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平和学の教科書を読んでみる(1)

玉井 秀樹 (2005年6月17日 17時14分)

このコラムの初回で、最近、平和学テキストの出版が続いているということを述べました。私自身、大学で平和学を担当していることもあり、各書とも 「よくできているなぁ」と感心する点が多々あります。その中でも、三重大学の児玉克哉教授等が編まれた有斐閣の『はじめて出会う平和学-未来はここからは じまる』は、「実際に使ってみたい」と思った一冊です。そこで、同書をテキストとしてコラム誌上学習会をしてみようと思います。

まず、テキストの構成を紹介しておきましょう。

第I部では、「戦争」-第二次大戦とホロコースト、核兵器と米ソ冷戦、第二次大戦後の武力紛争-を理解するための平和学の視点を提示する各章に続き、人類絶滅戦争になるであろう核戦争防止をめざして誕生した平和学形成の事情が講じられています。

第II部では、平和学の探求分野が戦争のみならず、戦争も含めた「人間」そして「生命」を損なうものへと大きく展開していることを示す、平和学的争点-貧困、ジェンダー、文化的多様性、難民-を扱う各章で構成されます。

そして、第III部では、平和をつくる主体者-日本、国連、NGO-の在り方を提示する各章が続きます。最終章では平和学的な学び=エクスポージャー (exposure:さまざまな影響や作用にふれること、身を曝すこと)について述べられています。初学者はこの最終章から読み始めて、平和学の学びをイ メージするのも良いかもしれません。

このテキストで私が気に入っている点の一つは、各章に演習問題が付されていることです。例えば、最終章の問題は以下の通りです。

  1. 日本にある平和ミュージアムにはどのようなものがあるだろうか。どこにあり、どのような展示や活動をしているのだろうか、調べてみよう。
  2. 日本でNGOが提供しているスタディーツアーにはどのようなものがあるだろうか。どのようなプログラムが組まれていて、どのくらいの費用がかかるかなどについても調べてみよう。
  3. 参加型学習の問題点や課題は何だろうか。困難さや欠点などを挙げてみよう。また、どのようにそれらを克服することが考えられるだろうか。(『 はじめて出会う平和学』p.277)

平和学に関心をお持ちの方は、この問題に取り組んでみてはいかがでしょうか?

「キングダム・オブ・ヘブン」を観て

玉井 秀樹 (2005年6月10日 19時51分)

ハリウッドではここのところいわゆる歴史大作が発表されていますが、リドリー・スコット監督が十字軍の時代のエルサレムを描いた「キングダム・オブ・ヘブン」に興趣をそそられ、先日、久しぶりに劇場で映画を観てきました。先の大作「グラディエイター」の成功によって、いまやハリウッドの巨匠の一人 となったリドリー・スコットが、十字軍をどう評価するのかに大きな関心がありました。

映画の冒頭では、オーランド・ブルーム扮する主人公・バリアンは、閉塞感漂うフランスの寒村に暮らしており、子を亡くし、さらに亡くした子を追っ て妻が自殺をするという悲劇の中にいることが描かれます。村の聖職者は彼の悲しみに追い打ちをかけるように、教会が許していない「自殺」をはかった妻は地 獄に堕ちると言い募ります。妻の魂の救済を求め悩む、彼の目にとまったのはその坊主の首にかかる小さな十字架でした。それは愛する妻の首に掛かっていたも のでした。つまり、自殺の罪を言い募るその坊主は墓泥棒であったのです。それを知ったバリアンは怒り心頭に発し、彼を殺してしまいます。

この時、実はエルサレム王国に仕える十字軍の騎士・ゴットフリーが、バリアンに対して実の親子の名乗りをあげエルサレムへの同行を求めていたので すが、バリアンはこれを拒否していたのでした。しかし、自らも聖職者殺しの「罪人」となった彼は、父の後を追いエルサレムへ向かうことになります。

父・ゴットフリーは、バリアンの追手に彼の引き渡しを拒否したため、激しい戦闘となり重傷を負ってしまいます。そして、エルサレムに立つ寸前に、騎士としての使命を我が子に託して絶命します。

その際の、騎士の誓い(「恐れず、敵に立ち向かえ」「勇気を示せ」「死を恐れず、真実を語れ」「弱者を守り、正義に生きよ」)が作品のモチーフと もなっているわけですが、この理念を共有できる同志は、十字軍(本作品ではテンプル騎士団が悪役に配されていますが)の騎士たちよりも、むしろサラディン の軍勢であると描かれます。十字軍が、当時のアラブ世界(ビザンティンも含んでのことでしたが)にあって、暴虐な侵略者でしかなかったという見方がはっき りと描かれています。

映画の主たる舞台となるエルサレムの国王は、信仰の自由を認める「現実主義者」として描かれ、「聖地死守」の宗教的理念を唱えるテンプル騎士団た ちが見せる異教徒への「非人間性」が対比されます。また、クライマックスとなるエルサレムの攻防で、エルサレムの司祭が命乞いをするために偽装改宗をすす めるシーンが挿入されるなど、聖職者の語る神への信仰がいかに偽善に満ちたものであるかが描かれます。

一方、何よりも妻の魂の救済を求めてエルサレムに入ったバリアンでしたが、入城後まっすぐに向かった「磔の丘」では神の赦しの声を聞くことができ ず、生きる目的を得ることができないままだった彼にアドバイスを与えたのは父の同志であった騎士にして聖職者のホスピタラーでした。信仰は言葉ではなく、 善の行いにあると語るホスピタラーの信念にふれたバリアンは「騎士」としてエルサレムの王を、ひいては民を守ることに使命を見出すことになります。

ハリウッド作品(米国映画)らしい往時をイメージさせる衣装やセット、戦闘シーンなどエンタテインメントとしての見所もあり、これもハリウッドら しさである「深みのなさ」が気になる人もいるかもしれませんが、バランスのとれた十字軍理解の一助となる良い作品であったと思います。

私としては、作品のメッセージを「生命を守ることこそが正義であり、それを認めぬ”神”など必要ない」と理解しました。作品中ではバリア ン率いるエルサレム守備軍の多くが命を落としており、正義を貫くための犠牲という矛盾は残されたままなのですが・・・ 暴力に対峙する非暴力はいかにして 可能なのか、長年の宿題に思いが至りました。

“平和学の教科書”-出版ラッシュ!?

玉井 秀樹 (2005年6月3日 20時55分)

金曜コラムを担当させていただくことになりました。皆勤賞めざして頑張りたいと思いますので、ご指導・ご鞭撻のほど宜しくお願いします。

現在、大学にあって平和学を学び、また、教えるという仕事をしているということもあり、平和学の学び方について考えたこと、感じたことを中心に書かせて いただこうと思っています。もっとも、脱線することの方が多いと思いますが・・・ 第1回の拙稿では、昨年から立て続けに平和学の教科書が出版されている ことについての感想を述べさせていただきます。

私が「平和学」の存在を知ったのは、大学4年になって卒業論文テーマが決まらず、指導教授の研究室で先輩たちの卒業論文集を捲っていた時でした。 初期平和学の業績を扱った論文に出会い、「こんな直截的な“学”があったのか!」と驚きました。そして、学んでいた大学は(現在はここに奉職しているわけ ですが)「人類の平和を守るフォートレスたれ」との建学の理念を掲げているにもかかわらず、なぜ「平和学」が講じられていないのか? と思ったのでした。

これを機に、卒業論文で「オセアニアにおける平和学の現況」を書くことになり、「平和学とは?」を知るところから始めたわけですが、当時(1984年)は、勁草書房から山田浩編『新訂平和学講義』が 出ていた程度で、平和学を概説する教科書といえるものはほとんどありませんでした。川田侃、岡本三夫、高柳先男といった諸先生の書かれた論文を何とか探し だしては、平和学情報を得ていくといった状況だったことを思うと、最近の“平和学の教科書”出版事情は隔世の感があります。

実は、1999年にも“平和学の教科書”が4冊ほど重ねて出版されていたのですが、昨年から今年にかけてすでに8冊も出版されています。平和学を学ぼうとする人に基礎情報を提供してくれる便利なWEB「はじめての方へ:平和学入門」を開設している池尾康志さんが、「最近、ふたたび「平和学」の教科書ブームがやってきた」と書かれている通りだと思います。

池尾さんの表現を借用すれば、1999年は第一次“平和学の教科書”ブームということになるでしょうか。その時は以下の4冊が出ています。

そして、現在の第二次(?)ブームでは以下のような本が出ており、さらに、法律文化社から『オキナワを平和学する!』という本が近々出版されるようです。

次週以降、こうした“教科書”を読んでみた感想を折にふれ書いていきたいと思います。

米英によるイラク攻撃の速やかな停止を要求する ―自制心もてぬ主権国家から武力行使権限を剥奪する国際社会システムを創造しよう―

玉井 秀樹 (2003年3月22日 17時12分)

今回の米英によるイラク攻撃はきわめて遺憾であり、その速やかな停止を要求する。この武力侵攻は一国の体制転覆を目的とした国連憲章の精神にもとる国家 行為であり、実際の攻撃に転じる以前から、武力による威嚇をもって国連安保理決議の遵守を要求するなど、米国・ブッシュ政権は当初から武力行使を前提とし た対イラク圧力をかけていた。同政権の自制心の欠如した政策こそが、武力侵攻以外の事態打開策を不可能にした主たる要因であると考えるが、米国の自制心を 失わせた国際社会にも問題がある。

イラクでの事態について言えば、まず、国内における重大な人権抑圧と中東地域において軍事的覇権を追及するという、イラク・フセイン政権自体の重大な過 誤を指摘しなくてはなるまい。しかし、そのように問題のあるイラク政権の軍事大国化を可能にしたのは米国の対イラク軍事支援であったことは看過できない。 国際社会におけるパワーの源泉を軍事力においている大国、しかもかつてはその力を与えてくれた大国が要求する武装解除に説得力はない。イラクを増長させた 原因は米国政権自らにもある。

米国は国際社会でフセイン政権が大量破壊兵器を保有することの危機を訴え、国連安保理常任理事国5カ国もそれに同調した。しかし、彼らは自らが大量破壊 兵器を保有することが危険ではないということを一切証明しなまま、そうした兵器の独占体制を変えようとしていない。大量破壊兵器は存在そのものが人類に とっての災厄なのであり、持ち主によって危険度が変わるわけではない。常任理事国自らの大量兵器廃絶への努力も示さないままに要求する武装解除に説得力は ない。イラクを増長させた原因は国際社会にもある。

2001年の9.11事件については不明の部分多いが、今や象徴的な対米抵抗運動とみなされている。こうした対米抵抗運動を”テロリズム”として恐怖 し、過剰報復する米国政権の反応には、無反省な独善性さえみることができる。しかし、国際社会は、暴力的抵抗運動の不適性を糾弾するとともに、そうした抵 抗についての真摯な内省ができる米国となるよう説得・協力すべきところ、米国政権に恐怖心=反撃欲求の抑制のみを要求し続けた。そのためついに米国政権の 自制心を強化することができず、攻撃欲求の抑制にも失敗した。

今や地球上に比肩しうるもののない軍事超大国になった米国には、その力にふさわしい自制的行動が要求されると考える。しかし、9.11事件から今回のイ ラク侵攻にいたる過程をみれば、そのような一方的な米国への期待が自然に実現するようには思われない。そこで、恐怖心=武力依存性を抑制するという過重な 責務をひとり米国にのみ押し付けることがないような国際社会のシステムを構築することを訴えたい。すなわち、あらゆる軍事力を国際社会の統制下におくとい うことである。今日の国際安全保障システムである国連システムの基礎となったカント平和論の完結、つまり、主権国家による常備軍廃止の完全実施を今こそ推進すべきであると訴える。

21世紀の人類社会はすでに軍事力を行使する必要のない紛争解決、人権回復、社会変革のシステムや技法を開発、発展させてきている。主権国家から軍事力 行使権限を国際社会に譲渡し、民主的な国際社会警察の創設によって、このような非暴力システムのグローバリゼーションを可能にしようではないか。