コラム・論考

エッセイ3 論文と調査報告

木村 英亮 (2005年7月24日 13時48分)

ある博士論文を読んでいて、これは調査報告書ではないか、と思ったことがある。 論文の概念は、歴史学と数学の論文を比べてみればただちに明らかなように、研究分野によって異なっている。しかし、正確な事実やデータを根拠としつつ主張を記述するという点は共通であろう。その際、他人の見解に全面的に拠ったり、引用ばかりつなげたりでは困るが、それまでの学説をふまえることも必要条件である。

パソコンによって、文章を活字にすることが簡単になった。執筆するさいも、修正や文の並べ替えなどは容易になった。昔は、印刷するためには、活字を一つずつ拾わなければならなかったが、いまはフロッピーにたやすくいれることができる。費用も何分の一かになった。簡単に活字にできるようになったことは進歩といえるであろう。

しかし、評論を含め、書いて発表することについての責任観念が薄いのではないかと思われる文章をしばしば読むことがある。それは、一つには、文章が推敲されないまま活字になるということに、二つには、書かれている主張が軽くなり、試験の答案のように、移り気になっていることに表れている。

いまは事実を知ること自体の意味が大きくなっており、調査報告も論文の概念にはいるであろう。しかし、問題意識は必要であり、資料を集めただけのものや、初めから結論が決まっている答案のようなものでは使い物にならない。

今の日本で働くということ

わたなべ ひろし (2005年7月23日 13時53分)

最近帰りの電車で、まぁ10回に8回ぐらいの割合で見かけるひとがいる。帰りの電車といっても、7時頃から11時の範囲で同じ電車に乗っているわけではない。そのひとは網棚の雑誌を集めて回っているのだ。いつも雑誌の入った大きな袋を2つから3つ提げながら、視線を網棚に上げて、一心不乱に車内を歩いている。混んでいてもいっさいお構いなしだ。

そういえば、新宿や池袋の駅の周辺で、当日やせいぜい前日発売の雑誌をビニールシートか何かに広げて、一律100円で売っているオッチャンたちが増えたような気がする。僕も最近はこの「店舗」のお世話になることが増えてきた。網棚から集められた雑誌も、こういう形で売られることになるのだろう。もちろんこれも商品なので、網棚に残っていればどんな雑誌でも良いというわけではなく、手にとって一生懸命状態をチェックしていた。回収されること無く網棚に戻される確率は、僕の見た範囲では4割から5割と、なかなか品質には厳しいようであった。

生来の性根の卑しさもあるのだろうが、この雑誌回収のひとに限らず、近頃ひと様の仕事というか、生業がみょうに気になってしかたがない。でもこれは僕ひとりのことでは無いようだ。先日吾妻ひでおさんの『失踪日記』というマンガを読んでいてそう思った。

『失踪日記』の内容を簡単に紹介すると、仕事のストレスから鬱病になり失踪、路上生活者や配管作業員を経験し、最後はアルコール依存症で精神病院に隔離入院という、極めてハードな体験を軽いタッチで描いている。これに「過労死」と「自殺」(不謹慎ですみません)が加われば、今のサラリーマンをとりまいている「不安アイテム」が全て揃う。

この本が売れているという。ある書評誌によれば、自分のあり得る姿を投影し、怖いもの見たさで読んでいるサラリーマンも多いのではないかとあった。僕が網棚の雑誌回収をしている彼のことが気になるのも、これと同じことなのだろうか。

ここ10年ほどの間に労働市場の自由化(流動化)は、大幅に進んでいる。ここで言う労働市場の自由化(流動化)とは、就業機会の多様化ということもあるかもしれないが、ようするに景気・不景気といった世の中の動きに合わせて、雇用者が労働者を「自由」にできるということで、それを制度化したものが「派遣社員」であろう。

新聞によれば、大手スーパー各社のパート・アルバイトの構成比は77%に上るという。これはすごい数字である。400万人のフリーターが問題だとか言っているが、何のことは無い、そういう人たちの存在を前提として、多くの企業の仕組みが出来あがっているのだ。 フリーターと言われる人たちの生涯所得は、正規の従業員の4割から6割だそうである。

米国のクリントン政権で労働長官をつとめたロバート・ライシュは、1991年の自著の中で、これからの労働者を「ルーティン生産サービス」「対人サービス」「シンボリック・アナリスト」の3つに分けている。

「ルーティン生産サービス」と「対人サービス」は、単純なルーティン作業が中心の職種で、賃金は労働時間や仕事量によって決定される。必要とされるのは、読み書きと簡単な計算、信頼性、忠誠心、対応能力といった能力である。一方「シンボル・アナリスト」は、標準化された商品ではなくデータや言語、音声、映像表現などのシンボル操作を行なう、いわゆる「専門家」と言われるひとたちだという。

要するにライシュは、今後の労働形態は、大多数のルーティンワーク労働者と、ごく僅かの「知識」労働者に分れると言っているのである。僕は日本の雇用形態というか、就業構造は、前述のスーパー業界の例を見てもこの通り進んでいると思う。

今働いているこの仕事以外に、収入ややりがいなど、自分をもっと活かせる仕事が他にあり、その仕事と出会えるために常に自身の「市場価値」を高める努力をする必要があると声高に言われる一方で、もしかしたら網棚にある雑誌の回収や路上生活者は自分の明日の姿かもしれないというリアルな不安と、この両者の振り幅の中で日々の仕事に従事しているというのが、現在のサラリーマンの多数なのだろうか。しかもそのいずれにころぼうが、それは「自己責任」だというのだ。

こういうのって、働く側は肉体的にも精神的にもたまらないが、雇用する側にすれば非常に都合の良い環境なのではないだろうか。これが労働市場の自由化(流動化)を支えている背景である。

網棚の雑誌を物色する彼の姿を横目で気にする日々はまだまだ続きそうである。

「自衛隊違憲訴訟」について

今井 康英 (2005年7月20日 14時10分)

今回は、自衛隊違憲訴訟について述べます。最初に紹介しましたが、私のブログはもともと「自衛隊違憲論」として開設されました。

何故かと言うと、理由のひとつは、旧ブログに書いた通りです。(旧ブログからの転載です。投稿 2004.07.20「Weblog」に掲載しています。)

栃木でイラク派兵反対の声を上げよう!私は自衛隊違憲論者です。日本国憲法第9条を読む限り、今の自衛隊は、明らかに第2項に言う「陸海空軍その他の戦力」に該当するので、日本はこれを保持することはできません。自衛隊を直ちになくすことは無理かもしれませんが、出来るだけ速やかに非軍事的組織に改組して行くべきです。この立場から、私は自衛隊のイラク派遣に反対しています。政府は今も戦争状態にあるイラクに自衛隊を派遣していますが、仮に「専守防衛の自衛隊は合憲だ」と言う政府見解を是認したとしても、これは明らかに憲法違反です。仮にイラク特別措置法が合憲だとしても、現地は所謂「非戦闘地域」には見えませんので、法律違反です。(1年後の今日、読み返しても、上記の見解は変わりません。むしろ、「現地」の情勢はより悪化しているように見えます。)

今、全国各地でイラク派兵に反対して、市民が声を上げています。下記の通りです。

札幌 http://www.hg-law.jp/iraq/
名古屋 http://www.haheisashidome.jp/index.htm
東京 http://comcom.jca.apc.org/iken_tokyo/index.html
大阪 http://www15.ocn.ne.jp/~j-stop/MyPage/menu0.html
静岡 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/3959/stopirakusiminundou.htm
山梨 http://www.age.ac/~iken_y/

私は、栃木でも声を上げたいと思います。そのために自衛隊イラク派兵違憲訴訟を提起したいと考えています。実は20名を超える原告団の準備会も出来ています。自衛隊をイラクから撤退させるべきだという思いの方には、是非参加して下さるようお願いします。

栃木では、昨年12月14日に宇都宮地方裁判所に原告47名が提訴しました。私も原告の一人です。担当は第1民事部合議係です。地裁HPによると、担当裁判官は、岩田眞:有賀貞博:松井理恵子各裁判官です。事件番号は、平成16年(ワ)第700号、事件名は、自衛隊イラク派遣違憲確認等請求事件。栃木のHPはhttp://www.iken-tochigi.jp/index.htmlです。今年1月31日、開設しました。訴状などを掲載しています。事務局への連絡はinfo@iken-tochigi.jpへお願いします。私も、同日付で意見陳述書(第1回、草案)をブログに公開しています。第1回口頭弁論は、3月3日(木)。第2回は、5月12日(木)に行われました。第3回は、9月1日(木)が期日です。

また全国では、新たに下記の訴訟が提起されています。

2004年12月8日提訴 仙台 http://www2.gol.com/users/sogo/iraq/index.html
2005年1月26日提訴 岡山 http://www.geocities.jp/mfmdq141/
同    3月18日提訴 熊本 http://www.geocities.jp/irakusaibankumamoto/
同    3月22日提訴 京都 たとえばhttp://www.daiichi.gr.jp/syoukai/yanagi/2005spring/ookawara.htm

最新の世論調査(JNN、7月19日)によると、

今年12月の派遣期限に合わせて撤退すべき 64%
派遣期間を延長すべき 14%
ただちに撤退すべき 19%

自衛隊のイラク派遣期限の「12月までに」および「ただちに」撤退すべきというのが国民の声(83%)です。私も当然、「ただちに」撤退すべきと考える国民の一人です。

『中国女性史入門 ―女たちの今と昔』

大江 平和 (2005年7月19日 14時15分)

中国女性史入門―女たちの今と昔

少し前になるが、友人が一冊の本を送ってくれた。出版まもない関西中国女性史研究会編『中国女性史入門―女たちの今と昔』 (人文書院)という本である。深紅の表紙をめくると、彼女を含め三人の友人が執筆者として名を連ねていた。三人のうち二人は、私の北京滞在中、単調な学生生活の中で、常に知的刺激を与え続けてくれた存在で、私の修士論文作成にあたっては、大変お世話になった中国近代女子教育史の研究者である。もう一人は、私の小中学校時代の同級生で、何香凝の研究者である。この三人とは今も交流が続いている。

さて、本書の画期的なところは、これまでの近現代の中国女性解放運動史に限定されない、テーマ別に古代から現代までの中国女性について俯瞰できる ような女性史をそのコンセプトとしている点である。I 婚姻・生育、II 教育、III 女性解放、IV 労働、V 身体、VI 文芸、VII 政治・ヒエラルキー、VIII 信仰という8つのテーマでわかりやすく構成されている。入門書にふさわしく、キーワードはゴシックで強調されていて、各項目別に先行研究を紹介した研究案内や中国語の参考文献も挙げられており、概説だけではものたりない読者のニーズにも応えられるよう配慮されている。私が特に興味深かったのは、各テーマ、各項目につい て、現代はどうなっているのか、何が問題になっているのかなどについて、敢えて批判を恐れず「今」の中国の女性にまで踏み込んで活字にした点である。この部分は今なお変化し続けている部分だけに、それをどうとらえるのか、執筆者の苦労が偲ばれた。全体を通して読めば、中国女性の全容がつかめるだろうし、それがおっくうな場合には、興味のあるテーマだけひろい読みしてもよい。また、写真資料も豊富なので、写真をながめているだけでも興味は尽きない。

「中国の女性」に興味、関心を持つ人々に、一読をお勧めしたい一書である。

広島平和の旅

近藤 泉 (2005年7月18日 17時53分)

◆8月5~6日、私と大学生の息子・中学3年の娘は、小金井市主催の「広島平和の旅」に参加することになりました。

わが市は1982年に「非核平和都市宣言」をしています。映画会や原爆写真パネル展などいくつかの非核平和事業の一環として、毎年15名の市民を広島の平和祈念式典に派遣し、新幹線代と宿泊費の半額を市が補助しています。

「核兵器廃絶と恒久平和を願うこと」を目的にしたこのような立派な事業があることを誇りにし、市民の大切な税金を使わせていただくことに感謝しながら、平和を祈る旅に行って来たいと思っています。

◆2000年に始めて広島を訪れた時は、その春に亡くなった愛しい母の名が慰霊碑に納められるのを見届けてきました。今回は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の被爆体験記を寄贈し登録されたものを自分の目で見て来ようと思っています。この体験記はこのウェブページ「論文・エッセイ」コーナーに載せて頂いています。

この平和祈念館は記念資料館近くに2年前に開館し、被爆者の証言ビデオ、広島市内の被爆前や直後の写真 、被爆直後の広島市内を撮影した動画が収蔵・展示されています。特に被爆者の体験記は10万編を超えています。母が壮絶な決意で原稿用紙に向かっていたの を知る私は、その数の多さに本当に驚きました。10万もの方々は一体どんな叫びを紙に残し、どんな思いを伝えたかったのでしょうか。

被爆者が体験した惨禍と平和希求の思いなどを国内外の人々、子どもたち、孫たちの世代へ伝えていくため継続して体験記を集めています。体験記は、広島・長崎の平和祈念館で公開しコンピュータで検索できるようになっているそうです。広島や長崎の平和祈念館にお出でになる方は、どうぞ母の名で検索をして みてください。(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館公式ウェブページ参照)

◆母は、本人の記憶により爆心から1.8kmの松原町で閃光を浴びたとされています。地図で見るとそこはJR広島駅前になります。駅前というと、焼け焦げた 市電が骨組みだけになった光景が思い浮かびます。朝の通勤時間に満員であったはずの人々の姿は跡形もなかったと聞きます。半分日陰に立っていたとは言え、 母が生きていたことは奇跡としか言いようがありません。

広島の夏は焼けつくような暑さです。母が被爆したその熱い地点に子どもと共に立ち、その奇跡の意味を考えたいと思います。

無題

とらたぬき (2005年7月17日 15時07分)

戦後60年の夏が来た。私の田舎では終戦記念日の思い出は旧盆の精霊流しと重なり、亡くなった方々を弔う日であった。その一方で、8月9日は休暇中 でも登校日となり、先生から戦争の悲惨さを教えられ、原爆の投下された時間にみんなで黙祷をささげた。子供の頃の私にとっては、先の戦争は被害者の立場で の戦争であった。

長じて中国に関心を持って学んでいくうち、日本が中国、朝鮮などを侵略し、多くの人々を殺傷した歴史を知った。学生訪中団に参加して、平頂山の殉 難記念館を訪問し大地から発掘されたままの何千体という白骨体を見たとき、言葉に言い尽くせない恐怖と哀悼の思いで一杯になった。そのとき自分がこれらの 人々を虐殺した加害者の民族の一員であることを深く実感した。

その後訪れた中国の多くの地に、日本軍が攻撃し多くの人々が犠牲になったことを後世に伝えるための施設や慰霊碑を目にしてきた。そしてその事実を 日本の若者達に伝えるように心がけてきた。私自身がそうであったように、日本では被害者としての戦争の記憶は教わることも実感することもあるが、加害者と しての記憶を呼び起こされることがないからである。

二度と戦争を起こさないと決意することは、戦争によってなくなったすべての人々に報いることである。とりわけ被害をこうむった地域と人々に思いを寄せ、相互理解を深めていくことこそ、確かな平和を築いていく基礎となると思う。

外国語があなたを変えていく(4)

浪木 明 (2005年7月16日 15時09分)

心理テストでコップに半分入っている水を見て「もう半分しかない」と考える人は悲観主義者、「まだ半分も残っている」と考える人は楽観主義者というものがあります。しかし、私は何も感じません。私は「中観主義者」なのです。

長い間、私は楽観主義はプラス、悲観主義はマイナスと考え、意識的に楽観主義者に近づこうとしていました。しかし、前者には「責任回避、日和見」 というマイナス面があり、後者には「慎重、防衛」というプラス面がありはしないかと考えるようになりました。もし世の中がどちらか一方のグループだけに なったとしたら、人の喜怒哀楽もバランスが崩壊し、人生はとてもつまらないものになってしまうことでしょう。物事には常にプラス面とマイナス面が存在する のです。それを認め合うことの方が、どんなに人生を豊かにすることでしょうか。

ところで日本では血液型と性格の間に強い相関関係があるとする書籍に人気があります。冷静に考えれば地球上63億の人間の性格をたった四つのカテ ゴリーに分類することなど不可能です。一方視点を変えれば、四つのカテゴリーに63億の人間を分類することは案外簡単なことかもしれません。得てして人間 は何かの基準でグループ化して分類するのが好きらしい。それ自体は問題ないのですが、そこに優劣や上下の差異をつけ異なるものを排除していく傾向が見てと れます。

話は変わりますが、一つの論題について肯定と否定の両方の側に立って考えるディベート(討論)が注目されるようになってきました。私は学生時代に 英語討論で「核兵器は必要か?」との論題にジャンケンで負けて肯定側に立ったことがあります。自身の意見とは正反対の主張をする羽目になり、瞬間「負け た」と思いました。しかしここで知恵を絞り「地球に大隕石が接近し、それを破壊しなければ地球は滅びるという状況下では、核兵器が必要なこともある」と主 張し、ディベートに勝ったのです。私の「中観主義」への第一歩でした。

この出来事は私の思考形成に大きな影響を与えました。立場が変われば主義主張も変わること、立場が変わったとしてもその批判に耐えうる整合性を持つこと、感情を制御し論理を中心に物事を見る重要性などです。

外国語の差異に目を転じると、スペイン語では「皿が私の手から落ちた」という表現の仕方があります。日本語なら「私は皿を落としてしまった」とな るでしょう。当初、「スペイン語は、何と無責任な表現をするのか」と思いましたが、次第に「何とプラス思考な表現だ」と思うようになりました。最近の某知 事の「フランス語は国際語失格」発言問題は、言語に優劣をつける極めて乱暴で危険な考え方です。

異なる言語や文化の存在が、己を見つめ直し、相手の立場に立つ重要性を教えてくれるのです。外国語があなたを変えていくのです。「中観主義者」は 人生の様々な局面で紛争の解決に寄与することができ、異なるものとの交流を楽しみながら世界市民そして平和を目指すのです。このような限りなき自己の拡大 と変革のプロセスにおいて、外国語学習を通じて得たものの一つが「多重人格」です。これについては次回論じたいと思います。

残留孤児訴訟に思う

大江 平和 (2005年7月15日 15時12分)

去る6日に中国残留日本人孤児が「帰国後の生活支援が不十分だった」などとして国に損害賠償を求めた訴訟の判決がくだった。判決は国の法的責任を全面的に否定した。きわめて残念な結果であったと憤りすら感じる。

私の近所の公営住宅に残留孤児の老夫婦が住んでいる。二人は毎朝夕、おぼつかない足取りを互いに支え合うようにして散歩するのが日課のようだ。何気なく「ニーハオ!」と挨拶を交わすようになり、先日、夫と一緒に初めてお宅にお邪魔した。そこで、私たちは大きな衝撃を受けた。実はこの老夫婦はいわゆる「文盲」だったのだ。その存在は知っていたが、身近に接するのはもちろん初めてである。おまけに中国語も訛りが強く、何を言っているのかさっぱりわからない。かろうじて聞き取れたのは、以前は中国の山東省の「リャンシャン」に住んでいて、日本に来て十数年たつということだけだった。いつもは固有名詞など聞き取れないものは書いてもらうのだが、それもできない。帰宅して中国地図を開いてみたが、結局「リャンシャン」という地名は確認できなかった。折りをみて、かつて日本軍が侵略していった山東方面のルートを調べてみようと思う。それはともあれ、70才をゆうに超えたであろう二人が、戦争によって中国の農村に置き去りにされ、祖国、日本に戻ってきた今も日本語はおろか、自分の名前すら読むことも書くこともできずにいる。不自由な生活を強いられている現実を目の当たりにし、その苦労続きの生涯に思いをはせたとき、胸に迫ってくるものがあった。

戦後60年を迎えた本年、いまなお戦争の傷跡はまだ続いているのだ。このような老夫婦が全国に約2500人いるという。彼らの祖国、日本での晩年が少しで幸せなものとなるよう、国は最大の努力を払って生活支援の拡充をすべきであろう。

二酔人四方山問答(7)

岩木 秀樹 (2005年7月14日 15時13分)

B:また大規模なテロがあったね、ロンドンで。今まで色々イスラームについて聞いてきて、少しは偏見が無くなったように感じたけれど、でもイスラームの名で多くの人を殺すなんて恐ろしい宗教だなと正直思った。

A:いやあれは、イスラームの中の一部の過激な人々がやっていることだ。ただイスラームに限らず、宗教や様々なイデオロギー中には、正しいもののた めには自分や相手が死ぬことは間違ったことではなく、特に自集団や自分の教義を守るためには「悪」と命を賭けて戦うことを奨励する例は多い。

B:イスラームにもジハードと言う言葉があるよね。

A:あるよ。でもジハードは宗教的に様々な努力をするという意味なんだ。弱い自分に打ち勝つための精神的ジハードも含まれるんだ。このようなジハードの中の一部に、自分たちのイスラーム共同体を守るための狭義のジハード、私たちがよく使う聖戦がある。

B:へーそうなんだ。ジハード=聖戦ではないんだ。

A:しかもその聖戦という意味のジハードの中にも、拡大ジハードと防衛ジハードがある。 拡大ジハードとは文字通りイスラーム共同体を異教徒の土地に広めること。もちろん広め方は武力ばかりでなく、商人や様々のイスラーム教団が広めたりしたん だけど。また武力による場合でも徐々に改宗させていったんだ。そして防衛ジハードとは自分たちの共同体を異教徒から守ることだ。

B:現在のイスラーム教徒はやっぱり防衛ジハードをやっているという意識が強いのかな。

A:そうだと思う。そもそも拡大ジハードを宣言できるのはカリフの専権事項だから、最後のイスラーム帝国であるオスマン帝国が崩壊した後、カリフは いなくなったので、理念的には拡大ジハードはできなくなった。それに現実的にはパレスチナでもアフガニスタンでもイラクでもチェチェンでも、世界の様々な 場所で行われていることは、米国を中心とした国々からイスラーム共同体とイスラームの同胞を守るための戦いだという意識がある。つまり防衛ジハードを行っ ているというわけだ。

B:でも今回のテロは防衛ジハードと言えるの。

A:言えないと思う。世界のイスラーム教徒の多くは、9・11の時もそうだったけれど、今回のような無差別テロは許していない。多くの人々は話し合 いによって解決しようとしている。しかし、無差別テロという方法は間違っているが、自分たちイスラーム教徒が様々な局面で抑圧を受けていることを世界中に 知らせ、出来れば改善したいと考えているのは確かだ。だから無差別テロを見て、それは間違っているとは言うが、その後に、ただね……と言う言葉が続くん だ。そのような不満を強く持つ人々の一部が過激化して、自分たちがやられたことをやっているんだという報復攻撃にでているのかもしれない。

B:一部にもそのような人がでるということは、ある程度イスラームが暴力性を内包しているからじゃないのかな。

A:それを完全に否定することは難しいかもしれない。もっと言えば、イスラームのみならず、宗教と暴力の関係という大きな問題にぶつかる。ただこう いう例もある。ぼくが中東に留学していたときに、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったんだ。これはまだ公判中で真実はまだはっきりしないけれど、当時 ぼくの友人のイスラーム教徒は日本人は恐ろしいことをする、仏教徒は怖いと言っていた。

B:え、あれは仏教徒の仕業なの。

A:中東のような遠い地に住む人から見れば、東洋的な宗教の小さな差異はわからないんだ。仏教的な言説を使っていたのでそう見えたのだろう。なぜ日本人の仏教徒が不特定多数の同胞を毒ガスで虐殺したのか理解できなかったようだ。

B:そう見えるのか。ぼくもなぜ彼らが無差別テロをしたのか全然理解できない。

A:それに比べ、イスラーム教徒による様々の抵抗運動は、因果関係ははっきりわかる。イギリスの三枚舌外交に対するもの、アメリカのダブルスタン ダードに対するもの、イスラエルの不法占領に対するもの、米英らによる国際法無視の戦争などに対抗するために攻撃を仕掛けている。

B:一般のイスラーム教徒は無差別テロという方法には反対するが、それを行う人々の心情を全く理解できないというわけではないのかな。

A:だから中東から見れば、どのような恨みや抑圧があるのか外から見たらわからず、自宗教の教義内から発したものによって、同胞を殺した日本人の仏 教徒の方がよほど残虐で恐ろしいということになる。でも国際社会では、仏教テロリズムとは言われなかった。また世界の様々のキリスト教徒によるテロもキリスト教テロリズムとは言われない。イスラーム教徒の一部によるテロのみイスラームテロリズムと言われるのは、明らかに国際社会に存在する偏見だと思う。

宇都宮空襲60周年について

今井 康英 (2005年7月13日 15時15分)

今回は、順番から言えば「環境問題」について述べるべきですが、 このカテゴリーで投稿したブログの記事はあまり多くないので、 他日に書くことにして、上記のテーマについて述べます。 このテーマに関連した記事は、「反戦平和」に掲載しています。

1945年7月12日の宇都宮空襲により、620人以上の人命が失われ、 市街地の大半が焼失した。今年は60周年である。 宇都宮市では、この7月12日は「宇都宮市平和の日」である。 この日から「終戦記念日」の8月15日まで、「宇都宮市平和月間」である。 (この間のイベントなどは「日程情報」に掲載しています。)

この日の地元紙「下野新聞」の1面トップは、「宇都宮空襲 きょう60年」 平和を願う3人の記憶が掲載された。 「無差別爆撃 市民が標的に」 中島飛行機宇都宮製作所の係長だった矢口長さん(86) 空襲の翌日、工場へ行ったが、ほとんど被害がなかった。 街が標的にされた無差別攻撃だった。 犠牲になったのは、軍の施設ではなく市民。 「戦争に正義なんてない。だから戦争はいけないんですよ」

「新しい家族 一度に失う」 群馬県桐生市から宇都宮の酒店に嫁いだ萩山光子さん(81) 義父に「先に逃げろ」と言われた。 夫が「母だけでも連れて行こう」と戻ろうとしたが、 火の手が強く、断念せざるを得なかった。 空襲の翌朝、焼けただれた自宅に戻った。 田川に逃げ込んだ義姉とめいの無事を確認。 しかし残り4人の行方は不明だった。探し始めて二日後。 焼け果てた土蔵でひと塊となった父母、義兄、おいの焼死体を発見。 隣の母屋からは灰と泥にまみれた花嫁衣裳も。 人生が暗転した日の光景が脳裏から離れない。 「何もかも悪夢だった」

「機銃掃射 新たな脅威」 簗瀬国民学校の周辺で焼け跡の片付けをした手塚節司さん(73) 空襲から数日後。焼け残った建物は石蔵ぐらいだった。 バリンバリンバリン。その時、一機の戦闘機が突然、 爆音とともに校舎上空に現れた。トチノキの大木に身を隠した。 「目の前わずか1メートル先を30センチ間隔で、 弾が砂煙を上げて地面に突き刺さったんだ。 パイロットの顔まで見えたけど、武器が無くて何もできなかった」 同様に片付けをしていた下野中学(現作新学院)の生徒5人が 機銃掃射の犠牲になった。 「ひどいもんだ。いかに人に重い傷を負わせるかを、人が考えるんだから」

この日の社説(「論説」)は、「平和築くため行動が必要」 不戦の誓いを新たにすることは、旧日本軍に侵略された東南アジアや、 イラクの人々にも共通する思いだろうと指摘した上で、 今や自衛隊が海外に出掛ける時代であるとも記し、 「過去の戦争を記憶すると同時に、平和を築くために何ができるのか、 考え、行動する必要があるのではないか」と述べている。 私も、宇都宮市民として、まったくその通りだと思います。

実は、この日の23面の文化欄に創立者の特別寄稿も掲載されている。 タイトルは、国際交流こそ「平和の道」 日中戦争のさなかに敦煌やシルクロードのロマンを語り聞かせてくれた 「恩師」檜山浩平先生(栃木県出身で小学校5年生の時の担任)の 思い出などを紹介しながら、文化交流や相互理解を進めていくことが、 世界の平和と安定の橋を構築していくことになるとの信念が記されている。 私も、地球人の一人として、この信念を共有していきたいと思います。

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