投稿者「王 元」のアーカイブ

我が土、我が民(その7)-故郷の大地を俯瞰する(その3)

王 元

臨渙には安徽省境内保存状態の一番良いと言われる土城(土の城壁)がある。漢代のもので、宋まで歴代の王朝が整備してきたが、元の時代廃棄したとい われる。下図で示すように、正方形に近い形で、面積は約1.96平方km(1.4 km×1.4 km)、高さは7 m -15 m、南は澮河に面し、東、北、西三面に「護城河」(防衛のために城壁を取り囲む堀)が流れる。護城河の深さは約4m、広さは約10m。

居民の生活区1980年代までは東南の約三分の一の区域に集中したが、いまは城壁内全域まで広がった。

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レンガ構造にしなかった原因は不明。故郷には「夜転亳州」という伝説がある(臨渙のレンガ構造の城壁が一夜で亳州のものになったという話)。

黄土を「夯」という技法で固める構造であるため、長年風雨の浸蝕にもかかわらず、北の段保存状態がいい。1970年代、「農業学大寨」の下で行われた 「平整土地」により、その時まで、ほぼ完全な状態である北の段の外の面(北の面)は、少なくとも、四分の一が削られてしまった。

しかし、黄土であるため、煉瓦焼きの格好の材料になる。特に人民公社時代の煉瓦窯は皆土城をくいものとした。また、粘性の高い黄土は練炭の球つくりにも 必要な材料だ。こうした人間の破壊活動により、現在は旧生活区に近い東南の段はかつての「城壁」の面影がなく、東、西の段も長い「小土岡」しか見えない。 今は植木、草が見えるが、昔(僕の小、中学校時代)、城壁が皆の物であるため、樹木、草も全て採られて、禿げ城であった。

臨渙土城 北の段
臨渙土城 北の段

臨渙高校の操場から見る臨渙土城 東の段
臨渙高校の操場から見る臨渙土城 東の段

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土城は臨渙人の公共墓地でもある(所謂「土葬」)。東の段、保存状態の悪い東門の付近。写真には『臨渙区志』主編の呉延東先生(右)、筆者(中)、県技術局長(元臨渙鎮長)の宋克華氏。

我が土、我が民(その6)-故郷の大地を俯瞰する(その2)

王 元

寨と圩

もとは防護用の木の柵を指したが、基本的には「砦」です。故郷では「寨圩」または「圩寨」とも言います。臨渙城内にはさらに「西小圩子」という寨があ り、臨渙小学校も「北寨門」の付近にある。「圩」と「寨」を区別しない傾向は、おそらく、圩と寨を合体させたことからなる現象でしょう。つまり、洪水を防 ぐための「圩」の上に防衛のための木の柵を設置し、「寨」になることで一石二鳥の効果を得るのです。

圩の建造と維持は大変な労力と財力がかかるものです。そのため、出来るだけ規模を小さく抑える必要があり、家屋、倉庫等、最重要な財産を圩内に納め、場 (穀物の乾燥や脱穀に使うところ「穀場」ともいう)、牛舎、猪圏(家畜小屋)等は圩外に置かれることになります。したがって、「圩」は通常、村の中央に位 置しています。圩の周辺は小作人等の家屋があります。

また、ほとんどの「寨圩」は人口が少なく、村に当たります。ただ、最近の半世紀あまりは黄河、淮河それから澮河が皆、氾濫しなくなり、圩(堤)は重視されなくなってきました。平和な時期は当然「砦」も必要ではなくなります。

臨渙天主堂神甫楼
臨渙天主堂神甫楼。1949年当時の宿西県県政府の所在地でもある。

坊と園

坊は「作坊」、旧式の小規模の工場です。臨渙の名物の一つ、胡麻油はこのような作坊で生産されます。手工制作が基本で「小磨麻油」と呼ばれています。こ れらの作坊は主に城内に集中しますが、家庭作坊の形で周辺の村にも点在しています。中には「園」とよぶものもあります。例えば、「醬(菜)園」。これは味 噌、漬物、醤油、お酢等を作る作坊です。「坊」との違いは単に作業場でけではなく、物干しの庭園が付く為、「園」とよぶようになりました。

園、単一作物、特に果実類を生産する農園です。この地域に黄河が運んで来た淤土(堆積土壌、例えば、黄土や砂土等)は瓜(西瓜、メロン)、果(桃、李、杏、柿、棗、梨、林檎)の栽培に適しています。

楼と閣

「楼」とは、多重層建ての建築物を指すものですが、我が故郷の場合は基本的には二階建ての家屋、所謂「土楼」になる。故郷の地名に「楼」が多くあります が、その地は現在でもその楼を確認できるようなものはなく、昔ある時期に存在したもので、後に地名となり、残ったのかもしれません。

長い間、故郷の「楼」といえば、天主堂(天主教の教会)神甫楼でした。これは3階建ての煉瓦構造の建築は最近まで故郷での最高峰の建築でした。少年時代の遊び場でもあり、記憶の中での大きな建物なのに、今は…これなのです。

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左隣は新しく建てられた教会です。最新で最も高い建築となりました。臨渙での「教(会)」の復権を示すものと見ていいでしょう。

「閣」とは一般的「楼」の上半の部分を指します。但し、物見やぐらではなく、日本で言う「蔵」、つまり貯蔵庫です。但し、今の臨渙で地名に用いられる「閣」は特に木造寺廟建築を指します。

小学生の時、よく今は無き「南閣」という臨渙随一の名所に行きます。臨渙集最南端高台に置き、?河に面して、煉瓦構造、臨渙城の南門として建てられてい て、漢、唐、宋、明歴代の時に改築され、1975年最後に壊されたのは清代のもの。?河を臨み見る高い台地にたてられて、見当たり、風あたりの良い所でし た。

我が土、我が民(その5)

王 元

臨渙というと、行政的には「臨渙区」又は「臨渙鎮」を指します。経済的には「臨渙集」、文化的には「臨渙城」になります。以下、それぞれの地図を見ながら、行政、経済、文化の三つの側面から我が故郷を分析してみたいと思います。

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上の行政区画図に示されたように、臨渙区は面積211.49平方km、人口は8万人、臨渙鎮(1.3万人、臨渙郷を含め)+周辺の六つの 郷、60の行政村からなります。小学校は51校、中学校は13校、高等学校は2校。この二つの高校はそれぞれ鉄道の西側にある臨渙(行政地図上では間中に 「工委」と記すところ)と、海孜に位置します。両地は約15里(7.5km)離れています。高校三年生の時、眠られない夜、臨渙から海孜まで往復15km のジョギングをしたことある。

この行政地図にある地名を纏めて以下の表を作成しました。○が付くのは郷政府所在地です。この中、「工委」は地名ではなく、区政府工作委員会の略称であり、いわば臨渙鎮なのです。

周荘 張圩 劉楼 大商家 海孜○
牛荘 周圩 徐楼 大孫家 郭井子
雷荘 李合圩 丁楼 大徐家 謝湖
呂荘 李圩 馬楼 梁家 澮北
趙荘 陳圩 朱小楼 大馬家 柴窪
趙平荘 劉圩 前袁楼 劉閣 臨南
毛荘 沈圩○ 后袁楼 薛厂 陳口
曾荘 前陳圩 前王楼 西劉 沈橋
劉洪荘 紀圩 張楼 李場 石集
黄荘 長豐 祁集○
韓荘 鄭溝 梁廟 騎路
祁荘 湖溝○ 徐廟 乙寨 韓村
常荘 双溝 四里廟○ 劉油坊
張荘 馬溝湾 丁小廟 高皇○ 桃園
張荘 工委○ 宋園

臨渙区に七つの郷、60の行政村があるが、行政地図にある地名は78に上ります。これは( )の中のものも入れた結果です。「行政村」とは自然村 ではなく、基本的に人口規模で決めたもので、通常幾つかの自然村を合わせたものである。例えば、臨渙城の直ぐ東にある「周荘」は西の陳荘」と東の「王荘」 と三つの「村(荘)」合わせたものであり、陳荘・周荘・王荘の人口規模から言うと4:2:5の関係であるが、陳荘と王荘の争いから漁夫の利を得たのはこの 周荘です。同じように、城西の黄荘は黄荘+賀荘+周荘(城西)からなります。

臨南、澮北のような新しい地名も出てきました。臨南は南碼頭(馬姓が多い)+劉洪荘からなり、澮北は中心的李沃子+周辺のいくつかの自然村からなります。他方、記憶にある碼頭荘(北碼頭、呉姓が多い)、高湖(李合圩付近)は行政地図から見当たりません。

統計したことはないですが、自然村の数は恐らく150位に上るのではないでしょうか。行政地図、地名は行政的なものに過ぎないことも忘れてはならないことだと思います。

以下、地名に多用されるものについて簡単に纏めました。

(1)荘
「荘」の由来は恐らくですが、二つあります。一つ目は取引規模の大きな商店、特に卸売りが中心である店を指すものです。このようになった「荘」の中で、 最大規模といえるのは河北省の省都の石家荘でありましょう。二つ目は地主の荘園を指します。小作人を雇用し田を耕させる農園である。我が故郷の「荘」は皆 規模が小さく商工業も皆無な状態であることから見れば、おそらく後者の部類に属するといえます。

(2)村
故郷の地名には中国農村で典型的な地名である「村」が多くありません。行政地図上では「韓村」のみとなります。村は 「自然村」といわれるように自然発生的な共同体であることに対し、「荘」は地主一家の家族中心とする共同体が雛形で、人為的な要素が含まれます。ただし、 今日の故郷でいう「荘」は「村」と同様視すべきでしょう。

(3)圩
「圩子」ともいいます。淮河流域に特有な防洪営造物。低地の周りの堤をいいます。家屋などを洪水から守るため、家屋を 囲むという形で建てられ、「囲子」とも書きます。これは基本的には地方の有力な人物(地主、郷紳等)が宗族や家族の力を合わせて作り上げたものなのです。 個人的には、「圩子」という文化は恐らく「捻子」と何らかの関係があると思います。例えば、「捻」は「圩」の暗黒面ですが、事実は確認していません。

我が土、我が民(その4)―母なる河 澮河(その4)

王 元

それから我が故郷臨渙の停滞もう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。つまり黄河が流れを変え、淮河から海に(または長江に)流れ込んだということです。水量がとても減っていることで最近静かになってきた黄河ですが、歴史上、改道や氾濫をくり返してきました。黄河の改道は黄河自体の流れが変わり、洪水災害を引き起こすだけの問題ではなく、氾濫流域の既存の河川に大きな影響を与えるのです。そして、広義的な「黄氾区」(学術的には「黄(河)淮(河)堆積平原」と呼ぶのが正しいでしょう)を残すこともあります。黄氾区は洪水が引き上げてから手間を掛ければ肥沃な耕地となり、農作物をはじめとする果実等の栽培にも適する地で、地域の経済にプラス効果が大きいのです。問題は既存河川及びその地下水脈も同時に変化が起きることです。これで永遠に消滅した河川も少なくありません。

澮河は黄河改道から大きな影響を受けました。消滅こそしませんでしたが、水量の変化により運航水道としての価値が時々に変わることで地域の安定、成長に影を落としました。漁獲高の変化はむしろその次の問題として存在します。

唐代日本の僧侶、円仁の『入唐求法巡礼記』には山東半島から西の五台山へ、さらに南の長安への旅は2ヶ月かかりましたが、帰国の際に鄭州から揚州まで11日間しか、かからなかったと記してあります。当時彼が使った河は恐らく「通済渠」と思われます。それは澮河の南に並行して流れるもので、これは隋の煬帝が造った運河でした。

旺文社刊『黄河物語』第167頁に黄河の「主要な河道変遷」という図が載っています。青色は?河です。

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黄河改道にもたらすもう一つのことは、この地域内にあった無数の沼沢や湿地のことです。これらの沼沢の多くは時間が経つと自然消滅していきますが、長い年月を経て存在し続けているものもあります。その中でも有名なものは雷沢、大野沢、荷沢、孟諸沢、圃田沢です。中国の四大奇書のひとつと言われる『水滸伝』の舞台である「梁山泊」もその一つであります。

7月15日大江平和さんの投稿「残留孤児訴訟に思う」の中で、「帰国孤児の老夫婦は以前は中国の山東省の「リャンシャン」に住んでいて」と述べていらっしゃいますが、この「リャンシャン」はもしかしたら「梁山泊」の「梁山」(Liang Shan)であるかも知れません。この「梁山」は黄河の南岸、黄河と大運河と交叉するところにあります。一帯は古くから黄河の氾濫がくり返されることによって無数の水路と沼沢が生まれました。『水滸伝』では周囲800里とうたわれた大沼沢だったのです。近くに梁山という名の山があったことから梁山泊と呼ばれたそうです。泊は沼沢という意味で、今はその沼はなく、梁山と呼ばれています。

我が土、我が民(その3)―母なる河 澮河(その3)

王 元

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山西人会館

秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年、中国の人口は約2千万人であったといわれています。中国で最初に全国的に戸籍が作られたのは、前漢の 末期、平帝の元始2年(紀元2年)で、その当時の全国の人口は59,594,978人でありました。隋の戸籍登録人口は46,019,956人(609 年)。唐の戸籍登録人口は玄宗天宝14年に52,919,309人(757年)であり、いずれも前漢末の数字には及びません。中国の戸籍登録人口が前漢末 の記録を追い抜くのは、実に約1000年後の北宋まで待たねばなりませんでした。ちなみに、一億人の大台に乗ったのは清朝の康熙帝(1661-1722 年)の統治の末年とされています。

劉邦の話は次のシリーズにとっておくことにして、今回は澮河の話を続けたいと思います。臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。漢代以来、中国の人口は20倍以上増加したことから見れば、古城臨渙の停滞ぶりが分か ります。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。

秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にこの沛(漢代に「沛国」となった)は劉邦の故郷であ り、魏晋のとき南の譙(西晋のとき「譙国」となる)は曹操の故郷であって、中間にある銍は見落とされていました。しかし全地区の繁栄につれて、それなりに 繁栄ぶりを見せてくれました。シリーズ②陳琳上魏文帝(曹丕)書に見られるようなことはその証拠でしょう。

経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かったでのす。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。

隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖忽必烈(フビライ 蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降 格され、今日に至ります。

この理由はいろいろあるが、もっとも大きなものは二つ挙げられます。

一つは中華文明の発展性の方向によるものです。中華文明の発展性の方向には三つの時期が見られます。一つ目は西から東へ、つまり河川(黄 河と長江)に沿っての東進。三つ目は北から南へ、つまり大運河と海の道を使っての南下。前者は夏から秦まで、後者は隋以降であります。それから二つ目は漢から唐まで、つまりこの二つの時期が入れ替わるという過渡期です。澮河の流れは北西から東南へ。長い間、淮河の支流である渦河、頴河と共同で黄河流域(中原)と淮河流域を結びつく動脈でした。故郷の繁栄期は全体的に見れば、漢から唐までの過渡期と重なる。この時期が過ぎると中華文明の発展の中心が、他の地域へと移転してしまったので、故郷繁栄から衰落へと転落したのです。

それからもう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。これについては次回にいたしましょう。

我が土、我が民(その2)―母なる河 澮河(その2)

王 元

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新しい三水大橋

我が故郷安徽(省)淮北(市)臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」といわれていました。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。これは今でも変 わりません。

三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で 「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深 秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の 渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたとい うことです。

この地域では古代から麦と同じように有名なのは“大盗”です。

日本の「万世一系」に対し、中国は「易姓革命」つまり、誰でも王となれる、としばしば指摘されます。中国、いわゆる四千年の歴史の中で主なる王朝 は夏商周秦漢晋隋唐宋元明清の12。中でも200年以上ながく維持されてきた大きな王朝は夏商周漢唐宋元明清の九つ。この九つの中で商漢宋明(延べ 1500年以上)の四つは私の故郷の周辺(半径140km)から誕生した王朝であり、特に漢と明は中国史上二つの農民蜂起によりできた王朝です。

そもそも中国史上初の農民蜂起は澮河の下流にある大沢郷で起きました。司馬遷『史記・陳渉世家』には以下のように記しています。

陽城の人陳勝、字は渉。少き時人と傭耕す。耕を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰はく、「苟くも富貴とならば、相ひ忘ること無からん。」 と。傭者笑ひて曰はく、「若傭耕を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰はく、「ああ、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。

是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰は く、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。

当時の大沢郷のあたりは澮河など淮河の五つの支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたちまち道が通じなくなった。こうして大沢郷に 蜂起した農民軍は120km西進して我が故郷「銍」等五県を陥れ、さらに西130kmの陳州に向かった。陳勝は陳州で王と称し、国号を「張楚」と名づけま した。中国史上初めて身分も何もない日雇い農民が王となった瞬間です。

「王侯将相寧ぞ種有らんや」。直訳では「王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と違いなどないのだ!」という意味です。現代語ではおそらく、「人間誰も皆同じである!」と訳して良いでしょう。こんな言葉が2000年以上前に叫ばれているのです。

陳勝の農民軍はわずか一年で破綻しましたが、この大沢郷蜂起が秦末大乱の先駆けとなります。これを機に挙兵した劉邦は,秦を倒した後、項 羽を滅ぼして漢を建国することになるのです。ところが同じ沛の中陽里(我が故郷「銍」から北へ100km)の出身であるこの劉邦も当時はまだ“無頼漢”で ありました。その話は次回に。

我が土、我が民(その1)―母なる河 澮河(その1)

王 元

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上の写真は1999年9月に安徽省の故郷に帰省した折に撮ったものです。時間は午前9時、雲ひとつない晴天でありました。のどかな風景は、欧州の田舎のようにも見えるでしょう。河の両岸には農作物の大豆、トウモロコシ、サツマイモなどが青々としています。しだれ柳が風に揺れ、なんともいえない情景です。その柳には蝉が元気に鳴いていて、空気の中には幼い頃から親しんだ母なる河の息吹が感じられました。

豊饒なる河で、魚などの水産物が多く生息していました。農民たちはその河からいろいろな恵みを採り、自由市場にて非常に安い値段で売りさばいていました。特に今は高くなっている、川海老やスッポンなどは、故郷の農民たちは自ら食べようとしないものでした。そこで、空に飛んでいるものは飛行機以外、地上に足が着いているものは机以外は皆食す、という食は広東に在りとまでいわれる広東人の父はいつも、驚くほどの安値でそれら珍味を買占め、我々兄弟に食べさせようと懸命でした。無論、夏になると、我々兄弟もその食材採りに借り出されました。夏の夜、懐中電灯に照らされて動きが鈍くなる田ウナギ、蛙等いつも食べきれないほど収穫しました。それから中華蝉の幼虫(日本の蝉より3,4倍の大きなもの)を油で揚げたものは本当にこたえられませんでした。

私はいつもこの河で遊んでいました。夏は魚釣りや遊泳。潜ることも好きでよく長い時間潜っては人を驚かせました。河の中は石が多くその石につかま り素早く移動していったのです。あるとき、川岸の斜面を利用し、つるつるした泥の上を裸で滑っていた。悪ガキと一緒だと、ますます迫力を増し、スピードが上がりました。そのときそこに何か異物があるのに気付かず勢いよくすべると臀部に激しい痛みが走りました。硬い石のようなものが突き刺さったのです。しかしそのことは「革命」に追われる親には言えず、自分で必死に治しました。その傷は今も残っています。こんなことは日常茶飯事でした。

以前は大きな河でした。船が1年中渡り運河として使われていたのです。ところが今は降雨量が減り、水量も70年代の四分の一になってしまいました。船どころか、冬になると流れさえ止まり、沼のようになるそうです。

しかも80年代、この河の上流の河南省永城県で製紙工場ができ、その排水が流され汚染されてしまいました。水は黒くなり、水草さえ育たなくなったのです。残念なことです。これも高度経済成長の恩恵なのでしょうか。今はだんだん奇麗になり、魚も住み着き(まだ食べることはないですが)、元の河に戻りつつあるようです。

実はこの河には三国時代からの歴史があります。その話は次回に。