月別アーカイブ: 2008年8月

北京での大きな祭りの成功を祝う!

中西 治

北京でのオリンピックの閉会式を最初から最後まで寝ないで見ました。

開会式は、秦の始皇帝から共産党の胡錦涛までの中国を中国的に誇示しているな、と感じながら、途中で眠ってしまいました。

中国人は 100 年來の夢ではなく、幾千年來の夢、中国を中心とした世界の夢を実現したな、と夢うつつのなかで思いました。

祭りは大きくて、愉しいのがよろしい。華やかで、美しかったです。

小さな国がすれば、こけおどしに見えますが、大きな国がすれば、さすが大きな国は大きなことをするなと思わせます。

メダルを幾つとったのかなどは問題ではありません。オリンピックは参加し、仲良くなることに意味があるのです。

開会式で各国ごとに国旗を掲げて入場するのも、優勝者を国旗と国歌で讃えるのも異様です。

オリンピックは国が主催するのではなく、都市が主催するのです。都市に集う人々が主催し、個人とそのグループが参加するのです。だから、国と国が戦争しているときにもオリンピックは開かれるのです。都市が、人々が、見ず知らずの人と人が殺し合う戦争の愚かしさを国に教え、止めさせるのです。人々が入り交じった閉会式の最後の状況が正常なのです。

日本は 1964 年の東京オリンピックを経て、農工社会から工業社会・知識情報社会へと変わりました。中国もこのオリンピックを経て、急速に農業社会から農工社会・工業社会・知識情報社会へと変わるでしょう。中国は洗練された社会になるでしょう。

中国共産党の功績は中国を外国の支配から解放し、一つの国にまとめ、米国やロシアと並ぶ大国に仕上げたことです。今回の祭りはその到達点を示すものです。

地球は一つですが、日本も中国も世界も一つではありません。日本も中国も世界も多様です。さまざまな人々がさまざまな生き方をしています。人々は多様な生活を求めています。

中国の内外で、この祭りを苦々しく見ていた人々がいました。中国の指導者は今後この人々にもっと配慮しなければなりません。

ともあれ、北京での大きな祭りの成功を祝います。おめでとう!

新しい日朝関係を! ―韓国併合 98 周年に寄せて

中西 治

98 年前の 1910 (明治 43) 年 8 月 22 日に日本帝国と大韓帝国は「韓国併合に関する条約」に調印し、同月 29 日に公布しました。それ以降、1945 年 8 月 15 日に日本が第二次大戦で敗北するまで 35 年間、韓国は日本の植民地となりました。

この地は 1897 年に国号を「朝鮮」から「大韓」に改称していましたが、日本に併合されたあと、ふたたび「朝鮮」となりました。朝鮮 (朝の鮮やかな国) は古「朝鮮」以来の由緒ある名です。この名が日本の植民地支配によって汚されました。同時に、日本の支配に抵抗する誇り高い名になりました。

多くの朝鮮人が日本人に土地を奪われ、流浪の民となりました。鍋釜寝具などを男は背負い、女は頭に載せて、中国東北 (満州) やシベリア、日本へとさまよい出ました。私は幼い頃、大阪の川縁で食器を洗い、衣類を木の棒で叩きながら洗濯していた朝鮮人女性の姿を思い出しています。

1919 年 3 月 1 日正午にソウルのパゴダ公園に集まった学生たちが独立宣言を発表し、「独立万歳!」と叫び、街頭に出ました。数万の人々が参加する大規模なデモとなりました。「三・一万歳事件=三・一独立運動」の始まりです。 1917 年のロシア革命の成功が大きな影響を与えていました。

独立運動は瞬く間に朝鮮全土に拡がりました。参加者総数は 202 万 3098 人、死亡者 7509 人、負傷者 1 万 5961 人、逮捕者 4 万 6948 人と言われています。朝鮮での運動は 1919 年春のインドの反英不服従運動と中国の五・四運動を触発しました。

上海では同年 4 月 10 日に大韓民国臨時政府が組織されました。李承晩 (1875-1965 年) が大統領に推戴されましたが、1925 年に弾劾免職されました。

1920 年 10 月には朝鮮と中国東北との国境地帯で 3000 人の朝鮮独立軍が日本軍と戦い、大きな打撃を与えました。

1925 年に民族運動家の父とともに鴨緑江上流北岸の西間島 (にしかんとう) に移住した金日成 (1912-1994 年) は、1931 年の「満州事変」の勃発後、中国共産党に入党し、抗日遊撃隊で活躍し始めました。

1937 年に日中戦争が本格化し、太平洋戦争へと拡大するなかで、朝鮮人は強制的に日本に連れて来られ、炭坑や金属鉱山、建設現場、工場で働かされました。女性は女子愛国奉仕隊とか女子挺身隊として狩り出され、各地の戦線で従軍慰安婦にされました。「強制連行」です。

日本による要員の狩り出しは朝鮮だけではなく、台湾や中国大陸でもおこなわれました。日本・大蔵省の調査によっても、1939 年から 1945 年の敗戦までに日本内地に動員された朝鮮人労務者は 72 万 4727 人にのぼります。この他に日本軍要員として 14 万 5010 人が動員されています。

「我が身をつねって、人の痛さを知れ」ということわざがあります。人は他人から痛みをうけたとき、他人に与えた痛みについて思いをはせるべきです。

米国議会は 1988 年に、第二次大戦中の日系人の強制収容について謝罪決議を採択しました。 1993 年に、1893 年のハワイ王国の転覆 100 年にあたって、謝罪決議をしています。 2008 年 7 月 29 日に、米国下院は過去に米国でおこなわれていた奴隷制と黒人に対する人種差別政策について謝罪決議を採択しています。

過去のことは過去の人間のことであって、現在の人間に関係はない、と考える人がいます。そうではありません。現在の人間は、過去の人間の行動をどのように評価し、それにどう対処するのか、ということで過去と関わっています。日本人は過去の行動を大胆に反省する米国人に学ばなければなりません。

韓国併合はまだ完全に過去のことではありません。日本と朝鮮半島南部の大韓民国とのあいだでは、1965 年の日韓基本条約によって、一応、問題は処理され、国交は正常化されています。朝鮮半島北部の朝鮮民主主義人民共和国とのあいだでは、問題は解決されておらず、国交も開かれていません。さらに、「拉致」という新しい不幸な問題が起こっています。

朝鮮は 2008 年 7 月 24 日に東南アジア友好協力条約に加入しました。この条約は東南アジア諸国連合 (ASEAN) 10 か国と日本・中国・韓国などのアジア諸国だけではなく、ロシアやフランスなどのユーラシア・ヨーロッパ諸国も参加している不戦条約です。その数は 25 か国、人口は約 37 億人、地球人口の 57% に及びます。朝鮮は地球共同体の立派な構成員です。

北東アジアでいまもっとも不安定なのは日朝関係です。この関係の改善は、この地域の最重要課題です。この課題の解決なしには、北東アジアの平和と安定はありません。

日朝関係を改善するために、日本人がまず詫びるべきは詫び、正すべきは正さなければなりません。朝鮮人も詫びるべきは詫び、正すべきは正さなければなりません。

この点で 2002 年 9 月 17 日に小泉純一郎さんと金正日さんが発表した「日朝平壌宣言」はきわめて重要な意味をもっています。

この宣言で、日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明しました。

他方、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題について、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認しました。

両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認しました。

双方は、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することを約束し、すでに国交正常化交渉を再開しています。

日朝両国政府はすでに最初の重要な一歩を踏みだしました。あらゆる障害を乗り越えて、この道を歩み続け、国交正常化を実現しなければなりません。

私は韓国併合 100 年を迎える 2010 年までに日朝国交正常化を実現すべきであると考えています。南北朝鮮半島の統一もすでに始まっています。日朝国交正常化と南北朝鮮半島の統一はどちらが早いでしょうか。

今年 9 月の二度目の朝鮮訪問のさいに、私は朝鮮の友人たちと日朝関係と東アジアの平和について、率直に語り合おうと思っていました。しかし、諸般の事情により、今回の訪朝を延期することにしました。直接会って、話し合うことはできませんが、さまざまな方法で積極的に意見を交換し、新しい日朝関係をともにつくりだしたいと願っています。

2008 年 8 月 22 日
韓国併合 98 周年の日に。

日米安保体制から日米平和友好協力体制に! ―ポツダム宣言受諾 63 周年にあたって

中西 治

1945 年 8 月 15 日正午に日本が米英ソ中国 4 か国のポツダム宣言を受諾することを発表し、第二次大戦が終結しました。 63 年が経ちました。日本国軍隊は無条件降伏し、完全に武装解除されました。日本国は連合国の占領下に置かれました。平和的傾向をもつ政府ができたとき、占領軍は撤退することになりました。

新しい日本国憲法が 1946 年 11 月 3 日に公布され、 1947 年 5 月 3 日に施行されました。憲法第 9 条は、戦争を永久に放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を認めない、と宣言しました。日本から軍人は一人もいなくなりました。

1950 年 6 月 25 日に朝鮮戦争が勃発したあと、警察予備隊が創設され、日本は再軍備の道を歩み始めました。日本は強力な自衛隊を保持し、防衛省を持っています。

1951 年 9 月 8 日にサンフランシスコで調印された講和条約第 6 条は「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、かつ、いかなる場合にもその後 90 日以内に、日本国から撤退しなければならない。」と規定していました。戦争が終わり、講和条約が結ばれれば、戦勝国は敗戦国から獲るものをとって、軍隊を引き揚げる。国際法の常識です。

同じ日に調印された日米安全保障条約第 1 条によって、米国は陸空海軍を日本国とその付近に配備する権利を日本国から許与されました。占領下に米国が講和条約とセットで日本に押しつけたものでした。稀なことです。

主権の回復後に日本が 1960 年 1 月 19 日に米国と締結した日米相互協力安全保障条約は、第 1 条で、日米両国は両国が関係することのある国際紛争を武力ではなく、平和的手段で解決することを約しました。日米不戦の誓いです。日本国憲法にも、国際連合憲章にも一致します。歓迎すべきことです。

本当のねらいは第 6 条でした。米国は陸空海軍が日本国において施設および区域を使用することを許されました。 米軍駐留を永続・恒常化する新しい条約に反対する運動が日本国中に広がりました。 60 年安保闘争です。

1951 年の条約では、米軍が日本に駐留するのは、極東の平和と安全の維持のため、日本の内乱を鎮圧するためでした。 1960 年の条約では、日米が共同で対処するのは、米軍基地を含めて日本が武力攻撃されたときだけです。米軍が日本の基地を使用できるのは日本と極東の平和のためだけです。内乱条項は削除されました。

在日米軍の現在の行動は、極東の範囲をはるかに越え、アフガニスタンやイラクにまで及んでいます。日本政府は「日米関係は同盟関係である」と言って、自衛隊をインド洋やイラクに派遣し、米軍を助けています。日米両国政府のこれらの行動は、日本国憲法に違反するだけでなく、 1960 年の条約にも違反しています。

同盟関係というのは、北大西洋条約機構 (NATO) のように、締約国の一または二以上に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすものです。 1960 年の条約はこのような同盟条約ではなく、きわめて限定された安全保障条約です。

1940 年 9 月 27 日に日本はヒトラー・ドイツおよびムッソリーニ・イタリアと三国同盟を結びました。日独伊三国は、三国のうちいずれかの一国が、現に欧州戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃されたときには、三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助することを約束しました。三国の指導者の念頭にあったのは米国です。

時の松岡洋右外務大臣は、ドイツとイタリアの力を借りて、米国が日本の南方政策に介入するのを防止できる、と期待していました。この期待に反して、日米関係はいっそう悪くなり、 1941 年 12 月 8 日に日本は米国との戦争に突入しました。日米開戦の報を聞いた松岡洋右は「三国同盟の締結は僕一生の不覚であった」と慚愧の涙を流したといわれています。

日本人は三国同盟が戦争を拡大し、日本を敗戦に導いた苦い経験に学び、第二次大戦後は米国を含むいかなる国とも同盟を結ばなかったのです。いまも日本はどの国とも同盟条約を結んでいません。戦争を事とする国と同盟を結べば、破滅することを思い知らされたからです。

「日米関係は同盟関係である」と言う人は、同盟の持つ重大な意味と大きな危険を認識していないのです。

日本の再軍備と米軍駐留継続への道は、朝鮮戦争の開始とともに始まりました。その戦争が、長い停戦状態を経て、南北朝鮮・米国・中国のあいだで完全に終わろうとしています。日本でも長期にわたって日米安保体制を支えてきた自由民主党が参議院で少数派に転落し、政権の座から滑り落ちようとしています。米国でも変化を唱える大統領が選出される可能性が生まれています。

日本は長いあいだ米軍の異常な駐留に付き合ってきました。もう十分に日本は米国に対する義理を果たしました。米国のような大きな国が日本のような小さな国に「思いやり予算」などと言われるのは、大国としての沽券にかかわるでしょう。

戦後に区切りをつけ、新しい日米関係をつくるべきときがきています。日米相互協力安全保障条約を廃棄し、米軍基地をなくし、在日米軍をなくすときです。衆参両院が日米相互協力安全保障条約の終了を可決し、米国に通告すれば、 1 年後にはそうなるのです。

ポツダム宣言受諾 63 周年にあたって、私は、 20 世紀の日米安保体制から 21 世紀にふさわしい新しい日米平和友好協力体制に転換するよう、呼びかけます。

ニューズレター No.15 特集「世界の政治」

事務局

ニューズレター No.15 を発行しました。PDF ファイルでご覧いただけます。

巻頭言
・洞爺湖サミットと「ボトム・ビリオン」/川崎 高志/2

特集 世界の政治
・いま日本の政治に求められるもの/徳永 雅博/3
・裁判官の良心、“こだわり”あるいは国民の不断の努力について/今井 康英/4
・胡錦濤訪日と日中関係の発展/汪 鴻祥/5
・2008 年の中国現代史における意義/王 元/6
・ネパールにおける「チベット問題」と対中関係/植木 竜司/7
・混迷するタイの政局: 野党民主党の不信任動議に思う/高橋 勝幸/8
・EUの最前線 ―アイルランド国民投票とリスボン条約/吉野 良子/10

第7回総会報告
・総会記念講演「今日のベトナムとアジアの平和」/古田 元夫/12
・2007 年度事業報告、収支報告/15
・2008 年度事業計画、収支予算/19
・会費滞納および理事会の件/23

・第二次キューバ訪問団報告/浪木 明ほか/24
・理事会報告/26
・地球宇宙平和研究所所報について/28
・事務局からのお知らせ/30

この内閣で自公は総選挙に勝てるのか -福田改造内閣の発足にあたって

中西 治

今日(2008年8月1日)、福田康夫首相は昨2007年9月26日に発足した「背水の陣」内閣を改造しました。福田さんは改造内閣を「安心実 現」内閣と名付けました.。私は衆議院の解散・総選挙に向けて挙党一致と人心の一新を図った「選挙実施」内閣であると考えています。

昨年の総裁選挙で福田さんに反対した麻生太郎さんを挙党一致のために幹事長にしました。また、かつて郵政民営化に反対して自民党から追われ、その 後に復党した保利耕輔さんを政調会長、野田聖子さんを消費者行政担当大臣に任命しました。罵詈雑言を浴びせ、刺客を差し向けた小泉内閣時代とは様変わりで す。小泉政治の否定です。総選挙に勝つためです。

人心一新とはほど遠い。17人の大臣のうち4人が留任、3人が党役員からの横滑りです。この7人が内閣のスポークスマンとして毎日のようにテレ ビに登場する内閣官房長官の他、総務・外務・財務・厚生労働・経済産業・国土交通などの重要な大臣の座を占めています。新鮮味はありません。

この内閣で自民・公明の与党は総選挙に勝てるのでしょうか。私は勝てないと思います。現在の三分の二どころか、過半数を獲得するのも難しいでしょう。

2008年7月20日に投開票された埼玉県富士見市の市長選挙で自民党と公明党の推薦をうけて三選をめざした現職が8693票しか獲得できず、惨敗しました。当選したのは政党の支持をうけていない無所属の新人で1万3132票、次点の共産党と市民ネットの支持をうけたこれまた新人の1万2301票 にも遠く及ばなかったのです。いまの日本の有権者の気分を象徴的に表しています。

福田さんは現在の日本が物価高や景気の低迷、年金・医療・雇用などの面で大きな困難に直面し、国民の生活が苦しくなっていることを認めています。福田さんはこれを解決するために国民の目線で正面から改革に取り組むと言っています。言や良し。

その行き着く先は「財政再建」。国民の負担増と消費税の増税です。伊吹財務相や与謝野経済財政政策担当相の発言はこのことを示唆しています。

福田改造内閣は、消費税増税のために、選挙で不利なことを承知のうえで、あえて、これを俎上にのせる「自爆内閣」と言えるのかも知れません。