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修学旅行と平和学習

近藤 泉 (2005年6月20日 17時06分)

◆娘が修学旅行から帰ってきました。

私の頃と同じ、奈良、京都でした。 ただ違うのは、3日のうち2日が班別の自由行動ということです。事前に行きたいお寺、拝観料、交通手段、所要時間、交通費などを自分達で調べ、初めて訪ね る宿舎に時間通りに辿り着くよう経路を組み立てます。最終日は、貸切タクシーで縦横無尽に世界遺産の古都を巡り、お昼ご飯は運転手さんお勧めの美味しいお 店でということで、「親が行きたい~」の声もしきり。帰りの新幹線に乗り遅れる事を考えれば、値が張ってもタクシーほど確実な物はないとのことで、先生も 考えたものだなと感心。

そんな魅力的な修学旅行に、我が家の歴史大好き乙女は、胸いっぱいの感動ときらきらした思い出を持って帰ってくれました。「修学」にふさわしく、東洋思想の深淵に触れますます歴史がおもしろくなったようです。

こんな彼女ですが、実は始めは修学旅行に失望していました。

◆「広島に行けないなんて修学旅行の意味が全くない」と言うのです。

数年前から、ここの中学校では広島と奈良・京都を訪ねていました。事前に被爆者や戦争経験者の方々を学校にお招きして、各クラスで2時間お話を聴き 感想をまとめます。1年かけて平和学習をしっかりし、千羽鶴を折りました。広島では被爆された方が体験を語り、原爆ドームなどを案内して下さるのを一生懸 命伺いました。貞子さんの像に千羽鶴を捧げ、歌に乗せて平和を護る決意を噛み締めました。よくぞ2泊3日で広島まで連れて行って下さったと思います。

今年がヒロシマ60周年であり、その大切な年に修学旅行に行けるものと、娘は中1の頃から心待ちにしていました。しかし、今回から広島行きがなくなり、彼女は深く失望しました。

都立高校では不況で親の収入が減り修学旅行に行かれない生徒が増えたので、教育委員会で定める修学旅行の上限金額を下げ、みんなが行かれるようにし た、と聞きました。経済的に厳しい家庭が増え予算を見直さなくてはならない現実、広島行きがなくなったのもこの理由かと推測するばかりです。多くの都立高 校で取り組んで来た沖縄へ行っての平和学習も、もう出来なくなるのでしょう。

◆そして、総合的な学習の時間にやっていた平和学習までなくなりました。

修学旅行の事前学習の必要がなくなったからだそうです。貴重な戦争体験を聴くことの出来たあの素晴らしい生きた平和学習は何だったのでしょうか。中学校の、こんなご近所に被爆された方がいるというのに。

先生方の意識が変わってきたためとは思いたくないです、、、。

中東イスラーム研究部会に参加して ―そして沖縄のこと

近藤 泉 (2005年6月13日 19時34分)

◆いやし系と思っていた岩木さん、実は迫力のある力強いお講義をされます。目が覚めました。私の知らない単語がたくさん出て来ましたが、明快な説 明をして下さり、奥の深いイスラームの世界に引き込まれました。希望あふれる大学生のみなさん、難しい話を分かりやすく楽しく自信をもって話される大学院の方々、うつくしい日本語で故郷のこと国際関係のことなどをご紹介くださる留学生のみなさん、そんな方々の知的会話にうっとり聞き惚れ、あっという間の1 時間半でした。

とても印象的だったのは集った方が、みなさん素敵な笑顔だったということです。懇親会ではその笑顔がいっそう(赤く)輝き、温かく楽しい美味しいひとときでした。

◆温かい研究会とは対照的な、とても悲しいことがありました。

青山学院高等部がこの春に行なった英語の入試問題で、長文読解として沖縄への修学旅行の感想文を取り上げ、信じられないような内容だったことをニュースで知りました。

その英文は、【ある生徒が防空壕に入った後、ひめゆり学徒隊の女性から体験談を聞いて「退屈で飽きた。彼女が話せば話すほど、私は防空壕で受けた強い印象を失った」と感じ、「(女性が)いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」との感想を持った。】という設定になっています。 そのうえで「なぜ筆者は聞いた話が気に入らなかったのか」という問題を出し、「彼女の話し方が気に入らなかった」という選択肢を正解として選ばせていたそうです。

この感想文は高校生が書いたものではなく、この学校の先生が試験用に作ったということで、さらに悲しくなりました。その先生は「傷つけるつもりはなかった。」と言っているのだそうです。

◆10年前、子ども達を沖縄に連れて行くことができました。

平和祈念館の室内に再現された防空壕を前に、ひめゆり学徒隊の方が体験談を話して下さいました。「何かご質問はありませんか。」との言葉 に、20人ほど居た人達はみな胸が詰まって何も言い出せませんでした。すると、小1の次男が「おばちゃん。なぜ戦争はおきるの?どうして戦争はなくならな いの?」と質問しました。学徒隊の方は深く息を飲み込んで、「どうしてだろうね。かなしいことですね。ボクがたくさん勉強したらきっときっと分かると思い ますよ。その時、必ず戦争はなくなります。がんばってね。」とやさしく、力強く答えて下さいました。

子ども達は、ひめゆり部隊の方が生き残り、さらにその上、辛い出来事を証言してくださることにたいへん驚き、胸の奥がなんだかとっても熱くなっていました。

◆研究会で、イスラームには、父を亡くした母子をみんなで面倒をみていくような暖かい考え方があると教わりました。あの高校の先生や、今まで何も感じないで見過ごして来た管理職の先生にも暖かい心があるはずと信じたいと思います。

感動をありがとう

近藤 泉 (2005年6月6日 20時39分)

この春、末息子が小学校を卒業しました。卒業式での感動について。

◆わが子が将来の夢をみんなの前で堂々と言えること。ドキドキ、そして感動。

地元の小学校では壇上で卒業証書をもらう時、将来の夢や中学に行ってやりたいことを会場のみなさんに紹介します。

平凡に「中学に行ったら部活と勉強に頑張りたいです。」という子も多いですが、「和菓子屋を継いでお店を立派にしてみせます!」や「弁護士になって弱い 人を助けたいです。」「スポーツ選手になってプロデビュー戦にお世話になった方を招待したいです。」「のんびりと暮らします。」など、子ども達の個性にい たく感動。子どもたちには夢がなくなったと評するセンセイ方に見せたいと言ったのは私ひとりではありません。ちなみにうちの息子は「新しいことにチャレン ジする。」でした。

◆もう一つ、卒業生が代わる代わる小学校時代の思い出を語る「呼びかけ」の最後に、全員で「日本国憲法 前文」を諳んじること。その意外性と完璧な暗唱に、ものすごく感動。

自分らしく生きていこう、友達を大切にしていこう、あらゆる人を尊重し人権を守ろう、世界中の人々と仲よく生きていこう。しかし今も戦火が絶えない、世界の平和を築いていくのは私たち―――

(日本国憲法 前文)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛 する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去し ようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利 を有することを確認する。

―――心を込めて訴える子ども達の澄み切った声の響きに親たちは圧倒され、深く感動します。 卒業式が、次女の時はアフガン侵攻の当にその時、末息子の今年はイラク攻撃で、子どもを含む多くの犠牲者が連日報道されていた最中でした。「そうだ、わが 子と世界の平和を語らなくては。」と、どの親も目が覚め、ドキドキが止まりません。これを準備された担任団の思いを聞きそびれましたが、子ども達は平和憲 法を学び生命に刻むことができました。

ちなみに次女はその時「へぇ~日本ってこんな素晴らしいものを持ってたんだ。ちっぽけな国じゃなかったんだ。平和憲法を守り抜いてきたのは大変だっただろうな。貴重な宝石のような。誰にも売り飛ばしちゃいけない。」と思ったそうです。

◆わが家の信条。晩のニュースは必ず親子で見て、世界で起きていることについて毎日語り合う。ドラえもんや歌番組と闘いつつ、幼稚園の時から思春期、成人した今も、、、。

母の原爆体験記「いのち」

近藤 泉 (2004年3月10日 22時58分)

私の母は、大正11年の今日、東京で生を受けました。昭和20年8月6日広島の爆心から1.8キロのところで被爆し、生き地獄をさまよいました。23歳の時のことです。

その後結婚し、子どもを3人もうけますが、特別被爆者として死の恐怖と子ども達への後遺症に悩み、失意の底に沈んでおりました。また、自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助けることができずに、己れのみが生き延びたことを責め続け、毎夜広島の光景を夢に見、朝起きると、自分の足首に助けを求める人々のしがみつく手の感触が生々しくそこにある、と常々申しておりました。けれど、訪ねてくる記者たちには一言も体験を語ることができませんでした。

その後、人間主義の平和運動に巡り合い、母は寡黙だった人生を大きく変えることになりました。自らの「被爆という宿命」を「平和を訴える使命」ととらえ、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ決心をしました。

母は、神奈川県の高校生の平和集会で体験を語ったり、大学新報に体験を基にした「生命の尊厳について」の小論文を投稿、特別賞を受けたり、創価学会の様々なセミナーで、また身近な人たち、子ども達に平和を訴え続けていきました。さらに、請われて、住まいのある横浜金沢区能見台のコミュニティー誌や母校の女子大の同窓会報に体験記を連載しました。地道ではありますが、母の平和への戦いは一人ひとりの心の中に堅固な平和の砦を確実に築き続けたと信じます。この砦は、私と二人の兄、10人の孫達にしっかりと繋がりさらに未来に向かって連なり続けることと思います。

母は、2000年4月27日に安祥として逝きました。戦いの20世紀を見届け、21世紀の平和のために使命を果たさんと生まれ変わるべく……。亡くなる直前まで友人に平和を語り、私の活動を励まし続け……。

私は1998年から、地元中学の「人生の先輩に学ぶ」という総合学習の「戦争体験に学ぶ」という授業の講師をお引き受けしています。母の原爆体験と平和への戦いを語ってきました。そして戦争体験のない私や、もっと遠い存在の中学生達は、何をしたらよいのか、何ができるのか、を自問しながら語り続けております。

また、昨秋は公民館の「高齢者学級」卒業生による自主サークル「生きがいの会」からお声が掛かり、『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私がお話をさせていただきました。この時に合わせて、かねてから手をつけなくてはと思っていた母の原爆体験記をワープロ打ちすることができました。

アフガン侵攻のとき、ある政党の新聞に亡き母の叫び『今すぐ憎しみの戦いをやめよ』(趣意)を投稿し、声の欄に掲載されました。今また、この母の体験記が平和への戦いの『武器』となればと願っております。

仮名遣いや漢字は極力母の書いたものに準じております。ぜひ若い世代・子ども達にもお読みいただきたいと思いますが、むづかしい読み方もあるかと思います。よろしくお願いいたします。

2004.3.10 母の生誕の日に。

本文(永石和子『いのち』—広島被爆体験記)はPDFファイルでご覧いただけます。

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