月別アーカイブ: 2009年9月

第3回グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹

2009 年 9 月 20 日 (日) 13:30 から 16:40 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 1 で、第 3 回「グローバル・アカデミー GA (地球大学院) 」を行いました。 10 名の方が参加され、様々な議論をすることが出来ました。

1 コマ目 (13:40−15:00) には遠藤美純 (地球宇宙平和研究所理事) さんが「近代世界システムにおけるヨーロッパの台頭」を、2 コマ目 (15:10−16: 40) には王元 (地球宇宙平和研究所理事) さんが「中国の周期的社会動乱の再考:古典周期の終焉について」を発表した。

遠藤さんの発表では、ヨーロッパの発展において、ヨーロッパは特殊であるとの近代化論とヨーロッパを相対化する従属論に分けて、様々の研究者の論点をわかりやすくまとめ、1800 年が大きな画期であり、その時点で世界が一つになり、近代世界システムが構築されたことを考察した。その際、交通・通信などの科学技術とグローバリゼーションとの関係が非常に重要となることを指摘した。討論では、1492 年のコロンブスのアメリカ大陸到達や 1800 年頃の技術革新は大きな変革をもたらしたこと、世界システム論では戦争の問題が捨象されていること、米国をどう位置づけるか、ヨーロッパの台頭要因などが議論された。

王さんの発表では、1911 年からの現代中国における社会動乱の周期を 8 年から 1 2 年として、現代中国の事件を説明し、動乱の担い手として知識人や大学生に着目し、社会的圧力の高まりが一定の周期性にしたがって爆発することを考察した。その論拠として、様々の研究者や現代史の重大事件、また経済学や社会学の分析方法も用い、さらに自然災害や 5 年おきに開催される党大会まで視野を広げて説明された。現在、中国社会の成熟や経済発展、大学生の大衆化やノンポリ化などにより、この周期も最近は変容しつつあることが論じられた。討論では、大学生の進学率が相当高くなったことによる大学生の変化、動乱には外国からの武力侵攻も含めるのかといった動乱の定義の問題、時期区分の問題と「古典周期」という用語の妥当性、8 年から 12 年サイクルの論拠としての大学生活 4 年間についてなどが論議された。

いつも思うのであるが、発表をし議論をすることの重要性を感じる。ややもすれば自分の頭のなかで完結していると思えることが、他者の意見によりそれが崩され、大いに参考になることがある。まさにグローバル・アカデミーもそのような機会のひとつであろう。最近あるところで読んだものに、「本当の教養ある人とは、問答無用を否定する人である」というのがあった。対話や議論なきところに、文化や思想はないであろう。これからも大いに、権力関係や利害関係がない空間で言いたいことを言い合いたいと思う。今後とも、そんなグローバル・アカデミーにしていきたいと思っている。

ベトナム社会主義共和国訪問記 2009年9月1日〜8日

浪木 明

1 日 (火) 曇り。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名、 18:05 日本航空 759 便にて成田空港出発。出入国カード健康申告、税関申告書記入。 22:15 ホーチミン着。前日現地入りしていた馬場と合流。コンチネンタルホテル泊。 10000 円を 1,936,500 ベトナム・ドンに換金。

2 日 (水) 曇り。現地在住の村山女史と合流。参加者 8 名全員揃う。 64 年目の国慶節 (建国記念日) 。ホテル前に、送迎のマイクロバスを長時間 (10 分程度) 駐車したとして、 50,000 ドン罰金を途中支払う。約 70km 離れたクチへ向かい、クチトンネル歴史遺跡区を見学。市内へ戻り水上人形劇を鑑賞。市内レストランで食事。

3 日 (木) 曇り。バンラン大学訪問。 1995 年設立され、急速に成長したベトナム私学の一つで、「道徳心、意志、創造」をモットーとする。国際協力プログラムを重視。意見交換では、独立とグローバリゼーション、社会主義の維持、教育と生活様式、外国語・愛国教育、ホーチミン思想、信教の自由等を議題に活発な話し合いが行われた。通訳はグエン・ティ・ハイン・トゥック女史とチャン・クァン・トゥエ氏。午後、レ・クイ・ドン中学校を訪問し日本語クラス見学。戦争証跡博物館見学後、在ホーチミン日本国総領事館を表敬訪問。水城幾雄総領事と会談。夜は、ホーチミン日本商工会の小須田森仁会長と会食。

4 日 (金) 曇り。視覚障害者学校見学。政府からの援助はなく、点字書籍販売等で学校を維持運営。子供たちによる楽器・合唱の心温まる歓迎があった。日本食レストランで昼食。午後、人文社会科学大学訪問。グエン・バン・ティエップ人類学部長を中心に討議。 WTO 加盟とグローバリゼーション、対仏・対米戦争におけるベトナム共産党の役割、格差と住宅問題、儒教精神などをめぐり話し合いが行われた。

5 日 (土) 曇り。 10:30 ベトナム航空 218 便にてホーチミン空港発。 12:30 ハノイ空港着。エアバス機で軽食も出され、快適な国内移動だった。ホライゾンホテルにチェックイン。午後、市内観光 (文廟、ホーチミン博物館) 。夜、ホアンキエム湖岸のレストランにて夕食。満月が美しかった。現地法人経営者の村山文雄氏、ベトナムガイド誌「ビナ BOO 」の芝きくよ女史が同席。

6 日 (日) 晴れ。 7:30 ホーチミン廟拝観。防腐処理を施されたホー・チ・ミンの遺体が補修のため翌日からモスクワに搬送され、約 2 ヶ月間この廟は閉館されるとのこと。午後は世界遺産ハロン湾見学。観光船を貸し切って 4 時間の贅沢なクルージングを堪能。船内で海産物の昼食、途中洞窟見学をする。ハノイ市内に戻り、歴史ある一軒家を改築したレストラン「シーズン」にて夕食。ベトナム・ソークレス株式会社の池田英知氏が同席。

7 日 (月) 晴れ。ホテルチェックアウト後、ベトナム社会科学院を訪問。緊急に首相と会うことになったドー・ホアイ・ナム院長に代わって出席したヴォー・ハン・ヴィン副院長他 9 名の皆さんが歓迎。中央政府のみならず地方政府の政策策定を行い、経済発展に寄与し、大学院レベルの人材育成に取り組まれているとの紹介があった。ベトナムの交通戦争、エネルギー不足、中越関係、日本の民主党政権とアジアなどについて活発な論議が行われた。通訳はヴー・ティ・ホン・ミン女史。昼食にベトナムのフォーをいただいた後、午後双日株式会社アジア・大洋州副総支配人の渡邊理史氏とベトナムと日本の経済関係等について懇談。在ベトナム日本国大使館を表敬訪問し、眞鍋寛参事官と会談。外務省、大使館、 NGO の文化交流における役割、資金協力援助について貴重なアドバイスをいただいた。夜、ハノイ空港内の海鮮レストランで夕食。馬場、村山女史に別れを告げて 23:29 日本航空 752 便にてハノイ発。

8 日 (火) 曇り。 6:29 成田着。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名無事帰国。解散。

最後に今回のベトナム訪問の所感を述べたい。

  • ベトナムの国慶節記念週間及び大学の夏休み期間にもかかわらず、多くの研究者との学術交流が実現し、今後の一層の交流促進を固く約し合うことが出来た。
  • 今回の学術交流は全てベトナム語と日本語の専門通訳 3 名を介して行われた。
  • 短期間に現地社会で活躍されている方々から有益な情報を得ることが出来た。
  • 今回は 8 名 (会員 5 名・非会員 3 名/ 男性 4 名・女性 4 名) の参加だったが、コストパフォーマンスに優れ、移動・食事等の点で適正人数であった。また全員がそれぞれの役割を全うし、密度の高い充実したベトナム訪問だった。

鳩山由紀夫内閣の発足に寄せて

中西 治

2009 年 9 月 16 日午後に民主党代表鳩山由紀夫さんが衆議院で 327 票、参議院で 124 票を獲得し、衆参両院で内閣総理大臣に指名されました。鳩山由紀夫内閣が民主党・社会民主党・国民新党の 3 党連立内閣として発足することになりました。

第二次大戦後の日本政治史上、画期的な出来事です。

戦後日本政治史は次の五つの時期に分けることができます。

第一は、最後の戦時内閣であり、敗戦処理内閣であった鈴木貫太郎内閣 (1945.4-8) のあと、旧憲法のもとで東久邇宮内閣 (1945.8.17-10) 、幣原喜重郎内閣 (1945,10-1946) 、第一次吉田茂内閣 (自由党) (1946.5-1947) と続きました。

第二は、1946 年 11 月 3 日公布、 1947 年 5 月 3 日施行の新憲法下、最初の総選挙で社会党が第一党となり、片山哲内閣 (社会党) (1947.5-1948) が発足し、そのあと、芦田均内閣 (民主党) (1948.3-10) 、第二次〜第五次吉田茂内閣 (自由党) (1948.10-1954) 、第一次〜第二次鳩山一郎内閣 (民主党) (1954.12-1955) と続きました。

第三は、1955 年に自由党と民主党が合同し、自由民主党となり、第三次鳩山一郎内閣 (自民党) (1955.11-1956.12) が発足してから 1993 年 7 月の総選挙で敗北し、野党に転落するまで続いた自民党単独政権の 38 年間です。

第四は、1993 年 8 月に非自民連立政権の細川内閣が成立したあと羽田内閣に引き継がれたものの、いずれも短期政権に終わり、 1994 年 6 月に自民党が社会党と組んで政権に復帰し、連立相手を変えながら今回の総選挙で敗北するまで続いた非自民連立政権と自民連立政権の 16 年間です。

第五は、今回の鳩山由紀夫内閣の発足によって始まりました。今回も連立政権ですが、主役が自民党から民主党に代わりました。

完全に崩壊した「 1955 年体制」は自民党内の政権交代システムでした。この体制は宇野内閣・海部内閣あたりから綻びが見え始めていました。安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣などは正常な統治能力を喪失していました。

小泉内閣以降の政府が推進したネオリベラリズム (新自由主義) 経済政策は、すべてを損得・金銭で計り、弱肉強食のゆとりのない、ぎすぎすした、潤いのない社会をつくりだしました。医療や教育までもが「仁術」ではなくなり、「算術」になりました。人々は生活に苦しみ、将来への希望を失ない、一日に 100 人近くの人が自ら命を絶つ異常な社会になりました。

イラクへの自衛隊の派遣と「新憲法草案」の自民党大会での採択などは、憲法 9 条をまもり、平和に徹する多くの人々の琴線に触れました。日本国民の多くは憲法改悪・戦争参加への道に危機感を覚えました。いくら口で平和を唱えても、実際に戦場に軍隊を送り、それを戦争でないと強弁する政治家を人々は信じなくなりました。それを如実に示したのが今回の選挙結果でした。

新たに誕生した「 2009 年体制」は民主党と自民党のあいだ、保守党間の政権交代システムです。このシステムが今後どのようになるのかは、主権者の意志と行動によって決まります。

今回の選挙結果を議席数で見ると、民主党 308、自民党 119、公明党 21、共産党 9、社民党 7、みんなの党 5、国民新党 3、新党日本 1、新党大地 1、無所属 6、計 480 です。

前回、 2005 年 9 月 11 日の小泉さんの郵政選挙と比べて、民主党 195 増、自民党 177 減、公明党 10 減、共産党・社民党・新党日本・新党大地 0 (増減なし) 、国民新党 1 減、諸派・無所属 12 減、です。民主党の一人勝ちです。自民党・公明党の大敗です。小泉さんは公約通り見事に政権党・自民党を潰しました。

これほど大勝したのに民主党が社民党および国民新党と連立政権を組まなければならないのは、参議院において民主党が過半数の議席を有していないからです。それだけではありません。今回の総選挙で民主党は得票数で有権者の過半数の支持を得ていません。

比例区の得票数で見ると、民主党 2984 万・前回比 881 万増 (千以下切り捨て、以下同様) 、自民党 1881 万・707 万減、公明党 805 万・93 万減、共産党 494 万・2 万増、社民党 300 万・71 万減、国民新党 121 万・3 万増、みんなの党 300 万・前回なし、新党日本 52 万・112 万減、新党大地 43 万・0 (増減なし) 、改革クラブ 5 万・前回なし、です。

自民党の減った分 707 万のうち 300 万はみんなの党に投じられたとすると、実質減は 407 万、これと公明党の減った分を加えて 500 万、さらに、社民党と日本新党の減った分 183 万、合わせて 683 万がそっくり民主党に移り、さらに、新しい票 198 万を民主党が獲得したことになります。

それでも自公を合わせると、2686 万、これにみんなの党と改革クラブを加えると、 2991 万です。自公などが民主を 7 万上回っています。得票数において民主党は決して圧勝していません。衆議院での民主党の多数は少数者排除の現在の選挙制度がうみだした虚構です。

現在の日本政治の方向を決定するもう一つの重要な要素は、共産・社民・国民・日本・大地などの合計 1010 万です。これらの勢力が民主・自公のいずれにつくのかによって日本政治の方向が決まります。

今回は社民・国民・日本・大地の 516 万が民主につくことによって民主は 3500 万となり、自公などの 2991 万を抑えて政権を預かることになりました。大臣職を社民党と国民新党に一つずつ渡したのは当然です。この枠組は流動的です。

早速、衆議院での首班指名選挙で鳩山さんに民主党 308・社会民主党 7・国民新党 3・新党日本 1・新党大地 1、計 320 の他に、みんなの党 5 と無所属 2、計 7 が投票されたようです。

みんなの党はいまのところ参議院議員を持っていないので民主党の連立の対象になっていません。民主党が欲しいのは参議院議員です。みんなの党が参議院で議席を持つようになると、どのようになるか分かりません。

「綸言汗の如し」といいます。天子の言葉は汗のようなもので一度出れば、戻せないのです。君主の言葉は重いのです。公約は重いのです。

期待が大きいだけに民主党がそれに応えられなければ、次の選挙でまたひっくりかえります。

当面の問題は鳩山由紀夫内閣がいかなる政策を実行するのかです。まずは、来年、2010 年の参議院議員選挙までです。

私はじっくりと新政権の政策を観察し、時に応じ、主権者の一人として発言し、行動します。

ベトナム訪問を終えて

中西 治

私たちの地球宇宙平和研究所代表団が 2009 年 9 月 1 日から 8 日間ベトナム社会主義共和国を訪問し、無事けさ帰国しました。

代表団はホーチミン (旧サイゴン) 市でバンラン大学と人文社会科学大学、首都ハノイでベトナム社会科学院を訪れ、ベトナムの現状と将来、日本の現状と日本・ベトナム関係、私たちの研究所とベトナムの大学・研究所との今後の交流について意見を交換しました。

障害者の施設や日本語を教える小・中学校を見学し、現地で活躍する日本人実業家の方々、総領事館と大使館の外交官の方々から種々お教えをいただきました。

ベトナム戦争中のホーチミン市近郊の戦場クチで、小柄なベトナム人が一人やっと通れるような狭いトンネルをくぐりました。戦争証跡博物館、水上人形劇をみました。ホーチミン廟を訪れ、ハロン湾を船で巡航し、世界遺産の景観を身近に見ました。自然がつくり出した美しさに心を打たれました。

街はオートバイで溢れています。次々と押し寄せるオートバイと自動車と自転車の大波があっという間に大洪水となり、街を埋め尽くします。それでもこれらの車は奇跡的に流れていました。私たちの自動車の運転手が危うく衝突しそうになった二人乗りのオートバイの男女に「死にたいのか」とどなっていました。私たちの車の運転手の一人も出勤途中のバイクの事故で右手の各所に擦り傷を負いながら、左手だけで右手をかばいつつ運転をしていました。人々は命がけで車に乗っています。生きています。

私はかつて東京で、北京で、上海で、武漢で交通の大渋滞を見ました。ベトナムはそれらをはるかに超えています。

200 万都市サイゴンが短期間に急速に 800 万都市ホーチミンに発展しました。急激な都市化に対策は追いついていません。交通戦争です。いまはオートバイですが、いずれ間もなく自動車です。この戦争はまだ拡大します。この戦争に勝つことが現在のベトナムの最大の課題です。ハノイの社会科学院でこの問題も取り上げました。道路の拡幅、市内環状高速道路網の建設、公共交通機関の拡充、地下鉄の建設、都市機能の分散・移転などの抜本的対策が必要です。

日本も中国も交通戦争に勝利しつつあります。米国との戦争に勝ったベトナム人民も、交通戦争に勝利するでしょう。クチでトンネルを掘ったベトナム人民です。ホーチミンでも、ハノイでも「アナ (坑) 」を掘って勝利するでしょう。

ベトナムは矛盾に満ちています。矛盾は発展の源です。ベトナムは大発展するでしょう。

ベトナム人民の平和と幸せ、日本人民との平和と友好を願っています。

私たちの研究所の活動の幅を広げようと思っています。

2009 年 9 月 8 日 17 時
ベトナムから帰国した日に

ベトナム社会主義共和国訪問にあたって

中西 治

台風一過、太陽が出てきました。

私たちの研究所代表団8人が本日、2009年9月1日から8日まで8日間ベトナム社会主義共和国を訪問します。

私たちの研究所は2001年に設立以来、中国に2回、朝鮮・中国に1回、キューバに2回、計5回、外国を訪ねました。

今回のベトナム訪問は6回目の外国訪問です。

ベトナムではホーチミン(旧サイゴン)市でバンラン大学、社会科学人文大学、小学校、知的障害児施設を訪ねます。首都ハノイではべトナム社会科学院を訪れ、Do Hoai Nam院長とお会いします。

日本では2009年8月30日の衆議院議員選挙の結果、1955年体制が崩壊し、2009年体制が発足しました。

新しい時代が始まりました。

平和な、物心ともに豊かな、幸せな時代に出来るか否かは日本に住む人々の意志と行動に掛かっています。

私たちの研究所は平和な社会をつくるために努力します。

ともに初秋の良い日々を!

2009年9月1日
ベトナムに旅立つ朝に