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東アジア情勢と日中朝韓関係

中西 治

中華人民共和国訪問団(2006 年3 月25 日- 30 日)基調報告

1, 第二次大戦後の東アジア情勢

第二次大戦後の国際秩序であるヤルタ・ポツダム体制はヨーロッパでは完全に崩壊したが、アジアではまだ残っている。ドイツは再統一し、中東欧諸国はソヴェト圏から離脱したが、朝鮮半島はまだ分断状態にあるし、米国軍はまだ日本に残っている。

この体制の主要な目的は戦勝国である米ソが協力して敗戦国であるドイツと日本が少なくとも50年間、報復戦争をしないようにすることであった。この目的は達成された。ドイツはソヴェトに報復せず、日本は米国に報復しなかった。

そのためにドイツは米英仏ソによって分割占領され、ドイツとソヴェトのあいだに位置する中東欧諸国はソヴェトの支配下に置かれた。日本は実質的に米国の単独占領下に置かれ、朝鮮半島は暫定的に米ソによって分割管理されたが、できるだけはやく一つの独立国家とすることになっていた。

1949年10月の中華人民共和国の発足はこの体制にとって最初の衝撃であった。ヤルタ・ポツダム体制は中国の支配者として蒋介石の国民党政権を想定していた。米国は中国革命の結果を止むを得ざるものとして黙認した。

1950年6月の朝鮮戦争の勃発はヤルタ・ポツダム体制に対する公然たる挑戦であった。米国は朝鮮民主主義人民共和国による武力統一に反対したが、同時に、このさい大韓民国による武力統一を実現しようとした。この戦争は双方が望んだ戦争であった。米国は朝鮮による武力統一を阻止したが、韓国による武力統一は達成できなかった。

1953年7月の休戦協定によって朝鮮半島の分断は固定化した。

この戦争中に台湾が米国の防衛圏に含まれるようになった。

このような状態が半世紀以上続いてきた。

2, 現在の東アジア情勢

1991年12月のソヴェト同盟の解体によってヨーロッパではヤルタ・ポツダム体制は完全に崩壊し、ヨーロッパ連合を中心として地球の新しい地域秩序作りが急速に進行した。アジアでもヤルタ・ポツダム体制の崩壊が進み、新しい地域秩序作りが始まった。

2000年6月に韓国の金大中と朝鮮の金正日が平壌で会談し、南北朝鮮が平和的統一へと動き始めた。

中国、ロシア、カザフ、キルギス、タジクの五か国首脳が1996年4月に上海で始めた会合は、2001年6月にウズベクも加わって六か国となり、上海協力機構(上海合作組織、Shanghai Cooperation Organization =SCO)に発展した。2004年にこの機構にモンゴルがオブザーバーとして参加し、さらに2005年にインド、パキスタン、イランがオブザーバーと なった。

2003年8月には北京で中国、米国、朝鮮、韓国、日本、ロシアによる六者協議(六方会合)が始まり、すでに5回の会合を重ねている。

2005年12月にマレーシアのクアラルンプールで東アジア・サミットが開催され、東アジア共同体に関する論議が展開された。そこでは東アジア共同体の構成国をASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国と中国、日本,韓国だけにするのか、さらに、これにインドを加えるのか、オーストラリア、ニュージーランドも加えるのかが議論されている。

最大の問題は米国の参加を認めるのか否かである。

3, 力で新秩序形成を試みる米国

ヨーロッパでの新しい地域秩序作りに対抗して、米国はバルカン半島から中東に至る地域の新しい秩序を力で作ろうとし、アジアでの新しい地域秩序作りに力で介入しようとしている。

1991年1月の第一次湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)と1998年12月の第二次湾岸戦争(砂漠の狐作戦)および1999年3月のコソボ戦争などがそれである。2001年9月11日の出来事は米国のこの力の政策に対する反撃であった。米国はこれに対して2001年10月にアフガン戦争を起こし、タリバン政権を倒し、2003年3月にイラク戦争を起こし、フセイン政権を打倒した。

米国はできればイランと朝鮮に対しても武力を行使し、当該国の政権を打倒したいと望んでいるが、アフガンとイラクで苦戦しているために実現できないでいる。

米国内には2004-5年に朝鮮で事を起こし、2010年に中国で事を起こそうとしている人びとがいる。そのために在日米軍の再編成を急いでいる。

このシナリオは実現しない。南北朝鮮の人民も中国の人民も戦争を望んでいないからである。

4, 日本・中国・朝鮮・韓国関係

日本と中国および韓国との関係は小泉首相の度重なる靖国神社参拝によって悪化している。差し当たって改善の見込みはない。幸いなことに小泉首相の任期は今年の9月までである。

日本と朝鮮との関係は2002年9月の小泉首相の訪朝による日朝共同宣言によって改善の兆しが見えたが、拉致問題が表面化したことによってふたたび悪化した。ここでも差し当たって改善の見込みはない。

韓国と朝鮮との関係は2000年の南北最高首脳の会談以降いちじるしく改善され、もはや両国間に戦争はない。問題はいつ統一するのかであるが、南北間の鉄道と陸路の連結、開城での共同開発の進展、六者協議での共同歩調などに見られるように統一はすでに始まっている。私は2010年を目処としている。

中国と朝鮮および韓国との関係も概して良好である。

問題は行き詰まっている日本と中国、朝鮮、韓国との関係をだれが、どのようにして改善するのかである。

5. むすび

現在は20世紀の第二次大戦後の国際秩序であったヤルタ・ポツダム体制から21世紀初頭の新しい地球秩序への移行期である。ヨーロッパではヨーロッパ連合が形成され、拡大・発展の道を歩んでいる。ユーラシア大陸ではソヴェト同盟崩壊後の新しい地域秩序作りが模索されており、徐々にその枠組みが明らかになってきている。

それを意識的に作り出しつつあるのが上海協力機構と六者協議である。両組織がユーラシア大陸から太平洋に至る地域の新しい秩序を作り出すうえで果たしている役割は大変大きい。

この地域の新しい秩序はすでに存在するASEANやSAARC(南アジア地域協力連合)とともに上海協力機構と六者協議などが重層的に加わって形成されるであろう。

他方では新しい秩序を力によって作り出そうとする動きもある。

東アジアで事が起こるとしたら、それは台湾と朝鮮である。

中国が台湾問題で戦争屋の挑発に乗るならば、中国は革命後、とくに改革・開放政策への移行後に営々として築き上げてきたものを灰燼に帰することになるであろう。2008年の北京オリンピックも2010年の上海万博も夢のまた夢となる。

南北朝鮮がふたたび矛を交えることになれば、人びとが朝鮮戦争の休戦後に苦労して復興してきたソウルや平壌はふたたび廃墟と化するであろう。次の戦争は前の戦争よりもはるかに破壊的である。

中国人民も南北朝鮮人民もそのような愚かなことを繰り返さないであろう。

この地域の人びとの自制が求められている。

小泉首相のあとにだれが日本国の首相になったとしても、行き詰まっている中国および朝鮮・韓国との関係を改善せざるを得ないであろう。

私たちは座してその日を待つのではなく、人民レベルの多面的な友好・協力関係を発展させ、その日を1日もはやく到来させるために努力しなければならない。

私たちが当面している課題はユーラシア太平洋地域において新しい秩序を戦争によってではなく、平和的に作り出すことである。

私たちはそのためにいまお国を訪れている。

エッセイ 34 プライドについて

木村 英亮

日露戦争では、極東の小国日本が大国ロシアに勝ったことは、植民地支配の下にあったアジア諸民族に大きな励ましを与えた。長く植民地支配を受ける と、それをやむをえないものとして受け入れる意識を生み出す。自分たちは遅れており、当面は「進んだ」欧米の支配の下で、「先輩」からいろいろ学ばねばな らないと考えてしまうのである。それは植民地支配が続くための必要条件である。

民族解放運動の指導者たちは、まず自民族をこのような意識から解放しなければならなかった。少数のイギリス人が、膨大な人口をもつイン ドを支配できたのは、インド人の奴隷根性が条件であり、ガンジーらの第一の課題は、インド人に民族としてのプライドを眼ざませることが第一の課題であっ た。

第二次世界大戦後1960年ころまでに、世界の大部分の植民地は独立した。そのころ、アフリカとアメリカの黒人を比較して、アフリカの黒人はプライドをもっていて別の人種のようにみえると聞いたことがある。

日本の大学で偏差値と言う用語がしきりに使われている。10年前にはおもに受験生がそれを強く意識し、偏差値によって仕分けされた。同じ 力をもった学生でも、偏差値の高い大学の学生は、就職の際に優遇されるばかりでなく、学生自身もプライドをもっていた。いまでも、新聞の人生相談に、一浪 までして頑張ったのに三流大学しか受からずまったく不本意だという投書が掲載されている(池内ひろ美の人生相談『東京新聞』2006.3.7.)。しかし 昔に比べれば、会社も個々人の力をみるようになり、大学による差別は減ってきたように思われる。むしろ大学が受験生によって仕分けされている。

しかし、偏差値だけでプライドをもったり、差別したりするのは、GDPの高さだけで、国をランク付けするようなもので一面的である。

まず自分自身が自分のものさしで評価し、得意な分野について自信をもつことが第一である。大学もそれぞれ独自性を追求し、それにプライド をもてば受験生はおのずと集まるであろう。上の投書に対して池内は、「実は、『三流大学』にもその大学なりの良さがあります」と答えている。

二酔人四方山問答(31)

岩木 秀樹

B:君からムハンマドの生涯や初期の歴史を聞いて、だいぶイスラームがわかったよ。ところで素朴な疑問なんだけれど、イスラームってどんな特徴を持っているの。

A:一言で言うのはなかなか難しいよ。それに私はイスラーム教徒ではないので、イスラームを信じている人とは違った観点から見ていると思う。

B:前にもこういう話があったよね。当該宗教の信者と研究者の視点の問題だね。

A:少なくとも自分がどのようなポジショナリティで論じているのかを、自覚する必要があると思う。そうそう研究対象に対する態度について、イスラーム研究者の加藤博さんはおもしろいことを言っていた。

B:どんなこと。

A:客観的な手続で研究をするのは当然なんだけれど、研究対象に対する愛着という点では、あら探しばかりをする「坊主憎ければ、袈裟まで憎い」という態度より、対象に対して親近感を持つ「あばたもえくぼ」という姿勢で臨むようにしていると言っていた。

B:なるほどね。何らかの愛着がなければ、なかなか研究意欲も湧かないよね。

A:もちろん、冷静で時には冷徹な眼が必要とされるのは当然だけれど。その加藤さんがイスラームの特徴を述べていた。まず第一は、7世紀に生まれた新しい活力に満ちた宗教だと言うこと。

B:7世紀が新しいのかな。

A:ユダヤ教やキリスト教に比べれば、新しいだろう。またキリスト教がかなり形骸化しているのと比べて、イスラームは人々の生活と密着し、信徒数は増えている。さらに現在では良くも悪くも国際政治の焦点となっていて、イスラーム教徒同士の連帯感は強化されている。

B:そうだよね。近代化により宗教は後景に退くと考えられてきたけれど、イスラームは復興しているよね。

A:第二の特徴は、宗教と政治や生活は分離されてはならないと考えられていることだ。

B:その点は欧米の価値観とはかなり異なるので、批判されているよね。

A:第三は、第二とも関連するが、イスラームは世俗や現実に対して肯定的な宗教であるということ。多くの宗教がユートピアをあの世や伝説に求めるの対して、イスラームは歴史の一時期、つまりムハンマドが生きた初期イスラームを理想としている。

B:確かに今まで話を聞いていて、イスラームは現世や世俗に対して、時には商業や性に関してまでも非常に肯定的に捉えているよね。

A:第四は、イスラームは個人主義、契約主義、平等主義であるということ。一人一人が直接神に向かい契約するので、神との間を仲裁する教会や聖職者などの権威は理念上存在しない。それゆえ全ての信徒は神の前で平等であるということだ。

B:なるほどね。

A:第五は、教義はシンプルで、秘蹟やミラクルの少ない合理的な宗教とされていることだ。

B:三位一体ではなく、神はアラーのみであるし、後発宗教だから教義を精緻化できたのかな。

A:それもあるね。第六は第五とも関連するが、合理的な性格は汚れの観念をほとんど生み出さなかったことだ。

B:そういえば、イスラーム世界ではカーストがあるインドとは対照的で、職業には卑賤が少ないよね。

A:第七は、イスラームについて、原則においては厳格だが、適応においては柔軟であるということ。

B:前にも聞いたけれど、断食をしなくてもいい人がいたり、またできなかった場合には、断食月があけた後にやればよいなどとされている。

A:そもそも「盗みをしたら手首を切り落とす」などの厳格なイスラーム法によって統治している国は現在ではほとんどなく、現実には西欧の近代法をもとに行っている。

B:なるほど、イスラームの特徴が少しずつ解ってきたよ。

(つづく)

新版ブックレット [1] 『東アジアはどうなるのか』

事務局

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地球宇宙平和研究所編『東アジアはどうなるのか』白帝社、2006年3月16日初版発行、定価 [本体800円+税]

「新版ブックレットの創刊にあたって」中西治
「現在の朝鮮は四半世紀前の中国―朝鮮・中国訪問記」中西治
「特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国訪問日程」
「戦後60年の世界史とアジア ―岐れ道に立つ日本」木村英亮
「中央ユーラシアをめぐる米中露印関係の考察」清水学
「朝鮮半島の構図と中朝関係」汪鴻祥
「変色した六カ国協議」王元
「編集後記」

エッセイ 33 奴隷根性について

木村 英亮

安倍晋三官房長官は記者会見で、沖縄の普天間飛行場の移設計画について、地元の納得がなくとも、「日米協議整えば決着」と述べたと報道されている(『朝日新聞』、2006.3.7付)。

アメリカとの関係について、日本政府の態度には腑に落ちないところが多々ある。ここで問題になっている米軍再編のための沖縄の普天間基地 の移転についてもそうである。日本は「思いやり予算」として、本来アメリカが払うべき基地整備や運営のための費用を自発的に負担している。その上今回は、 住民が反対している地域に航空基地を移そうというのである。日本本土においても、基地を受け入れたいという地域はないようである。 そもそも米軍は、日本を守るためにいるはずであるが、日本とはだれなのであろうか。住民が反対する基地が軍事的に有効に機能するかどうかあやしい。米軍基地があるほうがかえっ て危険なのに、どうして金を払ってまでいてもらうのだろうか、という疑問をもつ人は多い。戦後60年間米軍基地の存在に慣れ、住民や、市長、知事の反対するなかで、まずアメリカと決め、経済振興策でなんとかなだめようとし、だめなら法律を改正して知事の権限を奪おうという。

このようなことは、ふつう独立国の政府はしない。

2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の建物に米軍大型ヘリが衝突炎上し、調査にも日本人は立ち入れなかった。たとえばハー バード大学の傍に日本軍の基地があり、ヘリが墜落するといったことは想像できない。もしそんなことがおこったらアメリカ人はどうするであろうか。

エッセイ 32 スターリンの死

木村 英亮

スターリンは1953年3月5日に74歳で死んだが、それは日本でも号外がでるほどの大事件であった。「スターリン遂に死す」と見出しのつけられた号外を中国史の上原淳道氏からいただき、拙著『ソ連の歴史』(山川出版社、1991.)に写真版で載せた。この死については謎が多い。チェチェン人アフトルハーノフの『スターリン暗殺事件』(鈴木博信訳、原題『スターリンの死の謎』、ハヤカワ文庫、1980.)では、スターリンの死は、粛清をおそれたベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニンの陰謀の結果であろう、としている。

スターリンは一人で生活しており、呼ばれない限り、他人が部屋に入ることができなかった。3月1日明け方までフルシチョフらと会食してい たが、昼になっても起きてこず、夜10時に警備隊副隊長が急ぎの重要書類をもって入ってはじめて床に横たわっているのを発見したのである。ただちにマレン コフに電話したが、医者がきたのは翌日の朝9時であった。メドヴェージェフは、この2日の夜フルシチョフらが権力問題について取り決め、死後のイニシアチ ブをとったのであろうと推測している。スターリンの下で絶大な権力を手中にしていたベリヤは6月に逮捕され、裁判の後処刑される。現在までに明らかになっ ていることは、ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』(久保英雄訳、現代思潮新社、2003.)に書かれている。

スターリンが死んだ5日の看護婦、使用人、警護隊員らの姿について、娘のスヴェトラーナは、回想録に次のように書いている。

「ここでは、すべてが作りものではなく、真情にあふれていた。だれひとり、他人の前に自分の悲しみを、自分の忠誠を見せつけようとするも のはなかった。みなが長年知り合ってきた仲だった。わたしのこともみなが知っていてくれた。わたしがわるい娘であったことも、父がわるい父親であったこと も、けれど、それでもやはり父はわたしを愛し、わたしは父を愛していたことを。ここではだれひとり、父を神とも、超人とも、天才とも、悪人とも見ているも のはなかった。父は、最もありふれた人間的な資質のゆえに愛され、尊敬されていたのだった。こういう資質については、いつも使用人が誤りのない判断をくだ すものである」(『スベトラーナ回想録』、新潮社、1967,27-28ページ.)。

エッセイ 31 新しい毛沢東像

木村 英亮

私の毛沢東観は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』 によってつくられており、文化大革命によって若干修正されたとはいえ、スターリンとはかなり違った指導者と考えてきた。しかし、最近翻訳された、ユン・チアンらの『マオ』(講談社)を読むと、毛沢東もまた、恐怖政治で団結を維持してきたようである。結局このようなやり方でしか、統一と革命を成功させること はできなかったのであろうか。

成し遂げたことは偉大であったが、その方法は桁外れに残酷であった。日本史のなかの人物としては織田信長と共通のところがあるようである。

また、毛沢東をはじめとする中国革命の指導者が、革命の過程でも現在でも、かなり特権的な生活をしており、それを当然と思っていることに は違和感がある。たとえば長征のとき、毛沢東は自分の考えた担架で移動したと書かれているが、このようなことは、欠くことのできない人のためには許される のであろうか。文化大革命のときも現在も、最高指導者は中南海という隔離された別世界に住んでいるという。これは必要悪なのであろうか。社会主義市場経済 のなかで、腐敗が拡がっていると報じられているが、これも必要悪と考える人がいてもおかしくない。

比較的格差の少ない日本では、理解しがたいことである。

二酔人四方山問答(30)

岩木 秀樹

B:メディナに移ってからのムハンマドはかなり変わったのかな。

A:メッカでの彼は、啓示の伝達者としての宗教的な側面が強かった。それに対して、メディナへのヒジュラ後の彼は、政治指導者、調停者、裁判官、立法者などの役割を担っていくようになった。メディナの10年間はイスラーム共同体(ウンマ)の制度化・組織化の歴史だった。

B:どのような制度化をしたの。

A:一番大きいのは、メディナ憲章を作ったことだろう。当時のアラビア半島は部族社会であり、中央集権的な国家やルールがなかったので、いったん抗争が始まるとなかなか終結させることができなかった。

B:そのような抗争を終結させる調停者として、ムハンマドはメディナに迎え入れられたんだよね。

A:そうだ。メディナでのアラブ部族やユダヤ教徒を結びつける協定がこのメディナ憲章だったんだ。これが抗争を生む部族主義の紐帯に代えて、信仰を基礎とする共同体を樹立し、宗教共存による安全保障の原理をうち立てるものであった。

B:具体的にどのような内容なの。

A:ムハンマドに司法、行政、外交の最高決定権を委ねて、対外的には団結して外敵にあたる集団安全保障がうたわれている。対内的には無差別報復の禁止、犯罪者の引き渡しと罰則の規定、信教の自由、正義の原則、財産権の保証、戦費負担の義務などが定めてある。

B:へー、かなり細かいこともあるんだね。

A:この憲章は、国家を創設する社会契約と言ってもよいだろう。メッカからの亡命者とメディナのムスリムだけでなく、非ムスリムの多神教徒やユダヤ教徒の自発的な合意の締結により、立憲連邦国家とも言うべき政体を作ったんだ。

B:こうして制度化を進めていくとともに、対外的にも広がっていくんだよね。

A:次第にアラビア半島全体を巻き込む軍事的な闘争となっていく。だからメディナ期は戦役の歴史とも言える。

B:メッカ勢力との最初の大きな戦いはいつだったの。

A:西暦624年のバドルの戦いだ。メッカ軍は600人くらいでメディナ軍より倍以上も多かったが、ムハンマドの卓越した戦略や信仰心に燃えたムスリムたちにより、メディナ軍が勝った。

B:その後、ムハンマドの威信は高まったんだろうね。

A:そう。戦利品や捕虜を得て経済力も高まり、発言権や威信を得て政治力も高まり、さらにムスリムに神の加護を確信させることになったので宗教的意義も大きかった。

B:その後もどんどん戦争をしていくんだよね。

A:625年ウフドの戦い、627年ハンダクの戦い、その後628年にはフダイビアの盟約と言われる和平もあったが、ついに630年に一万以上の軍勢を率いたムハンマドはメッカのカーバ神殿に無血入城し、全ての偶像を破壊したとされている。

B:その後イスラーム勢力はアラビア半島の覇権を確立したんだよね。

A:ムハンマドは神の使徒として様々の部族集団を宗教・政治・経済的に統轄することにより、部族間の闘争は終わり、平和の到来となった。これがパックス・イスラミカと言われるものだ。

(つづく)

ロシア連邦過激主義活動対策法

宮川 真一

ロシアで右翼過激主義が台頭していた2002年4月29日、プーチン大統領は「ロシア連邦過激主義活動対策法案」を下院に提出する。ロシアで「過 激主義」を初めて法的に定義するという画期的なこの法案は6月6日、下院総会の第一読会において、賛成271(60.2%)、反対141(31.3%)、 棄権1(0.2%)、無投票37(8.2%)で承認された。この法案には議会の内外から様々な批判が寄せられていた。しかし、6月9日に開催されたサッ カー・ワールドカップの日本・ロシア戦で、ロシアの敗北を機にモスクワの広場に集っていた過激な若者集団が暴徒化するという事件が発生する。右翼過激主義 のネオナチ党員が混じって煽動していたとされるこの暴動により、下院の建物も損害を被り、118人が逮捕、警官20人を含む100人以上が入院する事態と なった。この事件も立法過程に影響し、6月20日の下院総会では、賛成272(60.4%)、反対126(28%)、棄権2(0.4%)、無投票50 (11.15%)で第二読会を通過。6月27日には賛成274(60.9%)、反対145(32.2%)、棄権0、無投票31(6.9%)で第三読会を通 過し、この法案は下院で採択されるにいたった。概ね6割の与党議員が賛成、3割の野党が反対しており、共産党、農業党のほぼ全員と「ヤーブロコ」所属議員 の約半数は反対にまわっている。その後7月10日に法案は上院で承認され、7月25日にプーチン大統領が署名し、速やかに成立した。

この法律は第1に、「過激主義活動」を次のように規定する。「社会および宗教団体、またはその他の組織、またはマスメディア、または 自然人の活動で、次のことに向けられた計画、組織、準備および遂行を指す。憲法体制の原則を暴力的に変更すること、およびロシア連邦の一体性の侵害。ロシ ア連邦の安全保障の破壊。全権の強奪若しくは奪取。非合法的な武装部隊の創設。テロ活動の実行。人種的、民族的若しくは宗教的不和、並びに暴力若しくは暴 力への訴えに関連する社会的不和の煽動。民族的尊厳の侮辱。イデオロギー的、政治的、人種的、民族的若しくは宗教的憎悪または敵意、並びに何らかの社会集 団に対する憎悪または敵意を動機とした、大規模騒乱、無頼行動および野蛮行為の実行。宗教に対する態度、社会的、人種的、民族的、宗教的若しくは言語的帰 属の特徴に関する市民の優位性、優位または下等の宣伝」。このように過激主義を大変広く規定しているが、ここから新法がテロリズム・分離主義をも射程に入 れていることが読み取れる。第2に、ナチズムも法的に禁止され、ナチの付属物またはシンボルの宣伝および公的な誇示を過激主義と位置付ける。「ドイツ国民 社会労働党、イタリア・ファシスト政党指導者の著作」は「過激主義資料」と規定される。第3に、過激主義の予防について。「過激主義活動対策の基本方向」 は過激主義活動の予防措置を講じ、過激主義の原因と条件を明らかにして除去することである。また「過激主義活動の予防」として「過激主義活動の予防に向け られた養育、宣伝を含む予防措置を講じる」と規定しているが、これらの詳細については触れられていない。第4に、社会・宗教団体について。「ロシア連邦で は目的若しくは行動が過激主義活動の実行に向けられた社会および宗教団体、その他の組織の創設および活動は禁止される」と規定し、「大衆行動遂行の際にお ける過激主義活動実行の不許可」について定めている。第5に、マスメディアについて。マスメディアを通じての過激主義資料の散布およびそれらによる過激主 義活動の実行は禁止され、マスメディアが過激主義活動を実行した場合にはそのマスメディアの活動は停止されることがある。

この立法には様々な批判が寄せられた。「権利擁護ネットワーク」のセルゲイ・スミルノフによれば、新法は民主的でも人権を擁護するもの でもない。過激主義活動の極めて広い定義、規定された措置が法廷外の性格をもつことなどから、新法は市民に向けられた危険な道具となっている。人権研究所 の専門家であるレフ・レビンソンは新法が「リベラルな社会団体法に含まれている、社会団体擁護の機能を破壊している」と述べ、この法律が社会・宗教組織の 活動を統制下に置くことを目指していると指摘する。人権研究所所長のバレンチン・ゲフテルによれば、この法律は諜報機関が気に入らない組織に制裁を加える ことを可能にしており、「グリーンピース」のエコロジー行動、反グローバリストのデモンストレーション、反戦行進などが「過激主義活動」とされかねない。 下院社会団体・宗教組織問題委員会副議長のアレクサンドル・チュエフによれば、この法律は個々の市民のみならず、「良心の自由および宗教団体法」に従って 登録済みの宗教組織の権利をも制限しており、ロシア連邦憲法に違反するものである。

それでは、右翼過激主義の台頭にはいかなる対策が適切であるか、次の機会に検討したいと思う。
(拙稿「現代ロシアにおける右翼過激主義対策—『過激主義活動対策法』をめぐって—」創価大学社会学会編『ソシオロジカ』第29巻、第1・2号、2005年3月。)