コラム・論考

アイケンベリーさんの講演会に参加して

中西 治 (2010年3月6日 16時58分)

きょうは弥生 3 月の啓蟄です。冬眠していた虫が地中から這い出る日です。遅咲きの我が家の梅も満開を過ぎ、散り始めました。

2010 年 3 月 1 日に東京のホテル・オークラで催されたジョン・アイケンベリーさんの講演会に参加しました。アイケンベリーさんは米国のプリンストン大学ウッドロー・ウイルソン公共政策大学院教授で、『アフター・ヴィクトリー』で日本でも知られている国際政治学者です。共和党のブッシュさんのイラク戦争に反対し、民主党のオバマさんの大統領当選に寄与した人です。米国では「ハト派」に属します。

アイケンベリーさんは日米安全保障条約改定 50 年にあたって「 21 世紀の日米同盟を見通す」と題して講演しました。

まず、日米の同盟関係は日米両国民のそれぞれ70%の支持を得ていると言います。日米同盟は「成功物語」であり、この同盟のお陰で、日本は進歩・発展し、地域は安定した。この同盟はすでに政治的な構造物となっているが、現在、民主的・経済的変革期にある。

日米同盟への挑戦者は台頭する中国である。日米両国は日米同盟を公共財とし、6 か国協議を発展・強化させなければならない。日本が中国と機能的関係を確立することは日米同盟にとっても良い。

中国と米国の国内総生産 (GDP) は購買力平価 (US ドル) で 2005 年に中国は 9 兆、米国は 12 兆であったが、2010 年にはそれぞれ 14 兆と 17 兆となり、2015 年には 21 兆と 22 兆、2020 年には 30 兆と 28 兆となり、中国が米国を追い越す。2025 年には 44 兆と 37 兆、2030 年には 63 兆と 49 兆となり、中国が完全に米国の上位に立つ。

アイケンベリーさんはこのことを中国対米国ではなく、中国対民主主義的資本主義世界という枠組でとらえれば、恐れるべきことではないと言います。

中国に味方しているのは北朝鮮 (朝鮮民主主義人民共和国) だけであるが、米国にはヨーロッパ諸国・日本・韓国など 30 か国から成る経済協力開発機構 (OECD) という強力な味方がいる。OECD の前記の GDP は 2005 年に 34 兆であったが、2010 年には 44 兆、2015 年には 55 兆、2020 年には 73 兆、2015 年には 88 兆、2030 年には 105 兆となる。米国と OECD を加えれば、中国は脅威ではない。さらに、軍事力において米国は中国を圧倒しており、中国が大国になるのは相当先の話しである。

アイケンベリーさんは、アフガニスタン戦争はやっかいな問題というにとどまり、オバマさんに対して経済の基本に戻れと言います。

アイケンベリーさんは、結論として、日米両国の外務・国防相から成る 4 人のタスク・フォース (Task Force=特殊任務を帯びた軍の機動部隊、一般には対策本部・対策委員会) を設け、これから先 50 年間の基地問題を含む日米関係を検討するように提案しました。彼は日米同盟が「太平洋の橋」として続くことを願っています。

アイケンベリーさんにとって日米同盟は居心地の良いもののようです。日米同盟に苦しみ、それに反対している日米両国の人々の声と行動は小さいようです。彼は軍事力の信奉者のようです。軍事力が大国の象徴であった時代は終わったのです。重すぎる武装が身を滅ぼし、国を滅ぼす時代なのです。このことが分かっていないようです。

私も日米関係が「太平洋の橋」となることを望んでいます。軍事同盟関係ではなく、平和友好協力関係によって。

2010 年 4 月 18 日におこなわれる私たちの研究所のユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット (UUI) 開校式での記念講演「私の人生哲学」の準備をしています。

良い日々を!

最近の日本の政治情勢について

中西 治 (2010年2月14日 21時50分)

昨年 8 月の総選挙で民主党が大勝し、自民党から民主党への政権交代が実現した。国民の多くはこれを歓迎した。最近の世論調査によると、鳩山内閣の支持率は低下し、不支持率が支持率を上回った。

なぜこのようなことになったのか。

鳩山さんの指導力が不足しているからである。普天間問題しかり、後期高齢者医療問題しかりである。加えて、鳩山さんと小沢さんの金銭問題が国民の鳩山内閣離れを促している。このまま行くと、夏の参議院議員選挙で民主党は勝てない。小沢さんでは選挙はできない。小沢さんは参議院議員選挙までに幹事長を辞めるであろう。

自民党は鳩山さんと小沢さんの金銭問題に的を絞り、二人を追い落とし、鳩山内閣を退陣に追い込もうとしている。このところの国会での自民党幹部による鳩山・小沢批判は異常である。かつて政府・与党で指導的な地位にあった人々が次々と国会で、鳩山・小沢非難を繰り返し、罵声を浴びせている。非難している人と非難されている人はかつて同僚であった。恥ずかしい。このことが分からないようである。情けない。

自民党はこのようなやり方では参議院選挙に勝てない。国民はとっくに自民党と民主党の指導者がもともと保守の同僚であり、ともに金権政治にまみれた人々であることを知っている。それでも自民党よりはまだましだと考えて、民主党に日本の政治を託した。いま自民党が為すべきは、これまでの自民党の政策の二番煎じではなく、民主党以上に革新的な新しい政策を提示することである。自民党はこれができない。自民党は鳩山・小沢の民主党とたたかうことを望んでいる。麻生政権時の民主党と同じである。民主党は敵失によって勝った。自民党の狙いも同じである。次の参議院議員選挙で自民党が大敗すれば、自民党の自壊現象はいっそう進む。

現在は 20 世紀後半の政治体制から 21 世紀初頭の新しい政治体制への移行期である。

変革はすでに始まっている。このチャンスを潰し、後戻りさせてはならない。新しい人、新しい考え、新しい展望が開け始めている。政治には善意と崇高な理念が必要である。不屈で、忍耐強く、決定的なときに果断に行動する実行力が必要である。

鳩山さんが普天間問題でそれを発揮することを期待している。そうすれば、鳩山さんは歴史に残る政治家となるであろう。そうでなければ、民主党は鳩山さんでは参議院議員選挙をたたかえなくなるであろう。

歴史はジグザグの道を歩みながら進んでいく。

沖縄・名護市の皆さんへ

中西 治 (2010年1月25日 22時20分)

1 万 7950 人の皆さん
ありがとうございます。
皆さんの一票のおかげで私は勇気づけられました。
私の思いは独り善がりではなかったことを。

1 万 6362 人の皆さん
ありがとうございます。
皆さんの思いは分かります。
1 万 7950 人と仲良くして下さい。

あの戦争に生き残った人々であり、その子孫ではありませんか。
ここで争ってはあの戦争で亡くなった両親や祖父母に申し訳ないではありませんか。

戦後 65 年、やっと出発点に立ちました。
ともに、沖縄の平和のため、日本の平和のため、アジアの平和のため、地球の平和のため、すべての人間の幸せのために努力しましょう。

人間はみな同じです。
米国人も同じです。
思いは同じです。

2010 年の新春に寄せて ―真に友好協力的な新しい日米関係を!

中西 治 (2010年1月1日 4時05分)

新年おめでとうございます。

21 世紀の最初のゼロ年代が終わり、 10 年代が始まりました。

2009 年に米国でオバマさんが「チェンジ (変革) 」を掲げて大統領になり、日本で鳩山由紀夫さんが「政権交代」を掲げて首相になりました。日米両国で変革の時代が始まりました。

オバマさんと鳩山さんが当面している問題は、沖縄にある米軍普天間飛行場の返還問題であり、日米関係の問題です。

日米関係は 1853 (嘉永 6) 年の黒船来航以来、次の三つの時期を経て発展してきました。

第一は 1854 (安政元) 年の神奈川条約の締結による開国から 1911 (明治 44) 年の条約改正に至るまでの不平等条約の 57 年間。第二は 1911 年から 1945 (昭和 20) 年の日本の敗戦までの摩擦と戦争の 34 年間。第三は 1945 年から 2009 (平成 21) 年までの占領と安全保障体制下の 64 年間。

オバマさんも、鳩山さんも、ともに変化を掲げて当選したのですから、米軍普天間飛行場を日本に返還し、新しい日米関係の時代を切りひらくべきです。

彼らは現在を安保体制から真に友好協力的な新しい日米関係を確立するための移行期にしなければなりません。

ところが、現実はそのように動いていません。

オバマ政権の国務長官はヒラリー・クリントンさんです。彼女は沖縄に関する特別行動委員会 (SACO) が普天間飛行場の返還を決めた最終報告書を発表した 1996 年の大統領ビル・クリントンさんの夫人です。最終報告書では普天間飛行場の代替施設を海上に作ることが決まりました。具体的に名護市辺野古への移転が決定したのは 2006 年でした。

国防長官はブッシュ息子政権以来のゲーツさんです。 ゲーツさんはブッシュ父政権時代の 1991 年に中央情報局 (CIA) 長官に任命された最初の生粋の CIA 要員です。ゲーツさんは 1993 年まで CIA 長官を勤めたあと、大学教員に転じましたが、 2006 年にラムズフェルドさんの後任として国防長官になり、オバマさんが大統領になったあとも国防長官として留任しています。ゲーツさんは共和党員ではないと言われていますが、ブッシュ親子とは密接な関係にあります。

オバマさんはゲーツさんを国防長官に留任させざるを得なかったことによって重い過去を引きずることになりました。アフガニスタン戦争の継続と普天間飛行場の辺野古への移転です。

鳩山さんはもともと自民党の政治家です。彼は 1993 年に自民党を離党し、新党さきがけを結成しました。同年 8 月に細川内閣が発足すると、官房副長官になりました。その後、新党さきがけは羽田内閣 (閣外協力) 、村山内閣 (閣内協力) 、第一次橋本内閣 (閣内協力) と協力関係にありました。第一次橋本内閣のとき菅直人さんは厚生大臣を務めました。

1996 年 11 月に第二次橋本内閣が発足しましたが、それに先だつ 1996 年 9 月に鳩山さんと菅さんは旧民主党を結成し、ともに代表になりました。 1996 年 12 月に SACO 最終報告書が発表されたときにも、 2006 年に辺野古への移転が決まったときにも、鳩山由起夫さんと菅直人さんはこれらに直接かかわっていません。

彼らは先の総選挙で米軍普天間飛行場の県内移転に反対し、沖縄の全選挙区をはじめ、全国で大勝利しました。

ゲーツさんは激しい反撃に出ています。鳩山さんはたじろいでいます。鳩山さんは、これは日本国民の要求であり、選挙によって政権が変わったのであるから、政策が変わるのは民主主義国家では当然のことである、と主張すれば良いのです。国際社会ではよくあることです。米国も民主主義国家であるのならば、理解できるはずです。

日本政府は移転先などを考える必要はありません。どこへ移しても、移されるところは大変迷惑を蒙るのです。それは米国が考えればよいのです。一番良いのは基地をなくすことです。どうしても必要ならば、自国内に作れば良いのです。

オバマさんと鳩山由紀夫さんは 20 世紀後半の日米安全保障体制から 21 世紀の真に友好協力的な日米関係を確立する移行期の指導者にならなければなりません。

この問題を最終的に解決するのは日米両国の主権者である人民です。

日本人自身も日本にある米軍基地について、日米安全保障条約について、日米関係について真剣に考えなければなりません。

今年が普天間飛行場問題を解決し、真に友好協力的な新しい日米関係を確立するための年となることを願っています。

私もそのために努力します。

2010 年元旦

オバマ大統領の演説について

中西 治 (2009年11月14日 12時00分)

2009 年 11 月 14 日午前 10 時 10 分頃から 30 分間ほど、オバマ米国大統領のアジア政策についての簡潔な演説を NHK テレビで拝見・拝聴しました。私も簡潔に感想を述べます。

第一は、オバマ大統領が日米の友好関係の重要性を強調されたことを歓迎します。このところ「日米同盟」が喧伝されていますが、私は「日米同盟」とは「日米軍事同盟」ではなく、「日米友好同盟」であると考えています。それが 21 世紀のあるべき「日米関係」です。

第二は、沖縄の普天間基地について米国はこれまでの立場を大きくチェンジし、普天間基地を撤去すべきです。日本人の多くがオバマ大統領に期待しているのはこのことです。 1945 年 8 月の敗戦後の軍事占領とそれに続く日米安全保障条約によって、日本には、すでに 64 年余にわたって米軍基地が存在してきました。もう十分であると思います。

第三は、オバマ大統領が朝鮮戦争の完全終結と朝鮮半島の非核武装化および米朝国交の正常化によって、アジア・太平洋地域の平和と安定のため、また、核のない世界を実現するために大きな成果をあげられることを心から望んでいます。

古田元夫著『ドイモイの誕生』紹介

中西 治 (2009年10月4日 16時35分)

私たちの友人である古田元夫さんが、新著『ドイモイの誕生』青木書店、を2009年9月10日に上梓しました。

古田さんは2008年5月18日に私たちの研究所の第7回総会で「今日のベトナムとアジアの平和」と題して記念講演をしました。古田さんは、また、私たちの研究所代表団が2009年9月1-8日にベトナム社会主義共和国を訪問するにあたって種々ご指導下さいました。

古田さんのおかげで、私たちの代表団はハノイでベトナム社会科学院と学術交流をすることができました。

その古田さんが、新著で、ベトナム共産党が1986年12月の第6回大会で「ドイモイ(刷新)」と呼ばれる改革を本格的に開始するまでの過程を明らかにしています。

1986年といえば23年前。

その前年の1985年3月にゴルバチョフがソビエト共産党書記長に就任し、1986年2-3月の第27回党大会を経て、同年6月の党中央委員会総会で「ペレストロイカ(ベトナム語訳では改組)」を打ち出し、7月に「ペレストロイカは革命である」と述べました。その最初の具体的な政策が同年11月の「個人勤労活動法」の採択でした。それまで禁止されていた「白タク」が公認されました。

ベトナムの「ドイモイ」はソビエトの「ペレストロイカ」の影響をうけたものとされてきました。

古田さんは、ペレストロイカがドイモイ路線の形成に影響を与えていることは事実であるが、「それをドイモイ路線形成の主たる要因として扱うことは問題である」と主張しています。

古田さんは「ドイモイ路線形成には、まずベトナムの一般の人びとや、地方の下級の共産党組織による「下からのイニシアティブ」が重要な役割を果たし、これを受けて共産党の最高指導部のなかに生まれたチュオン・チン(長征、本名ダン・スアン・ク)を中心とする改革推進勢力が、より保守的な、あるいはより慎重な他の指導者を、ある時には説得し、ある時にはその反対を押し切って、ドイモイ路線の形成にいたった」ことが決定的に重要な意味をもっている、と強調しています。

古田さんがこの書を歴史学研究会のシリーズ「民族を問う」の一冊として世に問うたのは、ドイモイ路線の形成がベトナムにおける社会主義の「民族化」の道を切り開くものであり、社会主義と民族という問題が交差する性格をもっていると考えているからです。

1965年以降、米国軍の爆撃が恒常化するなか北ベトナムでは農業が集団化され、大半の農家が高級合作社に参加し、国家がその作物を安い価格で買い取り、都市に提供していました。

都市では配給制度が実施され、国家が米や布をはじめ生活必需品を安い値段で労働者をはじめとする市民に提供していました。ソビエトや中国からの無償の援助物資が大きな役割を果たしていました。

「丸抱え(配給制度)時代」、「貧しさを分かちあう社会主義」、ベトナム版「戦時共産主義」でした。

1975年4月にサイゴンが陥落し、1976年7月に南北ベトナムが統一し、ベトナム社会主義共和国が発足したあと、いつまでも戦争中の制度を維持することはできませんでした。

1977年には中国との関係が悪化し、中国からの援助物資が来なくなりました。ソビエトや東ヨーロッパ諸国からの援助も減り、生活必需品は通常の貿易で入手しなければならなくなりました。

国内での食糧生産量は籾換算で1976年に1349万トン、1977年に1262万トン、1978年に1227万トン、1979年に1398万トンであったのに、国家徴収量は1976年に204万トン、1977年に169万トン、1978年に159万トン、1979年に145万トンと激減していました。もはや、戦時中のように農村から安価な食糧を調達できなくなりました。

地方の党と政府が米を農民から高い値段で買い入れるとか、配給制で安価に提供してきた生活必需品の価格を引き上げ、その代わりに賃金を引き上げるとかの「地方の実験」を始めました。これをハノイの中央の党と政府は簡単に認めませんでした。

この1970年代末から1986年の「ドイモイの誕生」にいたる時期を、古田さんは「ベトナムにおける改革路線の形成過程」として、近年公刊された「党文献」や「未公開資料」および「著者によるインタビュー」などを使って詳細に明らかにしています。

古田さんは「地方の実験」に対して当初、否定的であったチュオン・チンがこれに肯定的になり、第6回大会では党書記長として「ドイモイの生みの親」に変身する過程を描き出しています。同志たちとの一連のやり取り・論争は一編のドラマです。

1985年6月のレ・ズアン書記長の発言、「自らの理論のなかで、マルクスはプロレタリア独裁を、レーニンは労農同盟に言及したが、ベトナムは集団主人公と言っている。」、という言葉や1986年4月のチュオン・チンの発言、「第6回大会は、観念のドイモイ、知識のドイモイ、発想のドイモイ、とくに経済の発想のドイモイ、ホーおじさんの作風にならっての仕事のしかたのドイモイという面に体現される、基本的で重要なドイモイの一歩を記す大会にならなければならない。」という言葉は心に残ります。

私はこの本を読んで、ソビエトの「戦時共産主義」から「新経済政策(ネップ)」への転換、「独ソ戦争」から「スターリン死後の改革」、「ゴルバチョフのペレストロイカ」から「ソビエト体制崩壊」への過程、中国の「文化大革命」から「改革開放政策」への転換、「朝鮮とキューバの現在の状況」などを思い浮かべています。

日本やドイツのように戦争に負けた国では、否応なく戦時中の体制が破壊され、新しい体制を作ることになります。

戦争に勝った国、負けないで持ちこたえた国は、非常時の体制から平時の体制への切り替えがきわめて困難です。人びとは貧困と生活の不自由さから変革を求めます。指導者はその体制で戦争に勝利したのですから、体制に愛着を持っています。

人びとと指導者とのあいだには常に認識と意識の相違があります。人びとの認識と意識が進んでいる場合、「下からの改革」となり、指導者の認識と意識が進んでいる場合、、「上からの改革」になります。

いずれの場合も下と上とのあいだで衝突が生じます。これを上手く処理したとき、体制は持ちこたえ、新たな発展をします。上手く処理できなかったとき、体制は混乱し、崩壊します。

1986年段階で、改革はベトナムの方がソビエトよりも先を進んでいました。ベトナムではいまも体制は維持されていますが、ソビエトでは体制は崩壊しました。

ベトナムを初めて訪れて、「百聞は一見に如かず」と思いました。その後、この本を読んで、「一見は一読に如かず」と感じています。本は人間の認識と意識を変えます。

古田さん、おめでとうございます。ありがとうございます。

ベトナム社会主義共和国訪問記 2009年9月1日〜8日

浪木 明 (2009年9月19日 21時56分)

1 日 (火) 曇り。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名、 18:05 日本航空 759 便にて成田空港出発。出入国カード健康申告、税関申告書記入。 22:15 ホーチミン着。前日現地入りしていた馬場と合流。コンチネンタルホテル泊。 10000 円を 1,936,500 ベトナム・ドンに換金。

2 日 (水) 曇り。現地在住の村山女史と合流。参加者 8 名全員揃う。 64 年目の国慶節 (建国記念日) 。ホテル前に、送迎のマイクロバスを長時間 (10 分程度) 駐車したとして、 50,000 ドン罰金を途中支払う。約 70km 離れたクチへ向かい、クチトンネル歴史遺跡区を見学。市内へ戻り水上人形劇を鑑賞。市内レストランで食事。

3 日 (木) 曇り。バンラン大学訪問。 1995 年設立され、急速に成長したベトナム私学の一つで、「道徳心、意志、創造」をモットーとする。国際協力プログラムを重視。意見交換では、独立とグローバリゼーション、社会主義の維持、教育と生活様式、外国語・愛国教育、ホーチミン思想、信教の自由等を議題に活発な話し合いが行われた。通訳はグエン・ティ・ハイン・トゥック女史とチャン・クァン・トゥエ氏。午後、レ・クイ・ドン中学校を訪問し日本語クラス見学。戦争証跡博物館見学後、在ホーチミン日本国総領事館を表敬訪問。水城幾雄総領事と会談。夜は、ホーチミン日本商工会の小須田森仁会長と会食。

4 日 (金) 曇り。視覚障害者学校見学。政府からの援助はなく、点字書籍販売等で学校を維持運営。子供たちによる楽器・合唱の心温まる歓迎があった。日本食レストランで昼食。午後、人文社会科学大学訪問。グエン・バン・ティエップ人類学部長を中心に討議。 WTO 加盟とグローバリゼーション、対仏・対米戦争におけるベトナム共産党の役割、格差と住宅問題、儒教精神などをめぐり話し合いが行われた。

5 日 (土) 曇り。 10:30 ベトナム航空 218 便にてホーチミン空港発。 12:30 ハノイ空港着。エアバス機で軽食も出され、快適な国内移動だった。ホライゾンホテルにチェックイン。午後、市内観光 (文廟、ホーチミン博物館) 。夜、ホアンキエム湖岸のレストランにて夕食。満月が美しかった。現地法人経営者の村山文雄氏、ベトナムガイド誌「ビナ BOO 」の芝きくよ女史が同席。

6 日 (日) 晴れ。 7:30 ホーチミン廟拝観。防腐処理を施されたホー・チ・ミンの遺体が補修のため翌日からモスクワに搬送され、約 2 ヶ月間この廟は閉館されるとのこと。午後は世界遺産ハロン湾見学。観光船を貸し切って 4 時間の贅沢なクルージングを堪能。船内で海産物の昼食、途中洞窟見学をする。ハノイ市内に戻り、歴史ある一軒家を改築したレストラン「シーズン」にて夕食。ベトナム・ソークレス株式会社の池田英知氏が同席。

7 日 (月) 晴れ。ホテルチェックアウト後、ベトナム社会科学院を訪問。緊急に首相と会うことになったドー・ホアイ・ナム院長に代わって出席したヴォー・ハン・ヴィン副院長他 9 名の皆さんが歓迎。中央政府のみならず地方政府の政策策定を行い、経済発展に寄与し、大学院レベルの人材育成に取り組まれているとの紹介があった。ベトナムの交通戦争、エネルギー不足、中越関係、日本の民主党政権とアジアなどについて活発な論議が行われた。通訳はヴー・ティ・ホン・ミン女史。昼食にベトナムのフォーをいただいた後、午後双日株式会社アジア・大洋州副総支配人の渡邊理史氏とベトナムと日本の経済関係等について懇談。在ベトナム日本国大使館を表敬訪問し、眞鍋寛参事官と会談。外務省、大使館、 NGO の文化交流における役割、資金協力援助について貴重なアドバイスをいただいた。夜、ハノイ空港内の海鮮レストランで夕食。馬場、村山女史に別れを告げて 23:29 日本航空 752 便にてハノイ発。

8 日 (火) 曇り。 6:29 成田着。中西、鈴木、徳永、浪木、浪木 (香) 、山口の 6 名無事帰国。解散。

最後に今回のベトナム訪問の所感を述べたい。

  • ベトナムの国慶節記念週間及び大学の夏休み期間にもかかわらず、多くの研究者との学術交流が実現し、今後の一層の交流促進を固く約し合うことが出来た。
  • 今回の学術交流は全てベトナム語と日本語の専門通訳 3 名を介して行われた。
  • 短期間に現地社会で活躍されている方々から有益な情報を得ることが出来た。
  • 今回は 8 名 (会員 5 名・非会員 3 名/ 男性 4 名・女性 4 名) の参加だったが、コストパフォーマンスに優れ、移動・食事等の点で適正人数であった。また全員がそれぞれの役割を全うし、密度の高い充実したベトナム訪問だった。

鳩山由紀夫内閣の発足に寄せて

中西 治 (2009年9月16日 17時00分)

2009 年 9 月 16 日午後に民主党代表鳩山由紀夫さんが衆議院で 327 票、参議院で 124 票を獲得し、衆参両院で内閣総理大臣に指名されました。鳩山由紀夫内閣が民主党・社会民主党・国民新党の 3 党連立内閣として発足することになりました。

第二次大戦後の日本政治史上、画期的な出来事です。

戦後日本政治史は次の五つの時期に分けることができます。

第一は、最後の戦時内閣であり、敗戦処理内閣であった鈴木貫太郎内閣 (1945.4-8) のあと、旧憲法のもとで東久邇宮内閣 (1945.8.17-10) 、幣原喜重郎内閣 (1945,10-1946) 、第一次吉田茂内閣 (自由党) (1946.5-1947) と続きました。

第二は、1946 年 11 月 3 日公布、 1947 年 5 月 3 日施行の新憲法下、最初の総選挙で社会党が第一党となり、片山哲内閣 (社会党) (1947.5-1948) が発足し、そのあと、芦田均内閣 (民主党) (1948.3-10) 、第二次〜第五次吉田茂内閣 (自由党) (1948.10-1954) 、第一次〜第二次鳩山一郎内閣 (民主党) (1954.12-1955) と続きました。

第三は、1955 年に自由党と民主党が合同し、自由民主党となり、第三次鳩山一郎内閣 (自民党) (1955.11-1956.12) が発足してから 1993 年 7 月の総選挙で敗北し、野党に転落するまで続いた自民党単独政権の 38 年間です。

第四は、1993 年 8 月に非自民連立政権の細川内閣が成立したあと羽田内閣に引き継がれたものの、いずれも短期政権に終わり、 1994 年 6 月に自民党が社会党と組んで政権に復帰し、連立相手を変えながら今回の総選挙で敗北するまで続いた非自民連立政権と自民連立政権の 16 年間です。

第五は、今回の鳩山由紀夫内閣の発足によって始まりました。今回も連立政権ですが、主役が自民党から民主党に代わりました。

完全に崩壊した「 1955 年体制」は自民党内の政権交代システムでした。この体制は宇野内閣・海部内閣あたりから綻びが見え始めていました。安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣などは正常な統治能力を喪失していました。

小泉内閣以降の政府が推進したネオリベラリズム (新自由主義) 経済政策は、すべてを損得・金銭で計り、弱肉強食のゆとりのない、ぎすぎすした、潤いのない社会をつくりだしました。医療や教育までもが「仁術」ではなくなり、「算術」になりました。人々は生活に苦しみ、将来への希望を失ない、一日に 100 人近くの人が自ら命を絶つ異常な社会になりました。

イラクへの自衛隊の派遣と「新憲法草案」の自民党大会での採択などは、憲法 9 条をまもり、平和に徹する多くの人々の琴線に触れました。日本国民の多くは憲法改悪・戦争参加への道に危機感を覚えました。いくら口で平和を唱えても、実際に戦場に軍隊を送り、それを戦争でないと強弁する政治家を人々は信じなくなりました。それを如実に示したのが今回の選挙結果でした。

新たに誕生した「 2009 年体制」は民主党と自民党のあいだ、保守党間の政権交代システムです。このシステムが今後どのようになるのかは、主権者の意志と行動によって決まります。

今回の選挙結果を議席数で見ると、民主党 308、自民党 119、公明党 21、共産党 9、社民党 7、みんなの党 5、国民新党 3、新党日本 1、新党大地 1、無所属 6、計 480 です。

前回、 2005 年 9 月 11 日の小泉さんの郵政選挙と比べて、民主党 195 増、自民党 177 減、公明党 10 減、共産党・社民党・新党日本・新党大地 0 (増減なし) 、国民新党 1 減、諸派・無所属 12 減、です。民主党の一人勝ちです。自民党・公明党の大敗です。小泉さんは公約通り見事に政権党・自民党を潰しました。

これほど大勝したのに民主党が社民党および国民新党と連立政権を組まなければならないのは、参議院において民主党が過半数の議席を有していないからです。それだけではありません。今回の総選挙で民主党は得票数で有権者の過半数の支持を得ていません。

比例区の得票数で見ると、民主党 2984 万・前回比 881 万増 (千以下切り捨て、以下同様) 、自民党 1881 万・707 万減、公明党 805 万・93 万減、共産党 494 万・2 万増、社民党 300 万・71 万減、国民新党 121 万・3 万増、みんなの党 300 万・前回なし、新党日本 52 万・112 万減、新党大地 43 万・0 (増減なし) 、改革クラブ 5 万・前回なし、です。

自民党の減った分 707 万のうち 300 万はみんなの党に投じられたとすると、実質減は 407 万、これと公明党の減った分を加えて 500 万、さらに、社民党と日本新党の減った分 183 万、合わせて 683 万がそっくり民主党に移り、さらに、新しい票 198 万を民主党が獲得したことになります。

それでも自公を合わせると、2686 万、これにみんなの党と改革クラブを加えると、 2991 万です。自公などが民主を 7 万上回っています。得票数において民主党は決して圧勝していません。衆議院での民主党の多数は少数者排除の現在の選挙制度がうみだした虚構です。

現在の日本政治の方向を決定するもう一つの重要な要素は、共産・社民・国民・日本・大地などの合計 1010 万です。これらの勢力が民主・自公のいずれにつくのかによって日本政治の方向が決まります。

今回は社民・国民・日本・大地の 516 万が民主につくことによって民主は 3500 万となり、自公などの 2991 万を抑えて政権を預かることになりました。大臣職を社民党と国民新党に一つずつ渡したのは当然です。この枠組は流動的です。

早速、衆議院での首班指名選挙で鳩山さんに民主党 308・社会民主党 7・国民新党 3・新党日本 1・新党大地 1、計 320 の他に、みんなの党 5 と無所属 2、計 7 が投票されたようです。

みんなの党はいまのところ参議院議員を持っていないので民主党の連立の対象になっていません。民主党が欲しいのは参議院議員です。みんなの党が参議院で議席を持つようになると、どのようになるか分かりません。

「綸言汗の如し」といいます。天子の言葉は汗のようなもので一度出れば、戻せないのです。君主の言葉は重いのです。公約は重いのです。

期待が大きいだけに民主党がそれに応えられなければ、次の選挙でまたひっくりかえります。

当面の問題は鳩山由紀夫内閣がいかなる政策を実行するのかです。まずは、来年、2010 年の参議院議員選挙までです。

私はじっくりと新政権の政策を観察し、時に応じ、主権者の一人として発言し、行動します。

ベトナム訪問を終えて

中西 治 (2009年9月8日 17時00分)

私たちの地球宇宙平和研究所代表団が 2009 年 9 月 1 日から 8 日間ベトナム社会主義共和国を訪問し、無事けさ帰国しました。

代表団はホーチミン (旧サイゴン) 市でバンラン大学と人文社会科学大学、首都ハノイでベトナム社会科学院を訪れ、ベトナムの現状と将来、日本の現状と日本・ベトナム関係、私たちの研究所とベトナムの大学・研究所との今後の交流について意見を交換しました。

障害者の施設や日本語を教える小・中学校を見学し、現地で活躍する日本人実業家の方々、総領事館と大使館の外交官の方々から種々お教えをいただきました。

ベトナム戦争中のホーチミン市近郊の戦場クチで、小柄なベトナム人が一人やっと通れるような狭いトンネルをくぐりました。戦争証跡博物館、水上人形劇をみました。ホーチミン廟を訪れ、ハロン湾を船で巡航し、世界遺産の景観を身近に見ました。自然がつくり出した美しさに心を打たれました。

街はオートバイで溢れています。次々と押し寄せるオートバイと自動車と自転車の大波があっという間に大洪水となり、街を埋め尽くします。それでもこれらの車は奇跡的に流れていました。私たちの自動車の運転手が危うく衝突しそうになった二人乗りのオートバイの男女に「死にたいのか」とどなっていました。私たちの車の運転手の一人も出勤途中のバイクの事故で右手の各所に擦り傷を負いながら、左手だけで右手をかばいつつ運転をしていました。人々は命がけで車に乗っています。生きています。

私はかつて東京で、北京で、上海で、武漢で交通の大渋滞を見ました。ベトナムはそれらをはるかに超えています。

200 万都市サイゴンが短期間に急速に 800 万都市ホーチミンに発展しました。急激な都市化に対策は追いついていません。交通戦争です。いまはオートバイですが、いずれ間もなく自動車です。この戦争はまだ拡大します。この戦争に勝つことが現在のベトナムの最大の課題です。ハノイの社会科学院でこの問題も取り上げました。道路の拡幅、市内環状高速道路網の建設、公共交通機関の拡充、地下鉄の建設、都市機能の分散・移転などの抜本的対策が必要です。

日本も中国も交通戦争に勝利しつつあります。米国との戦争に勝ったベトナム人民も、交通戦争に勝利するでしょう。クチでトンネルを掘ったベトナム人民です。ホーチミンでも、ハノイでも「アナ (坑) 」を掘って勝利するでしょう。

ベトナムは矛盾に満ちています。矛盾は発展の源です。ベトナムは大発展するでしょう。

ベトナム人民の平和と幸せ、日本人民との平和と友好を願っています。

私たちの研究所の活動の幅を広げようと思っています。

2009 年 9 月 8 日 17 時
ベトナムから帰国した日に

第45回衆議院議員総選挙を終えて

中西 治 (2009年8月30日 21時00分)

2009年8月30日に第45回衆議院議員総選挙の投票がおこなわれ、投票が終了した午後8時に開票を待たず、自由民主党が大敗し、民主党が大勝することが明らかになりました。

国民の多くは自民党と公明党の政権に飽き、民主党を中心とした政権を求めています。

私はこの結果を歓迎します。

民主党が勝ったのは、民主党の政策が良いからではなく、自・公政権の政策が悪かったからです。最大の悪はイラクへの自衛隊の派遣でした。主権者はこれを拒否しました。

1955年体制は半世紀以上、続きましたが、いま、完全に崩壊しました。この体制は自民党内での政権交代システムでした。

「おごる平家は久しからず」です。

民主党のいまの指導者は、小沢さんをはじめ多くは、もともと自民党の人々、それも田中派の人々です。機を見るに敏な人々です。選挙慣れした人々です。

新しく発足した2009年体制は民主党と自民党の二つの政党間での政権交代システムです。

2005年の小泉郵政民営化選挙のときもそうでしたが、小選挙区制度は劇的な結果をもたらします。少数意見をはねとばし、危険な結果をもたらす可能性のある制度です。

麻生政権下の国会運営がその例でした。参議院の反対を衆議院の多数で幾度も踏みにじったのです。

民主党はこれからどのような政治をするのでしょうか。

「前車の覆るは後車の戒め」です。

私たちは選挙のときだけではなく、常に政治を監視し、発言し、行動する主権者でなければなりません。

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