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自衛隊はイラクからただちに引き揚げよ! ―3人の日本人の拘束・解放事件に寄せて―

中西 治 (2004年4月11日 10時00分)

2004年4月8日夜に高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんの3人の日本人が「サラヤ・アル・ムジャヒディン(神の兵士旅団)」と称する人々によってイラクで拘束され、日本政府が自衛隊を3日以内にイラクから撤退させなければ3人を殺すと声明したという報道が伝えられました。その後、4月11日早朝に3人が解放されることになりました。

ひと安心です。しかし、これで事件が終わったわけではありません。そこでこの機会にこの問題をめぐって表明された幾つかの意見について私の考えを述べたいと思います。

第一は3人の日本人が現に戦争がおこなわれているイラクに行ったことの是非についてです。私は戦争が起これば逃げよと学生に教えています。危険なところには身を置くなと言っています。君子危うきに近寄らずです。しかし、どうしても行かなければならないとしたら、また、どうしても行きたいのであるならば、自分の責任で行けと言っています。

私も何度も外国に行っていますが、危ないと思うときには行きません。大丈夫だと思って行っても外国では何が起こるか分かりません。だから、私は無事日本に帰ってきたときにはいつも自分の幸運について天に感謝しています。

3人の日本人はイラクの戦争を甘く見ていたと思います。3人の方はいずれもイラク戦争に反対で自衛隊のイラク派遣にも反対のようです。だから、自分たちは大丈夫だと思っていたのでしょう。しかし、日本が自衛隊のイラク派遣を決めた瞬間からアメリカの占領に反対しているイラク人にとっては私も含めて日本人はみんなアメリカの侵略の片棒を担ぐ敵なのです。しかも、自衛隊が現実に武装してイラクに行き、イラクの土地に陣取ったとき、それは紛れもなく占領軍なのです。わずかばかりの水を供給し、人道的な復興支援のために来たといっても、それが占領を覆い隠す美辞麗句であることはすぐに見抜かれるのです。

私はテレビで高遠さんのこれまでの活動を垣間見て、この人はイラクの子供の味方であり、この人を殺してはならないという声がイラク人のなかからあがることを期待していました。日本からもそのような声があがり始めていました。私もこの3人の日本人はイラク人の味方だ、この人々を殺してはならないの声をあげようと思っていました。私は3人を拘束した人々もそのことが分かったから解放することになったのだと思います。

人間は平素の行動が大切です。とくに外国に行くときにはその地の人々を、それがいかなる人であっても人間として尊敬し、敬意をもって接することが必要です。第二次大戦が日本の敗北で終わったとき日本が占領したり、日本が植民地にしていたところで占領者・支配者であった日本人に対する報復が起こりました。そのときでもその地の人々と親しく交わっていた日本人には、この人は他の日本人とは違うのだ、この人は自分たちの味方であった、といって守ってくれる現地の人がいたのです。

第二は自衛隊のイラクからの撤退はテロに屈服したことになるからしてはならないという意見です。こうした論を主張する人はアメリカがイラクに対する戦争で多くの無辜のイラク人を殺していることについては口を噤みながら、無辜の民を殺すテロはけしからんといっています。おそらくこれらの人々は今回の結末はテロに屈服しなかった成果であると主張するでしょう。

私もいかなる理由があっても人を殺すことには反対ですし、とくに関係のない人を殺すテロには反対です。それと同時に私はもっとたくさんの関係のない人を殺す戦争に反対です。いまのイラクはアメリカがイラク人の選挙によって選ばれたフセイン政権を武力で潰し、占領支配している状態です。現在イラク人の政府はありません。このような状態に対してイラクの多くの人が反対してたたかっているのです。これはアメリカをはじめとする占領軍とそれに反対するイラク人とのあいだの戦争です。

戦争はテロの国営化ですが、テロは戦争の民営化です。いずれも悪なのです。しかし、先に戦争を始めた方がより悪いのです。

小泉内閣は3人の日本人の命がかかっていたにもかかわらず即座にイラクからの自衛隊の撤退を拒否しました。3人の日本人の命よりもイラクに対する「人道援助」の方が重要だったのです。これに対して3人を拘束した集団は面目を失ってでも3人の解放を決定しました。どちらが3人の日本人の命を大切にしたのでしょうか。

第三はイラク戦争はこれからどのようになるのかです。私はアメリカはいずれ近いうちにイラクから追い出されるだろうと考えています。日本の自衛隊もイラク人から追い出されることになるでしょう。

2001年9月11日事件の直後にアメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』2001年11ー12月号に1986年から1989年にかけてアメリカ中央情報局(CIA)のパキスタン支局長を勤めたミルトン・ベアディンが「アフガ二スタン、諸帝国の墓場」と題する論文を寄稿し、西暦紀元前(B.C.)4世紀のギリシャのマケドニア王国のアレキサンダー大帝がB.C.334年に東征を開始し、インドに及ぶ広大な領域を支配下に収めたが、最後はB.C.323年に現在のイラクの首都バグダット近くのバビロンの地で没したごとくアフガニスタンを中心とする地域がアレキサンダ−大帝の帝国の墓場となったことを指摘し、それ以後ジンギスカン、ムガール帝国を経て19世紀の大英帝国、さらに20世紀のソヴェトに至るまでの諸帝国の墓場となったことを強調しています。

イギリスは第一次大戦後オスマン帝国に代わってパレスチナ地域を委任統治しましたが、アラブ人とユダヤ人の抵抗と両者のあいだの紛争に手を焼き、最後には治安確保のための軍隊の維持費も出せなくなって投げ出し、中近東地域から追い出されました。私はアメリカもイギリスと同じような運命をたどるだろうと思っています。すでにアメリカ国内でもイラクからの撤退論が出始めています。

小泉首相はたしかに傲慢です。テロに屈するとか屈しないとかといった面子論ではなく、このさい謙虚に冷静に現在のイラクの情勢とアメリカの国内状況などを勘案し、イラクから自衛隊をただちに引き揚げればよいと思います。小泉さんはアメリカへの義理立てはもう十分以上に果たしたのですから。それとももっともっと大きな問題が生じなければ踏み切れないのでしょうか。

迎春 今年も楽しく! ―映画「赤い月」を見て―

中西 治 (2004年1月1日 0時10分)

2004年の新春をお慶び申し上げます。

昨年末、クリスマスイブの日に映画「赤い月」の試写会に招かれて、見てきました。作家のなかにし礼さんの同名の小説を映画化したものです。日本から一旗揚げようと中国東北に移り住み、1932(昭和7)年に日本が武力ででっち上げた傀儡国家「満州国」で関東軍の支援のもとに有数の造り酒屋・森田酒造を築き上げましたが、1945(昭和20)年8月の日本の敗戦により没落した一家の物語りです。主人公は一家の主婦波子。なかにし礼さんのお母さんがモデルです。演ずるのは常盤貴子。彼女は昨年テレビで放映された「流転の王妃・最後の皇弟」で日本から嫁いだ王妃役を務めています。

波子は一家が豪邸に住み栄華を極めたときにも、家財を失い流浪の身となったときにも二人の子供を連れて強かに生き抜きます。波子を取り巻く男たちは窮地に陥って脆さを見せ、死を急ぎます。

夫勇太郎(香川照之)はまだ46歳、これから一から出直しましょうという波子の言葉を振り切って自ら妻子のもとを去り、厳寒のもとでの労働で亡くなります。初恋の人、関東軍中佐大杉寛治(布袋寅泰)はソビエト軍に対する戦闘で突撃の先頭に立って戦死します。愛人の関東軍諜報員氷室啓介(伊勢谷友介)は足に負った銃傷の痛みに耐えかねてアヘンに頼り、中毒となり、死に瀕します。この氷室を波子は必死に看病し、彼の命を救います。

夫が亡くなった直後に愛人を献身的に看護する波子を女学生の長女美咲と小学生の次男公平はなじります。子供たちの私たちの命は何なのよという非難の言葉に波子はこう答えます。「あなたたちの命と母さんの命はつながっているの、ひとつの命なのよ!私が死んだらお前たちも死んでしまう。だから私は生きなければいけない。生きるためには愛し合う人が必要なのよ。」

ラスト・シーンは日本への帰国船が出る港へ向かう貨物列車です。男たちが無蓋の車上に立ち、値打ちの無くなった紙幣を空に向かって投げ捨て、「五族協和」と「王道楽土」に騙された、「満州国」は何だったのか、と叫びます。波子はこの声を聞きながら「それでも楽しかった」と呟きます。

中国東北の荒漠とした大地に輝く「赤い月」が印象的です。

映画を見たあと久し振りに銀座の街を歩きながら最近の日本の動きと日本の将来を考えていました。

2003年に日本は第二次大戦後初めて自衛隊と称する軍隊を国外に派遣することになりました。現在の日本の状況と映画のなかの出来事とが重なります。

1931(昭和6)年に日本軍が中国東北で事を起こしたときも不況のさなかでした。あのとき日本は戦争と侵略によって世界的な経済大恐慌からの脱出を図りました。対外進出と膨張は一時的に成功しましたが、わずか15年ほどで結果は無惨な敗北に終わりました。

今また日本は同じ道を歩みつつあります。今回も不況のさなかです。進出先はイラクです。「人道支援」の名のもとに武力を背景として石油利権と復興事業の国際的な奪い合いに加わっています。

他人の不幸の上に築かれた幸せは長くは続きません。とくに他国の人びとの不幸の上に築かれた幸せは。人間は常に未来に希望を持って力強く生き抜いていかなければなりません。これがこの映画が教える教訓です。

2001年12月15日の設立から3年目を迎える今年を特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所の飛躍の年にしたいと願っています。ひとときも戦争に荷担することなく、平和に徹します。美辞麗句に惑わされず、目先の成否に一喜一憂することなく、長期的展望を持って多面的な活動を展開します。

私たちの研究所が目指しているのは先人の教えに学びながら21世紀以降の人類の指導的な思想を作り出し、運動のあり方を示すことです。

今年も楽しく!

ご健勝とご多幸を心からお祈りします。

2004年元旦

アメリカ発展途上社会論 ―ラトガース大学での研究を終えて― (PDF)

中西 治 (2003年12月20日 15時41分)

私は2002年4月1日から2003年3月29日まで1年間、創価大学から派遣されてアメリカ合衆国 (以下、アメリカと略称) ニュージャージー州立ラトガ-ス大学地球的変化統御センターで訪問研究員として研究する機会を与えられた。私のアメリカ訪問は1973年に同国国務省の招待で初めて50日間同国に滞在して以来10回目である。

私は小学校(当時は国民学校と称していたが)時代から人間の歴史に興味を抱き、学んできた。1945年8月15日の第二次大戦終結後はこれからの世界はどのようになるのかに関心を持ち、1952年に大学で国際関係を研究し始めた時に地域研究の対象として私は躊躇なくソヴェト社会主義共和国同盟 (以下、ソヴェトと略称) を選んだ。中華人民共和国は生まれたばかりであり、社会主義・共産主義と言えばソヴェトの時代であった。私が共産主義やソヴェトに関心を持ったのはあの戦争中に世界各国においてもっとも勇敢に命を賭して戦争に反対したのが共産主義者であったからである。

私はソヴェトの経済と政治と社会、ソヴェトを中心とする国際関係、とくにソヴェトとアメリカの関係を研究するとともに両社会の比較研究を始めた。その後、大学において国際関係論とともに国際社会論を担当するようになり、さらに研究領域を広げ、中国と日本を加えて四つの社会を比較するようになった。ソヴェトは社会主義の先進国、中国はその後発国、アメリカは資本主義の先進国、日本はその後発国。これらの社会を比較研究することによって地球社会の将来を予測できるのではないかと考えたからである。

私はすでにソヴェトの内政と外交の諸問題、ソヴェトと中国との関係、ロシアとアメリカとの関係、ロシア社会とアメリカ社会との比較については一連の研究結果を発表している。

現在私が取り組んでいるのは21世紀にふさわしい地球社会論の確立である。本稿はその一環として現代において唯一の超大国と言われるアメリカを取り上げ、アメリカはいかなる社会であるのかを検討したい。最初にラトガース大学と日本との関係を紹介し、ついでアメリカの歴史を振り返りながら奴隷制の問題、ステートと同盟との関係、人種・宗教・貧富の問題、政治と外交の問題などを考察し、アメリカはまだ未成熟な発展途上の社会であることを明らかにしたい。

本論文は会員の方のみPDF ファイルで閲覧可能です。

  • はじめに
  • ラトガース大学と日本
  • 先住民の共同体からヨーロッパの植民地を経て独立国家へ
  • 今も続く人種分離主義者と奴隷制廃止論者の抗争
  • 法的には複数の一邦国家の同盟、政治的には一つの多邦国家
  • 広くて豊かな社会と貧しい人々
  • 不公正な選挙と金持ち民主主義
  • 自己中心の力の信奉者
  • むすび

『ソシオロジカ』Vol.28, No.1 (通巻47号) 創価大学社会学会、2003年12月20日、1-26ペ-ジ。

自衛隊のイラク派遣に反対する ―イラク派遣基本計画の閣議決定にあたって―

中西 治 (2003年12月9日 3時57分)

2003(平成15)年12月8日は日本がパ−ルハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃し、アメリカと戦争を始めてから62周年である。あたかもこの日が過ぎるのを待っていたかのごとく、小泉首相は翌12月9日午後5時から記者会見し、内閣がイラクへの自衛隊の派遣にかんする基本計画を決定したことを発表した。

小泉首相は冒頭に自衛隊は人道復興支援のためにイラクに行くのであって、武力行使や戦闘行為はしないと言明した。そして、日本国憲法前文の「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のくだりを引用し、自衛隊のイラク派遣が憲法のこの理念に基づくものであり、憲法に違反しないことを強調した。

しかし、同時に小泉首相は記者の質問に答えて武力行使や戦闘行為はしないことを再確認しながら、正当防衛は武力行使にあたらないとして自衛隊が実際には武力を行使し、戦闘行為をすることを認めた。

日本は1945(昭和20)年8月15日の第二次大戦終結後はじめて自衛隊を外国に本格的に派遣することになった。これはきわめて危険な戦争への道の始まりであり、日本がかつて歩んだ道の繰り返しである。

1867(慶応3)年の明治維新以降に日本が初めて外国に軍隊を派遣したのは1874(明治7)年のことであった。当時清国の領土であった台湾に漂着した琉球人66名のうち54名が原住民に殺害され、残りは清国人により助けられるという事件が起こった。明治政府はこの事件に対する報復として台湾に軍隊を派遣し、原住民と戦い、清国から50万両(テール)の金を受け取ることにして撤兵した。

第二の出兵は1875(明治8)年に日本の軍艦雲揚が朝鮮・韓半島西岸の江華島に接近して韓国側の砲撃を誘発し、過剰な報復を加え、韓国に大きな損害を与えた事件である。日本はこの事件を利用して韓国に開国を迫り、不平等条約を押し付けた。

その後、日本は1894-95(明治27-28)年に清国と戦い、台湾をとり、1904-5(明治37-38)年にロシアと戦い、朝鮮・韓半島と中国東北への進出の足場を築き、1910(明治43)年には韓国を併合した。さらに、1931(昭和6)年には「満州事変」を起こし、翌1932(昭和7)年には「満州国」をでっち上げた。日本は戦場を中国本土に拡大し、その行き着いた先が1941(昭和16)年のパールーハーバーであった。

第二次大戦後、日本国民は明治以後の歴史の教訓に学び、日本国憲法第九条において「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」ことを決意した。日本は第二次大戦後一度も自衛隊を外国に送り、その地の人たちを殺してはいない。しかし、今やこれが「人道支援」の名の下に揺らいでいる。

私は2003年11月9日の日本の衆議院議員選挙の直後に発表した文章で「自衛隊が本当にイラクの人々を助けるために行くのであるならば、自衛隊は武器を持たないで行くべきである」と主張した。しかし、今回決まった基本計画では自衛隊は短銃や機関銃だけではなく、自爆テロでトラックが宿営地などに突入するのを防ぐためにと称して個人携帯用の対戦車弾や無反動砲を携行することになっている。

現に戦争が続いているイラクで走ってくるトラックが自爆するトラックであるのか、普通のトラックであるのかを瞬時にして見分けることは至難の技である。助けに行って、助けるべき人を殺めることになるであろう。

小泉首相はいろいろと言葉を弄しているが、その言わんとするところは、結局は、アメリカが始めた戦争を最初に支持したので金だけではなく、人も出さざるを得ないということにつきる。ここに自国の意思に反して戦争に引きずり込まれる「同盟」の危険性がはっきりと表われている。

そもそも今回のアメリカのイラクに対する戦争には大義がない。9.11事件とイラクとの関係はなんら立証されていない。戦争開始の口実とされた大量破壊兵器も見つかっていない。しかも、大量破壊兵器を持っているとされる国はイラクだけではない。アメリカは世界最大の大量破壊兵器の所有国である。フセイン体制の抑圧性・独裁性が指摘されるが、抑圧的・独裁的な体制はイラクだけではない。何のことはイラクの石油資源を巡る戦争である。

二人の日本人外交官がイラクで亡くなったことに同情が集まっている。これは人間の自然な情である。しかし、この二人の死を「無駄にしないために」自衛隊をイラクに派遣するようなことがあってはならない。明治以降の歴史は最初は少数の犠牲であったのが、それに報復するなかで犠牲者が増え、1904-5年のロシアとの戦争では「幾万の生霊(死者)」が出るに至った。そして、さらに、この生霊にこたえるために戦争を続け、ついには幾百万人の悲惨な死を招いたのである。

日本はここで立ち止まるべきである。イラクに自衛隊を派遣してはならない。それは後に続く長い長い戦争への第一歩である。

自衛隊は武器を持たないでイラクへ ―2003年11月9日の総選挙を終えて―

中西 治 (2003年11月11日 23時52分)

2003年11月10日に小泉首相は自民・公明・保守新党の与党3党が総選挙で安定多数を確保し、国民の支持を得ることができたので、状況が許せば自衛隊を早期にイラクに派遣したいと言明した。朝日新聞が11月11日の朝刊で伝えた日本政府のイラクへの自衛隊派遣についての基本計画案によると、日本政府は陸海空3自衛隊と文民の計1200人程度を今年の12月下旬から順次イラクに派遣するようである。

ところが、同紙の同日夕刊によると、政府は当初この計画案をアメリカのラムズフェルド国防長官が来日する11月14日に閣議で決定し、11月19日に召集される見込みの特別国会に報告する予定であったが、イラク治安の悪化や総選挙での民主党の躍進を受けて国会での審議を避けるために閣議決定を特別国会後に先送りするという。

自衛隊のイラク派遣は日本が第二次大戦後はじめて本格的に自衛隊を海外に送りだすという日本のこれからの運命にとってきわめて重大な問題であり、選挙の大きな争点となった問題であるにもかかわらず、新たに選出された国会の場で審議されないようにするというのは許しがたいことである。政府の自信のなさを表わしている。

有権者の投票行動が一つの要因だけによって行われるものでないことは多言を要しないが、小泉首相の論理に従ったとしても、今度の選挙結果によって日本国民が自衛隊のイラク派遣を認めたことにはならない。今回の選挙で自衛隊のイラク派遣を推進している自民・公明・保守新党の与党3党が得た票よりもこれに反対している民主・共産・社民の野党3党が獲得した票の方が多い。

与党3党が今回の選挙で得た票は比例区においておよそ自民党が2066万、公明党が873万、合わせて2939万である。それぞれの得票率は35.0%と14.8%、計49.8%である。小選挙区においては自民党が2608万、公明党が88万、保守新党が79万、合わせて2775万である。それぞれの得票率は43.8%、1.5%、1.3%、計46.6%である。

他方、野党3党の得票は比例区において民主党が2209万、共産党が458万、社民党が302万、合わせて2969万である。得票率は民主党が37.4%、共産党が7.8%、社民党が5.1%、計50.3%である。小選挙区においては民主党が2181万、共産党が483万、社民党が170万、計2834万である。得票率はそれぞれ36.7%、8.1%、2.9%、計47.7%である。

比例区と小選挙区のいずれにおいても民主・共産・社民の野党3党が得票数と得票率の両者において自民・公明・保守新党の与党3党を上回っている。小泉首相流に言えば、日本国民は自衛隊のイラク派遣に反対している。

私は与党3党に投票した人がすべて自衛隊のイラク派遣に賛成しているとは思わないし、野党3党に投票した人がすべて自衛隊のイラク派遣に反対しているとも思わない。前者のなかに反対の人もいるだろうし、後者のなかに賛成の人もいるであろう。

重要なのは、いずれの党に投票したにしろ、自衛隊のイラク派遣に賛成する人々の多くが自衛隊のイラク派遣は戦争で困っているイラク人を助けるためのものであって、イラク人を殺すためのものではないと考えていることである。

小泉内閣も自衛隊の派遣はイラクの復興を助けるためであると言い、前記の基本計画案でも自衛隊の活動として浄水・給水、医療、生活物資の配付、輸送活動を挙げ、文民の活動として電力供給、医療、教育などを挙げている。私はこのような救援活動に賛成である。しかし、そのために自衛隊を派遣する必要はないと考えている。

国境なき医師団や海外青年協力隊などをはじめとしてそのようなことを専門とする人々や集団はたくさんあるし、今も活発に活動している。政府はこのような活動を積極的に支援するとともに、イラクの現状にそくした文民の救援活動を展開すれば良い。

自衛隊が本当にイラクの人々を助けるために行くのであるならば、自衛隊は武器を持たないで行くべきである。自衛隊は日本の災害復興支援のときには武器を持って行かないであろう。そのような物は救援活動の邪魔になるだけである。

現に戦争が続いているイラクで復興支援を行うことは危険である。それは当たり前である。だからといって、赤十字や国境なき医師団は武器を持っては行かない。どうしても現地の人々の理解が得られず命が危険にさらされるときには引き揚げれば良い。助けに行って、助けることを続けるために助けるべき人を殺してはならない。それでは何のために行ったのかわからない。人道的援助は人道的に行うべきである。

小泉内閣は自衛隊に短銃や機関銃に加えて自爆テロ対策として携帯式の対戦車弾や無反動砲を携行させるといわれている。これは復興支援の道具ではなく、人を殺し、物を破壊する道具である。このような兵器を装備した自衛隊員を見たときにイラクの人々はどのように思うであろうか。復興支援のためではなく、アメリカ軍を助けてイラク人を殺すために来たと考えて何の不思議があろうか。

自衛隊は武器を持たないでイラクに行き、復興支援に従事することによって日本国憲法の下での自衛隊が果たすべき役割を世界に示すことになる。災いを転じて福とすることができる。

今回の選挙で当選された衆議院議員が参議院議員とともに国会の場でこの問題を真剣に審議されることを皆さんを国会に送りだした主権者の一人として強く要求する。

書評と質問に答える

中西 治 (2003年8月14日 8時40分)

現代人間国際関係史―レーニンからプーチンまでとローズヴェルト、チャーチル

斎藤治子さんが拙著『現代人間国際関係史』(南窓社、2003年)を『ロシア・ユーラシア経済調査資料』2003年8月号(No.854)で紹介して下さった。お忙しいなか貴重な時間を拙著のために割かれ、精読されたことに感謝している。一連の批判を頂戴したので、それにお答えしたい。第一は「不問に付」されてはいるが、「人間の研究から始める」のにホッブス、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人だけで良いのかの問題である。私はかつて『現代共産主義の基礎知識』(明学出版社、1974年)を上梓し、そのなかでモア、ルソー、マルクス、エンゲルス、レーニンの5人を取り上げた。私の思想は基本的にはこれらの人々の延長線上にあるが、今回はモアに代えてホッブスを入れた。政治的人間を分析するのにはホッブス的な人間観を理解することも必要であると考えたからである。抽象的な人間論に深入りせず、この部分は簡潔にし、具体的な人間をして政治的人間を語らしめるようにした。

人間の全面的解明のためにはこれだけでは十分でない。次に世に問う書においてはより広く深く人間を見つめてみたい。

第二はレーニンに関する記述についての幾つかの問題である。ここの部分は私が1980年と1971年に発表した文章が基本をなしている。前半は高校生向けの『受験の世界史』(聖文社、1980年4-12月)、後半は一般読者向けの新書『ソ連の外交』(潮出版社、1971年)に掲載したものである。いずれも最初の発表時には注が付いていなかったが、今回は注を在外研究先のアメリカ合衆国で付した。

斎藤治子さんが提起されている問題は(1)ロシアの貧困化がヴィッテの工業化そのものによってもたらされた面が強調され、農奴解放の不徹底による農民の負担過重のなかで資本主義化が進められたロシアの特殊な条件が出ていないこと、(2)第一次大戦開戦後、ほとんどの社会民主党は祖国防衛主義となって戦争支持の立場に変わる中で、レーニンなどきわめて少数が戦争反対の立場を変えず、それが厭戦気分の国民の欲求と合致したことを軽視できないこと、(3)コルニ−ロフの反乱は「ケレンスキーの政策にあきたらず」というよりも反革命を志向し、二月革命の成果をひっくりかえそうとするものであったのでレーニンは四月テーゼの「ソヴィエトへの平和的な権力移行」から「力による権力獲得」に変更し、これをめぐるボリシェヴィキの内部論争で執拗な説得をしてまわったことには触れていないこと、(4)ブレスト・リトフスク講和をめぐる論争で講和推進派のレーニンがトロツキーの折衷案である「戦争も講和もしない」に基づく交渉結果に「非常に満足したといわれる」のは信じがたいことなどである。

(1)についてはロシアの貧困化(私の言葉では「民衆の生活はかえって苦しくなった」)がヴィッテの工業化だけでなく、農奴解放の不徹底による農民の負担過重によってももたらされたことはその通りであろう。私もヴィッテのところで農民の過重負担に触れ、ストルイピンのところで対農民政策の問題点を指摘した。ただ、これを「ロシアの特殊な条件」といえるのかどうかである。遅れて工業化の道に入ったロシアや日本などの国では「工業化のための投資の大部分は人民の生活を犠牲にし、人民の中から引き出されたのである。」

(2)については私もまったく同意見である。レーニンもこのことをよく自覚していた。だから、どのような犠牲を払っても戦争から離脱し、民衆に平和を与えることが必要だったのである。

(3)についてはその通りであろう。

(4)について斎藤治子さんは「非常に満足したといわれる」の後に(典拠無し)と記しておられるが、私は「トロツキーの回想によると、ソヴェト代表団はドイツは攻撃をしかけて来ないという予測を持って、ブレストからモスクワに帰ってきた。レーニンはドイツが攻撃を再開するのではないかと危惧しながらも、この結果に非常に満足していたといわれる。」と書いておいた。典拠は注記(4)のトロツキーの回想録『我が生涯』である。この文言の評価について様々な意見があって当然である。

以上のような問題を有するにもかかわらず敢えて20年前、30年前の文章を若干の補正をしたが、ほぼそのまま(追加したのは「レーニンをめぐる女性たち」だけ)再録したのはソヴェト体制崩壊後も私のレーニンについての考えが変わっていないからである。 政治家は自己の置かれている政治的状況に応じて特定の過去の人間に対する評価を変えるが、研究者はそうであってはならない。言葉で生きる者は言葉を大切にしなければならない。状況によって言葉が変わるようでは言葉だけではなく、人間も信じられなくなる。同じことはスターリンについての評価でも言える。

私がロシア語を学び始めたのは1952年4月、スターリンがまだ健在であり、「ヴェリ−キー・ヴォ−シチ(偉大な指導者)」といわれた時代である。翌1953年3月にスターリンが亡くなったときにソヴェト人は長蛇の列を作ってその死を悼んだ。それからわずかに3年、1956年2月のソヴェト共産党第20回大会で厳しい批判にさらされたのである。

私は戦前・戦中に神と崇められた昭和天皇が戦後に人間となるのを見てきたのでこれには驚かなかった。政治家の毀誉褒貶の激しさを知った。私はいかなる人間も生きているうちは神とは思っていない。人間は人間である。生きている人間が亡くなった人間を神や仏にするのである。

私は2002年12月30日に古稀を迎えた。還暦を迎えるころから人間がやっと少し分かり始めた。そのころから文章が比較的楽に書けるようになった。70歳に近くなってこれまで雲の上の人のように思われたレーニンやスターリンやローズヴェルトやチャーチルが身近に見えるようになった。レーニンが亡くなったのは54歳、スターリンが亡くなったのは74-5歳、ローズヴェルトが亡くなったのは64歳、チャーチルが亡くなったのは91歳。

私が主として扱った時期のこれらの政治家はすべて今の私よりは若い。なるほどこの歳ではこれくらいのことしか考えられないのかと思えるようになった。

私がこの本を出したのは第二次大戦が遠い昔の物語となり、多くの事実が明らかにされないまま歴史のかなたに消え去ろううとしているからである。国際関係論の専門家を自称する人でも第二次大戦について正確な事実を把握しているとは言い難い人が増えている。この時代を生きてきた日本人研究者の一人としてどうしてもこの本は出しておきたかった。第二次大戦の性格とその戦後処理の経過・結果、戦後冷戦の起源などを正しく理解することなしに20世紀後半の国際関係を解明し、21世紀の地球社会を考えることはできない。

斎藤治子さんと私は第二次大戦中の主要な論点についてほとんど意見が一致している。

斎藤治子さんの書評とは別に、私がかつて勤めていたNHK報道局の先輩で、久しくご指導いただいている元参議院議員・衆議院議員の上田哲さんから次の二つの質問をいただいた。

第一の質問は、1907年の亡命、その後のパッとしない動静のレーニンが1917年4月3日、ペトログラードに帰国した時、儀仗兵が出迎えボリシェヴィキ、メンシェヴィキの代表が挙って歓迎した…という評価、つまり彼が遅れて来たのに「リーダー」になった経緯がよくのみこめないのです、である。

第二の質問は、「19世紀において世界政治に直接大きな影響を与えたのは国家の指導者であった。20世紀には国家の指導者とともに大衆運動組織の指導者も影響を与えるようになった。21世紀には個々の人間が地球社会の運命に直接影響を与え得るようになっている」はじつに的確な洞察です。その一例が「9.11」であるというあてはめがもう少し追いつけません。私も9.11なかりせば、イラクも今回の有事法制もなかったと思いますし、私自身、ニューヨークの現場へ行きました。それだけにこの例示をもっとよく人に伝えたいと思います、である。

第一の質問についてレーニンは亡命中の活動でロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)の指導者の一人として地位を確立しつつあったが、ロシアの革命運動のなかではまだ小さなグループの指導者にしか過ぎなかった。レーニンを出迎えたのは首都で革命を推進したペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの議長チヘイゼと副議長スコべレフなどであり、儀仗をしたのはクロンシュタット要塞の水兵たちであった。臨時政府の首相や副首相ではなく、正式の儀仗隊ではない。

チヘイゼとスコべレフはロシア社会民主労働党のメンシェヴィキ(少数派)に属した。名称は少数派でも当時の状況のもとではボリシェヴィキよりも多数派であり、影響力は大きかった。ボリシェヴィキとメンシェヴィキは党の組織のあり方や革命の路線で対立し、別々の組織になっていたが、革命的高揚のなかで統一への動きが出ていた。

1917年8月8日のボリシェヴィキの大会で戦争に反対するトロツキーやルナチャルスキーなどのグループ「メジュライオンツィ(統一社会民主主義者地区連合組織委員会)」がボリシェヴィキに加わる形で戦争に反対する社会民主主義者の統一が拡大していた。この大会にはレーニンは官憲の追及を受けて出席できなかった。マルトフが国際主義派メンシェヴィキ中央ビューロを代表して祝辞を送った。

同年11月7日に権力を握ると宣言した第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴェト大会にもマルトフは出席していた。同大会で人民委員会議(臨時労農政府)議長にレーニンが選出されたが、ペトログラード・ソヴェト議長兼同軍事革命委員会議長となっていたトロツキーが外務人民委員、ルナチャルスキーが教育人民委員となった。

前述のトロツキーの回想碌によると、レーニンは首都の革命の最高指導者であり、臨時政府を打倒し権力を掌握したと宣言したトロツキーに議長となるように勧めたが、トロツキーはユダヤ人であるが故に断り、レーニンが議長に就任することになったといわれている。最初のソヴェト政府は平和を実現するための統一戦線政府であった。

1917年4月から11月の間にボリシェヴィキは急速にその勢力を拡大し、影響力を強め、レーニンの権威も高まっていたが、それは激しい政治闘争の結果であった。それでもレーニンはトロツキーと並ぶボリシェヴィキの指導者の一人であった。ブレスト・リトフスクの講和をめぐる論争はこれを示している。この段階でもレーニンは絶対的な権力者ではなかった。

第二の質問について私は「同時多発テロ」という用語を使っていない。それは一般に個人やそのグループが行う暴力行為であるテロはいかなるものも認められず悪いものであるが、国家が行う戦争は最後の手段として認められ、良いものもあるとされているからである。

私はテロも戦争も関係者だけでなく、関係のない人も不幸にする悪い行為であり、両者に反対である。テロは戦争の民営化であり、戦争は国家が行うテロである。

9.11は起こるべくして起こっている。私は当初クリントン政権では起こらず、ブッシュ政権だから起こったのではないかと考えていたが、アメリカ合衆国で1年間生活し研究する過程でブッシュ政権の登場は事件の発生を早めた可能性はあるが、それはアメリカ合衆国が多年にわたってイスラエルの側に立ってアラブの人々を抑圧してきた必然の結果であると考えるようになった。

9.11は悪い結果をもたらしている。それはアメリカ合衆国をアフガニスタンのタリバン政権に対する戦争、イラクのフセイン政権に対する戦争へと導き、紛争を拡大し、より多くの人間をいっそう不幸にしている。しかし同時に、朝鮮戦争やベトナム戦争がアメリカ合衆国における公民権革命を促進し、アメリカ社会を質的に変える重要な要因になったように、アフガニスタンとイラクに対する戦争もその実行者の意志に反してアメリカ合衆国を再び質的に変える重要な要因となるのではないかと考えている。

私は9.11の出来事がその一例となると指摘したあとに「人間はこの時代にふさわしい人間とならなければならない」と述べている。

21世紀は個々の人間が地球社会の運命に良きにつけ悪しきにつけ直接影響を与え得るようになっているから人間は良い影響を与えるように努力しなければならない。これが私が言わんとしていることである。

さらに別の方から、ソヴェト体制とエリツィン、プ−チンについて語ったところでゴルバチョフについて論じた部分が少ないのではないのか,彼をどのように評価するのか、との質問を受けている。

私はゴルバチョフについては別に一書『ソ連邦から共同体へ』(南窓社、1992年)を書いており、このなかで合格点を60点から50点に下げ、彼に50点をつけている。ぎりぎりの合格点である。彼が意図してソヴェトを解体させたのならば、100点であるが、彼は決してそれを望んではいなかった。だから、零点である。しかし、人間を解放したこと、世界戦争の危険を遠のけ、核ミサイル兵器削減の第一歩を踏み出し、ドイツ統一を促進したことなどを評価し、点を加え、50点とした。あとは読者にそれぞれの点をつけていただくようにお願いしている。政治とはむずかしいものである。

유사법제 3법의 일본국회통과에 대해 ―지구상의 모든 곳에 평화의 소리를 높이자.

中西 治 (2003年6月10日 10時34分)

2003년6월 6일, 일본의 국회는 유사법제 3법을 성립시켰습니다. 1977년 8월 당시, 후쿠다 카케오 자민당내각이 일미방위협력소위원회의 협의에 입각해 공식으로 유사입법의 연구를 시작했을 때부터, 4반세기를 거쳐 자민당은 그 목적을 달성했습니다. 유사입법이 지향하고 있는 것은 일본의 자위대를 국외에 파견, 아메리카군과 함께 싸우게 하려는 것입니다. 후쿠다 카케오수상을 정치의 스승으로 우러러 보는 고이즈미수상과 원수상의 아들인 후쿠다 카케오의 내각에 있어서 이것이 실현된 것은 우연한 일이 아닙니다. 그들은 스승과 아버지의 정치적유언을 실현한것입니다.

세계 제 2차 대전에 의해 전쟁의 참전을 체험한 일본은, 일본군이 또 다시 외국에 나가, 그 곳의 사람들을 죽이지 않는 일을 맹세하고 무력을 포기했으며, 전체적인 분쟁문제를 평화적인 대화을 통해 해결하도록 했습니다. 이것이 일본국헌법의 정신이자 제 9조의 규정입니다.

일본은 식료있어서도, 또 석유, 천연가스에 있어서도 많은 외국에 의존하고 있는 것은 물론, 평화의 테두리속에서 밖에 살아갈 수 없는 나라입니다. 일본은 전쟁하에서는 살아갈 수 없습니다. 일본인의 다수는 그 사실을 잘 알고 있고 , 전쟁을 전제하는 유사입법을 오랫동안 거부해 왔습니다.

1990년대에 들어가면서 정세는 급속히 변화하기 시작했습니다. 1991년 1월의 제 1차 타이완 전쟁의 흔적으로, 자유대의 청해선이 페르샤만에 출동하고 1992년 6월에는 국연평화유지활동협력법이 성립되었습니다. 2002년 12월에는 이지즈함이 인도해에 출동하고, 이어 유사법제3법이 채택되었습니다.

어떻게 해서 이렇게 되어 버렸는가. 제 1의 이유는 1990년 8월 2일에 이라크에 의한 쿠웨이트 진공이후전쟁이 빈발하고, 많은 일본인이 전쟁의 위험을 가깝게 느낄수 있도록 되었기 때문입니다.1991년 1월의 제 1차 타이완전쟁, 1998년12월의 제 2차 타이완전쟁, 1999년3월의 코스보전쟁, 2001년 9월11일의 사건에 이어, 같은 해 10월의 아프가니스탄의 타리반정권에 대한 전쟁, 2003년 3월의 이라크의 후세인정권에 대한 전쟁등입니다.

제2의 이유는 전쟁에 대한 일본인의 의식의 변화입니다.일찍이 전쟁은 제 1차 대전, 제 2차 대전, 한국전쟁,베트남전쟁, 아프가니스탄전쟁 같은 장기간에 걸친 지상전을 수반하는 비참한 것입니다. 그러나 , 지금의 전쟁은 제 1차 타이완 전쟁이래 하이테크 기술을 구사하는 단기간의 텔레비전게임같이 되어 버렸습니다. 그것으로 인해 죄없는 다수의 사람들이 잔혹하게 죽음을 당하고 있는 것을 볼 수 없게 되었습니다.

그럼에도 불구하고 2002년 4월에 유사법제3법안이 국회에 상정되었을 때, 일본인은 그 성립을 용서하지 않았습니다. 그러나 그로부터 겨우 1년후의 지금, 이 법안은 여당뿐만아니라 야당의 다수의 의원도 포함한 찬성에 의해 중의원, 참의원 양원을 통과했습니다. 여기에는 2002년 9월의 일조 평양선언이후 명확해진 납치라는 불길한 사건이 큰 영향을 끼치고 있습니다.

일본과 조선 한반도 사이에는 옛부터 밀접한 관계가 있습니다. 양지역의 관계는 각각의 지역의 사람들의 생활과 평화, 안전에 큰 영향을 끼쳐왔습니다. 양지역간에는 도쿠가와막부체제아래의 쇄국의 시대에는 유호적인 교류가 있었습니다. 근현대에 있어서의 그 불행한 관계는 일본이 1910년 8월에 일한 병합조약에 의해 한국을 식민지화하고,그 지역을 조선이라고 칭하게 된 때에 시작되었습니다.일본에 의해 중국에의 침략전쟁이 확대되어가는 속에 1939년 7월에 히라누마키이치로우내각은 조선인노동자내지이주에 관한 건을 통첩하고, 조선인을 강제적으로 일본에 연행했습니다.그 수는 일본에 의해 식민지지배가 끝나는 1945년8월까지의 약 150만인에 달한다고 합니다.

그 불행한 역사가 아직 완전히 끝나지 않았다는 일을 최근의 일어날 일이 다시금 명확히 보여주고 있습니다. 일본인이 먼저 그 과거의 식민지 지배에 대해 솔직하고 겸허하게 반성하지 않으면 안됩니다. 그러나,상대방이 나쁘기때문에 라고 이야기하면서 자신도 그 나쁜일을 한다면 똑같이 나쁜사람입니다. 조선민주주의 인민공화국도 납치에 대해 겸허히 반성해야합니다.핵무장등은 해서는 안되는 일입니다.그 지역의 긴장을 높게 하는 것 뿐입니다. 고이즈미 내각은 일본인의 안에 퍼져가고 있는 동국에 대한 의심과 반감과 비난을 계략적으로 이용하면서 25년이래의 과제를 완수했습니다.

일본은 전쟁을 하지 않는 국가에서 전쟁을 하는 국가가 되었습니다. 일본국의 질은 변했습니다. 다음은 헌법개정이 구체적인 정치일정에 다루워지는 일일것입니다. 전쟁을 전제로 한 생각, 전쟁에 대비하게 되는 때, 전쟁은 바로 가깝게 와 있는 것입니다. 쌍방이 전쟁에 대비하기 시작할 때에 전쟁은 일어납니다. 이미 선제공격에 관하여 조차 논의 되고 있습니다.

1938년 4월의 국가총동원법의 공포가 상기되었습니다. 그로 부터 1941년 12월8일에 진주만공격까지 겨우 3년 8개월 남짓입니다. 만약, 똑같은 일을 겪는 일이 되면 또다시 많은 인명을 잃어버리고 일본은 폐허화될 것입니다.이번의 유사법제3법에 찬성한 사람들의 책임은 극히 중대합니다.

어떻게 대처할 것인가.우리들은 전쟁의 논리에 말려들어서는 안됩니다.전쟁이 일어나면 어떻게 할까가 아니라 전쟁이 일어나는 원인을 잡아내기 위해서는 어떻게 할까에 대해 생각해야만 합니다. 우리들의 연구소는 모두 중한인민공화국,대한민국, 조선민주주의 인민공화국, 러시아 연맹, 아메리카합중국등의 뜻을 같이한 사람들과 협력해 지구상의 평화, 특히 동아시아의 평화와 번영을 확보하기위해 구체적인 활동을 시작하고 있습니다.

우리들의 연구소는 강력한 도구를 가지고 있습니다. 메일igcp@mlc.nifty.com과 홈페이지http://www.igcpeace.org/입니다. 그 도구를 유효하게 사용해,평화의 소리를 백, 천 만 억의 사람들에게 알려갈 것입니다. 지구상의 모든 곳에 평화의 소리를 높여갈 것입니다.정의는 전쟁의 측면이 아니라 평화의 측면에 있습니다.평화를 소중히 하는 사람들이 협력해 연대를 맺는 다면, 정의는 반드시 실현됩니다.평화는 반드시 확보됩니다.우리들의 연구소는 그것을 위해 만들어 진 것입니다.

韓 智姫(ハン ジヒ)訳

有事法制3法の日本国会通過にあたって ―地球上のすべてのところで平和の声を高めよう―

中西 治 (2003年6月10日 6時14分)

2003年6月6日に日本の国会は有事法制3法を成立させました。1977年8月に時の福田赳夫自民党内閣が日米防衛協力小委員会の協議に基づいて公式に有事立法の研究を始めてから四半世紀を経て自民党はやっとその目的を達しました。有事立法がめざしたものは日本の自衛隊を国外に派遣し、アメリカ軍とともに戦わせることです。福田赳夫元首相を政治の師と仰ぐ小泉首相と元首相の子息である福田官房長官の内閣においてこれが実現したことは偶然ではありません。彼らは師と父の政治的遺言を実現したのです。

第二次大戦によって戦争の惨禍を体験した日本は日本の軍人がふたたび外国に出て、その地の人々を殺し傷つけないことを誓い、武力を放棄し、すべての紛争問題を平和的な話し合いによって解決することにしました。これが日本国憲法の精神であり、第九条の規定です。

日本は食料にしても石油・天然ガスにしてもその多くを外国に依存しており、平和のもとでしか生きられません。日本は戦争のもとでは生きられません。日本人の多くはそのことを良く知っており、戦争を前提とする有事立法を久しい間拒否してきました。

1990年代に入って情勢が急速に変わり始めました。1991年1月の第一次湾岸戦争のあとに自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に出動し、1992年6月には国連平和維持活動協力法が成立しました。さらに1999年5月には周辺事態法、2001年10月にはテロ対策特別措置法が成立しました。2002年12月にはイージス艦がインド洋に出動し、ついに有事法制3法の採択となりました。

どうしてこのようになったのでしょうか。第一は1990年8月2日のイラクによるクウェート進攻以降戦争が頻発し、多くの日本人が戦争の危険を身近に感じるようになったからです。1991年1月の第一次湾岸戦争、1998年12月の第二次湾岸戦争、1999年3月のコソボ戦争、2001年9月11日の事件に続く同年10月のアフガニスタンのタリバン政権に対する戦争、2003年3月のイラクのフセイン政権に対する戦争などです。

第二は戦争に対する日本人の意識の変化です。かつて戦争は第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争などのような長期にわたる地上戦をともなう悲惨なものでした。しかし、いまでは戦争は第一次湾岸戦争以来ハイテク技術を駆使した短期のテレビゲームのようなものになっています。そこでは罪のない多数の人々が残虐に殺されていることが見えてきません。

それでも2002年4月に有事法制3法案が国会に上程されたときには日本人はその成立を許しませんでした。しかし、それからわずか1年後の今回はこれらの法案は与党だけではなく、野党の多数の議員も含む賛成によって衆参両院を通過しました。これには2002年9月の日朝平壌宣言以後に明らかになった拉致という忌わしい出来事が大きな影響を与えています。

日本と朝鮮・韓半島との間には古来密接な関係があります。両地域の関係はそれぞれの地域の人々の生活と平和と安全に大きな影響を与えてきました。両地域の間には徳川幕藩体制下の鎖国の時代にも友好的な交流がありました。近現代における不幸な関係は日本が1910(明治43)年8月に日韓併合条約によって韓国を植民地化し、この地域を朝鮮と称するようになったときに始まりました。日本による中国への侵略戦争が拡大するなか1939(昭和14)年7月に時の平沼騏一郎内閣は「朝鮮人労働者内地移住に関する件」を通牒し、朝鮮人を強制的に日本に連行しました。その数は日本による植民地支配が終わる1945(昭和20)年8月までにおよそ150万人に及んだと言われています。

この不幸な歴史がまだ完全に終わっていないことを最近の出来事は改めて明らかにしました。日本人がまずこの過去の植民地支配に対して率直に謙虚に反省しなければなりません。しかし、相手が悪いからといって自分も悪いことをすれば同じく悪い人です。朝鮮民主主義人民共和国も拉致について謙虚に反省すべきです。核武装などはすべきではありません。この地域の緊張を高めるだけです。小泉内閣は日本人のなかに広がっている同国に対する疑念と反感と非難を巧みに利用しながら25年来の課題を果たしました。

日本は戦争をしない国から戦争をする国になりました。日本国の質が変わりました。つぎは憲法改定が具体的な政治日程に上ることでしょう。戦争を前提として考え、戦争に備えるようになったとき戦争はすぐ側まで来ています。双方が戦争に備え始めたときに戦争は起こります。すでに先制攻撃についてさえ論議されています。

1938(昭和13)年4月の国家総動員法の公布が思い起こされます。それから1941(昭和16)年12月8日のパールハーバー(真珠湾)攻撃までわずかに3年8か月余りでした。もしも、同じような道を歩むことになれば、ふたたび多くの人命が失われ、日本は廃虚に化するでしょう。今回の有事法制3法に賛成した人々の責任はきわめて重大です。

どのように対処すべきでしょうか。私たちは戦争の論理に巻き込まれてはなりません。戦争が起こればどうするのかではなく、戦争が起こる原因を取り除くためにはどうするのかについて考えるべきです。私たちの研究所はすでに中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、ロシア連邦、アメリカ合衆国などの志を同じくする人々と協力して地球上の平和、とくに東アジアの平和と繁栄を確保するために具体的な活動を始めています。

私たちの研究所は強力な道具を持っています。メーリングリスト (igcp@mlc.nifty.com) とホームページ (http://www.igcpeace.org/) です。この道具を有効に使い、平和の声を百、千、万、億の人々に広げていきましょう。地球上のすべてのところで平和の声を高めましょう。正義は戦争の側ではなく、平和の側にあります。平和を大切にする人々が協力し連帯するならば、正義はかならず実現します。平和はかならず確保されます。私たちの研究所はそのために作られたのです。

「特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所」正式発足1周年記念日にあたって

中西 治 (2003年5月2日 0時00分)

私たちの研究所は2002年5月2日に正式に発足しました。それから1年が経過しました。この間に私たちの研究所は目覚ましい発展を遂げました。設立総会時に45名であった会員は現在では正会員68名、賛助会員13名、計81名の大きな研究所になりました。これもひとえに皆様のご支援・ご努力の賜物であると深く感謝しています。心から厚く御礼申し上げます。

私たちの研究所はこの1年間に多くの活動をしましたが、この機会に今回のイラク戦争をめぐって研究所の内外から寄せられた多くの貴重なご意見に関連して私の考えを述べさせていただきます。それは私たちの研究所の性格と今後の活動に大いにかかわっているからです。

研究所の中にはイラク戦争に反対する声明を研究所として出すべきであるとの強い意見がありました。これはもっともなことです。地球と宇宙の平和をめざす研究所として現に起こっている戦争について意見を表明することは当然です。しかし、私たちの研究所は声明を出さないで、別の方法を選びました。研究所の内外を問わず、この問題についての意見を研究所のホームページを通じて交換するという方法でした。何故このような方法を採ったのでしょうか。

私たちの研究所は地球上に住むすべての人に開かれています。私たちの一致点は地球と宇宙の平和を大切にし、人間の幸せを望むということです。私はこのような考えを持つすべての人に私たちの研究所に入っていただきたいと願っています。

私たちの研究所にはさまざまな考えをもっている方がおられます。今回の戦争についても地球と宇宙の平和を望みながらも、サダム・フセインの支配を覆すためにはイラクに対する攻撃が必要であると考えている方もおられるでしょう。もしも私たちの研究所が今回の戦争を非難する声明を出したとしたならば、その方々の考えを無視し、排除したことになります。私は会員の方が不愉快な思いをされるようなことをしてはならないと思っています。

私は今回の戦争について二度私の考えを率直に述べさせていただきました。その考えはいまも変わっていません。しかし、私は私の考えで研究所の意見をまとめるつもりは毛頭ありません。私は私たちの研究所がすべての人にあらゆる問題について自由に意見を述べる場を提供したいと考えています。そして、それをお読みになられた方々が自分の考えを固められ、それぞれの場で活動されても良いし、活動されなくても良いと考えています。

私自身は2001年の9・11事件に続くアフガンのタリバン政権に対する戦争と2003 年のイラクのフセイン政権に対する戦争などの問題を根本的に解決する方策として、すでに国際連合の拡充・発展と個人およびその集団による新しい地球安全保障機構と地球経済財政金融機構および地球警察の創設を提案しています。また、東アジアの平和を強化するために具体的な提案をし、活動をするつもりです。

歴史は指導者によって作られているように見えますが、実際は民衆によって作られています。指導者が民衆を使っているように見えますが、実際は指導者は民衆によって使われているのです。民衆の願いを正しく理解し、その実現のために努力するとき指導者は英雄となり、天まで持ち上げられますが、民衆の願いから離れ、それに反する行動をするようになったとき指導者は地獄にまで突き落とされるのです。しかも、同じ民衆によってです。私はそのような場面をこれまで何度も見てきました。

サダム・フセインにしてもしかりです。彼が多年にわたってイラクの最高指導者としての地位を維持できたのにはそれなりの理由があったからです。彼はそれまで外国の欲しいままにされてきたイラクの石油をイラク国民のものに取り返したのでした。彼は確かに専制的な指導者でした。しかし、専制的という点ではお隣のサウジアラビアの方がはるかに専制的であるし、アジアには朝に王を批判すれば夕方には捕まって獄に入れられるという国が今でもあるのです。アメリカはサウジアラビアの王侯はアメリカの言うことをよく聞くから守り、サダム・フセインはアメリカの言うことを聞かないから潰すということをしているのです。だから、アラブの多くの人々は怒っているのです。

2003年4月の統一地方選挙で私たちの研究所の方がお二人それぞれ異なる政党から立候補され、見事に当選されました。私はこれを心から喜んでいます。私は近い将来に私たちの研究所の方々が地方公共団体においても国政においてもあらゆる政党から、または、政党に属さずに立候補され、当選され活躍されることを願っています。私は日本国だけではなく地球社会全体でも私たちの研究所の方がさまざまな面で活躍されることを祈っています。そのような人が増えたときに地球と宇宙の平和はより確かなものになるでしょう。

21世紀は地球上に住むひとり一人の人間が地球社会の主人公の時代です。私は私たちの研究所をこの時代にふさわしい組織にしようと願っています。これまでの多くの組織は組織の長を頂点とする階層的な垂直的構造であり、構成員を組織に合わさせようとしてきましたが、私たちの研究所はすべての構成員が平等である水平的構造であり、構成員を組織に合わせるのではなくて、組織をひとり一人の人間に合わせるような研究所にしたいと願っています。現在はひとり一人の人間が地球社会に直接影響を与えることのできる時代です。

私は新たな気持ちをもって正式発足2年目に入る研究所の活動にいっそう積極的に取り組むつもりです。皆様の変わらぬご指導・ご支援をお願い申し上げます。

イラク問題についてはここで一旦論議を打ち切ります。次に朝鮮・韓半島の情勢と有事立法の問題についてご意見をお寄せ願えれば幸いです。

ニューヨークの反戦デモに参加して

中西 治 (2003年3月23日 0時00分)

2003年3月22日(土)にニューヨークのマンハッタンで催されたアメリカのイラク戦争に反対するデモを見に行きました。午前11時前にデモの出発点 であるブロードウェイの33番通りに着きました。現地には続々とデモの参加者たちが集まってきており、デモの主催者たちが記者会見をしていました。私はま ずは腹ごしらえと近くの韓国人街のレストランに行きました。

デモは予定通り正午少し過ぎに出発し始めました。マンハッタンを南に下り、ユニオン広場を経て西4番通りのワシントン広場に至る普通に歩けば30分ほど のコースです。私はデモの全部を見ようと思って33番通りの角に立ち、参加者や参加者の唱えるスローガン、衣装、プラカード、パフォーマンスなどを見てい ました。10万人から15万人が参加すると言われていましたが、実際にどのくらいの人が参加するのかが最大の関心でした。

ブッシュ大統領の開戦演説の翌20日(木)に『今日のアメリカ(USA TODAY)』とCNNテレビとギャラップ世論調査が602人の成人を対象に行なった合同世論調査ではアメリカがイラクとの戦争に向かうことを決めた決定 を強く支持する人が60%、強くではないが支持する人が16%、強く反対する人が15%, 強くではないが反対する人が5%でした。アメリカ国民の4人に 3人がブッシュ大統領の戦争を支持していることになります。本当にそうなのでしょうか。私は自分の目で確かめたかったのです。

確かにアメリカではいま愛国心が掻き立てられています。戦争に公然と反対しにくい雰囲気が作り出されています。民主党の上院院内総務ダシュルさんはブッ シュ大統領の開戦宣言の直後にアメリカが国連安全保障理事会で新たな決議を得られなかったことを批判してブッシュ大統領は外交的失敗をしたと述べたのです が、共和党はこれに反論してブッシュ大統領をいま批判するものは愛国者ではないと強く非難しました。この非難に耐えかねてかダシュルさんはアメリカ合衆国 大統領は最高司令官であり、今日、我々は彼の後ろで団結していると言わざるを得なくなっています。

アメリカ憲法では宣戦布告は議会の権限です。しかし、2002年10月10日の上下両院の共同決議でブッシュ大統領にイラクに対して軍事力を行使する権 限を与えていますので、宣戦布告の決議は議会では特にされていません。軍事力行使の決議に賛成することは宣戦布告に賛成することでした。このことは私たち 日本人も肝に銘じておくべきでしょう。

デモが始まって1時間ほど経った時に戦争に反対する元気一杯の女性の集団が近付いてきました。先頭に立つ長い横断幕を持った人の中に一人男の人がいまし た。見ると元日本平和学会会長の岡本三夫広島修道大学教授でした。岡本さんも私に気付き手招きをされています。側に行くと、一緒にデモをしませんか、と言 われました。私も入って岡本さんの隣で横断幕を持ちました。私は見物人から参加者になりました。

私たちの一団が終着点に着いたあと私はふたたび出発点に戻りデモの流れを見ていました。デモは延々と続き最後の集団が見えたのは3時少し前でした。私は その集団のところへ行き、その隊列の最後に着きました。私のうしろには警備を終えた警察官たちが続いていました。私は出発点の33番通りの角まで歩きまし た。参加者の数は分かりませんが、今朝(23日)のテレビは10万人と報じていました。私は多くのアメリカ人が大変厳しい状況のなかで戦争反対の意志を明 確に表明したことに感銘をうけ、心強く思いました。

私は戦争開始後のアメリカのテレビを見ながらこれは完全なアメリカの侵略戦争であると思いました。アメリカのテレビはイラクに百数十ある油田のうち火の 手をあげているのは9であり、あとは無事に確保されたと伝えていますが、語るに落ちたというものです。国連安全保障理事会はただちにこの侵略行為を止めさ せなければなりません。国連ができなければ地球上の人々が声を高めて止めさせなければなりません。アメリカはこれまでもラテンアメリカなどで他国の政権を 軍事力を行使して潰してきました。アフガニスタンに続くイラクでの今回の行為は21世紀初めにおける蛮行です。

デモのプラカードやスローガンのなかでもブッシュ大統領を弾劾すべきであるとか、ブッシュ大統領を侵略者として糾弾し、その戦争開始の責任を問うべきで あるとかの指摘がありました。私もそのように思います。ブッシュ大統領の再選はないでしょう。歴史はブッシュ大統領の今回の行為に対する責任を厳しく問う ことになるでしょう。

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