著者別アーカイブ » 木村 英亮

エッセイ 59 思想について

木村 英亮 (2006年5月31日 3時41分)

エッセイを書きながら、これがどれだけ自分のことばになっているであろうか、といつも気になってきた。

「日本では、生活の次元に止まる未萌芽の思想と、まだ生活に媒介されない、したがって生産性をもたない、外来の、カッコつきの思想があるばかりだ」(竹内好「日本共産党批判」1950,『全集・現代文学の発見』第4巻、学芸書林、1968,425ページ)。

竹内は、この文の初めの方で、「思想に一貫性がなければ、その人は、個人にしろ団体にしろ、独立した人格とは認められないだろう」(422ページ)と言っている。私もその通りだと思う。しかし、実際はこのように思っている人は少ないのではないか、という気もする。ソ連が崩壊したあと、それまでソ連の大学で必修科目であった「マルクス・レーニン主義」を担当していた教員たちは、「経営学」を教えている、と聞いたことがある。ソ連共産党の指導者たちで、いまも社会主義を信じている人は、少ないように見える。

それは、日本人の場合も同じである。ソ連崩壊後、社会主義を過去のものと考える人は圧倒的に多い。研究者の場合、1991年7月、『社会主義経済研究』誌が、「社会主義に未来はあるのか」というテーマで、社会主義経済学会会員などから抽出した240名にアンケートし57名の回答を得て、第17号(1991年11月)に掲載している。アンケートは3問で、1. 21世紀半ばまでに「社会主義体制」が世界のどこかで実現する可能性があると考えるか。a.ある b.ない c.どちらとも言えない、2. aと答えた方に対しその場合の企業の形態について、3. b.c.と答えた方に「資本主義体制」はどのように変化するか、というものである。1 についての回答は、a 23 b 6 c 21 その他7であった。1991年12月にソ連が崩壊した後、aはもっと減ったであろう。

このような判断は、どのくらい自分の「生活に媒介」されたものなのであろうか。

エッセイ 58 教員の限界の自覚について

木村 英亮 (2006年5月29日 3時44分)

渡辺一夫は、辰野隆に「俺たちは、東大の教師だということになっているから、何とかやっていけるんだぜ。そうでなかったら、世間からはなもひっかけられねえよ」と言われ、別の機会に、「大学教師と乞食とは、三日やったらやめられねえね」ともふざけられた、と書いている(『ちくま日本文学全集・渡辺一夫』、1993,343ページ)

56歳のとき東京工業大学の「文学」教授となり、定年まで4年勤めた作家の秦恒平は、概論や講義で学生に無駄な負担をかけないで、「わたしの教室から、授業から、そして教授室からも、一つぶ二つぶの『砂金』をつまんで帰ってくれて、幸いに生涯だいじに記憶してくれますように」(『東工大「作家」教授の幸福』、平凡社、1997,13ページ)という心構えで教室に出た。「学生たちの心からの言葉を、教室で、教授室で、豊かに溢れ『みちびき』出すことならば、わたしにも出来ると思った。それこそが理系『文学』教授の仕事だと思っていた。結果として、わたしはなに教えず、学生諸君にたくさん教えてもらった。ほんと、楽しかった」(147ページ)と書いている。

なだいなだは、旧制中学で成績がよくなく、医学部進学を諦めようかと教員に相談すると、「『マグレってものもあるからなあ、頑張れや』といってくれた。なぜか、彼は無責任だったから」(『こころ医者の手帳』、ちくま文庫、1998,171ページ)と感謝する。そして、「子どもの人生まで指導出来るという思い上がりは、善意から発しているとしても、鼻もちならない」(173ページ)と書いている。

私も教員の仕事には限界があるという認識は大切であると思う。大学や大学院のトラブルの多くは、教員の責任意識が強すぎお節介が過ぎるところから生まれる。「一生面倒を見てやるから」などという無責任教員もいるようであるが、そんなことができるはずもない。教員がまず伝えなくてはならないメッセージは、他人はあてにすることはできず、自分に実力をつける他はない、ということであろう。

エッセイ 57 宣伝、依頼への対応について

木村 英亮 (2006年5月23日 3時44分)

毎日、新聞に大量のチラシ広告が挟まれて配達される。ほとんど見ないで廃棄するが、その量は新聞よりはるかに多い。配達人は、運ぶのに重いし、ドアの新聞受けに押し込むのも大変であろう。カラーのものなど、1枚数百円の経費をかけて見合う効果があるのであろうか。それとは別に郵便受けにも多くのビラなどが入れられる。大部分は集合ポストの傍らの大きなごみ箱に捨てられている。

セールス電話もしばしばかかってくる。バイト学生らがマニュアル通りにかけているのかも知れないが、ご苦労さまである。受ける方は仕事が中断され迷惑なので、宣伝としてはむしろ逆効果と思われる。

これらと若干違っているが、署名やカンパのお願いの郵便も多い。

私は中身に賛成かどうかの他に、原則として、次のようなばあいの他は返事をしないことにしている。

  1. ふだん文通などつきあいのある人の個人責任であること。
  2. カンパの必要なばあいは、会計の責任者が明確で、しっかりした会計報告が期待できること。
  3. なぜ私に依頼したのか、わたしの仕事との関係がはっきりしていること。
  4. 宛名などが間違いなくきちんと書かれていること。

エッセイ 56 退職1か月71歳の感想

木村 英亮 (2006年5月17日 3時46分)

3月31日に定年退職の辞令をもらって1か月経った。大学はその前から休みにはいっていたので、生活が急に変わったわけではない。給与も年金も銀行振り込みなので、この点でも変わりはない。

勤めがないのは、いろいろなオブリゲーションがなくなったと言う点が一番大きな変化である。これはさまざまな義務がなくなったというだけでなく、いろんな制約から解放され、まったく自由になったということである。後者はあまり意識されないが、そのことを積極的にとらえ生かして、新たな成長のための契機にしなければならないと思う。

最近、なだいなだを読んでいて次のような文章にであった。

「五十を越えるとき、齢をとるのが怖かった。だが、サン=テグジュペリは『ひとたび事件の渦中に入ってしまえば、決して恐れたりはしない』といっている。その通りだった。・・・それが、山を登るように高みにのぼっていくことだということが、だんだんに分かってきたからだ。実際、いろいろなものが見渡せるようになってきた」(『こころ医者の手帳』筑摩文庫、1998,123ページ)。続いて、大学までの教育が試験にパスするための他、人生で何の役にも立たないことも分かってきた。役に立ったのは忍耐力だけだ、と書いている(124ページ)。

一生を社会主義の追究に過ごし2001年に97歳で没した石堂清倫氏は、戦後50年以上自宅で研究や翻訳に従い、亡くなられる直前まで執筆されていた。氏は、東大文学部の出身であるが、在学中、教室には実質的には3ヶ月もでなかったと聞いたことがある。講義は大体においてつまらなかったと書かれている(『わが異端の昭和史』上、平凡社ライブラリー、2001.参照)。また、90歳を過ぎて、どんなお気持ちだろうと考えたこともあるが、たしかに少しも怖くなかったのであろう。

エッセイ 54 善意と純情

木村 英亮 (2006年5月9日 3時47分)

わたしの好きな小説に伊藤 整『氾濫』(新潮文庫、1961)がある。主人公・真田佐平は、化学技師で会社重役であり、研究業績と資金力で学会でも実力者である。彼を中心として国立、私立大学の教員、助手などが、金、名誉、地位、性などを争うという内容で、奥野健男は解説で、「人間の装いやごまかしをすべて剥ぎ取り、エゴイズムの醜さ、いやらしさ、あわれさを飽くことなく、繰り返しほじくり出」(548-9)し、ただ人間の内部の真実の姿だけを、人間は偽りの中に生きているという救いのない人生観をたんたんと書いていると記している。

しかし、わたしはこの小説を読むと、なぜかやすらぎを覚える。それは、ここに嘘がないからである。

真田の専門は接着剤の研究で、学会は高分子学会という。私は同名の学会の主宰する小さな会に呼ばれ2回ほどソ連の話をしたことがある。そのとき、このフィクションを思い出していた。伊藤は、どうしてこの名の学会を舞台に選んだのであろうか。

中野好夫は『悪人礼賛―中野好夫エッセイ集』(ちくま文庫、1990,11ページ)で、動機が善意であれば一切の責任は解除されるといった考え方をする善意と純情の人ほど、退屈でしかも始末に困るものはないと書いている。妥協せずに真実を貫くことは、「善意と純情」だけではできない。甘えは、とくに日本的な欠点である。

似たようなことで、シベリア抑留記で、骨身にしみた弱者のいやらしさということを読んだことがある。弱者の自分より弱い者に対する残酷さについても油断ができない。

私の観察では、「善意と純情」にもっともおぼれやすいのは、教師であると思う。

エッセイ 53 一炊の夢

木村 英亮 (2006年5月7日 3時49分)

学生のとき寮で同室であったグループ10人くらいで2年に一度集まって会食をしている。寮の部屋は、2段ベッドの8人部屋の寝室と16人部屋の勉強部屋からなっていた。ここで1年でも暮らせば、同室者についてよく知り、親しくなるのは当然であるかもしれない。いまのように、自宅でも一人っ子で育ち、大学の寮でも個室であれば、なにか抜けるところがあるのではないか、と思う。もちろんいまさら個室をなくせよというのは無理であるが、なにか別の対策がなければならない。大学では、教室で学ぶとともに、寮などで友人どうし学ぶことも多かったのである。しかし、これはここのテーマではない。

ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』の最後に「インドの履歴」という部分がある。水汲みにいった少年が泉の傍らでまどろみ、夢のなかで王となり、やがて隣国と戦い、妻は裏切り息子は殺され、自身は傷を負って捕らえられ投獄される。そこでまどろみからうかびあがる。「おもいきって目をみひらくと、まわりには牢獄の壁はいっさいなく、みどりの光りが群葉や苔の上をあかるくさんさんとながれ、彼はいつまでもまばたきをつづけた。・・・彼は森のなかに立っていて、両手に水のはいったうつわをかかえ、足もとにはひとつの泉の水盤が褐色とみどりのひかりをやどしていた」(登張正実訳『ヘルマン・ヘッセ全集 12』、三笠書房、1962,233ページ)。

われわれもと寮生は、レストランのテーブルをかこんで、昔話に興じた。みたところみんな50年前とすこしもかわっていない。家族や仕事のことはお互いにほとんど話題にしないが、全体として恵まれたものであったのであろう。

つくづく人生は短く、一炊の夢と思う。

エッセイ 52 羽仁五郎と坂口安吾の天皇制論

木村 英亮 (2006年5月5日 3時50分)

雅子妃の病気が機縁となって、天皇制についていろいろ議論がおこなわれている。その根本には、天皇制と民主主義との矛盾がある。これは憲法のはらむ大きな矛盾である。具体的には、皇族の仕事や人権、天皇の跡継ぎの問題があるが、根本に矛盾があるので、すっきりした答は期待できない。無理をしなければ自然消滅であるが、国民にとっても天皇家にとっても、それが一番いいのではなかろうか。

敗戦直後1946年の2つの明快な見解を紹介しよう。

羽仁五郎は次のように書いた。

「日本において、天皇制が連綿としてつづいて来たことの現実の意味は、日本においては、今日に至るまで、いまだ一度も真実の徹底的な革命がなかった、ということにほかならないのである」(斉藤孝編集・解説『羽仁五郎歴史論抄』筑摩書房、1986,222ページ)。「天皇制をなくするときは日本に社会の安定の中心がなくなってしまうのではないかというような宣伝は、日本における新たなる民主主義革命の徹底に反対しようとするものにすぎず、日本人の自治能力に対する重大なる侮辱である」(229ページ)。

同じ年に坂口安吾は、「続堕落論」で、「天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある」(『堕落論』角川文庫、1957,105ページ)と主張し、天皇制について、次のように書く。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らがみずから主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行きわたることを心得ていた」(102ページ)。

「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ、嘘をつけ、嘘をつけ」(104ページ)。

エッセイ 51 ラ・ロシュフコーの箴言

木村 英亮 (2006年5月2日 4時45分)

「真の雄弁は、言うべきことをすべて言い、かつ言うべきことしか言わないところにある」(二宮フサ訳『ラ・ロシュフコー箴言集』、岩波文庫、79ページ)。私のエッセイも50を迎え、「言うべきことしか、言わない」ことから外れ、余計な雑文を書き続けているのかも知れない。

ラ・ロシュフコーはまた、「老人たる術を心得ている人はめったにいない」(121ページ)、「年寄りを社会生活から引退させる自然な理由のすべてをここで取りあげたら、おそらくたいへんな長話をすることになってしまうだろう」(250ページ)とも書いている。かれは66歳で没した。すでに70歳となった私としては、よほど心しなくてはならない。一方ではこのように思いながら、他方ではまだまだ書き足りないような気持ちである。

ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世(1613-80)はモラリストであり、その箴言集には、痛いことばや心にしみることばが沢山ある。「書物より人間を研究することがいっそう必要である」(187ページ)。「真の友こそは、あらゆる宝の中で最も大きな宝であり、しかも人がそれを得ようと心がけることの最も少ない宝である」(186ページ)。

ラ・ロシュフコーの訳者の解説によれば、文体上の特色として、「・・・に過ぎない」、「・・・にほかならない」等の矮小化する定義の多さ、「・・・より・・・ではない」式の比較や、否定の多さがあると指摘されている。真実は、おそるおそる語られなければならない、ということであろう。

エッセイ 50 カントと現代

木村 英亮 (2006年4月30日 4時46分)

「百聞一見に如かず」ということわざがある。いまのような国際化、グローバリゼーションの時代に、広く世界を知らなければならないことは当然である。違った世界を見ることによって固定観念が壊され、視野が広くなることもあり、また現地でなければ確かめられないこともある。しかしもちろん、世界中を飛び歩いていればいいというわけではない。

東プロイセンの首都ケーニスベルク(現在ソ連の西の飛び地カリーニングラード)生まれのイマヌエル・カントは、生涯狭いこの町から一歩も出ずに思索を重ね、200年以上を経た今日にも生きる哲学を作り上げた。

かれは晩年の1795年に『永遠平和のために』を執筆し、その第1章で常備軍の全廃を主張した。その理由の一つは、かれの倫理学に基づくと自他の人格はつねに目的それ自体として扱うべきであるのに、軍隊は人間を手段として利用するものであるからである。私は2002年に国際関係論のテキスト(『21世紀の日本と世界―国際関係論入門』、山川出版社)を出版したとき、序章にこのことを書いた。

かれはまた1784年の「啓蒙とは何か」冒頭で、「『自分自身の悟性を使用する勇気をもて』これがすなわち啓蒙の標語である」(篠田英雄訳、岩波文庫、7ページ)と述べた。

また、1793年の「理論と実践」では、両者が一致することを論じている。国際関係論の分野でも、最近「理論と現実との二分化の克服」が課題とされていることを読んだ(星野昭吉『世界政治の理論と現実』亜細亜大学購買部、2006)。

すなわち、カントの主張は今日においても新しく、しかも実践的である。

情報化の時代、あらためて思索の重要性を感じる。

エッセイ 49 シベリア抑留と日本人

木村 英亮 (2006年4月26日 4時47分)

トルストイ、ドストエフスキ、チェーホフらロシア文学は、日本でよく読まれてきた。チャイコフスキーらのロシア音楽も好まれている。日本とロシア は、さまざまな点で大きく違っている。しかし、ロシアの文学や音楽が好まれているのは、なにか共通のところがあり、そこが日本人に訴えるのであろう。

戦後シベリアに抑留され、『極光のかげに』 を書いた高杉一郎は、「俺たちはまずなによりも人間であればいいわけだ。たとえば、君と俺はいまこうやって向かいあって坐っているが、これはつまり、ひと りの人間ともうひとりの人間が向かいあっているんで、ロシアの囚人と日本の俘虜が向きあってるんじゃない。そんな区別は、馬鹿や狂人のつくったうわ言さ」 (岩波文庫、1991,213ページ)というロシア人の言葉を書き留め、このスラヴ民族特有の人生哲学、人生のなかから滲みだしてきた思想が、民衆の日常 生活に溢れている、とコメントしている。

昨年私は、日本人抑留記を題材として千葉工業大学で話す機会があったが、「若い60万人もの男子日本人が生活と労働のなかで、同じよう に苦しい生活をしていたロシア人との交流のなかでえた心の底からの声は、今後の日ロ関係形成のひとつの基礎となり得るし、生かしていかねばならない」、と 結んだ(「日本人抑留記にみるロシア人」『二松学舎大学国際政経論集』第12号、2006.3,167ページ)。

シベリア抑留については、全8巻の体験記を刊行した高橋大造が実現すべきとして挙げた5つの課題、「根本原因の解明と抑留体験者への国 家補償の確立、さらには、不運にも望郷の念にこころを焦がしながら亡くなられた全戦友たちの霊をねんごろに弔うとともに、このような無惨な体験を再び繰り 返さないための歴史教育の確立と抑留生活の実態を伝えるための資料の保存」(『四十六年目の弔辞、極東シベリア墓参報告記』1993,190ページ)をこ こに記しておきたい。

全 7 ページ: « 1 [2] 3 4 5 » ... 最後 »