月別アーカイブ: 2003年8月

書評と質問に答える

中西 治

現代人間国際関係史―レーニンからプーチンまでとローズヴェルト、チャーチル

斎藤治子さんが拙著『現代人間国際関係史』(南窓社、2003年)を『ロシア・ユーラシア経済調査資料』2003年8月号(No.854)で紹介して下さった。お忙しいなか貴重な時間を拙著のために割かれ、精読されたことに感謝している。一連の批判を頂戴したので、それにお答えしたい。第一は「不問に付」されてはいるが、「人間の研究から始める」のにホッブス、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人だけで良いのかの問題である。私はかつて『現代共産主義の基礎知識』(明学出版社、1974年)を上梓し、そのなかでモア、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人を取り上げた。私の思想は基本的にはこれらの人々の延長線上にあるが、今回はモアに代えてホッブスを入れた。政治的人間を分析するのにはホッブス的な人間観を理解することも必要であると考えたからである。抽象的な人間論に深入りせず、この部分は簡潔にし、具体的な人間をして政治的人間を語らしめるようにした。

人間の全面的解明のためにはこれだけでは十分でない。次に世に問う書においてはより広く深く人間を見つめてみたい。

第二はレーニンに関する記述についての幾つかの問題である。ここの部分は私が1980年と1971年に発表した文章が基本をなしている。前半は高校生向けの『受験の世界史』(聖文社、1980年4-12月)、後半は一般読者向けの新書『ソ連の外交』(潮出版社、1971年)に掲載したものである。いずれも最初の発表時には注が付いていなかったが、今回は注を在外研究先のアメリカ合衆国で付した。

斎藤治子さんが提起されている問題は(1)ロシアの貧困化がヴィッテの工業化そのものによってもたらされた面が強調され、農奴解放の不徹底による農民の負担過重のなかで資本主義化が進められたロシアの特殊な条件が出ていないこと、(2)第一次大戦開戦後、ほとんどの社会民主党は祖国防衛主義となって戦争支持の立場に変わる中で、レーニンなどきわめて少数が戦争反対の立場を変えず、それが厭戦気分の国民の欲求と合致したことを軽視できないこと、(3)コルニ−ロフの反乱は「ケレンスキーの政策にあきたらず」というよりも反革命を志向し、二月革命の成果をひっくりかえそうとするものであったのでレーニンは四月テーゼの「ソヴィエトへの平和的な権力移行」から「力による権力獲得」に変更し、これをめぐるボリシェヴィキの内部論争で執拗な説得をしてまわったことには触れていないこと、(4)ブレスト・リトフスク講和をめぐる論争で講和推進派のレーニンがトロツキーの折衷案である「戦争も講和もしない」に基づく交渉結果に「非常に満足したといわれる」のは信じがたいことなどである。

(1)についてはロシアの貧困化(私の言葉では「民衆の生活はかえって苦しくなった」)がヴィッテの工業化だけでなく、農奴解放の不徹底による農民の負担過重によってももたらされたことはその通りであろう。私もヴィッテのところで農民の過重負担に触れ、ストルイピンのところで対農民政策の問題点を指摘した。ただ、これを「ロシアの特殊な条件」といえるのかどうかである。遅れて工業化の道に入ったロシアや日本などの国では「工業化のための投資の大部分は人民の生活を犠牲にし、人民の中から引き出されたのである。」

(2)については私もまったく同意見である。レーニンもこのことをよく自覚していた。だから、どのような犠牲を払っても戦争から離脱し、民衆に平和を与えることが必要だったのである。

(3)についてはその通りであろう。

(4)について斎藤治子さんは「非常に満足したといわれる」の後に(典拠無し)と記しておられるが、私は「トロツキーの回想によると、ソヴェト代表団はドイツは攻撃をしかけて来ないという予測を持って、ブレストからモスクワに帰ってきた。レーニンはドイツが攻撃を再開するのではないかと危惧しながらも、この結果に非常に満足していたといわれる。」と書いておいた。典拠は注記(4)のトロツキーの回想録『我が生涯』である。この文言の評価について様々な意見があって当然である。

以上のような問題を有するにもかかわらず敢えて20年前、30年前の文章を若干の補正をしたが、ほぼそのまま(追加したのは「レーニンをめぐる女性たち」だけ)再録したのはソヴェト体制崩壊後も私のレーニンについての考えが変わっていないからである。 政治家は自己の置かれている政治的状況に応じて特定の過去の人間に対する評価を変えるが、研究者はそうであってはならない。言葉で生きる者は言葉を大切にしなければならない。状況によって言葉が変わるようでは言葉だけではなく、人間も信じられなくなる。同じことはスターリンについての評価でも言える。

私がロシア語を学び始めたのは1952年4月、スターリンがまだ健在であり、「ヴェリ−キー・ヴォ−シチ(偉大な指導者)」といわれた時代である。翌1953年3月にスターリンが亡くなったときにソヴェト人は長蛇の列を作ってその死を悼んだ。それからわずかに3年、1956年2月のソヴェト共産党第20回大会で厳しい批判にさらされたのである。

私は戦前・戦中に神と崇められた昭和天皇が戦後に人間となるのを見てきたのでこれには驚かなかった。政治家の毀誉褒貶の激しさを知った。私はいかなる人間も生きているうちは神とは思っていない。人間は人間である。生きている人間が亡くなった人間を神や仏にするのである。

私は2002年12月30日に古稀を迎えた。還暦を迎えるころから人間がやっと少し分かり始めた。そのころから文章が比較的楽に書けるようになった。70歳に近くなってこれまで雲の上の人のように思われたレーニンやスターリンやローズヴェルトやチャーチルが身近に見えるようになった。レーニンが亡くなったのは54歳、スターリンが亡くなったのは74-5歳、ローズヴェルトが亡くなったのは64歳、チャーチルが亡くなったのは91歳。

私が主として扱った時期のこれらの政治家はすべて今の私よりは若い。なるほどこの歳ではこれくらいのことしか考えられないのかと思えるようになった。

私がこの本を出したのは第二次大戦が遠い昔の物語となり、多くの事実が明らかにされないまま歴史のかなたに消え去ろううとしているからである。国際関係論の専門家を自称する人でも第二次大戦について正確な事実を把握しているとは言い難い人が増えている。この時代を生きてきた日本人研究者の一人としてどうしてもこの本は出しておきたかった。第二次大戦の性格とその戦後処理の経過・結果、戦後冷戦の起源などを正しく理解することなしに20世紀後半の国際関係を解明し、21世紀の地球社会を考えることはできない。

斎藤治子さんと私は第二次大戦中の主要な論点についてほとんど意見が一致している。

斎藤治子さんの書評とは別に、私がかつて勤めていたNHK報道局の先輩で、久しくご指導いただいている元参議院議員・衆議院議員の上田哲さんから次の二つの質問をいただいた。

第一の質問は、1907年の亡命、その後のパッとしない動静のレーニンが1917年4月3日、ペトログラードに帰国した時、儀仗兵が出迎えボリシェヴィキ、メンシェヴィキの代表が挙って歓迎した…という評価、つまり彼が遅れて来たのに「リーダー」になった経緯がよくのみこめないのです、である。

第二の質問は、「19世紀において世界政治に直接大きな影響を与えたのは国家の指導者であった。20世紀には国家の指導者とともに大衆運動組織の指導者も影響を与えるようになった。21世紀には個々の人間が地球社会の運命に直接影響を与え得るようになっている」はじつに的確な洞察です。その一例が「9.11」であるというあてはめがもう少し追いつけません。私も9.11なかりせば、イラクも今回の有事法制もなかったと思いますし、私自身、ニューヨークの現場へ行きました。それだけにこの例示をもっとよく人に伝えたいと思います、である。

第一の質問についてレーニンは亡命中の活動でロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)の指導者の一人として地位を確立しつつあったが、ロシアの革命運動のなかではまだ小さなグループの指導者にしか過ぎなかった。レーニンを出迎えたのは首都で革命を推進したペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの議長チヘイゼと副議長スコべレフなどであり、儀仗をしたのはクロンシュタット要塞の水兵たちであった。臨時政府の首相や副首相ではなく、正式の儀仗隊ではない。

チヘイゼとスコべレフはロシア社会民主労働党のメンシェヴィキ(少数派)に属した。名称は少数派でも当時の状況のもとではボリシェヴィキよりも多数派であり、影響力は大きかった。ボリシェヴィキとメンシェヴィキは党の組織のあり方や革命の路線で対立し、別々の組織になっていたが、革命的高揚のなかで統一への動きが出ていた。

1917年8月8日のボリシェヴィキの大会で戦争に反対するトロツキーやルナチャルスキーなどのグループ「メジュライオンツィ(統一社会民主主義者地区連合組織委員会)」がボリシェヴィキに加わる形で戦争に反対する社会民主主義者の統一が拡大していた。この大会にはレーニンは官憲の追及を受けて出席できなかった。マルトフが国際主義派メンシェヴィキ中央ビューロを代表して祝辞を送った。

同年11月7日に権力を握ると宣言した第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴェト大会にもマルトフは出席していた。同大会で人民委員会議(臨時労農政府)議長にレーニンが選出されたが、ペトログラード・ソヴェト議長兼同軍事革命委員会議長となっていたトロツキーが外務人民委員、ルナチャルスキーが教育人民委員となった。

前述のトロツキーの回想碌によると、レーニンは首都の革命の最高指導者であり、臨時政府を打倒し権力を掌握したと宣言したトロツキーに議長となるように勧めたが、トロツキーはユダヤ人であるが故に断り、レーニンが議長に就任することになったといわれている。最初のソヴェト政府は平和を実現するための統一戦線政府であった。

1917年4月から11月の間にボリシェヴィキは急速にその勢力を拡大し、影響力を強め、レーニンの権威も高まっていたが、それは激しい政治闘争の結果であった。それでもレーニンはトロツキーと並ぶボリシェヴィキの指導者の一人であった。ブレスト・リトフスクの講和をめぐる論争はこれを示している。この段階でもレーニンは絶対的な権力者ではなかった。

第二の質問について私は「同時多発テロ」という用語を使っていない。それは一般に個人やそのグループが行う暴力行為であるテロはいかなるものも認められず悪いものであるが、国家が行う戦争は最後の手段として認められ、良いものもあるとされているからである。

私はテロも戦争も関係者だけでなく、関係のない人も不幸にする悪い行為であり、両者に反対である。テロは戦争の民営化であり、戦争は国家が行うテロである。

9.11は起こるべくして起こっている。私は当初クリントン政権では起こらず、ブッシュ政権だから起こったのではないかと考えていたが、アメリカ合衆国で1年間生活し研究する過程でブッシュ政権の登場は事件の発生を早めた可能性はあるが、それはアメリカ合衆国が多年にわたってイスラエルの側に立ってアラブの人々を抑圧してきた必然の結果であると考えるようになった。

9.11は悪い結果をもたらしている。それはアメリカ合衆国をアフガニスタンのタリバン政権に対する戦争、イラクのフセイン政権に対する戦争へと導き、紛争を拡大し、より多くの人間をいっそう不幸にしている。しかし同時に、朝鮮戦争やベトナム戦争がアメリカ合衆国における公民権革命を促進し、アメリカ社会を質的に変える重要な要因になったように、アフガニスタンとイラクに対する戦争もその実行者の意志に反してアメリカ合衆国を再び質的に変える重要な要因となるのではないかと考えている。

私は9.11の出来事がその一例となると指摘したあとに「人間はこの時代にふさわしい人間とならなければならない」と述べている。

21世紀は個々の人間が地球社会の運命に良きにつけ悪しきにつけ直接影響を与え得るようになっているから人間は良い影響を与えるように努力しなければならない。これが私が言わんとしていることである。

さらに別の方から、ソヴェト体制とエリツィン、プ−チンについて語ったところでゴルバチョフについて論じた部分が少ないのではないのか,彼をどのように評価するのか、との質問を受けている。

私はゴルバチョフについては別に一書『ソ連邦から共同体へ』(南窓社、1992年)を書いており、このなかで合格点を60点から50点に下げ、彼に50点をつけている。ぎりぎりの合格点である。彼が意図してソヴェトを解体させたのならば、100点であるが、彼は決してそれを望んではいなかった。だから、零点である。しかし、人間を解放したこと、世界戦争の危険を遠のけ、核ミサイル兵器削減の第一歩を踏み出し、ドイツ統一を促進したことなどを評価し、点を加え、50点とした。あとは読者にそれぞれの点をつけていただくようにお願いしている。政治とはむずかしいものである。