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2011年タイ総選挙を読む

高橋 勝幸

2011年7月3日のタイ下院議員選挙では、初の女性首相誕生に期待をさせたタイ貢献党に圧勝・政権交代の風が吹いた。

初の女性首相になるか
タクシンの実妹インラック・チナワット
敗北を認めたアピシット

まず今回の選挙結果を見てみよう。投票者は35,203,107人、投票率は75.0%であった。前回2007 年選挙では投票者は33百万人ほど、投票率74.5%であったので、投票者は241 万人ほど増えたが、投票率はほぼ同じである。クーデタ及び現行憲法公布後初めて行なわれた前回選挙と同じく、今回も関心が高かったことを示している。下院の定数は500人、今回と前回の選挙結果を比較すると、タイ貢献党(タクシン派)は233(前身の「市民の力党」[注1]の議席)から265(53%: 括弧内の数値は全当選者中に占める割合。以下、同様) と32議席増やし、民主党は164から159 (32%) と5議席減らしている。比例代表の得票数はタイ貢献党が15,744,190票、得票率は44.7%、民主党は11,433,762票、32.5%である。

投票所風景 開票風景

プームチャイタイ党(市民の力党と中道主義党[注2]から移籍。民主党連立政権参加)は現職32から34 (6.8%)と2議席増やした。70の目標を掲げながらも、タイ貢献党の風を考慮すれば、善戦したといえよう。タイ国民発展党(タイ国民党[注3]と中道主義党から移籍。民主党連立政権参加)は25から19 (3.2%) と6議席減り、チャートパッタナープアペンディン党(ルアムチャイタイチャートパッタナー党とプアペンディン党が合併。民主党連立政権参加)は9から 7 (1.4%) と2議席減り、その他6政党が16議席を分けた。棄権票[注4]は2.9%から2.7%に減っているので、首相府周辺を占拠して黄シャツ(PAD, 反タクシン、反民主党の「民主市民連合」)が棄権票を推進した運動は失敗したといえる。

黄シャツの棄権票推進デモ 棄権票宣伝ポスター

小選挙区選挙は常識的には大政党が有利である。この選挙直前に憲法を改正する法律を制定し、下院議席を480から500に20増やし、比例代表を80から125に45増やし、小選挙区を400から375に25減らした[注5]。今回の選挙では民主党は政権党であったにもかかわらずほぼ現状維持と言ってよく、タイ貢献党は圧勝に見えるが、2005年選挙(377議席)と比較すると勝ちすぎてもいない。

過渡期のタイ選挙の経緯

次に2001年1月6日、2005年2月6日、2006年4月2日(無効選挙)、2007年12月23日の総選挙を比較しよう。

1997年憲法下初の2001年選挙は、小選挙区比例代表制の導入により、2大政党制の素地を作った。政党政治を強化し、内閣とりわけ首相に大きな権力を与えることになった。これにタクシンの個性が相まって、政権党民主党を破ってタイ愛国党(248議席)による一党支配が実現した。

史上初めての任期満了に伴う2005年2月6日の国会議員選挙では、民主党は選挙区で70人、比例で26人、計96人 (19%) の議員を獲得したにすぎず、タイ愛国党の選挙区310人、比例67人、計377人 (75%) を大きく下回った。民主党は相変わらず第2党で、タイ愛国党が圧倒的多数派で政権を維持した。民主党は敗北を受けて、アピシットが党首に就任することになった。

2005年11月、ソンティ・リムトーンクンが反タクシン運動を開始した。有識者からも、その独裁者的性格、言論統制、麻薬取り締まりの荒さ、南タイ問題による死傷者急増など批判が広がっていた。土地と株の取引をめぐって権力の濫用を弾劾し、2006年2月、タクシン退陣要求の声が高まった。民主市民連合(黄シャツ運動に発展)が結成され、街頭デモが続いた。タクシンはデモへの対応として、満を持して国民に信を問うことを決心し、2月24日国会を解散した。

2006年4月2日に総選挙が行なわれたが、憲法裁が無効にした。タイ愛国党は1,600万票、460議席を獲得した。棄権票は980万票で、40議席が空席のままだった。勝ち目のない民主党、タイ国民党、マハーチョン党の野党3党が選挙をボイコットしたからである。国王が「一党、一人のリーダーの選出では民主選挙とは言えない」と司法に介入し、憲法裁の判断となった。その理由は、民主党らの主張と同じく、国会解散から選挙までの期間が短く、小政党に不利というものだった。6月9日には国王即位60周年式典が控えていた。その後、選挙やり直しが模索された。

ところが、タクシンが国連総会に参加している最中、2006年9月19日、軍事クーデタが決行された。タクシン首相がその座を追われ、枢密院議員スラユット・チュラーノン陸軍大将を首班とする暫定政権が発足した。2007年憲法制定(18番目の憲法、8月24日発効)を経て、総選挙が行なわれることになった。

現行憲法下で最初の2007 年12月23日総選挙では、タイ愛国党の後身でタイ貢献党の前身である「市民の力党」は小選挙区199人、比例区34人、計233人(480議席中49%)で、民主党は小選挙区131人、比例区33人、計164人(34%) の国会議員を獲得した。市民の力党党首サマックが首相となったが、料理番組出演料を受領して失職した。続く、ソムチャーイ首相も黄シャツに首相府、空港を占拠され、挙句の果て、2008年12月2日(国王誕生日5日の直前)に憲法裁によって2007年選挙違反で市民の力党が解党処分を受けた。そこで、民主党は第2党であったが、枢密院と軍部をバックにして連立政権を樹立した。これに加わったタイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[注6]。

主党は農民、下層民の支持を取り付けるため、市民の力党政権のポピュリズム政策を継続、強化した。しかし、第2党であり、直接に選挙を経ずに軍部の支援で誕生した政権には、国会を解散し、選挙を実施して国民の信を問うべきとの声が高まった。とりわけクーデタに反対する赤シャツ(多くがタクシン支持)である。しかし、民主党はそれをせず、体制と軍部に頼って、政権と体制の維持に腐心してきた。信を国民に問うという方法もあったが、選挙を行なっても、タクシン派に負けることは確実だったので、解散もできず、政権に食らいついてきた。その結果が今回の下院議員選である。

任期が残すところ短くなり、赤シャツの要求も高まっていたので、アピシット首相もついに2011年3月11日、5月上旬に国会解散の見通しを明らかにした。そして5月9日に国会を解散し、5 月24日に候補者を受け付け、7月3日選挙の運びとなった。下院議院は任期をあと6か月弱残していた。選挙を半年ほど早めたからといって、主導的に解散権を行使したことにはならない。中西治氏が麻生政権の崩壊時に指摘しているのと同様に、まさに「追い込まれ解散」、「野垂れ死に解散」である[注7]。

タイの政治は21世紀に入ってから重大な変わり目に突入している。2001年の総選挙のときにタイ貢献党の前身であるタイ愛国党は比例代表で1,163万票、248議席を獲得した。それが2005年1,899万票をピークに、2007年には1,234万票、今回1,575万票である。これに対して民主党は2001年に761万票、2005年721万票、2007年に1,215万票、今回は1,140万票である。この10年間に民主党は761万政党から1,140万政党になった。タイ貢献党は1,163万政党から1,575万政党になり、政権党に返り咲いた。2大政党制への趨勢といえるかもしれない。

まとめ

民主党はクーデタ、市民の力党の憲法裁による不可思議な解党処分を経て、体制・軍部を背景に連立政権を樹立し、タクシン派のポピュリスト政策を引き続き実施した。国会解散要求などの反政府運動を激化させ、それを武力制圧し、国内対立を先鋭化させた。反政府運動参加者の殺りく、バンコク中心街及び県庁焼き討ち、政治犯容疑者に対する人権無視の拘留は、復讐心すら巻き起こし、政治不信を刻みつけた。国内対立を反映する社会になり、政情不安がみなぎった。南タイ問題、麻薬問題も深刻である。国民生活については物価高騰、失業問題が家計を逼迫させている。外交ではプレアビヒア寺院をめぐってカンボジア関係が著しく悪化した。世界遺産委員会からの脱退はタイの国際イメージを傷つけた。

燃えるウボン県庁 県庁焼き討ち容疑者

今回、タイ貢献党が勝利し、民主党が敗北を喫したとも言えるが、実のところ、民主党の議員数はさして変化はない。つまり、233議席の第1党に対して164議席の第2党である民主党がこれまで政権を担当していたのが異常なのである。170議席を下回れば辞任すると豪語していたアピシット首相は7月4日、党首を辞任した。下限が170とは政権党としてそもそも弱気といわざるをえない。与党はタイ貢献党がタイ国民発展党、チャートパッタナープアペンディン党、パランチョン党、マハーチョン党を加えて299議席に達し、安定政権の条件が整った。

タイの政治はこれからどのようになるだろうか。いくつかのシナリオが考えられる。第一は最悪のパターンである。アマート(貴族高官)や軍部がタイ貢献党連立政権を認めず、クーデタが起こる。任命による政府、国会が成立する。黄シャツが望んでいる形だ。そうなれば、赤シャツは再び勢いを増し、引き続き混乱が続くだろう。もし、この状況で軍部がクーデタを起こすとすれば、今回の選挙結果が現体制に対する主権者の厳しい批判であることが分かっていないことになる。

第二はタイ貢献党がアマートや軍部と取引し妥協する。これには様々なバリエーションがありうる。選挙で大勝したタイ貢献党はそう簡単には妥協に応じないだろうが、対立から国民和解をめざして、タクシンの処遇を含む政治事件の対応をどうするかのか注目される。赤シャツが強く求める百人近いデモ制圧犠牲者に対する責任追及は既成秩序に及ぶだけに最大の争点である。赤シャツは「恩赦」を認めず、正義(無罪)を主張している。その犠牲者と家族は事実究明と処罰を求めており、補償だけでは済まされない。また、赤シャツの射殺を命じた者が明らかになり、タイ貢献党の妥協の上で恩赦を与えられれば、赤シャツの反発は避けられない。

第三はタイ貢献党が主導的に国民和解を進めることである。政治事件、不敬罪についても進展が見られよう。タイ貢献党を勝たせた赤シャツの政治犯容疑者が無罪放免される。ただし、タクシンに恩赦を与えることに成功すれば、黄シャツなど反政府運動を勢いづかせる。アマートや軍が動き出すことは間違いない。

第四はタイ貢献党が公約を実行できず、政治犯容疑者を見捨て、赤シャツとの対立を深めることである。国民からも信を問われることになる。民主党と同じ轍を踏むことになろう。タイ貢献党、赤シャツのそれぞれ内部でも対立・抗争が発展する。

タクシン政権を経て、タイの国民、とりわけ農村や下層の人々は「政治が変われば、社会が変わる」ことを実感した。かれらの政治参加はタイの政界の再編成をもたらすだろう。産みの苦しみはまだ続く。揺れ動くタイの政治も21世紀システムへと向かいつつある。今回の下院選挙はその軌道修正といえるかもしれない。

1 2006年の無効選挙で違反があったとして2007年5月解党処分となったタイ愛国党を引き継いだが、2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。タイ貢献党が引き継いだ。
2 2007年10月創設。タイ愛国党の受け皿になった政党の一つ。2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により、プームチャイタイ党に引き継がれた。
3  2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。
4  投票用紙に、誰にも、どこにも「投票することを望まない」という欄がある。
5 この常識は『タイラット』2011年7月7日号のコラムでも確認できる。選挙区0で比例代表で4議席を獲得したラックプラテートタイ党はその典型である。しかし、政党よりも人物本位で選ぶ傾向が未だ強いタイでは小選挙区が中小政党にも有利であるともいわれる。それはこの法律立案過程を見れば明らかである。今回の選挙ではチョンブリー県のパランチョン党(ガムナン・ポ一族)、スパンブリー県のバンハーン・シンラパアーチャー一族が挙げられる。
6  http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス
7  中西治「日本の政治情勢について」2009年7月13日 [2011年7月5日アクセス]。選挙分析は中西氏の手法に倣った。ここに恩師に感謝申し上げたい。また、チェンマイ大学歴史学科の水上祐二氏にも貴重なコメントをいただいた。彼は『時事速報』(7月6日号)で選挙後のシナリオを的確に分析している。

(2011年7月7日脱稿)

赤シャツ村訪問記: マハーサーラカーム県コースムピサイ郡ドーングローイ村を中心に

高橋 勝幸

赤シャツ村については、『日刊マティチョン』2011年6月10日号(1)に特集がある。それによると、最初の赤シャツ村は2010年12月15日にウドーンターニー県ムアン郡のノーンフーリン村にできた。現在、ウドーンターニー(以下、ウドーン)、コーンケン、マハーサーラカーム県を中心に300以上あるといわれる(2)。それらは赤シャツが6-7割を占める村だそうだ。村民は現在、当然のごとくプアタイ党を支援している。2011年7月3日の総選挙を8日後に控えた6月25日、筆者は赤シャツ村を訪れた。前日にコーンケン県市内に入った。25日朝、ホテルのフロントで「赤シャツ村に行きたいのだが」と話すと、女性はキョトンとしていた。日本からわざわざ取材にでも来たのかという調子だった。しばらくして、行き先と行き方を教えてくれた。早速、教えられた乗り合いバスをつかまえると、「赤シャツ村には行かない」と言われた。教えてくれたのは、どうも赤シャツが多い住宅地であったようだ。バスターミナルへ行って、三輪タクシー(トゥクトゥク)に赤シャツ村へ案内してもらうことにした。1台目のトゥクトゥクは赤シャツ村がどこにあるか知らないと正直に答えてくれた。2台目のトゥクトゥクは「知っている」というので、それに乗った。乗って5分も経たないうちに、赤シャツの街宣車に出会った。「誠実でない、嘘つきのアピシットに対して、選挙で戦おう」とスピーカーで流していた。案内された所は、赤シャツの小さな拠点で、家電製品の卸問屋のような所だった。プアタイ党の遊説カーが1台停まっていた。そこで何人かに聞いたが、赤シャツ村の所在はわからなかった。話の通じる人がいなかったので、バスターミナルに戻った。筆者は東北タイのトゥクトゥク、タクシー、バスなどの労働者は皆赤シャツだと信じ込んでいる。メーター・タクシーやトゥクトゥクの運転手に聞いてもわからずじまいだった。バスターミナルの案内人に聞くと、赤シャツ村は郊外にあり遠いという。マハーサーラカーム県にある赤シャツ村が行きやすいと教えてくれた。

ウドーン、コーンケン、マハーサーラカームに300近く赤シャツ村があるというから、筆者は簡単に行けるものだと思い込んでいた。筆者の住むウボンラーチャターニーからはウドーンは遠いし、マハーサーラカームは赤シャツ村が少なそうだから、コーンケンを選んだ。コーンケンまでバスで5時間近くかかった。ウドーンへはコーンケンからさらに2時間かかる。コーンケンからマハーサーラカ-ム行きのバスに乗り、乗務員に「赤シャツ村に行きたいから、近くに着いたら教えてほしい」と頼んだ。バスに乗ってしばらくすると、雨季に入って苗を植えたばかりの水田が広がった。この中を自家用車もなしに、赤シャツ村に到着するのは容易ではないと思うようになった。うとうとしていると、「赤シャツ村です」というアナウンスがあった。マハーサーラカーム県市内のちょっと手前だった。確かに何やら入り口に赤旗が立っている。それは寺院だった。赤シャツのラジオ局が境内に設置されていた。赤シャツ村ではなかった。放送を終えたばかりのDJウィーラポン・クーリーランが筆者に親切にしてくれた。同県の赤シャツの創設メンバーの一人と自称する。彼はマハーサーラカーム大学の英語教員を定年退職した。チャムローン・ダーオルアン(3)の親戚筋だという。彼に、赤シャツ村の案内者を紹介してもらい、市内バスターミナルまで送ってもらった。コーンケンの方へ30キロ戻ることになった。コースムピサイ郡(市内からバスで40分)のバスターミナルに赤シャツ・リーダーが車で迎えにきてくれた。

赤シャツ・リーダーの話

迎えにきてくれたのは、マハーサーラカーム県の反独裁民主戦線(ノーポーチョー、赤シャツの中央組織)の事務局長でスティン・クランセーン博士(4)(元パラン・プラチャーチョン党国会議員)に次ぐナンバー2である。名前はチャートアーティット・タンタラック(51歳)、ラームカムヘーン大学を卒業した弁護士だ。1992年5月の民主化運動に参加した。赤シャツ村に行く前に、彼の法律事務所で、赤シャツ村のレクチャーを次のように受けた。

「ノーポーチョーが認める赤シャツ村はマハーサーラカーム県には今のところコースムピサイ郡フワクワーン区のドーングローイ村一つしかない(5)。同県のノーポーチョーの議長であるスティンが2011年5月17日に発足式を執り行なった。ドーングローイ村は8割以上が赤シャツである。赤シャツ村ができて1ヶ月余がたつが、6月16日、同県知事によって赤シャツ村の宣言に対して法律違反の疑いがもちあがった。しかし、法律にそのような規定はない。思想の自由を制限する方がかえって法律違反である。

「赤シャツ村の宣言は、村民の合意があって、その上で村長も承認していることが前提条件である。数日前も赤シャツ村を宣言した村があり、自称の赤シャツ村は既にいくつかある。公認を得るには、主導権争い・もめごとがないか、村民の合意が取れているか、本気度を確認する必要がある。

「赤シャツ村の目的は、民主主義を求め、助け合って戦うことである。その理由は、法の下の平等がなく、二重基準がまかり通っているからだ。活動は赤シャツ村宣言をした以外は、他の赤シャツと同じである。すなわち、集会と選挙監視だ。監視とは公正な選挙が行なわれているか、選挙権の資格、買収などに警戒することである。赤シャツ村宣言の影響は、内部に対して誇りを生み、他県に対して勇敢さの見本として励ましとなっている。

「赤シャツ村設置と選挙とは関係がない。その証拠に、ずっと以前にできた村がある。準備次第だ。赤シャツ村より進んだ村もある。実際、選挙運動は必要ない。

「赤シャツは民主主義を要求しているだけで、イデオロギーはない。」

赤シャツ村へ入る

赤シャツ村入り口、
左手にプアタイ党の選挙看板が見える
入り口に立つ赤シャツ婦人

以上のような説明を聞いたうえで、赤シャツ村へ行った。赤シャツを着た婦人が5人、村の入り口にたむろしていた。彼女らが言うには、同村は約300世帯千人(6)から構成され、主な生業は稲作で、自家米の残りを売って生計を立てている。筆者は次のように質問した。

―赤シャツとして何をしているか。

「私たちは民主主義を要求している。難しいことを言っているのではない。二重基準を批判しているのだ。赤シャツが不当に逮捕されている。正しいことと誤っていることが逆転している。以来、政治に強い関心をもつようになった。マハーサーラカームの赤シャツがバンコクの制圧で殺された。武器を持たない素手の人間だ。誰が殺りくを命じたのか。アピシットだ。」

―赤シャツ村ができて何か変わったか。

「赤シャツ村ができて、嬉しい。それ以外に特にできる前とできた後で変化はない。」

―選挙運動に関わっているか。

「皆外見はどうでも、心は赤シャツなので、選挙活動は不要である。プアタイ党が勝利したら嬉しい。女性首相が生まれる。女性の方がいい。アピシットは国会解散の要求に耳を傾けなかった。アピシットはうそつきで、不誠実だ。その政治は二重基準で汚職まみれだ。私たち田舎者は誠実でうそをつかない。借金漬けにしたアピシットは最悪だ。今、物価が高い。それに比べて、タクシンはいい人だ。」

―タクシン政権のどこがよかったか。

「タクシン時代、一村一品運動に参加し、特産品を作ったがよく売れた。30バーツ医療政策をよく利用した。アピシットはそれを真似ただけだ。タクシンの前は人物本位で選んだ。タイ愛国党の政策に賛同し、ためしに投票し、お手並みを拝見した。口だけのアピシットと違って、公約を実行した。」

―長いこと、民主主義を要求して疲れないか。

「私たちは後方部隊なので疲れない。(赤シャツ)テレビを見て情報をアップデートしているだけで、集会に参加していない。」

婦人の中の一人、ムンさんは2010年3月から5月までのバンコクの赤シャツ集会にトータルで2ヶ月参加した。彼女は筆者に訴えた。「5月19日に、パトゥムワナーラーム寺(7)の向かいにいた。中にいたら殺されていた。高架鉄道(BTS)の線路には兵士が並んでいた。そこから銃弾が発せられた。4月から5月までの殺人が最大の憎悪を生んだ。赤シャツの運動は勢いを増した。」

赤シャツ男性は次のように筆者に話した。「2009年から赤シャツの活動に参加した。コーンケンの友人から紹介された。その頃は、この村にまだ赤シャツはいなかった。その後、メディア、特に赤シャツのテレビ放送の影響で赤シャツが拡大した。」

赤シャツ村の中:
プアタイ党選挙看板と赤旗
赤シャツ村の中にある民主党選挙本部

村の中で変わったところといえば、家の前に赤旗を立てるぐらいだった。しかし、この赤シャツ村の場合、同じ村の中に民主党4区の選対本部があった。もちろん、赤シャツ村ができてから、設置されたものだ。嫌がらせのつもりだろうが、赤シャツは特に気に留めていない。

赤シャツ選挙支援集会

筆者は25日、マハーサーラカーム県赤シャツ事務局長に同行することにした。選挙を前にして、毎晩どこかしら少なくとも一箇所で区単位の集会が行なわれているという。集会は闘争の一つで、協力して独裁に反対し、民主主義を推進する政党を支援する。弁護士が職業である彼は集会について「政党名は言えないが、赤シャツが支持する政党は一つしかない。言えないのは、選挙法にひっかかるからだ。演説会は許されるが、音楽など華美な集会、誹謗中傷、脅迫は禁じられている。批判は可能であるが、中傷と批判の線引きは難しい」と説明した。

赤シャツ選挙支援集会

マハーサーラカーム大学に近いチャンプラディット寺(カンタラウィチャイ郡カームリアン区マコーク村)の広場で赤シャツの集会が行なわれた。当選挙区はプアタイ党とプーミチャイタイ党の一騎打ちで激戦区である。というのは、プーミチャイタイ党が県行政機構長(インヨット・ウドーンピム)を候補者に立てたからである。19時30分から演説が始まった。弁士は菩提樹の下の壇に立った。特設ステージはない。この時点で大人は30人くらいで、戯れる子どもの方が多かった。いすも用意されておらず、ござやサンダルを敷いて座っていた。

20時に同県ノーポーチョーの事務局長チャートアーティットがマイクを握った。この時、聴衆は百人ぐらいいた。まず、「今日は候補者は来ない」と前置きした。そして、「我々は長い間、民主主義を要求してきた。軍部より上の、政府よりも上のセーンヤイ(強力なコネ)がタイの政治を牛耳っている。アムマート(貴族高官)制度である。スラユット・チュラーノンら枢密院が強い影響力をもっている」と現状を述べた。当面の任務として、①政治犯・収容されている赤シャツの釈放、②アピシット、ステープ、将校ら人民の殺りくを命じた者の処罰、③政党解散を容易にする二重基準で任意的な2007年憲法の廃止と1997年憲法の復活、④赤シャツ村、赤シャツ村長、赤シャツ区長の推進、⑤選挙監視の5つを掲げた。その上で、7月3日の選挙の意義について述べた。「今回の選挙はアムマートの国するか、プライ(平民農奴)の国にするかを決する選挙である。第1党が政府をつくらなければならない。第1党が251以上の議席(500議席)を獲得すれば問題はない。しかし、第1党が過半数を獲れなかった場合、アムマート、見えざる手、セーンヤイが介入し、第2党、第3党から政府を作り、民主主義に危殆が生じる(8)。それゆえ、断固、過半数を獲らなければならない」と。

次に同県ノーポーチョー代表スティンがイサーン語(東北タイ方言)で演説した。「今日は、レッドカードが出る恐れがあるので、候補者は来ない。今、区ごとに集会を行なっている。タクシンは4年の任期を全うした唯一の首相である。IMFの借金を完済した。2期目も377議席を獲得した。そこで、嫉妬が起こった。タイ愛国党は解党処分となった。妻が土地を購入し、タクシン元首相は禁固2年の判決を受けた。2007年選挙はイサーン人の力で勝利し、サマック首相を生んだ。料理番組に出て、サマックも首相の座を追われた。ソムチャーイ首相にいたっては、首相府を不法占拠され、2ヶ月で憲法裁の判決で退陣となった。当時教育委員会委員だった自分は、飛行機でバンコクに行き、ピックアップで地元マハーサーラカームに帰る羽目になった。フカヒレスープを食べていたのが、蛙のスープをすするようになった。妻は呆れた。アピシットがいなければ、頭が痛いことにはならなかった。頭痛の種がなければ、赤シャツは出現しなかった。タクシンは30バーツ医療政策、老齢者に対する福祉、公共のボランティアに対する謝金支払い、公務員の給与アップ、村長・区長の給与アップ、農民の収穫補償を実施した。アピシットは口だけである。大学院を出ても仕事がない。麻薬問題が深刻になっている。ラーチャプラソンでなぜ政府は人民を殺したのか。最近、赤シャツ村、赤シャツ村長を取り締まろうとする動きがあった。……」と。

最後に、資料が配布され、投票が無効にならないように投票用紙の記入方法の説明があった。22時10分過ぎに解散となった。最大時、約200人の聴衆がいた。女性が7割で、30代後半以上が多かった。筆者の回りは壮年ばかりで、酒臭かった。飲んではいないが、飲んできたようだ。

むすび

この手の赤シャツの集会には、候補は来れないかもしれない。巧みにプアタイ党への言及を避けているものの、前身のタイ愛国党の業績、パラン・プラチャーチョン党の解党、タクシンの政策手腕への賞賛、サマック、ソムチャーイに対する言及、アピシット首相に対する非難は選挙法に触れるかもしれない。赤シャツによる現体制、アピシット、民主党への批判は厳しい。一方の民主党は6月23日、ラーチャプラソンで街頭演説会を行ない、躍起になって赤シャツの射殺に対する責任を回避している。

マハーサーラカーム県は赤シャツが一つのグループに結束しているという。同県の赤シャツの強みは、県の規模が小さく、スティンというリーダーがいることだと筆者は思う。

選挙や運動にはタマが必要である。その意味でインラック・チナワットは最高のタマだ。タクシンの妹、タクシン人気、女性、美人と来ている。ヨンユット・ウィチャイディット党首代行では影が薄い。インラックなら応援しやすいし、応援したくなる。

次の問題は選挙後である。赤シャツが掲げていた国会解散、選挙実施という当初の目標が達成する。プアタイ党が勝利した場合、反政府運動を展開してきた赤シャツはいかに運動の勢いを維持していくのか。求心力低下は避けられないのか。何を敵として戦うのか。新しいタマを打ち出せるか。期待が高いだけに、プアタイ党の政治に対する失望は生まれないか。黄シャツやアムマートはどう反応するか。興味は尽きない。

(ウボンラーチャターニー大学教養学部東洋言語文学科講師)

1 筆者が実際に見たのは6月9日。

2 マティチョン』同号によれば、ウドーン県には1,635村中、213の赤シャツ村があり、コーンケンには210村ある。その他に、南タイのトラン県でも5月29日に赤シャツ村が生まれた。選挙運動員(フア・カネーン)との謗りを恐れて、総選挙後にさらに赤シャツ村が誕生すると報じられている。最初の赤シャツ村として国内外のメディアに取り上げられてから、ノーンフーリン村は治安維持本部や当局の監視を受けるようになり、嫌がらせの電話もかかってくる。当局は赤旗の撤去を要請した。同村はそもそも県庁焼き討ちの嫌疑に対して、国家権力を恐れないことを示すために、赤シャツ村の宣言をした。最近では軍事教練所の嫌疑をかけられている。また、王制廃止要求という言いがかりについては、王室と政治の分離を要求しているだけだと主張している[“‘Red’ Udon Thani villagers deny training militants,” The Nation, June 27, 2011]。

3 マハーサーラカーム県の自由タイのリーダーで、インドシナ独立運動に対する武器支援を担った。元閣僚で、プリーディーの武装蜂起に連座して、1949年3月、警察当局によって暗殺された。チャムローンに次ぐ自由タイのリーダーである同県国会議員ナート・ガンタープ(現ラーチャパット大学の前身の校長)はウィーラポンの父親と親しかった。やはり自由タイで、同県国会議員であったディロック・ブンソームとも親しく、家が近所だという。

4 スティンはパラン・プラチャーチョン党の解党処分に伴い、2008年12月選挙権を失った。元マハーサーラカーム大学学長補佐。

5  ドーングローイ村は実際は第6、第17、第20の3つの村からなる。

6  不正確であると思われる。

7 看護士を含む6人が銃殺された。多くの赤シャツが、寺院は安全だと信じて避難していた。

8 タイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス]。

タイとカンボジアの国境で何が起きているのか?:タイ側被災地を訪ねて

高橋 勝幸

私は涙を流しつつ叫びたい。この涙は怒りに満ち、現世と来世に渡るまで恨みを果たそうとする男児の血の涙だ。
愛すべきタイ人兄弟よ。いつの日か、我々はプラウィハーン遺跡をタイ国の所領にきっと取り戻さなければならない。

これは、国際司法裁判所がプラウィハーン遺跡(カンボジア名はプレアビヒア)のカンボジア帰属の判決を下した後の1962年7月4日、サリット首相[1]の声明の一部である。この文句が黄シャツ[2]のテレビ局「ASTV」で度々読み上げられる。カンボジアに対して失地回復を求めて、今も続くバンコクでの黄シャツの集会でも読み上げられている。

僕は今、東北タイにあるウボンラーチャターニー大学で日本語や歴史を教えている。ウボンラーチャターニー県(以下、ウボン)は東はラオス、南はカンボジアの国境に接している。ラオスとの国境の一部はメコン河だが、残りは陸続きだ。2011年2月4日、軍事衝突が起こったプラウィハーン遺跡周辺[3]は、タイ側はシーサケート県である。ウボン県の西隣の県だ。紛争地はウボン大学から車で1時間半ほどで、ほぼ南に直線距離で約100kmに位置する。

僕は2011年2月12日、参与観察を続けている赤シャツの友人と被災者のお見舞いに行った。午前中、まず避難所のガンタララック郡役所を訪れた。役所の外周に巡らした柵の垂れ幕が目に飛び込んだ。平和を渇望し、戦争を憎悪するものや、カンボジアに対する敵対感情を煽る黄シャツを非難する内容だ。役所には炊き出し、就寝用テント、見舞い品、被災者登録、軍人、ボランティア、メディア関係者が見られた。国境近くの住民は役所に集団避難していたが、軍事衝突が落ち着き、午前中にはほとんどが家財と見舞い品を持って帰宅していた。

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平和を求める垂れ幕 被災者登録
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帰宅する避難者 義捐物資

午後、ガンタララック郡サオトンチャイ区プームサロン村の被災者の自宅を伺った。両隣の2件が被弾して全焼していた。長さ70cm、直径20cmの砲弾だったという。そして向かいの家に行った。直径5mの爆弾跡が畑にあって、驚いた。さらに驚いたことは、この家の主であるチャローン・パーホームさん(59)は2月4日夕方(15時から17時半の間)に被弾して即死したというのだ。タピオカ、カシューナッツ、ココヤシ、ゴムなどの換金作物を栽培していた彼は爆音を聞いて、枯れた灌漑水路に避難したが、砲弾が水路に落ちてそれに沿って進んできて被弾した。僕はその話を未亡人から聞いた。彼女はカンボジアを憎悪することなく、タイ側の黄シャツが戦争を扇動したと批判した。

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全焼した家屋 被弾の跡
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被弾の跡を囲んでみる 夫が被弾した地点を示す女性

次に被爆したプームサロンウィタヤー中学校を訪ねた。僕にとって半年振りの訪問である。前回は、民間レベルのタイ・カンボジア友好促進のために、両国のNGOがシエムリアップとシーサケートを相互訪問し交流した時に拠点として利用した。交流地となった校舎の屋根が被弾していたのはショックであった。校内の至る所に防空壕がある。初めて見た時は遊具かと思った。その時、食堂で働く女性に聞いたら、防空壕を使ったことはないが、そのような事態が起こったら怖いと言っていた。今回、食堂の隣の仮校舎も砲撃を受けていた。

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被爆したプームサロンウィタヤー中学校
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砲弾 被弾した仮校舎

4人の聞き取りを整理すると次のようである。

  • 女性① (避難所で)  戦争を欲しない。普通の生活を取り戻したい。家を空けて、避難所生活をするのはいやだ。家財など大事なものを家に残したままだからだ。
  • 女性② (被爆して父を亡くした娘)政府から小額(7万5千バーツ)の補償金をもらっても、嬉しくない。戦争を扇動した人たちは失われた命や財産に対して責任を持つべきだ。
  • 女性③ 村人は黄シャツを歓迎しない。黄シャツは諸悪の根源だ。多くの村人は赤シャツだ。
  • 男性① プラウィハーンはタイに帰属しないが、黄シャツが領有を要求するまでは何も問題は無かった。

僕は見舞いを終えて、同僚に今回の事件について意見を聞いた。彼女はスリン県出身(シーサケート県の西隣)でクメール語を話す英語教員だ。

「プラウィハーンという一つの遺跡を巡って、長い間争いをし、もううんざりしている。指導者の問題だ。一番被害を被っているのは国境周辺に住む住民だ。バンコクで戦争によって問題を解決しようとしている一部の人々、つまり、黄色いシャツの人たちが悪い。黄シャツは主権だ、領土だと騒いでいるが、地元住民の生活や気持ちが理解できない。地元の住民は生活が大切だ。領土や国境にそれほど関心はない。両国の軍事衝突によって、どれだけ生活を脅かされ、苦渋を強いられているか。生活してみるがいい。しかし、黄シャツが現地に行けば、袋叩きにされるだろう。」

僕が今回の訪問で気づいたことは2点ある。一つは、被災者の批判の矛先がカンボジアよりもタイに向いていることである。黄シャツがカンボジアを挑発するような行動、言論を繰り返すことが批判されている。もう一つは、「防空壕」の存在である。現在、シーサケート県内には297の防空壕があるが、新たに451の防空壕を作るそうだ。土管に土嚢を重ね藁をかぶせたようなものだ。何でも1979年にポル・ポト派がベトナム軍に追われて、国境沿いに拠点を築いて以降、防空壕が作られたそうだ。防空壕が無くても平和に暮らせる日が一刻も早く訪れることを願って止まない。

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防空壕 プラウィハーン遺跡観光のためのタイからカンボジアへの出国許可証

この悲劇は、アンコール王朝の文化遺産が国境に近い絶壁の上に位置することにある。フランス植民地との国境画定が問題を更に複雑にしている。サリットに同行したタイ研究の碩学の石井米雄氏も、プラウィハーン寺院はそのアクセスからタイに帰属すると実感したという。この話を紹介してくれた桜井由躬雄氏は「プラウィハーンはタイのものでも、カンボジアのものでもなく、人類の文化遺産であるから、国連組織が管理すべきである」と話していた[4]。僕は、両国による共同管理によって、プラウィハーン遺跡が平和・友好のモデルとなることを期待している。


1.1959-63年に首相を務めた。独裁者として知られる。
2.反タクシン派で、バンコクの高官や既成財界などの既成支配層に強力なコネをもつ民主市民同盟。赤シャツに対抗。
3.事件の背景は拙稿「タイ・カンボジア関係:プレアビヒア寺院をめぐるウボン大学学生の反応」『タイ国情報』2010年3月号、26-42頁を参照。
4.2011年2月7日、ウボン大学にて。

獄中からの手紙:ウボンラーチャターニー中央刑務所の赤シャツ

高橋 勝幸

ウボンの刑務所に収容されている主婦(42歳)から手紙を預かった。拙ない訳だが紹介したい。

他人に罪を着せること 山を見るが如く明らかなり
己に罪を着せること 一本の髪の毛を見る如し

他人の臭いは 我慢ならない
自分の臭いは 気にならない

(名僧)

この詩はタイの今の状況を言い表している。国家は武器を用いて多数の国民を殺傷した。にもかかわらず、国民を傷つけた人々は投獄されない。

然るに、国民を殺傷させないために、国民に武力を行使する国家に反対するために集会に参加した純朴な人民は、却って起訴され、刑務所で身柄を拘束されている。これが民主主義制度であろうか。

国王を元首とする民主主義制度によれば、国民は国家行政に賛成であろうと反対であろうと政治的意見を表明する権利がある。これこそが民主主義制度ではなかろうか。

しかし今国民はこのように人権を侵害されている。私たちはどうしたらいいのだろうか。私たちタイ人はこのような状況にあとどれくらい耐えればよいのだろうか。

とにかく、私の思いを獄中から伝えたい。この体験を通じてわかったことは、個人の尊厳が憲法によって保障されているはずなのに国家権力によって侵されているということだ。私たちは憲法を堅持していると言えるのだろうか。私たちが民主主義制度の中に生きているならば、このように虐待されるはずがない。

私は今回の経験を高くついた教訓としたい。政治改革のために役立てたい。そして、民主主義を発展させる糧としたい。次なる集会の規範としたい。

憲法にとって、国家権力から人権を守ることこそが最も重要な点である。

少しでもタイ人のためになればと思い、最後に詩を託したい。

いかなる国家も団結が無ければ
何をしようと益もない
国家が衰亡して
個人に幸福があろうか

(ラーマ6世の詩)

団結なき国家に、発展はない。
ごきげんよう

この手紙を僕に託した女性はウボンの社会運動グループ「チャックトンロップ(戦旗掲揚)」の会員である。このグループも赤シャツの統一戦線運動に参加した。彼女は自宅で逮捕され、5月24日から収容されている。容疑は非常事態勅令違反、騒乱、県庁焼き討ちである。5月19日午前10時ごろ、民主党(政府与党)事務所前で「政府の統治はよくない。我々は政府のバンコクでの暴力行使に反対するために来た。公共財は破壊しない」と演説した。それから県庁前の通りに行ったが、中には入っていない。庁内の車を燃やしたと疑われているが、外にいた。銃撃で倒れる人を見て、怖くなって逃げ、火災が起こる前に帰宅した。彼女はイギリスとタイの2つのパスポートを持つ。夫がイギリス人で、彼女はロンドンに12年間住んだことがある。裁判を傍聴した夫もタイの司法に呆れているという。13歳の男の子が一人いる。

地方裁判所で、12月15日の午後の審理が始まる前に、彼女は「憲法は人権を保障していないのか。こんな国が他にあるか。出獄したら、自分の体験、人権状況を大学で講演したい」と僕に熱く語っていた。

午後の休憩の時も、廊下で彼女は僕に話しかけてきた。「政府は正しくない。ガバナンスが良くない。国民を虐げている。国民は権利と自由を有する。偏見を排し、民主主義、公正、平等が保障されれば、家庭、社会、国家に幸福がもたらされる。重要なのは憲法と法律だ。良い憲法であれば、国民の生活は安定する。国民が憲法の意味と内容を知らないことも問題だ。赤シャツ、黄シャツの対立は馬鹿げている。タイは悪い方向に向かっている。問題の出口を見つけるために団結し、知恵を絞らなければならない。私は民主主義を求め、却って投獄された。不幸である。法律が人を殺すのではなく、人を守るために行使されるように力になりたい」と。

原告証人の警察官も廊下で休んでいた。彼女が真実の証言を彼に求めたので、僕も、「助けてやってくれよ。刑務所暮らしは大変だぜ。食事はまずいし、自由はない。少しは良心があるんだろ」と声をかけた。警察官の耳には入ったはずだが、返答はなかった。

タイ国ウボン県の赤シャツ逮捕状

高橋 勝幸

バンコクの刑務所に収容されている赤シャツ指導部の釈放、保釈要求は声高に叫ばれるが、注目されないだけに、地方末端の赤シャツ収容者の状況は一層深刻である。前回のレポートに書いたように、裁判を傍聴して、証拠写真と逮捕状がいい加減であることがわかった。このアドレスに2010年12月25日にアクセスしたところ、ウボンラーチャターニー県警による県内364人分の非常事態勅令違反者手配ポスターが表示された。それぞれの容疑者の写真をクリックすると、逮捕状と証拠写真などを見ることができる。ここでは、3人の容疑者を取り上げたい。

ポスター番号19 この「男性」は氏名不詳となっているが、既に逮捕されている。僕はまだ誰だか確認していない。

ポスター番号19 逮捕状
<ポスター番号19> <逮捕状>

左上の写真を画面上でクリックすると、右上の逮捕状と左下の証拠写真が現れる。この逮捕状j.177/2553は2010年5月20日付けで、ウボンラーチャターニー県裁判所が発行している。刑事事件として、ウボンラーチャターニー市警が次の容疑で逮捕状を請求していることがわかる。すなわち、①公共建造物放火(県庁焼き討ち)、②10人以上が暴力を使って騒動を起こした集会に参加(10人以上の政治集会)、③不動産不法侵入(武器を所持して県庁敷地に立入り)、④公務執行妨害、⑤公共物破損である。逮捕状は同年5月19日から20年間有効とある。

証拠写真 民主党国会議員宅
<証拠写真> <民主党国会議員宅(筆者撮影)>

僕が撮影した右上の写真と比較すると、証拠写真が県庁ではなく、スタット・ガーンムーン民主党国会議員の邸宅前(5月19日午前、赤シャツがデモを行ない、タイヤを燃やした)で撮影されたことは明らかである。容疑者は右手で大きな容器を持っているが、警察と裁判所はこれを県庁放火の燃料と見たのだろう。頭に何かかぶり、サングラスをかけ、マスクをつけているが、逮捕に当たりどのように当人を識別したのだろうか。性別すらはっきりしない。証人の証言に基づくものなのだろうか。

ポスター番号25 この氏名不詳の女性に逮捕状j.232/2553が出された。左下写真の後方の女性であるが、既に逮捕され、県庁焼き討ち事件で現在、裁判所で審理が行なわれている。証拠写真からはっきり判別できるのだが、僕はこの女性とよく赤シャツの集会に参加していたので親しい。僕の教え子の伯母に当たり、12月15日の裁判には教え子の母親も傍聴に来ていた。本人は主婦。ウボンの赤シャツ・グループの1つ「ノーポーチョー・ウボン」のメンバーである。僕が以前に彼女と刑務所で面談したところ、5月19日は、サパシット病院に用事があり市内に出たところ、10時半頃、多数の兵士が出動するのを目撃した。そこで、県庁に行ってみた。夫が陸軍1等准尉なので、軍人の知り合いが多い。知り合いの陸軍大佐が県知事と一緒に庁舎前にいたので、「暴力を使わないでください」と掛け合った。銃撃が庁舎2階からあり、彼女は逃げ出した。県庁が燃え出す前に帰宅した。5月22日、郡警に逮捕状が出ている人の写真と名前を見に行って捕まった。刑務所の寝食の状態が悪く、睡眠薬がないと眠れない。娘が心配で恋しいが、囚人服姿で子供に会いたくないという。保釈は未だ認められない。

逮捕状は、1人目(ポスター番号19)と日付が5月24日で異なるが、内容は全く同じである。しかし、逮捕されたのがそれ以前なのが気になる。証拠写真には、「5月19日県庁焼き討ち、5月22日逮捕」と書かれている。写真が県庁舎前で撮影されたことは僕にも確認できる。しかし、これが県庁焼き討ちとどう関係があるのかわからない。

ポスター番号25の証拠写真 ポスター番号10
<ポスター番号25の証拠写真> <ポスター番号10>

ポスター番号10 指名手配のプラユット・ムーンサーンである。逮捕状j.213/2553。逮捕状の発行は5月22日。警察の請求理由は前記2人と同じだ。証拠写真はなく、国民証が指名手配に使われている。というのも、ウボンの赤シャツ・グループの1つ「タクシンを愛する人のグループ」の公然たるリーダーだからだろう。彼は末期の癌を抱えながら、ウボン県等の赤シャツを指導した。5月19日の事件後、森に隠れていたが、資金面と病状の悪化から自首することになった。新聞やテレビでも取り上げられ、全国的に有名になった。まだ逮捕を恐れて姿を隠している赤シャツは少なくない。

プラユットは県庁焼き討ちの容疑で逮捕されたが、社会活動家やプアタイ党(タクシン派)の支援で20万バーツの保釈金を払い、療養生活を送っている。癌の治療には月々1万バーツ以上かかる。7つか8つの容疑をかけられている。記者とのインタビューで、「県庁の焼き討ちは赤シャツだけの仕業ではない。県庁舎の2階から炎が見えた。誰かが放火し、赤シャツに罪を擦り付けている。ビジネスマンや役人の間に近代的な庁舎を望む声があったのは広く知られている」と彼は話している[注1]。

政府が赤シャツ問題を解決するために設置した真実和解委員会は11月15日、憲法の規定に基づき、容疑者を罪人として扱ってはならないと、政府に提案した。国家人権委員会は2010年12月初旬になって初めて、赤シャツ収容者の人権状況に関する6月の調査を公表した。赤シャツ収容者は適切な捜査や証拠もなく逮捕され、拷問を受け、虚偽自白を強制され、抗弁する機会なしに投獄されていることがわかった。全国で422人が勾留されていたという。その多くが「野次馬」であった。暴力活動に関与していない人々がいわれのない容疑をかけられ、不適切な扱いを受けている。親族や弁護士との面会も難しく、保釈手続きも遅々として進まないのが現状だ[注2]。

[注1] Achara Ashayagachat, “Panel claims red shirt inmates tortured,” Bangkok Post, December 7, 2010.

[注2] Ibid.

タイの赤シャツ裁判傍聴:ウボンラーチャターニー県庁焼き討ち事件

高橋 勝幸

ウボンラーチャターニー大学教養学部東洋言語文学科講師

2010年12月15日(水)、ウボンラーチャターニー地方裁判所でウボンラーチャターニー県庁焼き討ち事件(2010年5月19日発生)の裁判を傍聴した。そこで感じたのは、もはや赤シャツうんぬんという問題ではないということである。これは人権、人道的問題だ。これが公正を期す裁判かと疑った。コメディを見ているようだった。証拠写真のいい加減さに被告弁護士が笑ってしまう。被告、傍聴者の嘲笑。裁判長もつられて失笑する。ついには証人台に立った警察官も苦笑を抑えることはできなかった。流石の警察官も取り調べの杜撰さを再確認した思いだろう。県庁焼き討ち事件の犯人に仕立て上げることができれば、赤シャツなら誰でもよかったのだ。唯一笑わなかったのは原告弁護士だけである。

ウボンラーチャターニー地方裁判所 県庁焼け跡
<ウボンラーチャターニー地方裁判所> <県庁焼け跡>

僕は収容されている赤シャツのお見舞いのために、その日、15食分の豚と鶏のバジル炒めを持って刑務所を訪ねた。食料を係りに預け、職員にお見舞いの許可を求めると、朝から裁判所に出頭しているという。人数も多い時に48人いたが、保釈などで21人に減った[注1]。そこで、裁判所へ向かった。13時を過ぎていた。午後の裁判は13時半に始まる。法廷を探していると、足錠の鎖が擦れる音が聞こえてきた。赤シャツの被告が昼食から戻ってきたのだ。60歳以下の男性は足錠をかけられていた。

刑事事件1496/53。原告はウボンラーチャターニー県検察庁。被告はピチェート・ターブッダーをはじめ21人。うち女性は3人。容疑は県庁焼き討ちだ。ウボンの赤シャツの最も重い容疑である。裁判は50回予定されている。2011年5月に結審する予定で、今回は2回目だ。複数の罪状の容疑(非常事態下の10人以上の政治集会参加、騒擾、公務執行妨害、武器所持と使用、不法侵入など)をかけられているため、県庁焼き討ちは最後になった格好だ。それにしても無罪だったら、何と長い拘束であろうか。人権侵害も甚だしい。逮捕されて7ヶ月が経過している。審理が始まる前に、女性の被告と話した。「憲法は人権を保障していないのか。こんな国が他にあるのか。出獄したら、自分の体験、人権状況を大学で講演したい」と彼女は熱く語っていた。

13時40分に午後の裁判が開廷した。法廷には裁判官2人、書記官1人。原告弁護士1人、被告弁護士3人、被告弁護士の助手1人。証人は原告側から取調べに当たったノッパドン・チュアイブン警察中佐である。被告21人は傍聴席に座っていた。僕は被告の隣に座った。家族と支援者が約15人来ていた。証人席に警察中佐が着くと、僕の隣の女性被告は、「嘘つき。信用ならない」とつぶやいた。原告弁護士とのやりとりは声が小さくて聞き取れなかった。被告弁護士は流石、声が大きい。証人の警察官の声は相変わらず小さい。被告弁護士は、被告一人ずつの逮捕の経緯を追及した。今回は証拠写真の追及に終始したといってよいが、傍聴席からは写真がはっきり見えなかった。

被告弁護士1:証拠写真はどのように入手したのか。
証人:記者や役人から入手し、分析した。
被告弁護士1:写真はどこで撮ったものか。
証人:県庁敷地の内外だ。
被告弁護士1:油を撒き、点火している写真はあったのか[注2]。
証人:(僕は聞き取れなかった)
被告弁護士1:覆面をしている人もいた。どのように写真から被疑者を割り出したのか。
証人:証人が写真中の知っている人の名を提供した。それから逮捕状を請求した。
被告弁護士1:トヨタのピックアップを運転している被告の写真がある。これが証拠写真になるのか。(笑い)

被告弁護士2:被告Oは民主党国会議員事務所前の写真が証拠になっている[注3]。ここでは集会が行なわれ、タイヤが燃やされた。この写真はいつ撮られたものか。
証人:5月19日だ。
被告弁護士2:この写真は午前10時に撮影されたとの記録がある。スピーカーを積んだ車の前で演説している。これは県庁焼き討ち事件の前だ。(県庁が燃えたのは午後2時頃)事件の前の写真をもって、県庁焼き討ちの容疑の逮捕状を請求できるのか。(笑い)演説を見たのか。
証人:見ていない。
被告弁護士2:演説の内容も知らないで、逮捕したことになる。この写真はどこだ。民主党議員事務所の前だ。(笑い)県庁と関係のない写真。19日午前の写真。
証人:事件から遡って、証拠として有効だと思われる。
被告弁護士2:現場にビンを握っている人がいたというが、誰かもわからない、その中味が油かもわからない。その確認は警察の任務だ。
証人:わからないが、推定だ。物的証拠はない。(笑い)

被告弁護士3:証拠写真も逮捕状もない被告がいる。
証人:自首してきた。
被告弁護士3:被告が県庁の集会にいつ参加し、どこにいたかもわからない。呆れるばかりだ。証人はこのことをどう思うか。
証人:(本人、苦笑)

逮捕状の発行が人権侵害の防止になっていない。証拠写真のやり取りの中で、裁判長はときどき本人確認のために被告を起立させた。それは写真が不鮮明であるからだが、決まって、苦笑しながら識別できない旨述べた。16時25分、閉廷した。傍聴は被告を元気付ける。支援者は傍聴に参加し、裁判官、原告へ圧力をかけることも重要だ。首相にもこの滑稽な裁判をぜひ傍聴してもらいたいものだ。自分が加担している過ちがどれほど多くの無辜の人々に多大な苦難を与えているか気付くはずだ。

[注1]  収容者については拙稿「非常事態宣言と大量検挙:ウボンラーチャターニー中央刑務所の赤シャツ」『タイ国情報』44巻4号35-54頁参照。

[注2]  最重要証拠になるはずだが、警察は握っているというだけで公開していない。無い可能性もある。あるいは写っているのは赤シャツではないのかもしれない。

[注3]  筆者は2010年7月22日に被告Oに刑務所でインタビューした。それによれば、彼女は5月19日午前10時ごろ、ウィトゥーン・ナームブット民主党国会議員事務所前で演説した。「政府の統治はよくない。我々は政府のバンコクでの暴力行使に反対するために来た」と。次に県庁前の通りに行ったが、中には入っていない。敷地内の車を燃やした容疑を受けているが、外にいた。銃撃で倒れる人を見て、怖くなって逃げた。火災が起こる前に帰宅したという。

タイの赤シャツ制圧その後: ウボンラーチャターニー中央刑務所訪問記

高橋 勝幸

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2010年6月17日(木、9:20-13:40)僕は、ウボンラーチャターニー中央刑務所へ赤シャツの被拘留者を訪ねた。ウボン大学の同僚、学生、地元赤シャツ、バンコクの人権NGOの6人に僕がついていった格好だ。ウボン県は非常事態宣言が5月16日以来布かれている。一説によると、82人に逮捕状が出されている。僕の訪問時には、男性20人、女性6人の26人が拘留されていた。僕らが面談したのは、男性15人、女性6人の21人である。訪問の目的は、逮捕の経緯、取調べの状況と拘留の状態を知ることであった。判決前の人がなぜ刑務所に拘留されているのかはわからない。

監房の広さは8m×8mの64平米だという。食事、水浴び、排泄も同じ監房で行なわれている。3食付で、9時、12時、4時に提供される。監房にある書籍は仏教関係のみである。監房でテレビドラマを見ることはできる。午後10時就寝。

女性の監房は他の犯罪者と一緒。エイズ患者、麻薬で捕まった人もいる。他の犯罪者からは政治犯として疑いの目を向けられる。みな肌色の囚人服を着用していた。下着、生理用品が欲しいとのこと。家族親戚の訪問可。一般の訪問は事前に、訪問相手の氏名を伝えること。訪問日は制限されている。見舞品として「危険物」を差し入れすることを防止するため、果物などは刑務所で購入しなければならない。服の差し入れ可。

最初に手分けして男性5人と面談した。僕は要領を得なかったので、手持ち無沙汰な拘留者と話すことにした。

男性(1):
5月19日に県庁が燃えたとき、現場にいなかった。6月初旬に捕まった。入所して約1週間になる。同室に20人が収容されている。すべて赤シャツだ。狭苦しい感じはしない。食事はよい。サービスはいい。

男性(2):
ワーリン郡在住。自営の商売の他、日雇い。子供2人。チャックトンロップ(戦旗掲揚グループ。ウボン最大の赤シャツ・グループ)の会員。ほとんど活動に参加していない。しかし、5月19日は県庁にいた。県庁舎の2階から火が出た。軍人、警官は火を消そうともしなかった。当局が人民を射撃した。6月9日午前8時にワーリン市場で捕まった。武器所持と県庁焼き討ちの容疑で逮捕された。県庁焼き討ちの罪は重い。武器所持が本当なら、なぜ現行犯逮捕しなかったのか不思議である。証拠はない。ウボンの警察佐官が取り調べた。写真を提示され、その中に写っている人物を知らないかと尋問された。写真を見ても誰も知らなかった。保釈されたら、証人がいるので裁判で戦いたい。取り調べ、手続きに時間がかかりすぎる。監房ではニュースが入らない。仏教の本しか置いていない。監視人はいい。腹が立つことに、プアタイ党議員も職員も見舞いに来ない。[戦旗掲揚グループは民主党を非難し、プアタイ党を支援していた。]

次に6人と面談した。

男性(3):
66歳。市内在住。チャックトンロップの会員。警察から電話があって、出頭を命じられた。県庁の焼き討ち時に、庁内に建つラーマ5世王の像の東側で、自分が驚いて両手を挙げている写真が証拠になった。その日、私は県庁の外にいたが、警察の射撃の音を聞いて、子孫たち(仲間)を助けようと、敷地に入ったのだった。それまでは年寄りはみな外にいた。まだ、県庁は燃えていなかった。警察、軍、警備員が立っていた。自分は大通りに戻った。小さい火が建物からあがった。国王は関係がないので、国王の旗を柵から外して、警察に渡した。兵は庁舎を守らなかった。消防車も来なかった。100人もいれば消火できたはずだ。点火したのが誰かは知らない。県庁には放火すべきではなかったと思う。今回のデモには、3月12日から王宮前広場で15日間、4月10日から3日間ラーチャダムノーン、その後ラーチャプラソンに15日間滞在した。ウボン県庁前の夜の集会にも、時間があれば参加した。現在、自分には5人以上の政治集会への参加(非常事態法違反)、焼き討ち、公共物破損の容疑がかかっている。拘留は2回延長され、24日間既に拘留されている。6回まで延期できる。人権の立場から、援助してほしい。

男性(4):
63歳。市内在住。チャックトンロップの会員。6月9日逮捕され、6月10日より拘留。プアタイ党の見舞いがないのは不満に思う。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日、家にいたので、集会には参加していない。ただその朝、スタット寺院でタイヤが燃えているのを目撃した。県庁の焼き討ちはよくない。人民の財産の破壊であり、賛成しない。残念なことである。軍警の仕業だと思う。王宮前広場で3月12日から3日間、デモに参加したが、楽しかった。政府は正しくない。

次いで、4人の男性が現れた。

男性(5):
28歳。日雇い。6月14日に逮捕された。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。5月19日に現場(県庁)にいなかった。2年前に撮られた写真が証拠になっている。不当だ。

男性(6):
51歳。ワーリン在住。日雇い。チャックトンロップの会員。焼き討ち、武器所持、爆発物所持の容疑。5月19日県庁で石を握っている写真が証拠となった。5月19日のその時、県庁そばの寺の前にいた。子供を2時ごろ学校へ迎えに来たのだ。銃弾の音を聞いて、走って県庁敷地に入った。怒って、思わず地面に転がっている石を握った。火はまだ上がっていなかった。火災を目撃していない。集会にも参加していない。5月25日に逮捕され、拘留されて12日になる。拘留が2回延期された。自分も妻もムスリムでナラティワート県出身。自分はナラティワートでも貧乏で、ウボンに仕事を探しに来た。ウボンでも貧乏して、赤シャツを支持した。妻の先夫は軍人で国境警備のため、ワーリンの基地に異動になった。彼は妻子に対して責任を果たさなかったので、自分は彼女に同情し、結婚した。子供をもうけた。先夫との間の2人の子と合わせて、3人の子がいる。父親の自分が逮捕されたので、子供は学校に通っていない。誰も見舞いに来ない。電話番号もわからない。妻子はナラティワートに帰った可能性がある。(落涙。両手の指を僕たちを隔てる金網に絡ませながら、切々と訴えた。)

男性(7):
50歳、日雇い。チャックトンロップ。チャチョンサオ出身。仕事を探しに2007年にウボンに来た。チャックトンロップのラジオ、「ウボンの人民の声放送」の警備員をしていた。月給3,000バーツ(食住支給)。5月20日の昼前後に捕まった。放送機器が没収された。拘留されて1ヶ月近くになる。ラジオ放送による教唆、大衆騒乱の容疑。3月12日から4月8日まで王宮前広場でデモに参加した。仕事柄、赤シャツを支持している。赤シャツの意見は正しいと思う。県庁の焼き討ちについては知らない。監房には仏像と国王の写真があり、仏を敬っている。

男性(8):
26歳。仕事はガス輸送車の運転。チャックトンロップ。5月19日、スタット民主党議員の家の付近にいるところを写真に撮られた。赤シャツが反対運動をしていた。仕事中に通りがかり、ちょっと寄ったに過ぎない。電話が警察からかかってきた。出頭し、そのまま収容された。チャックトンロップにも会員になって、1ヶ月しか経っていない。

男性(9):
日雇い(小作含む)。チャックトンロップ。焼き討ちの容疑。6月12日から拘留され、4日になる。5月19日当日、自分はタラートノーイ(市場)にいた。証拠写真も似ているが、自分ではない。サンティ・アソークへの抗議運動にも行っていない。王宮前広場のデモには2-3日行った。小5、中1、中3の3人の子がいる。妻は腰を痛め、働けない。自分なしでは、家族は食べられない。

最後に12時半過ぎに、女性の逮捕者6人と面談した。

女性(1):
23歳。料理店勤務。チャックトンロップ。(リーダーであるトーイの家で、筆者は会っている)拘留は5月24日から22日になる。5月19日午後、民主党事務所、同党議員スタットの家、県庁と3箇所で反対運動に参加した。県庁にいるところを写真に撮られた。県外の友人から涙の電話があった。何も知らない友人は警察に写真を突きつけられて、彼女の友人の居場所を聞かれたというのだ。その日、県庁で兵が人民を銃撃したので、頭に血が上った。(涙ぐみながら)足を撃たれた人も、捕まって同じ監房にいる。撃った人はどうなっているんだ。6人が負傷し、一人は重傷だ。ゴム弾を使えばいいのに、実弾を使う必要はない。県庁は新しく建てることができる。しかし、家族は生命を取り戻せない。赤シャツはテロリストだといわれている。農民に武器はない。銃を売買しているというのか。兄弟同志が民主主義を要求して立ち上がった。我慢ならなかった。監房ではニュースを知る権利もない。4,5日前にこっそり新聞を読んだ。

女性(2):
ノーポーチョー・ウボン。5人以上の政治集会参加、焼き討ちの容疑。寝食の状況よくない。睡眠薬がないと眠れない。5月の初旬にラーチャプラソン(バンコクの集会)からウボンに戻った。(金網越しに握手を求める)

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爆笑問題・太田光がんばれ。

高橋 勝幸

2006年10月2日の新聞の全面広告「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」少なくとも朝日と読売には広告が掲載されました。太田光と中沢新一が並んで腕を組んで立っていました。カラーです。「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」このメッセージが広く届いたことを期待したいと思います。

爆笑問題の太田光はなかなかいいと思います。私はファンです。太田光は1965年生まれで、私と同じ年であります。この世代は、高校、大学で60年安保世代あるいは70年安保世代の教員の影響を受けているのではないかと思われます。

終わっちゃいましたけど、日本テレビ系の「爆笑問題のススメ」も面白かったです。いろいろな作家、文芸人を呼んで、対談する番組でした。ここでも、自民党批判、平和擁護、戦争反対の舌鋒をふるっていました。

TBSラジオの深夜番組(火曜。正確には水曜、午前1時)「爆笑問題カウボーイ」も昨年の8月(24日)、9月(14日)あたりは「シリーズ、太田はこう思う」(少なくとも10回)という特集を組んで、太田光が2時間ぶっ続けで戦争、平和、憲法9 条、靖国、テロ、イラク戦争、総選挙について毒舌を発していました。今年の8月はそれもなく、残念でした。お笑いで、がんばっているけれども、なかなか引き締めが厳しいのだろうと、想像します。

最近ではやはり日テレ系金曜午後8時から「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」で毒舌を聞けます。これは模擬国会で、提出された法案をディベートします。可決されたものは実際に国会にもっていくことになっているそうです。10月6日の番組では、「『憲法9条の日』という祝日をつくります」という提案を太田総理が提出しました。太田総理は「これが何十年後か、何百年後かわからない。でも、その先には憲法9条というものが実は全然ばかばかしくない時代がおそらく来るだろう。・・・・・・憲法9条は究極の理想だから、これを何とか変えないように」と主張しましたが、否決されました。番組では、しばしば自衛隊、憲法9条をめぐって、石破茂元防衛庁長官と議論を戦わせますが、太田光も守りの姿勢に追い込まれ、平和を語ることの難しさを感じさせます。

爆笑問題、とりわけ、太田光の活躍は大きいと思います。爆笑問題は、いわゆる漫才師系の芸能人であり、テレビの露出度も高く、人気もあります。幅広い年齢層、人々に大きな影響力があります。太田はよく本を読んでいます。方向性も好きです。

憲法九条を世界遺産にさて、太田光と中沢新一の対談『憲法九条を世界遺産に』は21万部を突破しました。一方、本物の安倍総理の『美しい国へ』は48万部で2倍以上です。

対談集の中で、太田光は言います。「今、憲法9条が改正されるという流れになりつつある中で、10年先、20年先の日本人が、「何であの時点で憲法を変えちゃったのか、あの時の日本人は何をしてたのか」となった時に、僕達はまさにその当事者になってしまうわけじゃないですか」(16 -17頁)。これだけは、私は避けたいと思います。平和憲法を改悪した当事者になって、後生の人々から批判されるのは御免です。あの忌まわしいアジア太平洋戦争において、「こんなことになるのなら、なぜあのとき、もっと反対しなかったのか」といった件が、『きけわだつみのこえ』にあったと思います。私は、大学で、「言うべきことを、言うべき時に言うこと」を教わりました。しばしば、TPOを間違えますが。戦争は不条理です。人を殺すことがよくないということがわかっていても、殺さなければ相手か、上等兵によって殺される、身内や仲間が殺されれば復讐の炎が燃え上がります。戦争は絶対に許されません。

中沢新一は答えます。「現在の国際情勢などというものに押されるようにして憲法を改正してしまうと、僕たちの時代は将来の日本人にたいしてひどい汚点を残すことになってしまうでしょう」(17頁)。

中沢は言います。「あいかわらず、まともな異論を唱えようとする人々を黙らせてしまおうとする、嫌な精神土壌はそのまま生き続けているでしょう」(18頁)。

中沢は語ります。「平和憲法は世界の憲法の中の珍品だと思います。ところがいま、この世界の珍品を普通のものに変えようとして、改憲論が吹き荒れているわけです」(54頁)。

太田は言います。「この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものでないというけれど、僕はそう思わない。この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思います」(96頁)。

中沢は答えます。「日本の仏教は価値があるといえる。その仏教を日本人は大事に守ってきた。今さら、あれはインドからきたものだからダメだとか、中国人が途中で漢文のお経を入れたからダメだなんて、誰も考えないでしょう」(61頁)。

中沢は主張します。「そういう(憲法9条-筆者注)場所があることを知って、そこに心を向けることで、世界は正しい方向に向かっていける」(78頁)。「そういうものを簡単に捨ててしまったりしたなら、日本人は、大きな精神の拠り所を失うと思います。この憲法に代わるものを僕たちが新たに構築するのは、不可能です」(79頁)。

「安倍さん、本当に憲法 変えちゃう気ですか。」私は憲法9条を世界遺産にするのではなく、世界に広め、活かすべきであると考えます。憲法とは、我々が進むべき方向を示します。我々の意思であり、その実現のために不断の努力が必要であります。私たちは、平和憲法が世界の中で普通のものになるように、世界を変えなければなりません。

タイのクーデタ その2:新首相スラユット=チュラーノンで思い出すこと

高橋 勝幸

2005年12月11日、旧解放区へ向かうスラユット=チュラーノン

スラユット=チュラーノン大将が2006年10月1日、24人目のタイ国首相に就任した。父パヨームはタイ共産党のタイ国人民解放軍の参謀として、息子のスラユットと長い間対峙したことがある。父親が共産党軍の幹部であったことから、スラユットの昇進は一時遅れた。1978年から1988年までの10年間、プレーム首相の副官を務めた。チャートチャーイ政権を打倒したクーデタ後、1992年5月、スチンダー大将の首相就任に市民が反対し、スラユットが率いた特殊部隊が発砲し、流血事件に発展した。スラユットはこの経験から、軍部の政治不介入を決意したという。1998年に陸軍司令官になり、東ティモールの国連平和維持軍参加とその成功により、軍のイメージを回復した。タクシン首相との確執により2002年、閑職の国軍最高司令官に就任し、2003年退役した。3ヶ月の出家後、プレーム枢密院議長によって枢密院議員に推された。

私は抜き差しならない政情不安にもかかわらず、このクーデタの発生を予期しなかったが、スラユットのような退役軍人が首相になることも予想しなかった。国内外の世論の反発から、軍部に影響力をもつ人物が首相に就くとは考えなかった。クーデタ直後にプレーム枢密院議長や首謀者のソンティ陸軍司令官とともに、スラユット枢密院議員もチットラダー王宮で国王に拝謁しているからである。また、クーデタを実行した「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」は速やかに民政移管をすると約束していたからである。私は2つの判断ミスをした。1991年のクーデタをいれれば、3つの予想が外れた。タイに関心をもって20年近くになるが、現実政治は水物で、実に扱いにくい。

昨年、すなわち2005年12月11日、タイ共産党が1970年代に本部を置いた解放区で私はスラユットを見た。ナーン県プーパヤックにタイ共産党を記念する博物館などの施設が建設され、その開所式が行なわれた。父パヨームも当地で活動していたので、スラユットも見えたわけである。

パヨーム=チュラーノンその父パヨーム=チュラーノン中佐は1947年11月8日のクーデタにタイ国軍最高司令部のスポークスマンとして加わった。このクーデタは政情不安を解決するために行なわれ、その後は、軍部は政治から手を引き持ち場に戻り、民主主義にのっとり民政移管されると、パヨームは信じていた。1947年クーデタはプリーディー=パノムヨンをリーダーとする抗日自由タイ派の文民政権を打倒し、タイの民主化を大きく遅らせたといってよい。パヨームはその後、陸軍を辞職し、1948年1月29日の国会議員選挙に立候補し、ペッチャブリー県から選出された。パヨームはクワン政府の国防大臣補佐官に就任した。クーデタ=グループはクワン首相に辞職を強要し、ピブーン元帥が首相に返り咲いた。国防大臣は続投したが、パヨームは補佐官を辞職した。軍の腐敗と政治参加に反対し、1948年10月1日に決行を予定していた「参謀本部反乱」に参加したが、そのクーデタは失敗した。それはサリット少将の結婚式の日を狙い、パヨームは式場の首相府でピブーン首相、ピン=チュンハワン中将、カート中将、サリットらクーデタ=グループの幹部を逮捕する予定であった。しかし、クーデタ計画は前日に漏洩した。パヨームの逃亡は成功した。パヨームは逃亡中に、タイ共産党に参加したと思われる。パヨームの最初のタイ共産党の接触は第二次大戦中であった。パヨームは、ピブーンの対日協力に反対であったので、抗日運動に協力しようとした。パヨームは共産党の政策に当初反対であったが、クーデタでは(戦後)ピブーン政権を打倒できないと認識すると、人民の革命の必要性を感じ、入党を決心した。中国に亡命し、1952年から1954年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で学んだ。1961年9月の第3回党大会で党中央委員会委員に選出されたと思われる。

スラユットは、父と考え方は異なっても、父子の絆は変わらないと述懐した。スラユットは1980年、北京で療養中の父と亡くなる直前に再会した。この頃はまだタイ国内ではタイ共産党が治安の脅威であったが、プレームの取り計らいで、チャートチャーイ=チュンハワン少将(パヨームが逮捕しようとしたピンの長男)の訪中団に参加した。中国側は党の保護下にあるパヨームの面談を拒否したが、外交経験豊かなチャートチャーイが鄧小平と交渉して、再会が実現した。その数ヵ月後に、パヨームは亡くなった。

一方、スラユット首相の母アムポートは、ボーウォーラデート親王の右腕のプラヤー=シーシッティソンクラーム大佐を父にもつ。母方祖父は、立憲革命後の政府を共産主義として、1933年10月11日人民党に反対して蜂起したその反乱で戦死した。

今回の首相人事は、プーミポン国王、プレーム枢密院議長、スラユット首相、国家治安評議会議長であるソンティ陸軍司令官のラインを浮き彫りにした。その中で、新首相は反体制運動の血統つきである。父は国王の天敵であった共産党幹部、母はボーウォーラデートの反乱に参加した勤王派の娘である。相対立する反体制派の混血児スラユット首相がタイの民主化に向けてどれだけ力を発揮できるのかが注目される。

革命の英魂へ読経 復元されたパヨームの住居 タイ共産党本部があったナーン解放区

タイのクーデタ

高橋 勝幸

「国王を元首とする民主主義体制下の統治改革グループ」が2006年9月19日夜半、バンコクでクーデタを決行した。タクシン首相が国連総会出席等外遊によりタイを留守にしている間の出来事であった。実に1991年2月23日以来、15年ぶりのクーデタである。プミポン国王の承認のもと、現在、「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」が国家を運営している。

正直いって、私はクーデタがまさか起こるとは予期していなかった。私は1987年10月から1988年9月まで1年間、2001年6月から2004年5月まで3年間、タイに滞在していたことがある。私は前回のクーデタが打倒したチャートチャーイ政権が発足した年、そして今回のクーデタが倒したタクシン政権の最初の3年間をタイで過ごした。チャートチャーイ政権の「インドシナを戦場から市場に」という政策は、ポル=ポト派を含む3派連合から距離を置き、実効統治しているヘン=サムリン政権と交渉した。この経済・外交政策はタイの優越性に対するカンボジア人の反感を後に招いたが、私は対立・没交渉よりよいと思った。しかし、ポル=ポト派と利権のあるタイ軍は反発した。一方、タクシン政権は、ポピュリズム政策 ―1村1品運動、一律30バーツ治療制度、農民への債務繰り延べ、100万バーツ村落開発基金など― と批判されながらも、貧困と農村振興に正面から取り組み、北部、東北部で絶大の人気を博した。タクシンが他人の批判に耳を傾け、ビジネス倫理観をもてばよいのにと、私は常々思った。タクシンはタイにとって異色の首相であり、私は興味深く観察していた。

しかしながら、私はタクシン政権下にバンコクで暮らしてまもなく、一昔前なら、すなわち、前回のクーデタ時の1991年なら、クーデタが必ず起こるとも思っていた。というのは、タクシンは警察官在職中の1980年代にコンピュータを警察に貸し出すサービスを始め、電機通信ビジネスで成功し、1998年タイ愛国党を創設した。政府の許認可が必要な携帯電話、衛星、格安航空などで親族が巨富を築いた。タクシン首相は議会の圧倒的勢力と資金にものをいわせ、中央集権化を図り、独裁的傾向を帯びた。2003年2月に「麻薬取り締まり戦争」が宣戦布告され、最初の3ヶ月間で2,000人以上が殺害され、さすがに国内外から人権批判を浴び、控えたものの、3,000人近い人が殺された。国連による人権批判には、「国連は親父でない」と反論した。聞くのはポッチャマーン夫人の意見だけという噂が流れるほどであった。南タイでは、テロが横行し、政府の抑圧的政策がテロに拍車をかけた。しかし、軍部の政治的役割が後退し、民主化が進み、1997年の通貨危機を克服して、経済成長を進むタイで、クーデタが実際に起こるとは信じられなかった。

前回1991年2月23日のクーデタの際も、まさかの出来事であった。高い経済成長、外国の観光客や投資の増加、政治的安定、民選の首相のもとで、クーデタが決行されたからである。しかも、1977年10月20日以来、およそ13年半クーデタは成功していなかった。1991年のクーデタの理由の一つは国会の独裁である。末廣昭氏によると、タイ式民主主義は、国会を私物化する政党政治を批判し、これを駆逐するクーデタは民主主義の破壊ではなく、政治的安定を実現する、という。

今回と前回のクーデタとの共通点がいくつかある。第一に、クーデタの理由として、政治家の汚職、政党による独裁が挙げられたことである。第二に、民主化が定着する中であった。第三に経済が高度成長を維持し、外国人観光客が増加する中で行なわれたことである。第四にプミポン国王が役割を果したことである。第五に軍部の人事が絡んでいたことである。第六に、国民の大多数が、民主主義の否定であるクーデタを支持したことである。

決定的な違いは、今回、政情がタクシン派と反タクシン派に2分されていたことである。タクシン首相退陣を求める運動が勢いを増す中、タクシン首相の国王に対する不敬な言動―例えば「憲法を超えたカリスマのある人が政治に混乱をもたらしている」―は国内世論に大きな影響を与えた。また、軍部の政治的影響力が決定的に減少したものの、枢密院、すなわち、国王の取り巻きの退役将官が重要な役割を果したことである。国王とタクシン首相の確執が根にあった。前回は、国王はクーデタ後の民主派(市民)と反民主派(軍部)の対決の仲介の労をとった。今回は、タクシン首相と国王あるいは国王の取り巻きとの対立が決定的な要因であった。

王制はタイの国家の正統性原理の一つであるが、タイを安定させ、国民が信奉し、支えているのは王制というよりも、プミポン国王個人といってよい。歴史を振り返れば、タイは、世界恐慌を背景に、若手将校、中堅文民官僚の政府に対する不満が鬱積し、かれらが1932年6月24日にクーデタを決行し、専制君主制から立憲君主制に移行した。その後最初に成功したクーデタは1947年11月8日である。第二次大戦において日本と協力したピブーン軍事政権は日本の敗戦の前に抗日文民政府と民主的に政権を交代した。しかし、戦後の経済的混乱、1946年6月9日のアーナンタ国王の変死、冷遇された軍部の不満は、アジアに拡大する冷戦も助けて、1947年の退役将校によるクーデタを成功させた。プミポン現国王は兄の国王の死去により、その前年の1946年に即位した。今年6月9日には盛大に即位60周年が慶祝された。タイでは長らく、クーデタ⇒暫定政府発足⇒憲法制定⇒総選挙⇒政府発足⇒安定期⇒政治危機⇒クーデタのサイクルを繰り返してきた。戦後、すなわち、1947年から今回まで、失敗を含めてクーデタは15回を数える。プミポン国王は、この最初のクーデタから今回のクーデタまで、観察、仲裁、あるいは関与している。現在のタイにあって、最もタイの政治のカラクリを知悉しているのが国王であるといってよい。

王宮前広場2006年2月26日
王宮前広場2006年2月26日。タクシン首相の退陣を求める市民団体「民主主義市民連合」の集会開始前の風景(筆者撮影)