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グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹

2010 年 10 月 17 日 (日) 13:30 から 16:20 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 2・3 で、2010 年度第 2 回「グローバル・アカデミー (GA) 」が行われました。15 名の方が参加され、有意義なものとなりました。

今回は池田温会員 (東京大学名誉教授、創価大学名誉教授) が「伝統中国における非戦と平和思想」というテーマで発表されました。

まず日本と中国の国土・人口・歴史・民族・対外関係の相違点を指摘した上で、中国の歴史を概観され、中国は王朝交代、農民反乱の歴史であり、日本はほとんど外敵から攻められたことはなく、中国と日本の歴史構造の違いが考察されました。

戦国時代という乱世に生まれた墨子は、兼愛と非攻を説きました。兼愛とは利己主義のアンチテーゼであり、世の中のどのようなものでも価値があり、それを愛する必要があるということです。あらゆる個人を愛するということから、戦いを非とする非攻が生まれ、侵略戦争を否定することになりました。墨子は弱肉強食の現実を救うために兼愛と非攻を説いたのでした。

ただ儒家から見ると墨子の兼愛・非攻は異端であり、漢代以降は絶学といわれ、墨子はほとんど無視されるに至りました。しかし、最近の国際情勢を反映して、今一度注目されつつあります。

唐の詩人である杜甫は、社会的な問題にも目を向け、出征兵士の労苦を歌った詩も残しています。世の中の不正義に憤り、時の権力者にも批判の目を向け、戦争の悲惨さを詩の題材にし、平和の尊さを訴えました。

このようにアヘン戦争以前の伝統中国において、墨子や杜甫のように、非戦や平和思想の潮流が存在し、現在においてもその影響が一定程度残っていることが指摘されました。

チュチェ思想と継承性

中西 治

チュチェ (主体) 思想とは「人間は自分と世界の運命を切りひらく主体である」という考えである。このような考えは、1960 年代の中国とソビエトとの間の国際共産主義運動の路線をめぐる激しい論争のあと、1970 年代はじめに朝鮮で出てきた。

この思想をつくったのは金日成さんだといわれている。彼が 18 歳のとき、1930 年 6 月に中国で開かれた青年共産主義者の会議で「朝鮮革命の主人は朝鮮人民である」と述べたのが始まりであるとされている。

金日成さんは最初、中国共産党員として抗日パルチザンに参加し、後、ソビエト軍の大隊指揮官として活動した。 1945 年の日本敗北後はソビエト軍占領下の平壌の警備指揮官補となり、1948 年 9 月 9 日の朝鮮民主主義人民共和国発足にあたっては首相となり、以後、亡くなるまで一貫して同国の最高指導者の地位にあった。

大国の狭間にあって日本の植民地となった朝鮮を植民地支配から解放した朝鮮人が、朝鮮の運命を決めるのは列強大国ではなく、朝鮮自身であると考えるのは正しい。しかし、実際には、いくら人間が努力しても、客観的な諸条件が成熟していないときには、望むような結果を得られないことがある。とくに、国の運命において。

1972 年 12 月 27 日に採択された朝鮮民主主義人民共和国憲法第 3 条は「朝鮮民主主義人民共和国は人間中心の世界観であり人民大衆の自主性の実現をめざす革命思想であるチュチェ思想をその活動の指導指針とする」と規定した。

1974 年 2 月の朝鮮労働党中央委員会総会は、金正日同志をチュチェ偉業の偉大な継承者、金日成主席の唯一の後継者に推戴した。金正日さんは同年 2 月 19 日の全国党宣伝活動家講習会で全社会のチュチェ思想化を党の最高綱領と宣言した。

チュチェ思想が国家の指導的思想になり、それを全国民に広めることになった。その担い手に金日成さんの息子・金正日さんがなった。社会主義国では親子による最高権力の継承はあり得ないが、チュチェ思想の継承ということでそれが正統化された。

1994 年 7 月 8 日に金日成さんが病気で亡くなったあと、金日成さんを宣揚する動きがいっそう強まった。没後 3 年目の 1997 年 7 月 8 日に金日成さんが生まれた 1912 年を「チュチェ元年」とし、その誕生日 4 月 15 日を「太陽節」とすることになった。

今年、2010 年はチュチェ 99 年である。この年に金日成さんの子から孫への新たな継承の動きがでてきた。金正日さんから金正恩さんへである。さすがに 3 代目となると、社会主義国で世襲による国家最高指導者の継承は不可能である。そこで朝鮮の社会主義放れが始まった。

昨 2009 年の憲法改定で「共産主義」の文言が削除されたが、今回改定された党規約でも、これまで党の「最終目的は全社会をチュチェ思想化し、共産主義社会を建設すること」とされていたのが、今回「共産主義社会の建設」が削除され、代わって「人民大衆の自主性を完全に実現すること」になった。また、新たに「継承性の保障が党建設の基本原則」とすることが追加された。

朝鮮では「世襲による国の最高指導者の継承」のために「共産主義・社会主義」を捨てた。チュチェ思想により「人民大衆の自主性」が増大したとき、「世襲制による継承」はどうなるのであろうか。

おわりに ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹

近代において、民族は大きな影響力をもっていた。人をまとめ、奮い立たせ、時には憎悪を駆り立てた。冷戦崩壊以後は、さらにその傾向が強くなっているかもしれない。その意味において、民族を今一度考察することは非常に重要であろう。

民族の定義は難しいが、周辺の用語との差異によってわずかながらも意味が浮き彫りになろう。エスニシティは何らかの共通性を基盤にした通歴史的な文化的概念であるが、民族は近代に顕著になった政治的自決を志向する政治的概念である。

民族の研究方法も多岐に及ぶが、大きく分けて、原初主義=表出主義=本質主義と近代主義=道具主義=構築主義に分けられよう。さらに最近はシビック・民族主義とエスニック・民族主義に立て分けられて論じられている。前者を健全な、後者を排他的な民族主義と説明することは、あきらかにイデオロギー性を帯びた議論であろう。

今までの民族主義を巡る論争は、近代的な現象であるかということが中心であった。近代主義者は、ゲルナー、ホブズボウム、アンダーソンらであり、非近代主義者はスミスに代表される人々である。ゲルナーは、民族主義を文化的単位と政治的単位を一致させようとする運動と捉えた。ホブズボウムは国家が民族を作り出し、「伝統の創造」を行うとした。アンダーソンは、出版資本主義や俗語革命が大きな役割を果たし、想像の政治共同体を構築したと説いた。それに対して、スミスは民族は近代に成立したのであるが、民族のもとになったエスニシティはさらにそれ以前より存在していたことを主張したのである。このように近代主義者と非近代主義者は完全に背反的な立場ではないのであり、よりどちらを重要視するかという程度の問題であろう。筆者もスミスの指摘は重要であると考えているが、視点として民族を近代特有の現象と捉えているのである。創造/想像の産物であるがゆえに、現在様々なゆがみが生じていると考えているからである。

最近、民族などをアイデンティティの観点から論じることも多くなってきた。このことは重要であるが、アイデンティティ自身が所与のものとして自律して存在するのではなく、
歴史的、社会的に構築されたものとして捉える必要があろう。

かつて江口朴郎は、戦後の早い段階で民族に着目して以下のように述べた。すべて物事に一つの実体的な定義をあたえることは、現実に発展しつつあるものを性急に抽象化する危険を伴うものであるが、特に「民族」の問題は、あらゆる意味で、すぐれて歴史に関係するものであるから、そのように固定した観念から出発することをむしろ避けるべきであろう。(32)実体化・抽象化・固定化への警鐘は重要な視点であろう。最近ではそのような視点は多くの論者が指摘しているが、民族革命や民族独立が華やかな1957年の段階でのこの主張は慧眼であろう。

民族は近代において、歴史的文脈の中で創造/想像されたのである。さらに自己も民族も他律的存在、関係的存在であろう。そうであれば民族をはじめとする物事を固定的・非歴史的に捉えるのではなく、動態的・可変的に捉える関係主義的思考様式が今後望まれるであろう。


(32) 江口朴郎「現代における民族および民族主義」『岩波講座現代思想 民族の思想』3巻、岩波書店、1957年、3ページ。

民族を越えて ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹

現在、グローバル化が強調されるあまり反動として、過去の歴史的構成物としての国民国家の一体性が必要以上に誇張される傾向がある。過度に均質で一体的な国民国家概念がそのまま受容されているのである。(28)

例えば、日本概念も「縄文時代の日本」や「日本の古代」のように、あたかも歴史的に非常に古い時代から均質で一体的な「日本」なるものがあったかのように説明されている。しかし近代以前の日本には、漠然とした文化的独自性に基づくエスニック・アイデンティティは存在したが、階層的・地域的に限定されていた。日本人としてのアイデンティティが日本列島に住む大部分の人々に広まるのは明治中期以降なのである。政府の側も「伝統の創造」に努め、1889年の憲法制定を前に、それまで不明確だった13の天皇陵墓が一挙に「確定」された。大日本帝国憲法第一条で「万世一系の天皇これを統治す」と規定した以上、天照大神の子孫である天皇家が一貫してこの国を統治してきた「物的証拠」を示さねばならなかったのである。(29)

このように民族や国民は、近代において創造/想像された側面が強いのであり、人を分かつ基準は、かなり恣意的なのである。人類はどの人間集団の間でも、交配可能だから、人類はただ一つの種を構成している。だが様々な身体的特徴から幾つかを抜き出して分類し、人種概念等を作ってきた。ある形質を軽視し、他の形質を重要視する合理的な理由などないのである。例えば血液型にはABO式、Rh式、Kell式などがあるが、日本においては血液型といえばABO式である。そのABO式で人間を分類しようと提唱する学者は存在しないのである。つまり血液型で分類しても、肌の色や鼻や頭の形で人間を分類してもいいのであるが、恣意的にある特定の形質で分けているにすぎないのである。しかもその恣意性はかなり政治イデオロギーを有しており、ある時点の強者に都合の良いように分類されることが多いのである。「黒色人種」「白色人種」「黄色人種」という分類は、当時の西洋植民地主義に適合的であった。当時の学者が皮膚の色や髪の形状に注目し、身長・眼色・髪色などの形質を無視したのは、ヨーロッパ人が他地域の人々を征服し、発展しつつある植民地帝国に非ヨーロッパ人を二流市民として統合していく過程において、ヨーロッパ人とそれ以外とを区別する手段として身長・眼色・髪色などの形質が不適当だったからにすぎないのである。(30)

このように人種や民族などの同一性を支える根拠は、恣意的かつ非合理な場合が多く、当該集団の内在的特質ではなく、差異を生み出すイデオロギーや運動・政策に求めなければならない。時間を超えて保たれる自己同一性は、不断の同一化を通して人間が作り出す虚構の物語であり、共同体自体に同一性の根拠が内在するのではない。

また人間や共同体は常に変化している。変化をすること自体が問題なのではなく、強制的に変化させられる、あるいは逆に、変化したい方向に変化できないという事態が問題なのである。民族などの少数派は多数派により強制させられたり、吸収されたりすることがある。しかし少数派から多数派への様々な影響は、異なった意見の間の格闘から新たな価値が生み出される創造過程ともなるのである。多数派あるいは少数派の考えが踏襲されるだけなら、社会全体にとって新しい価値は生まれようはない。異なった既存の考えのぶつかり合いから新しい考えが生み出されるのである。(31)

他者や他集団が存在するから、自分や自集団が存続するのである。極端な本質主義、過度な実体化、非歴史的志向を今一度問いなおす必要があろう。世界を関係のネットワークで見つめ直し、物事を可変・複合・動態の視点から考察し、民族をはじめとする様々な集団を固定化・類型化することを反省しなければならないだろう。


(28) Daniel Chernilo, A Social Theory of the Nation-State: the political forms of modernity beyond methodological nationalism, Routledge, 2007. 佐藤成基編著『ナショナリズムとトランスナショナリズム 変容する公共圏』法政大学出版局、2009年、14ページ。
(29) 吉野、前掲書、37-38ページ。牧原憲夫「日本はいつネーションになったか」大沢、前掲書、161ページ。
(30) 小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会、2002年、3-7ページ。
(31) 同上書、13、51、167-168、187-189ページ。