った。政党政治を強化し、内閣とりわけ首相に大きな権力を与えることになった。これにタクシンの個性が相まって、政権党民主党を破ってタイ愛国党(248議席)による一党支配が実現した。

史上初めての任期満了に伴う2005年2月6日の国会議員選挙では、民主党は選挙区で70人、比例で26人、計96人 (19%) の議員を獲得したにすぎず、タイ愛国党の選挙区310人、比例67人、計377人 (75%) を大きく下回った。民主党は相変わらず第2党で、タイ愛国党が圧倒的多数派で政権を維持した。民主党は敗北を受けて、アピシットが党首に就任することになった。

2005年11月、ソンティ・リムトーンクンが反タクシン運動を開始した。有識者からも、その独裁者的性格、言論統制、麻薬取り締まりの荒さ、南タイ問題による死傷者急増など批判が広がっていた。土地と株の取引をめぐって権力の濫用を弾劾し、2006年2月、タクシン退陣要求の声が高まった。民主市民連合(黄シャツ運動に発展)が結成され、街頭デモが続いた。タクシンはデモへの対応として、満を持して国民に信を問うことを決心し、2月24日国会を解散した。

2006年4月2日に総選挙が行なわれたが、憲法裁が無効にした。タイ愛国党は1,600万票、460議席を獲得した。棄権票は980万票で、40議席が空席のままだった。勝ち目のない民主党、タイ国民党、マハーチョン党の野党3党が選挙をボイコットしたからである。国王が「一党、一人のリーダーの選出では民主選挙とは言えない」と司法に介入し、憲法裁の判断となった。その理由は、民主党らの主張と同じく、国会解散から選挙までの期間が短く、小政党に不利というものだった。6月9日には国王即位60周年式典が控えていた。その後、選挙やり直しが模索された。

ところが、タクシンが国連総会に参加している最中、2006年9月19日、軍事クーデタが決行された。タクシン首相がその座を追われ、枢密院議員スラユット・チュラーノン陸軍大将を首班とする暫定政権が発足した。2007年憲法制定(18番目の憲法、8月24日発効)を経て、総選挙が行なわれることになった。

現行憲法下で最初の2007 年12月23日総選挙では、タイ愛国党の後身でタイ貢献党の前身である「市民の力党」は小選挙区199人、比例区34人、計233人(480議席中49%)で、民主党は小選挙区131人、比例区33人、計164人(34%) の国会議員を獲得した。市民の力党党首サマックが首相となったが、料理番組出演料を受領して失職した。続く、ソムチャーイ首相も黄シャツに首相府、空港を占拠され、挙句の果て、2008年12月2日(国王誕生日5日の直前)に憲法裁によって2007年選挙違反で市民の力党が解党処分を受けた。そこで、民主党は第2党であったが、枢密院と軍部をバックにして連立政権を樹立した。これに加わったタイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[注6]。

主党は農民、下層民の支持を取り付けるため、市民の力党政権のポピュリズム政策を継続、強化した。しかし、第2党であり、直接に選挙を経ずに軍部の支援で誕生した政権には、国会を解散し、選挙を実施して国民の信を問うべきとの声が高まった。とりわけクーデタに反対する赤シャツ(多くがタクシン支持)である。しかし、民主党はそれをせず、体制と軍部に頼って、政権と体制の維持に腐心してきた。信を国民に問うという方法もあったが、選挙を行なっても、タクシン派に負けることは確実だったので、解散もできず、政権に食らいついてきた。その結果が今回の下院議員選である。

任期が残すところ短くなり、赤シャツの要求も高まっていたので、アピシット首相もついに2011年3月11日、5月上旬に国会解散の見通しを明らかにした。そして5月9日に国会を解散し、5 月24日に候補者を受け付け、7月3日選挙の運びとなった。下院議院は任期をあと6か月弱残していた。選挙を半年ほど早めたからといって、主導的に解散権を行使したことにはならない。中西治氏が麻生政権の崩壊時に指摘しているのと同様に、まさに「追い込まれ解散」、「野垂れ死に解散」である[注7]。

タイの政治は21世紀に入ってから重大な変わり目に突入している。2001年の総選挙のときにタイ貢献党の前身であるタイ愛国党は比例代表で1,163万票、248議席を獲得した。それが2005年1,899万票をピークに、2007年には1,234万票、今回1,575万票である。これに対して民主党は2001年に761万票、2005年721万票、2007年に1,215万票、今回は1,140万票である。この10年間に民主党は761万政党から1,140万政党になった。タイ貢献党は1,163万政党から1,575万政党になり、政権党に返り咲いた。2大政党制への趨勢といえるかもしれない。

まとめ

民主党はクーデタ、市民の力党の憲法裁による不可思議な解党処分を経て、体制・軍部を背景に連立政権を樹立し、タクシン派のポピュリスト政策を引き続き実施した。国会解散要求などの反政府運動を激化させ、それを武力制圧し、国内対立を先鋭化させた。反政府運動参加者の殺りく、バンコク中心街及び県庁焼き討ち、政治犯容疑者に対する人権無視の拘留は、復讐心すら巻き起こし、政治不信を刻みつけた。国内対立を反映する社会になり、政情不安がみなぎった。南タイ問題、麻薬問題も深刻である。国民生活については物価高騰、失業問題が家計を逼迫させている。外交ではプレアビヒア寺院をめぐってカンボジア関係が著しく悪化した。世界遺産委員会からの脱退はタイの国際イメージを傷つけた。

燃えるウボン県庁 県庁焼き討ち容疑者

今回、タイ貢献党が勝利し、民主党が敗北を喫したとも言えるが、実のところ、民主党の議員数はさして変化はない。つまり、233議席の第1党に対して164議席の第2党である民主党がこれまで政権を担当していたのが異常なのである。170議席を下回れば辞任すると豪語していたアピシット首相は7月4日、党首を辞任した。下限が170とは政権党としてそもそも弱気といわざるをえない。与党はタイ貢献党がタイ国民発展党、チャートパッタナープアペンディン党、パランチョン党、マハーチョン党を加えて299議席に達し、安定政権の条件が整った。

タイの政治はこれからどのようになるだろうか。いくつかのシナリオが考えられる。第一は最悪のパターンである。アマート(貴族高官)や軍部がタイ貢献党連立政権を認めず、クーデタが起こる。任命による政府、国会が成立する。黄シャツが望んでいる形だ。そうなれば、赤シャツは再び勢いを増し、引き続き混乱が続くだろう。もし、この状況で軍部がクーデタを起こすとすれば、今回の選挙結果が現体制に対する主権者の厳しい批判であることが分かっていないことになる。

第二はタイ貢献党がアマートや軍部と取引し妥協する。これには様々なバリエーションがありうる。選挙で大勝したタイ貢献党はそう簡単には妥協に応じないだろうが、対立から国民和解をめざして、タクシンの処遇を含む政治事件の対応をどうするかのか注目される。赤シャツが強く求める百人近いデモ制圧犠牲者に対する責任追及は既成秩序に及ぶだけに最大の争点である。赤シャツは「恩赦」を認めず、正義(無罪)を主張している。その犠牲者と家族は事実究明と処罰を求めており、補償だけでは済まされない。また、赤シャツの射殺を命じた者が明らかになり、タイ貢献党の妥協の上で恩赦を与えられれば、赤シャツの反発は避けられない。

第三はタイ貢献党が主導的に国民和解を進めることである。政治事件、不敬罪についても進展が見られよう。タイ貢献党を勝たせた赤シャツの政治犯容疑者が無罪放免される。ただし、タクシンに恩赦を与えることに成功すれば、黄シャツなど反政府運動を勢いづかせる。アマートや軍が動き出すことは間違いない。

第四はタイ貢献党が公約を実行できず、政治犯容疑者を見捨て、赤シャツとの対立を深めることである。国民からも信を問われることになる。民主党と同じ轍を踏むことになろう。タイ貢献党、赤シャツのそれぞれ内部でも対立・抗争が発展する。

タクシン政権を経て、タイの国民、とりわけ農村や下層の人々は「政治が変われば、社会が変わる」ことを実感した。かれらの政治参加はタイの政界の再編成をもたらすだろう。産みの苦しみはまだ続く。揺れ動くタイの政治も21世紀システムへと向かいつつある。今回の下院選挙はその軌道修正といえるかもしれない。

1 2006年の無効選挙で違反があったとして2007年5月解党処分となったタイ愛国党を引き継いだが、2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。タイ貢献党が引き継いだ。
2 2007年10月創設。タイ愛国党の受け皿になった政党の一つ。2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により、プームチャイタイ党に引き継がれた。
3  2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。
4  投票用紙に、誰にも、どこにも「投票することを望まない」という欄がある。
5 この常識は『タイラット』2011年7月7日号のコラムでも確認できる。選挙区0で比例代表で4議席を獲得したラックプラテートタイ党はその典型である。しかし、政党よりも人物本位で選ぶ傾向が未だ強いタイでは小選挙区が中小政党にも有利であるともいわれる。それはこの法律立案過程を見れば明らかである。今回の選挙ではチョンブリー県のパランチョン党(ガムナン・ポ一族)、スパンブリー県のバンハーン・シンラパアーチャー一族が挙げられる。
6  http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス
7  中西治「日本の政治情勢について」2009年7月13日 [2011年7月5日アクセス]。選挙分析は中西氏の手法に倣った。ここに恩師に感謝申し上げたい。また、チェンマイ大学歴史学科の水上祐二氏にも貴重なコメントをいただいた。彼は『時事速報』(7月6日号)で選挙後のシナリオを的確に分析している。

(2011年7月7日脱稿)

グローバルアカデミー(GA)シンポジウム報告

岩木 秀樹

2011 年 7 月 10 日 (日) 午後 4:30 から 7:00 まで、かながわ県民センター 604 号室で、統一テーマを「今、原発問題を考える」として、グローバルアカデミー(GA) シンポジウムが開催されました。会場には 13 名の方、ネット参加でも多数の方が参加されました。

まず、片山博文さん (桜美林大学准教授) より「リスク社会における原発の経済分析 ―原子力損害賠償制度を中心に―」とのテーマで報告がありました。環境経済学の観点から、原子力開発の歴史に触れ、米国と日本における原子力損害賠償制度の問題を述べ、原発のリスクは市場においても国家においても吸収しきれないことを考察されました。

次に、竹本恵美さん (創価大学非常勤講師) より「原子力ヒバク問題をめぐる科学の限界と社会的判断」とのテーマで報告がありました。原子力ヒバクの歴史や人体に与える影響を述べ、現在のヒバクの認定基準の甘さを指摘され、その基準は人命を守るものではなく、原発を推進するものであると主張されました。

2 人の報告の後、林亮さん (創価大学教授) より、コメントがあり、現在の問題の根底には、米国、核兵器保有国、原発保有国、原発も持たせてもらえない国といった国際的な核秩序ヒエラルキーがあり、核兵器も原発も表裏の関係であることを指摘しました。

その後、ネット参加者も含めて大いに議論が盛り上がり、原発がないと経済は回らないのか。今後、原発をどうすべきか。国家犯罪として裁判をすべきだ。原発がなくなっても数十年は収束のために雇用は確保される。原発推進のために、無理やり電気を消費させてきた。原発推進が自己目的化しており、政・官・財・学・マスコミが癒着している、などの問題が議論されました。

地球宇宙平和研究所としても、原発、核の問題は重大なテーマであり、今後の平和社会を創る上で、大きな障害になりうるので、さらに議論を継続していきたいと考えています。

宙(そら)読む月日 (5) 国際ビッグ・ヒストリー学会誕生

のぶおパレットつじむら

イタリア・コルディジョーコ
イタリア・コルディジョーコ (写真提供:ジナ・ジャンドメニコさん)

国際ビッグ・ヒストリー学会 International Big History Association: IBHA (*12) は宇宙、地球、生命、人間の歴史の統一的・学際的な研究・教育を推進するためにあります。IBHAは2010年8月20日、イタリアのコルディジョーコ地質観測所 Osservatorio Geologico di Coldigioco (*13) で設立されました。

きっかけは、地質学者のウォルター・アルヴァレス Walter Alvarez さんが、地質学のビッグ・ヒストリー的アプローチについての理解を深めてもらおうと、何人かのビッグ・ヒストリアン(ビッグ・ヒストリーの研究者・綴り手)をこの観測所に招いたことでした。多くのビッグ・ヒストリアンが、かなり以前から学会のような団体をつくろうと思索を重ねてきました。そこに、幾人ものビッグ・ヒストリアンが一堂に会したのです。学会を始めることを正式に決定するには絶好の機会でした。

クリスチャン、スピール、アルヴァレス、クレイグ・ベンジャミン Craig Benjamin、シンシア・ブラウン Cynthia Brown、ロウエル・ガスタフソン Lowell Gustafson、バリー・ロドリーグ Barry Rodrigueは、その場で臨時執行委員会を結成し、大要以下のことが決定されました。

1) 国際的なビッグ・ヒストリーの学会を創設すること。
2) 国際的なビッグ・ヒストリーの雑誌を、電子版・紙版の両方で創刊すること。誌名は独創的なものが最善であろうこと。
アルヴァレスがカリフォルニア大学から出版できないか探ること。
3) 国際的なビッグ・ヒストリーのウェブサイトを創設すること。
サイトには活発な議論のための掲示板、ビッグ・ヒストリーの電子ライブラリー(図書館)またはアーカイヴズ(文書館)を盛り込むこと。
4) 第1回の国際的なビッグ・ヒストリーのカンファレンス(学術会議)を開催すること。(*14)
開催地はグランドヴァリー州立大学 Grand Valley State University (米国ミシガン州)にすること。
開催日は7月下旬か8月上旬が教師や他の教育者にとって参加しやすいであろうこと。
これより先は、ベンジャミンが準備に当たること。

IBHAは設立に当たり、マイクロソフト・エクスターナル・リサーチ Microsoft External Research (マイクロソフト社の外郭研究機関マイクロソフト・リサーチ Microsoft Research の一部門)から資金援助を受けました。去る2011年4月5日には、米国ミシガン州の非営利活動法人として正式に認可されました。本格的な船出です。

IBHAは発足時の決定どおり、自身初の国際カンファレンスを、2012年8月3日-5日、グランドヴァリー州立大学で開催します。大会テーマは「ビッグ・ヒストリーの教育と研究:新たな学問的領域を探る」です。このカンファレンスには僕も出席し、ペーパー(論文)を披露する予定です。

注記
(*12) 国際ビッグ・ヒストリー学会 International Big History Association: IBHA
ウェブサイト  http://www.ibhanet.org/
ブログ http://ibhanet.blogspot.com/
ユーチューブ広報動画(12分36秒) http://www.youtube.com/user/IBHAnet
ツイッター http://twitter.com/IBHAnet
フェイスブック http://www.facebook.com/pages/International-Big-History-Association/129585663779705

IBHA設立の経緯について、ウェブサイトだけではわからない点は、スピール夫妻、とりわけジナ・ジャンドメニコ Gina Giandomenico さんから教えて頂いた。記して感謝申し上げる。

(*13) コルディジョーコ地質観測所 Osservatorio Geologico di Coldigioco http://www3.geosc.psu.edu/~dmb53/OGC/index.html
アルヴァレスの教え子の地質学者アレッサンドロ・モンタナーリ Alessandro Montanari が所長を務め、妻でアーティストのパウラ・マウテッロ Paula Martello と運営している。

(*14) ビッグ・ヒストリーの国際カンファレンス自体は、これまでも開催されている。詳しくはスピールのウェブサイトのこれまでのカンファレンスをまとめたページを参照。
http://www.iis-communities.nl/portal/site/bighistory/page/f4605854-ef1e-4d45-00ce-0b1442c2a8a0

プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治

2011年7月3日に配信された2011年度第1号講義を複数回に分けて掲載いたします。ー事務局

特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所
ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット
2011年度講義録第1号 (2011年7月3日)

現代ロシア社会論(1)

プーチン大統領のロシア -2000年~2008年-

中西 治

はじめに

プーチンが2000年3月26日にロシア連邦の大統領に当選し、5月7日に正式に大統領に就任してから11年が過ぎた。この間、最初の8年間は大統領であったが、あとの3年余は首相である。

私はプーチンが大統領になって3年近く経った2003年4月に上梓した著書『現代人間国際関係史』で、プーチンはアンドロポフ型の政治家であり、エリツィンが作った体制の改革者であり、体制の効果的な運用をはかる行政官であり、実務家であると評した。また、2002年10月のモスクワの劇場占拠事件について、ああいう処理ならば誰でもできる。一人も死なせずに問題を処理するのが真の政治家というものである。このような政策を続けるならば、プーチンには未来はないと書いた。(1)

それから8年ほど、現在のロシアについては語らず、書いてもいない。来年、2012年にはロシアで大統領選挙がおこなわれる。久しぶりに現在のロシアについて語ろうと思い、書き始めた。今回はプーチンが大統領に当選した2000年春から2期8年の任期が終わった2008年春までの大統領時代を対象とする。

目次

  • プーチンとは何者か
  • プーチン大統領の功罪

1) 中西治『現代人間国際関係史――レーニンからプーチンまでとローズヴェルト、チャーチル――』南窓社、2003年、473-475ページ参照。

赤シャツ村訪問記: マハーサーラカーム県コースムピサイ郡ドーングローイ村を中心に

高橋 勝幸

赤シャツ村については、『日刊マティチョン』2011年6月10日号(1)に特集がある。それによると、最初の赤シャツ村は2010年12月15日にウドーンターニー県ムアン郡のノーンフーリン村にできた。現在、ウドーンターニー(以下、ウドーン)、コーンケン、マハーサーラカーム県を中心に300以上あるといわれる(2)。それらは赤シャツが6-7割を占める村だそうだ。村民は現在、当然のごとくプアタイ党を支援している。2011年7月3日の総選挙を8日後に控えた6月25日、筆者は赤シャツ村を訪れた。前日にコーンケン県市内に入った。25日朝、ホテルのフロントで「赤シャツ村に行きたいのだが」と話すと、女性はキョトンとしていた。日本からわざわざ取材にでも来たのかという調子だった。しばらくして、行き先と行き方を教えてくれた。早速、教えられた乗り合いバスをつかまえると、「赤シャツ村には行かない」と言われた。教えてくれたのは、どうも赤シャツが多い住宅地であったようだ。バスターミナルへ行って、三輪タクシー(トゥクトゥク)に赤シャツ村へ案内してもらうことにした。1台目のトゥクトゥクは赤シャツ村がどこにあるか知らないと正直に答えてくれた。2台目のトゥクトゥクは「知っている」というので、それに乗った。乗って5分も経たないうちに、赤シャツの街宣車に出会った。「誠実でない、嘘つきのアピシットに対して、選挙で戦おう」とスピーカーで流していた。案内された所は、赤シャツの小さな拠点で、家電製品の卸問屋のような所だった。プアタイ党の遊説カーが1台停まっていた。そこで何人かに聞いたが、赤シャツ村の所在はわからなかった。話の通じる人がいなかったので、バスターミナルに戻った。筆者は東北タイのトゥクトゥク、タクシー、バスなどの労働者は皆赤シャツだと信じ込んでいる。メーター・タクシーやトゥクトゥクの運転手に聞いてもわからずじまいだった。バスターミナルの案内人に聞くと、赤シャツ村は郊外にあり遠いという。マハーサーラカーム県にある赤シャツ村が行きやすいと教えてくれた。

ウドーン、コーンケン、マハーサーラカームに300近く赤シャツ村があるというから、筆者は簡単に行けるものだと思い込んでいた。筆者の住むウボンラーチャターニーからはウドーンは遠いし、マハーサーラカームは赤シャツ村が少なそうだから、コーンケンを選んだ。コーンケンまでバスで5時間近くかかった。ウドーンへはコーンケンからさらに2時間かかる。コーンケンからマハーサーラカ-ム行きのバスに乗り、乗務員に「赤シャツ村に行きたいから、近くに着いたら教えてほしい」と頼んだ。バスに乗ってしばらくすると、雨季に入って苗を植えたばかりの水田が広がった。この中を自家用車もなしに、赤シャツ村に到着するのは容易ではないと思うようになった。うとうとしていると、「赤シャツ村です」というアナウンスがあった。マハーサーラカーム県市内のちょっと手前だった。確かに何やら入り口に赤旗が立っている。それは寺院だった。赤シャツのラジオ局が境内に設置されていた。赤シャツ村ではなかった。放送を終えたばかりのDJウィーラポン・クーリーランが筆者に親切にしてくれた。同県の赤シャツの創設メンバーの一人と自称する。彼はマハーサーラカーム大学の英語教員を定年退職した。チャムローン・ダーオルアン(3)の親戚筋だという。彼に、赤シャツ村の案内者を紹介してもらい、市内バスターミナルまで送ってもらった。コーンケンの方へ30キロ戻ることになった。コースムピサイ郡(市内からバスで40分)のバスターミナルに赤シャツ・リーダーが車で迎えにきてくれた。

赤シャツ・リーダーの話

迎えにきてくれたのは、マハーサーラカーム県の反独裁民主戦線(ノーポーチョー、赤シャツの中央組織)の事務局長でスティン・クランセーン博士(4)(元パラン・プラチャーチョン党国会議員)に次ぐナンバー2である。名前はチャートアーティット・タンタラック(51歳)、ラームカムヘーン大学を卒業した弁護士だ。1992年5月の民主化運動に参加した。赤シャツ村に行く前に、彼の法律事務所で、赤シャツ村のレクチャーを次のように受けた。

「ノーポーチョーが認める赤シャツ村はマハーサーラカーム県には今のところコースムピサイ郡フワクワーン区のドーングローイ村一つしかない(5)。同県のノーポーチョーの議長であるスティンが2011年5月17日に発足式を執り行なった。ドーングローイ村は8割以上が赤シャツである。赤シャツ村ができて1ヶ月余がたつが、6月16日、同県知事によって赤シャツ村の宣言に対して法律違反の疑いがもちあがった。しかし、法律にそのような規定はない。思想の自由を制限する方がかえって法律違反である。

「赤シャツ村の宣言は、村民の合意があって、その上で村長も承認していることが前提条件である。数日前も赤シャツ村を宣言した村があり、自称の赤シャツ村は既にいくつかある。公認を得るには、主導権争い・もめごとがないか、村民の合意が取れているか、本気度を確認する必要がある。

「赤シャツ村の目的は、民主主義を求め、助け合って戦うことである。その理由は、法の下の平等がなく、二重基準がまかり通っているからだ。活動は赤シャツ村宣言をした以外は、他の赤シャツと同じである。すなわち、集会と選挙監視だ。監視とは公正な選挙が行なわれているか、選挙権の資格、買収などに警戒することである。赤シャツ村宣言の影響は、内部に対して誇りを生み、他県に対して勇敢さの見本として励ましとなっている。

「赤シャツ村設置と選挙とは関係がない。その証拠に、ずっと以前にできた村がある。準備次第だ。赤シャツ村より進んだ村もある。実際、選挙運動は必要ない。

「赤シャツは民主主義を要求しているだけで、イデオロギーはない。」

赤シャツ村へ入る

赤シャツ村入り口、
左手にプアタイ党の選挙看板が見える
入り口に立つ赤シャツ婦人

以上のような説明を聞いたうえで、赤シャツ村へ行った。赤シャツを着た婦人が5人、村の入り口にたむろしていた。彼女らが言うには、同村は約300世帯千人(6)から構成され、主な生業は稲作で、自家米の残りを売って生計を立てている。筆者は次のように質問した。

―赤シャツとして何をしているか。

「私たちは民主主義を要求している。難しいことを言っているのではない。二重基準を批判しているのだ。赤シャツが不当に逮捕されている。正しいことと誤っていることが逆転している。以来、政治に強い関心をもつようになった。マハーサーラカームの赤シャツがバンコクの制圧で殺された。武器を持たない素手の人間だ。誰が殺りくを命じたのか。アピシットだ。」

―赤シャツ村ができて何か変わったか。

「赤シャツ村ができて、嬉しい。それ以外に特にできる前とできた後で変化はない。」

―選挙運動に関わっているか。

「皆外見はどうでも、心は赤シャツなので、選挙活動は不要である。プアタイ党が勝利したら嬉しい。女性首相が生まれる。女性の方がいい。アピシットは国会解散の要求に耳を傾けなかった。アピシットはうそつきで、不誠実だ。その政治は二重基準で汚職まみれだ。私たち田舎者は誠実でうそをつかない。借金漬けにしたアピシットは最悪だ。今、物価が高い。それに比べて、タクシンはいい人だ。」

―タクシン政権のどこがよかったか。

「タクシン時代、一村一品運動に参加し、特産品を作ったがよく売れた。30バーツ医療政策をよく利用した。アピシットはそれを真似ただけだ。タクシンの前は人物本位で選んだ。タイ愛国党の政策に賛同し、ためしに投票し、お手並みを拝見した。口だけのアピシットと違って、公約を実行した。」

―長いこと、民主主義を要求して疲れないか。

「私たちは後方部隊なので疲れない。(赤シャツ)テレビを見て情報をアップデートしているだけで、集会に参加していない。」

婦人の中の一人、ムンさんは2010年3月から5月までのバンコクの赤シャツ集会にトータルで2ヶ月参加した。彼女は筆者に訴えた。「5月19日に、パトゥムワナーラーム寺(7)の向かいにいた。中にいたら殺されていた。高架鉄道(BTS)の線路には兵士が並んでいた。そこから銃弾が発せられた。4月から5月までの殺人が最大の憎悪を生んだ。赤シャツの運動は勢いを増した。」

赤シャツ男性は次のように筆者に話した。「2009年から赤シャツの活動に参加した。コーンケンの友人から紹介された。その頃は、この村にまだ赤シャツはいなかった。その後、メディア、特に赤シャツのテレビ放送の影響で赤シャツが拡大した。」

赤シャツ村の中:
プアタイ党選挙看板と赤旗
赤シャツ村の中にある民主党選挙本部

村の中で変わったところといえば、家の前に赤旗を立てるぐらいだった。しかし、この赤シャツ村の場合、同じ村の中に民主党4区の選対本部があった。もちろん、赤シャツ村ができてから、設置されたものだ。嫌がらせのつもりだろうが、赤シャツは特に気に留めていない。

赤シャツ選挙支援集会

筆者は25日、マハーサーラカーム県赤シャツ事務局長に同行することにした。選挙を前にして、毎晩どこかしら少なくとも一箇所で区単位の集会が行なわれているという。集会は闘争の一つで、協力して独裁に反対し、民主主義を推進する政党を支援する。弁護士が職業である彼は集会について「政党名は言えないが、赤シャツが支持する政党は一つしかない。言えないのは、選挙法にひっかかるからだ。演説会は許されるが、音楽など華美な集会、誹謗中傷、脅迫は禁じられている。批判は可能であるが、中傷と批判の線引きは難しい」と説明した。

赤シャツ選挙支援集会

マハーサーラカーム大学に近いチャンプラディット寺(カンタラウィチャイ郡カームリアン区マコーク村)の広場で赤シャツの集会が行なわれた。当選挙区はプアタイ党とプーミチャイタイ党の一騎打ちで激戦区である。というのは、プーミチャイタイ党が県行政機構長(インヨット・ウドーンピム)を候補者に立てたからである。19時30分から演説が始まった。弁士は菩提樹の下の壇に立った。特設ステージはない。この時点で大人は30人くらいで、戯れる子どもの方が多かった。いすも用意されておらず、ござやサンダルを敷いて座っていた。

20時に同県ノーポーチョーの事務局長チャートアーティットがマイクを握った。この時、聴衆は百人ぐらいいた。まず、「今日は候補者は来ない」と前置きした。そして、「我々は長い間、民主主義を要求してきた。軍部より上の、政府よりも上のセーンヤイ(強力なコネ)がタイの政治を牛耳っている。アムマート(貴族高官)制度である。スラユット・チュラーノンら枢密院が強い影響力をもっている」と現状を述べた。当面の任務として、①政治犯・収容されている赤シャツの釈放、②アピシット、ステープ、将校ら人民の殺りくを命じた者の処罰、③政党解散を容易にする二重基準で任意的な2007年憲法の廃止と1997年憲法の復活、④赤シャツ村、赤シャツ村長、赤シャツ区長の推進、⑤選挙監視の5つを掲げた。その上で、7月3日の選挙の意義について述べた。「今回の選挙はアムマートの国するか、プライ(平民農奴)の国にするかを決する選挙である。第1党が政府をつくらなければならない。第1党が251以上の議席(500議席)を獲得すれば問題はない。しかし、第1党が過半数を獲れなかった場合、アムマート、見えざる手、セーンヤイが介入し、第2党、第3党から政府を作り、民主主義に危殆が生じる(8)。それゆえ、断固、過半数を獲らなければならない」と。

次に同県ノーポーチョー代表スティンがイサーン語(東北タイ方言)で演説した。「今日は、レッドカードが出る恐れがあるので、候補者は来ない。今、区ごとに集会を行なっている。タクシンは4年の任期を全うした唯一の首相である。IMFの借金を完済した。2期目も377議席を獲得した。そこで、嫉妬が起こった。タイ愛国党は解党処分となった。妻が土地を購入し、タクシン元首相は禁固2年の判決を受けた。2007年選挙はイサーン人の力で勝利し、サマック首相を生んだ。料理番組に出て、サマックも首相の座を追われた。ソムチャーイ首相にいたっては、首相府を不法占拠され、2ヶ月で憲法裁の判決で退陣となった。当時教育委員会委員だった自分は、飛行機でバンコクに行き、ピックアップで地元マハーサーラカームに帰る羽目になった。フカヒレスープを食べていたのが、蛙のスープをすするようになった。妻は呆れた。アピシットがいなければ、頭が痛いことにはならなかった。頭痛の種がなければ、赤シャツは出現しなかった。タクシンは30バーツ医療政策、老齢者に対する福祉、公共のボランティアに対する謝金支払い、公務員の給与アップ、村長・区長の給与アップ、農民の収穫補償を実施した。アピシットは口だけである。大学院を出ても仕事がない。麻薬問題が深刻になっている。ラーチャプラソンでなぜ政府は人民を殺したのか。最近、赤シャツ村、赤シャツ村長を取り締まろうとする動きがあった。……」と。

最後に、資料が配布され、投票が無効にならないように投票用紙の記入方法の説明があった。22時10分過ぎに解散となった。最大時、約200人の聴衆がいた。女性が7割で、30代後半以上が多かった。筆者の回りは壮年ばかりで、酒臭かった。飲んではいないが、飲んできたようだ。

むすび

この手の赤シャツの集会には、候補は来れないかもしれない。巧みにプアタイ党への言及を避けているものの、前身のタイ愛国党の業績、パラン・プラチャーチョン党の解党、タクシンの政策手腕への賞賛、サマック、ソムチャーイに対する言及、アピシット首相に対する非難は選挙法に触れるかもしれない。赤シャツによる現体制、アピシット、民主党への批判は厳しい。一方の民主党は6月23日、ラーチャプラソンで街頭演説会を行ない、躍起になって赤シャツの射殺に対する責任を回避している。

マハーサーラカーム県は赤シャツが一つのグループに結束しているという。同県の赤シャツの強みは、県の規模が小さく、スティンというリーダーがいることだと筆者は思う。

選挙や運動にはタマが必要である。その意味でインラック・チナワットは最高のタマだ。タクシンの妹、タクシン人気、女性、美人と来ている。ヨンユット・ウィチャイディット党首代行では影が薄い。インラックなら応援しやすいし、応援したくなる。

次の問題は選挙後である。赤シャツが掲げていた国会解散、選挙実施という当初の目標が達成する。プアタイ党が勝利した場合、反政府運動を展開してきた赤シャツはいかに運動の勢いを維持していくのか。求心力低下は避けられないのか。何を敵として戦うのか。新しいタマを打ち出せるか。期待が高いだけに、プアタイ党の政治に対する失望は生まれないか。黄シャツやアムマートはどう反応するか。興味は尽きない。

(ウボンラーチャターニー大学教養学部東洋言語文学科講師)

1 筆者が実際に見たのは6月9日。

2 マティチョン』同号によれば、ウドーン県には1,635村中、213の赤シャツ村があり、コーンケンには210村ある。その他に、南タイのトラン県でも5月29日に赤シャツ村が生まれた。選挙運動員(フア・カネーン)との謗りを恐れて、総選挙後にさらに赤シャツ村が誕生すると報じられている。最初の赤シャツ村として国内外のメディアに取り上げられてから、ノーンフーリン村は治安維持本部や当局の監視を受けるようになり、嫌がらせの電話もかかってくる。当局は赤旗の撤去を要請した。同村はそもそも県庁焼き討ちの嫌疑に対して、国家権力を恐れないことを示すために、赤シャツ村の宣言をした。最近では軍事教練所の嫌疑をかけられている。また、王制廃止要求という言いがかりについては、王室と政治の分離を要求しているだけだと主張している[“‘Red’ Udon Thani villagers deny training militants,” The Nation, June 27, 2011]。

3 マハーサーラカーム県の自由タイのリーダーで、インドシナ独立運動に対する武器支援を担った。元閣僚で、プリーディーの武装蜂起に連座して、1949年3月、警察当局によって暗殺された。チャムローンに次ぐ自由タイのリーダーである同県国会議員ナート・ガンタープ(現ラーチャパット大学の前身の校長)はウィーラポンの父親と親しかった。やはり自由タイで、同県国会議員であったディロック・ブンソームとも親しく、家が近所だという。

4 スティンはパラン・プラチャーチョン党の解党処分に伴い、2008年12月選挙権を失った。元マハーサーラカーム大学学長補佐。

5  ドーングローイ村は実際は第6、第17、第20の3つの村からなる。

6  不正確であると思われる。

7 看護士を含む6人が銃殺された。多くの赤シャツが、寺院は安全だと信じて避難していた。

8 タイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス]。