イベント」カテゴリーアーカイブ

10. すべての人が教える人であり、学ぶ人である ―私の人生哲学

中西 治

地球宇宙平和研究所は自由な人間の、自由な意志に基づく、自由な集団である。各人の思想・信条は自由である。それを自由に表明し、自由に行動する。同時に、他の人の思想・信条を尊重する。互いに切磋琢磨しながら、時代にふさわしい新しい思想・信条をつくり出す。どの思想・信条が正しいかは実践の中で明らかになる。

地球宇宙平和研究所が創設するユニバーサル・ユニバーシティ・インターネットは、すべての人に開かれた教育機関であり、すべての人が教える人であり、学ぶ人である。地球宇宙平和研究所の研究所員(正会員と賛助会員)はUUIにおいて、誰でも、何時でも、何語でも、何についても講義し、受講できる。当面、講義はIGCPのメーリング・リスト(ML)を通じて文章でおこない、IGCPのウェブサイトに掲載される。可能な場合は録画・録音され、DVD化される。いずれインターネットを通じて地球全体に放映されるようになるであろう。

研究所員以外の人々もUUI会員として、講義者となり、受講者になれる。

UUIは初めささやかな一滴であるが、いずれ大河となり、大海に注ぎ、全地球に広がるであろう。

その日をめざして努力したい。

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9. 宇宙も、地球も、人間も生き物 ―私の人生哲学

中西 治

宇宙も、地球も、人間も生き物である。このところ頻発する地震・津波やハリケン・台風はそのことを示している。万物は流転し、変化する。私の生涯も間もなく終わる。100歳まで生きたとしても、あと20年ほどである。死とともに私は居なくなる。肉体は滅んでも、精神は残るという。私の心の中にはいまも両親をはじめ身近な人々、恩師、友人、知人など多くの人々の懐かしい思い出が存在する。私が居なくなったあとも、私のことを心に残して下さる人がいるであろう。精神が残るというのはこういうことである。文とは有り難いものである。私がいなくなっても、この文章を含めて私の文を読んで下さる方もおられるであろう。文のお陰で、私はいつまでも人々と接することができる。

宇宙や、地球や、人類の長い生命に比べて、個々の人間の生命はきわめて短い。この短い一生を人間は命を大切にし、楽しい幸せな平和な生涯を過ごさなければならない。私が接してきた人はすべて良い人であった。なかには話しの合わない人がいた。相手もおそらくそうであったであろう。根本には考え方の違い、思想・信条の違いがある。私は異なる考えから大きな知的刺激をうけ、新しい観点を学んだ。世の中には良くない人もいる。私は良くない人とは深く付き合わないようにしてきた。相手が良くないことをしても、私は良くないことはしないようにしてきた。相手が良くないからといって、私も同じように良くないことをすれば、私も良くない人となる。

第二次大戦後、日本社会は、戦前と比べて、多くの人にとって住みやすくなった。これは多くの人々が敗戦の廃墟から日本を復興し、経済大国にし、医療・年金・福祉制度を確立するのに努力したからである。戦後、日本は外国に軍隊を送って、その地の人を殺していない。民主主義制度も基本的に確立した。日本人はこのことを誇ってよいであろう。

民主主義は多数者による少数者の支配である。少数者による多数者の支配よりは良いが、少数者が無視される場合がある。職のない人、住居のない人、飢えに苦しむ人、病に苦しむ人、生きることが難しく、自ら命を絶つ人がいる。さらに、地球上には貧困とたたかい、飢餓とたたかい、病苦とたたかい、生きるために必死に努力している多くの人々がいる。このような人々に救いの手をさしのべるのが成熟した社会である。

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8. 科学技術の発展にふさわしい知恵と知識をあわせもつ人間を ―私の人生哲学

中西 治

1966年4月に日本の大学で教え始めてから2008年3月に大学を辞するまで私は42年間にわたって大学教育に従事してきた。現在は特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所で研究と教育にあたっている。

地球宇宙平和研究所の研究と教育がめざすのは次のようなことである。

第一は地球上に住むすべての人間の幸せである。

第二は地球全体の平和であり、地球の戦争を宇宙空間に拡大させないことである。

第三は人類の文化をこれまでよりも一段と高みに上げることである。

第四は新しい高い文化を次の世代に伝え、さらに発展させることである。

第五は以上の目標を実現させるためにも、21世紀の科学技術の発展にふさわしい知恵と知識と技術を併せ持った人材を養成し、その水準をさらに高めることである。

いつの時代でも科学技術の発展と人間の生き方についての考え方=倫理・哲学とのあいだにはギャップが存在する。科学技術の発展は世代間で急速に継承され、さらに前進するが、人間の生き方についての考え方はその継承に時間がかかり、その発展はきわめて緩慢である。私たちの世代は両親や祖父母の世代よりもはるかに多くのことを知り、多くの技術を身につけているが、私たちは彼らよりもはるかに立派な生き方をしていると言えるであろうか。

現代の科学技術の急速な発展のもとで、このギャップは著しく拡大している。とくに、戦争技術の発展と人間の倫理の発展においてそれはきわめて大きい。かつて一人の人間が一人の人間と争って相手を傷つけ、殺めるようなことがあったとき、人は、いろいろと理由があったにしろ、人を傷つけ、殺めたことに心の痛みを感じたであろう。第二次大戦時に広島と長崎の上空で飛行機から原子爆弾を投下し、一挙に十数万の人を傷つけ、殺めた爆撃士に、かつて一人の人間を傷つけ、殺めたときに人間が負った心の痛みの十数万倍もの心の痛みがあったとしたら、原爆は投下できなかったであろう。いまではさらに遠く離れたところから核弾頭を付けたミサイルを発射し、相手をまったく見ないで、一挙に何十万人もの人を殺せるのである。

時代は大量破壊殺戮兵器を生み出す高い技術水準にふさわしい高い倫理を備えた知恵の人を求めている。知恵の人はこのような兵器をつくらないし、使うようなことはしない。私がめざしているのはこのような人間の養成である。

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7. 人間の評価を最終的に決めるのは行動である ―私の人生哲学

中西 治

人間は一人では生きられない。一人の人間がこの世に生をうけるためには一組の男女が必要である。生まれたばかりの赤ん坊は誰かが乳を飲ませなければならない。多くは母親である。人間が一人で生きていけるようになるためには何年もの歳月が必要である。保護者が不可欠である。採取・狩猟の時代には家族内の助け合い、一族の協力が必要である。個人的な好き嫌いがあり、諍いもあったであろうが、人間は厳しい自然のなかで久しいあいだ他の人々との助け合いと協力によって生き抜いてきた。

人間のあいだで、また、人間の集団のあいだで本格的に争いが生じ始めたのは、農作と飼育によって食料が作られ、余剰食料が蓄積され、人間のあいだで、また、人間の集団のあいだで貧富の格差が生じ、支配する者と支配される者、支配する集団と支配される集団が生じてからである。

人間は動物である。食べないと生きていかれない。人間は他の動植物の命をもらって生きている。人間は食べられなくなると、人から食べ物を奪い、自分は生き抜こうとすることがある。革命はある地域の支配されている人々が、その地域の体制のもとでは食べていかれず、生きていけなくなったときに支配している人々に対しておこなう集団的行動である。戦争は地域間の利害の対立を武力によって解決しようとする地域集団間の行動である。戦争は人間を他人の命を奪う獰猛な動物にするが、我が身を犠牲にして他の人を救おうとする崇高な神にもする。人間は動物と神とのあいだを彷徨っている。革命や戦争はこれまで国の内外の矛盾を平和的に解決できないときに暴力的に一挙に解決する最後の手段として認められてきた。しかし、いまではそれがもたらす人的・物的被害があまりにも大きいために矛盾の平和的解決が至上の課題となっている。

人間の争いや革命や戦争を無くすためにはまず人間が食べられ、生きられるようにしなければならない。人間には良い面もあれば、悪い面もある。100%良い人も、100%悪い人もいない。同じ人間が環境によって良い人になるし、悪い人にもなる。人間は環境の動物である。同時に、人間は意志を持つ動物でもある。存在が意識を決定するし、意識が存在を決定する。最終的な決断をくだすのは人間の意志である。それをもたらすのは家庭・学校・社会での教育である。意志を表すのは言葉と文と行動である。

「綸言汗の如し」という。「綸」とは「組み糸」のことである。「綸言」とは「天子の言葉」である。天子が発する言葉は糸のように細いが、下に達したときは綸のように太くなることからきている。「綸言汗の如し」とは「君主の言葉は、汗のように、一度口から出れば、体内に戻らない。取り消せない。」という意味である。天子の言葉は重い。天子だけではなく、人間の発する言葉はすべて重い。書かれた言葉=文はいっそう重い。言葉と文以上に重要なのは行動である。いくら良いことを言い、良い文を書いても、行動がそれに反していれば、空しい。

人間の評価を最終的に決めるのは行動である。

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6. 人間が神や仏をつくり、神や仏となった ―私の人生哲学

中西 治

2009年はダーウィンが1859年に『種の起原』を出版してから150周年記念の年であった。1859年といえば、日本では横浜が開港した安政6年であり、安政の大獄が荒れ狂ったころであった。

ダーウィンはこの書で人間の起原に直接触れなかったが、それでもダーウィンは人間がアダムやイヴの子孫ではなく、猿の子孫であると主張しているとして非難された。ダーウィンはさらに1871年に上梓した『人類の起原』で人間の起原が下等なものから由来していることを認めた。キリスト教の聖職者たちがダーウィンをいっそう激しく責め立てた。これに対してダーウィンは敵を苦しめて喜ぶ人間の子孫であるよりも、飼育係の命を救おうとして敵に立ち向かった猿の子孫であることを願っていると述べて、反論した。

当時は神が人間をつくったという考えが人々のあいだで支配的であった。150年経った今日では多くの人々がダーウィンの進化論を受け入れている。

宇宙ができたのは150億年ほど前、地球ができたのは46億年ほど前、地球上に単細胞生物が現れたのはそれから5億年ほど経ったとき、人類が誕生したのは700万年ほど前である。人類の誕生といっても、いまのような人間が突然現れたのではない。最初の人類は猿人であった。後にホモ・サピエンス(現世人類)へと進化したといわれている猿人が、ゴリラやチンパンジーから枝分かれしたときが人類の誕生とされている。この猿人が進化して現世人類になったのは4万年ほど前である。ホモ・サピエンス(Homo sapiens=Wise man)とはラテン語で「知恵の人」という意味である。猿人が「知恵の人=賢い人=現世人類」になった。

この「知恵の人」が農作と飼育を始めたのが1万年ほど前、それまでは身近にある物を漁って、食べて、生きていた。植物の耕作と動物の飼育によって人間の生活がやっと安定し始め、人間の生活の仕方=文化が発展し始めた。直接、生産や経済活動に従事しない人が存在するようになり、都市の文化=文明が生まれた。3000年ほど前から聖書やギリシャ神話が語り継がれるようになり、2500年くらい前から孔子、ソクラテス、ブッダ、プラトン、アリストテレス、孟子などの聖人・君子が現れた。イエスが生まれたのは2000年ほど前、ムハンマドが生まれたのは1400年ほど前である。

聖書も神話も人間がつくりだしたものである。儒教、仏教、キリスト教、イスラームの創始者たちは、いずれも人間であった。人間が神や仏をつくり、神や仏となった。

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5. 私以外の人はすべて師である ―私の人生哲学

中西 治

私は高校時代に社会科学研究部に属していた。1950年6月に朝鮮半島で戦争が始まった。当時、日本は米国をはじめとする連合国の占領下にあった。連合国軍最高司令官の命により日本で警察予備隊が創設され、日本は再軍備の道を歩み始めた。戦後の「民主化政策」が終わり、「逆コース」が始まった。私たちは戦争に反対し、再軍備に反対する声をあげた。占領軍は日本の警察を通じて学校当局に対して社会科学研究部の部員名簿を提出するように要求してきたという。

これに対してキリスト者の教員が職員会議の席で反対した。「イエスは弟子に売られたが、イエスは弟子を売らなかった。師たるものは弟子を売ってはならない」と。私はこのことを高校卒業後、大学生時代に知った。この先生は私が高校在学中よく私たちの活動を批判していた。それだけにいっそうこの先生の発言に深い感銘を受けた。人をある行為によってのみ評価してはならないことを学び、もし私が人から先生といわれるようになったときには、この先生のように振る舞おうと心に決めた。この決意はいまも変わっていない。

私はこれまでずいぶん多くの人と接してきた。その人々は老若男女を問わず皆、必ず私よりも優れたもの、私が学ぶべきものを持っている。私以外の人はすべて私にとって師である。人間は互いに学びあい、教えあう。教えることは学ぶことである。人間は互いに弟子であり、師である。弟子が師を批判するのを師は喜ばなければならない。弟子が成長した証拠である。師は弟子以上に努力し、成長しなければならない。尊敬は強制して得られるものではない。自然に生じるものである。

師とは学ぶべき人であり、乗り越えるべき人である。師を越えて、初めて師の恩に報いたことになる。

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4. 戦争反対の思想として共産主義に関心をもつ ―私の人生哲学

中西 治

私は戦争を直接体験していない。それらしいものは、五条で一度、米軍機の機銃掃射をうけたことと1945年3月の米軍機による大阪大空襲の翌日に五条から和歌山線で大阪へ向かい、王寺を過ぎ、大阪市内に入り、終着駅に近いところで汽車が動かなくなり、母とともに御堂筋を南から北にとぼとぼと歩き、淀川大橋を渡ったことぐらいである。私の戦争体験は戦後であった。食糧難と飢餓によってである。

私は二度とふたたび戦争をしてはならないと思った。また、あの戦争中に命を賭して戦争に反対した人がいたことを知った。共産主義者である。戦争反対の思想として共産主義、社会主義、ソヴェトに関心を持つようになった。これが私を大学生、通信社記者、大学院生、放送局記者、大学教員の道へと進ませた。

私はこれらの経験から次のように考えるようになった。人々は多様である。人々の生き方は多様であり、思想・信条は多様である。人間の社会は多様である。この多様性を認め、互いに他の人々の生き方、考え方を尊重しなければならない。一つの考えを絶対視し、一人の人間を神格化し、それを他人に押しつけようとしてはならない。そこから争いが起こる。全能の人間はいない。人間は必ず過ちを犯す。

私はこれまでの私の人生を三つの時期に分けている。第一は1932年12月の誕生から1956年3月の大学卒業までの23年余の「基礎的学習期」、第二は大学卒業から2008年3月に日本での大学教員の職を辞するまでの52年間の「専門的学習期」、第三はそれ以後今日までの2年間の「総合的学習期」である。

私の思想形成に大きな影響を与えた出来事は、第一期は昭和天皇による1941年12月8日の宣戦布告と1945年8月15日のポツダム宣言受諾放送、第二期はスターリン批判とソヴェトによる1957年の人工衛星打ち上げ、それに、1960年代末以降のソヴェト、米国、ヨーロッパ諸国、中国、韓国・朝鮮などへの旅、第三期は2008年のキューバ訪問と2009年のヴェトナム訪問である。旅は人間を変える。

私は2009年12月30日に満77歳、喜寿の誕生日を迎えた。両親よりも長く生きた。「私の人生哲学」を語るべき時が来た。

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3. 戦後混乱期の青年時代 ―私の人生哲学

中西 治

第二次大戦後、12人の大家族が生活するのは大変であった。大阪市内は米国の空襲によって焼け野原になり、住宅も食料もなかった。私たち一家は幸いにして住む家があった。住む所がなく、防空壕や掘っ立て小屋で生活している人が身近にいた。戦争で家族を失い、身体や心が傷ついていた人がたくさんいた。戦場で人を殺めて生き残った人がいた。私は五条中学校を中途退学したが、学校へ行くどころではなかった。食べるために家族全員が必死の努力をした。私も家業の機械工具商を手伝ったり、得意先の工場で働いたりした。昼食を頂けたのが有り難かった。

この時期に私は大阪梅田の阪急百貨店で開かれていた古本市で伊藤痴遊の『明治政治裏面史』を手にした。どうしても読みたくなって、手持ちのお金にまけていただいて買った。百貨店で値切って買ったのは最初にして最後であった。伊藤痴遊は明治の自由民権運動家であったが、政治演説が禁止されたので講釈師となって講演した。無類の雄弁家であった。1928(昭和3)年の最初の普通選挙で衆議院議員に選出され、二期務めた。私はこの書をむさぼるように読んだ。面白かった。歴史と政治への関心が高まった。

生活が少し落ち着いたときに日本大学付属大阪第二中学校に入学した。夜間中学校である。1947(昭和22)年4月に小学校6年・中学校3年・高等学校3年の新しい学校制度が導入された。大阪第二中学校で学んだあと、1948(昭和23)年4月に新制の大阪府立市岡高等学校定時制に入学した。夜間高校である。家から近い大阪第二中学校から遠い市岡高校に移ったのは尊敬していた大阪第二中学校の歴史の先生が市岡高校に移られたからであった。夜間中学にも夜間高校にもさまざまな年齢・経歴・職業の男女が集っていた。戦争で生き残ったのに、自らの命を絶とうとした学友もいたが、多くの人々が苦しい生活のなかで真剣に学んでいた。停電が多かったので、蝋燭を持って学校に通った。

この時期に私はこれも古本屋で買い求めた幸徳秋水と堺利彦が訳したマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んだ。エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』を一読したとき、目から鱗が落ちる思いがした。

1952(昭和27)年3月に高校を卒業し、4月に大阪外国語大学ロシア語学科に入学した。五条中学校中退以来久しぶりに昼間に学ぶようになった。シベリアに抑留されていた人、中国東北や朝鮮から帰国した人、凄惨な戦場から生還した人がいた。中学・高校・大学でさまざまな人生を歩んできた人々に出会った。多士済々であった。多くのことを学んだ。

1956(昭和31)年3月に大学を卒業した。その直前にソヴェト共産党第20回大会が開かれた。スターリン批判が始まった。偉大な指導者として天まで持ち上げられていたスターリンが地獄に突き落とされるのを見た。最高権力者の失墜を昭和天皇に続いて再び目にした。三度目は毛沢東であった。いずれも絶賛していた同じ民衆によって罵倒された。

大学を卒業し、就職のために東京行きの汽車に乗り、列車が大阪駅を離れた瞬間、私は肩から重い荷が落ちるように感じた。独り立ちの人生が始まった。私の青年時代は終わった。私の人生哲学の基本はこの時期までにほぼ形成されていた。

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2. 「三代目は国を滅ぼしましたね」―私の人生哲学

中西 治

幼少年時代、私はもっぱら兄弟や近所の友だちとの相撲やチャンバラ、戦争ごっこなどに興じた。小学校に入ってからも自宅で勉強らしい勉強をしたことはなかった。それでも算数は比較的よくできた。算盤塾に通っていたので、算盤が頭の中に入っていた。算盤の時間には担任の先生に代わって教壇に立って算盤を教えていた。この先生は剣道も書道も良くできた文武ともに優れた教育熱心な方であった。夏休みには水泳指導、冬休みには剣道の寒稽古などをおこなった。私はこの先生から大きな影響をうけた。

先生は吉田松陰に心酔し、松下村塾の教育を模範とされていた。士規七則を教え、児童に暗記し、先生の前で暗唱するように指示された。私は早速、懸命に覚え、授業前の早朝、学校に行き、宿直明けの先生の前で暗唱した。「志を立てることを以て万事の源と為せ」、「交わるべき友を撰んで仁義の行いを輔けよ」、「書を読んで以て聖人賢者の訓えを考えよ」。志、友、仁義、書、聖賢。これが幼き日の私の出発点であった。身近にあった偉人の伝記を愛読し、歴史書を読んだ。

国民学校では紀元節や天長節などに校長が講堂で教育勅語を朗読し、全児童は黙祷しながら聴いた。校長は天皇を現人神と讃え、「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と教えた。昭和天皇は私の父より1歳下、皇太子(いまの天皇)は私より1歳下であったので、私は子供心に、天皇は父の弟、皇太子は私の弟のように思い、天皇を神、皇太子を神の子とは考えていなかった。このことを私はあるとき母に言った。母はそのことを外では絶対に言ってはならないと戒めたが、叱らなかった。

その母が1945年8月15日の玉音放送直後に「三代目は国を滅ぼしましたね」と父にひそひそと語っていた。これは驚きであった。私にとって昭和天皇は神武天皇以来124代目であったが、明治生まれの両親にとって昭和天皇は明治・大正に続く三代目であった。母のこの言葉が私の戦後思想への旅立ちとなった。両親よりもさらに一つ上の世代にとって敗戦は「公方様(将軍)」の天下から「天子様(天皇)」の天下、さらに「マック様(マッカーサー連合国軍最高司令官)」の天下への転換であった。

昭和天皇は「満州事変」のとき30歳、「真珠湾攻撃」のとき40歳、「玉音放送」のとき44歳であった。「40にして惑わず」というが、昭和天皇は40歳ではまだ迷っていた。敗戦という大きな失敗を経て、40歳代なかばにしてやっと迷いから抜け出し始めたようである。普通の人間はおおよそこの程度である。私もそうであった。

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1. 戦時下の幼少年時代 ―私の人生哲学

中西 治

私は1932(昭和7)年12月30日に大阪で生まれた。1931(昭和6)年9月18日に中国東北で「満州事変」が勃発した翌年である。父は1900(明治33)年3月3日に奈良県で生まれ、母は1905(明治38)年11月25日に島根県で生まれた。両親は大阪で結婚し、1925(大正14)年1月14日に婚姻届を提出している。私は5番目の子供であり、姉2人と兄2人がいた。これで「おさめておこう」ということで、「おさむ (治)」と名付けられた。

当時は「産めよ、殖やせよ」の時代、私のあとに弟が2人、妹が3人生まれ、私たちは10人兄弟・姉妹となった。それもいまでは私と弟1人、妹1人の3人となった。

1937(昭和12)年7月7日に中国北京で「廬溝橋事件」が起こり、「支那事変」が勃発した。中国での戦争が拡大した。1938(昭和13)年5月に国家総動員法が発令され、日本は戦時態勢に入った。私は1939(昭和14)年4月、6歳で大阪市立三津屋尋常小学校に入学した。小学校は1941(昭和16)年4月1日に国民学校と改称された。「皇国民の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的と」した。

同年12月8日に「大東亜戦争」が始まった。緒戦、日本は真珠湾奇襲攻撃に成功し、香港、マニラ、シンガポールなどを占領、勝った勝ったとはしゃでいた。戦争が始まったとき、私は国民学校3年生、8歳であった。遂に大変なことが始まったという思いはあったが、なぜかはしゃぐ気にならなかった。

1942(昭和17)年6月に日本はミッドウェー海戦に敗れ、1943(昭和18)年5月にアリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が「玉砕」した。戦局は急速に悪化した。 米国の爆撃機B-29による本格的な日本本土空襲が迫っていた。

1943年、国民学校5年生の後半に、母と私以下の子供6人が父の故郷近くの奈良県宇智郡五条町に小さな家を1軒借りて疎開した。私は同町立五条国民学校に転校した。1945(昭和20)年3月に同校を卒業し、4月に奈良県立五条中学校に入学した。同校1年生の夏休み中の8月15日に日本は敗北した。父や姉兄たち4人が住んでいた大阪の家に焼夷弾が落ちたが、不発であったため奇跡的に焼け残った。私たち疎開していた家族7人はただちに大阪の家に戻った。陸軍に入っていた長兄が復員してきた。久しぶりに家族12人が揃った。

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