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平和主義の可能性と限界に関するメモ ーヨーロッパにおける戦争と平和を通して

遠藤 美純

平和主義における責任倫理と心情倫理

責任ある立場においては、心情倫理に導かれつつも、責任倫理に基づく行動の選択が必要とされる。しかし、戦争を容認するのが責任ある考えで、戦争に反対するのが心情的な考えとは限らない。心情倫理に基づいて戦争を起こしたり容認することも、責任倫理に基づいて戦争に反対することもありうる。

戦争と暴力の問題化

戦争や暴力を問題視するかどうかは時代や地域、立場によって大きく異なっている。その意味で、先進国などは特殊な恵まれた状況にあるが、その特殊な状況での観点を普遍的なもの・当然のものと措定すると、異なる考え方に対して説得どころか対話さえも困難になりがちである。

ヨーロッパにおける戦争と平和

二つの世界大戦を経て、ヨーロッパ諸国は平和への希求からその統合を進めたが、その一方でヨーロッパ外では多数の戦争を行なってきた。ヨーロッパの諸国家は平和主義ゆえに戦争をしない面もあるとはいえ、戦争ができないがゆえに平和主義的振る舞いをすることにも注意すべきである。平和主義は高邁な目的としても単なる政治的手段としても用いられる。

キリスト者における戦争と平和

力ある宗教・思想は、力あるゆえに社会において責任的立場に立つことになる。その意味では社会の安定のためには(極めて限られたものとはいえ)一定の暴力の行使も認めなければならなくなる。しかし、権力に近いほどまたその権力が大きいほど、実際の暴力や戦争に巻き込まれることは少なく、正当性のない暴力や戦争をも容認しがちである。

キリスト者における正戦論

正戦論には、戦争を制限する論理がかえって戦争を容認してしまうという倒錯がある。ただし、正戦論も、極端に不正な戦争を阻止しようとし、平和主義を現実的に展開するという点では一定の役割を果たしうる。正戦論そのものよりも、その論じ方やそれを論ずる者こそ問題とされるべきである。

宗教的暴動と、共同体の基本的価値

極端な暴力の発露は、突発的な異常現象とは限らない。暴力は、それを振るう者が所属する共同体に認知されると、より残酷なものとなりがちである。このような暴力をより破壊性の低いものとするには、「逸脱者」を鎮圧することよりも、そのような「逸脱者」を排除しようとする共同体の基本的価値を変えるべきである。

ヨーロッパにおけるナショナリズムと「先進国の平和」

ナショナリズムはヨーロッパにおける軍事力を強力に支えもしたが、その強力さは返って戦争を困難にしてもいる。先進国同士の戦争が少ないことはナショナリズムに負うところが大きい。

この先進国同士の戦争が起れば世界は破滅されかねないが、その発端は発展途上国への「安全」な戦争によって開かれる。日本がそのような戦争に巻き込まれるかどうかは日本国憲法第九条の存在にかかっている。

第一次大戦における社会主義と平和主義

第二インターナショナルのような平和を推進しようとする組織には、戦争の危機に直面した際、その組織そのものの存続が危機に陥る可能性が生じる。

実際に組織を作りあげ、運営している活動家は、平和という究極的価値を認めながらも、身近な問題を重視するがゆえに組織の防衛を優先する傾向にある。一方、比較的に恵まれた立場にある知識人(あるいはその予備軍)は、究極的理想を掲げうるとはいえ、身近な問題とは距離を置きがちで、それゆえ組織の防衛には無頓着である。

いずれかが正しいとの単純な判断は早計であろう。双方には双方の論理があることを認めることから議論を始めるべきである。

世界大戦と平和主義

平和主義が反って戦争の危機をもたらすとの論がある。こういった論には特に戦間期の平和主義がナチスの台頭を許し、第二次大戦の勃発を促したと主張するものもある。

しかしながら、戦争の勃発については当然さまざまな要因がある。ナチスの台頭や第二次大戦勃発の諸要因を単純化し、その主たる要因を平和主義に求めてよしとすることは安易に過ぎる。

さらに、平和主義が戦争を起こすという論は翻って、想定される敵国に平和主義があれば戦争は起こりえなかったとの矛盾する結論を導くのである。

戦間期における平和主義者

実際に戦争が勃発したときに平和主義がなしうることは相当に限定的なものになる。「狂気の時代」においては、高名な平和主義者さえも戦争や暴力を認めざるをえない状況におかれた。

その意味で、平和主義の運動が成果を残せるのは、なによりも戦争が起きる前である。現にさまざまな活動がこれまでも行なわれてきたが、その基礎となるのは党派を越えた平和主義の連帯とその拡大であろう。

軍事的介入の正当性と正当化

極端な暴力を阻止するために、一定の武力行使が必要とされることはあったし、今後も可能性としてはある。これは隣人愛が正戦を要請する局面である。

しかし、そのような極端な状況に陥るまでの過程に目を配れば、それが不可避のものであったとは必ずしも言えない。そのような状況に陥ったがゆえに不可避のものとされたり、不可避のものとされるがゆえにそのような状況に陥ったりする。重要な問題は紛争当事者以外にもある。

紛争という問題を幅広く捉えていくことが必要である。その意味で、紛争において「悪」と認定されるような一方の当事者の声にも耳を傾けることが重要である。

発展継続国、フィリピン・マニラを訪れて

遠藤 美純

IMG_4228今年2013年の8月4日から11日までの8日間、研究協力者となっているプロジェクトのIT関連産業の調査に同行し、初めてフィリピン・マニラを訪れた。東南アジアの訪問も初めてであった私には、見るものすべてが新鮮で刺激的であったが、最も印象的だったのは想像以上の豊かさと貧しさ、その格差であった。

短い訪問ではもちろんその実情は分からないが、その貧しさは、路上生活やいわゆるスラム街など目に見える形ではっきりしたものであった。いかほどのお金が稼げるのだろうか、衛生的とは言えない環境下で、自ら仕事を作って生きている人々がいた。そして、その貧しさには、目も眩むような豊かさが隣接していた。東京の丸の内のようなマカティ地区、青山や六本木のようなボニファシオ地区やイーストウッド地区など、先進国と同じかそれ以上の景観があった。そこに展開する巨大なショッピングモールは、日本の郊外型ショッピングモールの数倍の規模で、超高級ブランドから、電化製品、高級マンションの営業まで幅広い商品が備えられている。さらにそのようなモール群が、市内のあちこちに点在しているのである。その規模も質も日本人の平均的想像をはるかに越えていると思う。生活物資は安価なフィリピンでも、ブランド品は日本での価格とそこまで変わらない。にもかかわらず、夜遅くまでショッピングや食事を楽しむ多くの人々でにぎわっていた。この光景はマニラ郊外にも広がりつつある。

フィリピンでの大卒初任給は、日本円にするとおよそ2万円半ばから4万円程度だと聞いた。大規模な消費を支えることのできるような給料ではないだろう。その消費を支えている一つには、国民労働者の10分の1を占めるという海外出稼ぎ労働者からの送金がある。空港に専用の入口や窓口が用意されるほどのこの「基幹産業」がここ数年好調だと言う。また、今回の調査の対象となったIT関連産業の成長もある。ITおよび通信技術の発展によって、高い外貨獲得能力をもった労働者が直接海外に行くのに加え、細分化された業務が世界各国からフィリピンに外注されるようになっているのである。今回の限られた調査・インタビューの中でも、その成長をかいま見ることができた。

ソフトウェア産業やハードウェア産業では、下流工程にとどまらず、上流工程を担うフィリピン企業も少なくない。半導体集積回路の設計をする有力企業があるとも聞いた。2015年のASEAN経済統合を視野に入れた事業が展開され、その下流工程が外部発注される勢いである。さらに、大変活況なのがコンタクトセンター事業である。電話によるコールセンターに、メールやチャット、Facebookのような文章などのやりとりを加えたのが、コンタクトセンターである。英語に堪能で、サービス業に向いたフィリピンの労働者が、一定の技術的知識を獲得したとき、アメリカ合衆国はもちろん、世界中の短時間知的コンサルタントを一挙に担うというのである。2000年代半ばから倍増しているその雇用は、リーマン・ショックによってかえって拡大し、数年後には100万人規模のフルタイム雇用相当にまで達すると言う。フィリピンとアメリカ合衆国を直結する光ファイバーが引かれ、さらにフィリピン諸島間にも通信網が築かれている。マニラ以外の各地にも事業が展開され、有名な観光地セブ島には数万人規模のコンタクトセンター事業がある。そして、すでにフィリピンでの人件費は上昇し始め、その人件費のコストメリットは、ペソ高と相まって低下しつつさえあると言う。フィリピンでも労働の高度化が求められるようになっている。フィリピンでの産業は、知識情報型産業へと一気に展開しているかのようである。インタビューに応じてくれた企業や関連団体の人々の話には営業的側面もあったろうが、自信に満ち、仕事が楽しくてしょうがないといったその様子が印象的だった。

フィリピンは、日本では発展途上国と見なされている。先進国に追いつこうとするその途上にある国というわけだ。しかしフィリピンの現状はそう単純なものではないようである。国内の極端な貧富の格差は、同じ国に二つの世界があるかのようである。ゴミを拾う人もいれば、ゴミを捨てる人もいる。高級住宅街はその全体が高い塀に囲まれ、一般的な家屋でさえ高い塀と鉄条網を備えている。マニラには壁が多い。しかし、フィリピンの貧しい地域でさえ、ここ数年で環境はよくなりつつあると言う。マニラ市内ならば裏道も舗装され、ゴミの回収もある程度されているようだった。フィリピンは、急激な発展のさなかにあり、一部はいわゆる先進国を追い越してその先にさえ行こうとしている。

発展途上国を英語ではdeveloping countryというが、フィリピンは発展途上国というよりも、この言葉通りに現在進行形で発展し続けている発展継続国であるようだ。人も社会も若い、これからの国である。一方、先進国を英語ではdeveloped countryと言う。直訳すれば発展済みの国であるが、発展の伸び代のない国なのかもしれない。さらに、最近の日本では、貧富の格差の拡大や、それに伴うセキュリティや相対的剥奪に関わる不安が、将来の展望として語られることがよくある。その極端な未来像は、今のフィリピン・マニラにあるとさえ言えるのかもしれない。

書評 デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫、2004年)

遠藤 美純

「あなたは敵兵と銃を持って向き合った。あなたは撃つか。それとも撃たれるか。」という問いかけがある。これは一つのジレンマであり、ゆえに「だから戦争はいけない」という倫理的主張でしか応えられないかにも思える。しかし、戦場の実際は、この問いの立て方そのものに問題があることを示している。敵兵と向き合ったとき、兵士は何をなすのか、何をなせるのか。本書では、心理学者であり、歴史学者であり、軍人であった著者が、兵士からの直接の聞き取りや、豊富な事例、統計に基づき、戦争における人殺しの実際を明らかにする。そこでは、なぜ人は人を殺せるのかが問われるとともに、人はなぜ人を殺せないのかが問われる。というのも、戦場において兵士が敵兵を殺せなかったという歴史的事実が数多くあるからである。本来的に、人は人を殺せないようにできているのである。

第二次世界大戦下の米軍兵士の発砲率はわずか15~20%であった。実に80%以上の兵士が敵兵に向かって銃を撃つことができなかった。発砲は自由意志の制御の下にはないのである。このことは米軍だけでなく第二次世界大戦下のあらゆる軍の兵士に当てはまるという。さらに、発砲した場合もその弾のほとんどは敵に当てられなかった。発砲者は故意に的を外すのである。接近戦が長引き、敵味方が互いに知り合ってしまうようになると、殺し合いができなくなることもしばしばあった。驚くべきことに、第一次世界大戦中1914年のクリスマスに、軍司令部の掛け声もむなしく、前線のイギリス兵とドイツ兵はプレゼントを交換し、写真を撮り合い、サッカーの試合さえしていた。人には人を殺すことへの強烈な抵抗感が本来的に備えられている。人は、自分の命を落とすこと以上に、敵兵を殺すことを恐れるのである。さらに、敵兵を殺さないことで恐れるのは、自分の命を落とすことよりも、戦友である味方が殺されることであった。撃つに耐えられず、撃たざるにも耐えられない。後悔や自責を感じずに人を殺すことができる兵士はわずか2%に過ぎない。それも人殺しを好むような精神病質者ではない。強制された場合もしくは正当な理由を与えられた場合に、強烈な抵抗感なしに人を殺すことができるというのが、この2%なのである。

先の「撃つか。撃たれるか。」という問いは、「撃てるか。撃てないか。」と問われるべきである。またそのジレンマは、自分の生命と敵兵の生命との間のジレンマではなく、敵兵の生命と味方の生命との間のジレンマなのである。そして、第二次世界大戦以前、ほとんどの兵士は銃の発砲によって敵兵を殺すことができなかった。戦場に行き、そこで敵に銃を構えて撃ったとしても、人は最後の最後で良心的懲役拒否者となりうる。これは人という種に対する希望であろう。

もちろん、実際の戦争では多くの兵士が殺し、民間人を含め殺されている。凄惨な虐殺も起こる。では、本来的に人を殺せない存在である人が、人を殺せる条件とは何であろうか。大きく三つある。一つ目は権威者の要求である。兵士の発砲理由に関する研究によれば、発砲の最大の理由は「撃たないと撃たれるから」ではなく、「撃てと命令されるから」であった。第二次世界大戦の事例において、戦闘中に指揮官がその場を離れると発砲率は15~20%低下した。人には人に服従したいという欲求がある。国家の正統な権威に基づく合法的な要求に、人が抗うことは難しいのである。

二つ目は集団免責である。一人では殺せないが、集団なら殺せるのである。戦場において人を殺す第一の動機は、自己保存本能ではなく、戦友に対する強力な責任感である。互いに強く結びついた集団内においては、同輩の圧力が働くものである。ましてや、命を互いに託すような軍隊における戦友との結びつきは、特別な愛情の一種として、強力に人に働きかける。さらに、集団は匿名性の感覚を育てることで人殺しを可能にする。複数人で操作する古代の戦車や、現代の機関銃などは、その武器としての威力はもちろんであるが、何よりも集団で操作することによって、敵兵を殺す抵抗感を薄めることに大きな意味があった。

三つ目は犠牲者との総合的な距離である。相手の顔を見たら、目を見たら殺せない。逆に相手が背中を見せて逃げた場合は殺せる。これは本能的なものである。その意味で物理的距離の存在は、人殺しにおける抵抗感の低下に重要な役割を果たす。そして、この距離は人にとって心理的なものである。そのような心理的距離には、人種・民族の違いから相手の人間性を否定するという文化的距離、自らの倫理的優越・正当性を信じることによって生じる倫理的距離、特定の階級を人間以下とみなす社会的距離、大砲や爆撃機、ディスプレイなどを介する機械的距離がある。いずれも相手が人であることを忘れさせることで、人殺しの可能性を高めるのである。

そして、人が人を殺せる条件を知ることは、その条件を用意すれば人が人を殺せるようになることを意味する。第二次世界大戦後、軍上層部に非発砲者の存在が明らかになると、この問題は急速に解決が進められる。人の本質が変えられようとしたのである。米軍において第二次世界大戦下に15~20%であった発砲率は、朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90~95%へと「向上」される。そこで導入された新たな訓練方法は、脱感作、条件付け、否認防衛機制の三つの組み合わせであった。

一つ目の脱感作とは、殺す相手を同じ人間とみなすその感覚を捨てること、すなわち心理的な距離を人為的に作ることである。「殺せ、殺せ、殺せ」と唱えながら走り込みを行うような訓練プログラムはその代表的なものである。スタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』では、その主要なシーンは内地における異様な訓練であった。しかし、それこそ現代戦争の要である、自国の兵士に対する心理戦なのである。二つ目の条件付けとは、パブロフの犬のような、特定の刺激に一定の反応を条件づけることである。定期的に飛び出たり、引っ込んだりする人型の標的を用い、それを目にした瞬間に考えることなく反射的に銃を撃てるように訓練するのである。三つ目の否認防衛機制とは、この条件付けの副次的な効果である。訓練を繰り返すことによって、実際の戦闘において人を殺しても、自分が実際に人を殺しているという事実をある程度否認できるようになる。敵は人ではなく、訓練における単なる標的なのだと思い込もうとし、自らの精神を防衛するのである。

このような人殺しを可能にするさまざまな要因や訓練は、人殺しに対して人が備えている強烈な抵抗感を実際に回避させた。しかし、人が人を殺せないという本質までは変えられなかった。結果として、それには途方もなく高い代償がついた。回避された抵抗感は、後に大きなトラウマとなって兵士に、そして社会に背負わされたのである。発砲率が極めて「向上」させられたベトナム戦争はまさしくそういう戦争であった。ベトナム帰還兵の多くがPTSDに苦しめられた。さらにそれに追い打ちをかけたのが、その苦しみを認めない社会的圧力であった。ベトナム戦争が不正義な戦争とみなされることによって反戦運動が高まると、前線の兵士には恋人や時には妻さえからも絶縁状が送られ、帰還兵は唾を吐かれた。戦場における人殺しのプロセスとその代償の大きさを、社会こそ理解しなければならない。

さらに、兵士の訓練プログラムと同様の脱感作や条件付け、否認防衛機制は、テレビや映画やゲームといったメディアを通して、一般社会にも深刻な影響を及ぼしていると著者は警告する。人殺しを可能とする技術を社会は遠ざけなければならない。このことは、例えば死刑制度や安楽死・尊厳死に関しても、その死をもたらす側の問題という新たな視角を提示するであろう。人はなぜ人を殺せるようになるのかを理解することによって、人を殺すプログラムが生み出された。同様に、人はなぜ人を殺せないのかを理解することによって、人を殺せなくするプログラムを生み出すことも可能である。人殺しの心理学の必要性はここにある。戦争における人殺しには、人の本質と、その変容が見て取れる。本書は戦争について、そして人について学ぶための必読書である。

最後に、最初の問いに戻ってみよう。「あなたは敵兵と銃を持って向き合った」そのとき、どのような行動の可能性があるのだろうか。最悪の行動は、敵兵に背中を見せて逃げ出すことである。敵兵はあなたを撃つであろう。互いに生き残ることは、条件付けの訓練がなされている現代では困難である。しかし、いくつかの条件が重なり、かつ例えばわずかでも互いに躊躇する間が空いたような場合には、双方ともに生き残ることは不可能ではない。不用意な行動を避け、まずは相手の顔を見る。目を見る。その時間を長くする。それから、そのまま互いに後ずさる、あるいは一歩を踏み出し、敵兵に声をかけ、煙草を差し出すのである。そして、このような光景は第二次世界大戦以前にはしばしば見られたのであった。

書籍紹介: 中西治『ロシア革命・中国革命・9.11 ―宇宙地球史の中の20‐21世紀』

遠藤 美純

はじめに

私たちが生きるこの21世紀初頭は、大きな転換を遂げつつある特別な時代に思われる。いやそう思い知らされているのかもしれない。かつての当たり前が通用しなくなることは、しばしば神話の崩壊に例えられてきた。しかし、この変化の原動力は人間である。科学技術とナショナリズムが人間の力を増大させ、グローバリゼーションが人間の力の新たな接触をもたらしている。

本書は、本地球宇宙平和研究所の中西治理事長の11冊目の著作である。本書の出版にあたって、私はその編集・校正でお手伝いをさせていただいた。ここでは本書の内容と意義について若干の解説を加え、大著である本書の読みどころをページ番号を付して紹介したい。

現代における大転換と革命、そして人間

「現代」とはいかなる時代か。著者は「工業革命から運輸通信情報革命にいたる一連の科学技術革命が急速に進展し、同時に独立革命と民主主義革命が進行し地球が一つの人類共同体に成りつつある時代」(pp.121-122)とする。科学技術によって水平・垂直両方向に人間の結びつきが拡大された。その拡大のあり方は科学技術などの進度によって制約されてきたが、主権国家とナショナリズムは一定の地域統合と平和をもたらし、その枠組みがグローバル・スタンダードとなることで地球上は主権国家システムで覆われた。著者はこの現代の始まりを1776年のアメリカ独立宣言と1789年のフランス人権宣言に見る。外部からの政治的従属を脱するという独立革命は約200年かかって公式には地球上でほぼ完了する。内部における一方的な政治的従属を脱するという民主主義革命はいまだ進行中である。さらに1917年のロシア革命が平和の問題と経済的従属の問題に焦点を当てた。いずれの革命も科学技術の発展と社会の変化に対応した国内秩序、国際秩序をつくりだそうとする試みである(pp.249-250)。

私たちが生きる21世紀はこの変化と革命の延長線上にある。しかし、20世紀後半からの科学技術のとりわけ急速な革新は、人間の生き方についての考え方とそれとの間のギャップを著しく増大させている(p.19)。戦争技術の発展はその最たるものである。ナショナリズムの規模とグローバリゼーションとの衝突も顕著になった。地球規模の問題が極めて重要になっている。人間は地球の外に一歩を踏み出してもいる。脳科学などの新たな研究は人間や世界といった概念そのものを根本から揺るがしかねない。これまでにない大きな変化に対しては、これまで以上に大きな枠組みでの捉えなおしと取り組みが必要である。「21世紀は人間・科学技術・社会の総合革命が進行する時代である。」「21世紀は20世紀までとは質的に異なる社会を作り出す時代」であり、「それにふさわしい智恵と知識と技術をあわせもつ人間」が必要とされるのである(p.250)。

総合史としての宇宙地球史

本書は二つのアプローチからこの問題に取り組む。一つはより大きなアプローチである。国民国家を世界の単位とする国際政治学・国際関係論を遥かに超え、本書は総合史としての宇宙地球史を提唱する(p.66)。グローバリゼーション(地球一体化)に加えてコスモナイゼーション(宇宙一体化)という概念が提示され、そこに私たちが生きる 20‐21 世紀が位置づけられる(pp.120-122)。本書では宇宙・地球・生命の誕生(第3章)から、思想家・宗教家による宇宙観・世界観(第4章)や、グローバル・ヒストリーの業績(第2章)までが網羅的に取り上げられる。本書が描くのはいわゆるグローバル・ヒストリーをも超えるビッグ・ヒストリー(大きな歴史)である。本書はこうした取り組みに関する総合的かつ入門的な単著として、日本における最初の一冊である。

ここで大きく提示されるのは、客観世界における脱人間中心主義であり、主観世界における人間中心主義である。前者によれば、人間はビッグバン以降に生じた元素によって構成された生物の一つに過ぎない。人間という存在は宇宙・地球に依存する。人間は万物の霊長ではないのである(p.367)。しかし、人間にとって人間は重要である。著者の歴史的評価における多数者の重視(p.33)や、理論における論者のポジショナリティの重視(p.361)、人間が神や仏を作る(p.16)といった考え方は後者によるものである。

ロシア革命・中国革命・9.11

その一方、本書ではこのような大きな歴史の中で、20‐21世紀の大きな具体的出来事、ロシア革命(第5 章)、中国革命(第6章)、9.11 (第8章)ならびにその淵源としてのイスラエル建国(第7章)に検討が加えられる。これが本書のもう一つのアプローチである。その問題関心は、資本主義やナショナリズムなどによって分断された現代世界の統合と平和、その可能性の模索にある。

ロシア革命はアメリカ独立革命、フランス民主主義革命の延長線上に、新たに平和と社会主義の問題を提起するものであった(p.249)。それは資本主義がもたらしてきた世界の従属関係を新たに再構成しようとする試みであったがゆえに、20世紀における転換点となるものであった。共産主義の社会主義からの決別は、第一次大戦に反対したかどうかにあった。ナチス・ドイツに対する勝利へのソヴェト連邦の功績は決定的なものであった。さらにソヴェト連邦は宇宙に初めて人間を送り込んだ。だが、ソヴェト連邦は平和時における市場化・情報化に失敗し、人々の支持を失い崩壊した(p.243)。独立革命として始まった中国革命はその教訓に学びながら、工業化・市場化を進めている。アメリカ革命・フランス革命を含め、いずれの革命もまだ終わっていない未完の革命である。

イスラエル建国は9.11の淵源の一つであるが、それにはソヴェト連邦のスターリンとモロトフが大きな役割を果たした(p.344)。ソヴェト連邦はナショナリズム・ファシズム・レイシズムに対するオルタナティブを体現しようとしていた。しかし、イスラエルが建国されると、ソヴェト連邦のユダヤ人はソヴェト連邦を捨てイスラエルへと移住した。スターリンは裏切られた思いをした(p.350)。インターナショナリズムにナショナリズムが優ったのである。時代はナショナリズムの時代であった。

21世紀に至り、9.11はグローバリゼーションの結果を十二分に利用して計画され、組織されて、実行された。それへのアメリカ合衆国の対応は、アフガニスタンやイラクを攻撃するという旧来の対応であった。著者はアメリカ独立革命から現代が始まると考えるが、そのアメリカ合衆国が古さを体現し、9.11実行者が新しさを体現している。その意味で9.11は20世紀までの歴史と、21世紀以降の歴史を分かつ出来事なのである(p.362)。

おわりに

大転換の時代は、物質的・経済的な苦しみとともに、今までの信念体系の崩壊という精神的な苦しみをももたらす。なぜ自分だけが、なぜ今になって……、そう問わざるをえない裏切られたとの思いは、ときに陰謀論に回収されもする。しかし、そのときにこそ、宇宙地球史の中に20‐21世紀を論ずる本書は、新たな旅立ちのための灯明となるだろう。

母が1945年8月15日の玉音放送直後に「三代目は国を滅ぼしましたね」と父にひそひそと語っていた。これは驚きであった。私にとって昭和天皇は神武天皇以来124代目であったが、明治生まれの両親にとって昭和天皇は明治・大正に続く三代目であった。母のこの言葉が私の戦後思想への旅立ちとなった(p.12)。

確かに現代の私たちはある種の行き詰まりに至っているのかもしれない。しかし、その行き詰まりに気付くところに、新しい思想そして新しい時代への旅立ちがある。万物は流転する。その意味で絶対というものはない。今はとりわけそういう時代である。新しい宇宙地球時代にふさわしい人間が求められている。

第二次大戦と平和主義者の選択 ―アインシュタインとロラン―

遠藤 美純

はじめに

平和なときに,平和を訴えることは容易い。しかし,戦争が差し迫ると,平和を訴えることは困難なものとなる。ましてや自らが戦争状況に巻き込まれている中にあって平和を訴えることは,自らの命を顧みない行為となる。

ここでは第二次大戦の脅威に対する二人の人物の具体的な行動を振り返り,その平和主義の可能性と,その可能性を制限する条件について考察する。取り上げる人物は,アルベルト・アインシュタイン (1879-1955) とロマン・ロラン (1866-1944) である。二人は第一次大戦に反対しつづけた数少ない著名人であり,それゆえ第一次大戦後の平和運動における中心的な人物となったからである。

戦争を目前にして,平和主義者は何をなしうるのか,あるいは何をなす者が平和主義者と言えるのか,戦争下における二人の行動の軌跡を辿って考えてみたい。

1.第一次大戦下,アインシュタインとロランの出会い

第一次大戦と第二次大戦とにおいて,平和主義運動のおかれた状況は大きく異なっていた。第一次大戦を目前にして,共産主義者の他には一貫して戦争に反対した人はさほど多くなかった。ヨーロッパにおいて戦争は約40年間起こっておらず,戦争は冒険的なものとして多くの人々を駆り立て,その中にあって平和主義者は少数派であった。一方,その第一次大戦の甚大な被害を前にして,平和主義あるいは戦争嫌いというものがイギリス,フランスといった戦勝国はもちろん敗戦国であったドイツにおいても多くを占めるようになる。このとき平和主義者は多数派であった。このように異なる状況にあって,第一次大戦下と戦間期のいずれにおいても,一貫して戦争に反対した平和主義者は多くはない。ここで取り上げるアインシュタインとロランは,その数少ない人物であった。

第一次大戦勃発時,ロランは『ジャン・クリストフ』などの執筆によって,既に世界的に著名な作家であった。彼は戦争勃発時に滞在中のスイスから,フランス・ドイツ両国に戦闘の中止を訴えつづけた。戦争を超えて,普遍的な真理と人道を追い求めた彼の論は,論文集『戦いを超えて』にまとめられ,1916年にはノーベル文学賞を受賞する。ただ,国際的に高い評価を受けながらも,実際に戦争を行っている祖国フランスやドイツにあって,彼は非難の対象としかならなかった。

一方,アインシュタインは1915年から翌年にかけて発表した一般相対性理論が1919年の日食観察によって証明されることによって,世界で最も有名な科学者となる。そして彼はドイツにあって戦争に反対した数少ない知識人,大学教員であった。1914年,ドイツの知識人93人によって国家主義的な傾向の強い「文明世界への提言」が発表された。ゲオルグ・フリードッリヒ・ニコライはこれに対抗して「ヨーロッパ人への宣言」を起草するが,この宣言に署名したのはわずか3名であった。アンシュタインはその一人であった。志を同じくする人々とともに新祖国同盟を組織し,フランス・ドイツ両国の平和のために奔走していた。

この二人が初めて出会ったのは,第一次世界大戦の最中,1915年9月16日のことである。アインシュタインが初めてロランに手紙を送り,スイスのヴヴェイにロランを訪ねたのである。

「新聞を通し,また強固な新祖国同盟との私の結び付きによって,あなたがいかに勇敢に,全身全霊を傾けて,仏独両国民間の運命的な誤解を解くために献身しておられるか,私は承知しております。……もしいささかでも私が貴方のお役にたちうるとお考えなら,――と申しますのは私の現住地の故に,あるいはドイツおよび海外の科学者と私は関係がありますので―― 私の力のおよぶかぎり,お役に立ちたいと存じます。」[アインシュタイン: ロマン・ロランへの最初の書簡 (1915年2月22日)]

その出会いの印象をロランは日記に書き残している。

「大学のあらゆる科学教授は,先頭に立って軍に協力しているか,あるいは委託を受けている。アインシュタインだけが,それに加わることを拒否している。」[ロマン・ロラン: 1915年の日記]

このとき,アインシュタインは36歳,ロランは48歳 であった。二人は第一次大戦から戦間期にかけて,それぞれが反戦運動の流れの中で中核的な役割を果たしていく。第一次大戦後,ロマン・ロランが起草した『精神の独立宣言』(1919) は,第一次大戦における知識人のあり方を反省し,個人における精神の自由と普遍的な真理の尊重,ユマニテ (人間性,人類) 全体への奉仕を呼びかけた。アインシュタインも署名している。

しかし,二人はいかにして平和を築いていくのかという点で,互いに異なる道を歩んでいくこととなる。懲役拒否運動で平和が達成されると考えたアインシュタインに対して,ロマン・ロランは戦争を起こす構造そのものを革命によって変えていかなければならないと考えた。ロマン・ロランは当時の多くのヨーロッパの知識人と同じく,ソビエト連邦の社会主義革命に大きな期待を寄せていたのである。二人は非公式なところでは互いに批判もしていたと伝えられる。

なお,二人とも第一次世界大戦の際は,いわゆる絶対平和主義者であった。暴力はどんなことがあろうとも絶対にわずかながらも許されてはならないと考えていた。しかし,ナチスの台頭はこうした純粋な考えを打ち砕くことになる。

2.アインシュタインの選択

第一次大戦後,アインシュタインは懲役拒否運動に平和構築の道筋を見出そうとした。この懲役拒否運動に関する彼の講演は欧米を中心に各地で行われ,大きな反響を呼ぶことになる。

「真の平和主義者は兵役義務を拒否しなければなりません。……兵役につくよう指名された人々のうち,ほんの二パーセントが戦争拒否を言明するとともに,国際間の紛争を解決するのに戦争以外の方法を勧告するだけでも,政府は無力となり,これほど多数の人々を刑務所に送ることは,あえてしないでしょう。」[アインシュタイン: ニューヨークでの講演 (1930年12月14日)] (51歳)

だが,この運動に対してロランは冷ややかだった。2パーセントの世界の人々が闘うことを拒否しても戦争は決してなくならない,そう考えていた。戦争というものが1914年を境に,軍人,民間人を問わず死の雨にさらすように,量的にも質的にも大きく変化していることをアンシュタインは見落としていると考えていた。そして,ロランが予見したように,ナチスの台頭はアインシュタインに根本的な転換を強いることになる。アインシュタインはしばらくの沈黙を経て,自身の転換をこう表明した。

「私がお伝えすることは,たいへんあなたを驚かすことでしょう。ごく最近まで,個人の戦争反対抵抗が,ヨーロッパの軍国主義に対して効果のある攻撃となることを,期待できた時代でした。しかし今日,我々は全く違った情況にあります。……私は,明らかに次のように申し上げます。『今日の情況下では,私がベルギー人であったら,兵役を拒否せず,ヨーロッパ文明を保持するという意味で,喜んで引き受けるでしょう。』と。」[アインシュタイン: アルフレ・ナオンへの手紙(1933年7月20日)] (54歳)

このアインシュタインの転換はそれまでの彼の平和運動を根本的に否定するものであった。当然彼の協力者や支持者らの運動に深刻な混乱がもたらされた。しかし,彼は厳しい批判にさらされながらも,ナチスとの戦争を避けてはならないと訴えたのである。ナチスが政権を獲得した1933年1月末から約半年後のことである。後にはアメリカ大統領に原子爆弾に関する研究を進めるよう求める手紙にサインさえもした。

では,彼はなぜ転換したのだろうか。そのきっかけは何だったのだろうか。後に篠原正瑛との原子爆弾製造の研究を薦める手紙をめぐるやりとりの中で,自らは絶対的平和主義者ではなく,確信を持った平和主義者であると断った上で,こう記している。

「たとえ私が確信を持った平和主義者であるとしても,私の考えるところでは,暴力を用いて差し支えない余地が残されているということです。ある敵が,全く何の理由もなしに私と私の家族に対して危害を加えようとする場合には,私にこのような余地が残されていると思う。しかし,その他の場合については,国と国との間の争いを解決するために暴力を用いることは,私は不当であり,かつ有害であると考えています。」[アインシュタイン: 篠原正瑛宛の返信 (1953年2月22日)] (73歳)

ナチスが政権を獲得すると,政府によるユダヤ人差別政策は確実に進行していた。アインシュタインが海外に渡航中,彼の自宅 (別荘) は家宅捜査され,彼は自らと自らの家族に危険が及ぶことを知った。彼は海外からドイツに戻ることを断念せざるを得なくなった。正当な理由なく危害を加えられ,暴力によってのみしかそれを防げない,そのような極限状況があった。家族や隣人を含む自衛のため,隣人愛によって要請される正戦を彼は否定しなかったのである。

3.ロランの選択

アインシュタインの転換をロランは痛烈に批判した。アインシュタインの見通しのなさは,前途多望な若者を安直な懲役拒否運動というまやかしに連れ込んだと,日記の中にこう記している。

「かかる精神の弱さが,一人の偉大な科学者の精神にみられるとは,まことに信じがたい。彼はその確信を人々に示すに先だって,細心に実験して提示したはずだ。それが危険でもなく責任もない,知的遊技である諸々の時期に,良心的抵抗を保持することは,ざれごとにすぎない。不測のことを前もって慮らずして,盲目的で信じやすい若者をそこに連れ込むことは,強く非難されるべきである。……アインシュタインの知性は,自然科学の領域では天才的であるが,それ以外の一切においては,きわめて脆弱で曖昧,一貫性のないものであることは,私にはあまりにも明瞭である。」[ロマン・ロラン 1933年9月の日記] (ロラン 66歳,アインシュタイン 54歳)

アインシュタインが懲役拒否運動を推進しようとしたのに対して,ロランは戦争を起こす構造そのものを革命によって変えていかなければならないと考えていた。その一つの軸はガンディーの非暴力不服従運動に,もう一つの軸はソビエト連邦の社会主義革命に置こうとした。革命による反ファシズム闘争の組織化,それによる社会革命を志向したのである。しかし,暴力の完全な排除という彼の出発点も,かなり早い段階で方針の転換を迫られつつあった。

ロランにとっての転機がいつあったのかは明確ではないが,1930年代初頭には非暴力運動のみで平和を貫くことの困難さを認識していたと思われる。ロラン研究者のデュシャトレは,ロランが非暴力そのものの価値を高く評価しつつも,それがインドでは可能でも西欧では不可能だと考えたことが,彼の大きな転機となったと指摘している。彼は非暴力の限界を認め,非暴力と暴力の結合を訴えるようになる。

「現前の大きな敵で侵略者はファシズムです。それはあらゆる国のすべての自由を短時日のうちに滅ぼそうとしており,その国々にさまざまな形で入り込んでいるのです。われわれの第一の義務は,ファシズムに対抗して同盟を結ぶことです。私は非暴力者と暴力者との『結合』を唱えますが,それは私の念願なのです。」[ロラン: ジョルジョ・ピオック「平和闘士国際連盟」会長宛ての書簡 (1932年4月13日)] (65 歳)

さらに,1938年から1939年ごろに決定的な転換が訪れる。ミュンヘン会談 (1938年9月) から独ソ不可侵条約 (1939年8月) を経て,ロランは戦争と平和に関する積極的な発言を避けざるをえない状況に陥った。第二次大戦の脅威を前にして明確に反戦の声をあげることはせず,公に戦争に関する発言を行ったのは,1941年に独ソ戦が勃発してからであったとされる。

彼はソビエト連邦との接触の中で,ロシア人女性マリーと結婚をしていた。ドイツとソビエト連邦が第二次大戦初期に不可侵条約を結んでいたために,ドイツとの戦争を批判することは,ソビエト連邦を批判することであった。彼女とその息子がロシアにいたために,彼女らの身の安全を守る必要がロランにはあった。またスターリンの粛清という恐怖政治に気付きながらも,ソビエト連邦へのシンパシーをなかなか捨てられずにもいた。1914年には,彼は「戦いを超えて」と人々に訴えることができた。しかし,1938 年には公にそれを訴えることはできなかったのである。このときロランは 72 歳であった。彼は1944年12月30日に戦争終結を前にして亡くなっている。

「辛抱をして,未来を信じているほかありません。……人間はカタツムリのような歩きかたをするのですから(ザリガニのように後ずさりをしているのでなければそれでいいのです。)『それでもそれは動いている。』」 [ロラン: エリー・ヴァラック宛ての書簡 (1941年2月12日)]

おわりに

アインシュタインとロラン,著名なこの二人の平和主義者は,初期の絶対的平和主義の立場を離れ,後にはそれぞれナチスとの戦争を支持した。これはどのように評価されるべきであろうか。二人には他の選択肢がありえたのだろうか。二人を批判することは容易いことである。しかし,他の選択肢とはより高い可能性で死を招くものであったことを忘れてはならない。それも自らの命のみにとどまらない死である。戦争という状況下で平和を訴えるとはそういうことなのである。

本当に戦争になったとき,それは狂気の時である。アインシュタインとロランの生きた 1930年代も狂気の時代であった。平和主義者の選択を考える際,このことを忘れてはならない。あらゆる暴力を否定する絶対的平和主義は,狂気の時代において翻って狂気とされる。絶対的平和主義を貫徹させることは,自らの命を捨てるにとどまらず,家族など身近な人々の命も犠牲にせざるをえなくなる。アインシュタインもロランも自らの命ではなく,家族や隣人の命のため,批判を承知で自らの心情倫理を押しとどめたのである。もしこの選択を臆病なものと評価する平和主義的見方があるならば,それは平和主義者とその身近な人々の死を所与のものとする,あまりに偏狭なものではないだろうか。極限状況とは選択の許されない状況である。戦争が起きてしまえば,平和主義になしうることは本当にわずかしか残されていない。戦争状態とはすでに平和主義の敗北なのである。

平和主義の運動が実質的な効果を上げうるとしたら,それは戦争が起きる前である。できるときにできることをしなければならない。そして,その上で,もしも危機的な状況になれば,私は迷わず生き残ることこそが最優先されるべきだと思う。戦争が起きたら逃げるべきである。一人でも多く逃がすためにそうすべきである。

このような状況を今日の日本では経験することはないように思われるかもしれない。しかし,世界の紛争地域では今も現実の問題である。綺麗事だけではすまされない。アインシュタインにしろロランにしろ,苦悩し,逡巡したであろう。抗いがたい狂気という現実を前にしたその苦悩には,その時は不可能でも,未来を導く可能性が秘められているはずである。そして「私」には「私」の選択があるはずである。正しい答えなどないかもしれないが,だからこそ考えなければならい。アインシュタインとロラン,二人の選択から学ぶべきはこのことではないだろうか。

参考文献

ロマン・ロラン『ロマン・ロラン全集 18: 社会評論集』みすず書房、1959 年。
ネーサン、ノーデン編、金子敏男訳『アインシュタイン平和書簡 2』みすず書房、1975年。
金子務『アインシュタイン・ショック 2』河出書房新社、1981年。
ベルナール・デュシャトレ、村上光彦訳「ロマン・ロランをめぐって ―デュシャトレ教授に訊く」『ユニテ』22号、1995年。

平和主義における信条倫理と責任倫理

遠藤 美純

戦争と平和の問題を前にして、人はいかに振る舞うべきなのだろうか。とりわけ戦争に直接関わらない現代日本のような平和な社会において、何を基準として戦争に対する態度を決めればよいのだろうか。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』において、人として行うべきことがどのような基準で選択されるのかを、信条(心情)倫理と責任倫理という二つの対立する基準から論じている。信条倫理とは自らの信条を貫くことを第一とする考え方である。一方、責任倫理とは自らの行為の結果こそ第一とする考え方である。信条倫理においては、価値とはその信条の純粋さにあり、行為の結果の責任は純粋な行為者本人にではなく、不純な他人に見出される。一方、責任倫理においては、価値とはその結果いかんにしかなく、自らの行為の結果が予見できた以上、その責任を他人に転嫁できないと考える。平和主義に引き寄せて考えるならば、信条倫理は純粋に一貫して平和を訴え続けることこそを目的とし、責任倫理は結果としての平和を確保することこそを目的とする。

この二つの倫理を考慮すれば、限定的にせよ何らかの平和を目的とする人々にとっては、自らの責任ある立場というものにおいて、心情倫理に導かれつつも、責任倫理に基づく行動の選択が必要とされることは広く認められるであろう。もちろん、戦争を容認するのが責任倫理的な行為であり、戦争に反対するのが信条倫理的な行為であるわけではない。信条倫理に基づいて戦争を起こしたり容認したりすることも、責任倫理に基づいて戦争に反対することもありうるからである。

その意味で、ある戦争に対していかに処すべきかと言う問題と、信条倫理と責任倫理との対立とを混乱させてはいけない。反戦か戦争容認かを巡って相手をやり込めるような闘争を行うのではなく、平和の実現のためにいかなる戦略をとるべきなのか、その平和は誰のどのような平和なのかについてまず考えるべきなのである。もちろん、そもそも責任倫理と言っても、ある行為が本当にある結果をもたらすのかどうかというしばしば無視されがちな重要な論点もある。

戦争と平和の問題への対処を考える際、いわゆる反戦派と容認派の対立がしばしば不毛なものになるのは、双方が自らの目標と戦略に関して自覚的でないがゆえに、同じ議論の土俵に立てないことにある。自らが何を考えているのか、相手が何を考えているのかをまず整理しなければ、平和を目指すために協力し合わなければならない人々同士が対立してしまう。そんなところで争っていては、何が本当の問題なのか見失っていると言われざるをえないであろう。

さて、このように為すべき行為を考える際に責任倫理が優先される一方、信条倫理についてはいかに考えらるのであろうか。 マックス・ヴェーバーは、信条倫理家に対しては手厳しく、綺麗事だけで済まされないこの世の中にあっては、無責任でロマンチックな法螺吹きだとさえ言っている。しかしその上で、誰しも精神的に死んでいない限り、信条倫理と責任倫理の対立に引き裂かれながらも、自分にはこうするよりほかないという状況に立たされうると言う。

「精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。その限りにおいて信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである。」

平和な日本において、遠い戦争はどれだけの問題として受け止められるのであろうか。身近に差し迫る問題に比べて非現実的な問題ととらえられることもあろう。にもかかわらず、「戦争はいけない」との信条倫理に従い、自ら引き受ける苦悩というものがある。これは人間的に純粋なものであり、人々の魂を揺り動かすものである。私はこの苦悩こそが平和主義の連帯をもたらす共感を生み、平和への礎となるのだと思う。そして、人がそのような苦悩を担う限りにおいて、信条倫理と責任倫理は絶対的な対立を抱えつつも、むしろ互いに支え合い、平和への確かな道をつくり出していくのではないだろうか。

ウェブサイトのリニューアル

遠藤 美純

このたび竹本さんに代り、遠藤がウェブサイトの管理者となりました。よろしくお願いいたします。

これを期にウェブサイトに新しいコンテンツ管理システムを導入しました。登録済みの会員のみなさまが、直接コラムなどの記事を投稿できるようになります。また RSS というサイト更新情報もご利用いただけるようになりました。

なお、しばらくは新システムベースのページと従来ベースのページとが混在しますが、ご了承ください。今後ともよろしくお願いします。

深沢家土蔵を訪ねて

遠藤 美純

深沢家土蔵

先月、あきる野市にある深沢家屋敷跡の土蔵を訪ねた。かの五日市憲法草案が発見された土蔵だ。以前より一度訪ねてみたいと思っていた場所だが、憲法をめぐってより具体的な議論がされるようになった今になってようやく足を運んでみた。

JR 武蔵五日市駅前の通りを上り方向に進み、最初の交差点を左折する。あとは一本道。普通な住宅地を抜け、あとはひたすらその道を数キロ進む。深沢家屋敷跡はその道の途中、こんなところにというような場所にある。門をくぐって、坂を登ると目当ての土蔵だ。

五日市憲法草案が、色川大吉氏のチームによって、この土蔵から発見されたのは 1968 年のこと。その優れて民主的な内容や、それが多摩の山村で作成されたことについては、同氏らの業績によって既に良く知られている。また憲法草案発見の経緯や、憲法草案の起草者である千葉卓三郎については、当時の色川研究室の一員として調査に参加した江井秀雄氏の著作『自由民権に輝いた青春 ―卓三郎・自由を求めてのたたかい』に詳しい。

この五日市憲法草案の特色は、人権の尊重とその具体的な規定にある。お上が臣民にこうするべしなどというものではなく、「私たち」が国家にこうすべしと命ずるものだ。その底流にあるものは国家権力への不信と、それへの抵抗の精神である。大日本帝国憲法を作った人々と五日市憲法草案を作った人々の差は、一つには権力との距離、もっとはっきり言えば殴る側と殴られる側の違いであろう。21世紀にあって日本国憲法について考える今の自分がどちらの側にいるのか、ふと考えてみたりする。

なお、この憲法草案が作成されたころ、この地は我が研究所が現在その活動の中心をおいている神奈川県に属していた。ただ、憲法起草者の千葉卓三郎 は、自らの住所を「自由権下、不羈郡浩然気村貴重番智」と称していた。その烈々たる気概、こじつけながらも同じ神奈川の地より「地球宇宙」を冠する我が研究所にも、相通じるものがあるのかもしれない。

報告要旨「1930年代における平和主義 ―アインシュタインとロマン・ロラン―」

遠藤 美純

平和主義が反って戦争の危機をもたらすとの論がある。こういった論には特に戦間期の平和主義がナチスの台頭を許し、第二次大戦の勃発を促したと主張するものもある。2005年3月に山梨県石和で行なわれた本研究所の研究合宿で、私はこういった論に妥当性があるのか、また当時の平和主義がいかなるものであったのかを副題にあげた二人を中心に報告した。

まず戦間期の平和主義がナチスの台頭や第二次大戦の勃発を促したとの論についてであるが、こういった論がしばしば言及するチャーチルによる同様の発言なるものについては、発言そのものと、その取り上げられ方の問題点を指摘した。さらに、平和主義は現実の政策としては宥和政策として展開したが、これについてもさまざまな評価があることについて触れた。ナチスの台頭や第二次大戦勃発の諸要因を単純化し、その主たる要因を平和主義に求めてよしとすることは安易に過ぎる。

また、いわゆる平和主義の内実は多様であった。第一次大戦の記憶による戦争への恐怖はもちろんのことではあるが、反ソ・反共主義、階級闘争の観点、敗北主義、ヴェルサイユ条約に対する罪悪感といったさまざまな要因から、人々は平和主義へと至ったのである。人々が平和主義へと至る理由も、平和主義者を取り巻く状況も一様ではなかった。

その上で、本報告では1930年代の平和主義者として副題にあげたロマン・ロランとアインシュタインについて論及した。二人はそれぞれの分野で多大な功績を立てながらも、第一次大戦にも反対した数少ない知識人であったからである。さらに戦間期のアインシュタインの徴兵拒否運動、ロマン・ロランの戦いを超越した普遍的立場の追求は、多くの共感と支持者を得ていた。本報告では主に、ナチスの台頭により迫る戦争の脅威を目前として、二人が苦悩と逡巡を経て、非暴力闘争からナチスへの対抗へとその基軸を転換していく過程を追った。なお、質疑応答の際、当時が狂気の時代であったことは考慮されなければならないとのご指摘をいただいた。これまでの、そして現時点での平和主義の歩みを考える上でも、苦渋という言葉の重みについては十分な配慮が必要であろう。

「辛抱をして、未来を信じているほかありません。……人間はカタツムリのような歩きかたをするのですから(ザリガニのように後ずさりをしているのでなければそれでいいのです。)『それでもそれは動いている。』」

ロラン、蛯原徳夫訳「エリー・ワラック宛ての書簡 1941/2/12」『ロマン・ロラン全集 36』みすず書房、1979年、539頁。

平和主義者の苦悩と逡巡の重みには、平和を導く可能性と意義が認められるべきである。しかし、その上で、苦悩を経て選ばれる選択肢に相違があることこそ、今の私たちに課せられた問題なのであろう。