月別アーカイブ: 2009年8月

第45回衆議院議員総選挙を終えて

中西 治

2009年8月30日に第45回衆議院議員総選挙の投票がおこなわれ、投票が終了した午後8時に開票を待たず、自由民主党が大敗し、民主党が大勝することが明らかになりました。

国民の多くは自民党と公明党の政権に飽き、民主党を中心とした政権を求めています。

私はこの結果を歓迎します。

民主党が勝ったのは、民主党の政策が良いからではなく、自・公政権の政策が悪かったからです。最大の悪はイラクへの自衛隊の派遣でした。主権者はこれを拒否しました。

1955年体制は半世紀以上、続きましたが、いま、完全に崩壊しました。この体制は自民党内での政権交代システムでした。

「おごる平家は久しからず」です。

民主党のいまの指導者は、小沢さんをはじめ多くは、もともと自民党の人々、それも田中派の人々です。機を見るに敏な人々です。選挙慣れした人々です。

新しく発足した2009年体制は民主党と自民党の二つの政党間での政権交代システムです。

2005年の小泉郵政民営化選挙のときもそうでしたが、小選挙区制度は劇的な結果をもたらします。少数意見をはねとばし、危険な結果をもたらす可能性のある制度です。

麻生政権下の国会運営がその例でした。参議院の反対を衆議院の多数で幾度も踏みにじったのです。

民主党はこれからどのような政治をするのでしょうか。

「前車の覆るは後車の戒め」です。

私たちは選挙のときだけではなく、常に政治を監視し、発言し、行動する主権者でなければなりません。

自省としての「戦後」

わたなべ ひろし

以前、当研究所のニューズレターで紹介しましたが、小説家の村上春樹氏がイスラエルの「エルサレム文学賞」を受賞した際、彼が受賞スピーチで語ったことは自身の父親と戦争についての記憶でした。

「私の父は昨年、90 歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。

ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇の前に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」

村上氏はこれを「私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです」と述べています。

世界的に有名な日本のトップクラスの小説家が、長年他国に対して侵略行為を行ってきた国から文学賞を受け、その受賞スピーチにおいて語ったことが自身の戦争についての経験であった (もっとも村上さんは 1949 年生まれで、ご自身が戦争体験を有しているわけではありませんが) ということ。こういうシチュエーションにおいて、日本人が外国の人たちに向けて届く言葉があるとしたら、やっぱりそれはあの戦争に関する体験についてのものであるのだなあと、いまさらながら痛感させられました。そしてこのことに僕は日本の「戦後」の本質を見たような気がしました。

8 月 15 日「恒例」である中西治理事長のメーリングリスト、「1945 (昭和 20) 年 8 月 15 日を振り返って」読ませていただきました。

「私は戦争と平和の連鎖を断ち切り、平和に徹さなければならないと思っています。それができるのは「学」であり、「知」です。学ぶことによって戦争を知り、戦争を始めさせないことができます。」全くその通りだと思います。おっしゃるように、「いずれ、あの戦争を知っている日本人はいなくな」るのであり、 物理的にはそこで「戦争体験」というものは断絶することになります。それを継承していけるとしたら、「あの戦争」を知らない世代が主体的に学び、知り、伝えていくことしかありません。そしてそこにこそ、単なる体験の伝達ではなく、その時代時代の平和に向けて最も必要とされる形での「戦争体験」の発展的継承があるのだと思います。

戦後、私たち日本人はそうやって戦争体験を問い返し、深めてきました。そしてその核心は、「戦争体験」の「自省」ということ、つまり戦争体験を、「自己への問い」として捉え返すというものであったと思います※。それは、直接の戦争体験 (戦場体験) を持たない戦後生まれの人たちも含め、自分自身の問題として戦争体験というものを考えてきたということです。

これは「戦後」において非常に特徴的なことであったと思います。

変な言い方になりますが、「戦争体験」というものは、総力戦、世界戦争、戦争の世紀等々と呼ばれた 20 世紀以降、人類にとっての「共通言語」みたいなものになったのではないかと考えています (非常に残念なことですが)。ただしそれはもちろん「武器についてとくとくと語り、戦争論に花を咲かせ、戦略論をぶ」ることなどではありません。

日本国内においては戦争体験者は少数となりましたが、世界的に見れば戦争体験者は多数に上るでしょう。そういう人たちに、私たち日本人の言葉で届くものがあるとするならば、それは自省を通して「戦後」深められてきた戦争体験についての言葉しかないでしょう。そしてさまざまな戦争や紛争が、今後ますます前面化していくように見える、つまり「戦争体験者」が今後も増えていくことが予想される (非常に残念なことですが) 現在の国際社会において、世界中の人たちが自省を通して自身の戦争体験を深めていくことだけが、世界平和に向けての唯一の可能性であると私は確信しています。

日本の「戦後」は、わずかながらでもこのことを証明しているのではないでしょうか。

※この文章を書くにあたり、福間良明『「戦争体験」の戦後史』を参照しました。

金大中さん・金正日さん・李明博さん

中西 治

韓国の元大統領金大中 (キム・デジュン) さんが 2009 年 8 月 18 日に亡くなりました。

朝鮮の労働党総書記兼国防委員会委員長金正日 (キム・ジョンイル) さんは弔問団を韓国に派遣しました。弔問団団長の労働党書記金己男 (キム・ギナム) さんが 23 日午前に韓国大統領李明博 (イ・ミョンバク) さんを訪問し、金正日さんからのメッセージを伝えました。

李明博さんは 2008 年 2 月に大統領に就任して以来初めて朝鮮の高官と会見しました。

政治力学から言うと、李さんのような朝鮮に対する強硬派が南北和解と接近と統一を進めるのにもっとも適しています。大統領就任以来 1 年半、北に対して強硬政策を採ったが、いっそう関係が悪くなったので、関係を良くするためには太陽政策しかない、と韓国の対北強硬派を説得することができるからです。強硬派は味方の大統領が言うのでは仕方がないかと、同意しないまでも、黙認するのです。強硬派が断固反対すると、大統領そのものがもたなくなります。それでは強硬派は元も子もなくなります。

日本の対ソ国交正常化を鳩山一郎さんがおこない、対中国交正常化を田中角栄さんがおこない、日中平和友好条約締結を福田赳夫さんがおこなったようなものです。いずれも、親ソ派でも、親中派でもありませんでした。どちらかというと、右の方の政治家でした。

2010 年は日本が韓国を併合してから 100 年、朝鮮半島が日本の支配から解放され、独立してから 65 年、南北統一のもっとも良い時期です。それが実現できれば、南北統一の事業を開始した金大中さんの霊も慰められるでしょうし、金正日さんも、李明博さんも朝鮮民族の統一を成し遂げた 21 世紀の偉大な政治家として歴史にその名を刻むことになります。

私はそのことを期待しています。

1945 (昭和 20) 年 8 月 15 日を振り返って

中西 治

1945 (昭和 20) 年 8 月 15 日正午にポツダム宣言受諾の昭和天皇の放送を疎開先の奈良県宇智郡五条町の隣組長さんの家で聞きました。私は 12 歳、五条中学校 1 年生でした。放送の前に天皇はきっと本土決戦では死ぬまで戦えと言うと私は思っていました。

ラジオは雑音ばかりで初めて聞く天皇の言葉は私には分かりませんでした。大人は分かっていたようでした。近所の人が無条件降伏ではなく、ポツダム宣言受諾だから良かったと言っていたようですが、帰宅後、たまたま大阪から奈良に来ていた父はポツダム宣言受諾というのは無条件降伏だと言っていました。私は一人でも戦うつもりでした。

そのあと、両親は隣の部屋でひそひそ話をしていました。そのときに母が小さな声で「三代目は国を滅ぼしましたね」と父に言っていました。それに父がどう答えたか聞こえませんでした。

これは私には大変なショックでした。昭和天皇は私には神武天皇以来 124 代目でした。それが明治生まれの両親にとっては明治・大正・昭和の三代目だったのです。これが私の天皇制観の変わり始めでした。

もっとも私は小学生の頃から一度も天皇を神と思ったことはありませんでした。それは幼い単純な理由からでした。昭和天皇は父より 1 歳下、皇太子 (いまの天皇) は私より 1 歳下。どうして年下の人が神様なのか納得できませんでした。戦前に、このことを母に言って、母からそのようなことは絶対に外では言わないようにと戒められました。

1945 年 8 月 15 日夜、日が暮れても屋内の電気の光りが外へ漏れるのを心配しなくても良いと知って、やっと、戦争が終わったことを実感しました。ほっとしました。良く眠れました。朝になったら、もう戦うつもりはなくなっていました。

私にとって戦争体験は、五条で米軍機の機銃掃射を一度受けたこと、大阪大空襲の翌日に母とともに大阪の焼け跡をとぼとぼと歩いたことくらいでした。戦争の苦しみは戦後にきました。食糧難です。

戦後、天皇の権威はあっという間に地に落ち、神は人間になりました。人間は良いこともすれば、悪いこともします。私はいかなる個人も、いかなる思想も絶対化しなくなりました。

戦争は人間の狂気の沙汰です。戦争は個人的には何の恨みもない人間と人間のもっとも愚かな、残酷な殺し合いです。戦争は原子爆弾を含めて持っているすべての兵器を使わないとやめられません。

私は学生に戦争が起これば、逃げろと教えてきました。いまもそう言っています。竹槍で B-29 爆撃機は落とせませんでした。アマチュアがプロの殺しの専門家に勝てるわけはないのです。無駄死にです。

いずれ、あの戦争を知っている日本人はいなくなります。大きな戦争の後には必ず平和の機運が高まり、平和な時代がきます。それが少し過ぎると、また戦争の時代が来ます。戦争を知らない人が戦争と平和の問題を決めるようになるからです。

武器についてとくとくと語り、戦争論に花を咲かせ、戦略論をぶっている人がいます。核ミサイル兵器の所有とその先制使用を認め、相手国の基地を事前に攻撃すべきだと主張する人もいます。それは戦争です。

私は戦争と平和の連鎖を断ち切り、平和に徹しなければならないと思っています。それができるのは「学」であり、「知」です。学ぶことによって戦争を知り、戦争を始めさせないことができます。

8 月 15 日にあたって、改めて学び、知り、伝えることの重要性を強く感じています。

2009 年 8 月 15 日午前 4 時

クリントン元米国大統領の朝鮮訪問を歓迎する

中西 治

米国の元大統領ビル・クリントンさんが朝鮮を訪問し、朝鮮労働党総書記兼朝鮮民主主義人共和国国防委員会委員長の金正日さんと会談し、朝鮮で拘束されていた二人の米国人女性記者を伴って帰国しました。私はこのところ途切れていた米朝間の接触が再開されたことを歓迎します。

米国の大統領オバマさんは今年 1 月に大統領に就任後、経済対策を中心とする国内政策は積極的に進めてきましたが、対外政策はきわめて慎重でした。核兵器廃絶を唱えたものの、当初、その任期中の実現は難しいと言っていました。また、イラクからの米軍の撤退は選挙公約通り実行するが、アフガニスタンでの米軍駐留は続けると言明し、対イラン政策でも、対朝鮮政策でも、見るべき施策はありませんでした。

最近、対外政策でも徐々に変化が見え始めていました。米国はキューバが米州機構 (OAS) に復帰することに同意し、東南アジア友好協力条約 (TAC) へ参加しました。キューバはオバマさんをまだ完全に信頼しておらず、米州機構に復帰していません。

オバマ政権はいまも公式にはきわめて慎重です。ビル・クリントンさんの訪朝は米国人記者二人を解放するための完全に私的な訪問であり、オバマ政権はコメントしないと言っています。しかし、クリントンさんのような、今なお大きな影響力をもつ元大統領で、しかも、妻のヒラリー・クリントンさんが現職の国務長官である人が、今の段階で、オバマさんと何の打ち合わせもしないで、まったく無関係に、私的に朝鮮を訪問をすることはあり得ません。使用した飛行機がどこに所属するものであるのかは分かりませんが、帰途、日本の米軍基地に給油のために立ち寄っています。米国政府の許可なしに、そのようなことができるわけはありません。

今回のクリントンさんの訪朝はオバマさんが朝鮮政策を積極的に推進しようとする意志をもっていることを示しています。オバマさんは内外世論の反応を見て、次のステップに進もうとしています。

私は米朝関係が動き始めたことを喜んでいます。1994 年のカーター元大統領の訪朝と金日成主席との会談が米朝関係を進展させたように、今回のクリントン元大統領の訪朝と金正日委員長との会談が朝鮮半島の非核武装化と米朝国交正常化を早いテンポでもたらすことを願っています。これまでのように後戻りをさせてはなりません。

米朝関係が動けば、南北朝鮮関係が動き、日朝関係が動きます。私は 2010 年までに日朝関係が正常化することを願っています。朝鮮戦争が休戦になって 56 年、日朝関係が途絶えて 64 年、十分に時間は経っているのです。