月別アーカイブ: 2010年8月

日本の敗戦65周年に寄せて

中西 治

日本が第二次大戦に敗れてから65年が経ちました。

世界も、日本も大きく変りました。

米ソを中心とする戦後の国際秩序は崩壊し、地球上のすべての地域が光り輝く時代となりました。

日本でも自民党内の政権交代システムであった1955年体制は崩壊し、民主党を中心とする連立政権の時代となりました。

「核兵器のない世界」が現実の課題となりました。

時代は変化し、多様な問題が提起されています。

私たちの研究所はこのようなさまざまな時代の要求にこたえるべく、すでに広報宣伝・研究教育体制を確立しました。

私はさらに、ジャパン・スクールとインフォメーション・センターを開設するとともに、今回の入院の経験に学んで、人間が人間として生きるようにするためにヒューマンライフ・サービスを設けるべきではないかと考えています(名称はいずれも仮称)。

「核兵器のない世界」を実現するためには、「核抑止論」を克服し、米国の「核の傘」から脱しなければなりません。この点で私たちの研究所が果すべき役割は大です。

今後ともいっそうのご指導とご支援をお願いいたします。

ご健勝を心からお祈り申し上げます。

第二次大戦と平和主義者の選択 ―アインシュタインとロラン―

遠藤 美純

はじめに

平和なときに,平和を訴えることは容易い。しかし,戦争が差し迫ると,平和を訴えることは困難なものとなる。ましてや自らが戦争状況に巻き込まれている中にあって平和を訴えることは,自らの命を顧みない行為となる。

ここでは第二次大戦の脅威に対する二人の人物の具体的な行動を振り返り,その平和主義の可能性と,その可能性を制限する条件について考察する。取り上げる人物は,アルベルト・アインシュタイン (1879-1955) とロマン・ロラン (1866-1944) である。二人は第一次大戦に反対しつづけた数少ない著名人であり,それゆえ第一次大戦後の平和運動における中心的な人物となったからである。

戦争を目前にして,平和主義者は何をなしうるのか,あるいは何をなす者が平和主義者と言えるのか,戦争下における二人の行動の軌跡を辿って考えてみたい。

1.第一次大戦下,アインシュタインとロランの出会い

第一次大戦と第二次大戦とにおいて,平和主義運動のおかれた状況は大きく異なっていた。第一次大戦を目前にして,共産主義者の他には一貫して戦争に反対した人はさほど多くなかった。ヨーロッパにおいて戦争は約40年間起こっておらず,戦争は冒険的なものとして多くの人々を駆り立て,その中にあって平和主義者は少数派であった。一方,その第一次大戦の甚大な被害を前にして,平和主義あるいは戦争嫌いというものがイギリス,フランスといった戦勝国はもちろん敗戦国であったドイツにおいても多くを占めるようになる。このとき平和主義者は多数派であった。このように異なる状況にあって,第一次大戦下と戦間期のいずれにおいても,一貫して戦争に反対した平和主義者は多くはない。ここで取り上げるアインシュタインとロランは,その数少ない人物であった。

第一次大戦勃発時,ロランは『ジャン・クリストフ』などの執筆によって,既に世界的に著名な作家であった。彼は戦争勃発時に滞在中のスイスから,フランス・ドイツ両国に戦闘の中止を訴えつづけた。戦争を超えて,普遍的な真理と人道を追い求めた彼の論は,論文集『戦いを超えて』にまとめられ,1916年にはノーベル文学賞を受賞する。ただ,国際的に高い評価を受けながらも,実際に戦争を行っている祖国フランスやドイツにあって,彼は非難の対象としかならなかった。

一方,アインシュタインは1915年から翌年にかけて発表した一般相対性理論が1919年の日食観察によって証明されることによって,世界で最も有名な科学者となる。そして彼はドイツにあって戦争に反対した数少ない知識人,大学教員であった。1914年,ドイツの知識人93人によって国家主義的な傾向の強い「文明世界への提言」が発表された。ゲオルグ・フリードッリヒ・ニコライはこれに対抗して「ヨーロッパ人への宣言」を起草するが,この宣言に署名したのはわずか3名であった。アンシュタインはその一人であった。志を同じくする人々とともに新祖国同盟を組織し,フランス・ドイツ両国の平和のために奔走していた。

この二人が初めて出会ったのは,第一次世界大戦の最中,1915年9月16日のことである。アインシュタインが初めてロランに手紙を送り,スイスのヴヴェイにロランを訪ねたのである。

「新聞を通し,また強固な新祖国同盟との私の結び付きによって,あなたがいかに勇敢に,全身全霊を傾けて,仏独両国民間の運命的な誤解を解くために献身しておられるか,私は承知しております。……もしいささかでも私が貴方のお役にたちうるとお考えなら,――と申しますのは私の現住地の故に,あるいはドイツおよび海外の科学者と私は関係がありますので―― 私の力のおよぶかぎり,お役に立ちたいと存じます。」[アインシュタイン: ロマン・ロランへの最初の書簡 (1915年2月22日)]

その出会いの印象をロランは日記に書き残している。

「大学のあらゆる科学教授は,先頭に立って軍に協力しているか,あるいは委託を受けている。アインシュタインだけが,それに加わることを拒否している。」[ロマン・ロラン: 1915年の日記]

このとき,アインシュタインは36歳,ロランは48歳 であった。二人は第一次大戦から戦間期にかけて,それぞれが反戦運動の流れの中で中核的な役割を果たしていく。第一次大戦後,ロマン・ロランが起草した『精神の独立宣言』(1919) は,第一次大戦における知識人のあり方を反省し,個人における精神の自由と普遍的な真理の尊重,ユマニテ (人間性,人類) 全体への奉仕を呼びかけた。アインシュタインも署名している。

しかし,二人はいかにして平和を築いていくのかという点で,互いに異なる道を歩んでいくこととなる。懲役拒否運動で平和が達成されると考えたアインシュタインに対して,ロマン・ロランは戦争を起こす構造そのものを革命によって変えていかなければならないと考えた。ロマン・ロランは当時の多くのヨーロッパの知識人と同じく,ソビエト連邦の社会主義革命に大きな期待を寄せていたのである。二人は非公式なところでは互いに批判もしていたと伝えられる。

なお,二人とも第一次世界大戦の際は,いわゆる絶対平和主義者であった。暴力はどんなことがあろうとも絶対にわずかながらも許されてはならないと考えていた。しかし,ナチスの台頭はこうした純粋な考えを打ち砕くことになる。

2.アインシュタインの選択

第一次大戦後,アインシュタインは懲役拒否運動に平和構築の道筋を見出そうとした。この懲役拒否運動に関する彼の講演は欧米を中心に各地で行われ,大きな反響を呼ぶことになる。

「真の平和主義者は兵役義務を拒否しなければなりません。……兵役につくよう指名された人々のうち,ほんの二パーセントが戦争拒否を言明するとともに,国際間の紛争を解決するのに戦争以外の方法を勧告するだけでも,政府は無力となり,これほど多数の人々を刑務所に送ることは,あえてしないでしょう。」[アインシュタイン: ニューヨークでの講演 (1930年12月14日)] (51歳)

だが,この運動に対してロランは冷ややかだった。2パーセントの世界の人々が闘うことを拒否しても戦争は決してなくならない,そう考えていた。戦争というものが1914年を境に,軍人,民間人を問わず死の雨にさらすように,量的にも質的にも大きく変化していることをアンシュタインは見落としていると考えていた。そして,ロランが予見したように,ナチスの台頭はアインシュタインに根本的な転換を強いることになる。アインシュタインはしばらくの沈黙を経て,自身の転換をこう表明した。

「私がお伝えすることは,たいへんあなたを驚かすことでしょう。ごく最近まで,個人の戦争反対抵抗が,ヨーロッパの軍国主義に対して効果のある攻撃となることを,期待できた時代でした。しかし今日,我々は全く違った情況にあります。……私は,明らかに次のように申し上げます。『今日の情況下では,私がベルギー人であったら,兵役を拒否せず,ヨーロッパ文明を保持するという意味で,喜んで引き受けるでしょう。』と。」[アインシュタイン: アルフレ・ナオンへの手紙(1933年7月20日)] (54歳)

このアインシュタインの転換はそれまでの彼の平和運動を根本的に否定するものであった。当然彼の協力者や支持者らの運動に深刻な混乱がもたらされた。しかし,彼は厳しい批判にさらされながらも,ナチスとの戦争を避けてはならないと訴えたのである。ナチスが政権を獲得した1933年1月末から約半年後のことである。後にはアメリカ大統領に原子爆弾に関する研究を進めるよう求める手紙にサインさえもした。

では,彼はなぜ転換したのだろうか。そのきっかけは何だったのだろうか。後に篠原正瑛との原子爆弾製造の研究を薦める手紙をめぐるやりとりの中で,自らは絶対的平和主義者ではなく,確信を持った平和主義者であると断った上で,こう記している。

「たとえ私が確信を持った平和主義者であるとしても,私の考えるところでは,暴力を用いて差し支えない余地が残されているということです。ある敵が,全く何の理由もなしに私と私の家族に対して危害を加えようとする場合には,私にこのような余地が残されていると思う。しかし,その他の場合については,国と国との間の争いを解決するために暴力を用いることは,私は不当であり,かつ有害であると考えています。」[アインシュタイン: 篠原正瑛宛の返信 (1953年2月22日)] (73歳)

ナチスが政権を獲得すると,政府によるユダヤ人差別政策は確実に進行していた。アインシュタインが海外に渡航中,彼の自宅 (別荘) は家宅捜査され,彼は自らと自らの家族に危険が及ぶことを知った。彼は海外からドイツに戻ることを断念せざるを得なくなった。正当な理由なく危害を加えられ,暴力によってのみしかそれを防げない,そのような極限状況があった。家族や隣人を含む自衛のため,隣人愛によって要請される正戦を彼は否定しなかったのである。

3.ロランの選択

アインシュタインの転換をロランは痛烈に批判した。アインシュタインの見通しのなさは,前途多望な若者を安直な懲役拒否運動というまやかしに連れ込んだと,日記の中にこう記している。

「かかる精神の弱さが,一人の偉大な科学者の精神にみられるとは,まことに信じがたい。彼はその確信を人々に示すに先だって,細心に実験して提示したはずだ。それが危険でもなく責任もない,知的遊技である諸々の時期に,良心的抵抗を保持することは,ざれごとにすぎない。不測のことを前もって慮らずして,盲目的で信じやすい若者をそこに連れ込むことは,強く非難されるべきである。……アインシュタインの知性は,自然科学の領域では天才的であるが,それ以外の一切においては,きわめて脆弱で曖昧,一貫性のないものであることは,私にはあまりにも明瞭である。」[ロマン・ロラン 1933年9月の日記] (ロラン 66歳,アインシュタイン 54歳)

アインシュタインが懲役拒否運動を推進しようとしたのに対して,ロランは戦争を起こす構造そのものを革命によって変えていかなければならないと考えていた。その一つの軸はガンディーの非暴力不服従運動に,もう一つの軸はソビエト連邦の社会主義革命に置こうとした。革命による反ファシズム闘争の組織化,それによる社会革命を志向したのである。しかし,暴力の完全な排除という彼の出発点も,かなり早い段階で方針の転換を迫られつつあった。

ロランにとっての転機がいつあったのかは明確ではないが,1930年代初頭には非暴力運動のみで平和を貫くことの困難さを認識していたと思われる。ロラン研究者のデュシャトレは,ロランが非暴力そのものの価値を高く評価しつつも,それがインドでは可能でも西欧では不可能だと考えたことが,彼の大きな転機となったと指摘している。彼は非暴力の限界を認め,非暴力と暴力の結合を訴えるようになる。

「現前の大きな敵で侵略者はファシズムです。それはあらゆる国のすべての自由を短時日のうちに滅ぼそうとしており,その国々にさまざまな形で入り込んでいるのです。われわれの第一の義務は,ファシズムに対抗して同盟を結ぶことです。私は非暴力者と暴力者との『結合』を唱えますが,それは私の念願なのです。」[ロラン: ジョルジョ・ピオック「平和闘士国際連盟」会長宛ての書簡 (1932年4月13日)] (65 歳)

さらに,1938年から1939年ごろに決定的な転換が訪れる。ミュンヘン会談 (1938年9月) から独ソ不可侵条約 (1939年8月) を経て,ロランは戦争と平和に関する積極的な発言を避けざるをえない状況に陥った。第二次大戦の脅威を前にして明確に反戦の声をあげることはせず,公に戦争に関する発言を行ったのは,1941年に独ソ戦が勃発してからであったとされる。

彼はソビエト連邦との接触の中で,ロシア人女性マリーと結婚をしていた。ドイツとソビエト連邦が第二次大戦初期に不可侵条約を結んでいたために,ドイツとの戦争を批判することは,ソビエト連邦を批判することであった。彼女とその息子がロシアにいたために,彼女らの身の安全を守る必要がロランにはあった。またスターリンの粛清という恐怖政治に気付きながらも,ソビエト連邦へのシンパシーをなかなか捨てられずにもいた。1914年には,彼は「戦いを超えて」と人々に訴えることができた。しかし,1938 年には公にそれを訴えることはできなかったのである。このときロランは 72 歳であった。彼は1944年12月30日に戦争終結を前にして亡くなっている。

「辛抱をして,未来を信じているほかありません。……人間はカタツムリのような歩きかたをするのですから(ザリガニのように後ずさりをしているのでなければそれでいいのです。)『それでもそれは動いている。』」 [ロラン: エリー・ヴァラック宛ての書簡 (1941年2月12日)]

おわりに

アインシュタインとロラン,著名なこの二人の平和主義者は,初期の絶対的平和主義の立場を離れ,後にはそれぞれナチスとの戦争を支持した。これはどのように評価されるべきであろうか。二人には他の選択肢がありえたのだろうか。二人を批判することは容易いことである。しかし,他の選択肢とはより高い可能性で死を招くものであったことを忘れてはならない。それも自らの命のみにとどまらない死である。戦争という状況下で平和を訴えるとはそういうことなのである。

本当に戦争になったとき,それは狂気の時である。アインシュタインとロランの生きた 1930年代も狂気の時代であった。平和主義者の選択を考える際,このことを忘れてはならない。あらゆる暴力を否定する絶対的平和主義は,狂気の時代において翻って狂気とされる。絶対的平和主義を貫徹させることは,自らの命を捨てるにとどまらず,家族など身近な人々の命も犠牲にせざるをえなくなる。アインシュタインもロランも自らの命ではなく,家族や隣人の命のため,批判を承知で自らの心情倫理を押しとどめたのである。もしこの選択を臆病なものと評価する平和主義的見方があるならば,それは平和主義者とその身近な人々の死を所与のものとする,あまりに偏狭なものではないだろうか。極限状況とは選択の許されない状況である。戦争が起きてしまえば,平和主義になしうることは本当にわずかしか残されていない。戦争状態とはすでに平和主義の敗北なのである。

平和主義の運動が実質的な効果を上げうるとしたら,それは戦争が起きる前である。できるときにできることをしなければならない。そして,その上で,もしも危機的な状況になれば,私は迷わず生き残ることこそが最優先されるべきだと思う。戦争が起きたら逃げるべきである。一人でも多く逃がすためにそうすべきである。

このような状況を今日の日本では経験することはないように思われるかもしれない。しかし,世界の紛争地域では今も現実の問題である。綺麗事だけではすまされない。アインシュタインにしろロランにしろ,苦悩し,逡巡したであろう。抗いがたい狂気という現実を前にしたその苦悩には,その時は不可能でも,未来を導く可能性が秘められているはずである。そして「私」には「私」の選択があるはずである。正しい答えなどないかもしれないが,だからこそ考えなければならい。アインシュタインとロラン,二人の選択から学ぶべきはこのことではないだろうか。

参考文献

ロマン・ロラン『ロマン・ロラン全集 18: 社会評論集』みすず書房、1959 年。
ネーサン、ノーデン編、金子敏男訳『アインシュタイン平和書簡 2』みすず書房、1975年。
金子務『アインシュタイン・ショック 2』河出書房新社、1981年。
ベルナール・デュシャトレ、村上光彦訳「ロマン・ロランをめぐって ―デュシャトレ教授に訊く」『ユニテ』22号、1995年。