月別アーカイブ: 2005年6月

二酔人四方山問答(5)

岩木 秀樹

B:君の話を聞いて、だいぶ「ユダヤ問題」がわかってきたよ。この前本屋に行ったら、「ユダヤ・キリスト・イスラーム2000年の怨念の歴史」みたいなタイトルの本があった。これでも読んでみようかな。

A:やめた方がいいんじゃない。このての本を読むのは時間の無駄だよ。ちまたに怪しい「ユダヤ本」って多いんだよな。ユダヤ教・キリスト教・イスラームは姉妹宗教で、祈っている対象である唯一神は同じだ。これらの宗教が生まれた中東地域では、比較的共存してきた。だから2000年の怨念の 歴史というのは、少なくとも中東地域においては嘘だ。 怨念の歴史があったのは近代ヨーロッパなんだ。だから起源としては「ユダヤ問題」は「ヨーロッパ問題」だと言ったんだ。ヨーロッパ・キリスト教社会の矛盾 である「ユダヤ問題」の解決を押しつけた所産が、「イスラエル・パレスチナ問題」なんだ。

B:なるほどね。ぼく流に言えば、「イスラエル・パレスチナ問題」はユダヤ教とキリスト教との対立のツケをイスラーム教徒が払わされていると言うことだろう。

A:そうだ、うまいこと言うね。さらに言えば、民族主義と植民地主義を育てた西欧諸国は、パレスチナにユダヤ教徒を送り込むことによって、 ユダヤ教徒の救出(実際は放出)と植民地主義的野心の双方が満たされた。ユダヤ教徒の放出によりヨーロッパ民族主義がより「純化」され、イスラエル建国に より西欧植民地主義の橋頭堡が作られた。

B:今ここにイスラエルの年表があるんだけど。1920年に英国による現在のイスラエル地域を含むアラブ地域の委任統治、1948年にイスラエル建国、同年に未耕作地開拓のための緊急条項施行とある。

A:英仏などの西欧諸国は、第一次大戦において広範な戦争協力を獲得するため、ユダヤにもアラブにもいい顔をして民族郷土建設を約束したん だ。しかし実際はこの地域を西欧で分割をした。世に言う三枚舌外交だ。その後、英国による委任統治という名の新たな植民地形態が始まり、イスラエルが建国 されたんだ。

B:未耕作地開拓のための緊急条項施行って何。

A:簡単に言うと、ある地域を閉鎖地域と宣言して出入りを禁止すると、未耕作地となる。 実際にはアラブ人がいたんだけど。その後にこの法律を適用して没収し、耕す意志のある者、つまり近くのユダヤ教徒入植地に渡すというものだ。このようなことを繰り返して、アラブの土地をユダヤのものにしていった。

B:西欧やイスラエルの行った歴史をきちんと見てみないといけないなー。でも今でもイスラエルでは民族絶滅の危機感が存在すると何かに書いてあったよ。

A:ユダヤ教徒がすさまじい迫害にあったことを否定する人はいない。またイスラエルの周りの国はアラブばかりで、いつ地中海に自分たちが追 い落とされるのではないかと危惧しているのも事実だ。ただその歴史的教訓をどう生かすかが重要だ。またホロコーストの問題が直接イスラエル建国に結びつく と考えるのも性急だ。例えば、後の労働党につながるマパイのシオニストの中には、ホロコーストで死んでいった人たちはシオニズムの大義を信じずにヨーロッパに残ったのだから、犠牲になったのは仕方がなかったというような冷淡な見方もあった。

B:そんなことを言ったユダヤ教徒もいたの!

A:ホロコーストの悲劇の末に「ユダヤ民族国家」イスラエルが建国されたとする考え方はある種のシオニストのイデオロギー的宣伝とも言え る。「ユダヤ人」が特定の歴史と場所を超越して存在するかのような「永遠のユダヤ人」像を結晶化させたのだ。例えば、1961年のアイヒマン裁判も、ユダヤ教徒は世界中で苛められていて、その最悪の形がホロコーストだと訴えることによって、労働シオニズムではまとまらないイスラエル国民の感情を統合するた めのベングリオンによる政治パフォーマンスだとの説もあった。

B:そうなんだ。

A:またユダヤ教徒右派の中にはシオニズムに反対する人もいた。神がユダヤ教徒を約束の地から追放したとき、神が許すまでユダヤ教徒は離散の生活を続けるべきと考えた。つまり国を作るのは神であり、人間が勝手に国を作ってはいけないと主張した。

B:ユダヤ教徒の中にも色々な意見があるんだなー。イスラエルの政策に批判的な人もいるの。

A:いるよ。例えば、イスラエルの精神的権威でもあるユダヤ教の碩学ヤシャフー・レーポヴィツは、1967年の第三次中東戦争によるイスラ エルの領土拡大に関して、イスラエルはユダヤ人にとって世界中でもっとも危険な土地になったと嘆いたそうだ。またユダヤ教からキリスト教への表面的改宗者 マラーノの子孫であるエドガール・モランは、アウシュヴィッツがイスラエル国軍による権力乱用を隠蔽するために使われるのは我慢できなくなった、と述べた そうだよ。

B:へー、イスラエル国内においても多様な意見があるんだ。

A:イスラエル軍へ徴兵拒否をする人も徐々に増えている。またパレスチナ・イスラエル双方から肉親を殺された人々からなる被害者の会が互い の怨念を越えて対話をし、暴力の連鎖を越えようとしている。このような動きを見ていると、かすかな平和への光明も見えてくる気がするよ。

「憲法改正問題」について

今井 康英

今回は、憲法改正問題について述べます。 日本国憲法第96条に、憲法改正の手続が規定されている。 先ず、衆参両院の「総議員の三分の二以上の賛成で、」 国会が発議しなければならない。 次に、国民の承認には、「過半数の賛成を必要とする。」 その承認を経たときは、天皇は「国民の名で」直ちに公布する。

私は、必ずしも憲法改正に反対ではない。 憲法が、字義通り、「改正」されるのであれば、賛成する。 大事なのは、改正の中身である。ややもすると、 「改悪」になりかねないので、反対することが多くなる。

中日新聞(6月12日)によると、 日本世論調査会による憲法に関する世論調査の結果、 「憲法を改正する必要がある」(26%) 「どちらかといえば改正する必要がある」(38%) とする改正派が64%に上り、 「改正する必要はない」(10%) 「どちらかといえば改正する必要はない」(17%) という反対派の27%を大きく上回った。

また、改正派に理由を聞いたところ、 「憲法の規定が時代に合わなくなっているから」が60%。 改正すべき対象(2つまで回答)は 「9条と自衛隊」(52%)、 「知る権利・プライバシー保護」(25%)、 「天皇制」(24%)、 「内閣・議会制度」(21%)の順だった。

ところが、9条は「改正する必要はない」が42%、 「改正する必要がある」は35%。 改正派に、改正の際に最も重視する点を聞いたところ、 「現在の自衛隊の存在を明記すべきだ」(48%)、 「国際貢献を行う規定を設けるべきだ」(29%)、 「自衛隊について拡大解釈を防ぐ規定を設けるべきだ」(20%)の順。 戦争放棄と戦力不保持を規定した9条の改正は賛否が割れ、 「集団的自衛権」の行使は59%が否定的だった。 国民世論として「改憲の必要性は認識しながらも、 海外での武力行使につながりかねない改正論とは 一線を画そうとする意識が浮き彫りになった」と言える。

実は私も、改正すべきは「天皇制」だと思う国民の一人です。 時事通信(6月17日)の 皇位継承方法に関する世論調査結果によると、 7割以上が現行の男系継承(父方が皇族)について 「こだわる必要はない」と、 母方のみが天皇の血筋を引く女系天皇を容認していることが分かった。 また、女系容認の場合の皇位継承方法に関しても 「男女で差をつける必要はない」との回答が8割近くに上った。 私は、皇室典範は今のままでも良いと思う。 その結果、皇室が自然消滅するのが良いのではないかと思う。 人為的に、この制度を遺す必要を感じない。

仮に天皇制を遺す場合は、もうこれ以上「世襲制」は止めにして、 第2条を国民投票による選挙制に替えるべきだと思う。 勿論、被選挙権にも男女の差別はつけない。 私は、その方が第1条の主旨に相応しいと考えます。 それには国民の「主権者」意識、あるいは「人類」感覚の涵養が 大事ではないかと思われます。

フィンランドの教育

その他

投稿者:社会派かあちゃん

フィンランドのトゥーラ・ハータイネン教育相が来日し、6月23日「今後の学校教育の質向上の方法を探る」というセミナーに出席した。

経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査の結果を基に、今後の学校教育の質向上の方法を探るセミナーが23日、東京都内で開かれた。中山成彬文 科相はあいさつで「調査は各国の長所や改革点について客観的データを提供した。各国の知識を共有しあい教育の質向上につなげてほしい」と話した。(共同通 信 6月23日)

フィンランドといえば、上記学習到達度調査で読解力などが世界1位とされ、日本はいくつかのジャンルで順位を抜かれたこともあって、この手の調査結果に敏感な日本の教育界では「フィンランド」は最近特に注目されている。

トゥーラ・ハータイネン教育相は、14と17歳のお子さんを持つ子育て真っ最中のお母さん大臣で、すらりとした長身、爽やかな微笑がとても印象的だ。彼女は初め看護士をしていたが、子どもができてから更に大学院で学び続けたとのこと。 彼女の自信に満ちた落ち着きと真剣な眼差し――そこには、磨かれた学識と子育ての経験によって「今、やるべきこと。大切にすべきこと。」を国の教育政策に生き生きと反映させている様子が表れているような気がした。

ところで、セミナーの席上「フィンランドの学力向上の秘訣は?」-との問いに「成功の鍵は市民平等の原則。平等主義に基づいて子どもに最善を尽くしてきた」と語っていた。 平等主義に基づいて子どもに最善を尽くす――なんて当たり前で素適な言葉なのだろう。 日本の文科相始め教育関係者は、もっと込み入った種明かしを期待していたのでは。

常日頃から、おばちゃんが解せない事の一つに「なぜ同じ日本の国に生まれて、こうも偏った教育環境で学ばなければいけないの?!」ということがある。 国や自治体の○○モデル校、△△推進校というところには、湯水のように予算が配分される。 都立高校のIT推進校の場合、一校になんとまるまる二校分の予算がつく。トイレモデル校の世田谷区内の小学校、トイレは高級ホテルのようだ。

モデル校を作って教育の行く先を研究するのも重要だし、学校ごとの特色を求めるのも大切だと思うけれど、お金がなくて理科の実験もできない義務教育校があるのも現実。もうちょっとうまくお金を使って平等にすることは出来ないものか。

そこの大臣。おたくの子は私立で通したから、義務教育の公立校をよく知らないと思うけど、一度真面目に考えてみて。 「ふたりの子は地元の公立小中学校に通わせました。そこがとても良かったから。」と答えたフィンランドのお母さん大臣の言葉が忘れられない。

・・・かかしの賭け事・・・

その他

投稿者:かかし

もしも相手がいるのなら、やってみたい賭けがある。

海の底 いっぱい福があると言う
仲良くいっしょに探そうよ
ほんとに それができるかな

民営で みんな幸せになると言う
かかしもお手紙ほしいけど
ほんとに ここまで届くかな

クールビズ 永田町では大はやり
世間は上着を離さない
ほんとに 酸素が増えるかな

アメリカが みんなのためにと言うけれど
核のパラソル 畳まずに
ほんとに 平和が来るのかな

(よい子のみなさん 賭け事をしてはいけません。 良い事がある、と信ずることができない大人のやることですから。)

フルシチョフ時代再考 (PDF)

中西 治

本論文は1953年3月5日のスターリンの死から1964年10月14日にフルシチョフがソヴェトの最高指導者の地位から解任されるまでの11年余の「フルシチョフ時代」を再検討しようとするものである。

筆者はかつて1960年代から1970年代にかけてこの時期のソヴェトの政治・外交・社会の諸問題について多くの論文を発表した。しかし、1985年3月11日のゴルバチョフの登場以後この時期の重要問題についての資料がロシアでも公刊されるようになり、1991年12月25日のソヴェト同盟解体以後はそれがいっそう増えている。2003年にはこの時期のソヴェトの最高指導機関であったソヴェト同盟共産党中央委員会幹部会の議事録がモスクワで出版されはじめた。

そこでこの機会に改めてこれらの新しい資料にもとづいてこの時期を考え直してみたい。本論文ではこの時期全体を通史的に再検討するのではなく、論議の的となってきた幾つかの問題を取り上げて論ずることにする。

第一はこの時期の出発点となったスターリンの死についてである。スターリンは本当に病気で死んだのか、それとも殺されたのか。まず、この問題から始めよう……

本論文はPDFファイルで閲覧可能です。

「地球社会論研究部会」第2回研究会

事務局

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今年は第二次大戦後60年。朝鮮戦争勃発後55年。日韓国交正常化後40年。日本と朝鮮民主主義人民共和国のあいだにはいまだに国交がありません。私たち の地球宇宙平和研究所の代表団が朝鮮に行くことの意義の大きさを改めて感じています。今週の土曜日は1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発してから55 年。その翌日の2005年6月26日(日)午後2−4時に横浜洋光台の地球宇宙平和研究所で恒例の本年度第2回地球社会論研究部会を開催します。

開催日:2005年6月26日
報告者:中西 治
テーマ:「朝鮮・韓国・中国・ロシア・日本・米国 −1945年〜2005年−」
参考資料:『フルシチョフ時代再考(9)』「朝鮮戦争の拡大と休戦」

癒しの国ラオス:ラオスの開発課題とその展望

掛川 三千代

筆者が、在ラオス日本国大使館に、経済と開発問題担当の専門調査員として勤務して、早くも2年10ヶ月が過ぎ、あと2ヶ月余りの契約期間を残すばかりとなった。地球宇宙平和研究所から、「定期的なコラムの投稿者になりませんか」と親切に声をかけて頂いたこともあり、この機会に、日本では殆ど知られていないラオス人民民主共和国のこと及び当地で得た経験を、エッセイー風に書き、ラオスのことを、より多くの人に知ってもらえることを期待したい。

さて、「ラオス」と聞いて、どこにある国で、どのような歴史を有し、どのような人々が住んでいるか等をすぐに思い出せる人は非常に少ないであろう。実際、赴任前、米国人の友人に「ラオスに行くことになった。」と言うと、「ラゴス?アフリカに行くの。」という返事が何回か返ってきた。また、ラオスの隣国タイの首都バンコクのある有名ホテルで、「どこから来たのですか?」と聞かれ、「ビエンチャンです。」と言うと、「ベトナム?」と回答する従業員がいた。「いいえ。隣の国の首都、ビエンチャンです。」と言うと、「え、ビエンチャン?イサン地方(タイ東北地方)の北の方ね。」と言われる。バンコクからすれば、タイの東北地方は、かなりの田舎であり、その北にあるビエンチャンは、隣国ラオスの首都であっても、一層田舎であり、イメージはなかなか浮かばないらしい。このような反応が返ってきた時は、「隣国の首都ぐらいは知っていて欲しいなあ。」と思うことがよくあった。でも、実際、ラオスにとって、タイは非常に重要な経済パートナーであるが、タイにとっては、「ラオスは、タイの一地方」ぐらいにしか思われていないのであろう。詳細は、徐々に述べることにしたい。

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Map of the Lao PDR

1.国の概要

ラオスは、周囲を中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに囲まれた内陸国である。また、国土の約8割が山岳地帯であり、肥沃なメコン河流域があるとは言え、耕地に適した土地は決して多くはない。人口は約560万人であるが、国土は24万k㎡(本州の面積に相当)であり、人口密度は23人/k㎡と極めて低い。現在、首都ビエンチャンの人口は約69万人と言われが、その他では旧都ルアンパバーン、南部の中心地パクセーを除いては、過疎に近い状態である。国は多民族国家であり、低地ラオ族が約60%を占め、その他は49の少数民族がいると政府発表では言われているが、民族の分類により、100を超える少数民族がいるとも言われている。また、国民の多くは、小乗仏教を信仰している。

ラオスの最初の統一王朝は、1353年のランサーン王国(百万の象、即ち多くの象という意味)で、首都はシエントーン(現在のルアンパバーン)に置かれた。その後、ビルマの侵攻を避けるため、1560年にビエンチャンに遷都した。18世紀初頭には、王位継承を巡る内戦等から、ビエンチャン、ルアンパバーン、チャンパサックの3国に分裂し、1779年にはシャム(現在のタイ)の属国となった。1893年には、仏シャム条約により、フランスの植民地となり、1899年には仏領インドシナ連邦に編入された。第二次世界大戦の後期には、ラオス南部に於いて日本軍の侵攻を受けた。第二次世界大戦が終了すると同時に、ラオスは植民地政策より解放されたかのように見えたが、1949年、仏ラオス協定により、フランス連合内のラオス王国となった。その後、1953年には、仏ラオス友好条約により、完全独立を達成した。しかし、ベトナム戦争の影響を受け、共産主義勢力(左派)と反共産主義勢力(右派及び中立派)の間で内戦が繰り返された。また、ベトナム戦争中の軍需物資供給路であったホーチミン・トレールの一部がラオス南部を通過していたこともあり、1964年から75年までに、米軍により約300万トンの爆弾を受けた(当時の人口は300万人)と言われている。また、そのうち約3割が不発弾として、今なお、ラオスの東部、南東部に多く残留しており、開発の障害となっている。

最終的に、1975年4月、サイゴンが陥落、ベトナムの統一が達成された。ラオスにおいても、共産主義勢力が革命により権力を握り、同年12月に王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した。75年から80年代初頭にかけ、多くのラオス人が、政治難民として国外に逃亡した。最もよく知られているのは、モン族である。山岳地帯に住むモン族は、ベトナム戦争中、米軍の手先となって共産主義勢力と戦わさせられた。また、王国派であった人々も、革命と同時に、フランス、米国、豪州、日本等に逃亡している。現在、米国に居住するラオス人は約50万人とも言われており、ウィスコンシン州、ミネソタ州、カリフォルニア州等に小さな「ラオス・コミュニティ」があるそうである。

本来、国家設立と同時に、憲法の起草がされるのが通常であるが、ラオスの場合は、人民革命党の決裁により全てが決まり統治されてきた。憲法が制定されたのは革命後16年も後の1991年であり、この16年間、憲法無しで国を治めてきたのである。

上記の通り、内陸国という地理的条件の中で、ビルマの侵攻を受けたり、シャム(タイ)に攻められたり、また、フランスの植民地支配下に置かれたり、日本の侵攻を受けたり、更には、ベトナム戦争中は、米軍と正式に戦争はしていなかったにも拘らず、ホーチンミン・トレールの一部が、ラオスを通過していた為、米軍により爆撃を受けた。ラオスの歴史を振り返ると、波乱万丈であり、このような中を、人々は賢明に生き延びてきた。

政治的には、ベトナムの後を継いで、社会主義政権となったラオスは、本格的な社会主義路線を敷いたかのように見えたが、個人主義の強いラオス人の間では、集団農業経営が成り立たず、1979年には同経営を中止している。計画経済の行き詰まりを打破する為、1986年に、「新経済システム」を導入、実質的な市場経済、開放政策の実施を開始した。

次回に続く。

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Tat Luang-front

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Hmong women at Thongsi village

我が土、我が民(その2)―母なる河 澮河(その2)

王 元

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新しい三水大橋

我が故郷安徽(省)淮北(市)臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」といわれていました。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。これは今でも変 わりません。

三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で 「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深 秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の 渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたとい うことです。

この地域では古代から麦と同じように有名なのは“大盗”です。

日本の「万世一系」に対し、中国は「易姓革命」つまり、誰でも王となれる、としばしば指摘されます。中国、いわゆる四千年の歴史の中で主なる王朝 は夏商周秦漢晋隋唐宋元明清の12。中でも200年以上ながく維持されてきた大きな王朝は夏商周漢唐宋元明清の九つ。この九つの中で商漢宋明(延べ 1500年以上)の四つは私の故郷の周辺(半径140km)から誕生した王朝であり、特に漢と明は中国史上二つの農民蜂起によりできた王朝です。

そもそも中国史上初の農民蜂起は澮河の下流にある大沢郷で起きました。司馬遷『史記・陳渉世家』には以下のように記しています。

陽城の人陳勝、字は渉。少き時人と傭耕す。耕を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰はく、「苟くも富貴とならば、相ひ忘ること無からん。」 と。傭者笑ひて曰はく、「若傭耕を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰はく、「ああ、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。

是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰は く、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。

当時の大沢郷のあたりは澮河など淮河の五つの支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたちまち道が通じなくなった。こうして大沢郷に 蜂起した農民軍は120km西進して我が故郷「銍」等五県を陥れ、さらに西130kmの陳州に向かった。陳勝は陳州で王と称し、国号を「張楚」と名づけま した。中国史上初めて身分も何もない日雇い農民が王となった瞬間です。

「王侯将相寧ぞ種有らんや」。直訳では「王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と違いなどないのだ!」という意味です。現代語ではおそらく、「人間誰も皆同じである!」と訳して良いでしょう。こんな言葉が2000年以上前に叫ばれているのです。

陳勝の農民軍はわずか一年で破綻しましたが、この大沢郷蜂起が秦末大乱の先駆けとなります。これを機に挙兵した劉邦は,秦を倒した後、項 羽を滅ぼして漢を建国することになるのです。ところが同じ沛の中陽里(我が故郷「銍」から北へ100km)の出身であるこの劉邦も当時はまだ“無頼漢”で ありました。その話は次回に。

子どもから教わること

その他

投稿者:長谷川薫

2年程まえに、娘が通う小学校で3年生の「総合的学習(国際理解)」の時間をいただいたことがあります。知り合ったばかりのカザフ人女性をゲストに 招き、3コマ分の授業を担当していただきました。彼女は日本人と結婚して、来日数年。カザフ大学在学中にソ連が崩壊し、経済的・政治的混乱の中、大学生活 にも就職にも相当難義したという30代前半の方です。

昨今のサッカー人気のおかげで、「カザフスタン」の名前は多くの男の子たちが知っていましたが、何せ「ソ連」を知らない世代。事前準備には、相当悩まされました。簡単な地理・自然・学校制度・食生活などなど、9歳の子どもたちの興味をひきそうな内容に絞りました。

ビジュアルなものに目がいくのは当然ですが、意外だったのは、歴史、とりわけ冷戦時の話しに皆興味津々だったことです。「ソ連の時代は、日本とカザフの 間の行き来はあまり許されていませんでした。普通の人は全然行けませんでした。ソ連とアメリカはあまり仲がよくなくて、日本はアメリカと仲がよかったか ら。でも、今は自由に行けるようになりました。」との説明に聞き入っていました。

子どもたちからは「仲が悪かったのに、ソ連とアメリカが戦争をしなかったのはなぜですか?」との質問が出され、講師は言葉を選びつつ「それは、戦争がおきないように、粘り強く話し合いをしたからです。」と答えていました。 実感のこもった話しは心に残るのか、授業後の感想文の中に、「戦争が起きなくてよかった」と書く子が何人もいたそうです。

毎日のように戦場がテレビに写しだされている時代にあって、その異常に麻痺することなく、とにかく戦争は嫌だ!という子どもたちは正直だし、本当に健全だと思います。

何かと議論の多い「総合的学習」の時間。労多いことと思うのですが、失くしてしまっては「もったいない」限りです。大人(先生)の側にもきっと思わぬ収穫がありますよ。

タイから垣間見た「東アジア共同体」

高橋 勝幸

中国の反日デモを契機に、民間の間からも東アジア共同体の必要性を唱える声が高まった。2005年12月にはマレーシアで初めて東アジアサミットが開かれる。私の身近でも早稲田大学の天児慧さんがAHC(Asian Human Community)を発足させ、この原稿は6月18日に行なわれた第3回準備会の私の発言をまとめたものである。

私は、東アジア共同体について、この5月に複数のタイ人に意見を聞いた。チュラーロンコーン大学アジア研究所研究員、AP通信記者、雑誌編集長、NGO活動家(Focus on the Global South)、大学生らである。これはあくまでごく一部の意見であり、政府関係者にも聞いていないので、一般化することはできないが、概して、東アジア共同体の構想には消極的であった。

彼らの意見を集約すると、アセアンですらうまく機能していないのに、東アジア共同体は一層複雑で大きすぎるという。共同体というには日本とタイは距離が遠い。確かに、在留日本人、日本の商品、アニメ、ポップスは巷にあふれている。しかし、同じコミュニティを形成するには違和感がある。

アセアンは外見からは、アジアにおいて稀有の共同体のように映るかもしれない。しかし、実態も実感もないという。会議で確実に決議されることは、次、いつ、どこで会議を開催するかである。強いて言えば、査証なしで移動ができること。確かに、入国手続きのアセアン国籍専用レーンが空いているのが羨ましい。

そもそもタイ人は隣国を知らなさ過ぎるという(日本もさして変わらないかも知れないが)。隣国に対する関心が低い。タマサート大学に東南アジア研究プログラムができたのは2000年である。学部レベルでタイ語で教える。チュラーロンコーン大学に同プログラムができたのはその後で、修士課程のみで英語コースである。現行のホームページの案内は、アセアンが取り組む東アジア共同体形成のダイナミズムを東南アジア研究の重要性として強調している。学生は半分がタイ人で、インドシナ3国、ビルマ、シンガポールの学生も学んでいる。

中国の反日デモに関連して、私が思い出したのは、千人におよぶカンボジア人が2003年1月29日にカンボジアのタイ大使館前で、抗議デモを行なったことである。このデモはエスカレートして、タイの大使館、企業、ホテル、レストランが焼き討ちされた。事の発端は、カンボジアでも人気のあったタイ人女優が「アンコール・ワットはタイのもの」と発言したとカンボジアの新聞が報道し、その年の7月の選挙対策として、反ヴェトナム感情に訴えられないフン=センが反タイ感情に訴えかける演説をしたことである。当時のタイ側の新聞には、タイ人ビジネス関係者がカンボジアで我が物顔に振る舞っていたとの反省があり、1970年代の日本の東南アジア進出を想起し、日本の福田ドクトリンに学べといった論調も見られた。

焼き討ちの前日の晩から当日の未明まで、私はタイの首相府前で寝そべっていた。東北タイを流れるメコン河支流のパクムンダムの開門を要求する貧民会議(サマッチャー・コンヂョン)の長期泊り込みによる抗議行動に参加していた。当日には当局が強制退去させることになっていた。ところがこの事件である。強制立ち退きのニュースはカンボジアのニュースに掻き消されてしまった。数日後、首相府前に行くと、ダムに抗議する者はいなかったが、カンボジアの2州(アンコール・ワットを含む旧タイ領)はタイに帰属するというタイ字紙の論説のコピーを配布する活動家に出会った。

タイは国境を接するカンボジア、ラオス、ビルマ、マレーシアとそれぞれ問題を抱えている。ヴェトナム戦争(タイのアメリカ協力)以外にも、ナショナリズムに由来する歴史認識の問題がある。メコン河開発をめぐって、中国を含む流域国の利害関係がある。FTA導入と健全な国民経済の保護をめぐる葛藤がある。これらの問題が認識されており、その解決のためにも、東アジア共同体の構想が寄与する可能性もあるのではないかと、私は思った。

東アジア共同体の引き合いに出されるのがEUだが、その憲法条約にフランス市民の55%が反対し、大差で不支持を表明した。私などは新聞を読んで悲観的な気持ちになった。しかし、タイのNGO活動家が紹介してくれたATTAC Japan (Association for the Taxation of financial Transactions for the Aid of Citizens) によると、この「ノー」の意味は、政府間が進めるアメリカ流のグローバリズムと新自由主義の暴走を食い止めようとするもうひとつのグローバリズムの動きであった。

「日本がリーダーシップをとる東アジア共同体をどう思う?」と尋ねたところ、タマサート大学東南アジア研究プログラムの卒業1期生は「冗談じゃない。アセアン+3だ。」と答えた。戦後60年の今年、8月16日(タイの平和の日)には、バンコクの自由タイ(抗日運動)公園(昨年、自由タイ博物館がオープン)において盛大な平和祝賀行事が催される。「大東亜共栄圏」と同じ轍を踏まないように、誰のための、何のための「東アジア共同体」なのか、日本人はよくよく考える必要があると思った。