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タイの赤シャツ制圧その後: ウボンラーチャターニー中央刑務所訪問記

高橋 勝幸 (2010年7月3日 23時34分)

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2010年6月17日(木、9:20-13:40)僕は、ウボンラーチャターニー中央刑務所へ赤シャツの被拘留者を訪ねた。ウボン大学の同僚、学生、地元赤シャツ、バンコクの人権NGOの6人に僕がついていった格好だ。ウボン県は非常事態宣言が5月16日以来布かれている。一説によると、82人に逮捕状が出されている。僕の訪問時には、男性20人、女性6人の26人が拘留されていた。僕らが面談したのは、男性15人、女性6人の21人である。訪問の目的は、逮捕の経緯、取調べの状況と拘留の状態を知ることであった。判決前の人がなぜ刑務所に拘留されているのかはわからない。

監房の広さは8m×8mの64平米だという。食事、水浴び、排泄も同じ監房で行なわれている。3食付で、9時、12時、4時に提供される。監房にある書籍は仏教関係のみである。監房でテレビドラマを見ることはできる。午後10時就寝。

女性の監房は他の犯罪者と一緒。エイズ患者、麻薬で捕まった人もいる。他の犯罪者からは政治犯として疑いの目を向けられる。みな肌色の囚人服を着用していた。下着、生理用品が欲しいとのこと。家族親戚の訪問可。一般の訪問は事前に、訪問相手の氏名を伝えること。訪問日は制限されている。見舞品として「危険物」を差し入れすることを防止するため、果物などは刑務所で購入しなければならない。服の差し入れ可。

最初に手分けして男性5人と面談した。僕は要領を得なかったので、手持ち無沙汰な拘留者と話すことにした。

男性(1):
5月19日に県庁が燃えたとき、現場にいなかった。6月初旬に捕まった。入所して約1週間になる。同室に20人が収容されている。すべて赤シャツだ。狭苦しい感じはしない。食事はよい。サービスはいい。

男性(2):
ワーリン郡在住。自営の商売の他、日雇い。子供2人。チャックトンロップ(戦旗掲揚グループ。ウボン最大の赤シャツ・グループ)の会員。ほとんど活動に参加していない。しかし、5月19日は県庁にいた。県庁舎の2階から火が出た。軍人、警官は火を消そうともしなかった。当局が人民を射撃した。6月9日午前8時にワーリン市場で捕まった。武器所持と県庁焼き討ちの容疑で逮捕された。県庁焼き討ちの罪は重い。武器所持が本当なら、なぜ現行犯逮捕しなかったのか不思議である。証拠はない。ウボンの警察佐官が取り調べた。写真を提示され、その中に写っている人物を知らないかと尋問された。写真を見ても誰も知らなかった。保釈されたら、証人がいるので裁判で戦いたい。取り調べ、手続きに時間がかかりすぎる。監房ではニュースが入らない。仏教の本しか置いていない。監視人はいい。腹が立つことに、プアタイ党議員も職員も見舞いに来ない。[戦旗掲揚グループは民主党を非難し、プアタイ党を支援していた。]

次に6人と面談した。

男性(3):
66歳。市内在住。チャックトンロップの会員。警察から電話があって、出頭を命じられた。県庁の焼き討ち時に、庁内に建つラーマ5世王の像の東側で、自分が驚いて両手を挙げている写真が証拠になった。その日、私は県庁の外にいたが、警察の射撃の音を聞いて、子孫たち(仲間)を助けようと、敷地に入ったのだった。それまでは年寄りはみな外にいた。まだ、県庁は燃えていなかった。警察、軍、警備員が立っていた。自分は大通りに戻った。小さい火が建物からあがった。国王は関係がないので、国王の旗を柵から外して、警察に渡した。兵は庁舎を守らなかった。消防車も来なかった。100人もいれば消火できたはずだ。点火したのが誰かは知らない。県庁には放火すべきではなかったと思う。今回のデモには、3月12日から王宮前広場で15日間、4月10日から3日間ラーチャダムノーン、その後ラーチャプラソンに15日間滞在した。ウボン県庁前の夜の集会にも、時間があれば参加した。現在、自分には5人以上の政治集会への参加(非常事態法違反)、焼き討ち、公共物破損の容疑がかかっている。拘留は2回延長され、24日間既に拘留されている。6回まで延期できる。人権の立場から、援助してほしい。

男性(4):
63歳。市内在住。チャックトンロップの会員。6月9日逮捕され、6月10日より拘留。プアタイ党の見舞いがないのは不満に思う。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日、家にいたので、集会には参加していない。ただその朝、スタット寺院でタイヤが燃えているのを目撃した。県庁の焼き討ちはよくない。人民の財産の破壊であり、賛成しない。残念なことである。軍警の仕業だと思う。王宮前広場で3月12日から3日間、デモに参加したが、楽しかった。政府は正しくない。

次いで、4人の男性が現れた。

男性(5):
28歳。日雇い。6月14日に逮捕された。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日に現場(県庁)にいなかった。2年前に撮られた写真が証拠になっている。不当だ。

男性(6):
51歳。ワーリン在住。日雇い。チャックトンロップの会員。焼き討ち、武器所持、爆発物所持の容疑。5月19日県庁で石を握っている写真が証拠となった。5月19日のその時、県庁そばの寺の前にいた。子供を2時ごろ学校へ迎えに来たのだ。銃弾の音を聞いて、走って県庁敷地に入った。怒って、思わず地面に転がっている石を握った。火はまだ上がっていなかった。火災を目撃していない。集会にも参加していない。5月25日に逮捕され、拘留されて12日になる。拘留が2回延期された。自分も妻もムスリムでナラティワート県出身。自分はナラティワートでも貧乏で、ウボンに仕事を探しに来た。ウボンでも貧乏して、赤シャツを支持した。妻の先夫は軍人で国境警備のため、ワーリンの基地に異動になった。彼は妻子に対して責任を果たさなかったので、自分は彼女に同情し、結婚した。子供をもうけた。先夫との間の2人の子と合わせて、3人の子がいる。父親の自分が逮捕されたので、子供は学校に通っていない。誰も見舞いに来ない。電話番号もわからない。妻子はナラティワートに帰った可能性がある。(落涙。両手の指を僕たちを隔てる金網に絡ませながら、切々と訴えた。)

男性(7):
50歳、日雇い。チャックトンロップ。チャチョンサオ出身。仕事を探しに2007年にウボンに来た。チャックトンロップのラジオ、「ウボンの人民の声放送」の警備員をしていた。月給3,000バーツ(食住支給)。5月20日の昼前後に捕まった。放送機器が没収された。拘留されて1ヶ月近くになる。ラジオ放送による教唆、大衆騒乱の容疑。3月12日から4月8日まで王宮前広場でデモに参加した。仕事柄、赤シャツを支持している。赤シャツの意見は正しいと思う。県庁の焼き討ちについては知らない。監房には仏像と国王の写真があり、仏を敬っている。

男性(8):
26歳。仕事はガス輸送車の運転。チャックトンロップ。5月19日、スタット民主党議員の家の付近にいるところを写真に撮られた。赤シャツが反対運動をしていた。仕事中に通りがかり、ちょっと寄ったに過ぎない。電話が警察からかかってきた。出頭し、そのまま収容された。チャックトンロップにも会員になって、1ヶ月しか経っていない。

男性(9):
日雇い(小作含む)。チャックトンロップ。焼き討ちの容疑。6月12日から拘留され、4日になる。5月19日当日、自分はタラートノーイ(市場)にいた。証拠写真も似ているが、自分ではない。サンティ・アソークへの抗議運動にも行っていない。王宮前広場のデモには2-3日行った。小5、中1、中3の3人の子がいる。妻は腰を痛め、働けない。自分なしでは、家族は食べられない。

最後に12時半過ぎに、女性の逮捕者6人と面談した。

女性(1):
23歳。料理店勤務。チャックトンロップ。(リーダーであるトーイの家で、筆者は会っている)拘留は5月24日から22日になる。5月19日午後、民主党事務所、同党議員スタットの家、県庁と3箇所で反対運動に参加した。県庁にいるところを写真に撮られた。県外の友人から涙の電話があった。何も知らない友人は警察に写真を突きつけられて、彼女の友人の居場所を聞かれたというのだ。その日、県庁で兵が人民を銃撃したので、頭に血が上った。(涙ぐみながら)足を撃たれた人も、捕まって同じ監房にいる。撃った人はどうなっているんだ。6人が負傷し、一人は重傷だ。ゴム弾を使えばいいのに、実弾を使う必要はない。県庁は新しく建てることができる。しかし、家族は生命を取り戻せない。赤シャツはテロリストだといわれている。農民に武器はない。銃を売買しているというのか。兄弟同志が民主主義を要求して立ち上がった。我慢ならなかった。監房ではニュースを知る権利もない。4,5日前にこっそり新聞を読んだ。

女性(2):
ノーポーチョー・ウボン。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。寝食の状況よくない。睡眠薬がないと眠れない。5月の初旬にラーチャプラソン(バンコクの集会)からウボンに戻った。(金網越しに握手を求める)

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爆笑問題・太田光がんばれ。

高橋 勝幸 (2006年11月1日 1時17分)

2006年10月2日の新聞の全面広告「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」少なくとも朝日と読売には広告が掲載されました。太田光と中沢新一が並んで腕を組んで立っていました。カラーです。「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」このメッセージが広く届いたことを期待したいと思います。

爆笑問題の太田光はなかなかいいと思います。私はファンです。太田光は1965年生まれで、私と同じ年であります。この世代は、高校、大学で60年安保世代あるいは70年安保世代の教員の影響を受けているのではないかと思われます。

終わっちゃいましたけど、日本テレビ系の「爆笑問題のススメ」も面白かったです。いろいろな作家、文芸人を呼んで、対談する番組でした。ここでも、自民党批判、平和擁護、戦争反対の舌鋒をふるっていました。

TBSラジオの深夜番組(火曜。正確には水曜、午前1時)「爆笑問題カウボーイ」も昨年の8月(24日)、9月(14日)あたりは「シリーズ、太田はこう思う」(少なくとも10回)という特集を組んで、太田光が2時間ぶっ続けで戦争、平和、憲法9 条、靖国、テロ、イラク戦争、総選挙について毒舌を発していました。今年の8月はそれもなく、残念でした。お笑いで、がんばっているけれども、なかなか引き締めが厳しいのだろうと、想像します。

最近ではやはり日テレ系金曜午後8時から「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」で毒舌を聞けます。これは模擬国会で、提出された法案をディベートします。可決されたものは実際に国会にもっていくことになっているそうです。10月6日の番組では、「『憲法9条の日』という祝日をつくります」という提案を太田総理が提出しました。太田総理は「これが何十年後か、何百年後かわからない。でも、その先には憲法9条というものが実は全然ばかばかしくない時代がおそらく来るだろう。・・・・・・憲法9条は究極の理想だから、これを何とか変えないように」と主張しましたが、否決されました。番組では、しばしば自衛隊、憲法9条をめぐって、石破茂元防衛庁長官と議論を戦わせますが、太田光も守りの姿勢に追い込まれ、平和を語ることの難しさを感じさせます。

爆笑問題、とりわけ、太田光の活躍は大きいと思います。爆笑問題は、いわゆる漫才師系の芸能人であり、テレビの露出度も高く、人気もあります。幅広い年齢層、人々に大きな影響力があります。太田はよく本を読んでいます。方向性も好きです。

憲法九条を世界遺産にさて、太田光と中沢新一の対談『憲法九条を世界遺産に』は21万部を突破しました。一方、本物の安倍総理の『美しい国へ』は48万部で2倍以上です。

対談集の中で、太田光は言います。「今、憲法9条が改正されるという流れになりつつある中で、10年先、20年先の日本人が、「何であの時点で憲法を変えちゃったのか、あの時の日本人は何をしてたのか」となった時に、僕達はまさにその当事者になってしまうわけじゃないですか」(16 -17頁)。これだけは、私は避けたいと思います。平和憲法を改悪した当事者になって、後生の人々から批判されるのは御免です。あの忌まわしいアジア太平洋戦争において、「こんなことになるのなら、なぜあのとき、もっと反対しなかったのか」といった件が、『きけわだつみのこえ』にあったと思います。私は、大学で、「言うべきことを、言うべき時に言うこと」を教わりました。しばしば、TPOを間違えますが。戦争は不条理です。人を殺すことがよくないということがわかっていても、殺さなければ相手か、上等兵によって殺される、身内や仲間が殺されれば復讐の炎が燃え上がります。戦争は絶対に許されません。

中沢新一は答えます。「現在の国際情勢などというものに押されるようにして憲法を改正してしまうと、僕たちの時代は将来の日本人にたいしてひどい汚点を残すことになってしまうでしょう」(17頁)。

中沢は言います。「あいかわらず、まともな異論を唱えようとする人々を黙らせてしまおうとする、嫌な精神土壌はそのまま生き続けているでしょう」(18頁)。

中沢は語ります。「平和憲法は世界の憲法の中の珍品だと思います。ところがいま、この世界の珍品を普通のものに変えようとして、改憲論が吹き荒れているわけです」(54頁)。

太田は言います。「この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものでないというけれど、僕はそう思わない。この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思います」(96頁)。

中沢は答えます。「日本の仏教は価値があるといえる。その仏教を日本人は大事に守ってきた。今さら、あれはインドからきたものだからダメだとか、中国人が途中で漢文のお経を入れたからダメだなんて、誰も考えないでしょう」(61頁)。

中沢は主張します。「そういう(憲法9条-筆者注)場所があることを知って、そこに心を向けることで、世界は正しい方向に向かっていける」(78頁)。「そういうものを簡単に捨ててしまったりしたなら、日本人は、大きな精神の拠り所を失うと思います。この憲法に代わるものを僕たちが新たに構築するのは、不可能です」(79頁)。

「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」私は憲法9条を世界遺産にするのではなく、世界に広め、活かすべきであると考えます。憲法とは、我々が進むべき方向を示します。我々の意思であり、その実現のために不断の努力が必要であります。私たちは、平和憲法が世界の中で普通のものになるように、世界を変えなければなりません。

タイのクーデタ その2:新首相スラユット=チュラーノンで思い出すこと

高橋 勝幸 (2006年10月9日 4時58分)

2005年12月11日、旧解放区へ向かうスラユット=チュラーノン

スラユット=チュラーノン大将が2006年10月1日、24人目のタイ国首相に就任した。父パヨームはタイ共産党のタイ国人民解放軍の参謀として、息子のスラユットと長い間対峙したことがある。父親が共産党軍の幹部であったことから、スラユットの昇進は一時遅れた。1978年から1988年までの10年間、プレーム首相の副官を務めた。チャートチャーイ政権を打倒したクーデタ後、1992年5月、スチンダー大将の首相就任に市民が反対し、スラユットが率いた特殊部隊が発砲し、流血事件に発展した。スラユットはこの経験から、軍部の政治不介入を決意したという。1998年に陸軍司令官になり、東ティモールの国連平和維持軍参加とその成功により、軍のイメージを回復した。タクシン首相との確執により2002年、閑職の国軍最高司令官に就任し、2003年退役した。3ヶ月の出家後、プレーム枢密院議長によって枢密院議員に推された。

私は抜き差しならない政情不安にもかかわらず、このクーデタの発生を予期しなかったが、スラユットのような退役軍人が首相になることも予想しなかった。国内外の世論の反発から、軍部に影響力をもつ人物が首相に就くとは考えなかった。クーデタ直後にプレーム枢密院議長や首謀者のソンティ陸軍司令官とともに、スラユット枢密院議員もチットラダー王宮で国王に拝謁しているからである。また、クーデタを実行した「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」は速やかに民政移管をすると約束していたからである。私は2つの判断ミスをした。1991年のクーデタをいれれば、3つの予想が外れた。タイに関心をもって20年近くになるが、現実政治は水物で、実に扱いにくい。

昨年、すなわち2005年12月11日、タイ共産党が1970年代に本部を置いた解放区で私はスラユットを見た。ナーン県プーパヤックにタイ共産党を記念する博物館などの施設が建設され、その開所式が行なわれた。父パヨームも当地で活動していたので、スラユットも見えたわけである。

パヨーム=チュラーノンその父パヨーム=チュラーノン中佐は1947年11月8日のクーデタにタイ国軍最高司令部のスポークスマンとして加わった。このクーデタは政情不安を解決するために行なわれ、その後は、軍部は政治から手を引き持ち場に戻り、民主主義にのっとり民政移管されると、パヨームは信じていた。1947年クーデタはプリーディー=パノムヨンをリーダーとする抗日自由タイ派の文民政権を打倒し、タイの民主化を大きく遅らせたといってよい。パヨームはその後、陸軍を辞職し、1948年1月29日の国会議員選挙に立候補し、ペッチャブリー県から選出された。パヨームはクワン政府の国防大臣補佐官に就任した。クーデタ=グループはクワン首相に辞職を強要し、ピブーン元帥が首相に返り咲いた。国防大臣は続投したが、パヨームは補佐官を辞職した。軍の腐敗と政治参加に反対し、1948年10月1日に決行を予定していた「参謀本部反乱」に参加したが、そのクーデタは失敗した。それはサリット少将の結婚式の日を狙い、パヨームは式場の首相府でピブーン首相、ピン=チュンハワン中将、カート中将、サリットらクーデタ=グループの幹部を逮捕する予定であった。しかし、クーデタ計画は前日に漏洩した。パヨームの逃亡は成功した。パヨームは逃亡中に、タイ共産党に参加したと思われる。パヨームの最初のタイ共産党の接触は第二次大戦中であった。パヨームは、ピブーンの対日協力に反対であったので、抗日運動に協力しようとした。パヨームは共産党の政策に当初反対であったが、クーデタでは(戦後)ピブーン政権を打倒できないと認識すると、人民の革命の必要性を感じ、入党を決心した。中国に亡命し、1952年から1954年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で学んだ。1961年9月の第3回党大会で党中央委員会委員に選出されたと思われる。

スラユットは、父と考え方は異なっても、父子の絆は変わらないと述懐した。スラユットは1980年、北京で療養中の父と亡くなる直前に再会した。この頃はまだタイ国内ではタイ共産党が治安の脅威であったが、プレームの取り計らいで、チャートチャーイ=チュンハワン少将(パヨームが逮捕しようとしたピンの長男)の訪中団に参加した。中国側は党の保護下にあるパヨームの面談を拒否したが、外交経験豊かなチャートチャーイが鄧小平と交渉して、再会が実現した。その数ヵ月後に、パヨームは亡くなった。

一方、スラユット首相の母アムポートは、ボーウォーラデート親王の右腕のプラヤー=シーシッティソンクラーム大佐を父にもつ。母方祖父は、立憲革命後の政府を共産主義として、1933年10月11日人民党に反対して蜂起したその反乱で戦死した。

今回の首相人事は、プーミポン国王、プレーム枢密院議長、スラユット首相、国家治安評議会議長であるソンティ陸軍司令官のラインを浮き彫りにした。その中で、新首相は反体制運動の血統つきである。父は国王の天敵であった共産党幹部、母はボーウォーラデートの反乱に参加した勤王派の娘である。相対立する反体制派の混血児スラユット首相がタイの民主化に向けてどれだけ力を発揮できるのかが注目される。

革命の英魂へ読経 復元されたパヨームの住居 タイ共産党本部があったナーン解放区

タイのクーデタ

高橋 勝幸 (2006年9月27日 7時49分)

「国王を元首とする民主主義体制下の統治改革グループ」が2006年9月19日夜半、バンコクでクーデタを決行した。タクシン首相が国連総会出席等外遊によりタイを留守にしている間の出来事であった。実に1991年2月23日以来、15年ぶりのクーデタである。プミポン国王の承認のもと、現在、「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」が国家を運営している。

正直いって、私はクーデタがまさか起こるとは予期していなかった。私は1987年10月から1988年9月まで1年間、2001年6月から2004年5月まで3年間、タイに滞在していたことがある。私は前回のクーデタが打倒したチャートチャーイ政権が発足した年、そして今回のクーデタが倒したタクシン政権の最初の3年間をタイで過ごした。チャートチャーイ政権の「インドシナを戦場から市場に」という政策は、ポル=ポト派を含む3派連合から距離を置き、実効統治しているヘン=サムリン政権と交渉した。この経済・外交政策はタイの優越性に対するカンボジア人の反感を後に招いたが、私は対立・没交渉よりよいと思った。しかし、ポル=ポト派と利権のあるタイ軍は反発した。一方、タクシン政権は、ポピュリズム政策 ―1村1品運動、一律30バーツ治療制度、農民への債務繰り延べ、100万バーツ村落開発基金など― と批判されながらも、貧困と農村振興に正面から取り組み、北部、東北部で絶大の人気を博した。タクシンが他人の批判に耳を傾け、ビジネス倫理観をもてばよいのにと、私は常々思った。タクシンはタイにとって異色の首相であり、私は興味深く観察していた。

しかしながら、私はタクシン政権下にバンコクで暮らしてまもなく、一昔前なら、すなわち、前回のクーデタ時の1991年なら、クーデタが必ず起こるとも思っていた。というのは、タクシンは警察官在職中の1980年代にコンピュータを警察に貸し出すサービスを始め、電機通信ビジネスで成功し、1998年タイ愛国党を創設した。政府の許認可が必要な携帯電話、衛星、格安航空などで親族が巨富を築いた。タクシン首相は議会の圧倒的勢力と資金にものをいわせ、中央集権化を図り、独裁的傾向を帯びた。2003年2月に「麻薬取り締まり戦争」が宣戦布告され、最初の3ヶ月間で2,000人以上が殺害され、さすがに国内外から人権批判を浴び、控えたものの、3,000人近い人が殺された。国連による人権批判には、「国連は親父でない」と反論した。聞くのはポッチャマーン夫人の意見だけという噂が流れるほどであった。南タイでは、テロが横行し、政府の抑圧的政策がテロに拍車をかけた。しかし、軍部の政治的役割が後退し、民主化が進み、1997年の通貨危機を克服して、経済成長を進むタイで、クーデタが実際に起こるとは信じられなかった。

前回1991年2月23日のクーデタの際も、まさかの出来事であった。高い経済成長、外国の観光客や投資の増加、政治的安定、民選の首相のもとで、クーデタが決行されたからである。しかも、1977年10月20日以来、およそ13年半クーデタは成功していなかった。1991年のクーデタの理由の一つは国会の独裁である。末廣昭氏によると、タイ式民主主義は、国会を私物化する政党政治を批判し、これを駆逐するクーデタは民主主義の破壊ではなく、政治的安定を実現する、という。

今回と前回のクーデタとの共通点がいくつかある。第一に、クーデタの理由として、政治家の汚職、政党による独裁が挙げられたことである。第二に、民主化が定着する中であった。第三に経済が高度成長を維持し、外国人観光客が増加する中で行なわれたことである。第四にプミポン国王が役割を果したことである。第五に軍部の人事が絡んでいたことである。第六に、国民の大多数が、民主主義の否定であるクーデタを支持したことである。

決定的な違いは、今回、政情がタクシン派と反タクシン派に2分されていたことである。タクシン首相退陣を求める運動が勢いを増す中、タクシン首相の国王に対する不敬な言動―例えば「憲法を超えたカリスマのある人が政治に混乱をもたらしている」―は国内世論に大きな影響を与えた。また、軍部の政治的影響力が決定的に減少したものの、枢密院、すなわち、国王の取り巻きの退役将官が重要な役割を果したことである。国王とタクシン首相の確執が根にあった。前回は、国王はクーデタ後の民主派(市民)と反民主派(軍部)の対決の仲介の労をとった。今回は、タクシン首相と国王あるいは国王の取り巻きとの対立が決定的な要因であった。

王制はタイの国家の正統性原理の一つであるが、タイを安定させ、国民が信奉し、支えているのは王制というよりも、プミポン国王個人といってよい。歴史を振り返れば、タイは、世界恐慌を背景に、若手将校、中堅文民官僚の政府に対する不満が鬱積し、かれらが1932年6月24日にクーデタを決行し、専制君主制から立憲君主制に移行した。その後最初に成功したクーデタは1947年11月8日である。第二次大戦において日本と協力したピブーン軍事政権は日本の敗戦の前に抗日文民政府と民主的に政権を交代した。しかし、戦後の経済的混乱、1946年6月9日のアーナンタ国王の変死、冷遇された軍部の不満は、アジアに拡大する冷戦も助けて、1947年の退役将校によるクーデタを成功させた。プミポン現国王は兄の国王の死去により、その前年の1946年に即位した。今年6月9日には盛大に即位60周年が慶祝された。タイでは長らく、クーデタ⇒暫定政府発足⇒憲法制定⇒総選挙⇒政府発足⇒安定期⇒政治危機⇒クーデタのサイクルを繰り返してきた。戦後、すなわち、1947年から今回まで、失敗を含めてクーデタは15回を数える。プミポン国王は、この最初のクーデタから今回のクーデタまで、観察、仲裁、あるいは関与している。現在のタイにあって、最もタイの政治のカラクリを知悉しているのが国王であるといってよい。

王宮前広場2006年2月26日
王宮前広場2006年2月26日。タクシン首相の退陣を求める市民団体「民主主義市民連合」の集会開始前の風景(筆者撮影)

イギリスの非暴力による平和の闘士 ―Brian Haw―

高橋 勝幸 (2006年3月31日 20時24分)

今年の3月も全世界でイラク侵略と占領に反対するデモが繰り広げられた。そのデモに合わせて、一通のEメールがイギリスから届いた。ブライアン=ホーさんの支持者からのメールである。

私は2005年3月25日、その人に会った。昨年の3月19日、ロンドンの反戦デモに参加して、もらったカードを頼りに会いに行った。

ブライアンさんは議会広場に陣取って、平和を訴える。イギリスとアメリカのイラク政策に抵抗して、議会広場にいる。イラクに対する経済制裁、侵略、占領に反対して、2001年6月1日から居続けている。

私が日本から来たというと、ブライアンさんは、イラクで急増している白血病やガンに苦しむ子どもたちや奇形児の展示写真を案内してくれた。というのも、それらの写真は日本人が撮影したものだからである。フォトジャーナリストの森住卓氏が1998年より撮影した、湾岸戦争で米英軍が使用し た劣化ウラン弾で被爆したイラクの子どもたちがブライアンさんを抗議に駆り立てたのである。

「私は湾岸戦争の子どもたちによって目を開かれた。イギリス軍が犯した子どもたちへの放射能被爆に対してイギリス人として、一市民として本当に申し訳ない。かれらにはケアーが必要だ。私は抗議して4年間座り続けている」、と。

ブライアンさんが議会前に座り続けて、5年が経とうとしている。この間、ブライアンさんは何度も、逮捕によって立ち退かされ、展示物を取 り壊され、また、暴力を振るわれた。幾度も起訴され、勝訴した。2005年4月7日、ついに「2005年重大組織犯罪及び警察法」が成立した。この法律は 2005年5月5日の総選挙をにらんで、労働党が治安強化をアピールするために性急に法制化した、異議申し立ての自由を剥奪する悪法である。その第132 条は「議会広場から1km以内の、主務大臣が命令によって指定区域とした場所において、許可を受けていないデモを行うことを逮捕可能な犯罪とし、組織した 者には最高で51週間の拘禁刑と罰金2,500ポンドを科し、参加者には罰金1,000ポンドを科する」(岡久慶「2005年重大組織犯罪及び警察法− 「イギリスのFBI」設置へ」『外国の立法225』)と規定している。この規定の標的こそ、ブライアンさんなのです。これまで11人が警察の許可なしに議 会周辺のデモに参加したために有罪となり、その多くはブライアンさんの支持者であった。しかし、2001年6月から抗議しているブライアンさんには法律の 遡及効果がないと高裁は判定している。ブライアンさんは議会前での抗議の権利を守るためにも戦っている。

ブライアンさんの行動と勇気は、平和と正義のための運動に元気を与え続けている。

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議会広場で子どもたちのために抗議を続けるブライアン=ホーさん (2005年3月25日筆者撮影)

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森住卓氏が撮影した、米英軍による劣化ウラン弾で被爆したイラクの子どもたちの展示

タイから垣間見た「東アジア共同体」

高橋 勝幸 (2005年6月25日 16時50分)

中国の反日デモを契機に、民間の間からも東アジア共同体の必要性を唱える声が高まった。2005年12月にはマレーシアで初めて東アジアサミットが開かれる。私の身近でも早稲田大学の天児慧さんがAHC(Asian Human Community)を発足させ、この原稿は6月18日に行なわれた第3回準備会の私の発言をまとめたものである。

私は、東アジア共同体について、この5月に複数のタイ人に意見を聞いた。チュラーロンコーン大学アジア研究所研究員、AP通信記者、雑誌編集長、NGO活動家(Focus on the Global South)、大学生らである。これはあくまでごく一部の意見であり、政府関係者にも聞いていないので、一般化することはできないが、概して、東アジア共同体の構想には消極的であった。

彼らの意見を集約すると、アセアンですらうまく機能していないのに、東アジア共同体は一層複雑で大きすぎるという。共同体というには日本とタイは距離が遠い。確かに、在留日本人、日本の商品、アニメ、ポップスは巷にあふれている。しかし、同じコミュニティを形成するには違和感がある。

アセアンは外見からは、アジアにおいて稀有の共同体のように映るかもしれない。しかし、実態も実感もないという。会議で確実に決議されることは、次、いつ、どこで会議を開催するかである。強いて言えば、査証なしで移動ができること。確かに、入国手続きのアセアン国籍専用レーンが空いているのが羨ましい。

そもそもタイ人は隣国を知らなさ過ぎるという(日本もさして変わらないかも知れないが)。隣国に対する関心が低い。タマサート大学に東南アジア研究プログラムができたのは2000年である。学部レベルでタイ語で教える。チュラーロンコーン大学に同プログラムができたのはその後で、修士課程のみで英語コースである。現行のホームページの案内は、アセアンが取り組む東アジア共同体形成のダイナミズムを東南アジア研究の重要性として強調している。学生は半分がタイ人で、インドシナ3国、ビルマ、シンガポールの学生も学んでいる。

中国の反日デモに関連して、私が思い出したのは、千人におよぶカンボジア人が2003年1月29日にカンボジアのタイ大使館前で、抗議デモを行なったことである。このデモはエスカレートして、タイの大使館、企業、ホテル、レストランが焼き討ちされた。事の発端は、カンボジアでも人気のあったタイ人女優が「アンコール・ワットはタイのもの」と発言したとカンボジアの新聞が報道し、その年の7月の選挙対策として、反ヴェトナム感情に訴えられないフン=センが反タイ感情に訴えかける演説をしたことである。当時のタイ側の新聞には、タイ人ビジネス関係者がカンボジアで我が物顔に振る舞っていたとの反省があり、1970年代の日本の東南アジア進出を想起し、日本の福田ドクトリンに学べといった論調も見られた。

焼き討ちの前日の晩から当日の未明まで、私はタイの首相府前で寝そべっていた。東北タイを流れるメコン河支流のパクムンダムの開門を要求する貧民会議(サマッチャー・コンヂョン)の長期泊り込みによる抗議行動に参加していた。当日には当局が強制退去させることになっていた。ところがこの事件である。強制立ち退きのニュースはカンボジアのニュースに掻き消されてしまった。数日後、首相府前に行くと、ダムに抗議する者はいなかったが、カンボジアの2州(アンコール・ワットを含む旧タイ領)はタイに帰属するというタイ字紙の論説のコピーを配布する活動家に出会った。

タイは国境を接するカンボジア、ラオス、ビルマ、マレーシアとそれぞれ問題を抱えている。ヴェトナム戦争(タイのアメリカ協力)以外にも、ナショナリズムに由来する歴史認識の問題がある。メコン河開発をめぐって、中国を含む流域国の利害関係がある。FTA導入と健全な国民経済の保護をめぐる葛藤がある。これらの問題が認識されており、その解決のためにも、東アジア共同体の構想が寄与する可能性もあるのではないかと、私は思った。

東アジア共同体の引き合いに出されるのがEUだが、その憲法条約にフランス市民の55%が反対し、大差で不支持を表明した。私などは新聞を読んで悲観的な気持ちになった。しかし、タイのNGO活動家が紹介してくれたATTAC Japan (Association for the Taxation of financial Transactions for the Aid of Citizens) によると、この「ノー」の意味は、政府間が進めるアメリカ流のグローバリズムと新自由主義の暴走を食い止めようとするもうひとつのグローバリズムの動きであった。

「日本がリーダーシップをとる東アジア共同体をどう思う?」と尋ねたところ、タマサート大学東南アジア研究プログラムの卒業1期生は「冗談じゃない。アセアン+3だ。」と答えた。戦後60年の今年、8月16日(タイの平和の日)には、バンコクの自由タイ(抗日運動)公園(昨年、自由タイ博物館がオープン)において盛大な平和祝賀行事が催される。「大東亜共栄圏」と同じ轍を踏まないように、誰のための、何のための「東アジア共同体」なのか、日本人はよくよく考える必要があると思った。

イギリスの平和マーチに参加して

高橋 勝幸 (2005年6月14日 19時31分)

2005年3月19日土曜日の正午、イラク攻撃2周年の前日、平和マーチはハイドパークからスタートした。私は前日の朝、新聞で、「反戦行進」の小 さな見出しに偶然にも目を留め、戦争協力阻止の強い意志を首相に示すデモが行なわれることを知った。夕刻帰途に地下鉄の駅前で、英軍撤退要求署名運動があ り、すかさず署名した。その場で、翌日の平和デモのチラシをもらった。

私は公文書館で資料を収集するために3月初旬にイギリスの地を初めて踏んだ。ロンドンは数日前からすっかり春めき、当日は汗ばむほどの陽気で、デ モに絶好の日和であった。私はハイドパークの入り口で、世界一のテロリストと書かれたブッシュの肖像のプラカードをもらい、アメリカ大使館を経由して、ト ラファルガー・スクエアまで、約6キロを約2時間かけて練り歩いた。老若男女、皮膚の色を問わず、大勢の人々が意気揚々と行進した。参加者があまりにも多 いため、アメリカ大使館を過ぎるまでは、遅々として行進が進まない。参加者は警察の推定によると4万5千人だが、主催者側は20万人と発表した。グラス ゴーとスコットランドでも平和デモが行なわれた。私は日頃の運動不足がたたり、多くの人に先を越された。しかし、歌あり、シュプレヒコールありのデモに励 まされ、何とかゴールまで辿り着くことができた。

新聞の報道によると、デモが行なわれた2005年3月19日までに、110人のイギリス人が命を落とし、その内イギリス兵はイラクで 86人が死亡した(アメリカ1,512人)。開戦時に45,000人を派遣し(全軍170,000人)、3月の時点で、8,930人の英兵が駐留していた (全軍175,000人)。2937人が負傷して引き上げ、その内824人は心的傷害を負った。(インディペンデント紙)もちろん、デモで配布されたビラ はイラクの被害者を強調し、イギリス派遣軍の撤退とブッシュによる戦争の阻止を求めた。

トラファルガー・スクエアでの集会では、平和運動団体、労働組合、学校、各種運動グループの代表がスピーチした。息子を戦場で失った母親は、「ブ レア氏は、私たちが黙ってはいないことを知らなければならない。軍隊を撤退させる時である。たった一人の母親がそう言っているのではない。世界中の母親の 言葉である」と(ガーディアン紙)。午後5時過ぎには、歌と踊りの祭典になった。集会は、国立美術館前の広場で開催されたこともあって、観光客も加わっ た。ブレア退陣や米英軍撤退を要求するプラカードをもって記念撮影する光景も見られた。

3月18日から20日にかけて、世界各地で反戦デモが展開された。イギリスでは今回のような全国規模のデモはイラク戦争以来11回目になる。主催 団体は戦争ストップ連合(Stop the War Coalition)、核兵器撤廃運動(CND)、イギリス・ムスリム協会で、これに社会主義労働者党(Socialist Workers Party)、Respect党、緑の党、共産党やパレスチナ解放支持団体などが参加した。5月5日の総選挙をにらみ、イラク攻撃に賛成した政党を不利に し、賛成した議員を落選させることも意図した。選挙直前に、法務長官がイラク戦争の合法性に疑義を進言した機密文書が暴露され、イラク戦争は大きな争点と なった。残念ながら労働党が辛勝し過半数を占め、ブレアの続投となった。しかし、小選挙区制のため議席には反映しないものの、労働党の得票率は与党として 最低の36.2%(47議席減の356)、イラク戦争に賛成の保守党は33.2%(+33の197)、イラク戦争に反対した自由民主党(+11の62議 席)は22.6%と前回より3.8%増やし、180人が次点であった。Respect党(社会主義労働者党、戦争ストップ連合が支持。議席1)などイラク 戦争に反対した候補者が活躍した。(毎日新聞)

イギリスのデモは象徴的な意味を超えて、小選挙区制度では選挙の争点になりにくい国際問題に対する国民の厳しい批判を、3期目のブレアに突きつけた。イラク参戦の責任はブレアの頭上に重くのしかかっている。

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プラカードを手に、ハイドパーク・コーナーを出発しようと待機する市民たち。

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トラファルガー・スクエアで登壇者のスピーチを聞き入る人々。背景に国会議事堂のシンボル、ビッグベンが覗く。