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エッセイ 38 盲点について

木村 英亮 (2006年4月1日 23時22分)

高い山に登ったり、航空機からみると、地表の全体的状況がよく見える。社会の問題も「上」のほうには資料などの便宜もあり、よく分かるはずである。ところが、私のみるところでは、実は逆で、「下」から見た方がよくわかるようである。政治の最高権力者のところには情報が沢山集まり総合的判断ができやすいはずである。しかし、都合の悪いことは、どうしても伝わりにくく盲点が生まれる。水戸黄門や大久保彦左衛門が求められるわけである。

1968-69年の東大紛争のとき、私は助手であったが、ほとんどの学生たちが知っているのに、教授にはまったく伝わっていないことが多くあった。また、いろんな大学の教員や大学院の学生と話し合った機会に気づいたのは、東大の教授や大学院学生は夢にも思っていなかったようであるが、他の大学の教授は事態の収拾を支持しているばあいでも、東大が潰れるとをむしろ望んでいるようであったことである。

そのときは、膨大な労力を使って沢山の改革案がつくられたようであるが、実行に移されることもなく、結局もとのもくあみとなった。

現在、大学改革は、文部科学省や公権力の強引な「上からの改革」によって推し進められている。大学自体で改革ができなかったわけなので、自業自得といわれてもいたしかたない。しかし、学生はもちろん教員の意見も聞かず、学長にさえ逆らっておこなう「改革」とは何であろうか。このようなやり方が教育、研究のためになるとは思われない。

エッセイ 37 論文の書き方について

木村 英亮 (2006年3月30日 23時24分)

戸坂 潤は「論文の新しい書き方」で、次のように書いている。

「論文には一定の型式となるようなものはない。内容が一定の文章を要求するのである。書く人は出来るだけの力を自分なりに発揮して、この内容を自分自身に遂一納得の行くように整理し点検して行けばいいのである。それがおのずから、読者にもよく判る論文となる・・・ ただの結論は何の実力もない独断と同じである。結論は分析と総合とを通して得た行論の結論以外のものではなかった筈だ。」 すなわち、自分でよく判っていることを書くこと、根拠を示すことが第一である。

「自分自身に納得の行くように」ということばはとても重要である。ここにはいろんな意味が含まれている。大衆受けするように、とか、権力者の気に入るようにではなく、自分自身に納得のいくようにということである。

また、論文にかぎらず、文を書くときは、テーマはなにか、すなわち何を伝えたいのか自覚していなくてはならない。長ばなしのように、途中で横道にはいってなにを議論しているのかわからなくなることがあるからである。そうならないためには、題をつけるとよい。

内容が変わる時は、行替えでそのことが判るようになっていると読みやすい。答案などで一度も区切らず、前後の脈絡もなく、知っていることを書き連ねてあるのがよくあるが、言いたいことを推測しながら読むのは疲れる。

論文では分析の結果としての結論が必要である。分析だけに終わり、結論を避けたり、あいまいなままにしたものは、調査報告書である。

エッセイ 36 怒りについて2

木村 英亮 (2006年3月28日 23時25分)

ローマ時代の哲人セネカは、怒りを手段として利用してもいいだろうか、と問い、いったん怒りという感情に捉えられると理性による抑制ができなくな る、とし、「怒りは自らを抑えることもできず、品位も汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらな い問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ているのである」(セネカ、茂手木元蔵訳『怒りについて』、岩波文庫、1980,9-10ページ)。われわれは、他人を恐れさせるようなことなく、悪口、嘲笑なども気にせず、長くない人生を忍ばねばならないと、ストアの哲学を説いている。

しかし、怒りには私憤と公憤とがある。現代のわれわれとしては、耐え忍ぶばかりでは困るのではないかと思う。

辛淑玉は『怒りの方法』(岩波新書、2004.)で、日本に多い「まあまあ、ここはひとつ大人になって」、「世間を騒がせる迷惑な奴だ」というような加害者を免罪するような発言を批判し、押し潰されて破滅しないように、怒る方法を考えようと提案し、自己主張や説得の方法について語る。 この本のあとがきまで読んで、学生時代に見たアメリカ映画「十二人の怒れる男」を思い出した。ヘンリー・フォンダ扮する主役が、残り11人の陪審員を説得し、父親殺しの容疑のかかった少年の無罪評決をかちとるまでを描いた映画である。

説得するためには、相手の怒りまでふくめ、深い人間理解が必要である。これは教員にも欠くことのできない資質であろう。

エッセイ 35 怒りについて

木村 英亮 (2006年3月24日 23時26分)

怒りのエネルギーは非常に大きい。改革や革命は、人びとの怒りを結集して実現される。肉親を誘拐された拉致被害者の会の人びとの怒りは、日本国民 を動かし、政府を動かしている。朝鮮の側には、長い植民地時代に積もり積もった桁違いの怒りがあるはずである。日本としては、このこともじゅうぶん頭にい れておくべきであろう。

一億中流などとみんなが満足しているときには、怒りもなく、改革も難しい。もちろん「愚者の天国」ということばもあり、本当に怒るよう な状態でないのかは疑問であるが、上下の格差が広がってもやむをえない考え方は、「下流」になった階層の不満や怒りを蓄積させるので、改革を進めていくに は都合がいいかも知れない。

社会の不平等化が極端にまで進み、ひとにぎりの人だけで政治・経済が動かされ、大部分の人びとには自分の怒りを政治に反映させる可能性がなくなると、改革の手段はテロだけとなる。

19世紀末から20世紀初めのロシアでは、皇帝の権力が絶対的で政治を変えるにはテロしかないような絶望的状況があり、暗殺が頻繁におこった。たとえば、1908年のロシアの死刑は他のヨーロッパ諸国全部を合わせたものの21倍で、絞首台は首相の名をとってストルイピンのネクタイと呼ば れた。これに対するテロルも盛んで、1907年だけで3000人が屠られた。ストルイピン自身も1911年に暗殺された。

レーニンの兄はアレクサンドル三世暗殺陰謀に加わり処刑された。これは弟のレーニンを革命家にした。かれはついにはロシア革命によって旧体制を転覆し、ソヴェト政権を誕生させる。

かれは、兄がテロリストであったとしてペテルブルク大学を受験することができず、カザン大学に入学したが、まもなく退学となった。

エッセイ 34 プライドについて

木村 英亮 (2006年3月17日 23時27分)

日露戦争では、極東の小国日本が大国ロシアに勝ったことは、植民地支配の下にあったアジア諸民族に大きな励ましを与えた。長く植民地支配を受ける と、それをやむをえないものとして受け入れる意識を生み出す。自分たちは遅れており、当面は「進んだ」欧米の支配の下で、「先輩」からいろいろ学ばねばな らないと考えてしまうのである。それは植民地支配が続くための必要条件である。

民族解放運動の指導者たちは、まず自民族をこのような意識から解放しなければならなかった。少数のイギリス人が、膨大な人口をもつイン ドを支配できたのは、インド人の奴隷根性が条件であり、ガンジーらの第一の課題は、インド人に民族としてのプライドを眼ざませることが第一の課題であっ た。

第二次世界大戦後1960年ころまでに、世界の大部分の植民地は独立した。そのころ、アフリカとアメリカの黒人を比較して、アフリカの黒人はプライドをもっていて別の人種のようにみえると聞いたことがある。

日本の大学で偏差値と言う用語がしきりに使われている。10年前にはおもに受験生がそれを強く意識し、偏差値によって仕分けされた。同じ 力をもった学生でも、偏差値の高い大学の学生は、就職の際に優遇されるばかりでなく、学生自身もプライドをもっていた。いまでも、新聞の人生相談に、一浪 までして頑張ったのに三流大学しか受からずまったく不本意だという投書が掲載されている(池内ひろ美の人生相談『東京新聞』2006.3.7.)。しかし 昔に比べれば、会社も個々人の力をみるようになり、大学による差別は減ってきたように思われる。むしろ大学が受験生によって仕分けされている。

しかし、偏差値だけでプライドをもったり、差別したりするのは、GDPの高さだけで、国をランク付けするようなもので一面的である。

まず自分自身が自分のものさしで評価し、得意な分野について自信をもつことが第一である。大学もそれぞれ独自性を追求し、それにプライド をもてば受験生はおのずと集まるであろう。上の投書に対して池内は、「実は、『三流大学』にもその大学なりの良さがあります」と答えている。

エッセイ 33 奴隷根性について

木村 英亮 (2006年3月15日 23時28分)

安倍晋三官房長官は記者会見で、沖縄の普天間飛行場の移設計画について、地元の納得がなくとも、「日米協議整えば決着」と述べたと報道されている(『朝日新聞』、2006.3.7付)。

アメリカとの関係について、日本政府の態度には腑に落ちないところが多々ある。ここで問題になっている米軍再編のための沖縄の普天間基地 の移転についてもそうである。日本は「思いやり予算」として、本来アメリカが払うべき基地整備や運営のための費用を自発的に負担している。その上今回は、 住民が反対している地域に航空基地を移そうというのである。日本本土においても、基地を受け入れたいという地域はないようである。 そもそも米軍は、日本を守るためにいるはずであるが、日本とはだれなのであろうか。住民が反対する基地が軍事的に有効に機能するかどうかあやしい。米軍基地があるほうがかえっ て危険なのに、どうして金を払ってまでいてもらうのだろうか、という疑問をもつ人は多い。戦後60年間米軍基地の存在に慣れ、住民や、市長、知事の反対するなかで、まずアメリカと決め、経済振興策でなんとかなだめようとし、だめなら法律を改正して知事の権限を奪おうという。

このようなことは、ふつう独立国の政府はしない。

2004年8月、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の建物に米軍大型ヘリが衝突炎上し、調査にも日本人は立ち入れなかった。たとえばハー バード大学の傍に日本軍の基地があり、ヘリが墜落するといったことは想像できない。もしそんなことがおこったらアメリカ人はどうするであろうか。

エッセイ 32 スターリンの死

木村 英亮 (2006年3月12日 23時29分)

スターリンは1953年3月5日に74歳で死んだが、それは日本でも号外がでるほどの大事件であった。「スターリン遂に死す」と見出しのつけられた号外を中国史の上原淳道氏からいただき、拙著『ソ連の歴史』(山川出版社、1991.)に写真版で載せた。この死については謎が多い。チェチェン人アフトルハーノフの『スターリン暗殺事件』(鈴木博信訳、原題『スターリンの死の謎』、ハヤカワ文庫、1980.)では、スターリンの死は、粛清をおそれたベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニンの陰謀の結果であろう、としている。

スターリンは一人で生活しており、呼ばれない限り、他人が部屋に入ることができなかった。3月1日明け方までフルシチョフらと会食してい たが、昼になっても起きてこず、夜10時に警備隊副隊長が急ぎの重要書類をもって入ってはじめて床に横たわっているのを発見したのである。ただちにマレン コフに電話したが、医者がきたのは翌日の朝9時であった。メドヴェージェフは、この2日の夜フルシチョフらが権力問題について取り決め、死後のイニシアチ ブをとったのであろうと推測している。スターリンの下で絶大な権力を手中にしていたベリヤは6月に逮捕され、裁判の後処刑される。現在までに明らかになっ ていることは、ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』(久保英雄訳、現代思潮新社、2003.)に書かれている。

スターリンが死んだ5日の看護婦、使用人、警護隊員らの姿について、娘のスヴェトラーナは、回想録に次のように書いている。

「ここでは、すべてが作りものではなく、真情にあふれていた。だれひとり、他人の前に自分の悲しみを、自分の忠誠を見せつけようとするも のはなかった。みなが長年知り合ってきた仲だった。わたしのこともみなが知っていてくれた。わたしがわるい娘であったことも、父がわるい父親であったこと も、けれど、それでもやはり父はわたしを愛し、わたしは父を愛していたことを。ここではだれひとり、父を神とも、超人とも、天才とも、悪人とも見ているも のはなかった。父は、最もありふれた人間的な資質のゆえに愛され、尊敬されていたのだった。こういう資質については、いつも使用人が誤りのない判断をくだ すものである」(『スベトラーナ回想録』、新潮社、1967,27-28ページ.)。

エッセイ 31 新しい毛沢東像

木村 英亮 (2006年3月7日 23時30分)

私の毛沢東観は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』 によってつくられており、文化大革命によって若干修正されたとはいえ、スターリンとはかなり違った指導者と考えてきた。しかし、最近翻訳された、ユン・チアンらの『マオ』(講談社)を読むと、毛沢東もまた、恐怖政治で団結を維持してきたようである。結局このようなやり方でしか、統一と革命を成功させること はできなかったのであろうか。

成し遂げたことは偉大であったが、その方法は桁外れに残酷であった。日本史のなかの人物としては織田信長と共通のところがあるようである。

また、毛沢東をはじめとする中国革命の指導者が、革命の過程でも現在でも、かなり特権的な生活をしており、それを当然と思っていることに は違和感がある。たとえば長征のとき、毛沢東は自分の考えた担架で移動したと書かれているが、このようなことは、欠くことのできない人のためには許される のであろうか。文化大革命のときも現在も、最高指導者は中南海という隔離された別世界に住んでいるという。これは必要悪なのであろうか。社会主義市場経済 のなかで、腐敗が拡がっていると報じられているが、これも必要悪と考える人がいてもおかしくない。

比較的格差の少ない日本では、理解しがたいことである。

エッセイ 30 対米戦争勃発

木村 英亮 (2006年2月25日 23時31分)

戦前1933年4月、ちょうど滝川事件がおきたとき共産青年同盟機関紙『赤門戦士』を引き継ぎ1935年初めに逮捕された牧瀬恒二の妻、牧瀬菊枝 は、1941年12月8日、対米英宣戦のラジオを聞いた夫の母が、大声で「まあ、あきれた、日本もずいぶん自信があるのねえ」と言い、驚いた菊枝が耳に口 を寄せて、「おかあさま、そんなこと、どなたにもおっしゃらないほうがいいですよ」と言った、と記している(『1930年代を生きる』、思想の科学社、 1983,177-178ページ)。

わたしは1942年4月、姫路市の郊外で、国民学校と改称されたばかりの小学校に入学する年齢であったが、前年暮開戦のラジオを聞いた 母が暗い顔で大変なことになったと言ったのを記憶している。入学後担任の女の先生が、アメリカは豆腐とすれば日本は針のように小さいとたとえて話したこ と、3年のとき、休んだ担任の先生のかわりに校長先生が教室に来て、イワンの馬鹿の話をしたことも覚えている。いま、戦争中日本人みなが好戦的であったよ うに言う人がいるが、決してそうではなかった。

アメリカはそのとき以来今日まで、重苦しく日本の上にのしかかっている。

アメリカは、極東軍事裁判で日本が「平和に対する罪」、「人道に対する罪」、「通常の戦争犯罪」を犯したとして裁いたが、ヴェトナム戦争 では自らがそのいずれも犯し、敗北した。日本は、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などでアメリカを助けた。日本は先の戦争ではアメリカに対して、戦後はアメリカ とともにこれらの罪を繰り返し犯すことになったが、このことを深く考えていれば、イラク攻撃に加担することはできなかったはずである。

エッセイ 29 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

木村 英亮 (2006年2月21日 23時35分)

ライブドア問題をとりあげたテレビ番組で、いまの日本政治ややくざ社会とのむすびつきが話題となっていた。また、若者がやくざ社会にはいっていくのは、家庭の崩壊のなかで、密接な人間関係を求めているからであるという発言がなされていた。すなわちライブドアは、一見、現代社会のなかの封建的な構造 を破壊する新しい明朗な企業であるような印象を与えたが、若者をひきつける古い共同体的な関係と資本主義という利益社会両方の闇の部分にしっかりと基礎を置いているというのである。

大学はもともと学生の共同体として始まったのであり、いまの日本の学生もゲマインシャフト的なものを求めて入学するのであろうが、実態は利益追求の企業であり、また社会の中の役割も、すぐに役に立つ研究と、会社員・労働者の養成が期待されている。しかし、ここには、研究、教育の本質的部分との矛盾がある。

大学教員、学生とも、欲得を離れて真理をまなび追究したいという欲求をもっているのであるが、具体的な問題では、経営体としての大学の要求と矛盾することがしばしば起こる。大学院などではゲマインシャフト的なところがわずらわしく思われ、1960年代後半の大学紛争は、一面ではゲゼル シャフトとして貫徹せよという要求でもあった。しかし、ゲゼルシャフトとして貫徹できないところがある。

社会主義は、平等な人びとの共同体、ゲマインシャフトを理想として掲げたはずであるが、現実のソ連では、当面社会主義すなわち「労働に応じた分配」のゲゼルシャフト形成をめざした。その崩壊は、ゲゼルシャフトとしての完成に失敗したものと考えられる。

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