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新しい出発の日に

中西 治 (2008年4月1日 6時52分)

春が来ました。新しい年度が始まりました。

私は1956年3月に大学を卒業し、同年4月1日に通信社に勤め始めてから、昨日、2008年3月31日に大学での勤務を終えるまで、途中で大学院に行ったり、自由業と称していた時期がしばらくありましたが、52年にわたる「勤め」が終わりました。

自由人になりました。

いろいろとお教えいただき、お世話いただいた皆さん、ありがとうございます。

厚く御礼申し上げます。

人生を大いに楽しみ、地球上の各地でいっそう積極的に研究と教育をおこないます。

特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所の発展に努力します。

大胆に社会的に発言し、行動します。

今後ともご指導とご支援をお願いします。

愉快な良い日々を!

2008年4月1日
新しい出発の日に

スパイか、英雄か ―5人のキューバ人のこと―

中西 治 (2008年3月30日 13時00分)

ことの起こりは 1998 年 6 月であった。

キューバ共和国当局はハバナを訪問していた米国の連邦捜査局 (FBI) 使節団に米国のフロリダ州マイアミで活動しているキューバ人反カストロ派諸集団のキューバ共和国に対する破壊活動についての資料を手渡した。米国当局は回答を約束した。

同年 9 月 12 日に FBI は「奇妙な回答」を寄せた。米国在住の反カストロ派ではなく、親カストロ派の 5 人のキューバ人をスパイ容疑で逮捕した。

2001 年 12 月 27 日にマイアミ地方裁判所は次のような判決を下した。

ヘラルド・エルナンデス・ノルデロ (Gerardo Hernandez Nordelo) に終身刑を 2 回とそれに加えて懲役 15 年。終身刑を 2 回とさらに懲役刑とは、なんとも奇怪な判決である。終身刑は 1 回で十分であるが、罪状ごとに刑期を認定すると、こういうことになる。彼は死んだあと、また生まれてきても、生まれた日から終身刑に服することになる。そのあと、また生まれてきても 15 年の懲役刑が待っている。彼は 1965 年 6 月 4 日にハバナで生まれ、 1989 年にキューバ共和国外務省国際関係大学を卒業し、国際政治関係で学位を取得している外交官である。

ラモン・ラバニーノ・サラサール (Ramon Labanino Salazar) に終身刑に加えて懲役 18 年。彼は 1963 年 6 月 9 日にハバナで生まれ、 1986 年にハバナ大学を卒業し、経済で学位を取得している。

アントニオ・ゲレロ・ロドリゲス (Antonio Guerrero Rodriquez) に終身刑に加えて懲役 10 年。彼は 1958 年 10 月 18 日にマイアミで生まれ、ソヴェト・ウクライナのキエフ工科大学を卒業し、空港建設技術で学位を取得している。

フェルナンド・ゴンザレス・リョルト (Fernando Gonzalez Llort) に懲役 19 年。彼は 1963 年 8 月 18 日にハバナで生まれ、 1987 年にキューバ共和国外務省国際関係大学を卒業し、国際政治関係で学位を取得している外交官である。

レネ・ゴンザレス・シェベレルト (Rene Gonzalez Sehwerert) に懲役 15 年。彼は彼の家族がバチスタ政権下のキューバから米国に亡命中の 1956 年 8 月 13 日にシカゴで生まれた。カストロ革命の成功後に帰国し、パイロットとフライト・インストラクターになった。彼の兄弟のロベルト・ゴンザレスは弁護士であり、レネをはじめ全員の釈放のために闘っている。

いずれも知識人である。キューバ共和国の人民権力全国会議 (国会) は、この判決の 2 日後の 2001 年 12 月 29 日に、臨時議会で 5 人にキューバ共和国英雄の名誉称号を与えた。

米国の裁判所も揺れている。アトランタ第 11 巡回裁判区控訴裁判所の 3 人の判事は、マイアミ地方裁判所の有罪判決を破棄する決定を下した。そのちょうど 1 年後の 2006 年 8 月 9 日に、同控訴裁判所は判事全員による法廷を開き、過半数により、この決定を却下した。 5 人はふたたび有罪に戻った。 5 人についての判決はまだ確定していない。

争点はどこにあるのか。

米国は 5 人を「スパイ罪」容疑で逮捕したが、起訴したのは、スパイ罪ではなく、スパイのための陰謀、「共謀罪」であった。もっとも重い判決をうけたヘラルド・エルナンデスには、公判中に殺人を謀議した容疑も追加された。その殺人事件とは、 1996 年 2 月 24 日にキューバ空軍機がキューバ領空を侵犯した反カストロ派のキューバ人組織「救出に向かう兄弟たち」の小型飛行機を撃墜した事件である。

キューバ側は、 5 人のキューバ人は米国の安全保障にかかわるようなスパイ行為をしていない、彼らがおこなったのは、革命キューバに対する破壊活動を繰り返していた反カストロ派についての情報の収集である、これは本来 FBI がすべきことである、と主張している。

フィデル・カストロは 2007 年 8 月 22 日に「帝国の異例な道義的敗北」と題する声明を発表した。「彼らとその家族の残酷で途方もない運命は、半世紀近くにわたり国連の最も基本的な基準と諸国民の主権を踏みにじり、キューバ国民に対してテロリズムを適用するというワシントン政府の背信の政策の結果である。」と。

私はこの事件について次のように考えている。

第一は、この事件は反カストロ派キューバ人集団が引き起こした 1961 年のヒロン海岸上陸事件、 1976 年のバルバドス海岸上空でのキューバ航空機爆破事件等々の一連の事件の延長線上にあり、その結果である。注目すべきは、このように多年にわたり重大な事件が展開するなかで、キューバと米国の警察当局が情報の交換をおこない、協力してきたことである。今回はうまくいかなかったが、これまでは一定の成果を上げてきたようである。キューバは FBI を信頼しすぎていたようである。

第二は、 5 人の経歴とこの事件についてのキューバ側の説明を読んで、彼らはキューバ当局の指示にもとづいてマイアミの反カストロ組織の情報収集にあたっていたと考えられる。キューバと米国とのあいだに正式の外交関係があれば、これらの調査は在米キューバ共和国大使館の仕事としておこなわれていたであろう。両国間には外交関係がないので、キューバはそれを内密におこない、しかも、その結果を FBI に教えていた。調査対象の組織に入り込み、見つかれば、殺されることは十分に予測される。 FBI が 5 人の逮捕前にマイアミのキューバ人反カストロ派に彼らのことを伝えなかったのは、 FBI の革命キューバに対するせめてもの配慮といえるかもしれない。

キューバから見れば、彼らは国のために命がけの活動に従事した英雄となる。米国から見れば、米国内の組織の重大な情報をさぐるスパイである。スパイと英雄は紙の裏表である。

第三は、 5 人にはいずれも重刑が言い渡されているが、それでも死刑は宣告されていない。これは 5 人を殺さないという意思表示である。米国の裁判官のあいだでもこの判決に対しては異論がある。米国とキューバのそれぞれの政治情勢が変化し、両国関係が改善されるならば、また、米国内外の世論がこの問題に強い関心をしめすならば、 5 人が解放される可能性はある。スパイ事件では両国関係の改善のためとか、スパイの相互釈放などにより勾留されている者が解放されるのは珍しいことではない。

1492 年にコロンブスがキューバに到達してから 500 年余、 1902 年にスペインの支配から脱してキューバ共和国として独立してから 100 年余、 1959 年にカストロ革命が成功してから間もなく 50 年。最初の 400 年間はスペインの植民地、次の 50 年間は米国の保護国、最後の 50 年間は米国からの完全独立のための闘いの日々。世界はとっくにキューバを独立国家として認めている。米国もそろそろこれを認めるべきときである。そこからキューバと米国の新しい時代が始まる。

キューバを訪ねて(4)「1962年のキューバ・ミサイル危機」

中西 治 (2008年3月27日 17時38分)

2008年2月28日(木)にハバナの防衛情報研究センター (Centro de Estudios de Información de la Defensa = CEID) を訪問しました。私は東京でコシーオ大使に1962年のキューバ・ミサイル危機に関心を持っていることを申し上げました。大使からこのことを伝え聞いたハバナのアジア・オセアニア研究センターのイバニェスさんが防衛情報研究センターでの会合を準備して下さいました。このセンターは2001年9月26日に設立された若い研究機関です。

防衛情報研究センターではビダル(Dr. C Manuel Carbonell Vidal)副センター長とディアス(MsC Enrique R. Martinez Diaz)分析員、それに、もう一人キューバ・ミサイル危機問題の専門家が私たちとの話し合いに参加されました。最初にこの専門家が映像を使って事件の経過とキューバ側の見解を明らかにされました。

1959年1月1日午前2時にバチスタがキューバから脱出し、ドミニカ共和国に亡命しました。キューバ革命は成功しました。フィデル・カストロは同年2月16日に首相に就任し、4月にはアイゼンハウアー大統領下の米国を訪れました。フィデル、32歳でした。米国との関係が悪くなり始めたのは、同年 5月にキューバの革命政権が土地改革に着手してからです。ソヴェト製原油の精製を拒否した米国系石油企業をカストロ政権が1960年6月に接収しました。革命キューバとソヴェトとの関係が深まりました。

1961年1月に米国はキューバとの国交を断絶しました。同年4月にキューバは社会主義革命を宣言しました。キューバの反革命勢力はケネディ大統領下の米国の支援をうけて、キューバ本土中部のカリブ海側の豚湾(Bahía de Cochinos)のヒロン海岸に上陸しました。この勢力はカストロの革命軍によって撃退されました。キューバと米国との関係は決定的に悪くなりました。フルシチョフのソヴェトは1962年10月にキューバ革命をまもるためと称してキューバにミサイルを持ち込みました。

私は、ソヴェトのミサイルをキューバへ持ち込むという構想は最初にいつ、誰が考えついたのか、と尋ねました。防衛情報研究センターの方々は次のように答えました。

キューバ・ミサイル危機については、ケネディ大統領がキューバにソヴェトのミサイルが存在するとの報告をうけた1962年10月16日から28日までの「危機の13日」がもっぱら論じられている。これは的はずれである。危機はバチスタに対するカストロの1953年7月26日のモンカダ兵舎襲撃の時から始まっている。危機の主要な原因は米国のキューバに対する攻撃である。本格的な危機の始まりは、10月22日に米国が海上封鎖を開始した時である。

キューバにミサイルを配備する考えは、1962年にフルシチョフがブルガリアのバルナで休暇中に浮かんだものである。カストロはミサイルについて何も考えておらず、キューバへのソヴェトのミサイル配備は不要であると思っていた。カストロがそれを容認したのは、米国のキューバ革命への介入を阻止するためであった。また、米国がイタリアとトルコにミサイルを配備していたので、ソヴェトのミサイルをキューバに受け入れることによってバランスをとるためであった。カストロはキューバからのソヴェトのミサイル撤去をラジオ放送で初めて知った。

私は1962年以降の経過はその通りであるが、すでに1961年にソヴェトは核兵器について考え始めており、キューバもそのことを知っていたのではないかと尋ねました。1961年7月にフルシチョフはソヴェトの教員を前にして演説し、キューバが侵攻された場合にはソヴェトはキューバに対して核で支援すると述べています。また、同年11月にソヴェトを訪問したゲバラはキューバに帰国したあとのラジオ演説で米国人はキューバに侵攻すればソヴェトの核兵器を味わうことになるであろうと語っています。フルシチョフもゲバラも、キューバに配備された核によってとは言っていませんが。防衛情報研究センターの研究者たちはその事実を知らないと言っていました。

最後に、私は、この事件のあとソヴェトは米国との秘密の合意にもとづいてトルコから米国のミサイルを引き揚げさせた、また、米国にキューバ革命に対して直接の軍事介入をさせなかったのではないか、と指摘しました。これに対して研究センターの方々は、そうではなく、米国がキューバを攻撃できなかったのは、キューバ人の強い意志と行動の結果である、その証拠にソヴェト崩壊後も米国によるキューバ攻撃はおこなわれていない、と強調しました。なかなかの自負です。

1868年の第一次キューバ革命のときの革命歌=現在の国歌が誕生した地バヤモや1953年のカストロ革命の口火を切ったモンカダ兵舎なども訪問しました。フィデルとラウルのカストロ兄弟とキューバ革命については稿を改めて書きます。

(終わり)

キューバを訪ねて(3)「ペソと兌換ペソ」

中西 治 (2008年3月22日 13時36分)

2008年2月27日(水)午後にハバナ大学経済研究センター(La Universidad de La Habana Centro de Estudios de la Economia Cubana = CEEC)を訪問しました。昨2007年にも私たちの研究所の第一次訪問団が訪ねています。ハバナ大学は1728年に創立され、今年、創立280年を迎えるラテンアメリカの名門大学の一つです。経済研究センターは1989年に設立されています。

元センター長のコルドビ(Dr. C.Juan Triana Cordovi)教授は私たちの質問にも答えながら、キューバ経済について次のよ うに語りました。

1991年12月のソヴェトの崩壊は私たちに自分の頭で考える機会を与えました。ソヴェトの改革は頭を使わない改革であり、歴史を否定し、システムを破壊しました。中国は歴史を肯定し、権力システムを維持しながら、改革・近代化を進めています。キューバでは14年前から変革の時期が始まり、 2007年の経済成長は7.25%、この3年間の平均成長率は9.3%です。

現在の主要な貿易相手国はベネズエラ、中国、カナダ、スペイン、オランダなどです。ベネズエラとの貿易は主として石油です。キューバの石油消費の 3分の2は輸入、3分の1はキューバ産です。キューバはかつてソヴェトに砂糖を国際価格以上で買ってもらい、その金で石油を国際価格で購入していました。日本との経済関係は債務問題が未処理のため低迷しています。米国の経済封鎖は国民の生活にとってそれほど大きな影響はありません。

2月28日(木)午前にハバナ市内の有機栽培農園を見学しました。第二次大戦後、日本でも焼け跡を耕して家庭菜園を作りましたが、それを数十軒分ほどまとめたような規模です。農園長は元陸軍大佐、売店に1人、農場に4-5人の人が働いていました。野菜くずや枯れ葉などを埋めて堆肥を作っている大きな畝が3列ほどありました。堆肥は少し離れたところでも作っているそうです。人参や葉物の野菜を作って、売っています。

キューバ人はもともと葉物の野菜はあまり食べなかったようです。ソヴェト崩壊後の生活難のときに生きるために菜園づくりを始めました。それがいまではキューバ人も葉物の野菜を食べるようになり、有機栽培農園が企業としてやっていけるようになりました。働いている人の賃金は月収1200ペソ(およそ60兌換ペソ、日本円で7200円くらい)です。キューバ人労働者としては高給です。

キューバ人はあまり働かず、農業のような厳しい肉体労働には従事したくないようです。多くの人は、とくに若い人は観光業や通訳のような知的労働を望み、農園は高給を出さないと労働力が確保できないのです。ここでは従業員はアジア人的に働いていると農園長は笑って話していました。農園長も収入は軍人時代よりは良いと言っていました。作物の種類は従業員と話し合って決めるのかと尋ねると、農園長は「私は会議嫌いで通っている。私が一人で決める。みんなで決めるようなやり方だと私はこの仕事を辞める。」と言っていました。なるほど、元将校です。

人気のある観光業や通訳の月給は400ペソ(およそ20兌換ペソ、日本円で2400円くらい)です。それでも生活ができるのは、パン、米、豆類、オリーブ・オイル、バター、砂糖、石けん、コーヒー、紙巻きたばこ、マッチ、練り歯磨きなどの主食と生活必需品が低価格の配給で入手できるからです。それに医療費と大学までの学費は無料です。キューバは社会主義国です。そこへグローバリゼーションの大波が押し寄せています。

一般に、先進国は物価の安い途上国で品物を買い、物価の高い先進国で売って利益を得ます。途上国の労働者は低賃金ではあるが、仕事を確保します。先進国の労働者は安い商品を買って、生活を利便にします。ついで、先進国の資本が途上国に進出し、現地で賃金の安い労働者を使って生産を始めます。先進国の労働者も途上国に行き、先進国の賃金で現地の労働者よりも豊かな生活をします。現地の労働者は新たな職を得ます。

先進国の資本や人とともに高い価格の商品が途上国に流入します。ソヴェトや中国などの社会主義国は、外貨の流出を防ぎ、かつ、外貨を増やすために、また、外国品の高い価格が自国の物価に直接影響を及ぼさないようにするため、外国人しか買えない店や外貨でしか買えない店を作ったり、兌換人民元などの制度を導入しました。外国人や外貨を持っている人だけしか外国製品や質の高い自国の製品を買えないので、現地の住民の多くはこの制度に不満を持ちました。一部の人は外貨の獲得に走りました。物価は徐々に上昇しました。

ソヴェト体制の崩壊後、ロシアのエリツィン政権は1992年に「ショック療法」を実施し、物資の流通を市場に任せました。物価は1年間に25倍にはね上がりました。物価に比例して賃金や年金も上がれば良いのですが、そうならなかったので、民衆の不満が噴出しました。エリツィンはこの不満を代弁する議会を武力で解散させました。物価が高くなったので二重価格制の意味はなくなりました。

世界経済の市場化は、発展途上国の安い物価を先進国の高い物価に合わせて上げさせます。経済のグローバリゼーションは、先進国と発展途上国で時流にうまく乗れる人を大変豊かにし、時流に乗れない人を大変貧しくして社会を二極化します。中間の多くの人々の労働条件と生活条件は悪化します。途上国の低賃金労働が先進国の労働者の足を引っ張るのです。正規労働者が減り、不正規労働者が増えます。グローバリゼーションは、途上国の物価を高いところへ、先進国の賃金を低いところへと引き寄せます。

現在のキューバでは観光業などで外国との合弁企業が活動しています。キューバの労働者の賃金は、120円=1兌換ペソ=20ペソ、1ペソ=6円、として、400ペソ(2400円)から1200ペソ(7200円)、といったところです。外国との格差が大きいので、ペソと兌換ペソの二重通貨制を採っています。ロシアと中国の経験に学びながら、これをどのようにして一本化するのか、キューバ指導者の腕の見せどころです。

(続く)

キューバを訪ねて(2)「革命いまだ終わらず」

中西 治 (2008年3月19日 14時02分)

2008年2月27日(水)にハバナのアジア・オセアニア研究センター(Centro de Estudios sobre Asia y Oceania = CEAO)を訪れました。いよいよ今回の訪問団のキューバでの学術交流の本格的な始まりです。このセンターへの訪問はコシーオ(Jose Fernandez de Cossio)駐日キュー バ大使の特別の計らいで実現しました。

CEAOは1985年11月に設立され、日本、オーストラリア、東南アジア、中央アジア、インドシナ、中華人民共和国、南太平洋、朝鮮半島、インド・南アジアなどの研究部門を有しています。センターの建物は大変瀟洒でした。元ラオス駐在大使のヒメネス(Lic. Maria Aida Nogales Jimenez)副センター長が私たちを玄関であたたかく迎えて下さいました。ヒメネスさんは品のある洗練された女性です。

二階でおこなわれた会談で元インド大使のイバニェス(Lic.Juan Carretero Ibanez)センター長が最近の危険な国際情勢を指摘し、パレスチナとイスラエルの紛争、米軍のアジアでの軍事的・政治的プレゼンスの増大、コソボの独立、日本のミサイル防衛計画への参画などを挙げられました。また、キューバにある米軍のグアンタナモ基地については、紛争を防止するために米軍基地のまわりにキューバ軍を配備して囲い、条件ができるまで、米国との戦争を挑発しないように、50年間忍耐づよく対処してきたと述べられました。

イバ二ェスさんの対米認識はきわめて厳しいです。新しい大統領に誰がなっても、米国の対キューバ政策は変わらないだろう、米国の政治はロビーによって操られており、米国では亡命キューバ人が強力なロビー活動を展開し、米国政府に反カストロ・反キューバ革命政策を遂行させているからだ、ということでした。革命後50年近く米国のキューバに対する経済封鎖・孤立化政策と闘ってきた革命世代としては当然の考え方かも知れません。この席にはセンターから日本、朝鮮などの研究者も参加され、日本の政治情勢や朝鮮の核実験問題なども論議されました。

私たちの研究所とCEAOとの今後の交流については帰国後、コシーオ大使と話し合って具体化することにしました。

会談が終わったあと、一階でお茶とお菓子が出され、うち解けた懇談がおこなわれました。ヒメネスさんは、この建物のかつての所有者が毎年、亡命先の米国からキューバに来られ、このセンターの前を行ったり来たりされる、私たちはその方をセンターに入れ、室内を見ていただく、私たちは前の所有者の感情を考え、できるかぎり昔のままの状態を維持するように努力している、その方はそれを見て、安心して帰って行かれる、と語られました。

国内旅行をしたあと泊まったハバナのホテル、ハバナ・リブレも、元はハバナ・ヒルトンです。フィデル・カストロが1959年の革命のときにこのホテルの最上階で革命の指揮を執りました。その後、キューバ政府によって接収され、建て替えられました。革命によって接収された外国人の財産、外国に逃れたキューバ人の財産は数知れずあります。これを返すとなると、与える影響は大です。フィデル・カストロやラウル・カストロのような革命世代は、これを絶対に許さないでしょう。それは彼らのこれまでの人生を否定するものです。

革命はまだ続いている、問題の解決は次の世代だ、と感じました。いずれ時が解決するでしょう。

ヒメネスさんは私にロシア語で別れの挨拶をされました。私も。「ダスビダーニヤ(また会う日まで)」。

(続く)

研究プロジェクトについて

中西 治 (2008年3月19日 1時56分)

今日は。ご機嫌いかがですか。2007年度も残り少なくなりました。残るはニューズレター第14号の発刊と発送です。

4月1日から始まる新しい2008年度に「地球社会論研究部会」では二つの研究プロジェクトを実施します。一つは「地球史研究」、もう一つは「キューバ研究」です。それぞれのプロジェクトへの参加希望者は3月30日(日)までに中西あてにメールを下さい。参加希望者と相談してプロジェクトの実施方法を決めます。

キューバを訪ねて(1)「遠くて近い国」

中西 治 (2008年3月17日 21時35分)

2008年2月25日から3月6日までキューバ共和国を初めて訪問しました。キューバは遠い国だと思っていました。キューバの人々も私たちをはるか遠い国からの客人として歓迎してくれます。彼らにとって日本は、大西洋のかなた、ヨーロッパ、アフリカの向こう、インド、中国の先、極東の国です。

実際は案外、近い国でした。成田からカナダのトロントまで飛行機で13時間、トロントからキューバの首都ハバナまで3時間半、日本から米国東海岸のボストン、ニューヨーク、ワシントンDCへ行くのとそう変わりません。

2月25日に雪のトロントで1泊したのち、26日午後2時前に初夏のような気候のキューバ共和国の首都ハバナのホセ・マルティ国際空港に降り立ちました。ただちに日本の円を現地通貨のペソに換えました。1万円=82.20兌換ペソです。私は外国に行ったとき、まず1万円を現地通貨に換え、現地通貨の値打ちを計ります。1兌換ペソはおよそ120円です。

出迎えの自動車で空港から新市街の中心にある革命広場に向かいました。自動車が多く、しかも、古いためか排気ガスの臭いが強く鼻につきます。革命広場の中央演壇に立ちました。フィデル・カストロがよく大演説をしたところです。かつては立ち入り禁止でしたが、いまはだれでも自由にここに立ち、石の椅子に座ることができます。座り心地はあまり良くありません。

演壇の後ろにはホセ・マルティの像とオベリスクが立ち、高い筒状のホセ・マルティ記念博物館があります。博物館では青年共産同盟の集会が開かれていました。最初に国歌の斉唱があり、若い女性が演説していました。博物館の頂上にエレベーターで上り、市内を一望しました。革命広場に面して壁に大きなチェ・ゲバラの肖像を掲げた内務省の建物や国立劇場、博物館の裏側にキューバ共産党本部などがあります。キューバ共和国の権力が集まる場所です。

小さな住宅が密集しているのも見えます。この地域はもともとこのような住宅の立ち並ぶ所でした。それを嫌ったバチスタがたくさんの住宅を取り壊し、大きな広場を作り、巨大建造物を建てたそうです。それをもっともよく利用しているのがバチスタを倒したフィデル・カストロたちです。

博物館の売店でフィデルについての本2冊とチェ・ゲバラについての本1冊を買いました。合わせて3冊、計54.85兌換ペソ(約6500円)でした。

旧市街にあるホテル、アンボス・ムンドスに向かいました。アーネスト・ヘミングウエイが定宿とし、「誰がために鐘が鳴る」を執筆したところです。ヘミングウエイの部屋は5階。私の部屋はその1階下の4階。ヘミングウエイの部屋は私の部屋と広さはそう変わりませんが、角部屋で旧市街が見渡せます。私の部屋の前は、細い歩道を挟んで、現在舗装中の新しい大学の建物です。このあたりは世界遺産に指定されているので自動車立ち入り禁止です。

まだ明るい午後5時半すぎにホテル近くの銀行に行き、ふたたび1万円を兌換ペソに換えました。空港と同じ銀行で、同じ日なのに、今度は82.65兌換ペソでした。帰りにホテル近くの露天の古本屋に立ち寄り、本を物色、本屋の中年の婦人が勧めるフィデルについての10兌換ペソの本を8兌換ペソにまけて貰って買いました。28日には1万円=83.95兌換ペソでした。

夕食はアル・カポネゆかりのホテル、ナショナル・デ・クーバでとり、ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブ・ディナーショウーを楽しみました。真っ黒い人、薄黒い人、褐色の人、白い人。打楽器だけの音楽、それに弦楽器や管楽器の混じった音楽。アフリカ風のもの、ヨーロッパ風のもの、それらが混じったもの。歌も踊りも主役は黒い人でした。これがキューバだと思いました。宴たけなわでしたが、翌日に備えて途中で席を離れました。ハバナの夜は長く続きます。

(続く)

「憲法9条をまもる 平和共同かながわ」設立1周年記念集会

中西 治 (2008年3月8日 20時30分)

今日、下記の会に出席しました。

「憲法9条をまもる 平和共同かながわ」設立1周年記念集会
糸数慶子参議院議員の講演とパネルディスカッション~米軍再編と神奈川の平和運動

講演者、パネリスト、ともに論客ぞろい。
内容のある大変良い会でした。基地問題の深刻さ、重要性を改めて教えられました。
今日の会合を今後どのように発展させるか。課題は大きく、重いです。

会合で次の「 開会の辞」を披露しました。

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2008年3月8日
「憲法9条をまもる 平和共同かながわ」設立1周年記念集会
糸数慶子参議院議員の講演とパネルディスカッション~米軍再編と神奈川の平和運動~

  • 開会の辞

皆さん 今晩は。「憲法9条をまもる 平和共同かながわ」の共同代表の一人を務めています中西治です。国際関係論の専門家です。本日はお忙しいなか、沖縄県選出の糸数慶子参議院議員をはじめ神奈川県の大和市、相模原市、横須賀市、座間市の各市会議員の方々、また、かくも多数の皆様が私たちの会の設立1周年記念集会にご参加いただき厚く御礼申し上げます。テレビ神奈川と神奈川新聞が後援して下さったことに心から感謝しています。

米国は戦争によって獲得した土地や軍事基地を簡単に手放しません。私は先月、2月25日から一昨日、3月6日までキューバ共和国を訪問してきました。キューバには有名な米軍のグアンタナモ基地があります。この基地は19世紀末のキューバとスペインと米国との戦争の結果、1902年にキューバがスペインから独立以来すでに100年余にわたって存在しています。

私たちの国、日本にも1945年の敗戦からすでに60年余にわたって日本各地に米軍基地があります。米軍基地は永遠に続くかに見えますが、そうではありません。その例がフィリピンです。フィリピンも19世紀末のスペインと米国との戦争の結果、米国の植民地となり、米軍基地が置かれましたが、1946年に独立し、1992年に米軍基地を完全に撤去させました。

私は米軍基地を撤去させる力は基地のある地域の住民の忍耐強い、絶え間ない、不屈の強い意志と行動にあると考えています。フィリピンから米軍基地を撤去させたのはフィリピン上院の決議です。日本でも衆参両院が日米安全保障条約を廃棄する決議を採択すれば1年後には米軍は日本から引き揚げざるを得ないのです。

第二次大戦後初めて日本でも昨年の参議院議員選挙の結果このようなことが可能な政治状況が生まれています。沖縄では昨年の参議院議員選挙で糸数さんが基地反対の統一候補として再選されました。次は私たちの神奈川の番です。沖縄に灯った希望の灯火を神奈川で引き継ぎ、日本全国に広めるならば、憲法9条をまもり、日本から米軍基地を無くすことができるのです。私たちはそれをめざしてこの集会を準備しました。そのようになれば、この集会は歴史的な意義を持つものになるでしょう。この集会の成功を信じています。ありがとうございます。

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以下、『神奈川新聞』2008年3月8日付け記事(「『人権踏みにじる事件なくならぬ』/在日米軍再編でシンポ」)の転載:

米軍基地の現状を考えるシンポジウム「米軍再編と神奈川の平和運動」が八日、横浜駅西口近くのかながわ県民センターで開かれた。市民団体「憲法9条をまもる平和共同かながわ」の主催で、約七十人が参加した。

二月以降、沖縄県で中三少女への暴行や飲酒運転、住居侵入など米兵による不祥事が相次ぐ中、同県選出の糸数慶子参院議員が講演。在日米軍再編について「基地負担を軽減するどころか、基地を固定化し、負担を押しつけるもの」と批判。「基地ある限り、人権を踏みにじる事件事故はなくならない」と訴えた。

基地問題に取り組む大和、相模原、座間、横須賀の各市議と糸数参院議員のパネルディスカッションも行われ、米軍再編による影響などについて議論。米陸軍第一軍団前方司令部が発足した在日米陸軍キャンプ座間(座間、相模原市)を抱える座間市の中沢邦雄市議は「司令部の発足で、テロの危険もキャンプ座間に背負わせようというのが米国の本音」と強調。

八月に原子力空母配備が予定されている米海軍横須賀基地のある横須賀市の瀧川君枝市議も「空母そのものが攻撃対象で、危険極まりない」と危機感をあらわにした。

「基地の反対勢力の団結を」(大波修二大和市議)、「米軍にとって居心地の悪い神奈川に変えよう」(金子豊貴男相模原市議)との決意が示され、糸数参院議員も「米軍に物言うために超党派で取り組むことが必要」と述べた。

第二次キューバ共和国訪問団の出発にあたって

中西 治 (2008年2月25日 9時00分)

私たちの研究所の第二次キューバ共和国訪問団が2008年2月25日から3月6日まで首都ハバナの他、オルギン、バヤモ、サンチャゴ・デ・クーバなどのキューバ各地を訪れます。

研究所としての外国訪問は2004年8−9月の中国(北京・武漢・蘇州・上海)、2005年8−9月の朝鮮(平壌・開城・板門店)と中国(北京)、2006年3月の中国(南京・長沙・韶山・上海)、2007年2−3月のキューバ(ハバナ・シエンフエゴス・トリニダド・サンタクララ・パラデロ)に続いて5回目です。

今回の訪問の目的は、昨年の第一次キューバ共和国訪問団が切り開いた道を広め、固め、いっそう発展させることです。

私たちの研究所の代表6人が、去る2月12日に東京の南麻布にあるキューバ共和国大使館を訪問し、ホセ・フェルナンデス・デ・コシーオ特命全権大使と会見しました。大使は1933年生まれ、75歳、フィデル・カストロさんやチェ・ゲバラさんとともにたたかった革命の闘士であり、メキシコ大使、英国大使などを歴任された方です。大使は私たちの研究所代表団の二度にわたるキューバ訪問を高く評価し、キューバと日本の友好協力の拡大、とくに、学術交流の拡大にできる限りの支援を与えることを約束されました。

私たちは今回の訪問で、前回始まったハバナ大学および同大学経済研究センターとの交流を継続するとともに、あらたにアジア・オセアニア研究所の研究者、とくに日本研究者との交流を開始し、これらの交流を恒常的なものにしたいと願っています。

去る2月19日にフィデル・カストロさん(81歳)が国家評議会議長(国家元首)と人民軍最高司令官の職を辞することを明らかにしました。昨年来キューバでおこなわれてきた村・町から州、共和国にいたるまでの選挙の結果選出された新しい人民権力全国会議(国会)が2月24日にハバナで開かれ、フィデルさんの後任の議長にフィデルさんの弟で国家評議会第一副議長兼国防相のラウル・カストロさん(76歳)を選出しました。ラウルさんの後任の第一副議長には副議長で共産党政治局員のホセラモン・マチャドさん(77歳)が昇格しました。

最高指導部を革命第一世代で固めた手堅い人事ですが、キューバは1959年1月の革命成功後49年を経て間違いなく新しい時代に入りました。時代の要求と人民の要望に即応して内外政策を再検討し、国内の改革を促進するとともに、米国との関係を改善し、正常化するチャンスです。私たちはキューバで新しい時代の始まりとその息吹を感じることになります。

コロンブスが「アメリカ大陸に到達した」のは1492年10月12日でした。実際にはバハマ諸島のサンサルバドル島でした。その16日後の10月28日にコロンブスはキューバ島のバリアイに着きました。彼はこの地を「人間が地上で目にしたもっとも美しい土地」と言ったそうです。私たちはこの地も訪れます。

スペイン(イスパニア)と英国(イングランド)などがキューバを植民地にしようとして争い、1763年にスペインがフロリダ半島とミシシッピー川以東の北アメリカのすべてのスペイン領を英国(グレート・ブリテン)に譲ってキューバでの支配権を確保しました。

1895年にホセ・マルティをはじめとする人々がスペインからの独立をめざして戦争を始め、これに米国が介入し、1898年に戦争はキューバとスペインと米国の3国に拡大しました。1902年にキューバは独立しましたが、米国の保護下に置かれました。1959年のカストロ兄弟とチェ・ゲバラさんなどの革命は米国の支配から脱しようとするものでした。米国はカストロ政権に厳しい孤立化政策で臨みました。この圧力に抗してカストロ政権は50年近くも米国の支配を拒否してキューバ共和国の独立をまもりました。

キューバのグアンタナモには依然として米国の軍事基地があります。米国は戦争で獲得した土地や軍事基地を簡単に手放しません。フィリピンも米国がスペインとの戦争の結果、植民地にしたところですが、1946年7月に独立し、1992年11月に米軍基地を完全に撤去させました。2001年9月11日の事件のあと米国はフィリピンの港湾や飛行場を使えるようになっていますが、当該地域の人々が長期にわたって絶え間なく反対の声を挙げ続けたとき、米国はそれに屈します。日本の米軍基地撤去運動も地道に執拗に続けなければなりません。

私たちが泊まるハバナのホテルは、米国の作家アーネスト・ヘミングウェイが定宿としたアンボス・ムンドスです。ヘミングウェイはここで「武器よさらば」を完成し、「誰がために鐘は鳴る」を書いたといわれています。私たちは帰国後、第一次訪問団の方々といっしょに、キューバにかんする書を出版する予定です。ヘミングウェイに負けないものを。

良い日々を!

2008年2月25日午前9時
キューバへの旅立ちの朝に

迎春

中西 治 (2008年1月1日 0時00分)

2008年の新春、おめでとうございます! 訪れた年が平和で豊かで幸せな年となることを願っています

地球上にはおよそ66億人が住んでいます。 これを社会の体制と地域で分けると次の四つになります。第一は、日本、米国、ヨーロッパ連合(EU)などのように資本主義的な方法で経済発展を遂げた国々です。9億人ほどです。第二は、中国、朝鮮、ヴェトナム、キューバなどのように社会主義的な方法で経済発展を遂げようとしている国々です。14億人ほどです。第三は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンなどのように社会主義的な方法で一定の経済的発展を遂げましたが、いま新たな方法を模索している国々です。4億人ほどです。第四は、韓国、インドネシア、インドなどのようにかつては植民地でしたが、第二次大戦後に独立し、いま発展しつつあるアジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々です。39億人ほどです。

欧米諸国が地球上の各地で植民地を獲得しようとして競い合った19世紀後半からのインペリアリズム(広域支配主義)の時代は終わりました。20世紀の第一次大戦、ロシア革命、第二次大戦、中国革命、第三次大戦(朝鮮・ヴェトナム・アフガニスタン戦争)とその結果としての米国とソヴェトの国際的な地位の低下を経て、地球上の各国・各地域が自主的・自立的に多様な発展をする時代になりました。

1991年1月の湾岸戦争から現在進行中のアフガン・イラク戦争までの一連の戦争は、米国が中東からバルカン半島にいたる地域に力で米国主導の新しい秩序を確立しようとするものです。この試みは地域の人々の激しい抵抗に遭い、難航しています。ロシアは原油の高騰を背景に経済的・政治的に復活しつつあります。

2050年には地球の人口はおよそ90億人に達します。現在は中国が13億人で1位、インドが11億人で2位ですが、2050年にはインドが16億人弱で1位、中国が14億人弱で2位になります。以下、米国4億人弱、インドネシア2億8000万人ほど、ブラジル2億5000万人ほどです。日本は現在の1億2700万人ほどが、2050年には9500万人ほどに減ります。

地球上の国を「先進国」と「発展途上国」の二つに分けると、現在、前者の人口は12億人ほど、後者は54億人ほどです。2050年に「先進国」の人口はいまとほとんど変わりませんが、「発展途上国」は78億人ほどにふえます。

数は力です。数が知恵と知識と技術を身につけたとき、世の中は変わります。

その良い例が中国です。中国は知恵と知識と技術をあわせもち、ソヴェトの積極面と否定面の経験に学びながら、中国的特色をもつ社会主義社会の建設をめざし、すでに国内総生産(GDP)で米国、日本、ドイツに次いで世界第4位、購買力平価では米国の12兆ドルに次いで第2位の5兆ドルです。日本は第3位の4兆ドルです。中国はいずれ人口一人当たりの国内総生産でも米国に追いつき、追い越し、世界第1位になるでしょう。インドをはじめとする他のアジア諸国、アフリカとラテンアメリカの国々が中国に続くでしょう。

21世紀は地球上のすべての人と地域が光り輝く時代です。地球の一体化によって、それぞれの地域社会が相互に影響を与えあいながら、地球は一つの社会になりつつあります。いま求められているのは、このような時代と社会にふさわしい一段と高い知恵と知識と技術です。これを作り出すためにともに努力しましょう。

実り多い1年に!

2008年元旦

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