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公教育において宗教をいかに教えるか

宮川 真一

本年3月、第19回国際宗教学宗教史会議世界大会が東京都内で盛大に開催された。同会議は1950年に創設され、現在世界40カ国以上の研究団体・ 学会が所属する世界最大の宗教研究者の団体である。ユネスコの支援を受けるこの団体は、5年ごとに世界大会を行っている。「宗教―相克と平和」を総合テー マとした今大会には、海外からおよそ700人、国内から約800人以上の研究者が参加し、学際的な研究交流の場となった。私にとっても多数のロシア人研究 者らと議論や交流をするという、貴重かつ胸躍る機会であった。「相克と平和」は、国際社会にとって現在最も重要なテーマの1つである。この問題に果たす宗 教の役割が誰人も無視できないものであることは、昨今の戦争や紛争の事例を見ても明らかである。大会の開幕を飾ったのは、「宗教と文明間の対話」と題した公開シンポジウムである。パネリストの1人としてハーバード大学のドゥ・ウェ イミン教授が、「対話的文明に向けて―公的知識人としての宗教指導者」と題する基調講演を行った。(現在『第三文明』誌上で、ウェイミン教授と池田SGI 会長との対談が連載中である。)また、大会2日目には国連大学共催パネル「宗教と教育」が行われ、「公教育において宗教をいかに教えるか」について熱のこ もる議論が展開されている。

近代国民国家とその教育制度は、元来理念的には、人間の基本的権利や個人的な意思決定などを尊重する西欧人権思想や政治的民主主義、あ るいは近代科学の成果などといった西欧的価値を前提にして成立、発展してきた。公教育とは「国民国家や地方自治体などの公権力が管理運営し、(1)義務 制、(2)無償性、(3)世俗性(宗教的中立性)を備えた学校で行われる教育」を意味している。この公教育の担い手である近代学校は西欧における産業革命 以降、産業化の進展とともに世界中に普及し発展してきた。それゆえ近代学校は近代性を象徴する典型的な社会制度であり、国民意識の形成、経済発展、社会病 理の改善、差別や偏見の除去などが期待されてきた。しかし実際には、学校教育はそうした期待に十分に応えてこなかったのみならず、様々な課題や問題が噴出 した。

鈴木俊之氏によれば「21世紀を迎えた現在、先進諸国では公教育をとりまく環境が大きく変化している。90年代初頭の冷戦構造の崩壊や 経済のグローバル化の進展とともに、近代的な価値観にもとづく国民教育だけでは、公教育として不十分であることがしだいに明らかになってきた。新たに公教 育に求められていることの1つに、価値観が多様化した多文化・多元化社会のなかで生きていくために必要なスキル、つまり他者と共生する能力をもった人間を 育てることがあげられるだろう。そのためには他者の価値観や宗教などを知らなければならない。」一方、アジアをはじめ多くの発展途上諸国では外来の文化や 情報が無制限に流入するようになり、ようやく育ちつつあった国民意識や宗教的規範が危機にさらされるようになった。そのため伝統的な価値観を擁護すべく道 徳教育や宗教教育といった価値教育の見直しが行われ、その強化や新たな導入が政策として計画・実施されてきた。

従来、宗教教育は通常次の3つに分類されてきた。「宗教知識教育」は宗教に関する客観的な知識を理解させる教育であり、ほとんどの国で は、歴史、社会、道徳、美術、音楽などの教科で行われている。「宗教的情操教育」は人間形成にとって不可欠だと考えられる究極的・絶対的な価値に対する心 のかまえを育成する教育であり、「宗派教育」は特定の宗教の立場から、その宗教の教義や儀礼を通じて信仰へ導くための、また信仰を強化するための教育」で ある。

井上順孝氏は「宗教文化教育」という新しい用語を提起し、公教育での導入を提唱する。宗教文化教育とは、「文化としての宗教についての 理解を深める教育というふうに言い換えることができる。文化としての宗教とは、日本及び近隣諸国、そして世界の主な宗教の習俗、伝統的宗教についての基礎 知識、日本人の宗教に対処する態度の特徴、世界の諸宗教の現状についての理解を深めることを目指すものである。宗教情操というような曖昧とした概念ではな く、個別の宗教について、その文化的側面についての理解を深めるということである。知識と言ってもいいが、宗教知識教育という場合にはすでに固定した解釈 がある。また、文化の理解には知識だけではなく、共感とか理解しようとする態度とか、判断力といったものが求められる。」

第二次世界大戦後におけるイギリスの宗教教育は、キリスト教的な宗教教育から多文化的な宗教教育へと変化していったという。「宗教的信 仰の差異と有無、さらには政治的信条の差異を超えて人々を相互に結びつけるような、そして科学・技術の進歩もそのために奉仕することが求められているよう な全人類的価値」を探求することが価値教育の課題であるならば、学校教育のカリキュラムについてすくなくともさまざまな宗教とそれに関わる文化や慣わしに 対して寛容であるための対応が求められるようになっている。現代世界の公教育において、ナショナル・アイデンティティの維持・伝統文化の擁護・国民統合を 志向した各国伝統宗教の宗派教育に過度に偏ることは望ましい方向ではない。異文化理解・多文化共生・世界市民の育成を志向する宗教文化教育を併せて発展さ せることが、21世紀を迎えた国際社会の安定につながるであろう。

(拙稿「現代ロシアのナショナル・アイデンティティと公教育における宗教教育」『ソシオロジカ』第30巻第2号、2006年(近刊)。)

ロシアの「新しい」アイデンティティ

宮川 真一

10月15日、16日の両日、ロシア・東欧学会2005年度(第34回)大会が福岡県の西南学院大学で開催された。今回の共通論題は「スラブ・ユーラシアの新しいアイデンティティ」であり、「ロシア」、「CIS」、「文学」、「中・東欧」それぞれのアイデンティティの模索、再編が論じられた。私も「自由論題Ⅰ」の部会で、現代ロシアの公教育における正教教育について報告する機会を頂戴した。多くの貴重なコメントや質問を寄せていただくとともに、思いのほか高く評価していただき恐縮している。報告ではロシアのナショナル・アイデンティティについて、比較文明学の視点から論及した。

ソ連共産党の解体、ソ連消滅、冷戦の終焉によりロシアは再び世界史の舞台に登場した。帝政時代におけるロシアの統合原理は「専制・正教・民族性」であり、ソ連時代にその原理は「共産党一党独裁・共産主義イデオロギー・ソビエト人」に置き換わった。ソ連解体後、ロシア連邦の統合原理はいまだ定まっておらず、この国はアイデンティティ・クライシスの状態に陥っている。

かつてロシア文明は、ビザンツ文明の周辺文明として出発した。10世紀末から11世紀にかけて、キエフ・ルーシは大公ウラジーミル一世の治世に蛮族の状態から文明へと這い上がった。この時期に東方正教という高度宗教を国教として採用し、それまでの異教と置き換えて文明統合の基礎的価値、基礎的制度とした。また、ビザンツ文明を受け入れたことでキリスト教的法意識とビザンツ的法規範が浸透し、従来の氏族的風習や慣習法を徐々に凌駕していく。さらにビザンツ様式の建築や美術を受け入れ、ギリシア文字を借用してロシア文字を創出するのである。

17世紀末になると、ピョートル大帝は全面的「欧化」政策に踏み切った。ロシアは世俗化した西洋文明を受容せざるを得ず、今度は西洋文明の周辺文明に転落した。それ以来、ロシアの150年におよぶ無自覚な「欧化」を初めて根本的に自覚させたのが、1836年に発表されたチャアダーエフの『哲学書簡』である。これは「ロシアとは何か」を主題とし、ナショナル・アイデンティティの問題をロシアに突きつけた。そして1840年代における「西欧派」と、ロシア土着派としての「スラブ派」の論争が起こるのである。それ以来、ロシア人とは何者か、ロシアの民族的特殊性は何か、ロシアの世界における使命とは何かが問われ続けてきた。

西欧派とスラブ派の論争は、ソビエト時代には影を潜めていた。そして、ソ連が消滅した今日、封じ込められていたこの論争が形を変えて再燃するであろうことをハンチントンは予測している。彼によれば、現代世界では文明への帰属をめぐって国家が「引き裂かれる」事態がありうるのであり、最も重要な引き裂かれた国家はロシアである。神川正彦によれば、19世紀〈近代〉に〈中心文明〉にのし上がったヨーロッパ文明は決して唯一の普遍文明ではない。今日の世界では「〈中心文明〉としてのヨーロッパ文明の〈脱中心化〉と、したがって同時に〈周辺文明〉としての非ヨーロッパ文明の〈脱周辺化〉」が進行しているのである。

ナショナル・アイデンティティとはネイションへの帰属意識であり、ネイションの自己規定でもある。ポスト近代と呼ばれる現代世界では、ミクロレベルでは家族が、マクロレベルでは国際社会が脱近代化していくなか、国民国家という近代文明の所産も変動を免れることはできない。政治的側面を重視し、統合を志向した国家ナショナリズムは動揺している。とともに、文化的側面を重視し、分離・独立を志向する非主流派民族のエスノ・ナショナリズムが覚醒した。そして、人種的側面を重視し、排除を志向する主流派民族の極右ナショナリズムが台頭するのである。さらに、脱近代化は再聖化も促した。世界各地で宗教的ナショナリズムが形成されつつある。現代世界におけるナショナル・アイデンティティは多元化、再聖化という変容を遂げつつある。そして、これらナショナリズムのどの要素に自己を同一化するかによってナショナル・アイデンティティは異なったものになるため、複数のそれが矛盾・葛藤・分裂を起こすことは珍しくない。

現代ロシアが選択しうる国家的理念としては、次の4つが提示されている。

  1. 自由主義や民主主義の原理に基づく国家的理念。ここでは、内政次元では自由民主主義、外交次元では大西洋主義、宗教次元では政教分離、民族次元では国民主義となる。
  2. ソ連時代への郷愁から生ずる「ソビエト国家」への回帰志向。内政は共産党一党独裁、外交は帝国主義、宗教はマルクス・レーニン主義、民族はソビエト人を志向する。
  3. 東西に跨るロシア独自の文明哲学であり、復古主義・大国主義的なユーラシア主義。内政は国家主義、外交はユーラシア主義、宗教はロシア正教重視、民族は多文化主義を採る。
  4. 革命前の帝政ロシアを理想視する復古主義的な国家的理念。内政はツァーリ専制、外交は帝国主義、宗教はロシア正教、民族はロシア民族主義である。

現代ロシアのナショナル・アイデンティティは様々な次元において「ユーラシア主義」「帝政ロシア」に傾斜しつつある。21世紀を迎えたロシア文明は、西洋化から土着化への傾向を強めている。この土着化はグローバリゼーションという西欧近代文明の挑戦に対するロシア文明の応戦であり、ロシア文明の発するSOSでもある。そして、周辺文明としてのロシア文明は脱周辺化し、中心文明としての西洋文明から自立しつつあると私には思えてならない。この地域の「アイデンティティ」が日本においても熱く論じられる所以である。

2005年9月11日に思う

宮川 真一

あの日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルに多数の乗客を乗せた航空機が激突する映像に接したとき、人はそれをアクション映画の1コマと錯覚するか、「文明の衝突」というシナリオを想起するかのいずれかだったのではないだろうか。2001年8月末から9月9日にかけて、南アフリカのダーバンで反人種主義・差別撤廃世界会議が開催された。ダーバン会議では人種主義を 歴史的に形作ってきたのは植民地主義と奴隷制であることが確認され、人権の問題が南の立場から取り上げられた。EUは植民地主義と奴隷制についての謝罪に も合意した。ただし、これは補償などの代償なしの謝罪でよいという条件つきの妥協であった。しかし、アメリカはこの謝罪にすら参加しなかったのみならず、 会議でイスラエルのパレスチナに対するテロが議題に上るや、会議の途中でイスラエルとともに退場した。イスラム世界では、アメリカがダーバン会議から席を けって退場したことに対する絶望感が広がっていた。それが「9・11」のひとつの近因になったと考えられる。この会議に参加していた武者小路公秀氏は、「ビン・ラディンらイスラム・ゲリラ組織が何かするだろうと漠然と感じていた」という。(武者小路公秀『人間安全保障論序説―グローバル・ファシズムに抗して―』国際書院、2004年。)

ヨハン・ガルトゥング氏は次のように述べる。「第二次世界大戦後、米国の介入によって殺された犠牲者の数は、低く見積もっても、ペンタゴ ン(米国国防総省)の公然の行動によるものが600万人、CIAの隠然の行動によるものが600万人である。これらの合計は1200万人となる。これに構 造的暴力の犠牲者が加えられるべきである。重大な欠陥を有する経済構造によって基本的必要が奪われることにより、少なくとも日々10万人の人々が命を落と している。このうち一部分は、経済的な『悪の枢軸』との密接な関係によって、米国に起因するであろう。殺された1人に対して残された者が最低10人いると して、われわれは反米感情の強い1億を超える人々、おそらく5億の人々を語ることができるだろう。こうした強い憎しみの中のどこかで、報復への渇望が燃え 上がっている。それはイスラム原理主義者をして、怒りを行動に変えさせる。それはキリスト教原理主義者をして、米国の行動に目をふさぎ、耳を閉じ、感覚を麻痺させる。」

ガルトゥング氏によれば「9・11」は、「文明の衝突」ではなく、「文明内にある2つの原理主義の衝突」である。彼によれば、「世界は 今や対立する2つの原理主義によって翻弄されている。それはイスラムのスンナ派に属するワッハービズムと、キリスト教のプロテスタントに属するピューリタ ニズムである。両者とも中心のコアにおいて数百年の歴史をもっている。しかも彼らには自由に使用できる威力ある武器がある。兵器としての航空機の使用によ る自爆攻撃と、核兵器の使用をも含む絨毯爆撃である。」(ヨハン・ガルトゥング/藤田明史編『ガルトゥング平和学入門』法律文化社、2003年。)

池田大作氏は2002年1月に発表した平和提言において、テロリズムが多発する「9・11」以後の現代社会を覆っているものは「『自己』 も『他者』も輪郭の定かでない『人間不在』という現代の悪霊」であると指摘する。「真に脅威なのは、戦わなければならない相手は、貧困、底知れぬ憎しみ、 そして最強の敵、『人間不在』という現代の悪霊であり精神病理そのもの」である。従って、「テロリズムは、軍事力を中心としたハード・パワーだけで根絶で きるような単純なものではなく、ソフト・パワーも含め、国際社会が足並みをそろえて対処していかねばならない広がりと性格をもっている」という。

「9・11」以後の国際社会における問題状況のタテ軸には、軍事的・政治的・経済的な権力悪がある。ヨコ軸には、異文化に対する偏見と いう文化摩擦がある。そして、それらの根底には「人間不在」という精神病理が潜んでいる。この「人間不在」という悪霊を駆逐し、「生命尊厳」、「人間復 興」の潮流を興していくことが、いま切実に要請されているのではないだろうか。その上で、ヨコ軸においては分断から結合へ、破壊から創造へと、時代のベク トルを大きく変えるために、人間にそなわる善性を信じ、そこに呼びかけ、働きかけていく「文明間の対話」をあらゆるレベルで重層的に進めていくことが求め られる。タテ軸にあっては、21世紀を「教育の世紀」にしゆく挑戦の中に「生命尊厳の地球社会」を開く鍵があるのであり、一人一人の内なる無限の可能性を 開き鍛える「人間教育」、国家を超える視野を持った「世界市民の教育」が平和の礎となる。

何千年も続いてきた「力の支配」と暴力思考を変えるのは、容易なことではない。しかし人間は、なくせないと言われてきた奴隷制度を終わらせ、ホロコーストを終わらせ、アパルトヘイトを終わらせた。戦争もテロも、根絶やしにすることは不可能ではないと思う。

(拙稿「池田大作先生の『9・11』認識と『人間主義』平和構想」創価大学通信教育部学会編『創立者池田大作先生の思想と哲学』2005年。)

「7・7」英国同時多発テロ事件

宮川 真一

7月7日、ロンドン中心部で、複数の地下鉄車両やバスでほぼ同時に爆発が起きた。警察当局は少なくとも33人が死亡、重傷45人、その他負傷者がおよそ300人と発表している。

テロリズムは、単なる暴力や殺人とは異なる。第1に、暴力の行使が社会的恐怖と結びつく点にその本質がある。暴力がメッセージ性を帯びてさらなる暴力を予期させつつ、人々を戦慄させ麻痺させて影響を及ぼそうとする。第2に、個人的で偶発的な暴力ではなく、政治的・社会的背景をもつ、組織性と計画性を伴った系統的暴力の発動となる。第3にテロリズムは暴力と恐怖という手段を発動してまで達成したい何らかの目的をもっているのである。テロリズムとは「組織的暴力による恐怖を強制の手段として用いようとする思想や行動」と定義できる。

現代世界を覆うテロリズムの根本原因として坂本義和氏は、貧困という要因をも含む社会の抑圧構造と、それに対応する被抑圧意識をあげている。今日の世界のこうした抑圧構造には、次の3つの側面があるという。第1に、米国を頂点とする超大国や大国のグローバルな政治的・軍事的優越や、グローバル・キャピタルの経済的優越に結びついたグローバルな格差・抑圧構造。第2に、それと連繋した、とくに途上国での国内的格差・抑圧構造。第3に、そうした二重の格差・抑圧から脱しようと国境をこえて相対的「先進国」に大量に移動する人々が随所に当面するトランスナショナルな格差・抑圧構造である。

マジッド・テヘラニアン氏は、多様なテロリズムを次のように分類する。第1に、多くの民族解放運動における反体制集団によって実行されるような「抵抗テロリズム」である。この例としては、アメリカの軍事プレゼンスに対するテロ、イスラエル市民に対するパレスチナの暴力行為などがあげられる。第2に、「表示テロリズム」は世界に衝撃を与えて特定の政治的不満と課題を認めさせようとするものである。「9・11」米国同時多発テロ、モスクワ劇場占拠事件はこれに含まれよう。第3に、宗教的信条に動機づけされた「救世主テロリズム」である。1993年テキサス州でのブランチ・デビディアン事件、1995年東京での地下鉄サリン事件などがこれに該当しよう。第4に、「国家テロリズム」はあるレジームによってそれ自身における無辜の市民や「敵」に対して日常的に行使される。イラクのクルド人に対する化学攻撃、イスラエルのレバノンとヨルダン川西岸地区における軍事報復などが良く知られた事例である。

今回のテロ事件は、G8サミットが開催されたその日、その国を選んで実行された。前日には、2012年のオリンピック開催都市にロンドンが選ばれ、国中が沸き立っていた。この都市は五輪招致活動に60億円を費やしたという。「7・7」は、「イラクとアフガニスタンでの虐殺に対する報復」 との犯行声明からすれば「抵抗テロリズム」であろう。しかし、そこには、国際社会の格差・抑圧構造に目を向けよ、とのメッセージも読み取ることができる。 「表示テロリズム」の側面を併せ持っている。「9・11」からはや4年の歳月が経とうとしているが、国際社会はあの惨劇の教訓から何も学んではいないのかもしれない。

平和構築と深層文化

宮川 真一

今日コラムを担当させていただきます、宮川真一と申します。創価大学通信教育部で非常勤講師を務めております。担当科目の一つに「平和・環境コース」の「異文化理解」があります。そこでお話していることなどを今後ご紹介させていただければと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

<平和構築と深層文化>

世界で起こっている紛争や対立を解決に導くには、対立しあう国や地域の文化の違いに注目することが大切だ。それぞれの国や地域は、長い歴史と風土の中で 特有の文化、ものの考え方を持っている。ふだんは表に出ないけれど、何か一大事が起きるとそれが表面化するのだ。いつもは人々の心の中に眠っている文化、 これが「深層文化」と呼ばれる。このように、ヨハン・ガルトゥング博士は平和構築における深層文化に注意を喚起する。

まず、深層文化とは何か。私たちの意識の中に潜在的に存在しているもので、すらすらと言葉で表現できるものではない。ただ、ある一定の人々が集まって物 事を決める際や行動を起こす際に、色濃く浮かび上がってくる。このことから、深層文化とは、個人個人独自のものではなく、ある集団のなかに存在する共通の 潜在意識といえる。そこで、深層文化は「集団的レベルにおける潜在意識」と定義される。

ガルトゥング博士の著作『平和を創る発想術:紛争から和解へ』< 岩波ブックレットNo.603>岩波書店、2003年、では、具体的にいくつかの国の深層文化が取り上げられている。

まずロシアをあえて3つの単語で示すと、「二元論的で、垂直的で、悲観的」であるという。二元論的とは、社会主義でなければ自由主義というふうに、物事 をAでなければBであると考える傾向があるという意味で、垂直的とは、物事の決定が上から下に下ろされるという社会構造だということを指し、悲観的とは、 将来はお先真っ暗というふうに考えがちであるということだ。

ではアメリカの深層文化を同じように3つの言葉で表すとどうなるか。著者によれば「二元論的で、水平的で、楽観的」である。ロシアと比べてみると、二元 論的であるところは同じといえる。しかし、ひとつの物事に対して、それぞれみんなで協力して結果を出そうとする傾向があり、社会の構造が水平的である点、 将来について基本的に楽観的、やればできるという考え方が強いという点において違っているわけだ。

中国の人々は「陰陽道的、垂直的、実務的」な発想をすると博士は述べる。陰陽道的とは、二元論的なものの捉え方と対比されるもので、陰の中にも陽があ り、陽の中にも陰があり、両方合わせて意味があるというふうに、物事を表面的に見て判断してしまうのではなく、もっと複雑な捉え方をするということだ。次 に、垂直的だという背景には、儒教の影響が大きく、年齢が高いもの、学識に優れているものが社会の上層部を支配する構造があることを示している。また、実 務的であるということは、物事の状況が悪化してきても、その中から良い条件を拾い、状況を改善することができると考える姿勢だ。

こうした他者の深層文化を理解するには、まず自分の深層文化を知っていないと、相手のこともわからないという落とし穴もある。私たち日本の深層文化とい うものは、陰陽道的な傾向が強く、非常に垂直的で、そして実務的という特徴があるとされる。中国に近い。日本の深層文化の特徴をより詳細にまとめると、次 の6つのものが考えられるという。(1)自然観、自然哲学(自然の移り変わりを重視し、この世の出来事のすべてには、良い状態の時も、悪い状態の時もある という見方。「成り行き任せ」ともいえる)。(2)垂直的な構造(下に向かっては横柄な態度をとるが、上に向かっては、こびへつらう。個人レベルだけでな く、国家として世界に対する態度も同様)。(3)集団性(孤立をおそれる)。(4)撤退の選択(困難に立ち向かうよりも、引き下がる、身を引く)。(5) 妥協(徹底的に自己主張するよりも、適当に手を打つ)。(6)調和主義(全体の調和を優先する。実際の問題に触れずに、態度と行動を重視する)。

21世紀における平和構築のために、これからは平和研究や地域研究でも深層文化に目を向けることが求められているであろう。私は、中国と日本の深層文化が類似したものであることに励まされる思いがした。