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イギリスの非暴力による平和の闘士 ―Brian Haw―

高橋 勝幸 (2006年3月31日 20時24分)

今年の3月も全世界でイラク侵略と占領に反対するデモが繰り広げられた。そのデモに合わせて、一通のEメールがイギリスから届いた。ブライアン=ホーさんの支持者からのメールである。

私は2005年3月25日、その人に会った。昨年の3月19日、ロンドンの反戦デモに参加して、もらったカードを頼りに会いに行った。

ブライアンさんは議会広場に陣取って、平和を訴える。イギリスとアメリカのイラク政策に抵抗して、議会広場にいる。イラクに対する経済制裁、侵略、占領に反対して、2001年6月1日から居続けている。

私が日本から来たというと、ブライアンさんは、イラクで急増している白血病やガンに苦しむ子どもたちや奇形児の展示写真を案内してくれた。というのも、それらの写真は日本人が撮影したものだからである。フォトジャーナリストの森住卓氏が1998年より撮影した、湾岸戦争で米英軍が使用し た劣化ウラン弾で被爆したイラクの子どもたちがブライアンさんを抗議に駆り立てたのである。

「私は湾岸戦争の子どもたちによって目を開かれた。イギリス軍が犯した子どもたちへの放射能被爆に対してイギリス人として、一市民として本当に申し訳ない。かれらにはケアーが必要だ。私は抗議して4年間座り続けている」、と。

ブライアンさんが議会前に座り続けて、5年が経とうとしている。この間、ブライアンさんは何度も、逮捕によって立ち退かされ、展示物を取 り壊され、また、暴力を振るわれた。幾度も起訴され、勝訴した。2005年4月7日、ついに「2005年重大組織犯罪及び警察法」が成立した。この法律は 2005年5月5日の総選挙をにらんで、労働党が治安強化をアピールするために性急に法制化した、異議申し立ての自由を剥奪する悪法である。その第132 条は「議会広場から1km以内の、主務大臣が命令によって指定区域とした場所において、許可を受けていないデモを行うことを逮捕可能な犯罪とし、組織した 者には最高で51週間の拘禁刑と罰金2,500ポンドを科し、参加者には罰金1,000ポンドを科する」(岡久慶「2005年重大組織犯罪及び警察法− 「イギリスのFBI」設置へ」『外国の立法225』)と規定している。この規定の標的こそ、ブライアンさんなのです。これまで11人が警察の許可なしに議 会周辺のデモに参加したために有罪となり、その多くはブライアンさんの支持者であった。しかし、2001年6月から抗議しているブライアンさんには法律の 遡及効果がないと高裁は判定している。ブライアンさんは議会前での抗議の権利を守るためにも戦っている。

ブライアンさんの行動と勇気は、平和と正義のための運動に元気を与え続けている。

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議会広場で子どもたちのために抗議を続けるブライアン=ホーさん (2005年3月25日筆者撮影)

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森住卓氏が撮影した、米英軍による劣化ウラン弾で被爆したイラクの子どもたちの展示

タイから垣間見た「東アジア共同体」

高橋 勝幸 (2005年6月25日 16時50分)

中国の反日デモを契機に、民間の間からも東アジア共同体の必要性を唱える声が高まった。2005年12月にはマレーシアで初めて東アジアサミットが開かれる。私の身近でも早稲田大学の天児慧さんがAHC(Asian Human Community)を発足させ、この原稿は6月18日に行なわれた第3回準備会の私の発言をまとめたものである。

私は、東アジア共同体について、この5月に複数のタイ人に意見を聞いた。チュラーロンコーン大学アジア研究所研究員、AP通信記者、雑誌編集長、NGO活動家(Focus on the Global South)、大学生らである。これはあくまでごく一部の意見であり、政府関係者にも聞いていないので、一般化することはできないが、概して、東アジア共同体の構想には消極的であった。

彼らの意見を集約すると、アセアンですらうまく機能していないのに、東アジア共同体は一層複雑で大きすぎるという。共同体というには日本とタイは距離が遠い。確かに、在留日本人、日本の商品、アニメ、ポップスは巷にあふれている。しかし、同じコミュニティを形成するには違和感がある。

アセアンは外見からは、アジアにおいて稀有の共同体のように映るかもしれない。しかし、実態も実感もないという。会議で確実に決議されることは、次、いつ、どこで会議を開催するかである。強いて言えば、査証なしで移動ができること。確かに、入国手続きのアセアン国籍専用レーンが空いているのが羨ましい。

そもそもタイ人は隣国を知らなさ過ぎるという(日本もさして変わらないかも知れないが)。隣国に対する関心が低い。タマサート大学に東南アジア研究プログラムができたのは2000年である。学部レベルでタイ語で教える。チュラーロンコーン大学に同プログラムができたのはその後で、修士課程のみで英語コースである。現行のホームページの案内は、アセアンが取り組む東アジア共同体形成のダイナミズムを東南アジア研究の重要性として強調している。学生は半分がタイ人で、インドシナ3国、ビルマ、シンガポールの学生も学んでいる。

中国の反日デモに関連して、私が思い出したのは、千人におよぶカンボジア人が2003年1月29日にカンボジアのタイ大使館前で、抗議デモを行なったことである。このデモはエスカレートして、タイの大使館、企業、ホテル、レストランが焼き討ちされた。事の発端は、カンボジアでも人気のあったタイ人女優が「アンコール・ワットはタイのもの」と発言したとカンボジアの新聞が報道し、その年の7月の選挙対策として、反ヴェトナム感情に訴えられないフン=センが反タイ感情に訴えかける演説をしたことである。当時のタイ側の新聞には、タイ人ビジネス関係者がカンボジアで我が物顔に振る舞っていたとの反省があり、1970年代の日本の東南アジア進出を想起し、日本の福田ドクトリンに学べといった論調も見られた。

焼き討ちの前日の晩から当日の未明まで、私はタイの首相府前で寝そべっていた。東北タイを流れるメコン河支流のパクムンダムの開門を要求する貧民会議(サマッチャー・コンヂョン)の長期泊り込みによる抗議行動に参加していた。当日には当局が強制退去させることになっていた。ところがこの事件である。強制立ち退きのニュースはカンボジアのニュースに掻き消されてしまった。数日後、首相府前に行くと、ダムに抗議する者はいなかったが、カンボジアの2州(アンコール・ワットを含む旧タイ領)はタイに帰属するというタイ字紙の論説のコピーを配布する活動家に出会った。

タイは国境を接するカンボジア、ラオス、ビルマ、マレーシアとそれぞれ問題を抱えている。ヴェトナム戦争(タイのアメリカ協力)以外にも、ナショナリズムに由来する歴史認識の問題がある。メコン河開発をめぐって、中国を含む流域国の利害関係がある。FTA導入と健全な国民経済の保護をめぐる葛藤がある。これらの問題が認識されており、その解決のためにも、東アジア共同体の構想が寄与する可能性もあるのではないかと、私は思った。

東アジア共同体の引き合いに出されるのがEUだが、その憲法条約にフランス市民の55%が反対し、大差で不支持を表明した。私などは新聞を読んで悲観的な気持ちになった。しかし、タイのNGO活動家が紹介してくれたATTAC Japan (Association for the Taxation of financial Transactions for the Aid of Citizens) によると、この「ノー」の意味は、政府間が進めるアメリカ流のグローバリズムと新自由主義の暴走を食い止めようとするもうひとつのグローバリズムの動きであった。

「日本がリーダーシップをとる東アジア共同体をどう思う?」と尋ねたところ、タマサート大学東南アジア研究プログラムの卒業1期生は「冗談じゃない。アセアン+3だ。」と答えた。戦後60年の今年、8月16日(タイの平和の日)には、バンコクの自由タイ(抗日運動)公園(昨年、自由タイ博物館がオープン)において盛大な平和祝賀行事が催される。「大東亜共栄圏」と同じ轍を踏まないように、誰のための、何のための「東アジア共同体」なのか、日本人はよくよく考える必要があると思った。

イギリスの平和マーチに参加して

高橋 勝幸 (2005年6月14日 19時31分)

2005年3月19日土曜日の正午、イラク攻撃2周年の前日、平和マーチはハイドパークからスタートした。私は前日の朝、新聞で、「反戦行進」の小 さな見出しに偶然にも目を留め、戦争協力阻止の強い意志を首相に示すデモが行なわれることを知った。夕刻帰途に地下鉄の駅前で、英軍撤退要求署名運動があ り、すかさず署名した。その場で、翌日の平和デモのチラシをもらった。

私は公文書館で資料を収集するために3月初旬にイギリスの地を初めて踏んだ。ロンドンは数日前からすっかり春めき、当日は汗ばむほどの陽気で、デ モに絶好の日和であった。私はハイドパークの入り口で、世界一のテロリストと書かれたブッシュの肖像のプラカードをもらい、アメリカ大使館を経由して、ト ラファルガー・スクエアまで、約6キロを約2時間かけて練り歩いた。老若男女、皮膚の色を問わず、大勢の人々が意気揚々と行進した。参加者があまりにも多 いため、アメリカ大使館を過ぎるまでは、遅々として行進が進まない。参加者は警察の推定によると4万5千人だが、主催者側は20万人と発表した。グラス ゴーとスコットランドでも平和デモが行なわれた。私は日頃の運動不足がたたり、多くの人に先を越された。しかし、歌あり、シュプレヒコールありのデモに励 まされ、何とかゴールまで辿り着くことができた。

新聞の報道によると、デモが行なわれた2005年3月19日までに、110人のイギリス人が命を落とし、その内イギリス兵はイラクで 86人が死亡した(アメリカ1,512人)。開戦時に45,000人を派遣し(全軍170,000人)、3月の時点で、8,930人の英兵が駐留していた (全軍175,000人)。2937人が負傷して引き上げ、その内824人は心的傷害を負った。(インディペンデント紙)もちろん、デモで配布されたビラ はイラクの被害者を強調し、イギリス派遣軍の撤退とブッシュによる戦争の阻止を求めた。

トラファルガー・スクエアでの集会では、平和運動団体、労働組合、学校、各種運動グループの代表がスピーチした。息子を戦場で失った母親は、「ブ レア氏は、私たちが黙ってはいないことを知らなければならない。軍隊を撤退させる時である。たった一人の母親がそう言っているのではない。世界中の母親の 言葉である」と(ガーディアン紙)。午後5時過ぎには、歌と踊りの祭典になった。集会は、国立美術館前の広場で開催されたこともあって、観光客も加わっ た。ブレア退陣や米英軍撤退を要求するプラカードをもって記念撮影する光景も見られた。

3月18日から20日にかけて、世界各地で反戦デモが展開された。イギリスでは今回のような全国規模のデモはイラク戦争以来11回目になる。主催 団体は戦争ストップ連合(Stop the War Coalition)、核兵器撤廃運動(CND)、イギリス・ムスリム協会で、これに社会主義労働者党(Socialist Workers Party)、Respect党、緑の党、共産党やパレスチナ解放支持団体などが参加した。5月5日の総選挙をにらみ、イラク攻撃に賛成した政党を不利に し、賛成した議員を落選させることも意図した。選挙直前に、法務長官がイラク戦争の合法性に疑義を進言した機密文書が暴露され、イラク戦争は大きな争点と なった。残念ながら労働党が辛勝し過半数を占め、ブレアの続投となった。しかし、小選挙区制のため議席には反映しないものの、労働党の得票率は与党として 最低の36.2%(47議席減の356)、イラク戦争に賛成の保守党は33.2%(+33の197)、イラク戦争に反対した自由民主党(+11の62議 席)は22.6%と前回より3.8%増やし、180人が次点であった。Respect党(社会主義労働者党、戦争ストップ連合が支持。議席1)などイラク 戦争に反対した候補者が活躍した。(毎日新聞)

イギリスのデモは象徴的な意味を超えて、小選挙区制度では選挙の争点になりにくい国際問題に対する国民の厳しい批判を、3期目のブレアに突きつけた。イラク参戦の責任はブレアの頭上に重くのしかかっている。

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プラカードを手に、ハイドパーク・コーナーを出発しようと待機する市民たち。

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トラファルガー・スクエアで登壇者のスピーチを聞き入る人々。背景に国会議事堂のシンボル、ビッグベンが覗く。

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