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文明の故郷・中東 ―中東イスラームの歴史と現在 (2)

岩木 秀樹

中東イスラームの地域社会は都市民と農民と遊牧民が相互に密接な関係を保ちながら作りあげてきた有機的な複合社会である。しかもこれらの関係は決して固定的なものではなく、異民族の侵入と定住、農民たちの都市への移住、遠距離交易に従事する商人の旅やメッカ巡礼の旅、さらには遠隔の都市をめぐる学問の旅などを通じて、常に新しい人間関係や社会秩序が作り出されてきたのである。(1)このように多様で可変的でダイナミックな中東イスラームは古代オリエント・ギリシア・ローマ文明の継承者でもある。現在の西洋のみがこれらの文明の継承者ではないのである。むしろイスラーム文明が東西に分裂していた西アジア世界を統合したという側面もある。まず始めに、このような中東イスラームを古代までさかのぼり概観していく。

人類はその99%の時期を狩猟採集に頼った生活を強いられてきた。狩猟採集から食料生産への移行は、人類史の中でも重要な転換点であった。中東では今から約一万年前に小麦・大麦などの栽培化と牛・山羊・羊などの家畜化によって、食料革命が達成された。(2)この当時地球上には数百万人規模の人間しかいなかったが、この地域にはかなりまとまって人々は暮らしていたのである。

約6000年前から灌漑・集約農業がメソポタミアやエジプトで始まった。それまでの粗放農業では最大で種をまいた量の10倍の収穫だったが、数十倍の収穫が得られるようになった。当時、日本は縄文時代であったのに対し、中東では麦と乳を基本とする農牧業が灌漑を伴う集約的な形でなされて、人口は爆発した。世界の人口の過半がメソポタミアとエジプトに集中していたと考えられており、文字通り「肥沃な三日月地帯」であった。

約5000年前には、都市を中核とした国家が成立した。人間同士の円滑なコミュニケーション、都市や国家の維持、また都市間、国家間、より遠距離との交易のために文字、暦、計算方法、天文観測などが発明された。(3)この文明は古代オリエント文明と呼ばれるが、その最大の特徴は、都市という社会生活の場を生み出したことにあり、都市文明と呼ぶことが出来る。都市文明の指標として、政治組織と階級制度の発生、社会に不可欠の要素としての交易の発達と規模の拡大、拡大複雑化した社会を維持運営するための官僚、軍人、商人、職人などの非農業的職業専従者の出現、彼らの居住空間としての都市の存在、文字の使用や冶金術、交通手段の発達などがあげられる。(4)

都市とは単に人間が多数、緻密に住んでいることだけを意味しているのではない。それは、そこにたえず外部から人、もの、情報が集まり、またそこからたえずそれらが出ていく場なのである。異質な人々、多様なもの、各種の情報が交差しあう中から、文明が生まれた。中東は都市とともに、文明を世界で最初につくりだした地域なのであった。

5000年前の中東は、すでに商品経済の世界であった。金・銀に裏付けされ、個人の信用に媒介された商取引・商契約が、社会を成り立たせる基本であった。中東は、個人の資格で他者と契約する、自立した人々よりなる社会であったのである。アルプス以北のヨーロッパでこのような社会が実現するのは、19世紀になってからである。中東はヨーロッパの近代を約5000年前から先取りしていたとも考えられる。この個人の資格で他者と契約するという考えは、後のセム的一神教であるユダヤ教・キリスト教・イスラームに大きく影響を与えるのである。(5)さらにこの地域で生まれたフェニキア文字は現在世界で使用されている漢字系以外の文字のルーツであり、この地で生まれたセム的一神教と合わせて、現在の世界に大きな影響を及ぼしているのである。

紀元前17世紀にはアナトリアにインド・ヨーロッパ系のヒッタイトが台頭した。ヒッタイト躍進の最大の要因は、鉄器と馬の利用であり、これは前2000年紀最大の変化であった。前1200年頃ヒッタイトは崩壊したが、それにより国家機密であった製鉄技術が周辺地域に広がり、オリエントは鉄器時代をむかえる。それ以前の文明を特徴づけていた青銅器が、主に権力や祭儀のための特殊な用具にとどまっていたのに対し、鉄器は一層普遍的な性格を有していた。鉄器は支配階級に利用されたのみならず、庶民の道具としても利用された。その結果手工業や鉱山業の発達、耕耘技術と灌漑技術の発達など生産面における著しい発展をうながした。だが鉄は生産の道具であると同時に破壊の利器でもあった。鉄器の利用は軍事技術の改良をもたらし、大規模な遠征を可能にし、戦争はより激烈になったのである。(6)

紀元前一千年紀には、アッシリア帝国、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアなどの帝国が成立し、オリエントが政治的に結合されるにいたった。この政治的結合体が東において別の文明を形成していたインドと直接境界を接し、地中海を挟んでギリシア世界と全面的に接触を開始したのである。(7)

このように政治的統合が進む中で、コスモポリタンの精神が広がり、宗教的統合が進み、一神教の基盤も作られてきた。これまでは、神々は人間のさまざまな集団を代表していたのであった。つまり国家には国家を代表する神がおり、都市には都市の守護神がおり、パン屋の組合のような職業別組織にはそれぞれの神がおり、家族や部族のような血縁集団にもそれぞれ神がいたのである。

しかし政治統合が進み、広範囲の交流が進むにつれ、広域交易圏を組織する商人集団の神々は、広い地域の人々の信仰を得るようになった。そこでしだいに一つの地域や国家にしばられない、広い地域に通用する神々が誕生した。さらにギリシア人の帝国の共通財産で、ギリシア語と並んでもう一つ大きな意義を持ったコスモポリタンとも呼ぶべき精神が大きな影響を与えた。コスモポリタンの精神は、一つの神が機能する範囲を理念的には全人類にまで広げたのである。特定の範囲の人の神ではなく、普遍的な神の誕生である。(8)ここにユダヤ教・キリスト教・イスラームのセム的一神教誕生の基盤が作られたことになる。人類史における一神教革命である。食料革命、都市革命、鉄器革命を経て、中東イスラームはここに一神教革命をむかえるのであった。

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はじめに ―中東イスラームの歴史と現在 (1)

岩木 秀樹

現在、中東イスラームは戦火に包まれている。

なぜこのようなことになったのか。原因はどこにあるのか。今後どうなるのか。私たちはどうすべきなのか。世界中の人々が重大な関心を持っている。

中東地域において、いつの時代でも常に戦争があったわけではない。「ユダヤ・キリスト・イスラーム数千年の対立」は虚構である。共存の歴史がなぜ、現在のような状態になったのか。歴史を考察することにより、戦争の原因を考え、また共存形態を学び、今後の平和構築に貢献していきたい。

中東概念は西欧からつけられたものであるが、あえて使うことにより、そのオリエンタリズム性と中東諸国体制の人為性を浮き彫りにしていきたい。また当該地域の人々が中東概念を受容する葛藤もより鮮明にできるだろう。

また当然のことながら、中東=イスラームではない。中東地域にはイスラーム以外にも多数の宗教教団が存在している。西欧ではるか昔に異端とされたキリスト教諸派が現在でも存続している。このことは、そのような教団をある程度認め、共存しあっていたからであろう。中東地域が宗教の博物館といわれる所以である。また国家単位でみれば世界で最も多くのムスリムが生活しているのは中東地域外のインドネシアである。このような理由から中東とイスラームを単純に結び付けるのは危険である。また中東に生じている様々の問題をすべてイスラームに還元するのも間違っている。

にもかかわらず中東イスラーム概念を使用するのは、地域概念である中東と宗教概念であるイスラームを結び付けることにより、複合的で多元的に問題に接近できるからである。また宗教と政治・経済・生活を分離して考えないイスラーム的観点から歴史と現在を明らかにし、さらには近代西欧的観点を相対化できるであろうと考えたからである。

今後は、文明の故郷・中東、第3の一神教・イスラーム、イスラームとは何か、イスラム帝国の歴史、オスマン帝国の共存形態、中東諸国体制の成立、現在の中東イスラーム、今後の課題などを論じていく。中東イスラームの歴史と現在の状況を学びながら、今後の世界の平和と私たちの未来を展望していきたい。

目次

  1. はじめに
  2. 文明の故郷・中東
  3. ユダヤ教とキリスト教の誕生
  4. 第三の一神教イスラームの誕生前史

母の原爆体験記「いのち」

近藤 泉

私の母は、大正11年の今日、東京で生を受けました。昭和20年8月6日広島の爆心から1.8キロのところで被爆し、生き地獄をさまよいました。23歳の時のことです。

その後結婚し、子どもを3人もうけますが、特別被爆者として死の恐怖と子ども達への後遺症に悩み、失意の底に沈んでおりました。また、自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助けることができずに、己れのみが生き延びたことを責め続け、毎夜広島の光景を夢に見、朝起きると、自分の足首に助けを求める人々のしがみつく手の感触が生々しくそこにある、と常々申しておりました。けれど、訪ねてくる記者たちには一言も体験を語ることができませんでした。

その後、人間主義の平和運動に巡り合い、母は寡黙だった人生を大きく変えることになりました。自らの「被爆という宿命」を「平和を訴える使命」ととらえ、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ決心をしました。

母は、神奈川県の高校生の平和集会で体験を語ったり、大学新報に体験を基にした「生命の尊厳について」の小論文を投稿、特別賞を受けたり、創価学会の様々なセミナーで、また身近な人たち、子ども達に平和を訴え続けていきました。さらに、請われて、住まいのある横浜金沢区能見台のコミュニティー誌や母校の女子大の同窓会報に体験記を連載しました。地道ではありますが、母の平和への戦いは一人ひとりの心の中に堅固な平和の砦を確実に築き続けたと信じます。この砦は、私と二人の兄、10人の孫達にしっかりと繋がりさらに未来に向かって連なり続けることと思います。

母は、2000年4月27日に安祥として逝きました。戦いの20世紀を見届け、21世紀の平和のために使命を果たさんと生まれ変わるべく……。亡くなる直前まで友人に平和を語り、私の活動を励まし続け……。

私は1998年から、地元中学の「人生の先輩に学ぶ」という総合学習の「戦争体験に学ぶ」という授業の講師をお引き受けしています。母の原爆体験と平和への戦いを語ってきました。そして戦争体験のない私や、もっと遠い存在の中学生達は、何をしたらよいのか、何ができるのか、を自問しながら語り続けております。

また、昨秋は公民館の「高齢者学級」卒業生による自主サークル「生きがいの会」からお声が掛かり、『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私がお話をさせていただきました。この時に合わせて、かねてから手をつけなくてはと思っていた母の原爆体験記をワープロ打ちすることができました。

アフガン侵攻のとき、ある政党の新聞に亡き母の叫び『今すぐ憎しみの戦いをやめよ』(趣意)を投稿し、声の欄に掲載されました。今また、この母の体験記が平和への戦いの『武器』となればと願っております。

仮名遣いや漢字は極力母の書いたものに準じております。ぜひ若い世代・子ども達にもお読みいただきたいと思いますが、むづかしい読み方もあるかと思います。よろしくお願いいたします。

2004.3.10 母の生誕の日に。

本文(永石和子『いのち』—広島被爆体験記)はPDFファイルでご覧いただけます。