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ウェブサイトのリニューアル

遠藤 美純 (2006年8月23日 16時18分)

このたび竹本さんに代り、遠藤がウェブサイトの管理者となりました。よろしくお願いいたします。

これを期にウェブサイトに新しいコンテンツ管理システムを導入しました。登録済みの会員のみなさまが、直接コラムなどの記事を投稿できるようになります。また RSS というサイト更新情報もご利用いただけるようになりました。

なお、しばらくは新システムベースのページと従来ベースのページとが混在しますが、ご了承ください。今後ともよろしくお願いします。

深沢家土蔵を訪ねて

遠藤 美純 (2005年6月22日 0時00分)

深沢家土蔵

先月、あきる野市にある深沢家屋敷跡の土蔵を訪ねた。かの五日市憲法草案が発見された土蔵だ。以前より一度訪ねてみたいと思っていた場所だが、憲法をめぐってより具体的な議論がされるようになった今になってようやく足を運んでみた。

JR 武蔵五日市駅前の通りを上り方向に進み、最初の交差点を左折する。あとは一本道。普通な住宅地を抜け、あとはひたすらその道を数キロ進む。深沢家屋敷跡はその道の途中、こんなところにというような場所にある。門をくぐって、坂を登ると目当ての土蔵だ。

五日市憲法草案が、色川大吉氏のチームによって、この土蔵から発見されたのは 1968 年のこと。その優れて民主的な内容や、それが多摩の山村で作成されたことについては、同氏らの業績によって既に良く知られている。また憲法草案発見の経緯や、憲法草案の起草者である千葉卓三郎については、当時の色川研究室の一員として調査に参加した江井秀雄氏の著作『自由民権に輝いた青春 ―卓三郎・自由を求めてのたたかい』に詳しい。

この五日市憲法草案の特色は、人権の尊重とその具体的な規定にある。お上が臣民にこうするべしなどというものではなく、「私たち」が国家にこうすべしと命ずるものだ。その底流にあるものは国家権力への不信と、それへの抵抗の精神である。大日本帝国憲法を作った人々と五日市憲法草案を作った人々の差は、一つには権力との距離、もっとはっきり言えば殴る側と殴られる側の違いであろう。21世紀にあって日本国憲法について考える今の自分がどちらの側にいるのか、ふと考えてみたりする。

なお、この憲法草案が作成されたころ、この地は我が研究所が現在その活動の中心をおいている神奈川県に属していた。ただ、憲法起草者の千葉卓三郎 は、自らの住所を「自由権下、不羈郡浩然気村貴重番智」と称していた。その烈々たる気概、こじつけながらも同じ神奈川の地より「地球宇宙」を冠する我が研究所にも、相通じるものがあるのかもしれない。

報告要旨「1930年代における平和主義 ―アインシュタインとロマン・ロラン―」

遠藤 美純 (2005年4月25日 18時27分)

平和主義が反って戦争の危機をもたらすとの論がある。こういった論には特に戦間期の平和主義がナチスの台頭を許し、第二次大戦の勃発を促したと主張するものもある。2005年3月に山梨県石和で行なわれた本研究所の研究合宿で、私はこういった論に妥当性があるのか、また当時の平和主義がいかなるものであったのかを副題にあげた二人を中心に報告した。

まず戦間期の平和主義がナチスの台頭や第二次大戦の勃発を促したとの論についてであるが、こういった論がしばしば言及するチャーチルによる同様の発言なるものについては、発言そのものと、その取り上げられ方の問題点を指摘した。さらに、平和主義は現実の政策としては宥和政策として展開したが、これについてもさまざまな評価があることについて触れた。ナチスの台頭や第二次大戦勃発の諸要因を単純化し、その主たる要因を平和主義に求めてよしとすることは安易に過ぎる。

また、いわゆる平和主義の内実は多様であった。第一次大戦の記憶による戦争への恐怖はもちろんのことではあるが、反ソ・反共主義、階級闘争の観点、敗北主義、ヴェルサイユ条約に対する罪悪感といったさまざまな要因から、人々は平和主義へと至ったのである。人々が平和主義へと至る理由も、平和主義者を取り巻く状況も一様ではなかった。

その上で、本報告では1930年代の平和主義者として副題にあげたロマン・ロランとアインシュタインについて論及した。二人はそれぞれの分野で多大な功績を立てながらも、第一次大戦にも反対した数少ない知識人であったからである。さらに戦間期のアインシュタインの徴兵拒否運動、ロマン・ロランの戦いを超越した普遍的立場の追求は、多くの共感と支持者を得ていた。本報告では主に、ナチスの台頭により迫る戦争の脅威を目前として、二人が苦悩と逡巡を経て、非暴力闘争からナチスへの対抗へとその基軸を転換していく過程を追った。なお、質疑応答の際、当時が狂気の時代であったことは考慮されなければならないとのご指摘をいただいた。これまでの、そして現時点での平和主義の歩みを考える上でも、苦渋という言葉の重みについては十分な配慮が必要であろう。

「辛抱をして、未来を信じているほかありません。……人間はカタツムリのような歩きかたをするのですから(ザリガニのように後ずさりをしているのでなければそれでいいのです。)『それでもそれは動いている。』」

ロラン、蛯原徳夫訳「エリー・ワラック宛ての書簡 1941/2/12」『ロマン・ロラン全集 36』みすず書房、1979年、539頁。

平和主義者の苦悩と逡巡の重みには、平和を導く可能性と意義が認められるべきである。しかし、その上で、苦悩を経て選ばれる選択肢に相違があることこそ、今の私たちに課せられた問題なのであろう。