月別アーカイブ: 2007年7月

参議院議員選挙結果に寄せて

中西 治

2007年7月29日の参議院議員選挙の結果が明らかになりました。

民主党が圧勝し、自民党が大敗を喫し、安倍内閣は瀕死の重傷を負いました。

民主党は改選前の32議席から60議席に増え、非改選を加えて109議席となり、参議院の第一党となりました。自民党は改選前の64議席から37議席に減り、非改選を加えても83議席にとどまり、第二党に転落しました。公明党は改選前の12議席から9議席に減り、非改選を加えて20議席です。共産党は改選前の5議席から3議席に減り、非改選を加えて7議席です。社民党は改選前の3議席から2議席に減り、非改選を加えて5議席です。民主党の一人勝ちです。

与党は自民党と公明党を加えても103議席にしかならず、野党が参議院の過半数を制しました。安倍さんは最初の国政選挙で大負けに負けたにもかかわず続投すると言っています。安倍さんは今回の選挙結果が安倍さんの政治に対する主権者の厳しい批判であることが分かっていないようです。

日本の政治はいま重大な変わり目にきています。

2001年の参議院選挙のときに自民党は比例代表で2110万票獲得していました。その他にのちに自民党に合流した保守党が120万票、合わせて2230万票ほどでした。それが2004年には1670万票、今回も1650万票ほどです。これに対して民主党は2001年に890万票、のちに民主党に合流した自由党が420万票、合わせて1310万票ほどであったのが、2004年には2110万票、今回は2320万票ほどです。この6年間に自民党は2200万政党から1600万政党に、民主党は1300万政党から2300万政党になり、その立場が逆転しました。

公明党はそれぞれ810万票、860万票、770万票ほどです。共産党は430万票、430万票、440万票ほどです。社民党は360万票、290万票、260万票ほどです。

日本の政治はこれからどのようになるのでしょうか。 いくつかのシナリオが考えられます。

第一は安倍さんが党と政府の人事を手直ししながら、内閣の延命を図る場合です。今回の参議院の構成は少なくとも2010年まで続きます。戦後レジームからの脱却をめざす安倍さんのこれまでのような強引な政治手法はもはや通用しないでしょう。野党と妥協するのか、それとも、起死回生を求めて衆議院を解散して強行突破を図るのか。

第二は安倍さんが新しい連立の枠組みを求めて野党に手をさしのべる場合です。選挙で大勝した民主党はそう簡単に連立に応じないでしょうし、民主党を飛び出して人気のない自民党と手を組む政治家もいないでしょう。

私は第一の場合も第二の場合も現在の安倍さんにはそのような力はないと考えています。1960年安保のときに四面楚歌となり、政権を投げ出した岸信介さんが思い起こされます。

第三は安倍さんに替わって新しい指導者が自民党に登場し、第一のシナリオか、第二のシナリオを実行する場合です。これはつぎの衆議院議員選挙と2010年の参議院選挙を経て日本の政界の再編成をもたらすでしょう。その核となるのは憲法9条の改定問題です。

日本の政治はいよいよ20世紀システムから21世紀システムへと向かい始めました。今回の参議院選挙はその出発点でした。

ニューズレターの郵送について

事務局

先日の第4期理事会第2回会議で決定しましたとおり、今後ニューズレターを紙に印刷して郵送するのではなく、ホームページ上で見ていただきたいと考えています。

メリットとして、経費節約と効率化、環境にやさしい、ホームページの充実化及びヒット数の増大による宣伝効果が得られる、自分で印刷した方がむしろきれいにカラーで印刷できる等が挙げられます。皆さんにはご理解とご協力をお願いいたします。

なお今まで同様、ニューズレターの郵送をご希望の方は、ご面倒ではありますが、事務局に7月31日までにご連絡ください。またインターネットを見られる環境にない会員の方には今までのように郵送いたします。今後はニューズレター以外にもデジタル化を促進していきたいと思っております。ご協力とご支援を宜しくお願いいたします。

訪中中止のお知らせ

事務局

いかがお過ごしでしょうか。台風の影響はなかったでしょうか。

先日お知らせしましたラサ、西安、東北の3つの訪中の件ですが、参加希望者が少な く、定員にも達しませんでしたので、実施を中止にいたします。 希望されていた方及び訪中の企画に当たっていた交流委員会の汪鴻祥さんには大変申 し訳なく思っております。 今後の交流については交流委員会でさらに検討してまいります。

なお訪朝については実施延期、キューバ旅行については予定通り実施いたしますの で、皆さんのご参加をお待ちいたしております。 今後とも研究所へのご支援を宜しくお願いいたします。

第4期理事会第2回会議報告

事務局

2007年7月8日(日)午後3時から5時まで、かながわ県民活動サポートセンター711号室で、理事9名(書面表決者含む)、監事1名が出席し、第4期理事会第2回会議が開催されました。

まず、役員が委員会の担当につき、それぞれの事業に責任を持ち、企画・立案・執行をすることになりました。組織も多少手直しし、より現実に即したものにしました。担当については以下の通り(以下、全て敬称略)で、カッコ内は責任者です。

・事業財政委員会(徳永雅博)

・企画広報委員会(竹田邦彦)
企画部(竹田邦彦)
デジタル・ニューズレター部(遠藤美純)
広報宣伝部(近藤泉)

・学術委員会(渡辺宏)
研究教育部(林亮)
ブックレット・叢書部(王元)
所報部(岩木秀樹)

・交流委員会(汪鴻祥)
日本国内(中西治)
中国(川崎高志)
ロシア・朝鮮(神保泰興)
アメリカ(浪木明)
その他のアジア(未定)
ヨーロッパ(未定)
中東・アフリカ(未定)

またニューズレターと所報編集の担当は以下の通りです。

・ニューズレター編集責任者 遠藤美純
委員 近藤泉 渡辺直毅

・所報編集責任者 岩木秀樹
委員 林亮 渡辺宏 王元 吉野良子

会員への情報提供について、紙ベースとともにホームページなどを利用して行い、経費節約、効率化、ホームページの充実による宣伝強化を目指すことになりました。

学術交流については、西安とラサの旅については今回は見送ることにして、朝鮮と中国東北の旅については今しばらく様子を見ることになりました。今後、2008年2月25日-3月6日にはキューバの旅、2008年2・3月頃にはピース・スタディ・ツアー・沖縄-戦跡と基地の旅-の計画を進めていきます。またキューバの旅の事前学習として、9月からスペイン語講座を開講していくことになりました。

教育事業について統一テーマを設けて、内外の著名な方を講師にお迎えし、講義または演習を2007年9月9日、23日、10月14日、28日、11月11日(全5回)に行うことになりました。近く会員の皆さんにお知らせする予定です。

所報第2号発行について、統一テーマ(仮題)を「21世紀の平和学と東アジアの平和」とし、10月末日原稿締切、12月に発行する予定です。皆さんの原稿をお待ちいたします。

研究所の中・長期的展望について、事業財政委員会を中心に、まずは2年後、4年後を目標に、研究所のあり方、財政基盤の整備を論議していくことになりました。地域社会との協力の一環として、磯子区NPO連絡会に参加して、さらなる交流をすることになりました。

理事会の後、合同研究会が午後5時から8時まで711号室で、以下のような内容で開催されました。

中西 治  「朝鮮戦争と東アジアの平和-ヤルタ・ポツダム体制から21世紀地球体制へ-」
木村英亮  「キューバ革命の歴史と展開」
汪 鴻祥  「中国外交とアジア平和-1949年以来の中国のアジア外交を中心として」
玉井秀樹  「平和構築支援:これまでの取り組みと現状」
岩木秀樹  「最近の国際関係学の研究動向-宗教間対話の課題と近代西欧国際体系の限界-」

ここには13名の方が参加され、様々な議論がなされて、充実した研究会となりました。報告者及び参加者の皆さんに感謝いたします。

久間発言に寄せて(続)

中西 治

第一は、原子爆弾をはじめとする核兵器を作って良いのか、使って良いのかです。

オランダのハーグで1899年7月29日に「毒ガスの禁止に関する宣言」が署名されました。また、同じくハーグで1907年10月18日に「陸戦の法規慣例に関する条約」が署名されています。

この条約は「交戦者は、害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものに非ず」と規定し、毒ガスの他、「不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物その他の物質を使用すること」を禁じています。毒ガスの使用が禁止されているのですから、核兵器の使用も当然、国際法上、禁止されていると考えて良いでしょう。

使用は禁止されていますが、製造は禁止されていません。それは、これらの宣言や条約に参加していない国が、戦争相手国になった場合、相手国が使えば、それに対抗しなければならないからです。宣言は、毒ガス不使用の「義務は、締盟国間の戦闘において、一の非締盟国が交戦国の一方に加わりたるときより消滅するものとす」と述べています。つまり、この宣言に署名していない国が交戦国の一つである場合、毒ガスを使用しても良いのです。

米国は陸戦条約を採択した第二回ハーグ万国平和会議の呼びかけ国であり、ドイツはこの条約の主導国です。日本はこの二つの文書に署名し、批准しています。広島と長崎に原爆が投下されたとき、ヒトラー・ドイツはすでに降伏しており、日米間だけについて言うと、米国はこの条約に違反しています。しかし、日本はそのことを声高に言えないのです。日本は国際条約破りの常習犯だったからです。

上記の陸戦条約と同時に調印された「開戦に関する条約」は、「締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざることを承認す」と規定しています。しかし、1931年の「満州事変」も、1937年の「支那事変」も、宣戦布告をしないで、日本は中国に対する戦争を開始し、1941年には不意打ちでパールハーバー(真珠湾)を攻撃しています。米国に対する宣戦布告はその後でした。明らかな開戦条約違反です。

第二は、日本は中国に対する一連の軍事行動を「戦争」と呼ばず、「事変」と称しながら、軍事行動を拡大していきました。日本は戦時国際法が義務づけたルールを無視し、道義のない戦争をアジア太平洋に広げていきました。

陸戦条約の一部である「陸戦の法規慣例に関する規則」は、戦争法規の定める権利義務の主体となる「交戦者」として、正規「軍」の他に、「民兵と義勇軍」、敵の接近にあたり自ら兵器を操る「群民兵」などの不正規軍を認めています。いずれの場合も公然と兵器を携帯し、戦争の法規慣例を順守する必要があり、「民兵と義勇軍」に対しては、「遠方より認識し得べき固著の特殊徽章を有すること」を義務づけています。

正式な戦闘行為は、はっきりと識別できる、ある国の交戦者が公然と武器を持って、これまた、はっきりと識別できる他の国の、公然と武器を持った交戦者に対しておこなう戦闘行為です。その場合でも「兵器を捨て、または、自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」は禁じられています。

戦時下にあっても、兵器をもたない民間人は、戦闘行為とは無関係であって、何人も殺してはならないし、殺されないのです。また、「防守せざる都市、村落、住宅、または建物は、いかなる手段によるも、これを攻撃または砲撃することを得ず」です。砲撃する場合には、「攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除くほか、砲撃を始むるに先立ち、その旨、官憲に通告するため、施し得べき一切の手段を尽くすべきものとす」でした。「都市、その他の地域は、突撃をもって攻取したる場合といえども、これを略奪に委することを得ず」なのです。

これが20世紀初めの戦争のルールでした。

1914年に始まり、総力戦となった第一次大戦は戦争の規模と性格を変え始めました。1917年11月7日のロシアにおけるソヴェト革命とそれに続く内戦と外国の軍事干渉、1931年の「満州事変」以後の日本の中国に対する戦争、1934年のドイツにおけるヒトラーの政権獲得と1935年の再軍備、1936年のラインランド進駐、1935-36年のイタリアのエチオピアに対する戦争、1936年のスペインにおける人民戦線内閣の発足と内戦、1938年のドイツのオーストリア併合とチェコのズデーデン地方併合、1939年のドイツのポーランド進攻、1941年のドイツの対ソヴェト戦争の開始と日本の米国と英国に対する戦争の開始など戦争に継ぐ戦争が続きました。交戦者と民間人の区別が難しくなり、無差別の大量虐殺が横行しました。

戦争は人間を狂わせ、畜生にします。その行き着いた先が、広島と長崎でした。人が人を殺す戦争を絶対に始めてはならないのです。

第三は、核兵器は使える兵器か、使えない兵器かです。

すべての兵器は使うために作られます。核兵器もその例外ではありません。広島と長崎以降に核兵器が使われていないのは、日本人を含めて、世界の多くの人々が核兵器の使用に反対してきたからです。使える兵器を使わせなかったのです。

核兵器が存在する限り、核戦争の脅威は無くなりません。核戦争を無くすためには核兵器を無くさなければなりません。

あらゆる兵器のない、あらゆる戦争のない平和な世界をめざして、ともに努力しましょう。

久間発言に寄せて

中西 治

久間章生防衛大臣が2007年6月30日に麗沢大学での講演で「原爆を落とされた長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べ、厳しい批判をうけ、7月3日に大臣を辞任しました。

また、米国政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)が3日に首都ワシントンで開かれた記者会見で「米国は長崎と広島に原爆を落とし、多数の市民の命を奪った。これは技術の無責任な利用ではなかったか」との質問に答え、「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語り、論議の火に油を注いでいます。

これら二つの発言は戦争と兵器について多くのことを考えさせますが、ここでは一つのことについてだけ書きます。それはこれらの発言の前提になっている、日本がポツダム宣言を受諾するうえで決定的な役割を果たしたのは広島・長崎への原爆の投下であったのか、それとも、そうではなく、ソヴェトの対日戦争への参加であったのかの問題です。

日本の敗戦がもはや決定的になった1945年7月26日に米国のトルーマン大統領、中国の蒋介石大総統、英国のチャーチル首相の3人は ポツダム宣言を発表し、全日本軍に無条件降伏を要求しました。日本はこの「無条件降伏」の語句にこだわり、「国体=天皇制の維持」が明記されていないことに不安を感じ、この宣言を「黙殺」しました。連合国はこれを日本によるポツダム宣言受諾の拒否と受け取りました。広島・長崎の悲劇とソヴェトの対日参戦にともなう悲劇が起こりました。もし、日本政府が即座にこの宣言を受け入れていたならば、これらの悲劇は回避されました。政治における決断の重要性を改めて感じます。

8月6日に原子爆弾が広島に投下されました。東郷茂徳外務大臣は鈴木貫太郎首相に最高戦争指導会議の開催を求めましたが、首相はこれに応じませんでした。8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)にソヴェトは日本に宣戦を布告し、翌9日から戦争状態に入る旨を通告しました。鈴木首相は「いよいよ来るものが来た」と感じ、9日午前11時前から最高戦争指導会議を緊急に開きました。会議は午後1時まで続きましたが、結論は出ませんでした。午後2時半から臨時閣議が開かれ、午後4時すぎに長崎にも原爆が投下されたことが閣議に伝えられました。会議は午後5時30分から6時30分までの1時間の休憩をはさんで午後10時すぎまで続きましたが、結論は出ませんでした。ついに、同日午後11時50分ころから昭和天皇の御前で最高戦争指導会議が開かれ、最後に昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決定しました。時に1945(昭和20)年8月10日午前2時30分でした。

これらの会議で原子爆弾はどのように論じられていたのでしょうか。たとえば、阿南惟幾陸軍大臣は午前中に長崎への原爆投下があった9日午後の臨時閣議で、8日に捕虜にした米空軍将校の供述を紹介し、原子弾は1発にして6平方マイルを破壊し、その爆力は500ポンドの爆弾36を搭載せるB-29, 200機に該当すると述べていますが、「その効力は空の色の明るい時が著しく、雨天には効力少なく、日中には効力が大きい。地下壕は丸太の程度で覆うてあれば十分である。裸体は禁物で白色の抵抗力は強い。農作物や立木には大なる被害はない。熱風により焼失することはない。建物などは上から圧しつぶされる。したがって、鳥居などはそのままで、電車、汽車なども脱線する程度である。地上に伏しても毛布類を被っているとよい。」でした。

広島と長崎に原爆が投下された当時の日本の最高戦争指導者たちの原爆の威力についての認識はこの程度でした。だから、広島に原爆が投下されたあと、最高戦争指導会議の開催を求めた外相の要請に首相は応じなかったのです。ところが、ソヴェトが対日戦争に参加した途端に昭和天皇の参加した最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決まったのでした。何がポツダム宣言の受諾に決定的な役割を果たしたのかは論を待たないでしょう。日本国民の多くが原爆の恐ろしさを知るのは、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効したあとのことでした。