月別アーカイブ: 2006年10月

研究合宿テーマ募集

事務局

12月16日(土)17日(日)に予定しております研究合宿の場所が決定しましたので、お知らせいたします。日光のペンションで、「はじめのいっぽ」という所です。有機農法野菜など食へのこだわりを持ったペンションです。初冬の日光をぜひ楽しんでいただきたいと思います。住所は以下の通りです。

ペンション はじめのいっぽ
〒321-1421 栃木県日光市所野1541-2371
TEL 0288-53-2122 FAX 0288-53-3435

タイムテーブルや統一テーマ等はまだ未定ですが、料金は1万円少々になる予定です。研究会をしながら皆さんで討論するとともに、忘年会も兼ね和やかな懇親の場にもしたいと考えています。ご家族ご友人を始め、多数の皆さんのご参加をお待ちいたしております。

なお現在、統一テーマを募集いたしております。「私たちの地球宇宙平和学とは」「東アジアの平和と日本」「中東イスラームの安定のために」などどのようなものでも結構ですので、お寄せださい。来年度の所報や研究叢書発刊を念頭に置いてのものでも結構です。

事務局まで、研究合宿への参加表明や統一テーマの提案をしていただければ幸いです。なお詳細は追ってご連絡いたします。

また2007年1月21日(日)に、かながわ県民センター711号室(42名対応)で新春講演会を予定しております。この方のお話を聞きたいという要望のある方、この先生とは知り合いで講演をお願いできるという方はぜひ事務局までお知らせください。研究合宿とあわせて宜しくお願いいたします。

Анна Политковская(アンナ・ポリトコフスカヤ)

宮川 真一

ロシアのチェチェン紛争でプーチン政権の弾圧政策を批判してきた著名な女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ(48)が今月7日、モスクワ市の自宅アパートのエレベーターの中で射殺体で発見された。ポリトコフスカヤは反クレムリン派の新聞『ノーバヤ・ガゼータ』の評論員であった。1999年からチェチェン紛争の取材で現地入りを重ね、ロシア連邦軍による無差別攻撃の実態を暴露する記事を発表し続けていた。ポリトコフスカヤの名を一躍有名にしたのが、2002年に発生したモスクワ劇場占拠事件である。

2002年10月23日午後9時頃、ロシアで大評判の初の国産ミュージカル「ノルド・オスト」を上演中のモスクワ南東の文化宮殿(劇場)に、多数の武装集団が突然侵入し、観客、出演者など858人の人質を取って立てこもった。この武装集団はモブサル・バラエフ野戦司令官が率いるチェチェン武装勢力で、女性18人を含む総勢およそ50人であった。ロシア国民は彼らを狂人とみなした。

夫とともに人質となったロシアの通信社「インテルファックス」に勤務するオリガ・チャルチャニックは、「武装グループは、チェチェンで起きている悲劇を私たち人質に話し、特に子どもたちがたくさん殺されていることを強調して、だからこういう行動をおこしたと説明してました」と述べている。劇中でパイロットの役を演じていた俳優マラット・アブドラヒムは、女性ゲリラたちと会話を交わした。その中の1人「16歳」の「ズーラ」は、「家族は、殺されました。戦争を止めさせてロシア軍がチェチェンから出て行くなら、私は死んでもいい。死にに来たんです」と語った。アブドラヒムは子どもや体の弱い人の釈放を要請したという。するとある女性ゲリラが言った。「私は生後1ヵ月の赤ちゃんを残してここにやってきました。そうしなきゃならないほどチェチェンでは子どもも老人も殺されているのよ。」また別の女性ゲリラは「あなたたちも少しは我慢しなさい。私たちはロシアが軍事侵攻してから8年間我慢しています。あなた方を悪くは思っていない。ロシア政府に戦争中止を呼びかけたいだけなの」と話したという。世論調査では、人質奪取の動機はチェチェン戦争か国際テロリズムかで拮抗している。

10月25日夜、事態が急変した。ワシントンでチェチェン問題の会議に参加していたポリトコフスカヤが急遽帰国し、武装集団との交渉を開始したのである。彼女が「あなたたちにも生き残ってほしい」と呼びかけると、バラエフは「われわれの目的は、戦争を止めさせること、ロシア軍を撤退させることだ。そのためにここに来たんだ。それができないならここで死ぬ」と声を荒立てた。「もっと要求を細かく出さないと解決しません」とのポリトコフスカヤの提案に、彼らは要求事項をノートに書き記した。それは「第1に大統領が戦争を止める意思を表明する。第2に、大統領発言から24時間以内にチェチェンのどの行政区域でもよいからロシア軍が撤退をはじめる。その動きが始まったことを国際監視員が確認する。この時点で人質を全員解放する」というものであった。ポリトコフスカヤはこの2つの条件を事件対策本部に伝えた。

人質の1人であったタチアーナ・ポポーヴァによれば、この交渉の後で武装ゲリラたちはどこかに旅立つ準備を始めた。荷物をまとめた後、彼らは互いに握手を交わし、抱き合ったりし始めた。舞台上の旗は引き降ろされ、丁寧にたたまれた。バラエフは舞台に上がり、幾分陽気とも思える調子でこう語った。「諸君に秘密を明かしてやろう。明朝11時には全てが解決するはずだ。連中は妥協し始めたようだ。我々の要求をのむことを承諾した。11時にカザンツェフが来ることになっている。もしも11時に万事が上手くいけば、諸君は全員生きたまま帰れる。俺が保証しよう。従って苛立つんじゃない。」

しかし、翌26日午前5時半頃、正体不明のガスが突然ホール内に入ってきた。そしてロシア内務省特殊部隊が劇場内に強行突入し、人質の大半を解放した。特殊部隊は武装グループの3人を逮捕、女性全員を含む残りを射殺、事件はおよそ58時間後に終息した。世論は劇場急襲という決定を支持している。モスクワ市のユーリー・ルシコフ市長はこの日正午すぎの報道で「ヴィクトル・カザンツェフが大統領の連邦南部地域における全権代表として、本日の10時に犯行グループとコンタクトする予定だった。我々はこの話し合いを平和的解決の体制の中で行おうとしていた」と語った。だが、武装集団は「不安定な心理状態に陥り、その状態の中で彼らは人質を殺害し始めた」と指摘し、これが強行突入の開始の原因となったと強調した。一般市民の64%はこの報道を鵜呑みにしているが、市長が真実を語っていないことはポポーヴァが証言している。「事件が起きた当時ホール内にいた人間の1人という立場から、私は、彼らが私達を公衆の面前で射殺しようとはしなかったと言わねばなりません。」モスクワ市が27日に発表したところでは、人質のうち銃弾による死者1人(これは偶発的な発砲で、処刑ではなかった)を除き、116人全員が特殊ガスを原因とする死亡であることが判明した。特殊ガスの使用はごく一部の医師に突入直前になって知らされただけで、救急病院のほとんどの医師は知らなかったという。従って解毒剤も用意されていなかった。それでもロシア市民はマスメディアを通した政治家たちの「ノルド・オスト」をめぐる言葉を信じる向きにある。

そもそも、この事件はロシア側の挑発だったことが明らかになりつつある。2003年4月28日付のロシア紙『ノーバヤ・ガゼータ』は、ポリトコフスカヤがハンパシャ・テルキバエフという30歳のチェチェン人からとったインタビューを掲載した。彼はこの占拠事件でゲリラの1人として襲撃に参加し、特殊部隊突入の寸前に姿を消した人物で、ロシア特務機関員である疑いが濃厚だ。彼はインタビュアーに「僕はチェチェン人たちのモスクワ入りをアレンジして、劇場に一緒に入った」と語っている。ポリトコフスカヤは次のように結論した。占拠事件の犯人グループの中には、テルキバエフらロシア特務機関員が混ざっていた。ロシア市民もうすうす気付いているように、事件の発生をロシア当局は予期していた。しかし予防しようとはしなかったのだ。2003年4月17日、ロシアのセルゲイ・ユシェンコフ下院議員が自宅前で暗殺された。元ロシア連邦保安局大佐のアレクサンドル・リトビネンコは「私はユシェンコフに、テルキバエフについての詳細なデータを渡した。彼はそのために処理されたのだ」と話している。テルキバエフもその後、交通事故で命を絶つのである。

(アンナ・ポリトコフスカヤ[三浦みどり訳]『チェチェンやめられない戦争』日本放送出版協会、2004年。)

岩木秀樹先生講義内容 (2006年度後期)

事務局

イスラームと平和 ―なぜ戦争に、どうすれば平和に―

現在、イラク、パレスチナ、アフガニスタン等のイスラーム世界では戦争が続いている。なぜ戦争になったのか、どうすれば平和が訪れるのかを、考えていきたい。

イスラーム誕生の背景や教義、寛容な要因を説明し、歴史的な共存形態を見ていく。また近代の西欧とイスラームとの関係や中東諸国体制の成立を論じ、現在の戦争の淵源をたどっていく。今後どうすれば、イスラーム世界に平和が訪れるのかを展望し、さらに地球社会の未来を模索していく。

なお講義の後、懇親会をしながら、出席者と様々な問題について懇談していきたい。

キューバ学術交流の参加者募集

事務局

すでにお知らせしているとおり、2007年2月26日(月)から3月7日(水)までキューバへの学術交流を予定しております。

ハバナでの観光のほか、ハバナ大学・有機栽培農園訪問、ビーチリゾート・パラデロ1泊、古都トリニダ1泊などを予定しております。下記の日程表を参照ください。

今後、参加者の顔ぶれを見て、ハバナ大学等での学術交流プランを考えます。つきましては、10月25日までに事務局岩木まで、参加希望の方はご連絡ください。最終の参加表明ではないので、現在のところ行きたいと考えておられる方も連絡をいただければ幸いです。なおすでに8名の方が参加表明をされております。

また料金は今後変更があるかもしれませんが、31万円前後(見積書)になります。多くの皆様が参加をし、充実した楽しい交流にしていきたいと思います。何卒宜しくお願い申し上げます。

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朝鮮の「核実験」問題によせて

中西 治

朝鮮が昨10月9日に「地下核実験を安全に成功裏におこなった」と発表しました。

私はこれまで折りに触れて政治的問題について意見を表明してきました。小泉内閣が退陣し、安倍内閣が登場したのを機会にメーリングリストを通じての政治的意見の表明を止めようと思いました。

昨日來、多くの方から朝鮮の核実験問題について意見を求められました。早速、禁を破ってこの問題についての私の考えを明らかにします。

私は朝鮮の先日のロケット実験も今回の核実験も「こけおどし」だと考えています。

ロケット実験も当初は大陸間弾道弾の発射実験として騒ぎ立てられましたが、実際は朝鮮の近海に落ちています。今回の核実験も朝鮮は核実験といっていますが、韓国も、日本も、米国もいまだに核実験とはいっていません。

本当の核実験ならば、すくなくとも米国はただちに核実験と認定します。今回はあまりにも規模が小さいためににわかに核実験とは断定できないのです。

韓国の観測ではマグニチュード3.58~3.7、TNT火薬換算で0.4~0.8キロトン程度といわれています。

包括的核実験禁止条約が想定しているのはおよそ1キロトン以上の地下核実験です。これは広島型原爆(濃縮ウラン型)の約15分の1、長崎型原爆(プルトニウム型)の約20分の1です。

今回の朝鮮の実験は長崎型原爆の50分の1程度といわれています。これは核実験とはいえないのです。

朝鮮は周りが大騒ぎしてくれたおかげで、この程度で核保有国に仲間入りしたのです。

朝鮮の「思うつぼ」です。

朝鮮がたとえ一発のミサイルを持ったとしても、一発の核兵器を持ったとしても、朝鮮半島をめぐる情勢は基本的には変わりません。周辺の中国、ロシア、米国軍はたくさんのミサイルと核兵器を持っているのです。

私は朝鮮は無駄なことをしていると思っています。朝鮮は虚勢を張っています。

私はすべての核爆発実験とすべての核兵器の保有に反対です。私は改めてすべての核保有国にすべての核兵器の廃棄を求めます。

自国は思う存分核実験をし、大量の核兵器を持ちながら、他国は一回の核実験もしてはならないというのは理に合わないでしょう。朝鮮の核実験を非難するものは率先してすべての核兵器を廃棄すべきです。

今回のこともふくめて朝鮮半島をめぐる諸問題を話し合いで平和的に解決しなければなりません。私はそのために努力します。

タイのクーデタ その2:新首相スラユット=チュラーノンで思い出すこと

高橋 勝幸

2005年12月11日、旧解放区へ向かうスラユット=チュラーノン

スラユット=チュラーノン大将が2006年10月1日、24人目のタイ国首相に就任した。父パヨームはタイ共産党のタイ国人民解放軍の参謀として、息子のスラユットと長い間対峙したことがある。父親が共産党軍の幹部であったことから、スラユットの昇進は一時遅れた。1978年から1988年までの10年間、プレーム首相の副官を務めた。チャートチャーイ政権を打倒したクーデタ後、1992年5月、スチンダー大将の首相就任に市民が反対し、スラユットが率いた特殊部隊が発砲し、流血事件に発展した。スラユットはこの経験から、軍部の政治不介入を決意したという。1998年に陸軍司令官になり、東ティモールの国連平和維持軍参加とその成功により、軍のイメージを回復した。タクシン首相との確執により2002年、閑職の国軍最高司令官に就任し、2003年退役した。3ヶ月の出家後、プレーム枢密院議長によって枢密院議員に推された。

私は抜き差しならない政情不安にもかかわらず、このクーデタの発生を予期しなかったが、スラユットのような退役軍人が首相になることも予想しなかった。国内外の世論の反発から、軍部に影響力をもつ人物が首相に就くとは考えなかった。クーデタ直後にプレーム枢密院議長や首謀者のソンティ陸軍司令官とともに、スラユット枢密院議員もチットラダー王宮で国王に拝謁しているからである。また、クーデタを実行した「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」は速やかに民政移管をすると約束していたからである。私は2つの判断ミスをした。1991年のクーデタをいれれば、3つの予想が外れた。タイに関心をもって20年近くになるが、現実政治は水物で、実に扱いにくい。

昨年、すなわち2005年12月11日、タイ共産党が1970年代に本部を置いた解放区で私はスラユットを見た。ナーン県プーパヤックにタイ共産党を記念する博物館などの施設が建設され、その開所式が行なわれた。父パヨームも当地で活動していたので、スラユットも見えたわけである。

パヨーム=チュラーノンその父パヨーム=チュラーノン中佐は1947年11月8日のクーデタにタイ国軍最高司令部のスポークスマンとして加わった。このクーデタは政情不安を解決するために行なわれ、その後は、軍部は政治から手を引き持ち場に戻り、民主主義にのっとり民政移管されると、パヨームは信じていた。1947年クーデタはプリーディー=パノムヨンをリーダーとする抗日自由タイ派の文民政権を打倒し、タイの民主化を大きく遅らせたといってよい。パヨームはその後、陸軍を辞職し、1948年1月29日の国会議員選挙に立候補し、ペッチャブリー県から選出された。パヨームはクワン政府の国防大臣補佐官に就任した。クーデタ=グループはクワン首相に辞職を強要し、ピブーン元帥が首相に返り咲いた。国防大臣は続投したが、パヨームは補佐官を辞職した。軍の腐敗と政治参加に反対し、1948年10月1日に決行を予定していた「参謀本部反乱」に参加したが、そのクーデタは失敗した。それはサリット少将の結婚式の日を狙い、パヨームは式場の首相府でピブーン首相、ピン=チュンハワン中将、カート中将、サリットらクーデタ=グループの幹部を逮捕する予定であった。しかし、クーデタ計画は前日に漏洩した。パヨームの逃亡は成功した。パヨームは逃亡中に、タイ共産党に参加したと思われる。パヨームの最初のタイ共産党の接触は第二次大戦中であった。パヨームは、ピブーンの対日協力に反対であったので、抗日運動に協力しようとした。パヨームは共産党の政策に当初反対であったが、クーデタでは(戦後)ピブーン政権を打倒できないと認識すると、人民の革命の必要性を感じ、入党を決心した。中国に亡命し、1952年から1954年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で学んだ。1961年9月の第3回党大会で党中央委員会委員に選出されたと思われる。

スラユットは、父と考え方は異なっても、父子の絆は変わらないと述懐した。スラユットは1980年、北京で療養中の父と亡くなる直前に再会した。この頃はまだタイ国内ではタイ共産党が治安の脅威であったが、プレームの取り計らいで、チャートチャーイ=チュンハワン少将(パヨームが逮捕しようとしたピンの長男)の訪中団に参加した。中国側は党の保護下にあるパヨームの面談を拒否したが、外交経験豊かなチャートチャーイが鄧小平と交渉して、再会が実現した。その数ヵ月後に、パヨームは亡くなった。

一方、スラユット首相の母アムポートは、ボーウォーラデート親王の右腕のプラヤー=シーシッティソンクラーム大佐を父にもつ。母方祖父は、立憲革命後の政府を共産主義として、1933年10月11日人民党に反対して蜂起したその反乱で戦死した。

今回の首相人事は、プーミポン国王、プレーム枢密院議長、スラユット首相、国家治安評議会議長であるソンティ陸軍司令官のラインを浮き彫りにした。その中で、新首相は反体制運動の血統つきである。父は国王の天敵であった共産党幹部、母はボーウォーラデートの反乱に参加した勤王派の娘である。相対立する反体制派の混血児スラユット首相がタイの民主化に向けてどれだけ力を発揮できるのかが注目される。

革命の英魂へ読経 復元されたパヨームの住居 タイ共産党本部があったナーン解放区

第2回「ロシア語文献研究指導」のご案内

中西 治

10月1日に「ロシア語文献研究指導」が始まりました。第1回はロシア語のアルファベットを学び、ロイ・メドヴェージェフの新著『ロシアの社会主義とは』の目次と「はじめに」を中西が読んで翻訳し、解説しました。

明8日(日)午後2-4時に横浜洋光台の研究所事務所で第2回「ロシア語文献研究指導」を行います。明日は第1章「ソヴェト同盟の社会主義。理念と具現」の冒頭の節 ≪世紀の謎≫ を読み、翻訳し、解説します。前回、参加できなかった方も気軽にお出で下さい。

5日から7日まで2泊3日で中国東北遼寧省阜新の中西治外国語研究センターを訪れました。今回の訪問の目的はセンターの現状を確認し、今後の活動計画を話し合うことでした。センターではすでに韓国語の教育が始まり、韓国への研修生の派遣準備が進んでいます。

今回、植木竜司さんと旅をともにしました。植木さんは、差し当たって、90日間、日本関係の研究教育部門の開設準備にあたります。

遼寧工程技術大学に外国人専門家として招かれている竹本恵美さんは、講義をすると元気が出るとのことでした。立派な教育者です。喜んでいます。