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エッセイ 28 北条一門とスターリン

木村 英亮 (2006年2月1日 23時36分)

源頼朝の死後、鎌倉幕府の執権として政治をおこなった北条家の特色について、杉本苑子は次のように記している。

「彼らのほとんどが一門の、とくに得宗とよばれている宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策のかぎりをつくし、後世のひとびとに陰険な氏族としてけぎらいされているにもかかわらず、ひとりひとりの生き方は、権位にありながらめずらしいほど清潔だったという点である」(『決断のとき』、文春文庫、165ページ)。

この文章を読んだ時、ほぼ30年の間ソ連を支配し、激しく批判されたスターリンには、北条一門と共通性があると思った。

独ソ戦期、スターリンは、雑誌から切り取った複製画で別荘を飾っていたが、ソヴェト軍の将軍達は、戦利品の巨匠の絵画などを着服していた。ロシアの歴史家ロイ・メドヴェージェフは、これをスターリンと将軍たちの対立の原因としている。たとえばノモンハン事件で日本軍を敗北させ、独ソ戦においてソヴェト軍を勝利に導いたジューコフ元帥は、絨毯、毛皮、金時計などの他55点におよぶ「ポツダムその他の宮殿とドイツの屋敷から運び出された」貴重な絵画を自分の別荘においており、そのことは国家保安省によってスターリンに報告されていた(『知られざるスターリン』、現代思潮新社、03、103ページ.)。

アメリカに亡命して回想録を書いたスターリンの娘スヴェトラーナは、「わが家(スターリン家)は悲しげで、人気がなく、ひっそりして、居心地もよくなかったが、それでもわが家にはプチブル根性だけは欠けていた。ところが、わたしが新たに移り住んだ家(ジダーノフ家)では、見せかけの、形だけの、偽善的な『党精神』と、それこそ手のつけようもない『女房的』なプチブル根性とが同居していた。『お宝』のいっぱいにつまった木櫃・・・花瓶や、ナプキンや、壁にかけられた安物の静物画にいたるまで、万事に歴然と現れている趣味の悪さ。ジダーノフ未亡人のジナイーダ・アレクサンドロヴナが家内に君臨していたが、彼女は、党人的な偽善者ぶりと、俗物的な無教養との、まさしく化身のような存在であった」(『スベトラーナ回想録』、新潮社、273ページ.)。

エッセイ 27 老兵は去るのみ

木村 英亮 (2006年1月29日 23時38分)

老人になると口うるさくなるばかりでなく、他人の意見に注意を払わなくなりがちである。理想的な老人とは、いかなるものであろうか。

筒井康隆は、「老人は原則的にも理想的にも孤高の存在であるべきなんです。仕事仲間の若い連中だって、口うるさい老人よりは黙っている老人の方がなんとなく信用できるから、わからないことがあればあっちから訊いてきますよ」(『朝日』2000.9.18)と書いている。

老人と若者との関係は、世界政治における欧米とアジアというように置き換えてみても面白い。すなわち、欧米は、若いアジアに介入すべきではない。

アメリカは、人口では世界の5%を占めるに過ぎないが、地球上の二酸化炭素の4分の1を排出している。それにも拘らず温暖化防止のための二酸化炭素排出を規制する京都議定書を批准せず、「9.11」対策に眼を奪われ、わからずやの老人のような態度をとった。その結果、ハリケーン・カトリーナに復讐され、48万人が住み、その67%が黒人であるニューオーリーンズ市街の8割を水没させてしまった(瀬戸岡紘『アメリカ 理想と現実』、時潮社、2005、260ページ.)。アメリカの老化は、着実に進行し、傍らのラテンアメリカにおける影響力を失ない、世界でも孤立しつつある。イギリスのブレアの言動も驚くばかりであり、フランスも内部から崩れ始めている。これに対して、AALAの政治家の言動の水準には、欧米「先進国」の政治家よりはるかに高いものがある。

新しい力は着実に発展し広がり、いつの間にか古い力をしのぐ。徒然草は、それをうまく表現している。

「死は前よりしもきたらず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、まつこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」(155段)。

エッセイ 26 人材について

木村 英亮 (2006年1月26日 23時39分)

人はそれぞれ得意なところ、才能をもっている。各人が才能をもっとも発揮できるような 社会では、人々は幸せであるし、また社会全体としても平和に発展するはずである。

奴隷制や封建制の下では、生れながらの身分、仕事が決まっていて、やりたいこと 得意なことを選べない。そこでは多くの才能が生かされることなく埋もれたままとなる。 それに対し、資本主義の下では、生まれに関係なく、自由に職業を選べる。これは、 資本主義社会が発展した原因のひとつであった。いま、資本主義の下でも社会が階層化し 固定化しつつある。また、教育の役割が大きくなり、よい教育を受けられる子どもは有利な 立場におかれる。

社会主義は、階級、階層をなくし、教育費を親でなく社会が負担することによって、 才能を有効に利用しうるはずであった。ソ連では、要員(カードル)がすべてを決する、と 言われた。しかし、党員が特権を持ち、それを子どもに引き継ごうとする傾向が生まれ、 社会主義の理念とギャップが大きくなる。

つまり、組織が発展するための人事の重要性が認識されており、採用ばかりでなく 配置、または昇任、昇級のシステム、任期などの規定の整備もおこなわれていたが、これらを 具体化するところに欠陥があった。それはきわめて困難な課題である。

大学でも、受験生を集めること以上に、優れた教員を集めることが重要である。 教員とともに図書館司書や事務職員も大切である。教育人事は公募がかなり広まっているが、 事務職員の人事についても、検討の要があろう。

エッセイ 25 愛情における勇気

木村 英亮 (2006年1月21日 23時41分)

子に対する親の愛情はとても強い。

アメリカの作家ソーントン・ワイルダーは、親子、兄弟、友人間の愛、恋愛以外の愛をテーマとした『運命の橋』(『サン・ルイス・レイの橋』)で、それを次のように描写した。

「娘に対する愛情は、あらゆる愛の調子を包括する大きなものであったけれども、それにも拘わらず、暴君のような気持ちもそこに混っていた のである。彼女は娘のために娘を愛していたのではなく、自分自身のために愛していたのだった。この恥ずかしい絆から自由になりたいと思った。しかし激情は 争うすべもなく彼女にとりついているのであった」(伊藤整訳、新潮文庫、20ページ)。彼女は、娘に手紙で自分をどのくらい愛しているかをおずおずたしか めようとしたこともあった。しかし、ある出来事がきっかけとなって、愛においても勇気が必要であることに気づき、娘に乞食のように愛情を求めることをや め、自由で毅然とした愛情をもって生きようと決意する。

ソヴェトの教育者マカレンコは、教師の生徒への愛について、似たようなことを言っている。

「教育者の自己まんぞくのための愛情は、むしろ犯罪であると思っていました。・・・愛情は、みなさんの努力とは別に、それとなくおとずれ るのがほんとです。もしだれかが、その愛情を目的としていれば、これは有害です。もし彼が被教育者の愛情を受け入れようとしないなら、彼は子どもに自分に も、非常に多くの要求ができる正義の人になれます」(マカレンコ『著作集6』、三一書房、1954、117ページ)。かれは、生徒の人気取り競争をするよ うな教師集団は、最悪であると書いている。

エッセイ24 お世辞より奉仕

木村 英亮 (2005年12月30日 14時13分)

松下電器をトップメーカーにした松下幸之助は、若いうちに勤勉努力の習性を身に着けつけておかなくてはいけない。習性というのは恐ろしいものだ、それは、ダイヤモンドのように堅牢な真実である、と言った(津本陽『老いは生のさなかにあり』幻冬舎文庫、182.)。

かれはまた、『商売戦術三十カ条』に、「売る前のお世辞より売ったあとの奉仕、これこそ永久の客をつくる」と書いている(177.)。

大学はいま、受験生集めに必死である。そのさい、私は大学経営者に松下の観点が欠けているのではないか、といつも考えてきた。すなわち、入学してきた学生に対するサービスである。授業料はもちろん第一に講義に対するものであろう。そのために教員の授業アンケート調査などをおこなっているわけであろう。しかし、授業料は学生が自発的に学ぶための設備、すなわち図書館やサークル施設などの利用料を含んでいると考えられる。また、事務サービスも当然ふくまれる。

入学後の奉仕、これこそ大学の基盤をつくる。これらのサービスに学部間で格差があってはならない。

エッセイ23 唯物論について

木村 英亮 (2005年12月27日 0時00分)

いま、アジアの政治、ひいては世界の政治を動かす最大の力の一つは、中国・韓国の人々の意思であると思う。

中国、韓国の人々と政府は、歴史問題、靖国問題について、日本政府に強く抗議している。日本の一部の論者によれば、中国や韓国は、日本と の貿易が増えているので、そのうちに靖国問題などについての意見や政策も変わるであろう、ということのようである。朝鮮に対しても、経済制裁をちらつか せ、屈服させようとしている。

日本の政治、世界の政治にとって、もう一つの問題は、沖縄である。沖縄は、地理的にアジアの戦略的要地であるばかりでなく、沖縄住民の意志は、今後のアジアと日本の政治を左右するであろう。

在日米軍再編に対する沖縄の人々の反対について、日本政府は、振興策などによってなだめられると考えているようである。それはそれで一つの考え方であるが、人間は物的な利益だけで動くものではない。

なんという浅薄な人間観であろうか、

なんという単純な唯物論であろうか、と嘆息せざるをえない。

これらの論者は、一方では、ソ連は共産主義思想のために崩壊し、中国政府も資本主義に移行しつつあり、唯物論で世の中は動くものではない などと言っているが、自分達の依拠する考え方こそ、単純な唯物論であろう。あるいは、これらの国々や地域の人々を馬鹿にしているのであろうか。

エッセイ22 御用学者について

木村 英亮 (2005年12月25日 14時24分)

国際関係論の講義で、テキストに引用されている文に御用学者ということばがあり、学生に意味を聞かれ、『大辞林』(三省堂)をひいてみた。

まず、「御用」について、「4.政府などの権威にへつらって主体性のないこと」、とある。「へつらう」は、「自分よりも身分・地位の高い 者や強い者に対し、相手の喜ぶようなことをことさらに言ったり行ったりする。おもねる」とある。「主体性」は、「自分の意志・判断によって、みずから責任 をもって行動する態度のあること」。

「御用学者」は、「時の政府や権力者に迎合して、その利益となる説を述べる学者」。 迎合的意見が、権力者の利益になるかどうかはあやしく、御用学者が権力者を誤らせることも多い。権力者の利益になるのは、むしろ反逆者の意見である。しかし、権力者がへつらいから免れ、本当に自分のためになる意見を聞くことは難しい。

多くの情報を集め、自分で判断するのが一番であろう。しかし、その情報が偏ってしまっては処置なしである。

「御用商人」は、「4.近世、幕府・諸藩の御用を務め、特権を得ていた商人」。

「御用大学」ということばはまだない。

「御用」の項の最後は、「御用済み」。

エッセイ21 公正な立場

木村 英亮 (2005年12月24日 14時26分)

新聞に一定の立場があることを、偏っているとして悪いことであるように非難する人がいる。しかし、それぞれの新聞に方針があって、それに基づいて報 道が行われるのは当然ではなかろうか。事実を偽ったり反対意見を無視するようなことは論外であるが、公正、中立ということは、意見をもたないことではな い。

日本では、教科書の検定官のような見方をする人が多いように思われる。もちろん、教科書も検定などすべきではない。評価は使用する教員に委ねるべきであろう。教員に後見人は要らない。間違いの多い教科書は、文部科学省が介入しなくても、たちまち淘汰されるであろう。

同じようなことは、人についても言える。立場がはっきりとしていて、ある問題について、こういう意見であろうと周辺の人が推測しうるよう な生き方は、望ましいことである。それは、政治家や政党についても同じであろう。基本的な問題について、綱領で決めていないような政党は、政党とは言えな い。この意味で、小泉首相は、自民党を政党にしたのである。

権力や贅沢など、そのときの利害のままに意見をかえるような人、まったく意見が推測できないような人は信頼をうることはできない。

研究者も政党も同じである。

エッセイ20 上から、外から

木村 英亮 (2005年12月6日 22時14分)

「山の郵便配達」という中国映画を見た。主人公はリュックを背に、道のない山村をめぐり、手紙を届ける。目の見えない老人には手紙を読んで聞かせ、相談相手にもなる。

今回の日本の選挙では郵政民営化が争点とされ、国鉄に次ぎ、郵便事業が民営化されようとしている。たしかに、さまざまな情報手段の発達によって、郵便の比重は小さくなっており、なんらかの対応が必要であろうが、それは公営か民営かとは別の問題である。

このような「改革」は、まず問題点と根拠となる資料が提示され、その上で利用者の意見がよく聞かれなければならない。しかし、なによりも 優先しなくてはならないのは、そこで働く人たちの意見である。ただ安ければいいというもではなく、質が守られるかどうかが大切だからである。そのために は、「山の郵便配達」の主人公のように、その職場で働く人たちが、仕事に誇りをもち、仕事の目的をしっかりつかんで、それに基づいて働くことが第一であ る。ただ経営の都合だけでおこなっても、本質的には経営も改善されないであろう。

1987年国鉄が民営化され、JR6社が発足した。それは国労をつぶすというのが目的の一つであったので、全体としても鉄道労働者の意 見や利益は顧みられなかった。西宮事故は、その結果であるとみなすことができる。国鉄民営化の総括を行ってみて、他の民営化はその上でおこなうのが筋では ないだろうか。その場合、労働者、利用者の意見も聞かねばならない。

日本の「改革」は、いつも当事者から出発せず、「上から」「外から」の指示によっておこなわれた。戦後改革もそうである。これは、占領 軍の圧力がなければ、あのようにできたかどうかわからない。本来大学人のイニシアチブでおこなわれるべき大学改革も文部省の指示を仰ぎ、ついには、大部分 の教員が反対する独立行政法人化が実現されてしまった。一番事情のよくわかる大学の教員、職員の意思は十分に反映されず、講義を聴き、授業料を払う学生の 意見が聞かれることもなかった。

エッセイ19 精神面の強さと弱さ

木村 英亮 (2005年12月2日 11時35分)

スポーツの勝敗には、精神的要素が大きく影響するようである。野球のような集団によるゲームでは、チームワークが勝敗を左右するが、それがうまくいくためには選手間の和が必要である。

相撲やボクシングなどの個人競技では、心理的要素の果たす役割が大きい。気迫が足りないとか勢いに乗るなどといった言葉がよく使用され る。硬くなって実力が発揮できないが、慣れも心理的要素にはいるであろう。相撲の場所中は、なかなか眠れないという話を聞いたことがある。

城山三郎は、鋭いパンチを持っている男よりも、そうした格別の利器はなくても、打たれても打たれてもなお倒れない男の方が、(拳闘の)チャンピオンになる確率が高い、という(城山三郎『打たれ強く生きる』新潮文庫、122)。性格や知能も関係があり、城山は、「頭は少し弱めがいい」という渡辺淳一の説を紹介している。たしかに、完璧を求めやすいエリートには、失敗のショックが致命的になることがあるであろう。

しかし、精神面を強調しすぎると、「精神主義」になるおそれがある。運動部でよくある気合を入れる暴力がふるわれることになりかねない。やはり、スポーツの訓練も合理性が大切で、実力をつけることが第一である。

そのさい城山も述べているように、基本の大切さは言うまでもない。これはスポーツに限らずあらゆる分野についてあてはまることであるが、気まぐれやはったりはだめである。

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