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キューバ視察旅行報告

木村 英亮

2月26日(月)木村、浪木、浪木(香織)、片山、石橋、芝宮の6名、17時エアカナダ機で成田出発、現地時間15時10分トロント着、ホリデイ・イン泊、雪、0度。

2月27日(火)10時05分エアカナダ機でトロント発、13時45分ハバナ着、気温25度。空港からガイド・ホセの添乗で革命広場などを見てホテル・ハバナ・リブレ着、夕刻アメリカから鈴木合流、7名となる。革命広場はカストロの肖像や赤旗などなくあっさりした印象。ホテルは1958年ヒルトン・ホテルとして建築、地上25階建て、翌年カストロらが革命本部とした。1998年改修。野外劇場キャバレー・トロピカーナで20時-22時30分、夕食とショー鑑賞。

2月28日(水)10時20分ホテルを出て徒歩でハバナ大学訪問、午前中リク教授より大学について説明を受け、キャンパス見学。昼食後14時から16時30分ハバナ大学経済研究所でアミシア・ガルシア所長を含め3名の教授とトラベルボデギータ清野の通訳で懇談、富山大学の佐藤幸雄参加。旧市街見学。大学の建物は改修期にきている。

3月1日(木)8時30分ホテル出発、郊外アラマルの有機栽培農場訪問、農場長の説明の後見学、農場手作りの昼食を御馳走になり、午後は個人農場ラス・アメリカス農場見学、通訳はトラベルボデギータの佐々木。個人農場は0.5ヘクタール、夫婦で経営。

3月2日(金)8時ホテルをチェックアウト、ヘミングウェイ博物館見学、高速道路でシエンフェゴスに向かい、市内観光後昼食、世界遺産の古都トリニダのホテル・トリニダ・デル・マル泊。
軍事的必要もあって高速道路は整備されている。

3月3日(土)8時30分チェックアウト、トリニダの博物館、配給所を見た後市場で買い物、サンタクララでゲバラ記念碑・廟・博物館などを見学後、ビーチリゾート・バラデロに向かい、ホテル・メリア泊。

3月4日(日)11時チェックアウト、ハバナへ向かう。途中「老人と海」ゆかりの港町コヒーマルで昼食、ハバナ・リブレにチェックイン、旧市街のレストラン・エル・アルヒーべで最後の夕食。

3月5日(月)木村、浪木、鈴木、片山の4名、9時から9時40分まで日本大使館訪問、大野正義一等書記官と会う。鈴木はそのままアメリカへ、他6名は11時チェックアウト、14時45分ハバナ発18時20分トロント着、ホリデイ・イン泊、マイナス19度。

3月6日(火)13時25分トロント発、日本時間7日16時55分成田着、離陸が遅れ実際には18時ごろ到着。

日本から遠く往復に時間がかかり、実質5日のキューバ滞在であったが、企画と通訳の面でのトラベルボデギータの尽力、スペイン語の堪能な実務担当浪木の努力、見事な日本語を話す魅力的なガイド・ホセのサービスに恵まれたことによって、全員元気に期待通りの成果を挙げることができた。

経済的には楽でないであろうが、裸の子どもたちをみると栄養不足には見えず、また旅行中不安を感じたことはなかった。空と海は青く美しく合弁のホテルも整備されていて、観光立国の政策は成功している。ただし、高級ホテルばかりに滞在していたので、実態の把握はもちろん不十分であろう。ショーにサーカス的なものがあったこと、ゲバラ廟の永遠の火、タクシー運転手がウラジーミルであったことなどにソ連の影響を感じた。

参加者7名中、研究所メンバーは木村、浪木の2名のみであったが、旅行中に1 名増やすことができた。

エッセイ 68 鉄道時間表と産業連関表

木村 英亮

暗闇をゴーゴーと走る地下鉄に乗ると、子どものころ、横揺れしながらゴットンゴットン走っていた電車を思い出す。

数年前東京駅の中央線ホームで、知り合いのグルジア人学者が、左右交互に長い電車が到着し、一斉に開くドアからはじき出される乗客が次々にエスカレーターに流れるのをじっと見つめているのを偶然見かけた。外国人でなくとも、東京のメトロの網の目のように密な路線を、十数輌連結した車両が、秒分の単位で組まれた時間表どおりに発着し、乗客がそれに合わせて乗り換え、最終目的駅に運ばれるのを見ると感嘆せざるをえない。高速の電車が走る鉄道線路は、平行し、分岐し、交差し、ターミナルで接続する。全国の鉄道では、人ばかりでなく貨物も、集積され、積み込まれ、積み替えられ、下ろされる。そのダイナミックなメカニズムはいくら眺めても見飽きない。

それは、原料・燃料が集められ、部品に加工され、組み立てられて製品となり、販売される財の流れを連想させる。社会主義経済では、これらの流れが計画によって統制される。列車のダイヤのように、財が、連関表にしたがって流れる。生産活動を個々の企業がばらばらに行うよりも、国民経済全体が、鉄道における時間表のような計画に従っておこなわれる方が、はるかに能率的で無駄がないであろうことは容易に分かる。

資本主義経済においても、一つの企業のなかでは、流れは計画されている。そのさい周辺の下請け業者は、「松下のカンバン方式」のように、「松下」の仕事に合わせて部品などを納入しなくてはならない。それは、新幹線の発着にあわせ、小支線の発着が決められるようなものである。

エッセイ 67 スターリン、毛沢東と読書

木村 英亮

花田清輝はスターリンについて1955年に、かれくらい自我をもっていなかった人間はすくなく、チーム・ワークをとるだけのみ存在していたようだ、「おそらくかれは、かれのまわりにいる人間のほうが、かれよりもはるかに有能だということを、つねに忘れたことはなかっただろう。それがスターリンの政治家としてすこぶる老練なところなのだ」(粉川哲夫編『花田清輝評論集』、岩波文庫、1993,146ページ)、それに比べヒトラーは、シロート政治家で自分を天才ではなかろうかと思い独断専行、ついに没落した、と書いている。

スターリンは本好きで、歴史、戦史に関するものをよく読んだが、自分が粛清した「人民の敵」の書いたものもよく読み、「(19)30年代中頃、この国でたった一人の自由な読書家、ということになった」(メドヴェージェフ『知られざるスターリン』、現代思潮新社、2003,354ページ)。フルシチョフは読書家ではあったが系統性がなく、ブレジネフ、エリツィンは読書嫌いであった。

毛沢東は、スターリンとかなり違ったパーソナリティをもっており、まわりにいる人間のほうが有能だと考えていたとは思えないが、意外に共通の面も多いようである。それは、相手の言い分を注意深く聞くこと、読書好きというところである。いつも大きなベッドに、四季を通じてタオルケットだけで休んだが、ベッドの半分には中国の歴史書を積んでいた(林克他『「毛沢東の私生活」の真相』、蒼蒼社、1997,168ページ)。

毛沢東は、蒋介石を打倒したことと文化大革命を発動したことを、自分の2つの大仕事といっていた(厳家家祺他『文化大革命十年史』下、岩波現代文庫、202,440ページ)。文革は人権を蹂躙したが、同時にあらゆる伝統と習俗を徹底的に破壊した。「今日の中国大陸の空前の、権力と金の交易、汚職腐敗、風紀の乱れなどに直面するとき、人々は『文革時代』がまるで奇跡のような汚職腐敗が絶無の時代、エロ文化一掃の時代だったことを発見するであろう」(444ページ)。

ロシア人もスターリン時代を顧みて、似たような感慨をもつのではないであろうか。

エッセイ 66 差別について

木村 英亮

日本には厳しい差別によって屈従を強いられてきた「部落民」の問題があった。長野県のある村で750戸中10戸の部落民が集団でいきなり村長の家の座敷に座り込んで度肝を抜き、部落民を青年団に入れろ、祭りの役を割り当てろと要求した。「もし村長が警察を入れたりしてもつれたときには村長を殺す。そういう覚悟で、仲間が夜陰に紛れて庭木の植え込みに肉切り包丁やマサカリをもって隠れ、いざとなったら乱入する構えであった」(宮崎学『近代の奈落』、幻冬舎アウトロー文庫、2005,317ページ)。要求を実現したのは、命がけの団結であり、積年の憤怒であった。

差別は貧困以上に人を苦しめ怒らせる。階級的抑圧が民族的差別と結びついたとき、人々を立ち上がらせる。キューバについて調べていて、革命後黒人とムラート(黒人とスペイン人との混血)の比率が急増し、いま6割以上になっていることを知った。キューバは民族的平等を実現したのであるが、アメリカでは依然として強い黒人差別がある。ここにキューバのアメリカに対する抵抗のひとつの背景をみた。これは、黒人に限らず、いま国内の民族的差別を解決できない欧米がラテンアメリカ、中東、アフリカで孤立しつつある背景である。「南北問題」は、欧米人が民族的差別を改めない限り、金や武力だけでは解決できない。

沖縄における米軍再編に伴う、日本政府と米軍の対応の背景にもこの問題がある。沖縄への基地の集中をそのままにしたまま、他の都市の近くに基地を移転するという政策そのものが差別であり、その実現方法がまた差別である。地域振興策で納得させることはできない。差別はものでは償えない。さらに、移転費3兆円を日本に負担させるというのは、たんなる金の問題でなく日本国民全体に対する侮辱であろう。

アメリカはテロ対策のためにムスリムに対する扱いを厳しくしているが、これは破滅への道である。

エッセイ 65 退職3か月の記

木村 英亮

退職後3か月を過ぎ、家のなかも片付き、勤めのない生活にも慣れてきた。もともと研究は自宅でしていたので、サラリーマンの退職とは違っているであろう。また、大学でも工学部系のばあいには実験設備から離れることになり退職は大きな区切りとなるかもしれないが、われわれのような文科系のばあいは、 文献や資料を読んだり書いたりが中心で、家での生活はあまり変わらない。講義やゼミで学生と接することはなくなったが、それは40年以上も繰り返してきた ことであり、50歳以上離れた学生に教えるのはそろそろやめる潮時であろう。

一番いいことは朝ゆっくりできることで、これはとてもありがたい。朝食後は、本を読んだりパソコンに向かったりで、調べることがあれば近くの図書館にでかけたり書店に行ったりである。週1,2回は、研究会や学会などに出席する。

全部の時間を自由に使えるのは恵まれたことである。長期、短期の計画をたてなければいけないが、当面はのんびりとこれまでを振りかえることが必要で、余裕なくあくせくすることはよくない。

ひとつの勤め先に拘束されるより世の中が広くなった側面もあり、一概に人間関係や視野が狭くなったともいえない。気をつけなければならないのは運動不足である。努めて散歩などに出るようにしている。

まだ辞めて3か月と短く、長めの夏休みというところで、40年以上の勤めのなかで出来上がった気持ちから抜けるのはなかなか難しい。これ からの人生を、単なる付録とせず、これまでの生活を完全にご破算にするくらいの心構えで、自由で自主的で積極的な新しい生活を組み立てなければならないと思っているところである。

エッセイ 64 テレビのニュース

木村 英亮

「事実は小説よりも奇なり」という。

テレビ番組のなかで、一番面白いのはニュースのはずである。ところが日本ではチャネルは多いが、なぜか他の番組と同じくニュースも大体内容が似ていて退屈である。それに、外国のニュースが少なく世界の動きがわからない。日本はやはり世界のなかでは片田舎なのかなと思う。1977-78年、 10か月ほどモスクワにいて、ソ連のニュース番組を見ていた。情報が政府によって統制されていると不評であったソ連でさえ、ニュースでは世界中の出来事が 報道され、日本のニュースより幅があり面白かった。

その後衛星放送がはじまって、時々刻々世界の鼓動を外国のニュース番組で見聞きできるようになった。これは、国際関係に関心をもつ者としてとてもありがたい。一般放送のニュースもグローバリゼーションの時代にふさわしくならないのかと思う。

どのようなニュースが選ばれ報道されるかは、世論の形成に非常に大きな役割を果たす。いったい誰が、沢山の事実から、どんな基準でニュー スを選んでいるのであろうか。また、ニュース番組はコマーシャリズムになじまない。視聴率が低くても報道しなければならないことがあるからである。

テレビはメディアのなかでもとくに影響力が大きく、世論を左右する。いまNHKが問題とされているが、民放をふくめ、放送のあり方は広く議論されなければならない。

そのさい、インターネットなどを活用してテレビに対抗することも考えなければならないのではなかろうか。

エッセイ 63 独裁について

木村 英亮

「ロシアで大衆独裁が発生し、ついでイタリアに波及したとき、私たちはたがいにいいあいました。『後進国だから大衆独裁が起きるのだ。私たちにもいろいろ問題はあるが、ここでは独裁は起こりえないから、その点幸運ですね』と。ところが、独裁が登場し、しかも他のどの国よりも悪い独裁でした」(カール・ヘルマン教授のことば、マイヤー『彼らは自由だと思っていた』、未来社、1983,238ページ)。

ドイツの経験にもかかわらず、独裁は発展途上国のものであって、「先進国」には起こらないと思っている人が多い。これは、ロストウらの近代化論の影響も大きい。1960年ごろ日本に紹介され、「ケネディ・ライシャワー路線」の下でもてはやされた近代化論では、現代史を工業化として、すなわち発展を工業化のみを指標としてとらえ、それには、アメリカや日本のような「民主主義の道」の他に「共産主義の道」、「ファシズムの道」という「独裁」による道もありうるとした。

マルクスも生産力を社会発展の土台と考えた。しかし、いまはグローバリゼーションによって世界は一体化している。マルクスの時代に比べ世界の工業生産は数十倍、数百倍になっているのである。にもかかわらず、世界の国を別々に工業生産を基準として序列化し、知らず知らずのうちに工業の発展しない国を政治も文化も劣るとみて、差別したり指導しようとしたりしているのではないだろうか。

しかし、「南」の国民から見ると、欧米や日本など「北」の国の民主主義は、まったくあやしいものであろう。すでに新しい型の独裁の下にあるのかも知れないし、将来古い型の独裁に陥る危険からも免れていないと警戒すべきであろう。

エッセイ 62 青年の横浜

木村 英亮

横浜は現在日本第2の人口をもつ都市であるが、その歴史は短い。1853年アメリカのペリーが浦賀沖に来航、翌年7隻の艦隊を率いて再び来航、幕 府は横浜村で日米和親条約を締結し、函館と下田を開港、1856年に総領事として派遣されたハリスと下田で日米通商条約を締結し、それによって1859年 に神奈川が開港された。

幕府は条約で約束した神奈川でなく、東海道から野毛山と海で隔てられている横浜を開港場とする方針を決め、建設をおこなった。その後各 国は領事館を神奈川から横浜に移し、1867年には255隻の外国船が入港した。当時横浜は101戸の村であったが、1889年市制が施行されたときは 11万6000人となり、1968年には200万人を突破し、今日340 万人となった。

第二次世界大戦末期に空襲で完全に破壊され、戦後中心部を米軍が使用したため復興は遅れたが、そのために計画的に建設できた面もある。 起伏が大きいので埋立地も広がった。私は2000年3月まで横浜国立大学に勤めたが、常盤台の8階の研究室からは、横浜港、ベイブリッジ、みなとみらい 21などが一望できた。私の住む港北ニュータウンは、道路や地下鉄も都市計画にもとづいて整備されたモダンな街である。

横浜は、古い建物が少ないばかりでなく伝統もない。これが魅力となって全国から若者を惹きつけ、横浜国立大学を全国大学とした。学生に どうしてこの大学に入学したのか聞くと、横浜に住みたかったからという答えが結構あった。中国人をはじめとして外国人も多く、外国人留学生は、学部学生 7855人中234人、 大学院2062人中437人、研究生、聴講生をふくめると792人となっている(『数字で見る横浜国立大学2005.5.1現在』による)。

エッセイ 61 心と体

木村 英亮

『サタディー・レビュー』誌の編集長を務めた後カリフォルニア大学医学部大 脳研究所教授となったノーマン・カズンズは、病院にくる患者の9割は治療などし なくても自分で全快できるのであって、医者の仕事はそれができない少数の患者を 見分けることである(『 笑いと治癒力』、岩波現代文庫、2001,38ページ)、医学は、微生物との戦いでは大体勝利したが、精神的安静をうる戦いには敗北をつづけていると書いている(50ページ)。

そして、精神的な安静と長寿は、創造力の活動によってもっともよくえられるととして、その例として、パブロ・カサルスとアルバート・アインシュタインの2人をあげ、その考え方を紹介する。カサルスは、「人が自分自身の善性に耳を傾け、それに従って行動するのには勇気が要ります。われわれは自分自身になり切る気があるかどうか。これが大切な問題です」(67ページ)と、シュヴァイツァーは、「自分がどんな病気にかかろうと、一番いい薬は、すべき仕事があるという自覚にユーモアの感覚を調合したものであると信じていた」(68ページ)と言っている。

国立小児病院名誉院長小林登は巻末の解説で、重症栄養失調児の世話を優しい女性にさせると体重が3,4倍早くつき、下痢や肺炎などの感染症合併は10分の1になったというチリの医者の講演を紹介している(202-203ページ)。

ことばは劇薬である。

宮崎学は、全国水平社の指導者松本治一郎の伝記を次のことばで結んでいる。

たった一言が
人の心を暖める
たった一言が
人の心を傷つける

エッセイ 60 識字運動の意味

木村 英亮

人間は言葉で考える。そのさい書きながら考えをまとめる。無文字社会では別の手段があるかも知れないが、われわれの社会では、字を読んだり書いたりできないと思考が限定される。

ソ連の解体によって独立した中央アジアのウズベキスタンでは、ロシア革命前は大部分の人が読み書きできなかった。ソヴェト政権の下で民族調査にもとづいて境界区分がおこなわれ、初めてウズベク共和国が形成されたばかりでなく、ウズベク語の文字もつくられた。このような準備の下に、1920 年代後半、土地改革、女性解放運動と同時に識字運動が行われた。識字運動は、社会を根本的に変える力をもっている。ソヴェト時代、このようにして多くの民族や国家が形成された。

カリブ海の人口1130万人(2004)の国キューバでは、1959年1月古い独裁体制が倒され、カストロの政権が樹立され、1961 年1月社会主義が宣言された。この年は「教育の年」 と名付けられ、大規模な識字運動が行われた。4人に1人は読み書きできなかったが、年末にそれは3.9%に急減した(ヒューバーマン他『キューバの社会主 義』、岩波新書、1969,16ページ)。この運動に従事した教員は約27万人でうち12万人は本業以外に1日平均2時間づつ活動に携わった成人で、子ど もたちも訓練を受けた後、休暇に農村に送られ、農作業をてつだいながら読み書きを教えた

ソ連でもキューバでもこのように徹底的な識字運動がおこなわれたが、これは人間解放の条件であり、民族独立の出発点であった。いまパソコンがコミュニケーションの不可欠の手段となっているが、これはどのように考えればいいのであろうか。